譚海 卷之十 江戶角田川眞崎明神にて仙臺の狐物語の事(フライング公開)
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。和歌は一行ベタであるが、ブログ・ブラウザの不具合を考え、上句と下句を分離した。]
明和の頃、江戶隅田川の北岸、眞崎明神の境内、稻荷の祠のかたはらなる茶店の老媼(らうあう)に、馴れたる狐ありて、媼、よぶときは、狐、ひとつ、明神のかたより、出で來る。
茶店にあつまる客、是に、物など、與ふれば、狐、それを食(しよく)しをはりて、また、ふらふらと、もとのかたへ、かへりうせける。
人々、これを、
「興ある事。」
に、いひ傳へて、專ら、
「世の中にも、めづらしきこと。」
に、いひたるに、その後、いつとなくこの事、絕えたり。
寬政四年の春、萱野一の町人、冬木三右衞門と云ふもの、この茶店に遊びて、狐の事を尋(たづね)ければ、
「その狐は、元來、奧州仙臺のものにはべりしかば、このさきのとし、故鄕へ歸りぬ。」
といふ。
「夫(それ)は、いかにして、慥成(たしかなる)證據にても在(ある)事にや。」
と尋ければ、老媼、
「かの狐、本國へかヘり侍るとき、和歌を一首とゞめて歸り侍りし。」
といふ。
「こは、めづらしきことなり。其歌、なにとぞ見たき。」
よし、乞(こひ)ければ、その媼、短册を一枚、取出(とりいだ)て、
「これにて、さふらふ。」
とて、みす。
あやしき手跡にて、筆のたちども、そこはかとなけれど、一首の歌、あり。
月は露つゆは草葉にやどかりて
それからそれを宮城野の萩
三右衞門、いと珍らかなる事におぼえ、
「何とぞ、此たんざく、貰ひたき。」
よし、しひて、所望せしかば、老媼も、よしなき望(のぞみ)に、をれて、ゆるしつ。
三右衞門、大によろこび、金子など、與へ、もてかへりて、人にも此事を語りいで、殊に、もて、祕藏しおけるに、仙臺の侍醫、工藏平介[やぶちゃん注:ママ。後に出る『平助』が正しい。]といふ人、ある日、三右衞門かたへ來(きた)る時、主人、本國の物がたりなどのついでに、此事をかたり出(いで)たるに、平助も、
『ふしぎなる事。』
におぼえて、或時、主人の間(ま)に侍せしついで、また、この事を申上ければ、陸奧守殿、ゆかしきことに聞かれ、
「何とぞ、そのたんざく見たき。」
よし。
懇意により、平助、又、三右衞門を問ひて、たんざくを借(かり)得て、陸奧守殿へ、みせまゐらせければ、
「珍しき事。」
に、ぞんぜらるゝ所、側に侍せし用人、申(まうし)けるは、
「成ほど、此孤、御領地のものにあるべし。その仔細は、元來、このうた、久しく御國(みくに)に申傳(まうしつたへ)たる歌にて、人のよく存(ぞんじ)たる事に候へば、さやうに推量いたされ候。但(ただし)、御國にて申傳候とは、うたの上下(かみしも)、少し、たがひ候。
そのおもむきは、むかし、松島の雲居(うんご)禪師の召仕(めしつかへ)る童子に、『宮ちよ』と申すもの御座候。この童子、生質(うまれつき)、和歌を好み候所、病氣付(つき)候内も、日夜、うちすてず、詠(よみ)候中(うち)に、
月は露つゆは草葉にやどりけり
と申す上の句を按(あんじ)得候て、いろいろ考(かんがへ)候へども、下の句を、なしえず。
やがて、其まゝに、病氣、おもり、相(あひ)はて候。
その後、おのづから、
『宮城野の原へ、化物、出(いづ)る。』
よし、申(まうし)いだし、のちのちは、
『この化物、歌を吟じてあるき候。』
よし。
『雲居禪師が、召しつかへる宮千代が幽靈なり。』
と、もつぱら申(まうし)つたへ候を、禪師、聞(きき)得て、
『何にもあれ、あやしき事。』
とて、一夜、禪師、宮城野へ行(ゆき)て、幽靈の實否をたゞされけるに、按(あん)のごとく、夜ふけて、宮干千代、形を現じきたり、月下に歌を吟じ、さまよひあるき候。
禪師、よく聞けば、
『月はつゆ露は草ばにやどりけり』
といふ上の句を、いくたびも沈吟して、行(ゆき)かふさまなり。
そのとき、雲居禪師、聞(きき)すまして、とりもあへず、
『それこそそれよ宮城野のはぎ』
と、下の句をつけられければ、言下に、この幽靈、形、消えて見得ず。
その後、ふたたび、宮城野へ、宮千代の靈、いづる事なく候。
『禪師の辭(じ)に覺悟して、成佛なし候事。』
と、人、申しつたふる也。
それがために、祠(ほこら)をたてて、神にまつり候。
『今に、「石權現」とて、宮城野に御座候は、かの宮千代の靈を祭りたる祠に候。』
よし、人みな、申傳候事に候。
この狐も、よく、この歌を聞(きき)覺え候まゝ、それをやがて書き候はんにて候。畜類ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、おぼえあやまりて、かく、書(かき)たがへ候か。
何にも候へ、右申上候物がたりの、うたをおぼえ居(をり)候まゝ、御領内の狐に相違無ㇾ之候か。」
と、申上けるとぞ。
いと珍らしき物語りになん。
[やぶちゃん注:この話、私の電子化物の中では、最も古い記載であり、後の根岸鎮衛の「耳囊 卷之四 靈獸も其才不足の事」が相同話で次で、さらに、後の只野真葛の「奥州ばなし おいで狐の話幷ニ岩千代權現」にも同一の話が載る。それらで注をしているので、それらに譲る。]
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