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2023/10/13

南方閑話 巨樹の翁の話(その「一四」)

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。

 

       一四

 

 過去の地質世期に種々巨大な植物が有つた事は其化石で分る(一九〇二年板、エングレル及プラントル「プランツェン・ファミリエン」、初篇、四卷七一八頁の圖を見よ)。現地質世期に入つては素質上そんな物も無いに加えて[やぶちゃん注:ママ。]、追々、人間が其生命を絕ち妨ぐるから、迚も昔話の樣な物は實在せぬ。フエーの說に、木で一番高いのはセロキシロンなる椰子類の物で、二百五十呎《フィート》[やぶちゃん注:七十六・二メートル。]に及ぶ、一番太いのは、バオパブ。是は吾邦の梧桐《あをぎり》の近類で、周り九十呎[やぶちゃん注:二十七・四三メートル。]の者あり、と。前者は、中米・南米の產、後者はアフリカの原產だが、前者は、高い計りで、廣からず、後者は、厚い割合に、高からぬ。フムボルトは、五千百五十年老いたバオパブを觀たそうだ[やぶちゃん注:ママ。](ポーンス文庫本、プリニウス『博物志』三卷四一九頁註。バルフヲワ『印度辭彙』一卷二七六頁)。米國產の松柏科樹セクオイア・セムペルヴイレンスは、高さ三、四百呎[やぶちゃん注:九十一・四四メートルから約百二十二メートル。]、厚さ二十八呎[やぶちゃん注:八・五三メートル。]に及び、セクオイア・ギガンテアは、高さ三百二十呎[やぶちゃん注:九十七・五四メートル。]、厚さ三十五呎[やぶちゃん注:十・六七メートル。]に及ぶ(「大英百科全書」一一板、二四卷六五九-六六〇頁)。予が龍動《ロンドン》で見たのは、後者の橫截《よこぎ》りで、年輪を算へて、實に千三百三十五年を經た者と知る。米人の所謂、ビグ・トリー(巨木)で、先《まづ》は、現在、大木の元締めで有らう。

[やぶちゃん注:「セロキシロンなる椰子類の物」単子葉植物綱ヤシ亜綱ヤシ目ヤシ科ケロクシロン亜科 Ceroxyloideae のことであろう。

「バオパブ」双子葉植物綱アオイ目アオイ科 Bombacoideae 亜科バオバブ属 Adansonia 。アフリカのサバンナ地帯に多く分布する。

「米國產の松柏科樹セクオイア・セムペルヴイレンス」裸子植物下門マツ綱ヒノキ目ヒノキ科セコイア亜科セコイア属セコイア Sequoia sempervirens 。現生種では一属一種。

「セクオイア・ギガンテア」セコイアのシノニム(synonym)に Sequoia Gigantabies がある。

 以下は、底本では割注と同じ小さなポイントで全体が二字下げだが、ポイントを本文と同じにし、引き上げた。その代り、「選集」にある冒頭の「(追記)」を加えた。太字は底本では傍点「◦」。]

 

(追記)巨樹の翁の話しに、葛が占者に化けて巨木の伐り方を人に告《つげ》たとか、大樹の切口を諸草木が合わせ愈す處へ、蔓が往《いつ》て追返《おひかへ》された返報に、其伐り方を人に敎えた[やぶちゃん注:ママ。]とかいふは、蔓生植物、能く、木を枯らすからで、「中阿含經」四五に、『葛藤子、日に熱せられ、拆《くぢ》けて、娑羅樹下に落《おつ》るを見て、樹神、恐怖し、朋友諸樹の神、往《いつ》て其譯《わけ》を聞く話有り。「江談抄」一に、藤原佐世《すけよ》、始めて献策した時、從前、此事《このこと》をして來た紀家《きのけ》の輩《やから》が、「藤《ふじ》に卷き立てられ、て我等〔家〕が流《ながれ》は成立《なりたた》じ。」と愁ひた、とあり。「源平盛衰記」二四、「大鏡」七「道長傳」に、藤原冬嗣、南圓堂の壇を築いた時、春日大明神、「北の藤波今ぞさかゆる」と詠じ、供養の日、他姓の人、六人まで、失せた、と見ゆるも、似た事ぢや。

(大正十一年十二月『土の鈴』一六輯)

[やぶちゃん注:最後の書誌注記は「選集」にあるものを採用した。

「藤原佐世」(?~昌泰元(八九八)年(一説に前年寛平九年とも)は学者。藤原式家種継の曾孫。民部大輔菅雄と伴氏の女との間に生まれた。文章博士・右大弁などを歴任した。仁和四(八八八)年、新たに位に就いた宇多天皇が、彼が閊えていた藤原基経に与えた勅の「阿衡」(あこう)の語について、「関白と異なり、実権のない地位を意味する」と、基経に進言し、勅の筆者で文章博士の橘広相(ひろみ)と激しい論争を行い、天皇と広相を屈服させたことで知られる。

「藤原冬嗣」(宝亀六(七七五)年~天長三(八二六)年)平安初期の公卿。嵯峨天皇の親任を得、蔵人所設置により、蔵人頭となり、以後、要職を歴任。「弘仁格式」「内裏式」などの撰修を行い、一族子弟のために「勧学院」を設けた。



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