南方閑話 巨樹の翁の話(その「一三」)
[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。
これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。]
一三
ビザンチン帝國より露國に傳はり殘つた物語に、最初、此世界に生じた木は、鐵の木で、根は上帝の力、その頂に、天と地と地獄の三界を戴いたと云ふ(一八七八年板、グベルナチスの「植物志怪」一卷一〇二頁)。古スカンヂナビアの宗敎に著はれたイグラツドシルは、素敵に大きなトネリコの木で、諸木の大きさ、之に勝る者なし。其枝、地上を葢《おほ》ひ、其梢、最高、天に屆き、下に、三大根、有りて、其一は、第九の世界に達す。是は、死人が住む第八界の下に在《あり》て大叫喚する「熱鼎《ねつかなへ》」と、「死の濱」、爰に在り、と云ふから、地獄のどん底、先《まづ》は、佛說の阿鼻地獄に相當する。又、龍も、之に住み、其子供等、不斷、此根を嚙む。第二の根は、巨人の世界に達す。爰に「智惠の泉」あり。第三の根は、諸神の世界に達す。爰に「ウルト泉」有りて、諸神、會議し、三人の素女《きむすめ》、常に駐《とど》まつて、寳水を汲み、トネリコを養ふ。此水、此木を盛えしめ、水は、葉を養ふた後、土に還りて、露となり、其より、蜜蜂が蜜を作る。件《くだん》の三素女が、人間の年齡と運命を司どり、定める。此木は、天と地と地獄を結聯《むすびつら》ね、其最高梢《さいかうのこづゑ》は、鷲一羽、棲んで、下なる事物を視通す處へ、樹下より、一疋の栗鼠、往復して、新聞を報告するを、根下の龍子《りゆうのこ》等、不斷、殺さうと、勉めるそうだ(「大英百科全書」十一板廿八卷九二〇頁。マレー「北地考古篇」、ボーンス文庫本九六頁)。此イグラツドシル巨樹の話は、耶蘇敎の十字架の傳から、多少、附會し居《を》ると、ヨーク・パウル抔は言つたが、予が考へにも、印度說も、多少、混入した樣《やう》で、「琅邪代醉編」三二に、『佛書に、人、死を逃るゝ者、有り。井に入れば、則ち、四蛇、足を傷つくるに遇ひて、下る能はず。樹に上れば、則ち、二鼠、及び、藤に逢ひて、昇る能はず。四蛇は、以て、四時に喩へ、二鼠は、以て、日月に譬ふ。』。「太平記」三三、新田義興主從、纔かに十四人、敵に謀られたと知らずに、栓を、さした船に乘つて、「矢口の渡し」に押出《おしいだ》す。『是を三途の大河とは思ひ寄らぬぞ、哀れなる。倩《つらつ》ら、これを譬ふれば、無常の虎に追《おは》れて、煩惱の大河を渡れば、三毒の大蛇、浮び出で、これを呑まんと舌を暢《の》べ、其殘害を遁れんと、岸の額《ぬか》なる草の根に、命をかけて取著《とりつき》たれば、黑白《こくびやく》二つの月の鼠が、其草の根をかぶるなる、無常の喩えに異ならず。』。慶安二年刊「立圃《りふほ》句集」に、『吾が賴む草の根をはむ鼠ぞと、思へば月の恨めしきかな』といふ心詞《こころのことば》の哀れさを思ひて、ざれ言を『見る月の鼠戶《めづみど》開け天の原』。此佛敎の譬喩譚と、古スカンヂナビアの「世界名體志」とは、趣意、大分、違へど、双方とも、鼠や栗鼠と、龍や蛇を出《いだ》し居る所が、只の偶合《ぐうがう》とも見えない。件のイグラツドシルに象つた、ウエストフアリアに立つた巨大な木柱イルミンスルは、實《じつ》にサクソン人の崇拜を集中した者だつたが、西曆七七二年、シヤーレマン大王に破壞された(グリンムの「ドイチエ・ミトロギエ」二板、六章等)。
[やぶちゃん注:『一八七八年板、グベルナチスの「植物志怪」一卷一〇二頁』イタリアの詩人で民族学者であったアンジェロ・デ・グベルナーティス(Angelo de Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)が一八六八年に初版を刊行した植物神話の起原を集成した原題‘Fonti vediche’(「Fonti」はイタリア語の「起原」であるが、後の単語は意味不明である。当該書は英文の彼のウィキに従った)のことであろう。
「イグラツドシル」北欧神話に登場する一本の架空の世界樹(世界を支える木)ユグドラシル(古ノルド語:Yggdrasill)。「ユッグドラシル」「イグドラシル」とも音写する。当該ウィキによれば、『世界を体現する巨大な木であり、アースガルズ、ミズガルズ、ヨトゥンヘイム、ヘルヘイムなどの九つの世界を内包する存在とされる。そのような本質を捉えて英語では "World tree"、日本語では、世界樹(せかいじゅ)』・『宇宙樹(うちゅうじゅ)と呼ばれる』。『ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」の「神々の黄昏(楽劇)」の冒頭「ワルキューレの岩」で第一のノルン(運命の女神)が「一人の大胆な神が水を飲みに泉にやって来て 永遠の叡智を得た代償に片方の目を差し出しました そして世界樹のトネリコの木から枝を一本折り その枝から槍の柄(つか)を作りました 長い年月とともに その枝の傷は 森のような大樹を弱らせました 葉が黄ばんで落ち 木はついに枯れてしまいました」と歌う』。『Yggdrasill という名前の由来には諸説あるが、最も有力な説ではその原義を "Ygg's horse" (恐るべき者の馬)とする。"Yggr" および "Ygg" は主神オーディンの数ある異名(ケニング)の一つで』、『Drasillはオーディンの馬を意味していると解釈されている』。『三つの根が幹を支えている。『グリームニルの言葉』第31節によると、それぞれの下にヘルヘイム、霜の巨人、人間が住んでいる』。『また『ギュルヴィたぶらかし』での説明では、根はアースガルズ、霜の巨人の住む世界、ニヴルヘイムの上へと通じている』。『アースガルズに向かう根のすぐ下には神聖なウルズの泉があり』、『霜の巨人の元へ向かう根のすぐ下にはミーミルの泉がある』。『根の下には、ヨルムンガンドが住んでいるとも言われている』。『この木に棲む栗鼠のラタトスクが各々の世界間に情報を伝えるメッセンジャーとなっている。木の頂きには一羽の鷲(フレースヴェルグとされる)が留まっており、その眼の間にヴェズルフェルニルと呼ばれる鷹が止まっているという』。『ユグドラシルの根は、蛇のニーズヘッグによって齧られている。また、ダーインとドヴァリン、ドゥネイルとドゥラスロール』『という四頭の牡鹿がユグドラシルの樹皮を食料としている』。『また、『グリームニルの言葉』第25節によると、山羊のヘイズルーンがレーラズという樹木の葉を食料にしているとされる』『が、レーラズがユグドラシルと同じ樹木かははっきりしていない』。「類似の世界樹」の項に、『ザクセン人がイルミンスール(古ザクセン語:Irminsul, ザクセン人の祖神イルミンの柱の意)という同じような世界樹を崇拝していたことが、カール大帝の記録などから分かっている。大帝は、ザクセンに対する征服戦争(ザクセン戦争)の最初の年となった 772年、もしくはその翌年に、パーダーボルン近郊のエレスブルク(Eresburg [Obermarsberg])にてキリスト教から見た邪教の拠り所であったこの神木を伐り倒したと伝えられる』とあり、熊楠の最後の語りがそれである。なお、私が最初にこの名を知ったのは、諸星大二郎とともに私が偏愛する漫画家星野之宣の「残像AN AFTER IMAGE」(一九八〇年)でであった。
「トネリコ」スカンジナビア半島の北部、イベリア半島の南部を除いたスペインからロシアにかけてのヨーロッパ全般に自生するシソ目モクセイ科トネリコ属セイヨウトネリコ Fraxinus excelsior 。ウィキの「セイヨウトネリコ」によれば、『アイスランドのスノッリ・ストゥルルソンは、その著書「スノッリのエッダ」にて、北欧州神話に登場する世界の軸であり』、『支柱である巨大なトネリコであるユッグドラシルについての有名な記述を残している』とあり、本種がユグドラシルのモデルとされている。なお、本邦には、日本列島を原産地とするトネリコ Fraxinus japonica が植生するが、同属の別種である。なお、和名のそれは、漢字で「梣」「秦皮」と書き、当該ウィキによれば、『和名の由来は、本種の樹皮に付着しているイボタロウムシ』『が分泌する蝋物質(イボタロウ:いぼた蝋)にあり、動きの悪くなった敷居の溝に』、『この白蝋を塗って滑りを良くすることから』、『「戸に塗る木(ト-ニ-ヌル-キ)」とされたのが、やがて転訛して「トネリコ」と発音されるようになったものと考えられている』とあった。
「琅邪代醉編」(ろうやだいすいへん:現代仮名遣)は明の張鼎思の類書。一六七五年和刻ともされ、江戸期には諸小説の種本ともされた。当該部は、「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここ(二行目下方からの三行)「瓶雀井蛇」内)。
『「太平記」三三、新田義興主從、纔かに十四人、敵に謀られたと知らずに、……』新田義興(元弘元(一三三一)年~延文三/正平一三(一三五八)年は新田義貞の次男。南朝方で活躍し、宗良親王を奉じて海路東国へ赴き、武蔵に上陸、関東で勢力を張ったが、足利基氏の企てによって、多摩川六郷矢口渡で謀殺された。新田義貞の次男。この顛末は、後に平賀源内の浄瑠璃「神霊矢口渡」で脚色されて有名になった。「Wikisource」の「太平記」「巻第三十三」で、新字体だが、「283 新田左兵衛佐義興自害事」にて電子化された全文が読める。
「慶安二年」一六四九年。
「立圃」俳人野々口立圃(ののぐちりゅうほ 文禄四(一五九五)年~寛文九(一六六九)年)京生まれ。名は親重(ちかしげ)。雛人形屋を営み、「雛屋」と称した。連歌・和歌に長じ、俳諧を松永貞徳に学んだが、後、貞徳に対抗して自身の一派を開いた。]