柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「犀が淵の玉」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
さ
犀が淵の玉【さいがふちのたま】 〔煙霞綺談巻二〕武州川越<埼玉県川越市>の商家西村半兵衛といふ者、炭薪《すみたきぎ》を手船《てぶね》二三嫂につみて江都(えど)に廻す時、千住<東京都足立区内>の大川より壱里ほど川上、犀が淵いふ所は、竜宮へ貫(ぬき)通りたる淵なるよしいひ伝ふ。その淵の辺りを右の船通りしに、明がたの事なるが、淵より壱町ほど下の水底《みなそこ》に、何やらん光り輝く。水主(かこ)見付けて、常にかゝる事はなき事なれば、水練の者一両輩飛入り、かの光る物を取あげ見れば、尺四方程の玉《たま》にて、その美しさ、伝へきく面向不背(めんかうふはい)の玉もかくやと思はれたり。石の色はうす白くして鳥の子色なり。取あげて後《のち》、我《われ》取らん、人取らんと争ふほどに、船は水にさそはれて三町ばかり流れけり。其所にて玉を手に持ちたる水主、所詮論じて不用なりと、また水の中へ捨てけり。この事を船主《ふなぬし》半兵衛聞きつけて、言語道断の者どもなりとて、水練を撰《えら》み、かの玉を捨てたる所へ行きて二たび取あげ、さて玉をば上乗《うはのり》[やぶちゃん注:江戸上り。]の者にあづけ、誰人《たれひと》にも見せまじと云ひ含め、二三日中に江都へ出《いで》ての事とて、河越へかへる。船ども江都へ著きて後、類船《るいせん》[やぶちゃん注:同様の運送船の業者。]の長兵衛いふもの、この玉を今一度見せよかしと余儀なくいへば、さのみいなとも云はれずして出し見せけるに、よくよく見る躰《てい》にて、そのまゝ何方《いづかた》やらん持ち見せたれば、二三日借(かし)たまへば頓(すべ)て返すべしといふに、是非なく置きて来《く》るといふに驚き、長兵衛は同道してかの所へ行く。この時に半兵衛も河越より来り、さんざん呵(しか)りてこの者共を同道し、何某《なにがし》殿へ参り、玉を早々御かへしあれといふに、何某殿の仰せには、我等番頭(ばんがしら)聞き及びて、下々の取扱ふものにあらず、大老中へ差上たり、二三日には返すべしとて証文を給はりぬ。ころは延宝五年[やぶちゃん注:一六七七年。徳川家綱の治世。]四月、約束にまかせ何某殿へ行きたるに、その玉只今は大老《たいらう》何がし殿にありて、取かへす事なりがたしと、事のよしを演説ありければ、半兵衛もあきれはてゝ河越へかへりけり。その後《のち》ふたあれ山《さん》<日光二荒山《ふたらさん》>への宝庫に納《をさま》りけるとぞ。
[やぶちゃん注:「煙霞綺談」「池の満干」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷二(昭和二(一九二七)年日本隨筆大成刊行会刊)のここで正字で視認出来る。以上では、丁寧にルビがあるので、それを参考に読みを補った。
「犀が淵」不詳。江戸時代と隅田川の流域は異なっているが、試みに千住大橋から「一里」上流となると、この中央附近とはなる(グーグル・マップ・データ)。
「大老何がし殿」この時の大老は上野厩橋藩第四代藩主酒井忠清。当該ウィキによれば、評判は概ねよろしくなく、『忠清は鎌倉時代に執権であった北条氏に模され、大老就任後は「左様せい様」と称される将軍・家綱のもとで権勢を振るった専制的人物と評される傾向にある。また、伊達騒動を扱った文芸作品など創作においては、作中では伊達宗勝と結託した極悪人として描かれてきた。酒井家は寛永』一三(一六三六)年、『江戸城大手門下馬札付近の牧野忠成の屋敷が与えられ、上屋敷となっていた。下馬札とは、内側へは徒歩で渡り』、『下馬の礼を取らなければならない幕府の権威を意識させる場所であり、大老時代の忠清の権勢と重ね合わせ、没後の綱吉期には下馬将軍と俗称されたことが』、「老子語録」・「見聞随筆」『などの史料に窺える。また』、『戸田茂睡の執筆した』「御当代記」にも、『忠清が下馬将軍と呼ばれていたという記述がある』とある。]
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