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2023/10/18

南方熊楠「人魚の話」(正規表現版・オリジナル注附き)

[やぶちゃん注:私は既にサイト版で二〇〇六年九月十日に、一九九一年河出書房新社刊の中澤新一編「南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー」(河出文庫)所収の「人魚の話」を底本とした電子化注(新字新仮名版。当時の私(県立横浜緑ケ丘高等学校国語教師時代)の割には、よく頑張って注している方だとは思う)のを公開してある。親本は平凡社版『南方熊楠全集』第六巻であるが、新字新仮名である。

 本論考は『牟婁新報』明治三四(一九〇一)年九月二十四日及び九月二十七日附で載った。実は、本作によって、熊楠は『風俗壞亂』の罪で告発され、裁判で罰金二十円の判決を受けている。これは當時の「出版法」の『第十九條 安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壞亂スルモノト認ムル文書圖畫ヲ出版シタルトキハ内務大臣ニ於テ其ノ發賣頒布ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得』及び『第二十七條』の「罰金規程」によるものと思われるが、實際には文中に現れる、和歌山県の神社合祀を推進した複数の役人に対する痛罵への不当な報復と考えてよいであろう。この事件、及び、プレの十八日に及んだ留置所拘留を受けた暴力事件(本文芋ちらりと出る)については、一九九三年刊の講談社現代新書「南方熊楠を知る事典」(私は初版を所持する。現在は絶版)に原田健一の解説があり、幸い、『南方熊楠資料研究会』公式サイト内のここ(ページ上方から三分の一程のところ)の『人魚の話(『牟婁新報』1910. 9)』で、その経緯が記されてあるので読まれたい。

 熊楠の作品を新字新仮名に強引に変えてしまうと、ある種、奇体な文章になってしまい、読んでいても、強い違和感がある(少なくとも私は、そう感ずるのである)。されば、戦後の発行であるが、乾元社版の『南方熊楠全集』(渋沢敬三編)の一九五二年刊の「第七巻文集Ⅲ」に所収する「人魚の話」を底本とすることとした。今回も、以前の注をさらにブラッシュ・アップして添えることとする。但し、本文の論考から脱線した熊楠のえげつない洒落などの部分まで全部、注する気はない。今回は文中及び段落末に自在に添える。また、読みは底本(恐らくは初出或いは底本全集の編者が添えたものが殆んどと推察する。元来、南方熊楠は滅多にルビを振らない。送り仮名も同じように熊楠のものに手を加えている可能性が頗る高い。これは私が「南方閑話」・「南方隨筆」・「續南方隨筆」の全電子化をした際に散々困らされた事実に基づく)以外の読みは、原則、附さないこととする。但し、一単語の一部しか振っていない場合に限り、《 》で歴史的仮名遣で読みを添えた。句読点も総てそのままとする。まさに南方熊楠の語りの天馬空を行く天然自在唯我独尊型の文章に躓きながら読まれたい。なお、下線太字は底本では「◦」傍点、下線のみは「・」傍点である。踊り字「〱」は正字化した。]

 

     人 魚 の 話

 

 田邊へ「人魚の魚」賣りが來たとかいふ事ぢや。「賴光源(らいこうみなもと)の賴光(よりみつ)」の格で、叮嚀過ぎた言ひ振りだ。吾輩の家へ魚賣りに來る江川の女が、柴庵(さいあん)のことを「モーズ」樣(さん)と言う。吉人(きちじん)は辭(ことば)寡(すくな)しと言ふが、苗字(めうじ)の毛利坊主と、百舌(もず)の樣に辨(しや)べる事と、三事を一語で言ひ悉(つく)せる所は、「人魚(にんぎよ)の魚(うを)」などより遙かに面白い。扨(さて)、昔しの好人(すきびと)が罪なくて配所の月を見たいと言ふたが、予は何の因果か先日長々監獄で月を見た。昨今又月を賞する迚(とて)柴庵を訪うた處、一體人魚とは有る物かと問はれたが運の月、隨分入監一件で世話も掛け居る返禮に「人魚の話」を述べる。

[やぶちゃん注:「柴庵」毛利柴庵(明治四(一八七一)年~昭和一三(一九三八)年は熊楠の盟友で、高山寺住職にして『牟婁新報』主筆兼主宰。この年、田邊町町議員となり、翌年、県会議員。後、紀州毎日新聞社主。熊楠よりも早く神社合祀運動への強い反対を表明していた。ちなみにこの『牟婁新報』には、荒畑寒村、大逆事件で処刑された管野スガがいた。

「先日長々監獄で月を見た」この明治四三(一九一〇)年八月二十一日、熊楠は田辺中学校で開催された紀伊教育委員会主催の夏期講習会閉会式会場に、神社合祀推進の和歌山県での頭目であった同教育委員会理事田村和夫に泥酔して面会を求め闖入(本人は書簡では会場内で大立ち回りを演じたとあるが、実際には警備員に体よく放り出された)、家宅侵入罪及び暴行罪で翌二十二日に警察に拘引された。当夜は留置、二十三日に未決監に移されて、九月七日に釈放されるまで十八日間、田辺監獄に拘留された。九月二十一日、裁判で「中酒症」(判決理由より)と認定され心神耗弱が認められて免訴となった。因みに、この拘留中にも、監獄の古柱の上に生えていたアメーボゾア Amoebozoa門コノーサ綱Conoseaムラサキホコリ亜綱ムラサキホコリ目ムラサキホコリ科ムラサキホコリ属Stemonitis sp. の一片を採取し、当時の変形菌(現在の真正(性)粘菌)分類学の權威であったイギリスの菌類学者で変形菌の研究で知られたグリエルマ・リスター(Gulielma Lister 一八六〇年~一九四九年)に標本を送付し、新種と認定されている。流石はクマグス、ブタ箱に入っても、ただでは、転ばない。]

 寺島氏の「和漢三才圖會」に、「和名抄(わめいせう)」に「兼名苑(けんめいえん)」を引て云く、人魚一名鯪魚、魚身人面なる者也とある。この兼名苑という書は、今は亡びた支那の書だと聞くが、予「淵鑑類函(えんかんるいかん)」に此書を引たるを見出したれば、今も存するにや。普通に鯪(りよう)といふは當町小學校にも藏する鯪鯉(りやうり)又穿山甲(せんざんかふ)とて、臺灣印度等に住み蟻を食ふ獸ぢや。印度人は媚藥(ほれぐすり)にするが、漢方では熱さましに使つた。人面らしい物に非ず、假令(たとひ)そう[やぶちゃん注:ママ。]有た處が人面魚身と有るは、昨今有り振た人面獸身よりも優(まし)ぢや。扨、「本草綱目」に、謝仲玉なる人、婦人が水中に出沒するを見けるに、腰已下皆魚なりしとあり、定めて力を落した事だろう[やぶちゃん注:ママ。]が、其樣(そん)な處に氣が付く奴に碌(ろく)な物は無い。又査道は高麗に奉仕[やぶちゃん注:「南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー」では『奉使』。それが正しい。]し、海沙中に一婦人を見しに、肘後(ひじしり)に紅鬣(べにのひれ)あり、二つ乍ら是等は人魚也と云へり。「諸國里人談」にも、わが國で鰭(ひれ)の有る女を擊殺(うちころ)し、祟(たゝ)つたと載たり。又、寺島氏「推古帝廿七年[注:六一九年。]、攝州堀江に物有り、網に入る、其形ち兒(ちご)の如く、魚に非ず、人に非ず、名くる所を知らず」[やぶちゃん注:「日本書紀」の記載。]といへる文を人魚として載せたるが、是れは山椒魚(さんしようを)の事だろう。形ちは餘り似ぬが、啼聲(なきごゑ)が赤子の樣だから、前年京都で赤子の怪物(ばけもの)と間違へた例もあり。山師連が之に「しゆろ」の毛を被(かぶ)せ、「へい、是は丹波の國で捕へました、河太郞(かはたろう[やぶちゃん注:ママ。])で御座い」。「見ぬ事は咄(はなし)にならぬ、こんな妙な物を一錢で見らるゝも偏(ひとへ)に大師樣の御引合せ、全く今の和尙樣がえらいからだ」[やぶちゃん注:後者は鍵括弧の始まりがないが、「南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー」で補った。]などと高山寺などでやらかす也。既に山椒魚(さんしょうを)に近き鯢(げい)といふ物の一名を人魚と呼ぶ由、支那の書に見ゆ。扨寺島氏續けて云く、今も西海大洋中、間(まゝ)人魚あり。頭婦女に似、以下は魚の身、麁(あら)き鱗(うろこ)、黑くて鯉に似、尾に岐(また)あり、兩の鰭(ひれ)に蹼(みづかき)有り、手の如し、脚(あし)無し、暴風雨の前に見はれ[やぶちゃん注:「あらはれ」。]、漁父網に入れども奇(あやし)んで捕(とらえ[やぶちゃん注:ママ。])ず。又云く、和蘭陀人、魚の骨を倍以之牟禮(へいしむれ)(拉丁[やぶちゃん注:「ラテン」。]語ペッセ・ムリエル、婦人魚の義也)と名づけ、解毒藥となす、神効あり、其骨を器に作り、佩腰(ねつけ)とす。色象牙に似て濃からずと[やぶちゃん注:以上の一文の冒頭部「和蘭陀人、魚の骨を」は「和蘭陀、人魚の骨を」の誤りであろう。「南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー」でも正しくそうなっている。]。いか樣二三百年前人魚の骨は隨分南蠻人に貴ばれ、隨つて吾邦にも輸入珍重された物だつた證據は、大槻磐水の「六物新誌」にも圖入りで列擧し有るが、今忘れ畢(しまつ)たから、手近い原書より棚卸しせんに、一六六八年(寬文八年)マドリド板、コリン著非列賓島宣敎志[やぶちゃん注:「フィリピンとうせんきやうし」。])八〇頁に、人魚の肉食ふべく、其骨も齒も金創(きんさう)に神効ありとあり、其より八年前出板のナヴァレットの「支那志」に、ナンホアンの海に人魚有り、其骨を數珠と倣し[やぶちゃん注:「なし」。]、邪氣を避るの功有りとて尊ぶ事夥し、其地の牧師フランシスコ・ロカより驚き入たことを聞きしは、或人、漁して人魚を得、其陰門婦女に異ならざるを見、就て之に婬し、甚快(こゝろよ)かりしかば翌日又行き見るに、人魚其所を去らず、因て又交接す、斯くの如くして七ケ月間、一日も缺さず相會せしが、遂に神の怒りを懼れ、懺悔して此事を止たりとあり。

[やぶちゃん注:『寺島氏の「和漢三才圖會」に、「和名抄(わめいせう)」に「兼名苑(けんめいえん)」を引て云く、人魚……』私の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」(先日、全体を大改訂した)の「人魚」の項を見られたい。なお、文中で熊楠が散逸を疑っている「兼名苑」は唐の僧、釋遠年の撰になる名物詞硏究書で十卷、現存している。以下に、「和漢三才圖會」上のサイト版に載せた版本の異なる二つの挿絵を掲げておく。

Nin

Ningyo2

 

「淵鑑類函」は類書(百科事典)で、康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した。南方熊楠御用達の書である。

「諸國里人談」寬保三(一七四三)年版行、菊岡沾凉著。以下に、同書「卷之一 一 神祇部」に所収する。私は既に同書全部を電子化注してある。「諸國里人談卷之一 人魚」を見られたい。熊楠の言う「女」は「赤きものまとひ」からの誤解か。按ずるに、「諸國里人談」のこの生物は、アザラシやアシカ等が頸部に褐藻類の葉体片を纏って、たまさか、岩場に上がっていたもののように私には思える。因みに、私の人魚の博物学的な電子化注の三つをリンクさせておく。

『毛利梅園「梅園魚譜」 人魚』(おどろおどろしい人魚のミイラの図があり、特にお勧め!)

「 大和本草卷之十三 魚之下 人魚 (一部はニホンアシカ・アザラシ類を比定)」

「大和本草附錄巻之二 魚類 海女 (人魚)」

「山椒魚」「啼聲が赤子の樣だから」もう、お分かりと思うが、熊楠が同定しているのは、現在の日本固有種である両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ上科オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ  Andrias japonicus  であるが、オオサンショウウオは鳴かない。これは、熊楠も愛讀した「山海經」の、その注釋である「山海經校注」の「海經新釋」の中の「卷七 山海經」の「第十二 海内北經」にある『廣志曰、「鯢魚聲如小兒啼、有四足、形如鯪鱧、可以治牛、出伊水也。」司馬遷謂之人魚。』の敍述や、北アメリカ東部に生息するホライモリ科の Necturus maculosus 、英名“ Mudpuppy ”(子犬のように鳴くとの傳承からの命名)等からの謂いであろうと思われる。ちなみに、ジュゴンは、立派に鳴く。なお、私の「日本山海名産図会 第二巻 鯢(さんしやういを) (オオサンショウウオ及びサンショウウオ類)」をも参照されたい。

「鯢」「和漢三才圖會」には「鯢」を「さんせういを」と訓じ、その記載も現在のオオサンショウウオである。熊楠が「山椒魚に近き」と言っているのは、中国産の別種のオオサンショウウオを想定してのことであろう。私の「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚  寺島良安」の「さんせういを 鯢」の項を参照されたい。

「大槻磐水」蘭学者大槻玄澤(宝暦七(一七五七)年~文政一〇(一八二七)年)のこと。本名は大槻茂質(しげかた)。磐水は雅号。杉田玄白・前野良澤の弟子で、通称の「玄澤」は、その両師匠のそれぞれ一字を貰っている。蘭学入門書「蘭學階梯」で地位を築き、師の「解體新書」の改訂も行っている(「重訂解體新書」)。

「六物新誌」二巻二冊。天明六(一七八六)版行。①一角(ウニコール)=イッカクの角、②泊夫藍(サフラン)、③肉豆賣(にくづく)=肉荳蒄=ナツメグ、④木乃伊(ミイラ)、⑤噴淸里歌(エブリコ)=アガリクス、⑥人魚を、圖入りで解說したもの。

「或人、漁して人魚を得、其陰門婦女に異ならざるを見、就て之に婬し、甚快(こゝろよ)かりしかば翌日又行き見るに、人魚其所を去らず、因て又交接す、斯くの如くして七ケ月間、一日も缺さず相會せしが、遂に神の怒りを懼れ、懺悔して此事を止たりとあり」「南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー」の長谷川興蔵氏の語注によれば、『「人魚の話」が風俗壊乱で告発されたのは、法廷での賢治の発言によると、主として』この『人魚との交接の記述によるらしい』とある。]

 巫來[やぶちゃん注:「マレー」。]人が人魚を多く畜(やしな)ひ、每度就て婬し、又其肉を食(くら)ふ事屢ば聞及べり。此樣な事を書くと、讀者の内には、心中「それは己(おれ)もしたい」と渴望しながら、外見を裝ひ、扨も野蠻な風など笑ふ奴が有るが、得てして其樣な輩(やから)に限り、節穴(ふしあな)でも辭退し兼ぬ奴が多い。已に吾國馬關(ばくわん)邊では、赤魚(あかえい[やぶちゃん注:ママ。])の大きなを漁して、砂上に置くと其肛門がふわふわと呼吸(いき)に連(つれ)て動く處へ、漁夫(れふし)夢中に成て抱き付き、之に婬し畢り、また、他の男を呼び歡(よろこび)を分かつは[やぶちゃん注:底本では「呼」のルビに「よろこび」と振る。誤植と断じて、かく、した。]、一件上の社會主義とも言ふべく、ドウセ賣て食て仕舞ふ者故、姦し殺した所が何の損に成らず。情慾さへ其で濟めば一同大滿足で、別に仲間外の人に見せるでも無れば、何の猥褻罪を構成せず。反つて此近所の郡長殿が、年にも耻ず、鮎川から來た下女に夜這ひし、細君蝸牛(かたつむり)の角を怒らせ、下女は村へ歸りても、若衆連が相手にし吳れぬなどに比ぶれば、遙かに罪の無い咄し也。

 今日、學者が人魚の話の起源と認むるは、ヂュゴン(儒艮)とて、印度、巫來(マレー)半島、濠州等に產する海獸ぢや。琉球にも產し、「中山傳信錄」には之を海馬(かいば)と書いて居る。但し今日普通に海馬と云ふは、水象牙(すゐぞうげ[やぶちゃん注:ママ。])を具する物で、北洋に產し、勘察加(かむさつか)土人、其鳴き聲に據て固有の音樂を作り出した者だが、「正字通」に之を落斯馬(らくすま)と書いて居る。十餘年前、和蘭[やぶちゃん注:「オランダ」。]の大學者シュレッゲル、「通報」紙上に、是はウニコールの事だらうと言ひしを、熊楠之を駁(ばく)し、落斯馬(らくすま)は那威(のーるゑー)語ロス・マー(海馬の義)を直譯したのだ。件(くだん)の「正字通」の文は、丸で(坤輿外紀)のを取たのだと言ひしに事起り、大論議となりし末シュレッゲルが、其頃那威語が支那に知れる筈無し、故に件(くだん)の文が歐州人の手に成った證據有らば、熊公の說に服するが、支那人の作ではどうも樺太邊の語らしいと云ひ來る。隨分無理な言い樣ぢや。彼又自分がウニコール說を主張せしを忘れて、只管(ひたすら)語源の那威に出ぬ事を主張すとて、落斯馬(らくすま)は、海馬は馬に似た物故「馬らしい」と云ふ日本語に出しならんと、眞に唐人の寢言(ねごと)を言ふて來た。吾國では海外の學者を神聖の樣に云ふが、實は負惜の强い、沒道理の畜生如き根性の奴が多い。之は吾邦人が、國内でぶらぶら言い誇るのみで、外人と堂々と抗論する辯も、筆も、殊には勇氣が無いからぢや。然し、熊公は中々そんなことに屈しはしない。返答して曰く、日本の語法に「馬らしい」と言ふ樣な言辭は斷じて無い。然し「か」の字を一つ入れたら、お前の事で、乃ち「馬鹿らしい」と言ふ事になる。日本小と雖ども、已に昨年支那に勝たのを知らぬか。汝は世間に昧(くら)くて、「じやぱん」なる獨立帝國と、汝の國の領地たる爪哇(じやわ)とを混じて居らぬか、書物讀みの文盲(あきめくら)め、次に、人を困らそうとばかり考へると、益々出る說が、益々味噌を付る。件(くだん)の文の出て居る根本の「坤輿外紀」は、南懷仁著と云ふと、支那人と見えるが、是れ康熙帝の寵遇を得たりし天主僧、伊太[やぶちゃん注:「イタリア」。]人ヴァ・べスチの事たるを知らずや、注文通り伊太利人の書た本に、近國の那威の語が出て居るに、何と參つたか。「和漢三才圖會」に、和蘭[やぶちゃん注:「オランダ」。]人小便せる時、片足擧ぐる事犬に似たりと有るが、汝は眞に犬根性の犬學者だ、今に人の見る前で交合(つる)むだろう[やぶちゃん注:ママ。]と、喜怒自在流の快文でやつつけしに、到頭「わが名譽有る君よ」てふ發端(ほつたん)で一書を寄せ、「予は君の說に心底から歸伏せり」(アイ・アム・コンヰンスド云々)てふ、中々東洋人が西洋人の口から聞く事、岐山の鳳鳴より希(まれ)なる謙退(けんたい)言辭で降服し來り。予之を持て二日程の間、何事も捨置て、諸所吹聽し廻り、折柄龍動(ろんどん)に在し舊藩主侯の耳に達し、祝盃を賜わった事が有る[やぶちゃん注:「南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー」では、「祝」は『祝盃』とある。]。三年程後に、惠美忍成と云ふ淨土宗の學生を、シュレッゲルが世話すべしとの事で、予に添書を吳れと惠美氏言ふから、「先生は學議に募りてついつい失敬したが、全く眞の知識を硏(みが)くが爲だから、惡からず思へ」という緖言で、一書を贈りしに、其れ切り何の返事せず、惠美氏の世話もせざりしは、洋人の頑强固執、到底邦人の思ひおよばざる所だ。兎に角其れ程バットやらかした熊楠も、白龍魚(はくれうぎよ[やぶちゃん注:ママ。])服(ふく)すれば豫且(よしよ)の網に罹り、往年三條公の遇を忝して、天下に矯名を謠はれたる金甁樓(きんぺいろう)の今紫(いまむらさき)も、目下村上幸女とて旅芝居(たびやくしや)に雜(まじ)はれば、一錢で穴のあく程眺めらるゝ道理、相良無(さがらな)い武(む)とか楠見糞長(くすみふんてう[やぶちゃん注:ママ。])とか、バチルス、トリパノソマ[やぶちゃん注:底本は「トリパノソ」。脱字と断じて、かく、した。]同前の極小人に陷られて、十八日間も獄に繋(つな)がるゝなど、思へば人の行末程分らぬ者は有りやせん。然し、晝夜丹誠を凝し、大威德大忿怒尊の法と云ふ奴を行ひ居るから、朞年(きねん)を出ずして、彼輩腎虛して行倒れる事受合ひ也。

[やぶちゃん注:以上の主文である、オランダの東洋学者・博物学者グスタフ・シュレーゲル(Gustave SchlegelGustaaf Schlegel 一八四〇年~一九〇三年)との論争に就いては、『南方熊楠 履歴書(その12) ロンドンにて(8) 「落斯馬(ロスマ)論争」』(新字新仮名)で詳細に語っており、私のオリジナル注も附してあるので見られたい。以上に出るモデル動物も私の注で比定してある。

「中山傳信錄」(ちゅうざんでんしんろく)は清の徐葆光(じょほこう 一六七一年~一七二三年:が江南蘇州府長州県生まれ)が一七一九年(清・康熙五八/日本・享保四)に、琉球王国第二尚氏王統の第十三代国王(在位:一七一三年~一七五一年)尚敬王への冊封副使として来琉し、本書は冊封の顛末を纏めた書。冊封儀礼の様子や、琉球滞在中に見聞した琉球の風俗・言語・地理・歴史等を清朝考証学的な体裁で記し、多くの挿絵を挿入してある。江戸時代の知識人の琉球に関する知識は、この著に依るところが多い。また、アントワーヌ・ゴービル宣教師によってフランス語に抄訳され、ヨーロッパにも紹介されている(以上は当該ウィキ及び「琉球大学」及び同「附属図書館」公式サイト内の「琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブ」の「中山伝信録[一]」の記載に拠った)。当該部は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書の巻六のここ(左丁五行目)の「海馬」で視認出来る。

「正字通」中国の字書。明末の張自烈の著。初刻本は一六七一年刊行、直後に本邦にも渡来して多く読まれた。現行通行本には清の廖(りょう)文英撰とするが、実際には原稿を買って自著として刊行したものである。十二支の符号を付した十二巻を、それぞれ上・中・下に分け、部首と画数によって文字を配列し、解説を加えたもの。形式は、ほぼ明の梅膺祚(ばいようそ)の「字彙」に基づくが、その誤りを正し、訓詁を増したものである。但し、本書自体にも誤りが少くない。「字彙」とともに後の「康煕字典」の基礎となった。その当該部分「三十七」の以下。「中國哲學書電子化計劃」の影印本に拠った(本文の九行目下方から)。

   *

落斯馬長四丈許足短居一海底罕出水面皮堅剌之不可入額一角似鉤寐時角挂石盡日不醒

   *

これ、幻獣へと変形され、「長崎聞見録」には、奇体な頭部に前方へ逆反りで突き出た角二本が描かれている。「東スポWEB」の『【山口敏太郎オカルト評論家のUMA図鑑320】額に2本のツノを持つ未確認生物「落斯馬(らしま)」の正体』を見られたい。

「坤輿外紀」「南懷仁」の書名は「坤輿外記」が正しい。著者は熊楠の言う通り、中国人ではなく、ベルギー生まれのイエズス会宣教師フェルディナンド・フェルビースト(Ferdinand Verbiest 一六二三年~一六八八年)の中国名。一六五九年、中国に渡り、清朝に仕えてアダム=シャール(中国名、湯若望)を補佐し、天文観測機器の製造や暦法の改革などに携った。七三年には国立天文台長に相当する欽天監監正ともなった。著「坤輿全圖」「霊臺儀象志」等があり、「坤輿外紀」は中国の地誌。禁書であったが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」に日本人が筆写したもの(年代不明)があり、そのここの左丁の六行目に、「康煕字典」とほぼ同文の、

   *

落斯馬、長四丈許、足短居海底、罕出水面、皮甚堅、用刀剌之不可入額、有角、如鉤、寐時以角掛石、盡日不醒、

   *

とある。

「天主僧、伊太人ヴァ・べスチ」先の注に出したイエズス会宣教師フェルディナント・フェルビースト(Ferdinand Verbiest)。姓の音写。

『「和漢三才圖會」に、和蘭[やぶちゃん注:「オランダ」。]人小便せる時、片足擧ぐる事犬に似たりと有る』現在まで、どこに書かれているのか不詳。識者の御教授を乞う。

『「和漢三才圖會」に、和蘭人小便せる時、片足擧ぐる事犬に似たりと有る』

「惠美忍成と云ふ淨土宗の學生」「えみにんじょう」(現代仮名遣)と読む。詳細事績は見出せなかったが(ドイツに留学している)、著書に「仏陀論」(明治三二(一八九九)年哲学書院刊)がある(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの原本)。

「白龍魚(はくれうぎよ)服(ふく)すれば豫且(よしよ)の網に罹り」「白龍魚服」。霊力ある白龍が、あたりまえの魚に化していて、予且(よしょ)という漁師に射られたという伝説。中国、戦国時代に呉王が微行(びこう:身分の高い人などが身をやつして、密かに出歩くこと。忍び歩き)しようとしたのを、伍子胥(ごししょ)が諫めて、その危険の喩えとした「說苑」(ぜいえん)の「正諫」の故事によるもので、「高貴な人が微行して災難に遭うこと」の喩え(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「三條公」幕末・明治前期の公家・政治家三条実美(文久三(一八三七)年~明治二四(一八九一)年)。急進的攘夷派の指導者として、長州藩と提携し、文久三(一八六三)年八月十八日の政変で「七卿落ち」の一人として長州に逃れた。明治維新後は新政府の議定・太政大臣・内大臣などを歴任した。

「相良無い武」「楠見糞長」は神社合祀推進派であった和歌山県県庁内務第一部長の相良歩(さがらあゆみ)、及び、西牟婁郡郡長(兼神職取締所)の楠見節(せつ)をおちゃらかした表現である。前にも言った通り、本書の『風俗壞亂』の筆禍の真相は、この部分が彼らの逆鱗に触れた結果であろう。

「バチルス」ドイツ語“Bazillus”桿菌の総称。好気性で芽胞を形成する。広義では広く「細菌」のことを言い、近代には、早く、「つきまとって害をなすもの・寄生して利を奪ったり害したりするもの、或いは、その人」を指す喩えとして盛んに使われた。

「トリパノソマ」トリパノゾーマ。“Trypanosoma”。キネトプラスト綱 Kinetoplasteaトリパノソーマ目トリパノソーマ科

トリパノソーマ属 Trypanosomaの原生動物の総称。鳥獣やカエルの寄生虫で、単細胞。ツェツェバエの媒介で「アフリカ睡眠病」をはじめとして種々のヒト感染症を起こすものもいる。

「大威德大忿怒尊の法」五大明王の中で西方の守護者と憤怒相を持った大威徳明王を念ずる強力な修法。]

 何んと長い自慢、兼ヨマイ言ぢや。扨琉球では又、儒艮(じゆごん)をザンノイヲとも云ひ、昔は紀州の海鹿(あしか)同樣、御留(おと)め魚(いを)にて、王の外之を捕え[やぶちゃん注:ママ。]食ふ事能はざりし由。魚(いを)と云ふ物の、形が似たばかりで、實は乳(ちゝ)で子を育て、陰門陰莖歷然たれば、獸類に相違無い。以前は鯨類と一視されたが、解剖學が進むに從ひ、鯨類とは何の緣も無く、目下の處何等の獸類に近緣有るか一向知れぬから、特にシレン類とて一群を設立され居る。シレンは知れんと云ふ譯で無く、シレンスと云怪獸は、儒艮(じゆごん)の類に基いて出來たんだろとて採用した名ぢや。希臘の古話に、シレンスは海神ポルシスの女(ぢよ)で、二人とも三人ともいふ、海島の花畠に住み、死人の朽骨の間に居り、殊の外の美聲で一度は氣休め二度は噓などと唄ふを、助兵衞な舟人等聽て、どんな別嬪だろう[やぶちゃん注:ママ。]と、其方(そこ)へ牽かれ行くと最後、二度と妻子を見る事がならず、オーヂッセウス、其島邊を航せし時、伴侶(つれ)一同の耳を蠟で塞ぎ自身のみは耳を塞がずに帆柱に緊(きびし)く括り付けさせ、美聲を聞き乍ら魅(ばか)され行かなんだは、何と豪い勇士ぢや。予も其から思付て、福路町(ふくろまち)を通る前に必ず泥を足底に塗て往く。是は榮枝(さかえ)得意の「昔し昵(なじ)みのはりわいサノサ」てう格で、幾ら呼んだつて、女史は大奇麗好きだから、足が少しでも汚れ居ては揚て吳る氣遣ひ無く、「飛で往たやはりわいサノサ」と挨拶して、虎口を遁れ歸宅すると、北(きた)の方(かた)松枝御前(まつえごぜん)が、道理で晝寢の夢見が危かつたと、胸撫下す筋書ぢや。其は扨置、南牟婁郡の潜婦(あま)の話に、海底に「龍宮の御花畑」とて、何とも言へぬ美しい海藻が五色燦爛と密生する所え[やぶちゃん注:ママ。]行くと、乙姬樣(おとひめさま)が顯はれ、ぐづぐづすると生命を取らると云傳ふ。シレンスが花畑に居るとは美しき海藻(も)[やぶちゃん注:二字へのルビ。されば、前の「海藻」もそう読んでいよう。]より出た[やぶちゃん注:底本は「出だ」。誤植と断じた。]譚ならん。扨シレンスは一人たりとも美聲に魅(だま)されずに行き過ると、運は盡きで則ちオーヂッセウスが上述の奇策で難無く海を航したから、今は是迄也と自ら海に投じて、底の岩に化せりと有るから、南方が行過ぎると榮枝女史も二階から落て女久米仙(をんなくめせん)と云はるゝかも知れぬ。此シレン類は、餘り種類が多からず、儒艮屬(じゆごんぞく)[やぶちゃん注:底本では「じゆこんぞく」であるが、誤植と断じた。以下のでも同じ処理をした。]、マナチ屬の二屬しか現存せぬ。マナチは南米と西亞弗利加の江河に住む、二屬共餘り深い所に棲み得ず、夜間陸に這上り草を食ひ、一向武備無き柔弱な物故、前述の通り人に犯されても「ハアハア」喘ぐのみ、好いのか惡いのか薩張り分らず、扨人間は兇惡な者で、續け樣(さま)に幾日も姦した上、之を殺し食ふ。それ故、此類の全滅は遠からず。已に他の一屬海牛(シーカウ)といふは、北氷洋の一島に住み、その島へ始て上陸した難船の水夫共を見て珍らしげに集り近(ちかづ)きたるを、得たり賢し天の與へと片端から殺し食ひ盡され、其遺骨のみ僅少の博物館に保存され、觀る人の淚の種と成りぬ。又、好婬家は儒艮(じゆごん)の例を推し、此方が大きいから抱き答へが有るなどと云ひ、眼からも下の方からも淚潤ひ下るぢや。此類は三屬共、肉味は甚だ旨く柔かな由。但し、食ふ時の事で、幹(す)る時の味は別に書て無い。儒艮の頭粗(ほゞ)人に似、且つ其牝が一鰭を以て兒を胸に抱き付け、他の一鰭で游ぎ、母子俱(とも)に頭を水上に出す。扨驚く時は、忽ち水に躍込んで魚狀の尾を顯はす。又、子を愛する事甚だし。此等の事から、古希臘人、又アラビヤ人などが儒艮(じゆごん)を見て、人魚の話を生じただらうと云ふ。一五六〇年(永祿三年)、印度で男女の人魚七疋を捕へ、ゴアに送り、醫士ボスチ之を解剖せしに、内部機關全く人に異ならず、と記せり。又、一七一四年[やぶちゃん注:正徳四年。]ブロ島で捕へし女人魚は、長さ五尺、四日七時間活しが、食事せずして死すと。又、一四〇四年(足利義滿の時)、和蘭(おらんだ)の海より湖に追込で捕へし人魚は、紡績を習ひ行ひ、天主敎に歸依して死せりと。十八世紀の初めに蘭人ヴァレンチン一書を著はし、世已(すで)に海馬・海牛・海狗有り、又海樹・海花あり、又何ぞ海女あり、海男有るを疑はんやと論ぜり。

[やぶちゃん注:「ザンノイヲ」南西諸島ではジュゴンは「ザンノイヲ」(「犀魚」・「ザンヌイユ」・「ザン」・「ザノ」・「アカンガイユ」とも)と呼ばれ、常世ニライカナイからの漂着神を背に乗せて來たるとした。ウィキの「ザン」及び「ジュゴン」をリンクさせておく。

「シレン類」Sirenia=海牛目(=ジュゴン目)。海牛目はジュゴン科とマナティ科からなる(目の和名の「海牛」は本來は「マナティ」を指す)。ジュゴン科Dugongidae は、現生種ではジュゴン Dugong Dugon は一属一種。インド洋・西太平洋・紅海に棲息する。北限は日本で、しかも沖縄諸島北緯三十度周辺までである)。一方のマナティー科 Trichechidae は、アマゾンマナティ Trichechus inunguis 、アメリカマナティ Trichechus manatus 、 アフリカマナティ Trichechus senegalensis の三種がいるが、棲息域はアフリカ大陸・北アメリカ大陸東部・南アメリカ大陸北部・キューバ・ジャマイカ・ドミニカ共和国、及び、トリニダード・トバゴとハイチに限られ、本邦には棲息しない。ウィキの「マナティー」もリンクしておく。

「福路町(ふくろまち)」旧歓楽街「田辺新地」のこと。熊楠家に近いここに地名が現存する。ここに出る「榮枝」や「お富」などの贔屓の芸者の名が日記に、しばしば登場する。特に「榮枝」は本文にも出る熊楠の妻松枝とも親しかった。

「夜間陸に這上り草を食ひ」殘念ながら、彼らは狭義の「陸」に上がることはない。この「陸」が淺瀨であるアマモ場を指しているのならばよいが、そう解釋するのはやや苦しい。但し、彼等の主食たるアマモ(正式和名リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ)は、海藻ではなく海草(顯花植物)であるから、「草を食」うというのは正しい。

「海牛(シーカウ)」實は、ジュゴン科には、寒冷地適應型の一種で、體長七~九メートル、最大体重九トンにも及ぶ    ステラーカイギュウ亜科ステラーカイギュウ属ステラーダイカイギュウ Hydrodamalis gigas がベーリング海に棲息していた。ロシアのヴィトゥス・ベーリングが率いた探檢隊の遭難によって、一七四一年に發見された彼らは、熊楠が述べる如く、その溫和な性質や、傷ついた仲間を守るために寄ってくるという習性から、瞬く間に食用に亂獲され、一七六八年を最後に發見報告が絕えた。人間に知られて僅か二十七年の命であった。環境保護が叫ばれる今でこそ知られる彼らだが、明治四三(一九一〇)年の日本で、ステラダイカイギュウの悲慘な末路を知って、かくも彼らを追悼し得た人物が、一體、何人いたであろうか。そうして、「地球にやさしい」とうそぶく僕たちは、欲望の赴くまま、容易に普段の「やさしさ」を放擲して、不敵な笑いを浮かべながら、第二のステラーダイカイギュウの悲劇を他の生物にも向けるであろう点に於いて、何等の進步もしていない。それは熊楠をしてバチルス、トリパノゾーマ以下と言わせるであろう。この頭骨の語りかけてくるものに僕たちは真摯に耳を傾けねばならない(リンク先はウィキの「ステラーダイカイギュウ」の写真)。]

 岩倉公等の「歐米回覽日記」に、往時和蘭へ日本より龍と人魚の乾物を渡せしに、解剖して後漸く其人造たるを知り、人々大いに日本人の機巧に驚けりと見ゆ。動物學の大家クヴェー、曾て龍動で人魚の見世物大評判なりし事を記し、曰く、予も人魚なる物を見たるに、小兒の體で口に銳き齒ある魚の顎(あご)を嵌め、四肢の代りに蜥蜴(とかげ)の胴を用たり、龍動で見世物にせしは猴の體に魚の後部を附し者也と。予も本邦又海外諸國で屢(しばし)ば人魚の乾物を見しも、何れも猿の前半身へ、魚の後半身を巧みに添付たる物なり。支那の古史に小人(こびと)の乾腊(ひもの)と云ふ事見ゆ。思ふに猴(さる)の乾物もて僞り稱せしが、後には流行(はやら)無くなり、遂に魚身を添て人魚と稱するに及びしか。「和漢三才圖會」等に、若狹小濱の空印寺に八百比丘尼(びくに)の木像有り。此尼(あま)、昔し當寺に住み、八百歲なりしも、美貌十五六歲可(ばかり)なりし、是れ人魚を食いしに因ると。嘘八百とは是よりや始りつらむ。思ふに儒艮(じゆごん)は暖地の產にて、若狹などに有る物ならねど、海狗[やぶちゃん注:オットセイ。]などの海獸、多少人に類せる物を人魚と呼び、其肉溫補(おんぽ)の功有れば、長生の妙驗有りなど言ひ傳へたるやらむ。兎に角、人魚といふ事本邦に古くより云囃せし證據は、「法隆寺の古記(こき)」なる嘉元記に、「人魚出現事(にんぎよしゆつげんのこと)、或日記云、天平勝寶八年(今年より千百五十四年前)五月二日、出雲國ヤスヰの浦へ着く、寶龜九年四月三日能登國珠洲岬に出、正應五年十一月七日伊豫國ハシヲの海に出、文治五年八月十四日安藝國イエツの浦に出、延慶三年四月十一日若狹國小濱の津に引上て、國土目出度かり、名眞仙(何の事か知れぬが、多少八百比丘尼に關係有るらし)延文二年卯月三日、伊勢國二見の海に出、長久なる可し、名延命壽、以上六ケ度出云々」とあり。又人魚を不吉とせし例は、「碧山日錄」に、「長祿四年六月二十八日、或人曰く、此頃東海の某地に異獸を出す。人面魚身にして鳥址[やぶちゃん注:「とりのあし」。]なり。京に入て妖(えう)を作(なさ)んとす。人皆々豫め祓事(はらひ)を修め、殃(わざはひ)を禳ふと云ふ」とある。まだまだ書く事が有るが、監獄で氣が張って居た奴が、出てから追ひ追ひ腰痛くなり、昨今甚だ不健全故爰で話を止める。(明治四十三年九月二十四日)

[やぶちゃん注:「動物學の大家クヴェー」フランスの博物学者にして比較解剖学の大家ジョルジュ・キュビィエ(Georges Cuvier 一七六九年~一八三二年)であろう。動物学者で弟のフレデリック・キュヴィエ(Frédéric Cuvier 一七七三年~一八三八年)もいるが、単にこう言った場合は、前者であろう。

『「和漢三才圖會」等に、若狹小濱の空印寺に八百比丘尼(びくに)の木像有り。此尼(あま)、昔し當寺に住み、八百歲なりしも、美貌十五六歲可(ばかり)なりし、是れ人魚を食いしに因る』これは同書の「卷第七十一」の「若狹」の「空印寺」の条に出る。以下、所持する原本画像を元に白文・訓読文(一部、補填)を示す。

   *

空印寺   在小濵

  八百比丘尼木像  窟本尊役行者 奧院

 相傳昔有女僧住于此其齡八百歳而容貌壯美可十

 五六歳仍稱八百比丘尼

△按唯不遠敷大明神此比丘尼亦保數百歳而猶若

 年實若狹國名目相合乎或謂食人魚然者非也

   *

空印寺   小濵(おばま)に在り。

  八百比丘尼木像  窟(いわや[やぶちゃん注:ママ。])の本尊役の行者 奧の院

 相ひ傳ふ、『昔、女僧(ぢよそう)有り、此に住む。其の齡(よはい[やぶちゃん注:])八百歳にして、容-貌(かたち)、壯-美(さうび)なること、十五、六歳ばかり。仍(より)て「八百比丘尼」と稱す。』と。

△按ずるに、唯(ただ)、「遠敷大明神(おにふみやうじん)」のみならずして、此の比丘尼も亦、數百歳を保(たも)ちて、猶を[やぶちゃん注:ママ。]若年のごとし。實(げ)に、若狹の國の名目、相合(あひあ)ふか。或は、「人魚を食(くひ)て、然り。」と謂ふは、非なり。本「神社佛閣名所」の冒頭に「遠敷(をにふ)大明神」が記されてある。

   *

この「空印寺」(くういんじ)は福井県小浜市小浜男山にある曹洞宗建康山空印寺で、境内に八百比丘尼入定の洞穴があることで知られる(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「遠敷大明神」福井県小浜市にある若狭彦神社(わかさひこじんじゃ)は、空印寺の南東の近く。下社若狭姫神社が小浜市遠敷(おにゅう)にあり、その地名から、かく呼ばれた。上社の祭神彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は高千穂宮に五百八十年居住した長寿である。]

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