南方閑話 巨樹の翁の話(その「一一」)
[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。
これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。注は短いものは文中に、長くなるものは段落の後に附す。また、本論考は全部で十六章からなるが、ちょっと疲れてきたので、分割して示す。]
一一
プリニウスの「博物志」は、耶蘇紀元一世紀の筆で、虛實に拘はらず、當時、見聞した智識を遺さず網羅した物だが、あまりゾツとさせるような大木譚は見えない。だが、本編を述《のぶ》るに斯《かか》る高名の書を逸しては男が立《たた》ぬから一條を引くと、其十六卷三章[やぶちゃん注:原文「三等」。「選集」で訂した。]に、北歐ヒルキニアの林中に、巨大の檞《かしは》、殆んど不死なるが有り、其根、相逢《あひあひ》て、大なる山を持上《もちあぐ》る。持上るべき土がない處では、尋常、枝の有《ある》べき處迄高く起りて大門を成し、騎兵一大隊を通すに差し支えない、と。
[やぶちゃん注:所持する雄山閣の全三巻の全訳版(中野定雄他訳・第三版・平成元(一九八九)年刊)の当該部分(「第一六巻 森林樹の性質」の第二章「北方の樹木の不思議」の後半)を引用する。
《引用開始》
同じ北方地域には広大なヘルキニアカシの森があるが、これは時代の影響を受けることなく世界とともに古いもので、そのほとんど不死身ともいうべき運命によって、あらゆるものにも勝って驚異すべきものである。あまり信用できないことは差し置くとして、よく知られていることだが、両方の根が出会ってぶっつかり会い、土を押し上げてちょっつぃた丘をつくっていたり、地面がそれに屈しないところでは、根が互いに張り合い枝の高さにまでも高まってアーチをなしていて、その下を騎兵中隊が通過することができる。
《引用終了》]
十六世紀の伊人ピガフエツタの「世界周航記」(ピンカートン『水陸旅行全集』十一卷所收)四卷に、小爪哇《しやうジャワ》の北なる支那灣に、カムバンガンギという大木、有り。ガルダなる巨鳥、之に棲み、水牛や象を攫《つか》んで、樹上で食《くら》ふ。一船、其邊の大渦に卷《まか》れて、樹邊で破れ、乘員、皆、沒して、童兒一人、助かり、其樹に登つて、巨鳥に知れずに、其翼の下に隱れ居《をつ》た。翌日、巨鳥、陸地へ飛下つて、水牛を攫む時、童兒、翼より脫して、逃去《にげさ》つた。其迄は、大渦の爲め、島に近づく者も無かつたが、是時、始めて、大木と巨鳥の栖家《すみか》が知れた、と。象や水牛を攫み去つて、その上で、喫《く》ふ程の木は餘程大きい物だ。ガルダは迦樓羅《かるら》で、所謂、金翅鳥《こんじてう》王だ。「摩訶僧祇律」に、『爾時《じじ》、金翅鳥王あり。其身、極めて大、兩[やぶちゃん注:原文「西」。「選集」で訂した。]翅、相去ること六千餘里、常に海中に入つて、龍を取り食《くら》ふ。佛敎に八關齋を行ふ起りは、金翅鳥王、身長八千由旬、左右の翅各《おのおの》長さ四千由旬、大海、縱橫三百三十六萬里だ。所が、金翅鳥王、翅で水を切つて、其水、未だ合《あは》ぬ時に、龍を銜(くわ)へて、飛出《とびい》で、須彌山《しゆみせん》北の、大鐵樹、十六萬里高きにとまり、每度の例《ためし》通り、尾から食《くらは》とすれど、尾、見えず。訝《いぶ》かつて、日夜を經た。翌日、龍、尻ツ穗《しつぽ》を出し、金翅鳥に告げて、「我は化生《けしやう》龍だ、恒に八關齋を持するから、尻つ穗を見せず、汝に滅ぼされぬ。」と言つた。鳥王、「成程。」と悔悟し、龍に隨つて、其齋法を受け、殺生を止めたそうだ(「菩薩處胎經」四)。八關齋とは、每月八日、十四日、十五日に如來齋八禁戒法を授け、殺、盜、婬、妄言、綺語、飮酒、戯樂、非時食を禁じ、聖賢の八法を奉持するのだ。此の話から轉じて「今昔物語」に、阿修羅王が金翅鳥の子を食はんとするを、哀れんで、佛に訴ふると、佛、敎えて、人、死して、四十九日目に佛事を修し、僧に施こす飯を取つて、巢の有る山の角に置かしむると、阿修羅王、山を動かせども、動かず、鳥王の子、落ちず、無難に生立《おいた》つたと出し居《を》る。金翅鳥王が栖む大鐵樹、高さ十六萬里とは隨分ゑらい[やぶちゃん注:ママ。]。芳賀博士の『攷證今昔物語集』には、此一話の處に「菩薩處胎經」を引き居らぬ。全く予が始めて氣付いたのだ。
[やぶちゃん注:『「今昔物語」に、阿修羅王が金翅鳥の子を食はんとするを、……』ここでまず、南方熊楠が指している「今昔物語集」のそれは、巻第三の「金翅鳥子免修羅難語 第」(十:原書は話番号は欠字。)(金翅鳥(こんじてう)の子(こ)、修羅の難を免(まぬか)れる語(こと)第十)である。新字であるが、「やたがらすナビ」のこちらで、原話が電子されてある。但し、その前で熊楠が語っており、それが「金翅鳥子免修羅難語」から発展したものとする、「摩訶僧祇律」の金翅鳥王と龍の話は、まさに、この直前の巻第三の「龍子免金翅鳥難語 第」(九:同前。リンク先も同じ)であることを言わないのは、極めて不親切というか、頗る不完全と言うべきである。熊楠は第一発見者となった自分の発見を大樹の如く高々と自慢して言上げすることに有頂天になって、それで落としたものだろう。こういうところが、南方熊楠のちょっと厭な一面である。因みに、熊楠の指弾するのは、芳賀矢一編「攷証今昔物語集 上」のそれで、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。前のコマの前話も見られたい。]
其から、も一つ、漢の趙嘩の「吳越春秋」卷九に、越王勾踐大夫、種《いろいろ》の謀《はかりごと》を用い、吳王を驕《けうた》らしめんため、名山の神材を献じて、其建築を助け度《た》く思ふ内、一夜、天、神木を、二本、生じ、大きさ廿圍《めぐり》、長さ五十尋(四十丈)とは一夜出來《いちやでき》の親玉だ。
[やぶちゃん注:「吳越春秋」の原文は「中國哲學書電子化計劃」の影印本画像のここの後ろから四行目以降と、次のコマで視認出来る。]