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2023/10/15

南方閑話 大岡越前守子裁判の話 下 / 南方熊楠「南方閑話」・「南方隨筆」・「續南方隨筆」全オリジナル電子化注~完遂

[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。

 これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。

 本篇は「上」と「下」に分かれている。電子化注も「上」と「下」を分割する。

 また、読み易さを考え、一部の直接話法部分を改行した。

 なお、本篇を以って「南方閑話」は終わっている。これで、南方熊楠が生前に刊行した「南方閑話」(始動は二〇二〇年十一月二十九日)・「南方隨筆」・「續南方隨筆」の電子化注を三年足らずで終わることが出来た。数少ない読者の方からのエールを有難く思っている。以降は、熊楠の単発記事の内、私の食指が動くものを、ゆっくらと、マイ・ペースで進めたいと思っている。向後ともよろしくお願い申し上げるものである。【二〇二三年十月日藪野直史】]

 

 

    大岡越前守子裁判の話

 

        

 

 米國雜誌に、此譚の事を書いた人が有る由は、前記宮武氏の譯文を見て始めて知つた。然るに、予は、明治四十四年[やぶちゃん注:一九一一年。]三月と六月發行の『東京人類學會雜誌』へ、件の米人のよりは、多く、此譚の類話を揭げ置いたから、爰に暇潰しに古いやつを繰返す事とする。

 ソロモン裁判の話の歐州に於ける多くの類話及び佛本生譚(ジヤータカス)に出た譚は、一八八七年依丁堡《エジンバラ》及び龍動《ロンドン》出版、クラウストンの「俗譚及小說の移動及變化」一卷一六頁に列擧して有る。其から、此譚の最も古いのは、埃及のパピリ書に在ると聞いたが、其委細は、未だ承らぬ。

 クラウストンが擧げた佛本生譚は、ライス・ダヴヰヅ敎授の飜譯で、一八八〇年の出版だ。此本、只今、座右に無いが、多分、一九〇七年劍橋《ケンブリッジ》板、カウル及ラウズ[やぶちゃん注:「選集」では『カウエルおよびラウス』とある。]譯の「佛本生譚」卷六の一六三頁所載と同話で有らう。其文は、乃《すなは》ち、宮武氏が、件の米人の文を譯したのと、大抵、同一だが、たゞ、魔術師の代りに、鬼と有るだけが、異《かは》り居る。鬼が、人に化けて、人の子を爭ふ譚は、「今昔物語」二七卷二九語に、源雅通中將の二歲許りの子を、乳母が、抱いて遊ばせ居る處ろ、其兒、急に夥しく泣出《なきだ》したので、中將、大刀《たち》を提げて、走り行きて見れば、同じ形の乳母、二人が、中に、其兒を置いて、左右に、引張り爭ふのだつた。中將、

『定めて、其一人は、狐などで有らう。』

と思ひ、大刀を閃めかして、走り懸ると、一人は、消失した。兒も、乳母も、死んだ樣に臥し居るを、加持などさせて、起上つた。仔細を尋ぬるに、乳母が、若君を遊ばせ居る程に、奧の方《かた》より、知らぬ女房が、俄かに來て、

「是は、我子だ。」

と取りにかかる故、

「『奪はれじ。』と爭ふ處へ、殿が走りかかつたので、その女は奧へ往つた。」

と言《いつ》た。されば、人離れた處に、幼兒を遊ばす可らず。其女房は、狐が化けたか、物の靈か知れぬ、なんぞと、ある。芳賀博士の考證本に、此話の類話を、一つも、載せ居らぬが、須らく、件の佛本生譚を載せ添ふべしだ。

[やぶちゃん注:『「今昔物語」二七卷二九語』「今昔物語集」卷第二十七の「雅通中將家在同形乳母二人語第二十九」(雅通(まさみち)の中將の家(いへ)に同じ形(かたち)の乳母(めのと)二人在(あ)る語(こと)第二十九)である。今回は、ここで、電子化する。所持する小学館『日本古典全集』の「今昔物語集4」(昭和五四(一九七九)年第四版)を参考底本としつつ、カタカナをひらがなに直し、読みの一部を送りがなに出し、漢字の助詞・助動詞はひらがなとし、漢字を概ね、正字化して示す。

   *

 

 雅通の中將の家に同じ形の乳母二人在る語第二十九

 

 今は昔、源の雅通の中將と云ふ人、有りき。「丹波の中將」となむ云ひし。其の家は、四條よりは、南、室町よりは、西なり。

 彼(か)の中將、其の家に住みける時に、二歲許(ばか)りの兒(ちご)を、乳母、抱(いだ)きて、南面(みなみおもて)なりける所に、只獨り、離れ居(ゐ)て、兒を遊ばせける程に、俄かに、兒の愕(おび)ただしく泣きけるに、乳母も、喤(ののし)る音(こゑ)のしければ、中將は、北面(きたおもて)に居(ゐ)たりけるが、此れを聞きて、何事とも知らで、大刀(たち)を提げて、走り行きて見ければ、同じ形なる乳母、二人が、中に此の兒を置きて、左右の手足を取りて、引きしろふ[やぶちゃん注:引っ張り合っている。]。

 中將、奇異(あさましく)思ひて、吉(よ)く守れば[やぶちゃん注:しっかりと注視して見ると。]、共に、乳母の形にて有り。

 何(いづ)れか、實(まこと)の乳母ならむと云ふ事を、知らず。

 然れば、

『一人は、定めて、狐などにこそは有(あ)らめ。』

と思ひて、大刀を、ひらめかして、走り懸(かか)りける時に、一人の乳母、搔き消つ樣(やう)に失せにけり。

 其の時に、兒も、乳母も、死にたる樣にて、臥したりければ、中將、人共(ひとども)を呼びて、驗(しるし)有る僧など、呼ばせて、加持(かぢ)せさせなどしければ、暫し許(ばか)り有りて、乳母、例(れい)の心地に成りて、起き上がたりけるに、中將、

「何(いか)なるつる事ぞ。」

と問ひければ、乳母の云はく、

「若君を遊ばかし奉つる程に、奧の方(かた)より、知らぬ女房の、俄かに、出で來て、

『此れは我が子なり。』

と云ひて、奪(ば)ひ取りつれば、

『奪はれじ。』

と、引きしろひつるに、殿の御(おは)しまして、大刀をひらめかして、走り懸(かか)らせ給ひつる時になむ、若君も打ち棄(す)て、其の女房、奧樣(おくざま)へ罷(まか)りつる。」

と云ひければ、中將、極(いみ)じく、恐れけり。

 然(しか)れば、

「人(ひと)離れたらむ所には、幼き兒共(ちごども)を遊ばすまじき事なり。」

となむ、人、云ひける。

 狐の□□たりけるにや。亦、物の靈(りやう)にや有りけむ。知る事、無くて、止みにけり、となむ語り傳へたるとや。

   *

「□□」は欠字。小学館版の頭注には、『「スカシ」あるいは「バケ」の漢字表記を期した意識的欠字か』とある。源雅通(元永元(一一一八)年~承安五(一一七五)年)は平安後期の公卿で、源顕通の子。叔父源雅定の養子となった。久安六(一一五〇)年、参議。正二位に進み、内大臣となった。「久我(こが)内大臣」と呼ばれた。]

 

 件の佛本生譚は、本邦、現在、「一切經」中に見えない樣《やう》だ。其代りに、同樣の譚乍ら、鬼の代りに、女人が有つて、殆んど、ソロモンの話と異《かは》らぬ物が有る。「賢愚因緣經」、卷十一、「檀膩䩭品《だんにきぼん》」が其れだ。其文は、『時に檀膩䩭云々』、『王の前にあつて、二母人、共に、一兒を諍《あらそ》ふを見る。王に詣《いた》つて、相言《あひい》ふ。時に、王――名は端正――、明𭶑《めいかつ》にして、知を以て權計《けんけい》[やぶちゃん注:謀りごと。]し、二母人に語る。「今、唯だ、一兒。二母、之を召す。汝、二人に、各《おのおの》、一手を挽《ひ》くを聽《ゆる》す。誰《たれ》か、よく、得る者ぞ。卽ち、是れ、其子たり。」と。其母に非《あらざ》る者は、兒に於て、慈、無く、力を盡して、頓《とみ》に牽き、傷損を恐れず。所生の母は、兒に於て、慈、深く、隨從愛護し、抴挽《えいばん》[やぶちゃん注:引っ張ること。]に忍びず。王、眞僞を監し、力を出《いだ》す者に、語る。「實《まこと》は、汝が子に非ず。强いて他の兒を謀る。今、王の前に於て、汝の事實を言へ。」と。卽ち、王に向つて、「我れ、審《あき》らかに、虛妄、名を他兒に枉《ま》ぐと首《まう》す。大王聰聖、幸ひに虛過を恕《じよ》し、兒、其母に還り、各爾《かくじ》、放ち去らしむ。」というので、米人の引《ひい》たのより、此經文の方が、ずつと、ソロモンの裁判に近い。

[やぶちゃん注:「檀膩䩭」この話ではないが、「no+e」にある釈昶空(ねこにゃん)氏の「賢愚経巻十一 壇膩䩭品第四十六」の訳が載る。それによれば、「檀膩䩭」はもとは貧しいバラモンであったらしく、こちらの中文サイトの記載によれば、後に富裕となり、また、彼は、仏教の「賓頭盧(びんずる)」となったようである。]

 「改定史籍集覽」に收めた「左大史小槻季繼記」に、『大政大臣實基公(嘉祿元年[やぶちゃん注:一二二五年。実質の治世者は執権北条泰時。]十一月十日補せらる)檢非違使別當の時、八歲の男子を、二人の女、面々に我子の由を稱しける間《あひ》だ、法曹輩[やぶちゃん注:底本は「法曹輝」。「選集」で訂した。]、計《はかり》申して云《いは》く、

「法の意旨に任せ、三人が血を出《いだ》して、流水に流す時、眞實の骨肉の血、末にて、一つに成り、他人の血氣は、末にて、別也。此《かく》の如く沙汰すべき。」

の由、計り申す處《とこ》ろ、大理云く、

「八歲の者、血を出だすべきの條、尤も不便《ふびん》の事也。今度《このたび》、沙汰の時、彼《かの》三人並びに諸官等、參るべき。」

の由、仰せられて、其日、遂に雌雄を決せられず。後《の》ち、沙汰の日、彼三人、諸官等、參ぜしむるの時、數刻《すこく》の後ち、大理、出座し、仰せられて云く、

「件の女性、兩人して、此男子を引いて、引き取らむを、母と申すべき。」

由、計られける時、二人して、此子を引《ひき》けるに、引《ひか》れて損ぜんとする時に[やぶちゃん注:底本は「は」。「選集」を採用した。]、一人の女は、放ち、今一人は、只、引勝《ひきかたん》んとす。此《かく》の如くする事、度々《たぴたぴ》、其時、大理云く、「放つる女は實母也[やぶちゃん注:底本は「母」。「選集」を採用した。]。勞はるに由《より》て此の如く放つ者也。今一人は、勞はる心無く、只、勝《かた》んと思ふ心計《ばか》りにて引く也」云々。「相違無く、放つる女は母也。當座引《かる》るは荒《やぶ》るには[やぶちゃん注:底本「荒ふは」。「選集」を採用した。]似たれども、思慮の深き所也。實基公は法曹に達する人なり。」と記す。

[やぶちゃん注:「大政大臣實基公」徳大寺実基(建仁元(一二〇一)年~文永一〇(一二七三)年)は従一位太政大臣。彼は嘉禄元(一二二五)年十一月に左衛門督を兼ねて、検非違使別当に補され、安貞元(一二二七)年一月、父公継の薨去により喪に服し、左衛門督と検非違使別当を辞している。事実とすれば、その間のこととなる。]

 一九一九年四月五日、ファーネル氏が英國アカデミーで論じた如く、世界古今、同一の事が、幾度も幾度も繰り返さるゝ例、最も多ければ、こんな話が必ずしも、唯一ケ處から始まつたと斷ずる事も成るまじ。然し、本文に「實基公は法曹に達する人也」とあるを見ると、其頃の法曹書に、『二婦が一子を爭ふ時は、斯樣《かやう》にして裁決すべし。』という祕訣を載せて有つたらしく、昔は「子寶」と稱ふる程、子を有價の財產として色々融通した者故、子を爭ふ訟へは、甚だ頻繁、隨つて、こんな騷ぎは、每度有つたに付いて、其裁判の心得書も、祕訣として傳はり居《をつ》たと見える。

 去れば、「古事類苑」法律部第一册、一一七三頁に、件の「季繼記」の文を引いた次に、「風俗通」を引いて、『前漢の潁川の太守黃霸、本郡に、富室、有つて、兄弟、同居す。弟婦懷姙し、其長姒《あによめ[やぶちゃん注:二字で。]》、亦、懷姙し、胎傷して、之を匿す。弟婦、男を生み、長姒、輙《すなは》ち、奪ひ取《とり》て、以て、己れが子と爲す。論爭、三年にして、霸《はたがしら》に附す。霸、人をして兒《ちご》を庭中に抱かしめ、乃《すなは》ち娣《おとうとよめ》、姒《あによめ》をして、競ふて、之を取らしむ。既にして俱に至り、姒、之を捋《ひ》くこと[やぶちゃん注:「捋」は底本では「埒」。「選集」で訂した。]、甚だ猛し。弟婦、手に傷つく有らんと恐れ、而して、情、甚だ棲慘たり。霸、乃ち、長姒を叱して曰く、「汝、家財を貪り、此子を得んと欲す。寧《いづくん》ぞ頓《とみ》に傷つくるところあるを、慮《おもんぱ》かり意《おも》はんや。此事、審《あきら》かなり。」と。姒、罪に伏す。』と有る。前漢の頃、「舊約全書」や佛經は、未だ、漢土に傳はり居《を》らなんだから、黃霸は、自分獨得の智惠で、此裁判をやつたものか。もし印度やジユデアの古話を心得ておつてやつたものとすれば、其は、種々の邦土を經て、漸々、傳はり居《をつ》た俚談に由つたもので、決して、譯文・譯書に依らなかつた事、勿論だ。

[やぶちゃん注:「古事類苑」の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの第十九冊(神宮司庁編・昭和二(一九二七)年古事類苑刊行会刊)のここで、正規表現の全文(左ページ三行目以降)で視認出来る。但し、引用の原本は確かに「風俗通」であるが、引用自体は「棠陰比事」からの孫引きである。

「黃霸」当該ウィキがあるので参照されたい。]

 

 ソロモン裁判の譚よりも「季繼記」の方によく似たのが、アラビヤに行はれた。一八九四年板、バートンの「千一夜補遺」十一卷五一―五三頁に云く、『一人、兩妻を持ち、同時に同室で同一の產婆に助けられて分娩し、一妻の生んだ男兒は活き、他の妾《せふ》が生んだ女兒は卽時に死んだ。生存する一男兒を、二妻が爭ふて、方付《かたつ》かず、賢相に訴ふ。賢相、二婦の乳汁を、卵の空殼《あきがら》に盛り、秤《はか》り比べて、汁の重い方を、男兒の母と斷定したが、一妻、承知せず、喧嘩、已《や》まないから、賢相、

「今は、其兒を二つに割《さ》いて、各々に一半を與へる事と定める。」

と。汁、重かつた女は、

「最早、爭ひを已めるから、其子を他の女に與えてほしい。」

といふに、汁輕かつた女は、平氣で、

「いかにも。半分貰うから、その子を割いてくれ。」

といふ。賢相、

「これ、自分が產まない證據。」

と斷じて、汁輕かつた女を、絞刑に處し、重かつた女に、その兒を與えた。』と。

 此類の話から巧みに轉化したらしいのは、西鶴の「本朝櫻陰比事」一「孖(ふたご)は他人の始《はじま》り」の條で、京の大きな賣藥舖の主人、死して、三十五日内に、其妻、双生兒を產み、何《いづ》れも十三に成つた歲、母、頓死す。二人の乳母、各々、其守り立てた子を、

「相續人とせん。」

と訴訟して、已まず。判官、命じて、持佛堂の佛を取來《とりきた》らしめ、財產を兩分する手始めに、先づ、乳母二人の手で、その佛を眞二つに割いて後、復た、來らしむると、

「何んぼなんでも、佛を半分とは、出來兼《かね》る。」

と、二人とも、閉口したので、後に產まれた子を相續人、先に產れた子を、分家と立《たて》て落着した、とある。(四月十三日午後三時)

(大正十二年六月『土の鈴』一九輯)

[やぶちゃん注:最後の記載日時と、初出書誌記載は「選集」で補った。]

 

 一九一八年龍動《ロンドン》出板、サー・ジエームス・フレザーの「舊約全書俚俗學」一一章は、ソロモソの子裁判を論じたもので、フレザーの博綜に相應せず、短かく、二頁足らずで濟ませて居《を》る。其大要は、「此《この》ソロモンの話が勝敎(ジヤイン敎)の浩瀚な古傳典籍に入り居り、近頃、此ソロモンの話の印度傳說、四つまでも、歐人が見出した。何れも相似て居り、又、ヘブリウの本話にも似て居るから、其一つを擧げれば澤山だ。」と前置きして云く、「商人あつて、二妻をもつ。一妻は一男兒を擧げたが、他の一妻は、子、無し。然るに、子無き妻、亦、他の妻の子をよく扱うの餘り、其子、遂に、何れを本當の母と知らなくなつた。其商人、二妻と一男兒を伴ひて、他國に行き、其國に到ると、忽ち、死んだ。そこで、二妻、その男兒を爭ひ、孰れも、

「これは、わが子だ。」

と言ひ罵《ののし》る。又、

「吾こそ、主婦なれ。」

「我身こそ、主婦なれ。」

と論じて、果《はた》さず、終《つひ》に、國王の判廷へ訴へた。裁判官、廼《すなは》ち、役人を呼び、

「先づ、其商人の所有物を、二つに平分し、次に、鋸《のこぎり》で、其兒を、二つに挽《ひ》き割り、二人の妻女に、分け與えよ。」

と命じた。眞《まこと》にその兒を產んだ女、これを聞いて、霹靂一千の猛火《みやうか》に包まれて、頭上に落ち、鉤槍《かぎやり》[やぶちゃん注:槍の柄の穂に近いところに、柄と十文字になるように鉄の鉤をつけたもの。敵の槍をからみ落とすのに用いる。]で貫《つらぬ》かれた程、心臟、動悸して、口から出かねる言葉を發し、

「御役人樣に申し上げます。其子は私のでは、ござりません。私は金錢は入りません。どうぞ、あの女を主婦として、其子の母と認め下されませ。いかな穢《きた》ない家に住み、どんな貧乏を仕續けたつて、私はさらに構い[やぶちゃん注:ママ。]ません、せめて遠くからなりと、其子の無事な樣子さへ眺めたら、一生の本望が叶ひます。其子が殺されては、今から私も死んだ同然にござります。」

と言つた。之に反して、今一人の女は、何にも言わず。判官、啼き悲しむ女を指し、

「此兒は、彼女の子に極《きは》まつた。今一人の女の子でない。」

と判決し、其兒の眞の母を、

「其家の主母。」

と定め、今一人の女を呵《しか》りつけた。』と。是は、一九一三年の『インヂアン・アンチクワリー』に伊人テツシトリ氏が出したもので、勝敎のラジヤセクハラが述べた「アンタラカターサムグラハ」から譯した。この書は、西曆十四世紀のものらしいとあるから、嚮《さ》きに予が引いた元魏の沙門慧覺が譯した「賢愚因緣經」の話の方が、九百年程、早い。

(大正十三年八月『日本土俗資料』四輯)

[やぶちゃん注:最後の初出記載は「選集」にあるものを添えた。

 なお、以下に奥附があるが、リンクに留め、電子化はしない。

 最後に。この「大岡越前守子裁判の話」は、私は「南方閑話」の中でも、極めて面白く読んだ。しかも、私が敢えて直接話法をかく改行して示したことからも判る通り、南方熊楠にしては、ブイブイの勝ち挙げ型の諸論文の様相が、全くないのも、非常な特異点である。私は密かに、『南方熊楠先生、珍しく、ガッチガチの倨傲的論文ではなく、「一つ、小説仕立てでやってみるか。」と目論んで、この文を書いたに違いない。』と思ったのであった。では、皆さん、――「隨分、ご機嫌やう!」――]

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