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2023/10/17

フライング単発 甲子夜話卷之十四 7 飯沼弘敎寺の古駕籠 / 21 弘敎寺の古駕の一說幷東丸殿

フライング単発 甲子夜話卷之十四 7 飯沼弘敎寺の古駕籠 / 21 弘敎寺の古駕の一說東丸殿

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。宵曲は一つの話の中を省略して紹介しているが、実際には、同じ巻の記事ながら、全く二つに独立して書かれたもの(後者は確かに続篇ではあるが、並んではいない。但し、後者はごっそりカットがある)を一つの話のように梗概しているのであった。ここでは、それをカップリングして示す。後者の標題中の「」は目録では、上記の通り、右附きで、小さい。]

 

60-7

 下總の飯沼弘敎寺に、以前より𨥾打[やぶちゃん注:ママ。恐らくは「鋲打」の誤記であろう。]の駕籠を寺堂に釣りて有り。

 住持の代替りには、必ず、この駕籠の下に詣(まゐ)りて、拜を爲す。拜せざれば、祟ありと。

 この輿中には「東の丸殿」と申せし方の遺靈ありとぞ。

 又、或は、

「婦人の形、時に現ぜり。」

とも云(いふ)。

 弘敎寺、僧の話を、正しく傳聞せり【「東丸殿」と云は何人(なんぴと)なるや。定(さだめ)し婦人なるべし。「以貴小傳」・「柳營婦女傳」等にもこの稱ある方を見ず。後考を埃のみ。】

■やぶちゃんの呟き

「飯沼弘敎寺」旧下総内には「弘経寺」は複数ある(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)が、ここに述べるそれは、現在の茨城県常総市豊岡町にある浄土宗大本山増上寺別院の寿亀山天樹院弘経寺と思われる。公式サイトには、『関東浄土宗の中心寺院として栄え、多くの学僧を世に送った有力寺院でありました。ところが天正5年(1577年)壇越常陸下妻城主多賀谷氏と小田原北條氏の合戦に巻き込まれ多賀谷氏が弘経寺に陣を張ったために、戦火で堂宇を焼かれましたが、第九世壇誉存把上人は下妻に逃れ、後に結城に秀康の帰依を得て結城に弘経寺を再建しました』。『そのため弘経寺は寺院活動の停止を余儀なくされましたが、第十世照誉了学上人の代に寺院再興の時期を迎えます。上人は、徳川三代(家康・秀忠・家光)から帰依、厚遇され特に家康公の孫にあたる千姫は上人に帰依し、弘経寺を菩提所を定め、再建に多大な寄進をしました。そのため、江戸時代には紫衣壇林として十八壇林の中でも上位に置かれる寺院になりました』。『惜しくも千姫の御殿を移築した壮麗な大方丈は明治39年(1906年)に灰燼に帰しますが、天樹院殿御廟(千姫の墓所)や遺品、そしてゆかりの品々は、往時の風格を現代に伝えています』とあり、本話柄と一致するからである。

「東の丸殿」天樹院千姫の別称。次の話を参照されたい。

「以貴小傳」初代徳川家康から第十代家治に至るまでの徳川歴代将軍の生母・側室の略伝を記した伝記。

「柳營婦女傳」「柳營婦女傳系』(りゅうえいふじょでんけい)であろう。十八世紀に成立した、将軍の正室・側室や乳母など、徳川将軍家に関わった女性の逸話や系図を載せた書。

 

   *

 

60-12

 前に飯沼弘敎寺古駕籠のことを記す。後、等潤和尙【永昌寺】に聞くに、是は彼(かの)寺の臺所に釣りてあり。住持の拜するにはあらで、この駕籠を見ることを爲さず。昔より見れば、その住持、必ず、遵化す。因(よつ)て、入院のとき、又は、年に一度、庫裡下(くりさが)りして、韋駄天拜禮のときなど、傍人これを見せざるように爲るとぞ。

 前說と異なり。

 又、「東丸殿」と云(いふ)は、台廟[やぶちゃん注:徳川秀忠。]の姬君[やぶちゃん注:長女千姫。豊臣秀頼室、後、本多忠刻室(ただとき)。]、秀賴に嫁せられ、大阪城、陷(おつる)の後、「天樹院殿」と申(まふし)て「東の丸」に坐(ま)しければ、世に「東丸殿」と稱し申き。

 弘敎寺は、卽(すなはち)、東丸殿の御菩提所とぞ。

[やぶちゃん注:以下最後までの長文は底本では全体が一字下げのベタであるが、引き上げた。その代り、前後を一行空けた。]

 

「柳營婦女傳」云(いはく)、

『大坂落城の時、朱三矢倉(すみやぐら)の𩝳藏[やぶちゃん注:「𩝳藏」の「𩝳」は「乾飯・ほしいい」ではあるので、本来は、それを納めたところか。底本の変者はママ注記を附すだけで、何も解字していない。]二間に五間の所を、三つに仕切(しきり)、兩方に秀賴公と淀殿、天樹院殿とを、分(わか)ち置(おき)、中の仕切に、女中を籠置(こめおく)。この時、淀殿は、天樹院殿の御振袖を、自ら、膝の下に敷居(しきをり)、質(しち)に取り給ふ心にて、少も離さず御坐(おは)す處を、刑部卿(ぎやうぶきやう)の局(つぼね)、才覺にて、女中の内より、只今、「秀賴卿生害」の樣に、「秀賴」の名を呼(よば)らせしかば、淀殿、驚き周章(あは)て、天樹院殿を、ふと、離し、秀賴の方へ懸入(かけい)らる。其間に、刑部鄕、御側女中(おんそばぢよちゆう)、僅(わづか)に三人計(ばかり)にて、此場を御立退き成され、岡山の御陣所へ遁入(にげい)り給ふ。』

と。

 「以貴小傳」云はく、

『台廟[やぶちゃん注:徳川秀忠。]の御台所は、贈中納言藤原長政卿【淺井備前守のことなり。】の御女にて、御諱(いみな)は達子(たつし)と申す。御母は信長公の妹なり。然(しかる)を、長政、信長の爲に亡びて、後、再び、柴田修理亮(しゆりのすけ)勝家に嫁(か)す。姬君、因(よつ)て、勝家の邑(いう)に到れるとき、勝家、自殺す。この時、勝家、姬君三方を、輿(こし)二つに召させて、女房達も、殘らず添(そへ)て、城より出(いだ)し給ひしかば、敵の兵どもの中を、明(あけ)て[やぶちゃん注:平然と、或いは、開けさせて。]通しけり。其後(そののち)、姉君は、太閤秀吉の思ひものとなり給ひ、「淀殿」と申せしは、是也。次は、京極の宰相高次の室となりて、後に「常光院殿」と申せしは、是也。御末(おんすゑ)は「御台所」にて坐(ま)します。太閤、いつきかしづき參らせて、文祿四年[やぶちゃん注:一五九五年。]の九月、御所(ごしよ)に配(はい)はせ參らす。後に「大御台所」と申奉る【崇源院殿[やぶちゃん注:浅井長政とお市の方の三女で、最後に秀忠の妻となって家光を生んだ「江(ごう)」のこと。]なり。增上寺に葬(はふり)奉る。】。大猷院[やぶちゃん注:家光。]、御所を始め奉りて、若君、姬君、あまた、設けさせ給へり。然れば、天樹院殿[やぶちゃん注:千姫。]は、この姬君の中ならんか。』。

■やぶちゃんの呟き

「永昌寺」関東には、夥しく同名の寺があるので、これでは特定出来ない。

「韋駄天」現在の弘経寺には韋駄天像はない模様である。

「弘敎寺は、卽、東丸殿の御菩提所とぞ」ウィキの「千姫」によれば、千姫天樹院は寛文六(一六六六)年二月六日、『江戸で死去。享年』七十。『死因は肺炎と見られる』。『亡くなった夜、曾祖母・於大の方の菩提寺である小石川伝通院』(でんづういん)『に納められ、導師・知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。墓所は伝通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の総本山である京都の知恩院に、定例により分骨され宝塔に納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため、伊勢に寂照寺を開いた。戒名は「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」』。『長らく遺髪のみ納められたと言い伝えがあった天樹院弘経寺の墓所では』、『近年、千姫の頭蓋骨や高価な宝飾品が確認されていることから』、『伝通院のほうこそが遺髪のみ、あるいは分骨である可能性が示唆される。幕府からの寄付を目的に貴人の墓石だけ置かれる事自体は珍しい事ではなく』、『伝通院に本当に遺骨が実在するかどうか』、『少なくとも記録には無い。そもそも千姫単独で弔われているのは』、『茨城の弘経寺だけであること、鬼怒川を上っていくと』、『日光東照宮があることからも本当の墓は弘経寺だと考えるのが妥当である』。「明暦の大火」からの『復興に明け暮れた晩年の千姫にとって』、『風光明媚な常陸国は』、『夢にまで見た安楽の都だった。甥で養子の徳川綱重が』、『母の弔いにと』、『自ら天樹院弘経寺へと足を運んでいることからも』、『常陸国が徳川家にいかに重要視されていたかがわかる』とある。

「刑部卿の局」(生没年不詳)は、安土桃山から江戸初期の女性で、千姫の侍女であった。乳母ともされる。「大坂の陣」に於ける千姫の大坂城脱出に従い、その後も、長らく、老女として千姫に仕えた。参照した当該ウィキによれば、『江戸時代における「縁切寺」の一つとして知られる満徳寺(現在の群馬県太田市徳川町)の寺伝によれば、刑部卿局は俊澄尼を称して同寺の住職を務めたという』とあった。

「天樹院殿は、この姬君の中ならんか」家光の側室自証院「お振の方」の産んだ家光の長女に千代姫(尾張藩主徳川光友正室)がいるが、どうも、この表現、ちょっとおかしい気はする。

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