南方閑話 大岡越前守子裁判の話 上
[やぶちゃん注:「南方閑話」は大正一五(一九二六)年二月に坂本書店から刊行された。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した(リンクは表紙。猿二匹を草本の中に描いた白抜きの版画様イラスト。本登録をしないと見られない)。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方閑話 南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)その他(必要な場合は参考対象を必ず示す)で校合した。
これより後に出た「南方隨筆」「續南方隨筆」の先行電子化では、南方熊楠の表記法に、さんざん、苦しめられた(特に読みの送り仮名として出すべき部分がない点、ダラダラと改行せずに記す点、句点が少なく、読点も不足していて甚だ読み難い等々)。されば、そこで行った《 》で私が推定の読みを歴史的仮名遣で添えることは勿論、句読点や記号も変更・追加し、書名は「 」で括り、時には、引用や直接話法とはっきり判る部分に「 」・『 』を附すこととし、「選集」を参考にしつつ、改行も入れることとする(そうしないと、私の注がずっと後になってしまい、注を必要とされる読者には非常に不便だからである)。踊り字「〱」「〲」は私にはおぞましいものにしか見えない(私は六十六になる今まで、この記号を自分で書いたことは一度もない)ので正字化する。また、漢文脈の箇所では、後に〔 〕で推定訓読を示す。
本篇は「上」と「下」に分かれている。電子化注も「上」と「下」を分割する。
また、読み易さを考え、一部の直接話法部分を改行した。
なお、本篇を以って「南方閑話」は終わっている。]
大岡越前守子裁判の話
上
子供のとき、大岡越前守の裁斷を面白く書きたてた小本を讀んだ事がある。書名は忘れたが、明治二十五年[やぶちゃん注:一八九二年。]前後の刊行物であつたよう記臆する。其中に子裁判の咄が出て、一人の子供を、左右から、女が、引張凧《ひつぱりだこ》にする插繪がつき、筋書は、さる女、子供を里子にやつたが、後、是を取り返そうとすると、先方では、
「此子は、里子で預つてゐるのじや[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]ない。わしの子じや。」
と刎《は》ねつけたので、爭ひとなり、大岡に持出《もちだ》すと、越前、
「子は愛情の在る方になつくものなれば、双方より、手を引つ張つてみよ。旨く連れ歸られた方が、眞《まこと》の母じや。」
と言《いつ》たので、兩女、立上がり、左右より、子の手を引《ひい》たが、子供は、其痛さで、
「ワツ。」
と泣いたので、一方は、直ぐ手を離すと、他の女は、得意氣に、其子を連れ歸らうとした。その時、越前、呼び止めて言ふやう、
「眞の母は、そなたではあるまい。其故なんとならば、子供を引摺《ひきず》るとき、引《ひ》かるゝ者の痛さを思へば、手離すこそ、母子の情ではないか。」
と、見事に鑑識裁決した、と言ふのである。此噺は、何時頃から唱え[やぶちゃん注:ママ。]出されたものか知らないが、察するに、講談師などの手輩《てあい》が、新機軸に編み出したものなるべく、種《たね》は外國物なるに、旨く、大岡越前に結付《むすびつけ》たところに、非凡の腕前があると、私は、興味津津に感じてゐるのである。
大正十年[やぶちゃん注:一九二一年。]十月の米國雜誌『エジア』誌上にダブリユー・ノルマン・ブラウンと曰ふ人が、「亞米利加黑人の傳說中に現るゝ印度物語」という標題で、一つの物語が出てゐる。東方の一寒村に生れ、海越え、山越え、諸國にさすらへつゝ、あふ人々に感動を與へつゝ、行脚するを述べて、『民間傳說の此種の如《や》うに、美しい旅行位《ぐらゐ》、人を魅する題材はない』と言ひ、『何人《なんぴと》が、其本國から……たとへば、東洋から西洋に傳へたか……又、どう云ふ機會で、是を持參したものか、どんなに我々は知りたいと思ふてゐるかしれない』とて、前述の大岡越前守の子裁判の種となるべき、ソロモンが、ひとりの子を、「わが子なり。」と、互に主張する二人に對し、下した裁定を擧げ、『此咄は、希臘聖典にも古くより見えてゐるが、佛典にも同樣、古く出て居《ゐ》る』とて……『さる女、子供を水槽《タンク》の傍《かたはら》に放《ほ》つけなしにせしを、魔術師《ウヰツチ》が見て、其やはらかさうな人肉が喰ひたくなり、
「人間の姿に化《な》りて、子守をしてみたい。」
と母親に言ひ近づきつつ、矢庭に、その子を攫浚《とりさ》らうとしたので、母親は吃驚して、飛來《とびきた》り、
「オノレは、どこへ、俺の子を拉《つ》れ行かうとするか。」
と詰《なぢ》ると、魔術使、
「『コレが汝《おま》への子じや』と、よくも言へたの。わしの子じやないか。」
と逆捻《ぎやくね》じ喰《くら》はしたので、大悶着となり、遂に、二人は、未來の佛陀たるべき大菩薩の前に、曲事《くせごと》[やぶちゃん注:この場合は、「違法行為をした者を処罰すること」を求めたことを言う。]に及んだ。そこで、大菩薩、爭議を聽《きき》たる後、床上《ゆかうへ》に線をひき、其上に小兒を置かしめ、ひとりの女に、子の腕を、他の女に、脚を握らしめ、號令一下、
「双方より、引つ張れ。いづれなりとも、線内にひき入れた方、『我子《わがこ》』とすべきなり。」
と宣した。然るに、眞《まこと》の母親たるべき女は、子供の痛さに、氣を惱め、手を放したので、菩薩、周圍の人に訊ねて言ふよう[やぶちゃん注:ママ。]、
「子を慈しむ者は、其の母親なりや、又は、以外の人なりや。」
と、きゝしに、いづれも、
「それは母親なり。」
と答《こたへ》しかば、
「さらば、今、子を手にする者、母親にや。それとも、手放《てばな》してゐる者、母親にや。」
と、重ねて、質問せしに、皆、
「後者、母親なり。」
と明答した、と言ふを揭《かか》げ、『この話は、希臘飜譯の傳承か、ソレとも、此方が本家本元で、希臘の方へ傳へたものか、或は、種は別途に在るものか、誰も明言出來ない。』と語り、『其[やぶちゃん注:底本は「其」の異体字「丌」の(あし)部分を左右に貫いた一画が入った字。読めないので、かく、した。]は、南方亞拉比亞、又は亞弗利加西北部の一交易地で在つたオフアイアから、象牙や猿猴、孔雀などが到來したソロモン時代以降、印度とメソポタミアとの間には、絕えず、海陸とも交通が在《あつ》て、印度から傳來したと思はるゝ言葉が、希臘の敎典にもあらはれ、此時代を遡つては、例のソロモンの裁決の如き咄は、兩國ともに、傳《つたはつ》てゐないからじやと云ひ、其他。ヘドロダス[やぶちゃん注:「選集」は『ヘロドダス』。ヘロドトスのことであろう。]の物語に、インタフレルネスの妻が、夫と息子とよりも、おのれが兄弟の助命を欲した咄の如きも、印度物語にあり(宮武曰ふ、ケンブリツチ大學出版、エイチ・チ・フランシス並《ならび》にイ・ゼ・トーマス撰 Jatka Tales 七〇―七一頁 The Value of Brother 參照のこと)。是などは、アレキサンダ東征時代、インダス河を渡りて、傳來したものだらう。』と曰ひ、最後に、『遠く離れて、亜米利加黑人の傳說中にも、六十種以上は、印度物語に似寄《により》のもの、ある事、並に、バスコダガマが、一四九四年、印度初航のとき、東部亞弗利加に寄航した事など、此兩國にも交通のあつた』事を、色々、面白く書きたてゝゐる。そして、ブラウン氏は、『口碑傳說が、それからそれへと分布する徑路は、實に面白い問題だが、扨て、『其の起原は。』と言ふと、誰も[やぶちゃん注:この「誰も」は、底本には、ない。「選集」で補った。]返事の出來ないのが、亦、一段、興趣がある。』とて 、“ Fascinating questions these, and all the more fascinating because unanswerable! ”と言つてゐる。
[やぶちゃん注:一部のカタカナの読みは、「選集」を参考にした。
“ Fascinating questions these, and all the more fascinating because unanswerable! ”(コーテション・マークは私が附した)は「これらは、興味深い質問であるが、答えられないからこそ、さらに興味深いのである!」の意。]
咄の筋は、多少、異《ちが》ふが、文祿舊譯「伊曾保《いそぽ》物語」附錄で、新村《しんむら》博士も、『希臘の智者アイソーホスの作と假託され、プラヌーデースの撰といはれる伊曾保傳も、やはり新希臘から傳はつたもの、共に希臘の多島海から起つた波が、地中海を出て、喜望峰を回り、印度洋から支那海へと八重の潮路を辿り來つて、我が天草の洋に打ち寄せた藻屑である』。……『此物語の由來感興を惹かぬことはあるまい。』と結んでゐられるが、實際、我等にとりては、是位、fascinating subject はない。乃《すなは》ち、前記、子裁判の如き、我國にては、何時頃より、となへ出でられしものか、未だ、取調《とりしらべ》の遑《いとま》なきも、種《たね》は外國物なるに、外國ものとはせず、さながら、本國自生のものとして、或は名判官《めいはんぐわん》大岡に結付《むすびつけ》られ、「里子」などゝ、旨く、仕組《しくま》れてゐるところに、言ふ可からざる妙味が在《あつ》て、假に、是を、講談師の案出とするも、流石は、噺專門だけに、其機敏なるに、感服せらるゝと同時に、饒舌なる彼等の談片中にも、硏究題材のひそむ事、在るに、ロ-マンスを感ぜらるゝのである。(以上、宮武省三記)
[やぶちゃん注:新村出先生のそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該に当たって、(ここと、ここと、ここ)厳密に写した(以上の宮武氏の引用には、読点の脱落があるので、忠実に復元しておいた。
「宮武省三」(明治一五(一八八二)年~昭和三九(一九六四)年)は高松市出身。サイト「南方熊楠を知る事典」の中瀬喜陽氏の執筆パート(私は「南方熊楠を知る事典」の初版を所持している)によれば、『早稲田大学卒業後、大阪商船会社に勤め、支店長、東洋部次長を経て定年退職した。民俗学に関心が深く』、「讃州高松叢誌」・「習俗雑記」・「九州路の祭儀と民族」などの著書がある。『笠井清によれば、宮武はかねがね熊楠に私淑していたが、大正十二(一九二三)年十二月に質問の書簡を送ったのが最初で、昭和十六年、つまり熊楠の最晩年まで三百四十余通の書信の往復があり、熊楠の求めに応じて宮武は九州方面の粘菌や淡水藻などを採集して、研究に協力したという。笠井の編になる』、「南方熊楠書簡抄――宮武省三宛」(吉川弘文館・一九八八年)、「南方熊楠外伝」(吉川弘文館・一九八六年)中の「民俗学の“高弟”」に、『その交流の詳細が述べられている。ちなみに宮武は笠井の叔父(父の弟)に当たり、笠井もまた叔父を通して熊楠の知遇を得たという』とある。宮武省三はパブリック・ドメインである。]
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