甲子夜話卷之七 28 綿甲の直話 / 甲子夜話卷之七~了
[やぶちゃん注:標題は静山のルビで「ワタヨロヒ」とある。漢文部は後に推定訓読文を〔 〕で添えた。なお、これまでの、フライング単発で、読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、それをルーティンにも採用することとする。
なお、本篇を以って「卷之七」は終わっている。]
7―28
「洴澼百金方」と云(いふ)書に【これは兵書にして、淸乾隆六十年頃の書なり。五册ほどありて、無版寫行(しやかう)のものと云。】、「綿甲(ワタヨロヒ)の制」を出(いだ)すと聞く。曰(いはく)、
『以テ二綿花七斤ヲ一、用テㇾ布ヲ盛リ如クシ二夾襖ノ一、相線逐ヒㇾ行ヲ、橫直ニ縫緊シ、入テㇾ水ニ浸透シ、取テ鋪キㇾ地ニ、用テㇾ脚ヲ踹ム。寔ニ以ㇾ不ルヲ二※脹セ一爲シㇾ度ト[やぶちゃん注:「※」=「月」+「半」。]、晒乾シテ收用ス。見テㇾ雨ヲ不ズㇾ重カラ。黴黰シテ不ズㇾ爛レ。鳥銃モ不ズㇾ能二大ニ傷クコト一。』〔綿花七斤を以つて、布を用ひて盛り、夾襖(はさみぶすま)のごとくし、相線(あひせん)、行くを逐(お)ひ、橫(よこ)、直(ただ)ちに縫緊(はうきん)し、水に入れて、浸透し、取りて地に鋪(し)き、脚(あし)を用ひて踹(ふ)む。寔(まこと)に、※脹(はんちやう?)せざるを以つて[やぶちゃん注:「※」=「月」+「半」。]、度(たびたび)と爲(な)し、晒乾(さらしほ)して收用す。雨を見て(も)重からず。黴黰(ばいしん)して[やぶちゃん注:黒ずんで。]、爛(ただ)れず。鳥銃(てつぱう)(に)も、大(おほき)に傷(きずつ)くこと能(あた)はず。〕
これ、便利のものなり。
今、都下にて、町火消の着せるもの、此類なり。
又、古へ、「蒙古襲來」の事を畫(ゑがき)し古畫にも、彼(かの)國の甲(よろひ)は、この注文の如きもの、見えたり。
是につき、思出(おもひいだ)せしこと、あり。
五、六年前か、この邊(あたり)を出行(しゆつかう)せしに、半途にして、人の群(むれ)、走(さう)して、小梅村の方に行(ゆく)を見る。
其中(そのなか)、手に棒を持(もち)、或(あるい)は、鳶口(とびぐち)を執(とり)たる、あり。又、頭(かしら)に、紙を重(かさね)て戴(のせ)たる者、あり。六、七人もありき。各(おのおの)、水に浸(ひた)したると察す。
因(よつ)て、從行(したがひゆく)に命じて、其ゆゑを問(とは)しむるに、
「先にて、口論して、爭鬪(そうたう)に及びしを、援(たすけん)として、往(ゆく)。」
と云ひ、又、頭冒(かしらばう)の紙は、水を用(もちひ)て濡(ぬらし)て、事に赴(おもむ)くときは、挺刄(ていじん)[やぶちゃん注:引き抜いた刃(やいば)]も、傷づくこと、無し。」
と云。
然(さ)れば、これも「綿甲」の、又、便略(びんりやく)にして、自然、發用の、兵具のみ。
■やぶちゃんの呟き
「洴澼百金方」現代仮名遣で「へいへきひゃっきんほう」と読む。静山のいうように、兵書である。
「淸乾隆六十年頃」一七九五年。元号乾隆の最後の年。一世一元の制。
「無版寫行」版本として印刷されず、写本のみが行われていることを言う。
「綿甲(ワタヨロヒ)」当該ウィキを、全部、引く(一部でリンクを入れた)。『綿襖甲(めんおうこう、満州語:yohan uksin)とは、中国を中心とする東アジアにおいて、最も広く使われた鎧の形式の一つ。綿襖冑、綿甲、綿甲冑、綿冑とも呼ばれる。枚の布の間に綿などを挟み込んだ鎧で、世界中で使用されているキルティング』・『アーマーの一種と言える。また、形状や役割が近いものとしては西洋で使用されたコート・オブ・プレートやブリガンダインなどがある。特徴的なのは、形状を外套状にしている事と、外側から金属製の鋲を打って内側に鉄や革製の小札(こざね)を止めている事である。単に鎧としてのみではなく防寒の機能もあるため、北東アジアの寒い地方では特に好まれた。生産が比較的容易であるため』、『主に下級兵士の鎧として使用されたが、モンゴル帝国の元から明代以降は上級者も含めて最も広く使用された。明に続く女真族の清でも同様である。朝鮮半島でも元の支配下にあった高麗後期から採用され、李氏朝鮮では全時代で上級者用として使用され続けた。こうした後期の綿襖甲は、表側に甲がない事を生かして、美麗な刺繍などの装飾が施されている物が多い』。『日本では古墳時代以来の挂甲や短甲が奈良時代まで生産されていたが、生産数は少なく諸国で年に各数領しか生産されていなかった』。天平宝字三(七五九)年、第十三次『遣唐使が綿襖甲を持ち帰り、それを参考にして「唐国新様」として』、天平宝字六年『正月に、東海道、西海道、南海道、各節度使の使料として各』二万二百五十『領を生産する事を大宰府に命じた。更に同年』二『月には』千『領を作って』、『鎮国衛府に貯蔵する事を命じている』。『また、宝亀』一一(七八〇)年三月に『勃発した宝亀の乱の際には征東軍に対して』、五『月に甲』六百『領が支給され』、七『月に要請に応じて甲』千『領と襖』四千『領が支給された』。『この場合の甲とは鉄甲(挂甲や短甲)を指し、襖は綿襖甲を指すと思われる』。『その直後の』八『月には、「今後諸国で製造する甲冑は鉄ではなく革で作るように」という勅』『があり、この時点で綿襖甲の生産も停止された可能性があるが、延暦』六(七八七)年の『記録に「蝦夷に横流しされた綿で敵が綿冑を作っている」という記述』『もあり、綿襖甲が日本で作られなくなった時期は判明していない』とある。
「小梅村」東京都墨田区、旧本所区地区小梅村。現在の墨田区向島一~四丁目・業平一~二丁目・押上一~二丁目・横川(よこかわ)一~三丁目・江東区大島(おおじま)一丁目・亀戸一丁目などの附近。
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