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2023/10/26

2,020,000ブログ・アクセス突破記念 南方熊楠「平家蟹の話」(正字正仮名版・非決定トンデモ版――恣意的な致命的大改竄(多量の削除を含む)による捏造あること、及び、挿絵がないことに拠る――)

[やぶちゃん注:本論考は大正二(一九一三)年九月二十日から二十八日に新聞『日刊不二』の一二四号~一三一号、及び同年十一月十五日雑誌『不二』(四)に掲載された。

 私は既にサイト版で一九九一年河出書房新社刊の中沢新一編「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」(河出文庫)を底本としてサイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」で電子化し、オリジナルに注して十七年前の二〇〇六年九月六日に公開している(そちらの底本は末尾に「(平凡社版『南方熊楠全集』第六卷 47~60頁)」の親本提示がある)。今回、決定版として正字正仮名版を作成しようと考えた。

 ところが、私が正字正仮名正規表現として底本に決めた国立国会図書館デジタルコレクションの『南方熊楠全集』「第七卷Ⅲ 文集第三」(渋沢敬三編・一九五二年乾元社刊)の当該論考をよく見ると、まず、

――あるべき二図を配した挿絵一枚がない。

しかも、それに対応しているはずの、本文の記載も

――弄られて図指示箇所が消えている

のである。私はサイト版の底本の親本である平凡社版『南方熊楠全集』を所持せず、判らないが、まず、サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」に配した挿絵があることは間違いない。何故、こんなにひどく違うのか、その理由は判らぬが、ざっと見るに、

――乾元社版全集は図を総ては載せてないように思われ、前者は、それに触れる文章の箇所を編者が改竄している可能性が高い

のである。また、

――本文中にしばしば現われ、最終段落にもある和歌山県官吏を罵倒し尽したケツ捲りも、何故か、丸々、カットされている

のである。それどころか、

――本文中にも有意なかなりの量の同様のブイブイ部分の恣意的省略(改竄)部分がある

(概ね注で示した)。

――殺菌消毒して、無菌状態になって、やせ細ってしまった老臣の感をさえ与えるトンデモ捏造が行われている

のである。

 以上によって、本篇は正規表現版ではあるが――決定版――とは逆立ちしても言えないのである。

 しかし、この挿絵はあってこそ本文の内容を問題なく認知し得るものであるからして、サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」で掲げたものを当該箇所に配して、注を附すこととした。また、カットされた怒りの言い切りの最終段落だけは、最後に「参考」として、サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」のものを、新字新仮名のものをそのまま、掲げておいた。

 今回は底本を忠実に再現し、普段、私がやる、読みの挿入(難読語や振れると判断したものは割注で入れた)や記号・句読点の追加・変更は一切、行わない。それでも読みに迷られた方は、サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」を見られたい。踊り字「く」は正字化した。

 注は、前回のものを大々的にブラッシュ・アップし、本文内及び各段落の後に附した。併せて、前回の注も少し改訂増補した

 なお、この底本は呆れた大杜撰だが(誤字・誤植が有意にある)、今回、比較して見ると、「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」にも明らかな編集者(親本の平凡社版「南方熊楠全集」の誤りであるならば、これはまた別な意味で致命的である)の恣意的な改変に明白なレベルの低い誤りを、多数、見出したことを言い添えておく。それをいちいち挙げるほど、精神的に余裕は今の私には、ない。ただ、比較して対照されれば、一目瞭然である。

 なお、これは、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、私のブログ「Blog鬼火~日々の迷走」が、昨日二〇二三年十月二十五日午後七時半頃に、2,020,000アクセスを突破した記念として公開することとした。【二〇二三年十月二十六日午前八時二十四分 藪野直史】]

 

     平家蟹の話

 

 七月十二日の本紙三面、堺大濱水族館の記に平家蟹の話が有た。此平家蟹と云ふ物、所に隨て名が異る。

[やぶちゃん注:「七月十二日」大正二(一九一三)年。

「堺大濱水族館」現在の大阪府堺市大浜公園(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)にあった水族館。「堺水族館」の前身は明治三六(一九〇三)年に「第五回内国勧業博覧会」の堺会場(現在の大浜公園)に建設された博覧会付属水族館で、日本最初の本格的水族館で、当時、東洋一の水族館といわれた。博覧会終了後、堺市に払い下げられ、堺水族館となり、さらに明治四四(一九一一)年十二月、阪堺電気軌道株式会社に大浜公園及び水族館の運営が委託された。その後、集客数減少により昭和三六(一九六一)年九月に閉鎖された(当該ウィキに拠った)。]

 本草啓蒙に、「一名島村蟹(攝州)、武文蟹(同上)、淸經蟹(豐前長門)、治部少輔蟹(勢州)、長田蟹(加州)、鬼蟹、夷蟹(備前)。攝州四國九州に皆有り小蟹也、甲大さ一寸に近し。東國には大なる者有りと云ふ。足は細くして長と短と雜りて常蟹に異也。甲に眉目口鼻の狀宛然として怨惡の態に似たり。後奈良帝享祿四年攝州尼崎合戰の時、嶋村彈正左右衞門貴則の靈此蟹に化すと言傳ふ。然れども唐土にも有て、蟹譜に、背殼の若鬼狀者、眉目口鼻分布明白、常翫之と云ひ、野記に鬼面蟹の名有り」と見ゆ。

[やぶちゃん注:「本草啓蒙」小野蘭山口述のそれの当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの天保一五(一八四四)年刊本のこちらの右丁の六行目以降で当該部が視認出来る。以下、私のめぼしい記事を掲げておくので、参照されたい。

『毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)』(優れた図あり)

「諸國里人談卷之五 武文蟹【島村蟹・平家蟹】」

「三州奇談續編卷之五 今濱の陰石」

「大和本草附錄巻之二 介類 島村蟹 (ヘイケガニ(類))」

「狗張子卷之一 島村蟹」

最初の記事が異名(但し、同科別種を含む)が列挙され、その同科別種群は「大和本草」のそれで私が掲げてある。]

 平家蟹の學名ドリッべ・ヤポニクス、是はシーボルトが日本で初めて見て附けた名だが、種こそ違へ、同樣な鬼面の蟹は外國にも多い。例せば英國の假面蟹ドリッペ屬で無くコリステス屬の者で、容體餘程平家蟹と違ふが、矢張り甲に鬼面相が有る。但し平家蟹程嚴しく無い。凡て蟹類は内臟の位置、容量に隨ひ甲上に隆低の線窪[やぶちゃん注:「すぢくぼみ」。]が種々有り、此方の想像次第多少人の面に見へるが、平家蟹や假面蟹は殊に著しく怒り顏を現し居る。西洋で甘蕉實(バナナ)を橫に切ると十字架を現すと言ひ、日本で胡瓜を橫に切ると織田氏の紋が見えるなど云ふ。海鰕の胴を橫截せば婦人の上半身を顯[やぶちゃん注:「げん」。]ずと歐州の古書に見えるが、日本で其樣な事を言ぬと同時に、鰕の眼を頭に見立て雛人形を作るなど、東西の見立て樣が差ふのぢや。然るに、物の似樣が酷い[やぶちゃん注:「えらい」。]と隨處[やぶちゃん注:「どこでん」。「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」に従った。]同樣に見立てる。貫之の土佐日記にも羅馬の古書にも、海鼠樣の動物を陽物に見立て、和漢洋印度俱に貝子(たからがひ)を女陰に見立て、又只今も述た通り或蟹の甲を和漢洋何れも人面に見立たなど適當の例だ。古希臘で酒の神ヂヲニススの信徒が持て踊る棒の尖に松實[やぶちゃん注:「まつのみ」。「松ぼっくり」のこと。]を附たは陽物に象(かたど)た[やぶちゃん注:ママ。「かたどつ」の「つ」の脱字。]相だが、本邦にも松實を松陰囊(ふぐ)[やぶちゃん注:「松」の読みは外してある。しかしこれ、「ふぐり」の「り」の脱字であろう。]と稱へ、寬永[やぶちゃん注:「寛文」の誤記か誤植。]十二年板行風撰後撰夷曲集九に「唐崎の松の陰囊は古の愛護の若[やぶちゃん注:「わか」。]の物か有ぬか」と、名所の松實[やぶちゃん注:ここは「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」では『ちちりん』と振る。「ちちりん」は「松毬」で「松ぼっくり」の俗称。]を美童の陰囊に稱えた[やぶちゃん注:「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」では『比(たと)えた』とある。]狂歌も有る。

[やぶちゃん注:「ヘイケガニの學名」現在、十脚目短尾下目真短尾群ヘテロトレマータ亜群Heterotremata ヘイケガニ上科ヘイケガニ科ヘイケガニの学名は Nobilum japonicum japonicum で、「ドリッペ」はヘイケガニ科 Dorippidae の科名である。種としてのこのヘイケガニは、北海道南部・相模湾から紀伊半島・瀬戸内海・有明海の他、朝鮮半島・中国北部・ベトナムまで、東アジア沿岸域に広く棲息している。

「英國の假面蟹ドリッペ屬で無くコリステス屬の者」当時の分類学とは異なっており、現行では、「コリステス屬」は属レベルの異種ではなく(ヘイケガニ上科 Dorippoideaヘイケガニ科 Dorippidaeではなく)、ヘテロトレマータ亜群ヒゲガニ上科 Corystoidea ヒゲガニ科 Corystidae Corystes 属 Corystes cassivelaunus で一属一種、後で参考図に出る通り、甲殻が口刎部が♂では前方に著しく尖った種で、英文ウィキの「 Corystes に拠れば、英名ではmasked crabhelmet crabsand crabと呼ばれ、ポルトガルからノルウェーに至る北大西洋及び北海・地中海に棲息する砂に潜っている穴掘り型の種である。最大甲長四センチメートル、「マスクガニ」(人面蟹)という名は、本邦のヘイケガニと同様、甲羅の模様が人の顔に似ていることに由来する。砂質の基質に埋もれて生活し、そこでゴカイなどの多毛類や、二枚貝などのベントスの無脊椎動物を食餌とする。二本の触角は呼吸管の役割を持っており、酸素を含んだ水を基質に送り込む、とあった。ネットでさんざん探してみたが、複数の学術的記載で学名で確認は出来たものの、和名はない。とすれば、熊楠の挿絵の「假面蟹」が和名の初出であろうからして、これは「カメンガニ」を標準和名とするべきだと考える。

「貫之の土佐日記にも羅馬の古書にも、海鼠樣の動物を陽物に見立て、和漢洋印度俱に貝子(たからがひ)を女陰に見立て、又只今も述た通り或蟹の甲を和漢洋何れも人面に見立た」南方熊楠がそう思ったであろう「土左日記」中の該当箇所を以下に引用する(底本は岩波文庫版(一九七九年刊)他二種を参考に漢字を正字化した)。

   *

十三日(とをかあまりみか)の暁に、いさゝかに、雨、降る。しばしありて、止みぬ。

 女、これかれ、

「沐浴(ゆあみ)などせむ。」

とて、あたりのよろしき所に下(お)りて行く。

 海を見やれば、

  雲もみな浪とぞ見ゆる海人(あま)もがないづれか海と問ひて知るべく

となむ、歌、詠める。

 さて、十日あまりなれば、月、おもしろし。舟に乘り始めし日より、舟には紅(くれなゐ)濃く、よき衣(きぬ)、着(き)ず。それは、

「海の神に怖(を)ぢて。」

と、言ひて、何(なに)の葦蔭(あしかげ)にことづけて、老海鼠(ほや)の交(つま)の貽貝鮨(いずし)、鮨鮑(すしあはび)をぞ、心にもあらぬ脛(はぎ)に上げて、見せける。

   *

これに就いて、熊楠は、後の大正七(一九一八)年に書く「十二支考 馬に關する民俗と傳說」の「八 民俗(2)」の中で、次のように述べている(引用は底本同全集の第一巻(一九五一年刊)に拠った)。

   *

 國文の典型たる土佐日記に、筆者紀貫之朝臣の一行が土佐を出てより海上の齋忌(タブー)嚴しく愼み居りしに、日數經て漸(やつ)と室津(むろのつ)に着き、「女是彼浴み抔せん迚、あたりの宜しき所に下りて往く云々、なにの葦影に託(ことづ)けて、ほやのつま[やぶちゃん注:底本は「いま」。誤植と断じて訂した。]のいずし、すしあはびをぞ、心にも有ぬ脛(はぎ)にあげて見せける」。此文を從前難解としたが、谷川士淸[やぶちゃん注:「たにがはことすが」。]の鋸屑譚に始て之を釋(とい)た。ホヤは仙臺等の海に多く、科學上魚類に近い物乍ら、外見海參(なまこ)に酷似す。イズシは胎貝(いかい[やぶちゃん注:ママ。「いかひ」「いがひ」とすべきところ。])の鮓で、南部の方言ヒメガヒ(松屋筆記百五卷)、又ニタガヒ(本草啓蒙四二)、漢名東海夫人、皆な其形に因た名で、鰒(あわび[やぶちゃん注:ママ。])を同樣に見立つる事、喜多村信節の筠庭雜錄にも見える。次に岸本由豆流が件の「何の葦影に託けて」の何は河の誤寫と判明[やぶちゃん注:底本は「發明」。所持する平凡社「選集」で訂した。]したので、彌よ意味が明かに成た。全く貫之朝臣が男もすなる日記てふ物を女もして見せる迚、始終女の心に成りて可笑味(をかしみ)を述べた者故、此所も水涉る爲脛高く揭しかば、心にも有らで、ホヤの妻ともいうべき貽貝や鰒樣の姿を、葦の影の間に映し見せたてふ、女相應の滑稽と判つた(しりうこと第五)。

   *

則ち、これは〔老海鼠(男性生殖器のミミクリー=男)の夫(「つま」=妻)であるところの、貽貝(女性生殖器のミミクリー)〕=〔鮑(女性生殖器のミミクリー)〕ということである。

 生物としてのホヤに関心を持っていた私は、高校時代にこの部分を読み、そこに表記されていた「老海鼠の褄の貽鮓」なる食物が如何にも不可解であった。ホヤの体制に「ツマ」に相当するものがあるか? 更に、その「ホヤのツマ」なる秘やかな(?)部分と、すでにその頃、ニタリガイの異名の意味を知っていた「イガイ」(斧足綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイMytilus coruscus )を生で合わせて発酵させたなれ鮨……それは想像するだにおぞましいものであった。早速に尊敬していた中年の国語教師蟹谷徹先生に質問したのだが、先生は、私の純情を慮ったものか、ニヤニヤするだけで答えてくれなかった。大学生になって、土佐日記講読の講義で、満を持して、ここを微細に分析する論文を書き、担当教授に美事に敬遠された(それでも「優」をくれたのだが)。私のアカデミズムへの訣別はホヤに始まったと言っても過言ではない。

 ちなみにホヤは、無脊椎動物と脊椎動物の狭間に位置する、脊索動物門尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱 Ascidiacea に属する分類学上、高等な生物である。この場合は食用にするホヤであるから、海鞘綱壁性(側性ホヤ・マボヤ)目褶鰓(しゅうさい/マボヤ)亜目ピウラ(マボヤ)科 Pyuridae マボヤ属マボヤHalocynthia roretzi 及び同属アカボヤ Halocynthia Aurantium を挙げておけばよかろう。その生態や最近の新知見(高濃度の血球中のバナジウムなど)について語ることは、私が最も歓喜雀躍するところであるが、南方的大脱線はこれくらいにしておくのが身の為であろう。私は関連記事だけで二十ほど書いている。中でも、博物画としては、

『毛利梅園「梅園介譜」 老海鼠』

『武蔵石寿「目八譜」 「東開婦人ホヤ粘着ノモノ」 ――真正の学術画像が頗るポルノグラフィとなる語(こと)――』

が群を抜いて素晴らしいので、是非、見られたい。特に後者は文句なく南方熊楠がニヤつくこと、間違いなしの絵である。――それにしても、居酒屋の店員が、ホヤをナマコの一種などとほざくのは仕方がないとしても、料理人や魚屋は、ゆめ、「ホヤガイ」などと呼称すべきではないと私は切に思う。

「鰕の眼を頭に見立て雛人形を作る」私の『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 海老上﨟』を参照。熊楠手書きの図もある。

「酒の神ヂヲニスス」Dionysos。ディオニュソス。ギリシア神話の豊穰と酒の神。その祭儀は神との合一を求める陶酔状態を伴うもので、ギリシア演劇の起源とされる。ローマ神話のバッカスに相当する。

「信徒が持て踊る棒の尖に松實を附た」どのようなものか、ギリシャ語・英語等も用いて画像を探したが、遂に見当たらなかった。

「行風撰」「後撰夷曲集」(ごせんいきょくしゅう)は江戸前期の狂歌集。十巻六冊。生白堂行風(せいはくどうこうふう)編。寛文一二(一六七二)年刊。編者が前に刊行した「古今夷曲集」の後を継いで、作者三百九十一人、一六七〇余首を、四季・恋・雑など十部に分類、収録する(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「唐崎の松の陰囊は古の愛護の若の物か有ぬか」。国立国会図書館デジタルコレクションの『新群書類從』第十のここで視認出来る。前書があり、

   *

  名所松縮輪

唐崎の松のふぐりはいにしへのあいごの若(わか)の物かあらぬか 正盛

   *

この「松縮輪」というのは開いていない「松ぼっくり」のことであろう。愛着した若衆の陰嚢に喩えた若衆道の艷歌。]

 

 東西共松實を陽物又は陰嚢に見立たのだが、此見立て樣が拙いのか、產れ付が不出來故か、熟(とく)と視ても僕のは一向似て居らぬ。右樣の人間勝手の思付で此蟹の甲紋を、西海に全滅した平家の怨に擬て[やぶちゃん注:「よそへて」。]平家蟹と名けたが、地方に因て種々の人の怨靈に托けて[やぶちゃん注:「かこつけて」。]命名され居るは、上に本草啓蒙から引いた通りだ。

[やぶちゃん注:「僕」南方熊楠が論考や書簡でも、一人称を「僕」とするのは極めて異例である。後の方では、盛んに使用している。驚くべきこの特異点は、一体、何だ!?!]

 長田忠致は、窮鳥と成て其懷に入つた源義朝と自分の婿鎌田とを殺し、首を平家へ獻じた處、不道を惡んで賞を吳れず、「命斗りは壹岐守實濃尾張をば今ぞ賜る」と嘲弄中に磔にされたのを不足で、長田蟹に成たらしい。平淸經は内大臣重盛の三男左中將たり、一族沒落の砌、女房を都に寘て[やぶちゃん注:「おいて」。]難に紛れて絕信三年、女房、今は淸經樣に心變りの有ば社(こそ)、偖は形見も由無し迚、「見るからに心盡しの神なれば、宇佐にぞ返す本の社に」と、歌を副て夫の形見に殘した髮を宇佐近傍迄送還したのを受取見て、都をば源氏に落されぬ、鎭西をば惟義に追れぬ、細君からは手切と來る、米代は昂る、悲しさの極、月晴渡れる夜閑かに[やぶちゃん注:「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」では『のどか』と振るが、念仏だぜ? 「しづかに」だろ!]念佛申しつゝ、波の底に社(こそ)沈みけれ、是ぞ平家の憂事[やぶちゃん注:「うきこと」。]の始めなると盛衰記に有る。平家入水の先陣、先は藤村操の前身でがな有う。して見ると淸經蟹は怨める上に愁歎顏で有う。

[やぶちゃん注:「長田忠致」義朝を騙し討ちにした長田忠致(おさだただむね ?~建久元(一一九〇)年?)。ウィキの「長田忠致」によれば、『長田氏は桓武平氏良兼流で』、「尊卑分脈」によれば、『忠致は道長四天王の』一『人とされた平致頼の』五『世孫にあたる。尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)を本拠地とし、平治年間には源氏に従っていたという。平治元年』(一一五九年)、「平治の乱」に『敗れた源義朝は、東国への逃避行の途中、随行していた鎌田政清の舅である忠致のもとに身を寄せる。しかし、忠致・景致父子は平家からの恩賞を目当てに義朝を浴場で騙し討ちにし、その首を六波羅の平清盛の元に差し出した。この際、政清も同時に殺害されたため、嘆き悲しんだ忠致の娘(政清の妻)は川に身を投げて自殺したとされる。また、兄の親致は相談を持ちかけられた際、その不義を説いていたが、前述のような事件が起きてしまい、乳母の生まれ故郷である大浜郷棚尾に移り住んだという』。『義朝を討った功により』、『忠致は壱岐守に任ぜられるが、この行賞に対してあからさまな不満を示し「左馬頭、そうでなくともせめて尾張か美濃の国司にはなって然るべきであるのに」などと申し立てたため、かえって清盛らの怒りを買い』、『処罰されそうになり、慌てて引き下がったという。そのあさましい有様を』、「平治物語」は終始』、『批判的に叙述している』。『後に源頼朝が兵を挙げると』、『その列に加わる。忠致は頼朝の実父殺しという重罪を負う身であったが、頼朝から寛大にも「懸命に働いたならば』、『美濃尾張をやる」と言われたため、その言葉通り』、『懸命に働いたという。しかし平家追討後に頼朝が覇権を握ると、その父の仇として追われる身となり、最後は頼朝の命によって処刑されたという。その折には「約束通り、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」と言われたと伝えられている。処刑の年代や場所、最期の様子については諸説があって判然としないが』、「保暦間記」によると、建久元(一一九〇)年十月の『頼朝の上洛の際に、美濃で斬首されたことになっている。また』、治承四(一一八〇)年十月に、「鉢田(はちた)の戦い」(武田信義・北条時政と駿河国目代橘遠茂・長田入道との間に起こった戦い)で『橘遠茂とともに武田信義に討たれたとする説』『がある。また』、『処刑方法も打ち首ではなく』、『「土磔(つちはりつけ)」と言って』、『地面の敷いた戸板に大の字に寝かせ、足を釘で打ち磔にし、槍で爪を剥がし』、『顔の皮を剥ぎ、肉を切り』、『数日かけて殺したという。刑場の高札には「嫌へども命のほどは壱岐(生)の守』(かみ)『身の終わり(美濃・尾張)をぞ今は賜わる」という歌が書かれていた』という。『その後、子孫は武田氏を頼って甲斐国へ逃げたという説もあり、山梨県に今でも長田家は存在する。また、徳川氏譜代家臣の永井氏や長田氏は忠致の兄・親致の後裔を称している』とある。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちら(「長田蟹・長田貝」)に愛知県知多郡美浜町採取として、『甲羅の模様が人の顔に似ている蟹が野間の海岸で取れる。「長田蟹」と呼ばれており、頼朝に殺された長田父子の恨みが蟹に宿ったものだという。また、長田父子の死体を埋めた長田山から出る貝の化石も、長田父子の化身と言われ「長田貝」という』とある。

「平淸經」能の「淸経」で知られる、平家一門の武将で、笛の名手であった平清経(長寛元(一一六三)年~寿永二(一一八三)年四月四日)は、寿永二(一一八三)年に平家一門が都落ちした後は、次第に悲観的な考えに憑りつかれ(強度の鬱病と考えられる)、大宰府を元家人(けにん)である緒方惟義に追い落とされたことを契機として、豊前国柳浦(現在の大分県宇佐市江須賀の沖合とされる。この附近)で入水自殺した。享年二十一。「平家物語」の「六道之沙汰」の段の建礼門院による述懐によれば、この清経の死が、平家一門の『心憂きことのはじめ』として語られてある。大分の宇佐地方でのヘイケガニ類の別名。

「藤村操」私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月3日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百二回」の私の『■「Kの遺書」を考えるに当たって――藤村操の影』を参照されたい。彼の自死を、夏目漱石は、自身の藤村への叱責が、彼を自殺に導いたスプリング・ボードではないか、と悩んだ事実があるのである。]

 和漢三才圖會に、元弘の亂に秦武文(はたのたけぶみ)兵庫で死んで蟹と成たのが、兵庫や明石に在り、俗に武文蟹と云ふ、大さ尺に近く螯赤く白紋有りと見えるから、武文蟹は普通の平家蟹よりはずっと大きく別物らしい。

[やぶちゃん注:「和漢三才圖會に……」私の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類  寺島良安」(最近、大々的に改訂した)の、「たけぶんがに しまむらがに 鬼鱟」を参照されたい。

 「武文蟹」『毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)』の私の注の「武文蟹(たけぶんがに)」で、かなり詳しく注を附してあるので、見られたい。

「大さ尺に近く螯赤く白紋有りと見えるから、武文蟹は普通の平家蟹よりはずっと大きく別物らしい」所持する荒俣宏「世界大博物図鑑Ⅰ 蟲類」の「カニ」の項の「平家蟹」によれば、人見必大の「本朝食鑑」では、これは平家蟹ではなくカブトガニ(鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ Tachypleus tridentatus )のこととして載せ、『土地の人は武文を憐れんでこれを捕らない』と記している、とある。確かに「和漢三才圖會」の項目漢字「鬼鱟」の「鱟」はカブトガニを指す語ではある。しかし、「螯赤く白紋有り」というのは、全く合わない。私は、ヘイケガニより大型の、

ヘイケガニ科サメハダヘイケガニ属サメハダヘイケガニ Paradorippe granulata

或いは、それより大型の、

ヘイケガニ科キメンガニ属キメンガニ Dorippe sinica

ではないかと考えている。]

  秦武文が事は太平記十八に見ゆ。後醍醐帝の長子尊良親王、今出川右大臣の娘を見初め、千束[やぶちゃん注:「ちつか」。]ばかりの御文を送り[やぶちゃん注:底本は「途り」。この字では「おくる」とは読めないので、誤字・誤植と断じ、「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」で訂した。]玉ふと、女も稻船[やぶちゃん注:「いなふね」。]の否には非ずと見えたが、此親王は後に、金崎落城の節新田義顯に面(まのあたり)切腹の作法を習ひ、武士同前に自刄して亡(ほろび)玉ふた。氣象尤傑れた[やぶちゃん注:「すぐれた」。]方だつた。件(くだん)の女既に德大寺左大將と約婚したと聞召し[やぶちゃん注:「きこしめし」。]、昔し唐の太宗、鄭仁基の女[やぶちゃん注:「むすめ」。]を元和殿に册(かしづ)き納(いれ)んとした時、魏徵此女已に陸氏に約せりと諫めたので、便ち宮中に召るゝことを休(やめ)たと儒臣が講ずるを聽て、文を送るを止めても中々思切れず、德大寺又中々の粹人で、此次第を氣の毒に存じ、故(わざ)と他の女に通ひ始めたので、宮も今は御憚り無く、和歌の贈答で心の下紐を解き、生ては借老の契深く、死しては同じ苔の下にもと思し召し通はして、十月餘りに元弘の亂出來て、親王は土佐の畑[やぶちゃん注:「はた」。]へ流され玉ふ。御警固を勤めた有井庄司情深き男で、御息所を密に畑へ迎へ下し玉へと勸め、親王大に悅で只一人召し仕はれた右衞門府生[やぶちゃん注:「ふしやう」。]秦武文てふ隨身に御文を賜はり、都へ登り御息所に差上げ、輿に乘て尼崎迄下し進(まひ)らせ、渡海の順風を待つ内、同じく風待して居た筑紫の松浦[やぶちゃん注:「まつら」。]五郞と云ふ武士、御息所の御貌を垣間見て邪念を起し、此頃如何なる官にても御座せよ[やぶちゃん注:「おはせよ」。]、謀叛人にて流され給へる人の許へ忍びて下し給はんずる女房を奪捕たりとも、差て[やぶちゃん注:「さして」。]の罪科で無からうと思ひ定め、郞等卅餘人物具[やぶちゃん注:「もののぐ」。]固めて彼宿所へ夜討し、火を附た。武文心は武しと雖も、煙に目暮て何とも成らぬから、先づ御息所を負進せ[やぶちゃん注:「おひまひらせ」。]向ふ敵を打拂ひて、沖なる船を招くと、船しも多きに松浦が迎ひに來た船が一番に漕寄て、御息所を乘せ奉つた。松浦我船に此女房の乘給ひたる事然るべき契の程哉と限無く悅で、今は皆船に乘[やぶちゃん注:「のれ」。]とて一同打乘り漕出す、武文、渚に歸り來[やぶちゃん注:「きて」。]喚ど[やぶちゃん注:「よべど」。]叫べど歸りやせぬから、手繰(たぐり)する海士の小船に乘て追付んとすれど順風を得た大船に追着べきに非ず、反て笑聲をどつと仕掛られて、今の程に海底の龍神と成りて其船を遣るまいぞと怒つて、腹十文字に搔切て、蒼海の底に沈んだと有るから、龍神には成たらうが蟹になる氣遣ひは無い。此後は平家蟹の話に用が無いから短く云て仕舞ふと、松浦、御息所を執えて[やぶちゃん注:ママ。]兎角慰め申せども聽入ず、消入せ給ぬべき樣子で、鳴戶(なると)を通る處に、俄に風替り渦と共に船の廻る事茶白を推すよりも速か[やぶちゃん注:「すみやか」。]と來た。三日三夜船進まぬから梶取の勸めに任せ御息所を龍神に進じて難を遁るべし迚、海に沈めんとするを乘合せた僧が諫止め[やぶちゃん注:「いさめとどめ」。]、一同觀音の名號を唱へると武文の幽靈が出る。因て御息所と水主[やぶちゃん注:「かこ」。]一人を小船に乘せて放つと、風俄に吹分て松浦の船は西へ去る内波靜まり、御息所の御船に乘た水主懸命に船を漕ぎ、淡路の武島[やぶちゃん注:「むしま」。]に着き、海人の子供の介抱で活出[やぶちゃん注:「いきいだ」。]させ給ふ。其から土佐の畑へ送れと御賴み有ると、海士共皆同じ心に、是程美しく御渡り候ふ上﨟を我等が船で土佐迄送らんに、何處の泊にてか人の奪ひ取り進らせぬ[やぶちゃん注:「まゐらせぬ」]ことの候ふべきと辭し申すから、無據[やぶちゃん注:「よんどころなく」。]武島に留り[やぶちゃん注:「とどまり」。]、翌年北條氏滅びて親王都へ歸り入せ玉ふて後、武島より都へ迎え上らせ[やぶちゃん注:「のぼらせ」。]られたが、程無く尊氏の亂起り、親王、義貞、義助と俱に北國に下り玉ひし時、又御息所を都に留められたが、親王金崎で御自害、御中陰の日數終ざる先に果敢無く[やぶちゃん注:「はかなく」。]成せ給ひければ、聞く人每におしなべて類[やぶちゃん注:「たぐひ」。]少なき哀さに皆袂をぞ濡しけると有る。

[やぶちゃん注:「秦武文」のことは、熊楠にしては、「短く云て仕舞ふ」と言いながら、かなり子細に紹介しているので、特に注する必要は私は感じない。参考に、この後半に関わる私の「諸國里人談卷之一 龍王祭」をリンクさせておくに留める。なお、以上の「太平記」の本文は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本文學大系』校註第十七巻(大正一四(一九二五)年国民図書刊)の「太平記」上巻分「第十八卷」中の『春宮(とうぐう)還御の事一宮御息所(みやすどころ)の事』が相当するが、特に武文の関わる部分は、ここの右ページ中央部ぐらいから以下になる。

 なお、以下の二段落は、以上の話の後半に刺激された熊楠先生大脱線(教員時代の私には鏡返しだが)で平家蟹から離れるので、注意されたい。

 西曆千五百年頃、伊太利トラヘッタ女公兼フヲンジー女伯ジュリア・デ・ゴンツアガ若後家と成て、愛の花てふアマラント草、と不死てふ二語と組み合せて紋章とし、死んだ夫と初て會た愛情は永劫滅せぬという意[やぶちゃん注:「こころ」。]を標したまゝ、一生兩夫に見えなんだは結構だが、土耳古帝スライマン二世、美無双と聞き、見ぬ戀に憧れてアルゼリアの海賊大將軍バーバロサをして夜襲[やぶちゃん注:「ようち」。]して女公を奪はせたが、忠臣有て此事を告げたので、女公、襦袢裸で騎馬し、その忠臣と俱に逃了せた[やぶちゃん注:「にげおほせた」。]が、裸姿を見たと泄らさるゝを慮り、後日、其忠臣を暗殺したと云ふ。

[やぶちゃん注:以上の段落の後には、「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」では、『この行為(おこない)についての論は、今月の『民俗』に出る予の「話俗随筆」で見られよ。』と続いて終わっている。ここに指示された論考は、私の『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 忠を盡して殺された話』で読める。注も附けてある。]

 一說には、此時、女公幸ひに海賊に辱らるゝを免れたが、自國の山賊の手に落ちた。但し辱[やぶちゃん注:「はぢ」。]は見無つたと一派に信けらるゝ[やぶちゃん注:「うけらるる」。]が、ブラントム評に斯る暴戾無慙[やぶちゃん注:「ばうれいむざん」。]の惡徒が餓たるに、斯る美鮮肉を喫はず[やぶちゃん注:「くらはず」。]に置べきや、斯る場合に高位德望も美女を暴人の毒手より救護するに足らずと有るが、其は其樣な風の歐州で言ふべき事で、吾邦では昔し人民一派、いかな惡黨迄も齋忌[やぶちゃん注:「さいき」。祭儀の前の物忌み。「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」では、『タブー』と振る。]と云ふ事を非常に愼み畏れた。去ば社(こそ)、御息所と同乘した一人の水主、武島の海士は素より、松浦如き兇漢迄も、無理に其身を犯す樣な事は無かつたんだ。聽(ゆる)し無くて高貴の身體に觸るるを大毒物に觸る樣に畏れたのだ。此齋忌の制が不成文乍ら吾邦には甚だ嚴に行れたので、日本國民は讀書せぬ者迄、恭謙溫厚の風、淸潔を尙ぶ[やぶちゃん注:「たつとぶ」。]俗が萬國に優れたのだと云ふ譯を、明治三十年ブリストル開催、大英國科學奬勵會人類學部で、開會の辭に次で熊楠が讀んだ。其後大英博物館の博物部長レイ・ランケスターは、人のみならず畜生の別種族獨立にも、此齋忌が大必要だと論ぜられた。

[やぶちゃん注:「ブラントム」ピエール・ド・ブールデイユ(Pierre de Bourdeille 一五四〇年頃~一六一四年)。「サン=ピエール・ド・ブラントーム修道院」院長(Abbaye Saint-Pierre de Brantôme)で、後半生は作家として過ごした。当該ウィキ、及び、フランス語の同ウィキによれば、『名門の貴族の出で、ナバラ王国の宮廷で成人し、パリ、ポワティエで法律を学んだ。生涯の大半をフランス各地、ヨーロッパ諸国の漫遊と戦争への参加に費やした』「ユグノー戦争」では、『カトリック側に参加したが』一五八四年、『落馬して重傷を負い』、『公的生活から引退。自身の豊富な体験や見聞を記した』「高名貴女列伝」( Vies des dames illustres )や「貴紳武人列伝」『などを書』き、「回想録」( Memoires )が『死後に出版』(一六六五年~一六六六年)されている。『今日も読まれているのは』、「著名貴婦人伝」( Les vies des Dames illustres de France de son temps )の第二部「好色女傑伝(艶婦伝)」(les Dames galantes)で、『性的に奔放であったルネサンス末期の貴婦人たちにまつわる生々しい逸話を描いた作品である』。『日本では永井荷風と同居していた小西茂也などが翻訳した』とある。

「聽(ゆる)し無くて高貴の身體に觸るるを大毒物に觸る樣に畏れたのだ。此齋忌の制が不成文乍ら吾邦には甚だ嚴に行れた」この叙述には私は留保したい。あからさまな蔑視の中で、「何糞日本精神」の花火を派手に打ち上げることに巧みであった熊楠の勇み振りが伝わってくるが、私はまさに、この平安末期、源平の擾乱以降(末法思想蔓延と同期)にあって、正直、このようなタブーは、たいして守られていなかったと私は思うからである。

「明治三十年」一八九七年。

「ブリストル」Bristol。イギリス西部の港湾都市。

「大英國科學奬勵會」British Association for the Advancement of Science。英国科学振興協会。「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」の長谷川興蔵氏の注に、『一八九八年』(熊楠の年表記と異なる)『九月プリストルで開かれた同会第六八回大会の人類学部会に、南方熊楠は出席していないが、同会の紀要によれば、九月八日に代読されたリポートの中に、On Tabu in Japan in Ancient, Mediaeval and Modern Times’ By K. Minakata とある』とある。英文論文標題は『古代・中世・近世の日本のタブーに就いて』である。当時、熊楠はロンドンにいた。

「レイ・ランケスター」イギリスの動物学者エドウィン・レイ・ランケスター(E. Ray Lankester 一八四七年~一九二九年)。ロンドン生まれ。当該ウィキによれば、『彼はファーストネームのエドウィンを常にEと略して書いた』とある。一八九八年から一九〇七年まで「大英博物館自然史館」(現在のロンドン自然史博物館)の館長を務めている。詳しい履歴は参照した当該ウィキを見られたい。

 以下、有意に長い本邦の「齋忌」に就いての段落がある。長いからよりも、脱線が激しいので、ここでは転写しないので、私のサイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」を見られたい。流石に、私も底本の編者の一人であったら、ちょっと躊躇する気はする。]

 平家蟹は異形の者だが、之に關する古話里傳は割に少い樣だ。紀州の海濱の家に之を戶口に掛けて邪鬼を避るのは、毒を以て病を去ると同意だ。喜多村信節の嬉遊笑覽に、「江戶町屋(まちや)に、門戶の上に蟹の殼を掛け、又蒜[やぶちゃん注:「にんにく」。]を釣置く事有り、是れ、上總の俗の轉(うつ)れる也、房總志料に、上總穗田吉濱の漁家、門戶に奇狀の蟹殼を掛出し、俗に云惡鬼を避る禁厭[やぶちゃん注:「まじなひ」。]也云々、「夢溪筆談」に、關中には蟹無し、秦州の人蟹の殼を得たり、土人其形を怖れて怪物とし、瘧[やぶちゃん注:「おこり」。マラリア。]を病者有れば此を借用て門戶の上に掛くれば病(やまひ)差(いゆ)[やぶちゃん注:底本は二字に「やまひちがひ」とあるが、おかしい。「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」の読みを参考にした。]と云り、但人の之を識ざるのみならず鬼も亦識ざるにやと云へり」と見ゆ。古へ朝家に支那の禮に據り、除夜驅灘(おにやらひ)を行はるゝに、方相氏[やぶちゃん注:「はうさうし」。]迚玄衣朱裳熊皮を蒙り金の眼四つ有る、怖しい鬼の大親分を作り、一切の疫鬼を追ふた。其如く平家蟹の顏は鬼も怖るゝと見立て門に懸けるのだ。新井白石の說に平家を世人が惡く言ふは其事記が多く源氏の代に成つたからだ。實は一族皆西海で一度に亡びた所が、源氏の骨肉相害し二代で跡絕へ[やぶちゃん注:ママ。]たよりも餘程見事だと有る。其に平家蟹などと惡名を付くるは遺憾だ。

[やぶちゃん注:『喜多村信節の嬉遊笑覽に、「江戶町屋(まちや)に、門戶の上に蟹の殼を掛け、……』「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。私は岩波文庫版で所持するが、巻八の「方術」パートの『門戶に蟹殼又蒜を掛くる事』にあり、国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の下巻(熊楠の所持しているものは恐らくこちらが、その親本)の左ページ二行目から出るのが、それ。

「夢溪筆談」北宋の沈括(しんかつ)による随筆集。特に科学技術関連の記事が多いことで知られる。当該部は「中國哲學書電子化計劃」の「卷二十五 雜志二」ここに出、影印本で視認出来る。

「方相氏」元は中国周代の官名であるが、本邦に移されて、宮中に於いて年末の追儺(ついな)の儀式の際に悪鬼を追い払う役を担う神霊の名。黄金の四ツ目の仮面をかぶり、黒い衣に朱の裳を着用して矛と盾を持ち、内裏の四門を回っては鬼を追い出した。見たことがない人のためにグーグル画像検索「方相氏」をリンクさせておく。

  実は、この段落の最後は「遺憾」以下、サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」を見て戴くと判る通り、しかも、「遺憾だ。」の「新井白石の說に平家を世人が惡く言ふは其事記が多く源氏の代に成つたからだ。實は一族皆西海で一度に亡びた所が、源氏の骨肉相害し二代で跡絕へたよりも餘程見事だと有る。其に平家蟹などと惡名を付くるは遺憾」の後もにも、またしても、地歩官吏批判部分がカットされている。最後に『倩(つらつ)らその顔貌(かおつき)を察するに、盛んな時は空威張りで怒り散らすこと島村蟹に異ならず、零落(おちぶ)れた時は糊口に由なく愁欺眉を寄せて清経蟹そのままだ』と、平家蟹をおちゃらかしに使っている始末である。短いが、やはり、ここには示さない。私のサイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」を見られたい。「遺憾」の後にも、

   *

ゆえ、今後は俗吏蟹と名づけたら好かろう。もっとも日本中の地方吏ことごとく悪人にもあらざるべければ、「和歌山県の或る俗吏蟹」と名づけたら至当だ。岡村金太郎博士の説に、房州とかで大葉藻(あまも)を「龍宮の乙姫の元結(もとゆい)の切解(きりほど)き」と呼ぶが、本邦で最も長い植物の名だとあった。動物にこれに対する長名なきは残念だから、ちょうど平家蟹をかく改号したら好かろう。

   *

と続いて終わる文章が底本にはない。これによって、編者は官吏批判の箇所を恣意的にテツテ的に抹消改変してしまっていることが明白となったのである。敗戦後の出版物である底本で、何故、ここまで所謂、最近の悪い言い方としての「政治的忖度」がなされている意味が、私にはよく判らない。神社合祀反対運動での官吏の横暴への鬱憤による脱線であるが、フラットには読めないものであり、「平家蟹にいつ戻るんだい!」と叫びたくなる気持ちは、底本編者のカットに同情する気になってはくるのだが……。而して、以下の『このことはロンドン大學前總長ジキンス男の勸めにより、……』以下のサイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」の『俗吏に對する怨念で僕の顔も平家蟹のようになって書くのだ。』までの部分も、ない。無いない尽くしのこの論考、最早、南方熊楠のものでは、ない。クマグスも、怒り狂う反則行為と言わざるを得ない。

 建部綾足の折々草に、赤間關にて平家蟹を賣る「最赤き者は必ず眦[やぶちゃん注:「まなじり」。]逆上り怒れる面相[やぶちゃん注:「おもざし」。]したり。また白きものは面相もまた甚[やぶちゃん注:「はなはだ」。別本「いと」。]溫柔[やぶちゃん注:「おだやか」。別本「なだやか」。]也云々。扨其蟹の面のさまを見分て白くもし赤くもす。赤き者は酒もて煮たる也と云ふ、又面の怒れると和[やぶちゃん注:「なだや」。]ぎたるとは此蟹の雌雄[やぶちゃん注:「めを」。]なりと言し、去るは白き方をば公達蟹[やぶちゃん注:「きんだちがに」。]と名付て旅人には賣る也と語りき」と有るが、白いのは波で曝(さらされ)たのだ。此蟹の面相は長(としと)ると段々薄らぎ判然せぬ。其を綾足は和ぎたる顏と云た者歟。又、西澤一鳳の皇都午睡[やぶちゃん注:「みやこのひるね」。]に、伊勢の團友讃岐の浦にて、「海鼠とも成で[やぶちゃん注:「ならで」。]果鳧(はてけり)平家蟹」と句を作り、夢に蟹共に責られ「海鼠ともならで流石に平家也」と再案した。これ「景淸」の謠曲にも叶ひたる、手に波(は)[やぶちゃん注:「てにをは」に同じ。]自然と備はり句振も格ぢやと有る。是は「景淸」の謠曲に「流石に我も平家也」と云ふ詞有るを云たんだ。動物の形體は無茶に出來た物で無く、其々生活相應に構成され居る。已に琴責[やぶちゃん注:「ことぜめ」。]の戲曲[やぶちゃん注:「じやうるり」。]にも、莊子から、鶴の脚長しと雖も之を斷たば患ひ[やぶちゃん注:「うれひ」。]なん、南方先生は片陰囊[やぶちゃん注:「かたきん」]だが之を整へる[やぶちゃん注:「そろへる」。]と股が擦切ると引たで無い歟。

[やぶちゃん注:「建部綾足の折々草」俳人・小説家・国学者にして絵師でもあった建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年)は陸奥国弘前藩家老喜多村政方の次男として江戸に生まれ、弘前で育った。「折々草」は紀行・考証・記録・巷説などの様々な内容を持った随筆。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期・第十一巻(昭和四(一九二九)年刊)のこちらで視認出来る。標題は『赤間の關の阿彌陀寺幷に平家蟹をいふ條』である。漢字の読みは、リンク先のものと、所持する「新日本古典文学大系」版とを、共に参考にした。

「西澤一鳳の皇都午睡」西澤一鳳(にしざわいっぽう 享和二(一八〇二)年~嘉永五(一八五三)年)は歌舞伎狂言作者で考証家。「皇都午睡」は江戸見聞録。江戸や道中諸国の文化風俗を京・大阪と比べて論じたもので嘉永三(一八五〇)年に上梓されている。国立国会図書館デジタルコレクションの『新群書類從』第一のこちらで視認出来る。標題は『此木戶の錠』。

「國友」「くにとも」で俳号であろう。

「其々生活相應に構成され居る。已に琴責の戲曲にも、」「其々生活相應に構成され居る。」の後に、またまた俗吏批判があるが、見事に消毒抹消さえている。サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」を参照。

「琴責」浄瑠璃「壇浦兜軍記」(だんのうらかぶとぐんき)の三段目初めの部分の通称。「阿古屋の琴責」。畠山重忠が阿古屋(あこや)に琴を弾かせ、その音色が乱れていないことから、阿古屋が景清の行方を知らないことを知るというシークエンス。私の好きな作品である。

「片陰囊」陰嚢の一方が下がっていること。普通、ヒトの場合は殆んど微妙にそうなっているので異常ではない。

「引たで無い歟」引用対象の論考は不詳。

 以下の冒頭箇所は、冒頭で述べた通り、実際には南方熊楠自筆の挿絵を以って説明しているため、編者が文を弄っている。サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」を参照されたい。図はそちらにあるものを以下に掲げておく。図のキャプションは第一図の「ロ」の左上部に「仮面蟹」、第二図の右手下方に「南方写生」とある。キャプションも手書きである。

 

Heike

 

 發端に一寸述た英國の假面蟹は、何故斯樣な形を具ふるかと問ふと、此奴は常に泥沙に身を埋め、喙[やぶちゃん注:「くちばし」。]と眼だけ出て[やぶちゃん注:「だして」。]近處を見廻し、又長き角二つで聞廻し、さて食へ相な小動物が有ると見ると長い手を出して挾み食ふ。食訖て[やぶちゃん注:「くひをはつて」。]忽ち又深く身を埋めるに疾捷い樣[やぶちゃん注:「すばやいやう」。]身が長くて狹く、螯と角が可成[やぶちゃん注:「なるべく」。]遠方へも屆く爲に、細長いのだ。扨亦、平家蟹は[やぶちゃん注:ここは図解以外に官吏を揶揄った文句があるが、やはり総て抹消されている。]上に引た本草啓蒙に見えた通り、四脚は長て[やぶちゃん注:「ながくて」。]橫に付き、今四脚は短くて脊に付き四脚と四脚の屈み樣が違て、橫の奴は這ふばかりだが脊の奴は自在に物に釣(ひつか)かり得る動作如意[やぶちゃん注:「によい」。これは「如意」と「に良い」の掛詞であろう。]と出來居る。僕は歸朝以來十三年熊野に僑居[やぶちゃん注:「けうきよ」。仮住まい。寓居。]し、一向近頃の書籍雜誌を見ぬから斬新な學說に疎遠だが、僕が歐米に居た時、此蟹の脚に關する學說と云たら、ステッビングの介甲蟲篇に槪述された通り、ヘルブストは、此蟹は大小の脚を二列に具へて軀の前の方でも後の方でも走り得るのだと言ひ、或學者は小き脚もて殼背に物を持上るのだと云ひ、又、或は他の動物が其背を犯すを逐除(おひのけ)る爲だと說た[やぶちゃん注:「といた」。]。何れも篤と[やぶちゃん注:「とくと」。]生きた蟹に就て實驗し無(なかっつ)た推測論だ。

[やぶちゃん注:「ヘルブスト」ドイツの博物学者・昆虫学者ヨハン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ハーブスト(Johann Friedrich Wilhelm Herbst 一七四三年~一八〇七年)であろう。英文の当該ウィキによれば、彼は最初の甲殻類に関する最初の完全な調査報告を共同で行ってもいる。]

 然るに和歌山に卅年ばかり前、僕の亡父の持た地面に、丸之内の千草庵迚(とて)名高い風雅な花屋敷が有て、鳥尾得庵なども每々來寓された。主人も至て雅人だ[やぶちゃん注:底本は清音だが、誤植と断じた。]つたが、其子に、今は亡き數に入た鳥崎靜太郞、此人は維新後、東京で物產會を再興した本草家織田信德氏に學び、夥しく蟹類を集めたが、每度平家蟹を生捕て海水に飼養し慰みとした。或日僕に語られたは、[やぶちゃん注:前の句点と、ここの読点は実は逆。誤植と断じて訂した。]此蟹を箸で仰けに仆すと背に附た小き脚で身を柱起(つつぱり)し、造作も無く本位に復る[やぶちゃん注:「かへる」。]と。僕其時十七八だつたが、扨は此蟹風波烈き淺海に住み、仰けに仆されるが每々故、其時忽ち起得る爲に橫と背とに大小二樣の脚を具ふるんだと考へ、日記へ書して現存する。十九の時、米國に渡り卅四で英國から歸り、今度本紙で平家蟹の事を讀む迄別に念に留めなんだ。

[やぶちゃん注:「僕」の一人称がここで解けた気がする。この論考を書いているうちに、以上のことを思い出し、昔の日記を披いて、その未成年の頃の自分を熊楠は、同時に懐かしんでいたのに違いない。

「鳥尾得庵」元長州藩士で、陸軍軍人・政治家の鳥尾小弥太(弘化四(一八四八)年~明治三八(一九〇五)年)。詳しい事績は当該ウィキを見られたい。]

 當田邊町に今川林吉と云人、夥しく蟹類を集め居ると聞いたから、七月十二日の本紙堺の水族館の記に、「滑稽なのは平家蟹で、何か背負て居無(ゐない)と納(おさま)らない性だから嬶が死だら其亡體[やぶちゃん注:「なきがら」。]を死迄(しぬまで)背負て居る。誰も死(しな)ない時は石を背負ふ相な」と有るを見て疑を起し、判斷を問はんが爲め今川林吉氏を訪ふと、唯見る三間半ばかりの表屋を二つに區り、一方は牛肉小賣、一方は斬髮床で、主人林公眉目淸秀音吐嚠喨、晝は剃刀と庖丁を把て雜客の髭髮を剃除し[やぶちゃん注:「そりおとし」。]、夜は早仕舞で風流俳諧を事とする執心の餘り、事に觸れ物に興じて猫洗顏[やぶちゃん注:「ちやうず」。]使ひ犬情[やぶちゃん注:「なさけ」。]を起すも忽ち句を吐ざる無ければ、四隣他(かれ)を開口諧床林[やぶちゃん注:「かいこうかいどこりん」。]と喚び倣(な)す。現に肉を吊げた[やぶちゃん注:「ぶらさげた」。]傍にも一軸を嚴然と懸たるを見ると、賞花庵ぬしの初音を祝ふと題して、「曇りさすまとひも無て和淸天、素雄、藪鶯の老い初めし朝、醉夢」。是は前年初老の時の吟で、素雄は當時の宗匠、主人の號が醉夢だ相な。其他、「海にさす影和らかき茂り哉、醉夢」などと、流行る稻荷祠の手拭の樣に手洗鉢邊は自吟の短册だらけだ。ダーヰンは巴西[やぶちゃん注:「ブラジル」。]の林中に印甸[やぶちゃん注:「インジアン」。]土蕃がヴアーギルやタシツスの古文を玩味し樂[やぶちゃん注:「たのしみ」。]とするを見たとか言が、燈臺本(もと)闇しで御膝元の此樣な所に是程の畸人が居るとは氣が附なんだ。名を聞は面を見るに如ず、面を見るは名を聞くに勝れり、挨拶濟で、平家蟹の一件を持出すと、當地に少なからぬ物故每度畜て見た相で、其經驗談を聞いて大に得る所有た。氏の話に據ると、平家蟹は底が砂で小石が散在する海に棲む、潮水を取替て飼ば幾日でも生居る。仰けに仆せば背の小脚で忽ち身を柱(ささ)え[やぶちゃん注:ママ。]起すは如何にも鳥崎氏の說の如し。だが外に、まだまだ面黑(おもくろ)い事が有る、乃ち彼を飼た水盆中に石片を多く入れ置くと必ず小脚で一石片を負ふ、其から思付て盆の一半を板で蓋ひ薄闇くすると、幾度も幾度も石を背負て陰に運び置廻りて、程無く畑中の糞壺の雨防ぎに被せた藁小屋樣の圓廬を作り、一方に口を開て中に棲む、幾度崩さるゝも倦ず撓まず立直す、此蟹の背に忿怒の面相有るは誰も知るが、腹も熟と[やぶちゃん注:「とくと」。]視ると朧げ乍ら鬼面の相が有る、して見ると甲の内の臟腑の配置が外に露れて偶然異相を示すのだらうと。今迄書物でも見ず氣も付なんだことを敎えられ、大に天狗の鼻も折れ、仕方が無いから、三國志諸葛武侯司馬懿に巾脾幗[やぶちゃん注:「きんかく」。]を贈て戰を挑む、巾幗は婦人の飾り也、懿怒て決戰を請ふ上表の文に、豈知んや乃夫にも功者有りとは貴公などを指たんぢや、陳勝は出世したら相忘れじと言た、立身したら用いて上るから忘れずに居るが可い、然し昔から床屋から立身した人を聞ぬから、此樣な約束は先廢(まづよそ)うと惡まれ口を吐て逃て來た。是は當縣の役人等、人民に對して冷淡無情、物を敎えて[やぶちゃん注:ママ。]貰つて恩を仇で返す事萬づ此通だから、吾輩如き素性の良い者にすら惡風が徙(うつ)つたのぢや[やぶちゃん注:「徏」の最終画右払うがある字体であるが、この字には「移る」の意はないので、「南方熊楠コレクション Ⅱ 南方民俗学」の表記字に従った。]。扨學問は活物[やぶちゃん注:「いきもの」。]で書籍は糟粕[やぶちゃん注:私は二字で「かす」と読む。]だ、書に見當たらぬ事も間違た事も多く、大家碩學の作述には至極の臆說も有るは、上述平家蟹に關する西人の諸說でも解る。

[やぶちゃん注:「書に見當たらぬ事も間違た事も多く、大家碩學の作述には至極の臆說も有るは、上述平家蟹に關する西人の諸說でも解る」この敍述には疑問がある。先行する記述では、西歐の「あ或學者は小き脚もて殼背に物を持上るのだ」と言う各説の一つを挙げており、それが否定される形になるからである。実際に、同じカニ類でも、オオホモラやカイカムリなどで、貝殼・石・スポンジ・カップの蓋などの廢棄物、ヒトデ・ホヤ・ウミサボテンなど、いろいろなものを日常的に背負うことが知られている。ヘイケガニの場合も、第三脚及び第五脚を用いて、同様な行動が観察されている(私も映像で実見している)。これは、本文にあるような巣もしくはアジールを作るための過程行動と解するよりは、カモフラージュのための擬態行動と考えてよいと思われるのである。]

 科學の、學理のと大層に言へど、矢張り過去無數劫來無學の者が經驗を積で來た結果に外ならぬ。指南針、火藥の發明は申すに及ばず、海潮の原理、地震の觀測、彈性護謨の應用、色摺の板行、其他東洋人が西洋人に先鞭を著て成功した者も多く有る。[やぶちゃん注:この間に二千字を越える文章が、カットされている。しかも、それは今までのような官吏批判ではない。文化科学史への南方熊楠の捉え方が書かれている。平家蟹から離れた内容とは言えるが、だからと言ってカットすべき内容ではない。そもそも熊楠の大脱線大作戦は他の論考でもよく生ずることである。何だか、沢山カットしたから、ここも本筋を離れてしまっているから、エイ! と乱暴にカットした感じさえする。オゾマシイ!]假令世に知れずに終るとしても、床林君が二十年前まで(恐くは今日迄も)歐米の學者が確言し得ざりし平家蟹の足に大小有る理由を、誰に敎え[やぶちゃん注:ママ。]られずに氣が付いて實驗確證したのは[やぶちゃん注:ここにもカットがある。サイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」を参照。]偉功ぢや。

    (大正二年九、二十日―二八日不二(新聞)一二四―一三一號及び大正二、一一、一五不二(雜誌)四)  

[やぶちゃん注:最後の段落のカットをしたものをサイト版(横書)「平家蟹の話 附やぶちゃん注」からそのまま「参考」として転写する。

  参考

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 これを和歌山県の俗吏が、東京辺で聞き嚙った筆記を米櫃の材料に町村を押し廻り、実際西洋の大学者よりも近海のことに明るい漁夫を駆り催し、微※浮溝生物(プランクトン)は[注:※=「公」の右上の一画を取り除いたもの。但し、「廣漢和辞典」に所収せず、意味不明。]魚に必要だからそう心得ろなどと、心得たところで何の益もなく、実は欧米ですら何たる定説もないので研究者手最中のむつかしいことを鵜呑みに講じ、それで漁民の膏血から月俸を搾り上げおるなどは、人のために官を設くで顚倒もはなはだし。実は欧米人が調べに来ぬうちに、わが国水産物に関する古伝、俗信、里諺、児謡までも網羅して聴き取り、綜合して発見発明の大材料となし置くべく、それについては一童一嫗の説をも善思(ぜんし)念之(ねんし)すること、上に述ベたゲスネルが生物学中興に尽力奔走、日もまた足らざりしがごとくなるべきだ。右床林君の独立観察の大益ありしに感じ、平家蟹の話を述べた中ほどで俗吏蟹と改称して見たが、「衣(ころも)新しきに如(し)かず、友旧(ふる)きに如かず」で、かかる慣れ来たったことは容易に改め得ぬもの、また改めて何の益なきことと悟った。官人が日傭根性で神社合祀とか講習開催とか入りもせぬことに人騒がしをやり、手間賃を取るもその時ばかりで跡を留めず元の木阿弥に復(もど)るもこの例に同じ。

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