柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狐の老人」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
狐の老人【きつねのろうじん】 〔思出草紙巻二〕世に云ひ伝へて、老いたる狐、人に化したりといふ事あり。この事しらず思ふ所、享保年中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]浪華《なには》に名高き古林見祇といへる良医ありて、世にしられたる者なり。この古林見祇、いまだ年若き頃、学問に心元[やぶちゃん注:以下に示す原本活字本では、普通に『心え』とある。]を砕きけるが、その頃難波《なには》に名高き儒医の元に、同居して勤学怠らず。真田山の辺りに、年七十歳にこえたる老人夫婦あり。何事をなす業《なりはひ》もなく、只世にゆるやかに暮し居けるが、この老士博学多才にして、また医道にも達しけるまゝ見祇もよき友を得たりとおもひ、ひまをかぞへて音信(おとづれ)つゝ懇意になして、迷へる事を聞《きき》てあきらめぬる事多し。然るに彼ら夫婦が世を渡る風情こそいぶかしき事は、毎朝野菜のたぐひ、時々の畑の物を、何国(いづく)より持来れるともしらず、戸外に有りしが、多少さだまらず。何品にても有丈け調菜なし置けば、その日の菜の分限など、客来りてその入用に残らざるなり。斯《か》くある事、風雨寒暑の分ちなく、一日も欠けたる事なし。何国の出生と問へども、しかと答へず。親類一族のある体《てい》もなく、只豊かに世を送りけり。或る時、見祇は老人が元に至り、四方山《よもやま》の物語りして居《をり》ける折から、外面《とのも》に案内《あない》して立派に出立《いでた》ちぬる健士、羽織はかまの礼にて、老人夫婦の前に礼を尽して後に、老人に向つていはく、この程は厚き御世話有難く、御礼の為参上せりとて平伏す。老人が曰く、以来をたしなんで然るべし、我《われ》漸々《やうやう》わびごとして済《すま》したり[やぶちゃん注:原文も同じだが、「と」が欲しい。]。かの武士、悦びの色面《おもて》に顕《あらは》れていはく、以後は急度(きつと)慎むべしとて、誤り人たる風情なり。老人は妻に向ひ、先程の品有るべし、給(たべ)させよといひければ、妻はかひがひしく立《たち》て、片へに有りし牡丹餅を菓子盆に入れて、士の前に出したり。士悦んでいはく、これこそ好物の品なりとて、直《ぢき》に喰ひけるを、見祇見やれば箸持てる体《てい》もなく、口を寄せてくらひける有様、さながら犬猫の食するに同じ。見祇も不思議の事に思ひしに、老人問ひていはく、汝今より帰宅なすか。士答へていはく、暮時頃には帰家致すなりとて、暇《いとま》を乞ひて立帰りぬ。跡にて見祇は老人に向ひ申しけるは、今の士は何方《いづかた》の人にて候ぞ。老人がいはく、渠《かれ》は丹波の笹山の者なり。見祇これを聞き、心中におどろき、今七ツ時<午後四時>なり、この地より笹山まで十六里余なり、その行程暮時《くれどき》に帰家するとの言葉、いぶかりの風情有るを見て、老人のいはく、渠は人間にあらず狐なり、この程悪心にて人をたぶらかしたるに依《よつ》て、吉田家より咎め申付けたるを、我《われ》詫言《わびごと》し遣《つかは》したり、これに依てその礼に来《きた》るなり、今の士の衣類、地合、染色、覚え居《をり》給ふか。見祇考ヘていはく、只立派とのみ覚えて、何色の品とも相分らず。老人笑つていはく、さればこそ、狐の人に化しては、その衣類、跡にて思ふに別らざるものなりとぞいひけるとなり。この老人も後には何方《いづかた》へ宅を移したるや。その行方《ゆくゑ》しれざりし。これも老狐のなるべしとて、見祇直《ぢき》に物語りぬるかし。その門弟たる老医の話に聞けり。→狐と牡丹餅。
[やぶちゃん注:「思出草紙」「古今雜談思出草紙」が正式名で、牛込に住む栗原東随舎(詳細事績不詳)の古今の諸国奇談珍説を記したもの。『○狐、人に化したる事』がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここから(左ページ末)正規表現で視認出来る。
「古林見祇」不詳だが、江戸時代前期の名医として古林見宜(ふるばやしけんぎ 天正七(一五七九)年~明暦三(一六五七)年)がいる。播磨出身で、曲直瀬正純(まなせしょうじゅん)に師事し、大坂で開業の後、京都嵯峨に堀杏庵とともに学舎を建てており、弟子に松下見林・養嗣子古林知足(見桃)らがいる。音読した場合の「ふるばやしけんぎ」の読みが一致する以上、この人物は、この古林見宜の半世紀後の直系の弟子と考えてよいだろう。
「→狐と牡丹餅」本書では、こうした本文内の「見よ(参考)見出し」は極めて異例。「狐と牡丹餅」を見られたい。同じ狐の変じた人の着衣の視覚的異常の記載がある。]
〔耳嚢巻四〕丹波の国、所は忘れしが、富家の百姓ありしが、その家にある翁《をう》の、山の岨《そは》[やぶちゃん注:崖。]に穴居して衣服等も人間の通り、食事もまた然なり。年久しく仕へして、幼児を介抱などし、農事家事とも手伝ひ、古き咄などする事は、さらに人間とは思はれず。されども年久しくありければ、家内老少とも、これを調宝して、怪しみ恐るゝものなし。然るに、あの時、かの家長にむかひて、我等事、数年爰元にありて、恩遇捨てがたしといへど、官途の事にて、この度上京し、永く別れを告ぐるなりと語りける故、家長はさらなり、家内共々大いに驚き、御身なくしては、我家いかばかりか事足るまじ、殊には数年《すねえん》の知遇とて、切《せち》に留めけれど、叶はざる事とて、明《あけ》の日よりいづちへ行きけん、行衛《ゆくゑ》しれざれど、彼《かの》翁別れを告ぐる時、若し恋しくも思ひ給はゞ、上京の節、富士の森にて、おぢいと呼び給ふべし、必ず出《いで》て対面せんといひし故、始めて狐なる事を知りて、藤の森に至り、うらの山へ行きて、おぢいと呼びしかば、彼翁忽然と出で来りて、安否を尋ね、四方山《よもやま》の物語りし立別れける時、御身の知遇忘れがたければ、この上《うへ》家の吉凶を、前広《まへびろ》に告げん、狐の三声づつ、御身の吉凶に付《つき》啼《なき》なば、その慎《つつしみ》その心得あるべきといひて、立別れしが、果してそのしるしの通りなりし由。
[やぶちゃん注:私の正規表現電子化(訳注附き)の「耳嚢 巻之四 人間に交」(まぢはる)「狐の事」を見られたい。]
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