「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「水の虻」
[やぶちゃん注:本電子化はサイトの「心朽窩新館」で偏愛する『ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士訳(附 Jules Renard “ Histoires Naturelles ”原文+やぶちゃん補注版)』を公開している(新字新仮名戦後版)が、今回は国立国会図書館デジタルコレクションの正字正仮名のもの、戦前の岸田國士譯ジュウル・ルナアル 「博物誌」(昭一四(一九三九)年白水社刊)の画像(リンク先は当該書の標題附き扉二)を視認出来るようになったことから、それをブログ版として、新規まき直しで、零から始めることとしたものである。詳しくは初回の冒頭注を参照されたい。
また、ボナールの画像に就いては、十六年前のそれではなく、再度、新潮文庫版のそれを、新たにOCRで読み込み、補正・清拭して用いる。注も一からやり直すこととし、原文は前回のものを調べたところ、アクサンテギュの落ちが有意に認められたので(サイト版は敢えてそのままにしておいた)、新たにフランスのサイト“TEXTES LIBRES”の電子化された同書原文のものをコピー・ペーストさせて戴くこととすることとした。]
水の虻(あぶ)
牧場の眞ん中にはたつた一本の槲(かしは)の樹があるきりだ。で、牛どもはその葉蔭をすつかり占領してゐる。
ぢつと首をたれ、彼等は太陽の方に角を突き出す。
これで、虻さへゐなければ、いい氣持だ。
ところが、今日は實際のところ、虻が喰ふこと、喰ふこと。貪婪に、無數に群がりながら、黑いやつは煤の板のように塊つて、眼や鼻の孔や脣のまはりにへばりつき、蒼いやつは、特に好んで新しい擦り傷のあるところへ吸ひつく。
一匹の牛が前掛を振ふか、或は乾いた地面を蹄で蹴るかすると、虻の雲が唸り聲を立てて移動する。ひとりでに湧(わ)いて出るやうだ。
おそろしく蒸(む)し暑い。で、婆さん連中は、戶口の所で、暴風雨(あらし)の氣配を嗅ぎ、こはごは冗談を云ふ。――
「そら、ゴロゴロさんに氣を付けな」と、彼女らは云ふ。
向ふの方で、光の槍の最初の一閃が、音もなく空を劈(つんざ)く。雨が一滴落ちる。
牛もそれに氣がつき、頭をもち上げる。槲の木のはづれまでからだを運び、辛抱强く息をはいてゐる。
彼等はちやんと知つてゐる。いよいよ、善い虻がやつて來て、惡い虻を追ひ拂つてくれるのだ。
最初は間をおいて、一つ一つ、やがて隙間なく、全部ひと塊になつて、ちきれちぎれの空から、一方が雪崩れ落ちると、敵は次第にたじろぎ、まばらになり、散り散りに消え失せる。
やがて、そのあぐら鼻の先から、一生摺り切れない尻尾(しつぽ)の先に至るまで、牛どもは勝ち誇つた水の虻の軍勢の下で、全身瀧となつて、心地よげにからだをくねらせ始めるのである。
[やぶちゃん注:挿絵から、哺乳綱鯨偶蹄目反芻(ウシ)亜ウシ科ウシ亜科ウシ族ウシ属オーロックス(英語:Aurochs:家畜牛の祖先。一六二七年に世界で最後の一頭がポーランドで死に、絶滅した)亜種ウシ Bos primigenius taurus で、「ホルスタイン」(Holstein)を含むウシ類。カシワ・ナラなどのブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称で「オーク」と訳すのが、最も無難な、特にその代表種である模式種ヨーロッパナラ(ヨーロッパオーク・イングリッシュオーク・コモンオーク・英名は common oak )Quercus robur 。節足動物門昆虫綱有翅昆虫亜綱双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目アブ科アブ属ウシアブ群ウシアブ Tabanus trigonus 又は Tabanus sp.。大型のアブで、♀はウマやウシなどの動物の血(ち)を吸い、ヒトも襲う。毒はないが、刺した際、チクッと痛み、後でかなり痒くなる。私は二十二年前、奥鬼怒温泉の「八丁の湯」に連れ合いと行ったとき、コヤツがワンサかおり、自主的に蠅叩きで、二十匹近くあの世に送った。すると、傍にいた湯守の老翁が、「ご褒美!」と言って、コップすり切れの日本酒を一盃恵んで下さったのを忘れない。
「ぢつと首をたれ、彼等は太陽の方に角を突き出す」辻昶訳一九九八年岩波文庫刊「博物誌」では、この一文を『頭を低く下げ、角(つの)を見せて、お日さまをあざけっている。』と訳され、注があり、『フランスでは、人をあざけるときに、両手のひとさし指で角(つの)のかっこうをしてみせる。牛が太陽に角を見せているのが、太陽をあざけっているようにみえるわけである。』とあった。]
「一匹の牛が前掛を振ふ」同前で、辻氏は、『牛が皮のエプロンをふるったり』と訳され、注に、『牛ははえを追うおきに、皮膚をぴくぴくけいれんさせる』とある。]
*
LES MOUCHES D'EAU
Il n'y a qu'un chêne au milieu du pré, et les boeufs occupent toute l'ombre de ses feuilles.
La tête basse, ils font les cornes au soleil.
Ils seraient bien, sans les mouches.
Mais aujourd'hui, vraiment, elles dévorent. ocres et nombreuses, les noires se collent par plaques de suie aux yeux, aux narines, aux coins des lèvres même, et les vertes sucent de préférence la dernière écorchure.
Quand un boeuf remue son tablier de cuir, ou frappe du sabot la terre sèche, le nuage de mouches se déplace avec murmure. On dirait qu'elles fermentent.
Il fait si chaud que les vieilles femmes, sur leur porte, flairent l'orage, et déjà elles plaisantent un peu :
- Gare au bourdoudou ! disent-elles.
Là-bas, un premier coup de lance lumineux perce le ciel, sans bruit. Une goutte de pluie tombe.
Les boeufs, avertis, relèvent la tête, se meuvent jusqu'au bord du chêne et soufflent patiemment.
Ils le savent : voici que les bonnes mouches viennent chasser les mauvaises.
D'abord rares, une par une, puis serrées, toutes ensemble, elles fondent, du ciel déchiqueté, sur l'ennemi qui cède peu à peu, s'éclaircit, se disperse.
Bientôt, du nez camus à la queue inusable, les boeufs ruisselants ondulent d'aise sous l'essaim victorieux des mouches d'eau.
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