譚海 卷之五 江戶深川靈光院塔中養壽院弟子俊雄事
[やぶちゃん注:句読点・記号・読みを変更・追加した。書付けの文は句読点を使わず、代わりに字空けをして読み易くした。]
○江戶深川靈光院地中(ぢちゆう)、養壽院といふに、俊雄(しゆんゆう)といふ所化(しよけ)あり。平生、正月廿五日圓光大師の御忌に、往生を遂度《とげたき》よし、人にもかたりけり。天明七年正月廿五日養壽院の住持、他行《たぎやう》の留守をせしに、俊雄、下部(しもべ)をたのみて、いふやう、「けふは、同寮の者に誘引せられて、據(よんどころ)なく、遊女の所へ行(ゆく)べきやくそくをせし也。今更、いなみがたければ、何とぞ、此衣類を、ひそかに典物(てんもつ)にして、金子壹兩壹步、こしらへくれよ。」とて、衣服を、あまた取出(とりいだ)して、あつらヘけるに、いなみけれど、再應、わりなくたのみければ、あるまじき事にもあらずと覺えて、此男、うけがひて、質屋へ持行(もちゆき)、右の金子、調へ來り、「小袖、金子の價(あたひ)より、おほかりし。」とて、「三つ、戾し侍りぬ。」と、いひければ、此僧、大によろこび、やがて金子を錢に兩替し、此男にも、酒・豆腐など求(もとめ)て、振舞(ふるまひ)て、扨、我が部屋に入(いり)て、轉寢(うたたね)などして、晚景に成(なり)て起出(おきい)で、「かならず、院主へ沙汰ししらすな。」と、堅く口がためして、出行(いでゆ)けり。其夜も歸らず、翌朝、俊雄の同伴、澄嚴といふ僧、この程は靈岸寺の地藏の守僧なるが、元來、養壽院にありし事なれば、いつも晨朝(しんてう)のつとめには、養壽院に來(きた)る事とて、廿六日早朝、來り、「院主は、いまだ臥(ふし)て起居(おきをら)ざれば、先(まづ)佛前に參じて禮をせん。」とて、見れば、かたわらに俊雄の位牌、立(たて)てあり。年月も願(ぐわん)の如く、昨日の事にしるし付(つけ)たれぱ、大に驚きながら、又、無常のはかなき事を思ひやり、多年、願ひ、成就せし事も、たのもしく覺えて、『いと、あやし。』と、おもひながら、「先(まづ)、禮せん。」とて、りんを打(うち)たるに、一向に、ひゞき出(いで)ず。又、打(うち)たれども、同じ事にて、何やらん、内に有(ある)やうにおぼへ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、手を指入(さしいれ)て見れば、りんの底に、鳥目貳百文、紙につゝみて、有(あり)。取あげてみれば、俊雄の手跡にて、「くはしき事は 拙僧 單笥の引出しの内に有ㇾ之(これあり)」と書付あるゆゑ、いよいよ、驚き、いそぎ、院主をおこして尋(たづね)けるに、院主も、位牌を見て、初めて、おどろき、諸共(もろとも)に單笥の内を穿鑿しければ、書置(かきおき)の一紙あり。壹兩壹步の錢を、三百文づつに包(つつみ)わけ、同法知音(ちいん)の僧に分ちやるべき名を、殘りなく記し、小袖・帶の類(たぐひ)迄も、皆々、形見に配頌すべき書付、つまびらかに有(あり)。「年來(としごろ) 御忌の日に往生とげたき念願なりしが 年を經て もだしがたく 今日(けふ) しきりに往生の機(き) 進み侍れば 思ひ立(たち)て 本望をとげ侍る されども 死該は 決して見せまじき」よしをしるせり。皆々、殊に尊(たつと)く、哀(あはれ)を催して、感淚を押(おさ)へかねて、別時念佛など、いとなみて、後々のとぶらひまで、ねんごろにしけると、人のかたりし。
[やぶちゃん注:津村がかく記したによって、無名の俊雄の事績は、かく、残った。何か、私は非常に胸打たれた。
「江戶深川靈光院地中、養壽院」前者は東京都墨田区吾妻橋に現存する。浄土宗瑞松山榮隆院霊光寺(グーグル・マップ・データ)である。いつもお世話になる「猫の足あと」の同寺の解説によれば、『霊光寺は、木食重譽上人霊光和尚を開山として創建、寛永』三(一六二六)年、『寺院となしたと』伝えるとある。「養壽院」は現存しないようだが、「塔中」(塔頭(たっちゅう)に同じ)「地中」とあるから、この現在の霊光寺境内にあったものである。
「所化」修行中の僧を指す語。
「圓光大師」法然の没後四百八十六年後の元禄一〇(一六九七)年一月十八日、東山天皇より勅諡された法然の大師号。
「天明七年正月廿五日」グレゴリオ暦一七八七年三月四日。
「別時念佛」道場や期間を定めておいて、その間、只管、称名念仏行に励むこと。「WEB版新纂浄土宗大辞典」の当該項によれば、法然は「七箇条の起請文」で『「時時(ときどき)別時の念仏を修して心をも身をも励まし調え進むべきなり。日日に六万遍を申せば、七万遍を称うればとてただあるも、いわれたる事にてはあれども、人の心様はいたく目も慣れ耳も慣れぬれば、いそいそと進む心もなく、明暮あけくれは心忙しき様にてのみ疎略になりゆくなり。その心を矯め直さん料に、時時別時の念仏はすべきなり」(聖典四・三三八/昭法全八一二~三)といって、日々六万遍、七万遍の称名念仏を修することが望ましいと常に心得ていながらも、その気持ちは日々の生活の中で薄れてしまうものであるといい、その気持ちを正すために』、『時々』m『別時の念仏を修するべきであるとしている。また続けて、「道場をも引き繕い花香をも参らせん事、殊に力の堪えんに随いて飾り参らせて、我が身をも殊に浄めて道場に入りて、あるいは三時あるいは六時なんどに念仏すべし。もし同行なんど数多あらん時は、替る替る入りて不断念仏にも修すべし。かようの事は各事柄に随いて計らうべし。さて善導の仰せられたるは、月の一日より八日に至るまで、あるいは八日より十五日に至るまで、あるいは十五日より二十三日に至るまで、あるいは二十三日より晦日に至るまでと仰せられたり。各差し合わざらん時を計らいて七日の別時を常に修すべし。ゆめゆめすずろ事ともいうものにすかされて不善の心あるべからず」(聖典四・三三九/昭法全八一三)ともいい、道場も花を供えて』、『香をたくなど』、『できる限り整え、一日を六時間に分けたなかの』、『三時もしくは六時に念仏行をするとし、一日から八日、また八日から一五日など、期間を定め、不善の心を起こさずに念仏すべきであるとしている。また、聖光は』「授手印」を『記して』、『世に広まっていた誤った念仏義を正そうとした際に、肥後往生院と宇土西光院にて四十八日の別時念仏を修したとされている。また』、「西宗要」では、『「日を一日七日に限り、若しは九十日に限り、其の身を清浄にして清浄の道場に入り、余言無く、一向に相続無間に称名するを以て別時と云なり」(浄全一〇・二〇八上~下)といって、期間を決めて絶え間なく念仏行を修することであると細かく示しており、また』、「浄土宗名目問答」の下では、『道場を荘厳』(しょうごん)『し、自身を清浄にする方法が細かく示されている(浄全一〇・四一七下~八上)』とある。]