柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「双頭蛇」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
双頭蛇【そうとうだ】 〔兎園小説第六集〕文化十二年乙亥秋九月上旬、越後魚沼郡六日町の近村余川村<新潟県南魚沼市六日町内>の民金蔵、双頭蛇をとらへ得たり。この金蔵が隣人を太左衛門といふ。この日金蔵、所要ありて門辺《かどべ》にをり。その時件《くだん》の蛇、地上より走りて隣堺《となりさかひ》なる垣に跂(ふし)登るを[やぶちゃん注:私は宵曲のルビには従わない。「つまだちのぼるを」と訓じておく。「伸び上がるように立ち登ったのを」の意。]、金蔵はやく見だして、箒《はうき》をもて払ひ落としつゝやがてとらへしなり。この蛇、長さ纔かに六寸あまり、全身黒く、只その中央は薄黒にして、腹は青かり、則ち桶に入れて養(かひ)おきけり。近郷伝へ聞きて、老弱《らうじやく》日毎に来たりて観るもの甚だ多し。はじめこの蛇の肢出《つまだちい》でんとするとき、双頭をふりわけ、左の頭《かしら》は左にゆかんとするごとく、右の頭は右にゆかんとするがごとし。既にして双頭一心に定むる時は、真直に走るといふ。また桶に入れて屈蟠(わだかまる)ときは、双頭かさなりてよのつねの小蛇の如し。時に近郷の香具師《やし》、これを数金《すきん》に買ひとりもて、見せものにせんとはかる。その事いまだ熟談せざりし程に、忽ち猫に銜《ふく》み去られて、これを追へども終に及ばず。主客望《のぞみ》を失ひしといふ。当時同郡塩沢の質屋義惣治《ぎそうぢ》、その略図をつくりて家厳《かげん》[やぶちゃん注:他人に自分の父を言う語。この報告は「琴峯舎」によるもので、琴峯舎とは、馬琴の一人息子で陸奥国梁川藩主松前章広出入りの医員であった滝沢興継(おきつぐ:医名は「宗伯」)ことである。但し、彼の報告の多くは父馬琴が代作したものと考えられている。但し、絵の才能はあり、この話に添えた絵も興継の描いたものであると思われる。彼は馬琴が元の武士に戻る熱望を一身に受けた愛息であったが、病弱で、父に先立って数え三十九歳で天保六(一八三五)年に死去してしまう。]におくりぬ。かの金蔵は、義惣治が亡息の乳母の子なり。これによりてその蛇をとりよして、よく見て図したり。こは伝聞にまかせたるそゞろごとにはあらずとぞ。<『兎園小説第二集』に文政七年江戸本所の話がある>
[やぶちゃん注:私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 双頭蛇』を参照。挿絵はこれ。宵曲! なんで絵を載せない!?!
「『兎園小説第二集』に文政七年江戸本所の話がある」私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 兩頭蛇』(第二集の掉尾)を参照。そちらにも図がある。因みに、こちらの報告は「海棠庵」。本名は関思亮(せきしりょう)。書家関其寧(きねい)の孫。祖父とも合わせて馬琴と親しかった。]
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