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2023/11/05

譚海 卷之七 俳諧師某備中穢多の所に止宿せし事(フライング公開)

 

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。かなり、長い。]

 

○俳諧師蓼太といへるものの弟子宿願ありて、備中の國、吉備津宮(きびつのみや)にまうでけるに、其國にいたつて不ㇾ知案内故、日暮ぬれど宿かさぬ事をしらで、只壹人たどりたどり往(ゆき)けるが、ある家に入て切に一宿を乞けれど、一人旅のものは宿かさゞるをきて[やぶちゃん注:ママ。「掟」は「おきて」でよい。]のよしにていなみけるが、その人敎(をしへ)ていふやう、

「此先、二町餘りゆけば、河(かは)、有(あり)、わたしもあり。御宮(おみや)へ參詣のもののよし申給はば、いつにても、わたしくれるなり。扨、其川をこえ、右のかたに、美々敷(びびしき)屋作(やさく)あるべし。其家に入(いり)て賴(たのみ)給はば、もし、宿(やど)をかし申べくや。」

と、敎へけるまゝ、力を得て、行(ゆき)たるに、いひしごとく、川、あり。川をも、渡守を賴(たのみ)て、こへつゝ、むかひにいたれば、案の如く、いかめしき家あり。

 門をたゝきて、

「行暮(ゆきくれ)たる者なるが、宿をかしたぶべき。」

よし、いひ、入(いり)ければ、そのもの、

「しばし、またせ給へ。」

とて内に入て、やゝ有(あり)て、出來て、

「こなたへ。」

と請じければ、うれしくて、ともなひ入てみるに、玄關よりはじめ、住居、いみじく、

『諸侯の如く、もしくは、素封(そほう)の人にや。』

と、うたがひけるに、あなひ[やぶちゃん注:ママ。「案内」。]せしかば、それにしたがひて、書院に入、旅よそひ、解(とき)てくつろぎ居(ゐ)たるに、ほどなく、人、きたりて、

「あるじ、御目にかゝり申度(まうしたく)。」

と申せしかば、

『いかなる事。』

と、ひかへい[やぶちゃん注:ママ。]たるに、とし頃、四十斗りの總髮のあるじ、名乘して出《いで》て、對面せしに、事がら品藻(ひんさう)[やぶちゃん注:対象者の様子を品定めすること。]、有(あり)て、おもおもしく見えける。

「幸の事にて、とはせ給ふ、我等事、旅人をやどしまいらする念願ゆえ、よき事におもひ侍る。少しも心置(こころおき)給ふべからず。御宮もうでのよし、是よりは一日にちかく侍るまゝ、先々(まづまづ)、われらかたに、ゆるりと休息ありて、くたびれを、いこひ、さて、參詣し給ふべし。さるにても江戶より、はるばるおはせしが、何を業(なりはひ)にし給ふ。」

など、ねもごろに、とひければ、

「我等事。はいかいを業とし侍りて、一所不往同前の事にて侯。」

など、かたりあひて、あるじ、入(いり)て後、ほどなく、

「風呂に入(いる)ベき。」

由、人、來りて、いひければ、行(ゆき)てみるに、座敷、二間・三間、いと廣き所を過(すぎ)て、湯殿の容體(ようたい)もいときらゝかに、あたらしきゆかたなど、もふけて、もてなし、殊にあつき體(てい)なれば、かへりて痛入(いたみいり)、やうやう、ことはりいひて、わがあるふるゆかたにて、事を調へ、もとの座敷へ歸(かへり)たれば、又、

「夕飯、めせ。」

とて、調味(てうみ)數事(すうじ)、好(よく)とゝのへたるを出(いだ)して、食せしめたり。

 其後(そののち)、夜の物までも、きよげに仕立たるをもて出(いで)て寢させなどすれば、いとおもひかけぬ心地ながら、たのもしく覺えて、其夜は、そこにふしたり。

 あくる朝も、膳部、おなじさまにて調(ととの)へ、ねもごろにもてなしぬる後、あるじ、又、出來て、しばらく物語りて、入(いり)て後、壹人、又、出來て、

「あへ、しらひつゝ、あるじ、申付候。『けふは、必(かならず)、こゝに、とまり給ふべし。俳諧を好(このみ)給ふ由、承(うけたまはり)候まゝ、拙者に御相手に參るべき。』由、申付られぬるまま、參りたり。」[やぶちゃん注:「あへ」は「饗」。食事のもてなしを言う語。]

とて、やがて、ひとつ、ふたつ、物語りに、發句(ほつく)など出來て、それを始にして脇第三句など、いひつゞけぬれば、たがひに、つけあひて、百韻にさへなりぬれば、其日も、夕陽にいたりぬるまゝ、其儘に、そこにとまりたるに、夜に入て、はるかに琴の音(ね)の聞ゆるを、ふと、聞(きき)つけたるに、唱歌も、いとやさしく、おもひかけぬ心地して、獨(ひとり)聞居(ききゐ)たるに、初夜過る頃、老たる女、壹人、出來て、こまやかに物とひ、かたらへなどして、

「いと、おもひかけぬやうにあるべけれども、ぬしの年も、まだ、いとわかきよしに見へ給ふにつけて、こなたのあるじ、はじめ、對面ありしより、殊に心をとめ給ふ事になん、聞(きき)まゐらすれば、殊に、はいかいを業として、一所不住の御身にもましますよし。あるじの、殊更に、ねがひ侍る所なり。同じくは、御主(ごしゆ)、今宵より、こなたのむこ君(ぎみ)になしまゐらせたく、うちうち、思ひより給ふにつけて、みづからに此由物がたれと有しまゝ、かく、まゐりしなり。宵より聞せ給ふ琴、引給ふ娘、則(すなはち)、あるじの獨子(ひとりご)にて、見(み)めも、ことにすぐれ、心ばへも、なだらかに有(あり)。ことし、十八に成(なり)給へど、今迄、むこがねをえらびて[やぶちゃん注:聟殿を殊に厳しく詮議して選んでおりました結果。]、ひとりにておはせば、是まで、かく、旅の人々をとめて、もてなしまゐらするは、誠は、むこがねをえらび給ふなり。かく侍る上は、御(おん)ぬしなん、うけがひ給はば、わらは、しるべ、まゐらせて、今宵、此娘のかたへ行(ゆき)て、とまり給ふべし。此事、御心(みこころ)にうけがひ給はば、けふよりして、世の中の事、何事も、御心にねがはしき事は、かなへまゐらすべし。まして、こかね[やぶちゃん注:黄金。]など取つかはせ給はん事は、年に千萬兩ついやし給ふとも、御心のまゝなるべし。あへて、まづしきふる廻(まひ)は、せさせ給まじ。」

など、さまざま、事よく、いひすゝむるに、此男、いと心得ぬ事に覺(おぼえ)て、

『いづれ、樣(やう)ある事、なるべし。』

と、おもひければ、とみにうけひかず、

「かくしらぬ國のものを、かうまで、の給ふあるじの御心(みこころ)、何かは、もだし侍るべきならず、忝(かたじけ)なくは覺えぬれど、ひたすら江戶より思ひ立(たち)ぬるは、御宮參詣の事を、年比(としごろ)の念願にてあれば、ここまできて、その參詣もはたさず、わたくしの事に、とどこほらんも、心ならねば、先(まづ)、あしたに御宮に參(まゐり)て念願をとげ、さて、歸路に、又、とひまゐらせてこそ、の給はすやうは、いかにも、うけこひ侍るべし。」

と、いらへければ、老女、打悅(うちよろこび)て、

「さては。わらは、申事(まふすこと)得心し給ふ。いと、嬉敷(うれしき)事になん。先(まづ)、あるじにも、其由、申して、悅ばせ侍らん。」

とて、かたらひさして、立(ちち)て行(ゆき)ぬ。[やぶちゃん注:以下は底本でも改行して段落がある。]

 さるにても、

『此一儀、心得がたき事。』

と、とかく思ひつゞくるに、夜も、いと、ねられず、

『とく、夜のあくるを待(まち)て、先(まづ)、御宮參詣をはたさば、夫(それ)につけて、おのづから、事のよしも、しらるる事、あるべし。』

など、夜一よ、ふしわびて、夜の明ぬれば、うれしく、いそぎ、立出(たちいで)んとするに、例の如く、朝飯など、てうじ出(いだ)し、あるじも出て、心よく、あへしらひ、

「けふのほど、御宮參詣し給はば、必(かならず)、今宵は、こゝに、歸り、とまり給へ。」

など、ねもごろに、いひ契りて、わかれいでぬ。

 此家を出(いで)て、四、五町、行(ゆき)ぬれば、すこしの町家ある所に至(いたり)ぬ。

 そこにある見世(みせ)に老女の居(ゐ)たるに、立寄(たちより)て、しばらく物語し、

「此跡(こあと)の、川のちかき所なる大(おほき)なる家ある人は、何ものに侍るか。」

と、とひしに、老女、打笑ひて、

「さては。旅人は、昨夜、かしこに、とまり給ふにや。」

といふ。

 猶々、

「いぶかしく思ひ侍るに付(つけ)て、心得ぬ事のあれば、問參(もんさん)するなり。猶、敎(をしへ)て給へ。」

と、いへば、又、老女、打わらひ、

「何かは、かわりたる人にも侍らず。只、有德成(うとくなる)人に侍るになん。」

と答(こたへ)て、こまかにもあへしらはねば、せんかたなくて、立出(たちいで)つゝ、又、町家を過(すぐ)るに、若きもの、五、六人、居て、箱、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、棒(ぼう)抔、造りて、ひさぐ家、有(あり)。

 こゝに立寄(たちより)て、やすらひ、火をもらひて、たばこ抔、すひつゝ、さて、かしこの家の事をとひしに、皆々、顏見合(みあはせ)て、打笑ひて、答へず。

「しひて[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、ひければ、

「さては。かしこに、とまり給ふ人成(なる)べし。さのみ、かはりたる家にもあらず。有德なる者に侍る。」

と答て、何事もいはずあれば、いよいよ、いぶかしながら、先(まづ)、こゝをいでて、晝の程、吉備津宮に參詣をとげ、夕づけて、又、たばこ、すひたる家の前を過(すぎ)て、若者は、皆々、出行(でゆき)て、あるじ獨(ひとり)居(をり)たれば、殊更に立入(たちいり)て、

「今朝(けさ)、こゝにて、かしこの家の事、とひまひらせしかど、人々、只、打笑(うちわらひ)て、はかばかしき答(こたへ)も、なし給はず。さるにても、我等事、かしこに一宿せしにつけて、いと心得ぬ事の侍れば、又、押返し、かく、とひまゐらするなり。あはれ、何事も、かくさず、敎へ給へ。」

と、ねもごろにいひければ、あるじ、

「しからば、そこのきのふの夜、かしこにとまり給ひし時、むこにせんとは、申さずや。」

と、いひければ、猶々、あやしみて、

「いかにも。申給ふごとく、われを『達(たつ)て、むこにせん。』と。いなみがたくありしかば、『先(まづ)、けふは、宮へ參りてこそ、とも、かふも、侍らん。』と、申せし。」と、いへば、

「さればこそ、しかあるべしとおもひ侍れ、あしき事にも有(あら)ず、其むこに成(なり)給はば、よからん。」

と云(いふ)に、

「かくの給ふにつけて、ふしん、はれず。『何しに、我等如き、行衞(ゆくへ)もしらぬ旅人を、かくは申(まふす)事にや。』と、おもへば、とかく、つゝまず、敎へ、しらせ給ひて、われらがふしん、はらさせ給へ。」

と、ひたぶるに、いふ時、

「何か惡敷(あしき)事、侍らん。彼者(かのもの)は、此國の穢多(ゑた)の頭(かしら)に侍りて、金銀は、巨萬にあまり、中國には並(ならび)なき有德(ゆうとく)の聞えあるものなり。夫(それ)につけて、渠(かれ)が娘、只、ひとり、あるうへに、みめも、人にすぐれ、いとほしうおもひ侍りて、『何とぞ、此娘、ゑたの家、つがせんも、口をし。何とぞ、いかなるものにてもあれ、只の人の妻になして、穢多のはづかしめをうけさせじ。』と、常々、願ひ侍るにつけて、放人をとゞめては、よき人あらば、むこにし侍(はべら)んとかまふる事は、人も、しり侍る事なり。そこの、かく思ひこまれ給ふも、緣ある事なるべし。えた[やぶちゃん注:ママ。]のむこに成(なり)たる斗(ばか)りにて、其家を、つがむ事にも、あらず。何事にても、業(なりはひ)をたて、此國に成(なり)とも、京・大坂・故鄕の江戶成(なり)とも、おはさんに、あしき事、ならず。」

と、いへば、是を聞(きき)て、宵よりの疑ひ、殘りなく、はれたるに付(つき)て、

『いかにあればとて、穢多の黨(たう)に緣をむすばん事、くやしき事。』

に、おもへば、

「われは、中々、さようには成(なる)まじ。」

と、いふに、

「愚成(おろかなる)事の給ふ哉(かな)。かく、ゆるし給しかば、もはや、そこの往來(わうらい)に人を付(つけ)て、とりにがさぬやうに、かまへて、たとへ、今宵、いづくにかくれ給ふとも、よも、見出(みいだ)されずしては、あるべからず。今は、のがれがたき所なれば、いそぎ、其むこに成(なり)給へ。」

と、いふに、いよいよ、おそろしく、口惜しく覺(おぼえ)て、

「いかにの給ふとも、我等、えたのむこに成(なり)ぬべしと、おぼえず。此上は、ひとへに、たのみ奉るまゝ、何卒(なにとぞ)、此なんぎを、すくひて、事なく、こゝを、のがるゝやうに、なして、たべ。」

と、ひたふる、なげき、いふに、此あるじ、承引せず、

「今は、我等が力にも及(および)がたき事なり。」

とて、辭退して、時をうつし、うけこはざるを、あるじの母、聞つけて、

「旅人、の給ふ事、しらずして、此なんに逢(あひ)給ふ事を、すくひまゐらせぬも、いとほし。是を、すくひまゐらするも、又、善根を加ふるなり。其身、何とぞ、力をつくし、たすけまゐらせよ。」

と、いふに、さすがに、此あるじ、孝(かう)なるものにて、

「さらば、なるまじき事ながら、なしいでて、見侍らん。先(まづ)、かく、はしにおはしては、人の目にかゝりては、あしゝ。」

とて、奧へ、いざなひ、戶棚の内へ、かくし置(おき)、

「我等、出(いで)給へといはんまでは、かまへて、聲もせず、かくれて、ここに居(ゐ)給ふべし。」

と敎(をしへ)て、あるじは、又、見世(みせ)に出す細工、造り居(をり)たり。[やぶちゃん注:以下は底本でも改行して段落がある。]

 日の、暮行(くれゆく)まゝに、往來の道、人聲、しげく、人を尋(たづぬ)るさまなるは、みな彼(かの)えた[やぶちゃん注:ママ。]の支配のものの、此俳諧師を、あなぐりもとむるなり。

 初夜のかぎりは、あるかぎりの家、打たゝき、此人を尋ね、此あるじの家にも、入來(いりきた)りて、

「かゝる人、こゝに、かくしとゞめずや、ある。」

と、尋(たづね)とふ事、二、三人、入替(いれかはり)、絕(たえ)ず。

 あるじは、何心なきさまに、

「しらず。」

と、のみ、答(こたへ)て居(をり)たるが、夜もふけ、人聲も、しづまりて後(のち)、あるじ、此男を、戶棚より、呼出(よびいだ)して、

「今は、早(はや)、心安し。我(わが)するまゝに成(なり)て、我とともに、出おはせ。」

とて、母の衣服を上着につけさせ、顏をつゝみて、ひたぶる女の姿に粧ひ、あるじは、燈火とり、棒、取(とり)て、先に進(すすん)で、田畑の道を、はるばる、一里ばかりも過(すぎ)るに、其道も、折々、とがむる穢多ありて、

「何事によりてか、かく、夜ふけに、おはす。」

と、いふに、あるじ、

「母の妹なん、にはかに、なやむよし、告來(つげきた)れば、それを見舞むとて、母をつれたちて行(ゆく)なり。」

と答て、やうやうに、ありし川上へ出て、そこにて、

「もはや、こゝよりは、心遣(こころづかひ)、なし。此道を、右へ、をれて行けば、一筋の道にて、ありし往還の道へ出(いで)らるゝなり。」

とて、敎へつゝ、わかれぬ。

 かくて、備中の國より歸りて、

「かうかう、あやしき事にあひたり。めづらしき事にも有(あり)ける。」

と、かたりつるを聞けるとて、ある人の、いへりし。

[やぶちゃん注:本篇は、同内容のものが、「耳囊 卷之四 鯛屋源介危難の事」としてある。

「穢多」平凡社「世界大百科事典」の横井清氏の解説より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、コンマを読点にし、記号・ルビの一部を変更・省略した)。『江戸時代の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種であり、幕府の身分統制策の強化によって十七世紀後半から十八世紀にかけて全国にわたり統一的に普及した蔑称である。一八七一年(明治四)八月二十八日、明治新政府は太政官布告を発して、「非人」の呼称とともにこの呼称も廃止した。しかし、被差別部落への根強い偏見、きびしい差別は残存しつづけたために、現代にいたるもなお被差別部落の出身者に対する蔑称として脈々たる生命を保ち、差別の温存・助長に重要な役割をになっている。漢字では「穢多」と表記されるが、これは江戸幕府・諸藩が公式に適用したために普及したものである。ただ、「えた」の語、ならびに「穢多」の表記の例は江戸時代以前、中世をつうじて各種の文献にすでにみうけられた。「えた」の語の初見資料としては、鎌倉時代中期の文永~弘安年間(一二六四~八八)に成立したとみられる辞書「塵袋(ちりぶくろ)」の記事が名高い。それによると『一、キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バ(ことば)ゾ 穢多』とあり、おもに清掃を任務・生業とした人々である「キヨメ」が「エタ」と称されていたことがわかる。また、ここでは「エタ=穢多」とするのが当時の社会通念であったかのような表現になっていたので、特別の疑問ももたれなかったが、末尾の「穢多」の二字は後世の筆による補記かとみられるふしもあるので、この点についてはなお慎重な検討がのぞましい。「えた」が明確に「穢多」と表記された初見資料は、鎌倉時代末期の永仁年間(一二九三~九九)の成立とみられる絵巻物「天狗草紙」の伝三井寺巻第5段の詞書(ことばがき)と図中の書込み文であり、「穢多」「穢多童」の表記がみえている。これ以降、中世をつうじて「えた」「えんた」「えった」等の語が各種の文献にしきりにあらわれ、これに「穢多」の漢字が充当されるのが一般的になった。この「えた」の語そのものは、ごく初期には都とその周辺地域において流布していたと推察され、また「穢多」の表記も都の公家や僧侶の社会で考案されたのではないかと思われるが、両者がしだいに世間に広まっていった歴史的事情をふまえて江戸幕府は新たな賤民身分の確立のために両者を公式に採択・適用し、各種賤民身分の中心部分にすえた人々の呼称としたのであろう。「えた」の語源は明確ではない。前出の「塵袋」では、鷹や猟犬の品肉の採取・確保に従事した「品取(えとり)」の称が転訛し略称されたと説いているので、これがほぼ定説となってきたが、民俗学・国語学からの異見・批判もあり、なお検討の余地をのこしている。文献上はじめてその存在が確認される鎌倉時代中・末期に、「えた」がすでに屠殺を主たる生業としたために仏教的な不浄の観念でみられていたのはきわめて重要である。しかし、ずっと以前から一貫して同様にみられていたと断ずるのは早計であり、日本における生業(職業)観の歴史的変遷をたどりなおすなかで客観的に確認さるべき問題である。ただし、「えた」の語に「穢多」の漢字が充当されたこと、その表記がしだいに流布していったことは、「えた」が従事した仕事の内容・性質を賤視する見方をきわだたせたのみならず、「えた」自身を穢れ多きものとする深刻な偏見を助長し、差別の固定化に少なからず働いたと考えられる』とある。

「俳諧師蓼太」御用縫物師で俳諧師であった大島蓼太(享保三(一七一八)年~天明七(一七八七)年)。信濃国那郡大島出身。二十三歳の時に服部嵐雪門の雪中庵二世桜井吏登に入門。その後剃髪て行脚、延享四(一七四七)年、三十歳で雪中庵三世となった。江戸座宗匠連を批判、芭蕉復帰を唱えて天明の中興の大きな推進力となった。生涯に行脚すること三十余、選句編集二百余、免許した判者四十余、門人三千と言われ、豪奢な生活をしたことで知られる。以下、数句を示しておく。 

 たましひの入れものひとつ種ふくべ 

 夏瘦の我骨さぐる寢覺かな 

 世の中は三日見ぬ間に櫻かな 

 擲てば瓦もかなし秋のこゑ 

 更くる夜や炭もて炭をくだく音 

 夕暮は鯛に勝たる小鰺かな 

「吉備津宮」現在の岡山県岡山市北区吉備津(岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備の中山(標高百七十五メートル)の北西麓に北面して鎮座する吉備津神社。吉備の中山は古来より神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座し、当社と吉備津彦神社ともに主祭神に当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、また、命の一族を配祀している)にある吉備津神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。社史は参照したウィキの「吉備津神社」を見られたい。ここで語られるのは、そこで行われる(現在も金曜日を除く毎日、行われている)鳴釜神事(なるかましんじ)である。ウィキの「鳴釜神事」によれば、この特殊な『神事は、釜の上に蒸篭(せいろ)を置いて』、『その中にお米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いた』際、『鳴る音の強弱・長短等で吉凶を占う神事。吉備津の釜、御釜祓い、釜占い、等ともいう。元々』、『吉備国で発生したと考えられる神事』で、『一般に、強く長く鳴るほど良いとされる。原則的に、音を聞いた者が、各人で判断する』という。『女装した神職が行う場合があるが、盟神探湯』(くか(が)だち:真偽・祈誓を試す対象者に神仏に対して潔白などを誓わせた後に「探湯瓮(くかへ)」という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせて判じる呪法(うらない)。正しい者は火傷をせず、罪のある者は大火傷を負うとされる)・湯立(湯立(ゆだて/ゆだち:神前に大きな釜を据えて湯を沸かし、神がかり(トランス)状態にある巫女が持っている笹・幣串をこれに浸した後、自身や周囲に振りかける儀式。現在では単にお祓いの形式的儀礼として行われているが、古くは神事の大切なプレの儀式としての「禊(みそぎ)」の要素が大きく、同時に、神意を伺うための「占卜(ぼくせん)」の手段として「問湯(といゆ)」などと呼ばれてもいた。前の「盟神探湯」は、ここから発生したと考えられ、この流れを汲む中世に於ける湯起請(ゆぎしょう:室町記に正式な訴訟上の立証方法として認められた裁判法。原告・被告に起請文を書かせた上、熱湯中の石を摑み出させ、三日又は七日の間、神社などに籠らせて後、火傷の有無を以って正否を決したもの。有罪とされるべき反応を「湯起請失(ゆぎしょうしつ)」と称した)のことを「湯立」とも称した)『等と同じく、最初は、巫女が行っていた可能性が高い』。『現在でも一部の神社の祭典時や修験道の行者、伏見稲荷の稲荷講社の指導者などが鳴釜神事を行う姿が見られる』が、『いつの頃から始まったかは不明』で、『古くは宮中でも行われたという。吉備津神社の伝説では、古代からあったとする』。以下、「吉備津神社の鳴釜神事」の項。『同神社には御釜殿があり、古くは鋳物師の村である阿曽郷(現在の岡山県総社市阿曽地域。住所では同市東阿曽および西阿曽の地域に相当する)から阿曽女(あそめ、あぞめ。伝承では「阿曽の祝(ほふり)の娘」とされ、いわゆる阿曽地域に在する神社における神職の娘、即ち巫女とされる)を呼んで、神職と共に神事を執り行った。現在も神職と共に女性が奉祀しており、その女性を阿曽女と呼ぶ』。『まず、釜で水を沸かし、神職が祝詞を奏上、阿曽女が米を釜の蒸籠(せいろ)の上に入れ、混ぜると、大きな炊飯器やボイラーがうなる様な音がする。この音は「おどうじ」と呼ばれる。神職が祝詞を読み終える頃には音はしなくなる。絶妙なバランスが不思議さをかもし出すが、この音は、米と蒸気等の温度差により生じる熱音響』『とよばれる現象と考えられている。』百『ヘルツぐらいの低い周波数の振動が高い音圧を伴って』一ミリメートル『ぐらいの穴を通ると』、『この現象が起きるとされ』る。『吉備津神社には鳴釜神事の起源として以下の伝説が伝えられている。吉備国に、温羅(うら)という名の鬼が悪事を働いたため、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでも』、『うなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしても』、『うなり続け、御釜殿の下に埋葬しても』、『うなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日』、『温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったという』とある。]

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