「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「猿………」
[やぶちゃん注:本電子化はサイトの「心朽窩新館」で偏愛する『ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士訳(附 Jules Renard “ Histoires Naturelles ”原文+やぶちゃん補注版)』を公開している(新字新仮名戦後版)が、今回は国立国会図書館デジタルコレクションの正字正仮名のもの、戦前の岸田國士譯ジュウル・ルナアル 「博物誌」(昭一四(一九三九)年白水社刊)の画像(リンク先は当該書の標題附き扉二)を視認出来るようになったことから、それをブログ版として、新規まき直しで、零から始めることとしたものである。詳しくは初回の冒頭注を参照されたい。
また、ボナールの画像に就いては、十六年前のそれではなく、再度、新潮文庫版のそれを、新たにOCRで読み込み、補正・清拭して用いる。注も一からやり直すこととし、原文は前回のものを調べたところ、アクサンテギュの落ちが有意に認められたので(サイト版は敢えてそのままにしておいた)、新たにフランスのサイト“TEXTES LIBRES”の電子化された同書原文のものをコピー・ペーストさせて戴くこととすることとした。
私は、以下の本篇に対しては、岸田氏の訳文に幾つかの読解上の違和感と強い疑問部分を、複数、感じてきた。それは、読んだその場で生じ、他のアフォリズムに比して、ソリッドでやや長いことから、読者の大半は動物園の周回見物よろしく、不思議、不審に感じた箇所を行き過ぎるばかりで、そこで振り返って凝っと観察する余裕を持つ人は、案外、少ないものと思っている。そのため、そうした私が疑義を持った箇所を、本文の各段落の後に太字(一部に下線)で疑義注として附すことで、今回の読者には、じっくりと立ち止まって見廻って貰いたく、五月蠅い仕儀を敢えて挿入した。]
猿………
猿を見に行つてやり給へ。(しやうのない腕白どもだ。ズボンの股(また)をすつかり破いてしまつてゐる)。どこへでも攀ぢ登り、新鮮な日光の下で踊り、むかつ腹を立て、からだぢゆうを搔き、なんでも摘みあげ、そしていかにも原始的な風情で水を飮む。その間、彼等の眼は、時々かき曇ることはあつても、それも永くは續かず、きらりと光つてはまた直ぐ鈍く澱んでしまふ。[やぶちゃん疑義注:「むかつ腹」「むかつぱら」。「その間、彼等の眼は、時々かき曇ることはあつても、それも永くは續かず、きらりと光つてはまた直ぐ鈍く澱んでしまふ。」この最終文の中の「時々」という副詞と、「も」の逆接の接続助詞によって挟まれた「かき曇る」というネガティヴな現象が、「永く続かず」と否定され、「また」「すぐ」という副詞と「しまう」という動作完了の動詞によって挟まれた、同じようにしか見えない、これまたネガティヴな「鈍く澱んで」いる状態が畳み込まれいるのは、読者にピンと来ないというか、イメージが上手く想起出来ないように思われる。少なくともここは日本語としてはおかしいという気が強くしている。臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』第五巻では、佃裕文氏は、最後の一文を以下のように訳しておられる。『それらの間、しばし表情のうせた彼らの眼から、光が発せられてはたちまち消える。』。これなら、猿の眼の様子の神経症的な変異が瞬時に垣間見える様子が、腑に落ちるように、というか、躓かずに読めるのである。]
紅鶴(フレミンゴ)を見に行つてやり給へ。薔薇色の下着の裾が泉水の水に濡れるのを心配して、ピンセットの上に乘つて步いてゐる。白鳥と、その樣子ぶつた鉛の頸。駝鳥。雛鷄(ひよつこ)の翼(はね)、役目重大な驛長のやうな帽子。ひつきりなしに肩を聳やかしてゐる鸛(こふづる)(しまひに、その科(しぐさ)はなんの意味もないことがわかる)。みすぼらしいモオニングを着た、寒がりのアフリカ鶴。袖なしの外套を着込んだペンギン鳥。嘴を木刀のやうに構へてゐるペリカン。それから、鸚鵡。その一番よく仕込まれたやつでも、現在彼等の番人には遠く及ばない。番人は、なんとかして、結局私たちの手から十スウ銀貨を一枚捲き上げてしまふ。[やぶちゃん疑義注:「紅鶴(フレミンゴ)」「フレミンゴ」のルビはママ。英米語でも、「レ」には決して聴こえない。しかし、岸田氏は戦後版でも「フレミンゴ」のままである。また、臨川書店版全集では、本文後注で、原文の“flamants”(フラマン(ト):フラミンゴ)は“Flamand”(フラマン(ト):フランドル人)と掛けてゐる、という注記があるのであるが、私には、このフラミンゴの描写のどこが掛けられている(風刺されている)のかが、よく分からない(発音が全く同じになることは馬鹿でも判る)。例えば、フラミンゴの優雅さや暢気さが、バルザックが言うところの『最も優雅な物質性がすべてのフランドル人の習慣の中に刻印されている。』(但し、この引用は宮本百合子の「バルザックに對する評價」からの孫引き。『いる』はママ。引用は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和二四(一九四九)年近代思想社刊の彼女の「文藝評論集」のこちらから)ということか? 御存知の方は御教授願いたい。「白鳥と、その樣子ぶつた鉛の頸。」ここも、意味が通りにくくなっていることは明白である。臨川書店版全集では、本文後注で、『白鳥の頸のように二重に曲ったグーネック水栓 col-de-cygne がある。』と記されてはあるが、この注記でも、未だやや不親切である。直にフランス語原文と比較してみないと、ルナールがそれに掛けていることが判然としない点で達意でないことは変わらないからである。佃裕文氏はここを『白鳥と、その頸の気取つた鉛管工事を。』と訳しておられ、これは私より年上の者(冬に家の外壁から出た鉛製の水道管が凍った経験を持つ者)なら、誰もが、瞬時に換喩が判る達意の訳である。]
重たげに有史以前の思想で目方のついてゐる犂牛(ヤツク[やぶちゃん注:ママ。])を見に行つてやり給へ。麒麟は鐵栅の橫木の上から、槍の先につけたやうな頭を覗かせてゐる。象は猫背を作り、鼻の先を低くたれて、戶口の前を舞踏靴を引き摺りながら步いてゐる。彼のからだには、乘馬ズボンをあんまり上へ引つ張り上げたやうな袋の中におほかた隱れ、そして後ろの方にはちよつぴり紐の先が垂れてゐる。
ペン軸を身につけた豪猪(やまあらし)もついでに見に行つてやり給へ。そのペン軸は、彼にとつても、彼の女友達にとつても、甚だ邪魔つけなしろものだ。縞馬、これはほかのすべての縞馬の透(すか)し繪の標本だ。寢臺の足元にべつたりと降りた豹。私たちを樂しませ、自分は一向樂しまない熊。自分でも欠伸をし、人にも欠伸を催させるライオン。[やぶちゃん注:『寢臺の足元にべつたりと降りた豹。』臨川書店版全集では、本文後注で、『豹の毛皮はベッド・マットによく使用された。』とある。]
[やぶちゃん注:底本では、中間部に明石哲三氏の猿の挿絵が挿入されている。これはしかし、見るからに、哺乳綱霊長目オナガザル科マカク属ニホンザル Macaca fuscata である。
さて。標題「猿」の後の九点リーダは、原文では “…”(Points de suspension:音写「ポント・デ・サスペンシォン」。私の好きなフランスの作家ルイ=フェルディナン・セリーヌ(Louis-Ferdinand Céline 一八九四年~一九六一年)が好んで使ったので、私は当たり前に日本語で何気なく、皆が好んで使う「……」「…」と同じくらいメジャーなものかと思っていたのだが、これ、俗に「トロン・ポワン」等と呼び、日常的に普通によく使われるわけではないらしい。所謂、繰り返しや、続く感じの代わりの他、明確な断言を暗に避けたり、意味深長な余韻の匂わせ、言い淀み、或いは不服を示唆するものとして、これ、はっきりと表現し物事を主張することを正しいとする欧米人、特に誇り高きフランス人は、平気で誰もが、平生、頻繁に使うわけでは――ない――ようなのである。本「博物誌」では、標題では、ここのみに附随している(本文内では、よく見かける)。但し、岸田の戦後版では、このリーダは除去されている。
以下、登場するオール・スター・キャストを挙げておく。
「猿」ボナールの挿絵から見るなら、哺乳綱霊長目直鼻亜目真猿型下目狭鼻小目オナガザル上科オナガザル科 Cercopithecidae のオナガザルの一種と私には見える。ボナールの絵はモノクロームで毛が黒いのだが、顔が逆三角形で小振りであるのに対し、ルナールの本文では、目がそれなりにはっきりと視認出来るという点からは、私は全身が白っぽぃ灰褐色の体毛で覆われていて、体型が細長いオナガザル科コロブス亜科ハヌマンラングール属ハヌマンラングール Semnopithecus entellus を一つの候補としたい。
「紅鶴(フレミンゴ)」鳥綱フラミンゴ目フラミンゴ科 Phoenicopteridae に三属あるが、一般的な我々が想起するそれはフラミンゴ属 Phoenicopterus 。「紅鶴」は訳語ではあるが、実際に直後に「薔薇色の下着の裾」と言っている点からは、最も親しいフラミンゴ属ベニイロフラミンゴ Phoenicopterus ruber でよいだろう。
「白鳥」カモ目カモ科ハクチョウ属 Cygnus であるが、ここは動物園のそれであるから、オオハクチョウ Cygnus cygnus としてよかろう。
「駝鳥」ダチョウ目ダチョウ科ダチョウ属ダチョウ Struthio camelus 。
「鸛(こふづる)」コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana 。
「アフリカ鶴」これは「アフリカ禿鸛(はげこう)」、コウノトリの仲間で、サハラ砂漠以南のアフリカ全域に棲息し、水辺でも内陸でも活動し、人間の居住地域近辺(特にゴミ捨て場)でも普通に見られる、コウノトリ科 Leptoptilos 属アフリカハゲコウ Leptoptilos crumeniferus 。
「ペンギン鳥」ペンギン目ペンギン科 Spheniscidae 。当時の動物園がどの程度の飼育設備を持っていたか判らないので、ここに留めておく。
「ペリカン」 ペリカン目ペリカン科ペリカン属 Pelecanus sp.。現行では八種を有する。
「オウム」オウム目オウム科 Cacatuidae 。現在、二十一種を数える。
「犁牛(ヤツク)」(このルビの「ヤツク」は「ヤック」のつもりである可能性が高いか)哺乳綱鯨偶蹄目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク Bos grunniens Linnaeus, 1766(家畜種)、及び、野生種ノヤク Bos mutus Przewalski, 1883。当該ウィキによれば、『インド北西部、モンゴル、中華人民共和国(甘粛省、チベット自治区)、パキスタン北東部に自然分布』し、『ロシアでは』十七『世紀前後に絶滅したとされる。ネパールでは絶滅していたとされていたが』、二〇一四『年に再発見され』ているとあった。
「麒麟」哺乳綱鯨偶蹄目キリン科キリン属キリン Giraffa camelopardalis 、又は、複数種(当該ウィキを参照)。
「象」哺乳綱長鼻(ゾウ)目ゾウ上科ゾウ科 Elephantidae の、アフリカゾウ属アフリカゾウ Loxodonta Africana 、又は、同種の亜種であるサバンナゾウ Loxodonta africana Africana 、又は、マルミミゾウ Loxodonta africana cyclotis 。又は、アジアゾウ Elephas maximus 、又は、同種の亜種であるインドゾウ Elephas maximus bengalensis 、又は、セイロンゾウ Elephas maximus maximus 、又は、スマトラゾウ Elephas maximus sumatrana 、又は、マレーゾウ Elephas maximus hirsutus 。象牙の描写が全く見られないので、アジアゾウ及びその四亜種が可能性としては高いと思われる。
「豪猪(やまあらし)」哺乳綱齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ亜目 Hystricomorpha には、地上性のヤマアラシ科 Hystricidae と、木登りを得意とするアメリカヤマアラシ科 Erethizontidae がいるが(孰れも夜行性)、動物園で飼い易いものとしては、後者の可能性の方が高いようにも思われる。
「縞馬」哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属シマウマ亜属 Hippotigris には、現在、ヤマシマウマ Equus zebra ・サバンナシマウマ Equus quagga ・グレビーシマウマ Equus grevyi がいる。
「豹」哺乳綱食肉目ネコ科ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus 。当該ウィキを見ると、かなりの亜種がいる。
「熊」食肉目イヌ型亜目クマ下目クマ小目クマ科 Ursidae 。
「ライオン」食肉目ネコ科ヒョウ属 ライオン Panthera leo 。アフリカ大陸北部・西部・中部、及び、インドに棲息するPanthera leo leo と、アフリカ大陸南部・東部に棲息する Panthera leo melanochaita の二亜種がいる。
「象は猫背を作り、鼻の先を低くたれて、戶口の前を舞踏靴を引き摺りながら步いてゐる」この「舞踏靴」の部分、他の訳者では、「ズック」(辻氏)・「スリッパ」(佃氏)となっている。原文では“chausson”である。辞書を引くと、『(体操・試合・ダンス用の)布靴』が第一義で、二番目に『スリッパ』と出る。後者は「室内履き」の意のそれで、ネット上を調べると、フランスでは特に乳児用の毛糸で作った可愛らしい靴の写真が出てきた。しかして、どの訳がルナールの意を汲んでいるか? 私は断然、岸田氏の訳が適確と考える。ゾウの巨大な分厚いそれは、でっかいズック、或いは、それを普段は物憂げにずるずると引き摺りながら歩くんだからスリッパだ、などと考える向きは、読みが浅いと私は思う。「これは、巧みな身体を支える、精巧にして華麗な舞踏用のシューズ、いやさ! まさにバレリーナの、かのトゥ・シューズさ!」と私は叫びたいのである。「どこが?!?」という御仁のために、サイト「UPALI.CH 象の百科事典」のジョージ・フレイ氏の「ゾウの足と蹄のケアー」を見られたい。さあ、動物園の出口は、あっちですよ!
なお、以下の原文標題のあとの“…”は“TEXTES LIBRES”の電子化ではなくなっているため、「Internet archive」の原本(一九〇四年版)の当該章の画像で確認して添えた。]
*
SINGES…
Allez voir les singes (maudits gamins, ils ont tout déchiré leur fond de culotte !) grimper, danser au soleil neuf, se fâcher, se gratter, éplucher des choses, et boire avec une grâce primitive, tandis que de leurs yeux, troubles parfois, mais pas longtemps, s'échappent des lueurs vite éteintes.
Allez voir les flamants qui marchent sur des pincettes, de peur de mouiller, dans l'eau du bassin, leurs jupons roses ; les cygnes et la vaniteuse plomberie de leur col ; l'autruche, ses ailes de poussin, et sa casquette de chef de gare responsable ; les cigognes qui haussent tout le temps les épaules (à la fin, ça ne signifie plus rien) ; le marabout frileux dans sa pauvre jaquette, les pingouins en macfarlane ; le pélican qui tient son bec comme un sabre de bois, et les perruches, dont les plus apprivoisées le sont moins que leur gardien lui-même qui finit par nous prendre une pièce de dix sous dans la main.
Allez voir le yack lourd de pensées préhistoriques ; la girafe qui nous montre, par-dessus les barreaux de la grille, sa tête au bout d'une pique ; l'éléphant qui traîne ses chaussons devant sa porte, courbé, le nez bas : il disparaît presque dans le sac d'une culotte trop remontée, et, derrière, un petit bout de corde pend.
Allez donc voir le porc-épic garni de porte-plume bien gênants pour lui et son amie ; le zèbre, modèle à transparent de tous les autres zèbres ; la panthère descendue au pied de son lit ; l'ours qui nous amuse et ne s'amuse guère, et le lion qui bâille, à nous faire bâiller.
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