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2023/11/29

譚海 卷之五 單誓・澄禪兩上人の事

[やぶちゃん注:句読点・記号・読みを変更・追加した。]

 

○正德の比、單誓(たんせい)・澄禪(ちやうぜん)といへる兩上人、有(あり)。淨家の律師にて、いづれも生れながら成佛(じやうぶつ)の果(くわ)を得たる人なり。澄禪上人は俗成(なり)しとき、近江の日野と云(いふ)町に住居ありしが、そこにて出家して、專修念佛の行人(ぎやうにん)となり、後は駿河の富士山にこもりて、八年の間勤修(ごんしゆ)怠らず、生身(せいしん)の彌陀の來迎(らいがう)を、をがみし人也。八年の後、富士山より近江へ飛帰(とびかへ)りて、同所平子(ひらこ)と云(いふ)山中(さんちゆう)に籠られたり。單誓上人も、いづくの人たるを、しらず。是は、佐渡の國に渡りて、かしこの「だんどくせん」といふ山中の窟(いはや)に、こもり、千日修行して、みだの來迎を拜(おがま)れけるとぞ。その時、窟の中(うち)、ことごとく金色の淨土に變(かはり)、瑞相(ずいさう)、樣々成(なり)し事、木像に、えりて、「塔の峯」の寶藏に收(をさ)めあり。此兩上人、のちに、京都東風谷(こちだに)と云(いふ)所に住して知音と成(なり)、往來、殊に密也しとぞ。單誓上人は、其後、相州箱根の山中、「塔の峯」に一宇をひらきて、往生の地とせられ、終(つひ)に、かしこにて、臨終を遂(とげ)られける。澄禪上人の終(しゆう)はいかゞ有(あり)けん聞(きき)もらしぬ。東風谷の庵室をば遣命にて燒拂(やきはらひ)けるとぞ。共にかしこきひじりにて、存命の内、種々奇特多かりし事は、人口に殘りて記(しるす)にいとまあらずといふ。

[やぶちゃん注:「正德」一七一一年から一七一六年まで。徳川家宣・徳川家継の治世。しかし、以下登場人物の私の注で判る通り、これは少なくとも次の僧の没年から明らかに時制誤認である。

「單誓」「彈誓」の誤り。浄土宗の僧弾誓(たんぜい 天文二一(一五五二)~慶長一八(一六一三)年)。尾張国海辺村の人。幼名「弥釈丸」(これは「弥陀・釈迦」二尊を表わす名である)。九歳で出家し、名を弾誓と改めた。その後、美濃・近江・京都・摂津一の谷・紀州熊野三社など、各地を遊行(ゆぎょう)し、慶長二(一五九七)年、佐渡において、生身の阿弥陀仏を拝し、授記を受け、十方西清王法国光明満正弾誓阿弥陀仏となって「弾誓経」六巻を説法した。その後は、甲斐・信濃を経て、江戸に至り、学僧幡随意(ばんずいい)より、白旗一流の法を授かった後、再び京に戻った折り、古知谷(こちだに:本篇の「東風谷」は誤り)に、瑞雲が棚引くのを見、最後の修行地と定めた。そこで自身の頭髪を植えた本尊を刻み、光明山阿弥陀寺を建立した。六十二歳で入寂したが、その遺骸は、石棺に納め、本堂脇の巌窟に即身仏として安置されてある。長髪・草衣・木食という弾誓の僧風は、澄禅・念光らに受け継がれ、その流れは浄土宗において「捨世派」の一流と位置づけられている(「WEB版新纂浄土宗大辞典」の当該項に拠った)。

「澄禪」(承応元(一六五二)年~享保六(一七二一)年)。江戸中期の「捨世派」念仏聖。精蓮社進誉。近江国日野の人。十四歳の時、自ら剃髪し、日野大聖寺在心の下で受戒。十八歳で、増上寺に入り、宗戒両脈を相承するが、学問を求めず、専ら、坐禅称名に努めた。隠遁の心止み難く、貞享五(一六八八)年、遂に学林を逃れて、霊山聖跡を巡錫した。相模国曽我の岩窟を始め、塔の峰阿弥陀寺(後注する)の「遅岩洞」、富士山での修行を経て、近江平子山、京都大原山に籠り、苦修練行すること数十年、衣食住の禁欲に徹し、日課念仏十万遍、貴賤男女の帰依を集めた(同前に拠った)。

「淨家」浄土宗。

「近江の日野」滋賀県蒲生郡日野町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「平子」滋賀県蒲生郡日野町平子

「だんどくせん」檀特山。「たんとくさん」「だんとくせん」とも呼ぶ。標高九〇七メートル。古い民謡に「お山・檀特山・米山薬師、三山かけます佐渡三宮」と歌われ、「金北(きんぽく)山(お山)」・「金剛山(米山薬師)」と並び、「大佐渡三霊山」と通称される。山頂までに四十八滝と言われる多くの滝があり、修験の霊場として名高い。

「塔の峯」現在の神奈川県足柄下郡箱根町塔之澤(標高三百メートル)にある浄土宗阿弥陀寺。慶長九(一六〇四)年創建。開山は弾誓上人、開基は当時小田原城主であった大久保忠隣(ただちか)。

「京都東風谷」「東風谷」は「古知谷」の誤り。現在の京都市左京区大原古知平町にある古知谷(こちだに)の浄土宗光明山法国院阿弥陀寺(こちだにあみだじ)。即身仏は公開されいないが、その封じられた石棺の扉までの写真が並ぶ、「こすもす」氏の「生きたままミイラになった即身仏を見に行ったら 京都大原 古知谷・阿弥陀寺」がお勧めである。]

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