柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「篠崎狐」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
篠崎狐【しのざきぎつね】 〔梅翁随筆巻五〕小松川の先に篠崎村<東京都江戸川区内>といふ所に、至りていたづらなる狐すみて、人をたぶらかす事毎度なり。この村より中山の東へ塩肴《しほざかな》を商ふものあり。午八月廿七日早朝、例のごとく魚を荷ひて出けるが、道に四疋とも白き大狐、いういうと昼寐して居たるを、日ごろ魚をとられ、憎しと思ひ居《をり》ければ、近々としのび寄り、大声を出しおどしければ、狐は大いにうろたへて一さんににげ行きけるを、心よく見やりて行きけるに、さしも快晴なりし天気、俄かにかはりて雨ふり出して、次第に強くなり、衣類もひたぬれて難儀なれば、いつも休みける野中の家を心ざし急ぎける内に、早《はや》入相《いりあひ》<日暮れ>の鐘ほそく聞えて、黄昏《たそがれ》にいたりし頃、やうやうとして行著《ゆきつ》きけるに、この家の女房死して、今は棺桶を荷ひ出《いだ》す所なり。亭主いふやう、留守をしながらゆるりと休み給へと云捨て出で行きける。只壱人残りゐて、火の傍《かたはら》により、ぬれたる著ものをあぶり居る所、一陣の風ふき来りて、かの女房の幽霊、忽然とあらはれ出たり。気味あしき事いふばかりなく、一心に念仏を念ずるより外はなし。しかるに幽霊次第に側ちかく来《きた》ると見えしが、飛びかゝつてこの男の腕をしたゝか喰付きたり。にげ出づべき透間《すきま》もなければ、命をかぎり防ぎ働きけれども、その霧のごとく姿はみゆれども、手にこたへなければ、詮かた尽きてすでに喰殺されんとしける。この時篠崎村の百姓農業に出て、かの方をみれば、同村の肴売り、川除堤《かはよけつつみ》を上りつ下りつ、種々《しゆじゆ》無量《ぶりやう》[やぶちゃん注:はかり知ることが出来ぬほどひどい状態。]になりて、身をもみ血だらけになりてさわぎ居るゆゑ、例の狐に化されたるなるべしとて、押しすくめて天窓(あたま)より水をあぶせければ、これにてはじめて正気となり、今のありさまを語りけり。只雨にぬれたるをいとひて、先へ急ぐのみにこゝろを奪はれ、朝早く宿を出たるに、忽ち日の暮れける事にも心付かず。さてさて怖ろしき目にあひしと、早速小豆飯を焚き、油揚を添へて狐の昼寐せし処へ持ちゆき、さし置きてわび事して、以後をつゝしみけるとなり。誠にふるき咄しに語り伝へしごとき古格《こかく》なる事なり。これは目前にたしかにみたるとて、この村のものはなしけるなり。もつともこの日雨はふらねども、降るごとくの術をなし、それよりばかし入れたるなり。腕を喰ひつかれたるはまことにて、しばらくはそのいたみに難儀したるとぞ。
[やぶちゃん注:「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は「○篠崎きつねの事」。
「小松川の先」「篠崎村」「東京都江戸川区内」東京都江戸川区篠崎町(しのざきまち:グーグル・マップ・データ)。
「中山」前の地図を見て頂くと、江戸川を挟んだ対岸に千葉県市川市中山、及び、船橋市の中山地区があるから、本話のロケーションはこっちの江戸川左岸附近である。
「古格なる事なり」ここは非常に古くから言い伝えられている型の狐の化かし方のまんまであるの意。]
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