フライング単発 甲子夜話卷十七 13 獸、人心ある事
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。この話、三話からなるので、そこを一行空けた。]
17―13
獸(けもの)に人心あり。人にして獸心あるはいかなることにや。
予が領國にて、作事奉行川上澤次郞、神崎(かうざき)と云ふ處の茅地(かやち)を、役所と農夫との仕分見分(しわけけんぶん)に往(ゆき)しとき、山下の海濱に、猿、居《ゐ》たり。
『心得ざること。』
に思ひ、近より見れども、不ㇾ去。
そのうへ、手を揚げて、招くゆゑ、彌(いよいよ)怪(あやし)く、寄付(よりつき)たるに、猿、片手を、潮(うしほ)の中に入れたり。
諦視(ていし)[やぶちゃん注:じっと見つめること。子細に見ること。]すれば、猿、石間(いしま)の蚫(あはび)を取らんとせしを、蚫、その手を、しめつけて、岩にはさまり、動くこと、協(かな)はざるなり。澤次郞、
『むごきこと。』
に思(おもひ)て、その蚫を、引(ひき)はなしたれば、猿、喜びたる體(てい)にて、頭を下げ、兩手を地につき、平伏して、去れり。
「これ、拜謝の意なるべし。」
と、人、聞きて、これを憐(あはれ)めり。
又、領分の東界(ひがしさかひ)は西嶽(にしのたけ)と云(いひ)て、深山なり。
その麓の村を「世知原(せちばる)」と云(いふ)。
或日、この處の人家の前に、山狗(やまいぬ)【狼なり。「山狗」は方言。】出(いで)て、口をあきて居《を》るゆゑ、農夫、これを見て訝(いぶか)り思(おもふ)には、
『この獸、山を離れて村里に來(きた)るべきやう、なし。且つ、口をあきて居(を)れど、人を食ふ體(てい)も、なし。』
と、近よりたるに、少しも動かざれば、農も懼(おそろ)しければ、片手に鎌を持ちながら、其口中を窺(うかがひ)みるに、咽(のど)の中に、白きもの、見ゆ。
能く能く視れば、鹿を取り食ひ、其脇骨、咽の奧にたちて、惱めるなり。
農、乃(すなはち)、鎌を、かの口に當てゝ、齧(かま)れぬ用心して、手を、口中にさし入れ、其骨を、取(とり)のけければ、山狗、うれしき體(てい)にて、靜(しづか)に去りたり。
翌朝、農、起出(おきいで)たるに、戶外(こがい)に、牛に、牽綱(ひきづな)つけたるを、誰(たれ)つれ來りたるとも知(しれ)ず、放ちて、有り。
剩(あまつさ)へ、その綱に、雉子(きじ)一羽、つなぎ付けて、有り。
「是(これ)、思ふに、前日の山狗、酬禮(しうれい)の爲に、他の耕牛を奪ひて、報(むくい)たるならん。」
と、人、云合(いひあ)へり。
又、これは江戶の話なり。旗下(はたもと)の御番士、一色熊藏と云(いひ)しが、物語せしは、
「某(なにがし)と云へる旗下人(はたもとにん)の領地にて、これも、狼、出(いで)て、口をあきて、人に近づくゆゑ、口中を見たるに、何か、獸骨を、たてたるを見て、拔(ぬき)てやりたれば、狼、喜(よろこび)たる體にて、去る。その明日(あくるひ)、一小兒(いちしやうに)、門外に棄てあり、と云ふ。何(いづ)れの者なるを知らず。健(すこやか)に見えしとて、某、憐んで。己(おの)が子の如く育(そだて)たるに、盛長して後は、嗣子(しし)とせし、となり。某、もとより、子、無(なく)して、常に憂居(うれひゐ)けるを、狼、よくも知りて、報謝の意もて、此兒を、いつ方[やぶちゃん注:ママ。]よりか、奪來(うばひきた)りしもの、と覺ゆ。狼の連來(つれきた)りたるに違(ちがひ)なきは、其肩さきに、齒痕(はきず)あり。然(さ)れば、くわへ[やぶちゃん注:ママ。]來れる證(あかし)なり。其兒(こ)、年長(としちやう)じて、子孫も出來(でき)て、今に至(いたり)て、連綿と相續(あひつづき)て勤居(つとめを)るが、其肩には、齒痕の如きもの、有り、と云ふ。」
其家の名は、聞かず。
■やぶちゃんの呟き
「作事奉行」殿舎の造営・修理などの建築、及び、広く土木工事を掌った藩の役人。
「神崎」長崎県長崎市木鉢町に神崎(こうざき)神社(金貸稲荷)があり(グーグル・マップ・データ)、ここは長崎湾の奥、長崎港の入り口に当たる。
「西嶽」現在の長崎県佐世保市世知原町(せちばるちょう)西ノ岳(にしのたけ)であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。
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