柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「上酒有りの貼紙」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
上酒有りの貼紙【じょうしゅありのはりがみ】 〔遊京漫録巻二〕四月はじめつ方より、京におしなべて、上酒有りといふ三字を紙のはしに書きて、門《かど》ごとにおしはることあり。たがいひ出《い》でしともなく、せまりたる[やぶちゃん注:困窮した。]あやしのうばが、酒売り歩行《あり》くことあるべし。もし其酒を買はゞ必ず悪しき病《やまひ》をわづらはん。よしかはずとも、門にいたらば悪しかりなまし。さるからに、上酒有りと書きておしはりおけば、酒売るうば来ずといふ。やんごとなきみつばよつばののきば[やぶちゃん注:幾重にも宮殿が連なる貴顕の屋敷。]より、賤《しづ》がふせやにいたるまで、門といふ門に、此三字[やぶちゃん注:「上酒有」。]かきておしはらぬなし。折しも、江門《えど》の太田博士《おほたはかせ》、都にのぼり来てをられしが、門におしはらせたるは、
有ㇾ酒如ㇾ池
有ㇾ肉如ㇾ坡
謹謝二妖婆一
勿ㇾ過二我家一
後に聞けば、難波《なには》よりいひつたへ来しなりとぞ。難波にては、そのうば来る家には、もがさ<疱瘡>をやむといひのゝしりて、門ごとに赤き紙にしか書きて出だせりとぞ。それを伝へあやまりて、たゞにえやみの事と思ひて、白紙には書き伝へしなりとぞ。もとよりあとなしごと[やぶちゃん注:「跡無事」。根拠のない話。流言飛語。]は、心とむべきことならねど、何事をたねとして、かゝる言葉をばいひ散らしけん。誘はれやすき人ごころ、かばかりはかなきものは、なかりけりかし。<『きゝのまにまに』文政三年の条に同じ記載がある>
[やぶちゃん注:漢詩部分は底本では二字空け二句で二行だが、返り点で不具合が生ずるので、一句一行で示した。「遊京漫録」は医師で歌人・国学者でもあった清水浜臣(はまおみ 安永五(一七七六)年~文政七(一八二四)年)の文政二(一九一九)年二月から九月初旬に行った京阪・奈良・伊勢などを巡った際の紀行。文政三(一八二〇)年成立。国立国会図書館デジタルコレクションの「閑田耕筆 年々隨筆 遊京漫錄 花月草紙」(有朋堂文庫・昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊)のここで正字で視認出来る。標題は『○酒賣(さけう)る媼(おうな)』。戯漢詩を上記活字本で訓読しておく。
酒 有り 池(いけ)のごとく
肉 有り 坡(つつみ)のごとし
謹(つつし)んで妖婆に謝(しや)す
我が家を過(す)ぐる勿(なか)れ
「太田博士」最後にある「きゝのまにまに」で、この『太田といへるは才助錦城にや』とある。これは儒学者大田錦城(おおたきんじょう 明和二(一七六五)年~文政八(一八二五)年)のことである。彼は通称を「才佐」と言い、時に姓は「太田」とも表記される。
「四月」前注から文政二年四月と知れる。
「赤い紙」古くより「赤」には「魔よけ」の呪力があると考えられてきた。疱瘡神も、「赤い物を苦手とする」という伝承があったことから、子どもに赤い着物を着せたり、布団や身の回りの小物も赤い物尽しとする風習があり、赤い紙を門や戸に貼る習慣も広くあった。
「きゝのまにまに」「聞きの間に間に」の意で、風俗百科事典とも言うべき「嬉遊笑覧」で知られる喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の雑記随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十一(三田村鳶魚・校訂/随筆同好会編/昭和三(一九二八)年米山堂刊)のこちらで正字で視認出来る。但し、確かにそれは文政三年の条の記載であるが、その後半部分には、『江戶には文政元年三月頃、醴《あまざけ》をうる老婆ありく、是にあへば疫《えやみ》をやむといへりき、異同はあれ共、是より轉傳したりと見ゆ』とあり、流石に博覧強記のオリジナリティが垣間見える。]
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