柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「真定山の怪」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
真定山の怪【しんじょうざんのかい】 〔耳嚢巻二〕芸州の家士、苗字は忘れたり。五太夫は、文化五年八拾三歳にて、江戸屋鋪へ勤番致し、至つてすこやかなる者の由、右五太夫十五歳の時の由、同家中に、何の三左衛門とか云へる者ありしが、これは壮年の若者にて、同人申しけるは、当国真定山には、石川悪四郎と云へる化もの住める由、誰有つて高山の悪所ゆゑ、見届けし者なし。罷り越し見届けまじくやと、三左衛門申しけれど、古来より申し伝へる悪所、無益の事と断りけれど、なんじやうの事か有るべきとて、三左衛門すゝめけるゆゑ、五太夫も臆したれと云はれんも口をしく、ともなひ登りしに、なん所いふばかりなく、からうじて絶頂に至りけるに、ぼう風時々におこり、黒雲ひまなく通行し、或ひは雨降り或ひはしんどうし、そのおそろしさいはんかたなく、三左衛門は最早絶頂まで来れば帰るべしといふ。五太夫は夜もふけぬれば、足場も心元なし、夜あけて帰るべしといひ、三左衛門とたち分れ、五太夫は岩のはざまに一宿なしぬれど、色々の怪しきことども有りて、夜中ろくろくにいねず。翌朝下山なしけるが、三左衛門は大熱いでて、無中となりて暫くわづらひける由、然るに五太夫方へ、妖怪ありといへること度々なり。或ひは鬼の形をなし、または山臥(やまぶし)、外品々の変化(へんげ)など出て、甚だおそろしさ云はん方なけれど、強勇の五太夫少しも恐れず、或ひはのゝしり、或ひは笑ひなどしてありければ、七日八日たちて、一人の出家と化して来り、さてさて御身は強勇なる人哉、この上は我等も真定山をたちさるべしと云ひければ、もつともの事なり、然れども御身と咄し合ひし事、しやうこなくては如何なり、何ぞしやうこになるべき品を給はるべしと望みければ、しばらく形を隠しけるが、外より何とも知れず、物をなげ込みけるゆゑ、これを見れば、三尺余有るべき、木性知れざるねぢ棒なり。右棒は広嶋の慈光寺と云へる寺へ、右の五太夫宅へ度々いでしばけ物の姿を、巻ものに絵書き添へて納め置きしと、右五太夫語りけるとなり。右文化六年、齢七十ばかりにて勤番に出で、直に噺しけると、或人語りぬ。
[やぶちゃん注:私のものでは底本違いで、「耳嚢 巻之九 怪棒の事」である。なお、一読されれば、お判りの通り、これは知られた「稻生物怪錄」(いのうもののけろく/いのうぶっかいろく)にヴァリアントであることが分かる。「耳囊」には、実は、同系の話が、この他に二話ある。「耳嚢 巻之五 藝州引馬山妖怪の事」と、「耳嚢 巻之九 妖も剛勇に伏する事」である。合せて、お読みあれかし。]
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