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2023/11/22

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「千両箱掘出し」 / 「せ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 なお、本篇を以って「せ」の部は終わっている。]

 

 千両箱掘出し【せんりょうばこほりだし】 〔蕉斎筆記〕大坂に法花津屋《ほけづや》といふ豪富家有り。また伊予にも法花津屋とて富家有り。その先祖を尋ねけるに、法花津の城主の末孫にて、その後苗《こうべう》に至り衰微し、誠に日々を鰷(どじやう)[やぶちゃん注:ママ。この漢字は通常は「はや」と読み、複数の淡水魚を指すもので、これをドジョウに当てる読みを私は本邦の本草書でも見たことがない。(つくり)の「條」に引かれた誤字であろう。]を掘《ほり》て年月を送りけるが、大坂の先祖と伊予の先祖と、毎夜々々申合せて鰷掘りに出でけるに、或夜大坂の先祖より誘ひければ、今宵はあまり寒しとて断りける故、一人行きけるが、土橋の下にて千両入りの金箱を掘出せり。年号月日法花津城主何某と書付け有り。さては先祖の我に給はりし金なりと、直に大坂へ趣き商売に取付き、後には豊饒《ほうぜう》に暮しけるに、右一緒に行かざる伊予の法花津屋の先祖を呼び登せ云ひけるは、さて只今迄は沙汰をせざりしが、このまへ寒夜の時分、鰷掘りに一人行きしに、この金箱を掘出せり、それより直に大坂ヘ来り、段々立身したり、その時分そなたと一緒に行くならば、半分分けにすべきなり、今はそなたも難儀にくらすべし、この方にて安楽に養ひ申すべしと申しければ、伊予の者もその金箱を見けるに、二つの内と書付け有りける故、断りいひて直に立帰り、その土橋の下を掘りけるに、また一箱据出せり。それよりこれも身上《しんしやう》に取付き、今に繁昌して大坂伊予とも数代《すだい》相続《あひつ》ぎ、その時より今に至る迄、一家同姓のよしみをなす。不思議なる事ども也。誠に先祖の陽徳、この両人へ授けたまひしなり。

[やぶちゃん注:「蕉斎筆記」儒者で安芸広島藩重臣に仕えた小川白山(平賀蕉斎)の随筆。寛政一一(一七九九)年。国立国会図書館デジタルコレクションの「百家隨筆」第三(大正六(一九一七)国書刊行会刊)のこちら(右ページ上段七行目から)で視認出来る。なお、この記事はパート標題『寬政六寅年拔書』で、グレゴリオ暦一七九四年一月三十一日から一七九五年二月十八日の間に書かれたものであることが判る。

「伊予にも法花津屋とて富家有り」「宇和島市役所」公式サイト内の「吉田ふれあい国安の郷」の『代表的な建造物 商家「法花津屋(ほけづや)」』に以下のようにあった(一部の不審な字空けを詰めた)。

   《引用開始》

法花津屋は、伊予吉田藩の御用商人である三引高月甚十郎の店舗として使われていた建物です。建築されたのは安政6年(1859年)。役柱に約45cmもの材木が使われているなどの豪壮な商家建築で、幕末のこの地方の建築様式を今に伝える貴重な建造物といえます。法花津屋は酒や紙を中心とした問屋業で、帆船を所有し、手広く商いを行っていました。質屋、網、金融などの事業まで幅広く行っていたと言われています。法花津屋の主であった三引高月家は、吉田藩の開藩とともに吉田に住み、現在の宇和島市吉田町魚棚に店を構えていました。当主は代々「甚十郎」の名を踏襲し、御用商人として藩の財政に関与したり、町年寄を務める等、伊予吉田藩の藩政にも強い影響力を持っていたといわれています。高月家当主のうち、三代目当主 高月狸兄(たかつきりけい 生年不詳~1762)と、六代目当主 高月虹器(たかつきこうき 17531825)は、愛媛県における俳諧史にその名を残す文化人であり、特に虹器は、書道や茶道などにも通じ、「吉田先家流」と称する挿花の一派を興して多くの門人を育てました。門人の数は時に400名近くに及び、現在の高知県佐川町あたりからの門人も多くいたとされます。また、虹器のまとめた「年賀集」という図録兼文芸集は、愛媛県南予地方から発信された化政文化の精華といえます。

   《引用終了》

調べてみると、この伊予の法花津屋は大阪方面へも手広く商いをし、財を築いたという記載がネット上にあるから、「大坂に法花津屋といふ豪富家有り」とあるのも、親族か手堅い暖簾分けの人物であろう。と言うより、この話自体が、大坂・伊予の法花津屋の繁栄の伝説そのものなのであろう。]

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