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2023/11/25

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「尾籠ながら」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Birounagara

 

    尾籠ながら

 

 

 こんな話をしてもいゝだらうか。しなければならないだらうか。ほかの者が、心もからだも美白になつて、洗禮を受けようといふ年に、にんじんはまだ汚いところがあつた。ある晚は、いい出せずに我慢をしすぎたのである。

 からだをだんだん大きく捻つて、苦しい要求を抑へようと思つた。

 ちつと圖々しい量見だ!

 また、ある晚は、ちやんと、適當の距りを置いて、塀の角に陣取つてゐる夢を見た。その結果、なんにも知らずに、眠つたまゝ、敷布の中へしてしまつたのである。彼は眼をさました。

 自分のそばには、ある筈の塀がないので驚いた。

 ルピツク夫人は、怒るところを怒らない。穩(おだや)かに、寬大に、母親らしく、始末をしてやる。そればかりか、翌朝は、甘つたれた小僧のやうに、にんじんは、寢床を離れる前に食事をする。[やぶちゃん注:「怒る」は「おこる」と訓じておく。]

 さやう、寢床ヘスープを持つて來てくれるのである。それは、なかなか手のかゝつたスープで、ルピツク夫人が、木の箆でもつて、少しばかり例のものを溶かし込んだのである。なに、ほんの少しである。[やぶちゃん注:「箆」「へら」。]

 枕もとには、兄貴のフエリツクスと姉のエルネスチイヌが、陰險な顏附をしてにんじんを見張つてゐる。今にも、合圖さへあれば、大きな聲を立てゝ笑ふ用意をしてゐるのである。ルピツク夫人は、匙で少しづゝ、息子の口へ入れてやる。彼女は、橫目で、兄貴のフエリツクスと姉のエルネスチイヌに、かう云つてゐるらしい――

 「さ、いゝかい! 用意はできたね!」

 「ああ、いゝよ!」

 今からもう、二人は、そら、顰めつ面だと、面白がつてゐる。近所の人たちを招待できるものなら招待するところだつたに違ひない。さて、ルピツク夫人は、最後の眼くばせで、上の子供たちに問ひかける――[やぶちゃん注:「顰めつ面」「しかめつつら」。]

 「さ、いゝね!」

 ゆつくり、ゆつくり、最後の一と匙をあげる。それを、にんじんが大きく開けた口の中へ、喉の奧まで突つ込む。流し込む。押し込む。そして、嘲るやうに、顏をそむけながら、かういふ――

 「あゝ、汚ない。食べた、食べた。自分のだよ、おまけに・・・。昨夜(ゆうべ)のだよ」[やぶちゃん注:ルビの「ゆうべ」は誤りとは言えない。「夕べ」は古くは「ゆうへ」(「夕(ゆう)方(へ)」の意)と表記したからである。]

 「さうだらうと思つた」

かう、なんでもなく、にんじんは答へる。みんなが當てにしてゐたやうな顏附はしない。

 彼は、さういふことに慣れてゐる。或ることに慣れると、そのことはもう可笑しくもなんともない。

 

[やぶちゃん注:「Internet archive」の一九〇二年版の原本では、ここから。原標題の“Sauf votre Respect”は、この語はフランス語ごく普通に用いられる相手へ語りかける際の、特に謙遜めいて相手の言いに反論や注意をする際の見かけ上の謙辞で、「失礼だが」「憚りながら」と訳すのが、普通である(機械翻訳では「敬意を表して」とマンマで出るものもあるが)。「尾籠ながら」「おこ(癡・痴)」の発音に当てた漢字「尾籠」を音読みしたもので、一般に「礼儀を弁えないこと」・「恥ずべきこと」で訳に問題はないが、次いで「貧しいこと」、そして「話題として不適当なきたないこと・不潔であること」の意を持ち、現行では、私は最後の意味で用いることが多いように思われる。所謂、下半身に関わる汚ない内容を示唆することが殆んどであるということである。しかし、本篇はお読みになってお判りの通り、まさにその最後に示した狭義の意味で正しく「尾籠」なのである。臨川書院全集の佃裕文氏の訳も、この岸田氏を文字通り、「リスペクト」して『びろうな話』(下線は底本では傍点「﹅」)と訳されている。流石に、昭和四五(一九七〇)年明治図書刊の『明治図書中学生文庫14』の倉田清訳の「にんじん」の訳では、「尾籠」が中学生には向かないからであろう、『失礼ながら』と訳しておられる。私は正直言うと、ルナールを始めて纏まって読んだ、倉田氏の訳の方が、いいと思う。「尾籠」の狭義の意を知ってしまっている大人や、題で躓いて調べた少年少女が、下ネタ話のことを「尾籠な話」と言うのだと知ってしまったなら、それは、標題でネタバレをしてしまうことに他ならないからである(そもそも「びろう」という語は「尾(尻)漏」という文字列を連想・想起させる厭な言葉で、私は六十六になる現在まで、自分で言葉として発したことも、日記に記したこともない)。私は倉田氏の訳で「にんじん」を読んで幸せ者だったと本気で思っているのである。

「洗禮を受けようといふ年」カトリツクでは、概ね、八歳以上の受洗を「成人洗礼」と言い、聖体拝受を受けることが出来る。

「さ、いゝね!」の部分の訳は、正確には、鍵括弧ではなく、二重鍵括弧で『さ、いゝね!』とすべきところである。直前に「さて、ルピツク夫人は、最後の眼くばせで、上の子供たちに問ひかける」とある通り、これはルピック夫人の無言のフェリックスとエルネスチーヌへの目配せの意味を示しているからである。 

「あゝ、汚ない。食べた、食べた。自分のだよ、おまけに・・・。昨夜(ゆうべ)のだよ」この部分、“Ah ! ma petite salissure, tu en as mangé, tu en as mangé, et de la tienne encore, de celle d’hier.”というのは、不全な訳である。この話者はルピック夫人で、それを概ね逐語しつつやや意訳するなら、

『あんれ! まあッ! あんたは私の小さな汚れものを、幾足りか飲んじまった、それにさ、あんたのそれも幾足りかね、しかも、さ、夕(ゆん)べの古いそれを、一緒にね。』

である。ルピック夫人は、昨夜の「にんじん」の「お漏らし」だけではなく、実に彼女自身がひった、恐らくは今朝(けさ)の小便をも、そのスープに仕込んだのである。流石に、この仕儀を岸田氏や倉田氏は、あまりに惨(むご)過ぎると感じられたものか、ルピック夫人の部分を訳してはいない。但し、一九九五年臨川書店刊の『全集』第三巻の「にんじん」で佃裕文氏は、正確に、

   《引用開始》』[やぶちゃん注:下線は原本では傍点「・」。]

「へへえ! 母さんのおしもを、おまえたべちゃったね、たべちゃったね。それに自分のやつもね、ゆうべのやつをね」

と訳しておられる。なお、古い民俗社会にあっては、罰や虐待のニュアンスではなく、夜尿症の子に、その尿を飲ませることで治すといった民間治療法があることは、私自身、聴いたことや、読んだことがある。佃氏の巻末の後注にも、『これは当時のフランス、ことに田舎では、たとえば病気のときなどこれを直すためというので大小便を飲んだりすることは、かならずしも珍しいことではなかつた。』とされ、さらにルナールの他作品(「怪鳥」の中の「訪問」の部分。当該全集第四巻所収)に『家畜の小便を飲むケースがあげられている』と記されている。……しかし……そうは言つても、これは、余りも――肉親によって行われた凄絶な惨い「いじめ」=虐待以外の――何ものでもない――。しかし、それに対して、「にんじん」平然と「さうだらうと思つた」と言い放ち、「みんなが當てにしてゐたやうな顏附はしない」し、「彼は、さういふことに慣れてゐる。或ることに慣れると、そのことはもう可笑しくもなんともない。」と心象を語る時、その心傷(トラウマ)の、計り知れない深さにこそ、読者は戦慄に似たものを感ずるであろう。少なくとも、小学生低学年の頃、毎日のように半グレの同級生から「いじめ」を受けてきた経験のある私には、その心の――「諦めて居直った内心の闇」が――よく判るのである――。

 

 

   *

 

 

    Sauf votre Respect

 

   Peut-on, doit-on le dire ? Poil de Carotte, à l’âge où les autres communient, blancs de coeur et de corps, est resté malpropre. Une nuit, il a trop attendu, n’osant demander.

   Il espérait, au moyen de tortillements gradués, calmer le malaise.

   Quelle prétention !

   Une autre nuit, il s’est rêvé commodément installé contre une borne, à l’écart, puis il a fait dans ses draps, tout innocent, bien endormi. Il s’éveille.

   Pas plus de borne près de lui qu’à son étonnement !

   Madame Lepic se garde de s’emporter. Elle nettoie, calme, indulgente, maternelle. Et même, le lendemain matin, comme un enfant gâté, Poil de Carotte déjeune avant de se lever.

   Oui, on lui apporte sa soupe au lit, une soupe soignée, où madame Lepic, avec une palette de bois, en a délayé un peu, oh ! très peu.

   À son chevet, grand frère Félix et soeur Ernestine observent Poil de Carotte d’un air sournois, prêts à éclater de rire au premier signal. Madame Lepic, petite cuillerée par petite cuillerée, donne la becquée à son enfant. Du coin de l’oeil, elle semble dire à grand frère Félix et à soeur Ernestine :

   Attention ! préparez-vous !

   Oui, maman.

   Par avance, ils s’amusent des grimaces futures. On aurait dû inviter quelques voisins. Enfin, madame Lepic, avec un dernier regard aux aînés comme pour leur demander :

   Y êtes-vous ?

lève lentement, lentement la dernière cuillerée, l’enfonce jusqu’à la gorge, dans la bouche grande ouverte de Poil de Carotte, le bourre, le gave, et lui dit, à la fois goguenarde et dégoûtée :

   Ah ! ma petite salissure, tu en as mangé, tu en as mangé, et de la tienne encore, de celle d’hier.

   Je m’en doutais, répond simplement Poil de Carotte, sans faire la figure espérée.

   Il s’y habitue, et quand on s’habitue à une chose, elle finit par n’être plus drôle du tout.

 

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