柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「石塔奇瑞」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
石塔奇瑞【せきとうきずい】 〔思出草紙巻三〕芝かはしげ町<東京都港区内>五丁目善長寺といへる浄土宗の境内、小堂の内に安置なす、良樹院殿珊誉昌栄大禅定尼と有りて、寛永十一年きのえ寅八月八日と印《しる》せし石塔あり。これは其頃、備後の国福山<広島県福山市>の城主たりし水野日向守が奥方、おさんの方といへる人のなき跡の印しなり。此婦人、世にいませかりし時、幼年の頃より口中の痛みの病つよくして、一日も安き事なく、医療手を尽して本ぷくなさんとすれども、そのしるしなく、此病ひの為に一命已に終らんとする時に、家臣近藤に向つて遺言ありしは、世の中に歯牙の煩ひ程、たへがたき事はなし。我既に生涯、この病の為に苦しみて今死に至る。このすゑ口痛あるもの、われを祈り怠らずば、その病ひ平愈なさしめんとの誓言して世を去り給ふ。この院中に安置せる事は、去る明和年中、当寺の住持、諸国行脚なせしをり、備後の国福山<広島県福山市>の城中に至る所に、幼年よりの持病たる口痛起りて難儀せしを、中村が教ヘにより、右の良樹院殿の墓に至る。通夜《つや》なしつゝ読経して平愈を祈願せしに、積年の病苦ぬぐつたるが如し。それよりいたみを覚えず、さつぱりと平愈せり。その後、当寺に入院し、その霊験を感ずるの余りに、福山の良樹院殿の墓所の土を取寄せて、石塔の下に敷《しき》て、その霊を安置なす所に、諸人立願《りふぐわん》するに、口痛の病ひいゆる事奇妙なり。願《ぐわん》成就なしたるかたより、絵馬・のぼりの類ひ、小堂に寄進多くなしぬ。われ一とせ心願のありて、江都《えど》の神仏一万拝なさんと、所々の寺社順礼せし折から、計らずもこの寺に詣で、縁起を得てより、後に諸人《しよにん》に教ヘて立願《りふぐわん》なさしむるに、忽ちその病ひ本ぷくすること神の如し。水野家は今《いま》国がへ有りて、武州岩附《いはつき》の城主たり。寛永十一年より今二百年近き春秋を経《ふる》といへども、人は万物の霊なり。命終《みやうじゆう》の一念誓ひの詞、世にくちざる者有難き事にこそ。神とも仏ともなるべき人の一心を、顚倒《てんたう》なして浅ましき終りをなすは、歎かはしき事ならずや。右の墳墓は、福山城下の定福寺にあり。此所の草創<善長寺>は明和年中釈の実誉なり。
[やぶちゃん注:「思出草紙」「古今雜談思出草紙」が正式名で、牛込に住む栗原東随舎(詳細事績不詳)の古今の諸国奇談珍説を記したもの。『○石塔に奇瑞ある事』がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここから正規表現で視認出来る。
「芝かはしげ町」「東京都港区内」「五丁目善長寺」東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗三縁山鑑蓮社(かんれんしゃ)善長寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。所持する「江戸切絵図集(『ちくま学芸文庫』の「『新訂 江戸名所図会』別巻1」)の寛永期に刊行された「近江屋板切絵図」を調べたところ、善長寺のある場所周辺を『◦里俗ニ土器町ト云』とあるのを発見した。この本文の「かはしげ町」というのは、「かはらけ町」の誤認ではあるまいか?
「寛永十一年きのえ寅」不審。寛永十一年は甲戌(きのえいぬ)である。西暦一六三四年。干支を誤った記載は史的事実資料としては価値を全く認められないのが古文書学での常識である。
「良樹院殿珊誉昌栄大禅定尼」「備後の国福山」「広島県福山市」「の城主たりし水野日向守が奥方、おさんの方」備後国福山藩初代藩主水野勝成(永禄七(一五六四)年~慶安四(一六五一)年)の正室は三村家親の娘で、三村親成の養女となって勝成に嫁入りした、「お珊」(於珊・良樹院)の方で間違いない。
「明和年中」一七六四年から一七七二年まで。
「武州岩附」武蔵国埼玉郡岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)にあった岩槻藩。
「寛永十一年より今二百年近き」機械的換算をすると、この記事が書かれたのは、文政末頃となる。
「神とも仏ともなるべき人の一心を、顚倒《てんたう》なして浅ましき終りをなすは、歎かはしき事ならずや」こんな世間への警鐘だか何だか判らぬ感想を添える作者の神経が私には判らない。]
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