「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「鍋」
[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte ”(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。
私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。
ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”(PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。]
鍋
家族のために何か役に立つといふ機會は、にんじんにとつて、めつたに來ないのである。何処かの隅に縮こまつてゐて、彼はそいつが通るのを待ち構え[やぶちゃん注:ママ。]てゐる。豫めこれといふ當てもなく、彼は耳を澄まし、いざといふ場合に、物蔭から現れ出ようといふのだ。そして、何れを見ても、煩惱に心を亂されてゐる人々の中で、たゞ一人、頭の働きを失つてゐない遠謀深慮ある人物のごとく、事件一切の始末を引受けようといふのだ。
處で彼は、ルピツク夫人が、利巧で確かな助手を欲しがつてゐるといふことを感づいた。どうせ彼女は、それを口に出して云ふ筈はない。それほど負け惜しみが强いのだ。契約は暗默の裡(うち)に締べばいゝ。それで、にんじんは、今後、督促を俟たず、しかも、報酬を當てにしないで立ち働かなければならぬ。
決心がついた。
朝から晚まで、竈(かまど)の自在鉤(かぎ)に鍋が一つ懸かつてゐる。冬は、湯が澤山いるので、この鍋が幾度となく、いつぱいになつたり、空つぽになつたりする。鍋は燃え盛る火の上で、ぐらぐら音を立てゝゐる。
夏は、食事の後で、皿を洗ふためにその湯を使ふだけである。ほかの時は絕えず小さな口笛を吹きながら、用もないのに沸いてゐるのだが、その鍋の罅(ひゞ)だらけの腹の下で、消えかゝつた二本の薪が燻(いぶ)つてゐる。
どうかすると、オノリイヌは、その口笛が聞えなくなるのである。彼女は、こごんで耳を押しつける。
「みんな湯氣になつちまつた」
彼女は、鍋の中へ、柄杓(ひしやく)に一杯水を入れる。二本の薪をくつつけ、灰を搔きまわす。やがてまた、懷かしいしやんしやんいふ音が聞え出す。すると、オノリイヌは安心して、ほかの用事をしに行くのである。
假に誰かが彼女にかう云つたとする――
「オノリイヌ、もう使ひもしない湯を、どうして沸かすんだい。鍋をおろしておしまひ。火をお消し。お前さんは、只みたいに薪を燃すんだね。寒くなると、がたがた顫え[やぶちゃん注:ママ。]てる貧乏人がどれだけあるか知れないんだよ。お前さんは一體、締るところは締る女(ひと)なんだのにね」[やぶちゃん注:「燃す」は「もす」と訓じておく。私のサイト版の他の三篇の訳を確認したが、「燃」の漢字を含む篇では、「もやす」型の読みは一つもなく、総て「もす」型であるからである。「締る」戦後版では二ヶ所とも『しま』とルビする。それを採る。]
彼女は、返事に困つて、頭をゆすぶるだらう。
自在鉤の先に、鍋が一つ懸かつてゐるのを、彼女は年(ねん)が年ぢう見て來たのだ。
彼女は、年が年中、湯が沸(たぎ)るのを聞き、鍋が空つぽになれば、たとへ雨が降らうが、風が吹かうが、また日が照らうが、年が年中、そいつをいつぱいにして來たのだ。
で、今ではもう、鍋に手を觸れることは勿論、それを眼で見る必要もない。彼女は、諳(そら)で覺えてゐるのである。たゞ、耳を澄して音を聽けばいゝ。それでもし、鍋が音を立てゝいなかつたら、柄杓で一杯水を注ぎ込むのである。それは丁度、彼女が南京玉へ糸を通すやうに、これこそ慣れつこになつてゐて、未だ嘗て見當を外したことはないのだ。
それが、今日はじめて、彼女は見當を外したのである。
水が悉く火の上に落ち、灰の雲が、五月蠅いものに腹を立てた獸のやうに、オノリイヌ目がけて飛びかゝり、からだを包み、呼吸をつまらせ、皮膚を焦がした。
彼女は、後すざりをしながら、叫び聲を立てた。嚔(くさ)めをした。唾を吐いた。そして云ふ――
「地べたから鬼が飛び出したかと思つた」
眼がくつつき、それがちくちくと痛む。だが彼女は、眞黑になつた手を伸ばして竈の闇を探つた。
「あゝ、わかつた」と、彼女は、びつくりして云ふ――「鍋がなくなつてる」
「いや、そんなはずはない。さつぱりわからん」と、また云ふ――「鍋は、さつきまでちやんとあつたんだ。たしかにあつた。蘆笛のやうに、ぴいぴい音を立てゝゐた」[やぶちゃん注:「蘆笛」私なら「あしぶえ」と読んでしまうが、戦後版では『よしぶえ』であるので、それを採る。]
してみると、オノリイヌが、野菜の切り屑でいつぱいになつた前掛を窓からふるふために、向うをむいてゐる間に、誰かゞそれを外して行つたに違ひない。
だが、それは、一體、誰だ?
ルピツク夫人は、嚴めしく、そして落ち着きはらつた樣子で、寢室の靴拭ひの上へ現はれる――
「なにを大騷ぎしてるんだい、オノリイヌ」
「騷ぎも騷ぎも、大變なことが起つたから、騷いでるんですよ」と、彼女は叫ぶ――「もうちつとで、わしや丸焦げになるとこだ。まあ、この木履(きぐつ)を見ておくんなさい。このスカアトを、この手を・・・。下着は跳ねだらけだし、カクシの中へは炭の塊りが飛び込んでるだし・・・。」
ルピツク夫人――その水溜(みずたまり)はなにさ。竈(へつつい)がびしよびしよぢやないか。これで、奇麗になるこつたろう。
オノリイヌ――わしの鍋を、どうして默つて持つてくだね。どうせ、あんたが外したに違ひない。
ルピツク夫人――鍋は、この家ぢうみんなのものなんだからね。それとも、あたしにしろ、旦那樣にしろ、また子供たちにしろ、その鍋を使ふのに、いちいちお前さんの許しを受けなきやならないのかい?[やぶちゃん注:「家」前例に徴して「うち」と読んでおく。]
オノリイヌ――わしや、無茶を云ふかも知れませんよ。腹が立つてしやうがないんだから。
ルピツク夫人――あたしたちにかい、それともお前さん自身にかい? さうさ、どつちにだい? あたしや物好きぢやないが、それが知りたいもんだね。全く呆れた女(ひと)だよ、お前さんは、鍋がそこにないからつて、火の中へ柄杓にいつぱい水をぶつかけるとは、隨分思ひきつたことをするぢやないか。おまけに意地を張つてさ、自分の粗相は棚に上げて、他人(ひと)に、あたしに、罪をなすくろうとする。かうなつたら、あたしや、どこまでもお前さんをとつちめるよ。
オノリイヌ――にんじん坊つちやん、おれの鍋は、何處へ行つたか知りなさらんか?
ルピツク夫人――なにを知つてるもんか、あの子が。第一、子供には責任はない。お前さんの鍋はどうでもいゝから、それより、昨日お前さんはなんと云つたか、それを思ひ出してごらん。――「そのうちに、自分で、湯一つ沸かすことができなくなつたつていふことに氣がついたら、追ひ出されなくつても、勝手に獨りで出て行く」――かう云つたらう。現に、あたしには、お前さんの眼のわるいことはわかつてた。だが、それほどまでひどいとは思つてなかつたよ。もう、これ以上なんにも云はない。あたしの身になつて考へてごらん。お前さんも、あたし同樣、さつきからの事情はわかつてるんだからね。自分で始末をつけるがいゝ。あゝ、あゝ、遠慮はいらないから、いくらでも泣くさ。それだけのことはあるんだもの。
[やぶちゃん注:原本はここから。
「南京玉」陶製やガラス等で出来た小さい玉。糸を通す穴が空いており、指輪・首飾り・刺繡の材料等にするビーズのことである。但し、原文では“perle”で、綴りから判る通り、この語は原義は「真珠」である。但し、他に「真珠に似た対象」を指して、「南京玉・ビーズ」や、或いは、文学的に「露」等を換喩することもある。昭和四五(一九七〇)年明治図書刊の『明治図書中学生文庫』14の倉田清氏の訳「にんじん」では、岸田氏の訳に敬意を以って従い、「南京玉」である。一九九五年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』第三巻の佃裕文氏の訳は『真珠に糸でもとおすように』であるが、私はここは逐語訳は好まない。「南京玉」或いは「ビーズ」でよいと思う。
「蘆笛」単子葉植物綱イネ目イネ科ヨシ Phragmites australis の葉を丸く巻いて作つた笛。本来は「アシ」であったが、これが「悪し」に通じることから、古くに変名が生まれ、現行では標準和名は「アシ」である。但し、これは最初に当該種に名づけられたものを採用することになっている命名規約に反する行為である。
「下着は跳ねだらけ」この「下着」は原作は“caraco”(カラコ)で、私の辞書でも「短い婦人の上着」であり、前掲の倉田氏訳も、佃氏訳も、「下着」ではなく、「上着」と訳してゐる。特に後者では、『上着(カラコ)』とルビを振り、後注をつけられ、『十八世紀末から十九世紀にかけて着用された、腰丈まであるブラウス風の婦人用上着』とある。残念ながら、語訳の類いである。
「罪をなすくろうとする」「冤罪をなすりつけようとする」の意。]
*
La Marmite
Elles sont rares pour Poil de Carotte, les occasions de se rendre utile à sa famille. Tapi dans un coin, il les attend au passage. Il peut écouter, sans opinion préconçue, et, le moment venu, sortir de l’ombre, et, comme une personne réfléchie, qui seule garde toute sa tête au milieu de gens que les passions troublent, prendre en mains la direction des affaires.
Or il devine que madame Lepic a besoin d’un aide intelligent et sûr. Certes, elle ne l’avouera pas, trop fière. L’accord se fera tacitement, et Poil de Carotte devra agir sans être encouragé, sans espérer une récompense.
Il s’y décide.
Du matin au soir, une marmite pend à la crémaillère de la cheminée. L’hiver, où il faut beaucoup d’eau chaude, on la remplit et on la vide souvent, et elle bouillonne sur un grand feu.
L’été, on n’use de son eau qu’après chaque repas, pour laver la vaisselle, et le reste du temps, elle bout sans utilité, avec un petit sifflement continu, tandis que sous son ventre fendillé, deux bûches fument, presque éteintes.
Parfois Honorine n’entend plus siffler. Elle se penche et prête l’oreille.
– Tout s’est évaporé, dit-elle.
Elle verse un seau d’eau dans la marmite, rapproche les deux bûches et remue la cendre. Bientôt le doux chantonnement recommence et Honorine tranquillisée va s’occuper ailleurs.
On lui dirait :
– Honorine, pourquoi faites-vous chauffer de l’eau qui ne vous sert plus ? Enlevez donc votre marmite ; éteignez le feu. Vous brûlez du bois comme s’il ne coûtait rien. Tant de pauvres gèlent, dès qu’arrive le froid. Vous êtes pourtant une femme économe.
Elle secouerait la tête.
Elle a toujours vu une marmite pendre au bout de la crémaillère.
Elle a toujours entendu de l’eau bouillir et, la marmite vidée, qu’il pleuve, qu’il vente ou que le soleil tape, elle l’a toujours remplie.
Et maintenant, il n’est même plus nécessaire qu’elle touche la marmite, ni qu’elle la voie ; elle la connaît par coeur. Il lui suffit de l’écouter, et si la marmite se tait, elle y jette un seau d’eau, comme elle enfilerait une perle, tellement habituée que jusqu’ici elle n’a jamais manqué son coup.
Elle le manque aujourd’hui pour la première fois.
Toute l’eau tombe dans le feu et un nuage de cendre, comme une bête dérangée qui se fâche, saute sur Honorine, l’enveloppe, l’étouffe et la brûle.
Elle pousse un cri, éternue et crache en reculant.
– Châcre ! dit-elle, j’ai cru que le diable sortait de dessous terre.
Les yeux collés et cuisants, elle tâtonne avec ses mains noircies dans la nuit de la cheminée.
– Ah ! je m’explique, dit-elle, stupéfaite. La marmite n’y est plus…
– Ma foi non, dit-elle, je ne m’explique pas. La marmite y était encore tout à l’heure. Sûrement, puisqu’elle sifflait comme un flûteau.
On a dû l’enlever quand Honorine tournait le dos pour secouer par la fenêtre un plein tablier d’épluchures.
Mais qui donc ?
Madame Lepic paraît sévère et calme sur le paillasson de la chambre à coucher.
– Quel bruit, Honorine !
– Du bruit, du bruit ! s’écrie Honorine. Le beau malheur que je fasse du bruit ! un peu plus je me rôtissais. Regardez mes sabots, mon jupon, mes mains. J’ai de la boue sur mon caraco et des morceaux de charbon dans mes poches.
MADAME LEPIC
Je regarde cette mare qui dégouline de la cheminée, Honorine. Elle va faire du propre.
HONORINE
Pourquoi qu’on me vole ma marmite sans me prévenir ? C’est peut-être vous seulement qui l’avez prise ?
MADAME LEPIC
Cette marmite appartient à tout le monde ici, Honorine. Faut-il, par hasard, que moi ou monsieur Lepic, ou mes enfants, nous vous demandions la permission de nous en servir ?
HONORINE
Je dirais des sottises, tant je me sens colère.
MADAME LEPIC
Contre nous ou contre vous, ma brave Honorine ? Oui, contre qui ? Sans être curieuse, je voudrais le savoir. Vous me démontez. Sous prétexte que la marmite a disparu, vous jetez gaillardement un seau d’eau dans le feu, et têtue, loin d’avouer votre maladresse, vous vous en prenez aux autres, à moi-même. Je la trouve raide, ma parole !
HONORINE
Mon petit Poil de Carotte, sais-tu où est ma marmite ?
MADAME LEPIC
Comment le saurait-il, lui, un enfant irresponsable ? Laissez donc votre marmite. Rappelez-vous plutôt votre mot d’hier : « Le jour où je m’apercevrai que je ne peux même plus faire chauffer de l’eau, je m’en irai toute seule, sans qu’on me pousse. » Certes, je trouvais vos yeux malades, mais je ne croyais pas votre état désespéré. Je n’ajoute rien, Honorine ; mettez-vous à ma place. Vous êtes au courant, comme moi, de la situation ; jugez et concluez. Oh ! ne vous gênez point, pleurez. Il y a de quoi.
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