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2023/11/03

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「山中の窟」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 山中の窟【さんちゅうのいわや】 〔世事百談巻三〕越後国会津領新発田《しばた》領<新潟県新発田市>入合《いりあひ》の山に、字(あざな)をおこつへいといへる地《ところ》あり。文政七年の夏のころ、戸倉《とくら》村の樵夫《きこり》七人いひあはせ、山深く尋ね入りたるに、往来の道より二十五丁[やぶちゃん注:二キロ半。]ほど入りこみ、広きところにて、凡そ人数《にんず》三十人ばかりも住むべきほどの窟《いはや》あり。その窟の深さ五十間[やぶちゃん注:約九十一メートル。]も行きたりと想ふところ、打開らけ、人の六七十人も住むべきほどの所あり。いづくより明りのさし入るにか、暗からず。それよりも奥の方《かた》は、いくらばかりとも、その深さ知りがたし。この所より奥へ行くべき穴の口に鉄の格子ありて、いかほど押したりとも開くことなし。折から何《なに》となく物凄くおぼえて、おのおの立帰りしとかや。その七人のうち、三人はかへると其まゝ発熱して、やがて身まかりしといへり。こは過ぎしころ、友人柳庵のはなしなり。この類ひの窟諸国にあることにて、予<山崎美成>が曾て聞けるは、常陸国関本茨城市関本>郷に、隠里(かくれざと)といふ所あり。これも越後のおこつへいの窟に似たり。猶隠里といふ所、信濃にもあり。『壊鑑(つちくれかがみ)』といふ地志に見えたり。大井平《おほゐだいら》の洞穴の図説は予が『耽奇漫録』に載せ、下野都賀郡《しもつけのつがのごほり》<現栃木県下都賀郡内>の洞穴のことは『随掃篇』にしるしたれば、こゝにもらしつ。それが中《なか》に或はあがれる世の廟穴の野人の為に掘り穿《うがち》たるゝも、まゝなきにあらず。『菅笠《すがかさ》日記』に、安倍文殊の岩屋は高さもひろさも七尺《しちしやく》ばかり、奥へ三丈四五尺もあらん、これもみな、いといとあがれる世に、たかき人をはふりし墓とこそ思はるれ、といへり。また『陵墓志』に、倭姫命《やまとひめ》の御墓《おんはか》の現はれたるを、土人の字《あざな》に隠石窟《かくれのいはや》といふよしも見えたり。

[やぶちゃん注:「麻布の異石」で既注の山崎美成が天保一四(一八四四)年十二月に刊行した随筆集。全四巻。風俗習慣・故事・文芸・宗教・天象地誌・奇聞など、広範囲に及ぶ百三十八条から成る。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻九(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで当該条「○おこつひの窟(いはや)」が正字で視認出来る。これはルビが多く附されてあるので、それで読みを補った。

「越後国会津領新発田領」「新潟県新発田市」「入合の山」「字(あざな)」「おこつへい」不詳。この附近にあるか(グーグル・マップ・データ)。

「文政七年」一八二四年。

「戸倉村」不詳。

「常陸国関本」「茨城市関本」現在の茨城県北茨城市関本町(せきもとちょう:グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「壊鑑」不詳。国立国会図書館デジタルコレクションでも検索に掛からない。

「大井平」かなり手古摺ったが、恐らく現在の愛知県知多郡南知多町大井にある、先史時代の古い窯址を指すものと思われる。

「洞穴の図説は予が『耽奇漫録』に載せ」これも思いの外、探すのに苦労したが、国立国会図書館デジタルコレクションの写本のここからがそれ。

「下野都賀郡」「現栃木県下都賀郡内」恐らくは、栃木県栃木市出流町(いづるまち)にある「奥之院鍾乳洞」と思われる。「NAVITIME」のここ

「随掃篇」美成の随筆。ネットでは原本に当たれない。

「菅笠日記」本居宣長が四十三歳の時、明和九(一七七二)年三月五日から十四日までの十日間、吉野・飛鳥を旅した際の日記。上下二巻。「本居宣長記念館」公式サイト内のこちらで、全文が電子化(新字)されている。「安倍文殊の岩屋」はそこに、

   《引用開始》

この大原といふ里。かぐ山のちかき所に有て。藤原宮も。そこならんとこそ思ひしか。今来て見れば。かぐ山とははるかにへだゝりて。思ひしにたがへれば。いといとおぼつかなけれど。なほ藤原の里は。この大原の事にて。宮の藤原は。べちにかの香山のあたりにぞありけんかし。これより安倍へ出る道に。上やとり村といふあり。文字には八釣とかけば。顕宗天皇の近飛鳥八釣宮の所なるべし。里のまへに。細谷川のながるゝは。やつり川にこそ。やゝゆきて。ひろき道にいづ。こは飛鳥のかたより。たゞに安倍へかよふ道也。山田村。このわたりに。柏の木に栗のなる山ありとぞ。荻田村といふを過て。安倍にいたる。岡より一里也。此里におはする文殊は。よに名高き佛也。その寺に岩屋のある。内は高さもひろさも。七尺ばかりにて。奥へは三丈四五尺ばかりもあらんか。又奥院といふにも。同じさまなるいはやの。二丈ばかりの深さなるありて。内に清水もあり。さて此寺をはなれて。四五町ばかりおくの。高き所に又岩屋あり。こゝはをさをさ見にくる人もなき所なれば。道しるべするものだに。さだかにはしらで。そのあたりの田つくるをのこなどにとひきゝつゝ。行て見るに。これの同じほどの大きさにかまへたるいはやなる。三丈四五尺がほど入て。おくはうへも横もやゝ廣きに。石して屋のかたりにつくりたる物。中にたてり。そは高さも横も六尺ばかり。奥へは九尺ばかり有て。屋根などのかたもつくりたるが。あかりさし入て。ほのかに見ゆ。うしろのかたは。めぐりて見れども。くらくて見えわかず。さて口とおぼしき所は。前にもしりへみのなきを。うしろの方のすみに。一尺あまりかけたる跡のあるより。手をさし入てさぐりみれば。物もさはらず。内はすべてうつほになん有ける。こはむかし安倍晴明が。たから物どもを。蔵めおきつるを。後にぬす人の入て。すにをうちかきて。ぬすみとりし也と。里人はいふなれど。こは例のうきたることにて。まことはかの文殊の寺なる二ッのいはやも。これも。みないと?あがれる代に。たかき人をはふりし墓とこそ思はるれ。そのゆゑは。すべていはやのさま。御陵のかまへにて。中なる石の屋は。すなはちおほとこと思はるれば也。そのかまへ。いと大きなる石を。けたにつくり。なかをゑりぬきて。棺ををさめて。上におほえる石を。屋根のさまにはつくれる物也。さて土輪などいひけんたぐひの物は。此めぐりにぞたてけんを。こゝらの世々をへては。さる物もみなはふれうせ。又ぬすびとなどの。大とこをもうちかきて。中にをさめし物どもは。ぬすみもていにけるなるべし。かの寺なる二ッは。その大とこも。みなかけうせて。たゞとなる岩がまへのかぎり。残れるものならんかし。さてこゝのいはやのついでに。しるべするをのこが語りけるは。岡より五六丁たつみのかたに。嶋の庄といふ所には。推古天皇の御陵とて。つかのうへに岩屋あり。内は畳八ひらばかりしかるゝ廣さに侍る。又岡より十町ばかり。これも同じ方に。坂田村と申すには。用明天皇ををさめ奉りし所。みやこ塚といひて。これもそのつかのうへに。大きなる岩の角。すこしあらはれて見え侍る也となんかたりける。この御陵どもの事はいかゞあらん。坂田も嶋もふるき所にしあれば。里の名ゆかしく覚ゆ。さてもとこし道を。文殊の寺までかへりて。あべの里をとほりて。田の中に。あべの仲まろのつか。又家のあとゝいふもあれど。もはら信じがたし。大かた此わたりに。仲まろ晴明の事をいふは。ところの名によりて。つくりしことゝぞ聞ゆる。又せりつみの后の七ッ井とて。いさゝかなるたまり水の。ところどころにあるは。芹つみし昔の人といふ事のあるにつけていふにや。こゝろえぬ事ども也。それより戒重といふ所にいづ。こゝは。八木といふ所より。桜井へかよふ大道なり。

   《引用開始》

この安倍文珠院はここであるが、恐らく、そこの本堂の南東直近にある「文殊院西古墳」がそれのことである。サイド・パネルの画像を見られたい。但し、この古墳は安倍文珠院を創建した「大化の改新」に功あった左大臣安部倉梯麻呂(あべのくらはしまろ ?~大化五(六四九)年)の墓と伝えられている。

「陵墓志」「山陵志」とも。江戸後期の儒学者蒲生君平(がもうくんぺい 明和五(一七六八)年~文化一〇(一八一三)年)が寛政九(一七九七)年前後に調査し、草稿は寛政九(一七九七)年に、最終稿は享和元(一八〇一)年に完成したとされ、書物として発刊されたのは文化五(一八〇八)年とも文政五(一八二二)年ともされる。現行の「前方後円墳」という言葉は本書の中で初めて君平が用いた言葉である(概ね、当該ウィキに拠った)。

「倭姫命」(やまとひめのみこと 生没年不詳)は記紀等に伝わる古代日本の皇族。「日本書紀」では「倭姬命」、「古事記」では「倭比賣命」と表記される。第十一代垂仁天皇の第四皇女で、母は皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。天照大神を伊勢の地に祀ったとされ(現在の伊勢神宮)、斎宮の伝説上の起源とされる人物である(当該ウィキに拠った)。彼女の陵墓比定地は伊勢神宮外宮から東の三重県伊勢市倭町(やまとまち)のここにあるが、「古市参宮街道と周辺地域ガイドマップ手帳」PDF)の『⑳倭姫御陵墓伝説地』によれば(太字はママ)、

   《引用開始》

 この倭姫命石隠れ伝説は、神宮の経典といわれた神道五部書の一つ『倭姫命世記』に尾上山(おべやま)のどこかに石隠れ給うた石窟があるに違いないということで、旧常明寺の山林にある石窟が最有力として、明治12413日、「倭町共有林内の古墳、元常明寺山は自今、御陵墓伝説地として宮内省において保存せらる」という達令が出されました。しかし、これはあくまでも伝説予定地です。倭姫とは、日本の姫君という意味で、日本武尊(やまとたける)と同様に固有名詞ではありません。斎王(いつきのみこ)は未婚の皇女又は女王を当てるのが古例であったので、日本を代表する姫という意昧で、代々の斎王(いつきのみこ)の呼称となったものと思われます、この御陵伝説地の古墳は前方後円墳で、横穴式石窟です、現在は、立て札に「宇治山田陵墓参考地 宮内庁」とあり、柵がめぐらされて、立ち入り禁止となっています。

   《引用終了》

とあるので、これ以上、ディグする気はなくなった。滝沢馬琴が、その傲慢なのにキレて絶交した山崎美成は、私も大嫌いなのだが、実に以上の注に、本未明から三時間以上を費やしてしまった。「随筆辞典 奇談異聞篇」の中で、今まで最大最悪の長時間であった。

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