柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「獣面人心」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
獣面人心【じゅうめんじんしん】 〔甲子夜話巻十七〕獣《けもの》に人心あり。人にして獣心あるはいかなることにや。予<松浦静山>が領国にて作事奉行川上沢次郎、神崎と云ふ処の茅地《かやち》を、役所と農夫との仕分見分《しわけけんぶん》に往きしとき、山下の海浜に猿居たり。心得ざることに思ひ、近より見れども不ㇾ去。そのうへ手を揚げて招くゆゑ、弥〻《いよいよ》怪しく寄付《よりつき》たるに、猿片手を潮《うしほ》の中に入れたり。諦視《ていし》[やぶちゃん注:じっと見つめること。子細に見ること。]すれば猿石間《いしま》の鮑(あはび)を取らんとせしを、鮑その手をしめつけて、岩にはさまり動くこと協《かな》はざるなり。沢次郎むごきことに思ひて、その鮑を引はなしたれば、猿喜びたる体《てい》にて頭を下げ、両手を地につき平伏して去れり。これ拝謝の意なるべしと、人聞きてこれを憐《あはれ》めり。また領分の東界《ひがしさかひ》は西嶽《にしたけ》と云ひて深山なり。その麓の村を世知原《せちばる》と云ふ。或日この処の人家の前に、山狗《やまいぬ》(狼なり、山狗は方言)出《いで》て口をあきて居るゆゑ、農夫これを見て訝(いぶか)り思ふには、この獣山を離れて村里に来るべきやうなし。且つ口をあきて居《を》れど、人を食ふ体《てい》もなしと、近よりたるに少しも動かざれば、農も懼(おそろ)しければ、片手に鎌を持ちながら、その口中を窺ひみるに、咽(のど)の中に白きもの見ゆ。能く能く視れば鹿を取り食ひ、その脇骨咽の奥にたちて悩めるなり。農乃《すなは》ち鎌をかの口に当てゝ、齧《かま》れぬ用心して手を口中にさし入れ、その骨を取のけければ、山狗うれしき体にて静かに去りたり。翌朝農起出たるに、戸外に牛に手綱つけたるを、誰つれ来りたるとも知らず放ちて有り。剰《あまつさ》へその綱に雉子一羽つなぎ付けて有り。これ思ふに前日の山狗酬礼の為に、他の耕牛を奪ひて報いたるならんと人云ひ合へり。またこれは江戸の話なり。旗下の御番士一色熊蔵と云ひしが物語せしは、某と云へる旗下人《はたもとにん》の領地にて、これも狼出て口をあきて人に近づくゆゑ、口中を見たるに、何か獣骨をたてたるを見て抜てやりたれば、狼喜びたる体にて去る。その明日《あくるひ》一小児門外に棄てありと云ふ。何れの者なるを知らず。健かに見えしとて、某憐んで己が子の如く育てたるに、盛長して後は嗣子《しし》とせしとなり。某もとより子無くして、常に憂ひ居《ゐ》けるを、狼よくも知りて報謝の意もて、この児を何方《いづかた》よりか奪ひ来りしものと覚ゆ。狼の連れ来りたるに違ひなきは、其肩さきに歯痕《はきず》あり。然《さ》ればくはへ来れる証《あかし》なり。その児《こ》年長《としちやう》じて子孫も出来て、今に至りて連綿と相続きて勤め居るが、その肩には歯痕の如きもの有りと云ふ。その家の名は聞かず。
[やぶちゃん注:事前に正規表現で「フライング単発 甲子夜話卷十七 13 獸、人心ある事」を公開しておいたので、そちらを見られたい。]
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