「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蟻」
[やぶちゃん注:本電子化はサイトの「心朽窩新館」で偏愛する『ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士訳(附 Jules Renard “ Histoires Naturelles ”原文+やぶちゃん補注版)』を公開している(新字新仮名戦後版)が、今回は国立国会図書館デジタルコレクションの正字正仮名のもの、戦前の岸田國士譯ジュウル・ルナアル 「博物誌」(昭一四(一九三九)年白水社刊)の画像(リンク先は当該書の標題附き扉二)を視認出来るようになったことから、それをブログ版として、新規まき直しで、零から始めることとしたものである。詳しくは初回の冒頭注を参照されたい。
また、ボナールの画像に就いては、十六年前のそれではなく、再度、新潮文庫版のそれを、新たにOCRで読み込み、補正・清拭して用いる。注も一からやり直すこととし、原文は前回のものを調べたところ、アクサンテギュの落ちが有意に認められたので(サイト版は敢えてそのままにしておいた)、新たにフランスのサイト“TEXTES LIBRES”の電子化された同書原文のものをコピー・ペーストさせて戴くこととすることとした。]
蟻
一
一匹一匹が、3という數字に似てゐる。
それも、ゐること、ゐること!
どれくらいかといふと、333333333333……ああ、きりがない。
二
蟻と鷓鴣(しやこ)の子
一匹の蟻が、雨上りの轍の中に落ち込んで、溺れかけてゐた。その時、恰度水を飮んでゐた一羽の鷓鴣の子が、それを嘴で挾んで、命を助けてやつた。
「この御恩はきつと返します」と、蟻が云つた。
「僕たちはもうラ・フォンテエヌの時代に住んでるんぢやないからね」と、懷疑主義者の鷓鴣の子が云ふ。「勿論、君が恩知らずだつていふんぢやないよ。だけど僕を擊ち殺さうとしてる獵師の踵に、いつたいどうして喰ひつくつもりだい。今時の獵師は、跣足ぢや步かないぜ」[やぶちゃん注:「踵」戦後版では、『かかと』とルビする。]
蟻は、餘計な議論はせず、そのまま急いで自分の仲間に追ひついた。仲間は、一列に並べた黑い眞珠のやうに、同じ道をぞろぞろ步いてゐた。
ところが、獵師は遠くにゐなかつた。
彼は、恰度、一本の木の蔭に、橫向きになつて寢てゐた。すると、件の鷓鴣の子が、れんげ畑を橫切りながら、ちよこちよこ、餌を拾つてゐるのが眼についた。彼は起ち上つて、擊たうとした。ところが、右の腕が痺れて、「蟻が這つてゐるやうに」むづむづする。鐵砲を構へることができない。腕はまたぐつたり垂れ、そして鷓鴣の子はその痺れがなほるまで待つてゐない。
[やぶちゃん注:底本では「二」の文の途中に、明石哲三氏の蟻の墨絵と思われる味わいのある挿絵が入っている。膜翅(ハチ)目有剣ハチ下目アリ上科アリ科 Formicidae のアリ類と、「鷓鴣」鳥綱キジ目キジ亜目キジ科キジ亜科 Phasianinae の内、「シャコ」と名を持つ属種群を指す。特にフランス料理のジビエ料理でマガモと並んで知られる、イワシャコ属アカアシイワシャコ Alectoris rufa に同定しても構わないだろう。本篇でも多出し、『ジュウル・ルナアル「にんじん」フェリックス・ヴァロトン挿絵 附やぶちゃん補注』や、『ジュウル・ルナアル「ぶどう畑のぶどう作り」附 やぶちゃん補注』でも取り上げられることが多い、ルナールに親しい鳥である。
「一」は私が本“ Histoires Naturelles ”中、最も偏愛するアフォリズムである。ボナールの絵と相俟って、「無量大数」の眩暈が、読者を魅了する。但し、これは二年先行する『ジュウル・ルナアル「ぶどう畑のぶどう作り」附 やぶちゃん補注』の中に同題の同じものがある。
また、この「二」のパートは、原作“ Histoires Naturelles ”では、一九〇四年版で採録されたものの、一九〇九年版では削除されている(一九九四年臨川書店刊『ジュール・ルナール全集』の第五巻の佃裕文訳「博物誌」の後注に拠った)。ルナールはあまりに寓話臭が強過ぎるので、後年、気に入らなくなってしまったものかも知れない。私自身、ちょっと本書の中では、違和感を感ずるものではある。
「ラ・フォンテエヌ」十七世紀のフランスの詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ(Jean de la Fontaine 一六二一年~一六九五年)。「イソップ寓話」を元にした「寓話詩」( Fables :一六六八年刊)で知られる(有名なものに「北風と太陽」「金のタマゴを産む牝鶏」などがある)。辻昶訳一九九八年岩波文庫刊「博物誌」では、注があり、その『『寓話詩』のなかに、おぼれかかったありを救ったはとを、ありがあとですくって恩返しをする話がある(二の一二)』とある。
「蟻が這つてゐるやうに」同じく辻氏の注に、『フランス語の「(からだのある部分に)ありがいる」という表現は、その部分がありが走っているみたいにちくちくするという意味。したがって、ここでは、実際にありが刺したわけではなく、「あり」という言葉を使った』洒落であると、されておられる。しかし、どうだろう? 獵師は木蔭で、地面に横になって寝ていた。季節は春か夏、彼は袖裾を巻き上げていたであろう。この話を読んだ少年少女たちは、きっと、十人が十人、「やっぱり、蟻さんは、ちゃんと辛気臭い頭でっかちの鷓鴣さんを助けたんだよ!」と、口をそろえて声を挙げると思う。]
*
LES FOURMIS
I
Chacune d'elles ressemble au chiffre 3.
Et il y en a ! il y en a !
Il y en a 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3... jusqu'à l'infini.
II
La fourmi et le perdreau
Une fourmi tombe dans une ornière où il a plu et elle va se noyer, quand un perdreau, qui buvait, la pince du bec et la sauve.
- Je vous la revaudrai, dit la fourmi.
- Nous ne sommes plus, répond le perdreau sceptique, au temps de La Fontaine. Non que je doute de votre gratitude, mais comment piqueriez-vous au talon le chasseur prêt à me tuer ! Les chasseurs aujourd'hui ne marchent point pieds nus.
La fourmi ne perd pas sa peine à discuter et elle se hâte de rejoindre ses soeurs qui suivent toutes le même chemin, semblables à des perles noires qu'on enfile.
Or, le chasseur n'est pas loin.
Il se reposait, sur le flanc, à l'ombre d'un arbre. Il aperçoit le perdreau piétant et picotant à travers le chaume. Il se dresse et veut tirer, mais il a des fourmis dans le bras droit. Il ne peut lever son arme. Le bras retombe inerte et le perdreau n'attend pas qu'il se dégourdisse.
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