譚海 卷之五 江戶芝三田濟海寺竹柴寺なる事
[やぶちゃん注:句読点・記号・読みを変更・追加した。]
○江戶、芝三田の坂の上に、濟海寺(さいかいじ)と云(いふ)淨土宗の寺、有(あり)。其鄰(となり)は、何某國(なにがしのくに)の守(かみ)の下屋敷なり。此下屋しき、往古は、濟海寺の境内にてありしを、今、分れて鄰の地になれりとぞ。其下屋敷(しもやしき)の内に「龜塚」と號するもの有(あり)。玆(ここ)に觀世流外(そと)百番の謠(うたひ)に「瓶塚(かめづか)」と云(いふ)物ありて、其詞(そのことば)を見るに、「龜塚」にはあらで「瓶塚」と云(いふ)事を作りて、「さらしな日記」に云(いへ)る「竹柴寺(たけしばてら)」の事を作りたる者也。是によりて當時の住持和尙、初めて、「濟海寺は、古(いにしへ)の竹柴寺也。」と自讚して、人にも語りて、入興(にふきやう)せられける。彼(かの)日記には、『昔、むさしの國なる男、大内の役にさゝれて參て居(を)る程、「庭を、きよむる。」とて、故鄕の事を思ひ出でて、「あはれ、我國には、大なるもたひありて、それにそへたるひさごの、東風ふけば、西へなびき、西風ふけば、京へなびく。さもおもしろき事なるを、かく見もせで、遠き國にある事よ。」と、ひとりごとせしを、御門(みかど)のむすめ、ほの聞(きき)給ひて、みすをまきあげて、此男を、まねき給ひて、「いかで、我を、ともなひて、其ひさごのおもしろき、みせよ。せちに、ゆかしきに。」と、のたまへば、此男、おもひかけずながら、うちかしこまりて、みむすめを、脊(せ)におひて、都(みやこ)をにげ出(だし)、瀨田の橋を引(ひき)おとして、夜ひるとなく、にげて、あづまに、くだりける。御門より御使(おつかひ)ありて、「歸り給ふべき」よし、のたまはせしかど、すくせにや、「此所(ここ)にとゞまらまほしく、都へ歸らんとも、おもはず。」と、の給ひしかば、かさねて、此男をば、武藏守になされて、御門の御娘(おほんむすめ)と夫婦(めをと)になりて、暮しける。みむすめ、かくれ給ひし後(のち)、其家をば、やがて、寺になして、「竹柴寺」とて有(あり)けるよしを、しるせり。又、彼(かの)謠には、『此(この)もたひを埋(うづめ)ける所。』とて、「瓶塚」と、いへるよしを作れり。旁(つくり)よりどころある事にも覺ゆれど、今の濟海寺、去(さる)事あるにや、遙(はるか)なる世の事にて、覺束なし。
[やぶちゃん注:「江戶、芝三田の坂の上に、濟海寺と云土宗の寺、有」東京都港区三田にある浄土宗智恩院末寺であった周光山長壽院済海寺(グーグル・マップ・データ)。この伝承は、中世・近世の創作ではなく、非常に古くからあるらしい。「たけしば」が「竹柴」となり、それが「竹芝」に転じ、現在まで続く地名の「芝」となったとされる。
「外百番」これは「百番の外(ほか)の百番」の意で、江戸初期以来、謡曲「内百番」に対して、刊行された別の百番の謡曲を指す。但し、「百番」の曲には流派によっても出入りがあって、同一ではない。「瓶塚」は私は不詳。ネット検索でも見当たらないのだが?
『「さらしな日記」に云る「竹柴寺」』「更級日記」の「五」の「たけしば」。以下、所持する関根慶子訳注(講談社学術文庫昭和五二(一九七七)年刊)の「上」の本文を参考に、恣意的に正字化し、記号も添えて示す。
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五 たけしば
今は武藏の國になりぬ。ことにをかしき所も見えず。濱も砂子(すなご)白くなどもなく、こひぢ[やぶちゃん注:「泥」。]のやうにて、むらさき生ふと聞く野も、葦・荻のみ高く生ひて、馬(むま)に乘りて弓もたる末(すゑ)、見えぬまで高く生ひ茂りて、中をわけ行くに、「たけしば」といふ寺あり。はるかに、「ははさう」[やぶちゃん注:不詳。以下から、楼閣の名らしい。]などいふ所の、らうの跡の礎(いしずゑ)などあり。
「いかなる所ぞ。」
と問へば、
「これは、いにしへ、『たけしば』といふさか[やぶちゃん注:坂。]なり。國の人のありけるを、火燒屋(ひたきや)[やぶちゃん注:宮中に設けられた、夜間中、火を焚いて衛士が番をする小屋。]の火たく衞士(ゑじ)に、さしたてまつりたりけるに、御前(おほんまへ)の庭を掃くとて、
「などや、苦しきめを見るらむ。わが國に、七つ、三つ、つくり据えたる酒壺(さかつぼ)に、さし渡したる直柄(ひたえ)の瓢(ひさご)[やぶちゃん注:乾した瓢簞を二つに割り、柄を附けずに用いる柄杓。]の、南風(みなみかぜ)吹けば、北になびき、北風吹けば、南になびき、西吹けば、東になびき、東吹けば、西になびくを見で、かくてあるよ。」
と、ひとりごちつぶやきけるを、その時、帝(みかど)の御女(おほんむすめ)、いみじうかしづかれ給ふ。ただひとり、御簾(みす)のきはに、立ち出で給ひて、柱によりかかりて御覽ずるに、この男(をのこ)の、かく、ひとりごつを、
『いとあはれに、いかなる瓢の、いかになびくならむ。』
と、いみじうゆかしくおぼされければ、御簾をおし上げて、
「あのをのこ、こち、よれ。」
と仰せられければ、酒壺(さかつぼ)のことを、いま一(ひと)かへり、申しければ、
「われ、率(ゐ)て、行きて見せよ。さ、いふやう、あり。」[やぶちゃん注:最後の台詞は、「そのように言うのであれば、それなりの帰りたいわけがあろう。」の意。]
と仰せられければ、
『かしこく、おそろし。』
と思ひけれど、さるべきにやありけむ、おひ[やぶちゃん注:背負い。]奉りて下(くだ)るに、ろんなく[やぶちゃん注:「無論」。]、
『人、追ひて、來(く)らむ。』
と思ひて、その夜(よ)、「勢多の橋」のもとに、この宮を据(す)ゑ奉りて、「勢多の橋」を一間(ひとま)ばかり、こぼちて、それを、飛びこえて、この宮を、かきおひ奉りて、七日七夜(なぬかななよ)といふに、武藏の國にいきつきにけり。
帝、后(きさき)、
「御子(みこ)、失せ給ひぬ。」
と、おぼしまどひ、求め給ふに、
「武藏の國の衞士の男なむ、いと香(かう)ばしき物を、首(くび)にひきかけて、飛ぶやうに逃げける。」
と申し出でて、この男を、尋ぬるに、なかりけり。
ろんなく、
「もとの國にこそ行くらめ。」
と、公(おほやけ)より、使(つかひ)、下(くだ)りて追ふに、「勢多の橋」、こぼれて、えゆきやらず。
三月(みつき)といふに、武藏の國にいきつきて、この男をたづぬるに、この御子、公使(おほやけづかひ)を召して、
「われ、さるべきにやありけむ、この男の家、ゆかしくて、『ゐて行け。』と、いひしかば、ゐて來たり。いみじく、ここあり、よく覺ゆ[やぶちゃん注:ここは、とても住み心地がよいと感じておる。]。この男、罪(つみ)し、れう[やぶちゃん注:「掠(れう)」でひどい罰を下すこと。]ぜられば、われはいかであれ、と。これも先(さき)の世に、この國に跡(あと)をたるべき宿世(すくせ)こそありけめ。はや、歸りて、公(おほやけ)に、此のよしを奏せよ。」
と仰せられければ、言はむ方(かた)なくて、のぼりて、帝に、
「かくなむありつる。」
と奏しければ、
「いふかひなし。その男を罪(つみ)しても、今は、この宮を、とり返し、都にかへしたてまつるべきにも、あらず。『たけしば』の男に、生(い)けらむ世の限り、武藏の國を預けとらせて、公事(おほやけごと)もなさせじ。ただ、宮に、その國を預け奉らせ給ふ[やぶちゃん注:自敬表現。]。」
よしの宣旨、下りにければ、この家を内裏(だいり)のごとく造りて、住ませ奉りける家を、宮など失せたまひにければ、寺になしたるを、「竹柴寺」と、いふなり。
その宮の生み給へる子どもは、やがて、「武藏」といふ姓を得てなむ、ありける。
それよりのち、「火たき屋」に、女はゐるなり。
……と語る。[やぶちゃん注:作者が聴き取りした、当地の里人が主語。]
*]
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