「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「牛」
[やぶちゃん注:本電子化はサイトの「心朽窩新館」で偏愛する『ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士訳(附 Jules Renard “ Histoires Naturelles ”原文+やぶちゃん補注版)』を公開している(新字新仮名戦後版)が、今回は国立国会図書館デジタルコレクションの正字正仮名のもの、戦前の岸田國士譯ジュウル・ルナアル 「博物誌」(昭一四(一九三九)年白水社刊)の画像(リンク先は当該書の標題附き扉二)を視認出来るようになったことから、それをブログ版として、新規まき直しで、零から始めることとしたものである。詳しくは初回の冒頭注を参照されたい。
また、ボナールの画像に就いては、十六年前のそれではなく、再度、新潮文庫版のそれを、新たにOCRで読み込み、補正・清拭して用いる。注も一からやり直すこととし、原文は前回のものを調べたところ、アクサンテギュの落ちが有意に認められたので(サイト版は敢えてそのままにしておいた)、新たにフランスのサイト“TEXTES LIBRES”の電子化された同書原文のものをコピー・ペーストさせて戴くこととすることとした。]
牛
今朝もいつものやうに戶があくと、カストオルは別に躓くやうなこともなく、牛小屋を出て行く。先づ、水槽の底に溜つた水を、ごくごくとゆつくり自分のぶんだけ飮み、あとから來るポリュックスのぶんは殘しておく。それから、夕立のあとの樹のやうに鼻の先から雫を垂らしながら、ちやんとそのつもりで、おとなしくのそのそと、いつもの場所へやつて行つて[やぶちゃん注:ママ。]、車の軛(くびき)の下へからだを突つ込む。
角を繫がれたまま、頭はぢつと動かさずに、彼は腹に皺を寄せ、尻尾(しつぽ)でもの憂げに黑蠅を追ひながら、女中が箒を手に持つたまま居眠りをしてゐるやうに、ポリュックスが來るまで一人でもぐもぐ口を動かしてゐる。
ところが、庭の方では、下男たちがあはただしく[やぶちゃん注:ママ。]怒鳴つたり、喚(わめ)いたり、罵つたり、犬は犬で、見慣れない人間でも來たやうに、盛んに吠えたててゐる。
今日は初めて刺針(さしばり)のいうことを聽かず、左右に逃げ廻り、カストオルの脇腹にぶつつかり、腹を立て、そして車に繫がれてからも、まだ一生懸命自分の共同の軛を搖すぶらうとしてゐる。これがあのおとなしいポリュックスなのだらうか?
違ふ。たしかに別ものだ。
カストオルは、いつもの相棒と勝手が違ふので、顎を動かすのをやめる。するとその時、自分の眼のそばに、まるで見覺えのない牛の濁つた眼が見える。
夕日を浴びて、牛のむれは、牧場のなかをのろのろと、彼等の影の輕い耘鍬(すきくは)を牽いて行く。
[やぶちゃん注:エンディングの前の五行空けは、ママ。標題の“LE BOEUF”は「牛」(「牛肉」の意もある)の意だが、今までの順列と二頭の名前からみて、二頭とも、哺乳綱鯨偶蹄目反芻(ウシ)亜ウシ科ウシ亜科ウシ族ウシ属オーロックス(英語:Aurochs:家畜牛の祖先。一六二七年に世界で最後の一頭がポーランドで死に、絶滅した)亜種ウシ Bos primigenius taurus の♂である(次注参照)。そして、哺乳綱食肉目イヌ科イヌ属オオカミ亜種イヌ Canis lupus familiaris 。
「カストオル」「ポリュックス」はギリシャ神話の双子の兄弟の名である。親はゼウスで、母はレダ。
「刺針」原文の“aiguillon”(エギュィヨン)は「牛追い用の突き棒」。ボナールの絵の、入り口に立った人物(ルナール自身或いは使用人)が右手に持っているのがそれであろう。いい訳とは思われない。「突棒」でよい。私は、十七歳の頃、アイルランドの劇作家で不条理演劇の神さまで、名作(迷作と言うべきか)“ En attendant Godot ”(「ゴドーを待ちながら」:一九四八年執筆)で知られるサミュエル・ベケット(Samuel Beckett 一九〇六年~一九八九年)の(彼は戦後、パリを拠点とし、主にフランス語か英語で執筆をした)の一九六三年初演の“ Acte sans paroles II ”(「言葉無き行為Ⅱ」)の和訳(安堂・高橋訳・一九六七年白水社刊)の標題『言葉なき行為Ⅱ』の添え辞『二人の登場人物と一本の刺激棒(エギユイヨン)のための』で知った単語で、懐かしい。芝居のシノプシスは英語版の“ Act Without Words II ”が非常によい。私は永い間、彼の英語で書かれた一人劇“ Krapp's Last Tape ”(「クラップの最後のテープ」)を演じるのが、若き日の役者志望だった私の最後の望みだったなぁ。]
*
LE BOEUF
La porte s'ouvre ce matin, comme d'habitude, et Castor quitte, sans buter, l'écurie. Il boit à lentes gorgées sa part au fond de l'auge et laisse la part de Pollux attardé. Puis, le mufle s'égouttant ainsi que l'arbre après l'averse, il va de bonne volonté, avec ordre et pesanteur, se ranger à sa place ordinaire, sous le joug du chariot.
Les cornes liées, la tête immobile, il fronce le ventre, chasse mollement de sa queue les mouches noires et, telle une servante sommeille, le balai à la main, il rumine en attendant Pollux.
Mais, par la cour, les domestiques affairés crient et jurent et le chien jappe comme à l'approche d'un étranger.
Est-ce le sage Pollux qui, pour la première fois, résiste à l'aiguillon, tournaille, heurte le flanc de Castor, fume, et, quoique attelé, tâche encore de secouer le joug commun ?
Non, c'est un autre.
Castor, dépareillé, arrête ses mâchoires, quand il voit, près du sien, cet oeil trouble de boeuf qu'il ne reconnaît pas.
Au soleil qui se couche, les boeufs traînent par le pré, à pas lents, la herse légère de leur ombre.
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