柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「赤気」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
せ
赤気【せきき】 〔甲子夜話巻廿〕また廿二日宵間のことと云ふ。時に天色陰冥、黒雲多し。赤気あり、南方より出て東方に至る。其気始めは高からずして次第に高くなり、終《つひ》に黒雲に入る。その状縦五尺余ばかり、横六尺余、終りに至ては漸々大きく見えて、横は一丈にもこえたり。その行くこと蝶飛のごとく、軽くして疾《はや》からず。或ひは弘くまた縮まり、明かにてまた朧《おぼろ》なり。その光火は映ずる如し。人視ること一時に足らず。東天黒雲の中に在て消滅すと云ふ。いかなる気にや。〔折々草秋の部〕七月末の八日、いと暑かりしかば、我が友垣《ともがき》来りて、東山の高き所に行きて涼み響(とよ)む。いざと聞えしほどに、妹《いも》と率(ゐ)て参りける。その家は左阿弥《さあみ》といふ甚(いと)好《よ》き家にて、何辺《いづべ》も隈《くま》なく見渡さるゝに、少しき風の吹き入りて、人々心地よく酒打飲みてあるに、戌の時[やぶちゃん注:午後八時前後。]ばかりにも侍らむ。此所《ここ》にも麓にも人たち騒ぎて、北の方の山に火附きて燃え出でたりと言ふに、欄《おばしま》に立出でて見れば、北と覚ゆる空は真(ひた)赤くなりて、家村の事にはあらず、高山の林どもに火附きて、燃え上るならむと見ゆ。さは何方《いづべ》ならむ、鞍馬の山かと見れば少し遠き方なり。また若狭路《わかさぢ》の山かと見れば近しとて、とりどり言ひ騒ぐ間に、かゞよふ光の幾条(いくすぢ)も立上《たちのぼ》りて、天《あめ》の限りは南をさしてたな引きたるには、火にはあらず、天の気(きざし)なりと言ひ出づるに、この先いかならむと思ひ量られて人々怖ぢたり。さてをかしかりつる心ずさみも無くなりたれば、皆帰り去なむと思ふ心のみして走り出でける。かく赤き気の立上りし例(ためし)は、古き記(ふみ)にも見え、近き御代御代にも侍りし事とて、物にも書留《かいとど》め、また近き程なるは覚え居りつる翁どもゝ侍れとて、物語りするなどは聞きしが、眼前(まのあたり)に斯く見つるは、いと珍らかなりける。都の町々は殊更に立騒ぎて、人は西東に馳せ通り、時守(ときもり)[やぶちゃん注:時の鐘を打つ者。]は鼓《つづみ》を早めて打歩く。これらも暫時して、かの天《そら》の光《ひかり》なりと思ひしより騒ぎは止みぬれど、人皆外に立交りて、こは如何なる事ぞとて見るなり。我が家に帰りても、これが末《すゑ》を見まほしくて、寝《い》ねで見てあるに、赤気《あかききざし》は東の空にあぐる様《さま》に見えて、かの光り出でたる条《すぢ》も薄くなり行くに、この儘にて事もなく消え失すなめりと思ひて、子(ね)二つ<夜半十二時>ばかり迄は起き居て寝《いね》つ。そが後《のち》若狭人《わかさびと》の来たりしに聞けば、その日の酉の時<午後六時>ばかりより、薄紅《うすくれなゐ》に侍る気の北の方に見えて侍る程に、夕日の名残《なごり》にて侍るらむと思ひ居りしに、戌の前(かしら)よりいと赤くなるまゝに、かの耀(かがよ)ひ出づる条も弥増(いやまさ)りて侍りき、河の上は唯血を濺《そそ》ぎて侍る様《さま》なれば、北の海の様《さま》を見むとて、舟を出《いだ》し漕出でて見れば、三里ばかりよりこの方の事にて、それより先へはさる気《きざし》は見え侍らざりしとなむ。また大和の人来たるに問へば、かの空の赤くなりたるを見しより、国中(くぬち)の人立騒ぎて、都は直焼《ひたや》けに焼け失《う》するなり、その中にいと赤く立上る光は、盧舎那仏(るしや《なぼとけ》)の堂に火附きたるなりとて、氏族(うからやから)の京《みやこ》に侍るは、それ訪《と》はむと俄かに装《よそ》ひ立ちて、走り登らむ構《かま》へす。又さなきは、火の雨といふ物の降り来て、生きたる限りは亡くなる時なり[やぶちゃん注:生きとし生きるもの生類(しょうるい)総てが絶滅する時がやってきた。]、はかなく恐ろしき時ぞ来にける、これを免《のが》れむに、土の室(むろ)に隠るゝぞよきとて、古くて侍る穴どもの中に、幾日(いくか)も幾日も隠れ居て、食(たう)べむ物の構へなども、心ぎたなくして持運びつゝ立響(たつとよ)む。これは異国《ことくに》にはなき事にて侍るが、皆古(いにしへ)に人の住《すま》ひける所なり。石もて打囲み、出入の便り始めて、水など流れ入るまじき方便(てだて)までも、只今作り立てたるばかりにて、幾所《いくところ》も侍るなり。それを人伝ヘて言ふ、昔火の雨の降り来し時、人皆この穴に隠れて命を免れしなりと。またその火の雨の事は、書《ふみ》どもにしかと記して侍るといふ。げに氷雨(ひさめ)と侍る事と耳伝(みみづて[やぶちゃん注:私の所持するもの(後掲する)では『ミヽヅタヘ』とルビする。])に、火雨[やぶちゃん注:同前で本文は『火の雨』である。]と覚えつるぞことわりぞかし。さて斯く泣き騒ぐ間に、事もなき事なりとて、やうやうに静まりしとなり。その外、東は松前<北海道渡島支庁>の人の語るも、同じ時同じ様《さま》なり。西は長崎の人の語れるもまた然れり[やぶちゃん注:同前で本文は『しかり』である。]。唯加賀の人の語れるぞ少し異《こと》なりける。そはその日暮れむず頃、黒き雲の一群(ひとむら)、海の上にたなびきて侍るに、赤色《あかきいろ》したる光のほのぼのと見えけるを、夕日の影のさしわたるにもあらず、鳴神の光にもおはさずよなど見る中に、やうやう夜に入りて、かの光り出づる気《きざし》の、天に上《のぼ》り海に下《くだ》ると見しより、北や[やぶちゃん注:同前で本文は『北ゆ』(「ゆ」は動作起点を指す上代の格助詞。]南に立満ちにけりとぞいふ。さは昔よりかゝりし事の例《ためし》を物知りだちてかやかく言へど、或翁の、己れよく覚えて侍る、これに違はぬ気《きざし》の侍りし年は、稲よく栄えて、国中《くになか》豊《ゆた》けく侍りしなり、いとよき事にて侍りしと語りき。
[やぶちゃん注:前者の「甲子夜話巻廿」は事前に「フライング単発 甲子夜話卷二十 29 壬午年白氣の事幷圖 / 甲子夜話卷二十 37 壬午の秋夜、赤氣の圖」で、同時期に発生した条とカップリングし、さらに、松浦静山の描いたそれぞれの天体異常現象の図(但し、モノクローム)をも挿入しておいたので、見られたい。
「折々草」俳人・小説家・国学者にして絵師。片歌を好み、その復興に努めた建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年:津軽弘前の人。本名は喜多村久域(ひさむら)。俳号は涼袋。画号は寒葉斎。賀茂真淵の門人。江戸で俳諧を業としたが、後、和歌に転じた。晩年は読本の作者となり、また文人画をよくした。読本「本朝水滸伝」・「西山物語」や、画集「寒葉斎画譜」などで知られる)の紀行・考証・記録・巷説などの様々な内容を持つ作品である。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十一巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここで正規表現で視認出来る。標題は『○同じ七月の末の八日の夜の光をいふ條』である。私は「新日本古典文学大系」版(一九九二年刊)で所持し、これは宵曲の見たものとは、版本が異なるらしく、各所に表記上の異同があるが、読みがかなりしっかりと附されてあるので、それを参考に読みを振った。直前の条(「秋の部」の冒頭)が『○明和七年庚寅の年の秋の事をいふ條』であるから、これは明和七(一七七〇)年のことと判る。
「七月末の八日」明和七年七月二十八日はグレゴリオ暦一七七〇年九月十七日で、ウィキの「明和」によれば、この日、『全国でオーロラが観測される』とあった(太字は私が附した)。
「妹」同前「新日本古典文学大系」版脚注(高田衛氏注)によれば、実の妹ではなく、遊興の『女たち』である。
「左阿弥といふ甚(いと)好き家」同前注で、『現存。丸山公園の中の山の料亭』とある。「左阿彌」でここ(グーグル・マップ・データ)。公式サイトによれば、建物自体は元和(げんな)元(一六一五)年で、織田信長の甥織田頼長によって、安養寺末寺として創建されたもので、料亭としての実際の創業は、本話のずっと後の嘉永二(一八四九)年である。
「をかしかりつる心ずさみ」高田氏注に、『興にまかせて、詩歌など作りたのしむこと』とある。
「古き記(ふみ)にも見え」同前で、『推古二十八年(六二〇)十二月の記述に「天に赤気有り、長一丈余、形雉尾に似たり」(日本書紀・推古)などあり、史上類例は多い』とある。
「鼓を早めて打歩く」同前で、『早鐘(はやがね)、早太鼓などといって、火事など危急の時、続けさまに打ち鳴らす』ことを指すとある。
「子(ね)二つ」「夜半十二時」高田氏は『午前一時半ごろ』とされる。
「酉の時」「午後六時」同じく『午前六―七時』とされる。
「戌の前(かしら)」午後八時頃。
「盧舎那仏(るしや)の堂」高田氏注に、『京都方広寺の大仏殿をさす』とある。
「心ぎたなくして」高田氏注に、『意地汚く。執着心のあらわなさま。「心きたなし」は源氏物語に見られる用語』とある。
「げに氷雨(ひさめ)と侍る事」「新日本古典文学大系」版では、本文は『実(マコト)に氷雨(ヒサメ)と侍る事』となっており、注で、『古代、「ひさめ」を「ひ降る」といったことがあったらしい。「日本紀私記云、大雨 比佐女、雨水 同上、今案俗云比布留」(十巻本和名抄)』とある。]
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