柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蜃気楼」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
蜃気楼【しんきろう】 〔卯花園漫録巻三〕蜃気の楼台をなす事、和名をなかふといへり。長門の海中にまゝありと聞けり。吾国の伊勢の海も、昔よりその名あり。二三月の頃、天気暖和にして、風浪なき日に多くあらはるゝなり。これ蛤蜊《かふり》の気なりといひ伝ふ。然れども蜃と蛤蜊と同じく介類にして別なり。ことに蛤蜊に名を得たるは、桑名の地なれども、なかふの見ゆる事を聞かず。但《ただし》羽津《はづ》・楠邑《くすむら》等の海辺に多し。吾友の楠邑の南川《みなみがは》といへる里に、山本甚右衛門といへる老翁あり。この人の弱年の時より両度見たり。後に見たるは楼閣の中に色々の飾りありて、甚だ奇巧なりしと物語りせり。羽津・楠などにも蛤あれども、桑名にくらぶれば劣れり。然れば蛤の気にてなれるにはあらざるべし。楠の南一里ばかりに郷《さと》あり。その名を長大と書《かき》て、なかふと訓ぜり。蜃気によつて名づけたるなり。天地の間には理外の事多し。虹の日に映じて、青紫の色を示すがごとく、海中の春秋の気日に映じて、色を現はすなるべけれども、楼閣の形象をなすはあやしむべし。〔神代余波下〕文化八九年の頃の秋、魚釣に行かんとて佃嶋住吉の神社の神主平岡日向守好弘、同舎人《とねり》の助好祖《すけかうそ》は父子共に門人なれば、供に打つれて船にのりて、未明に漕出でたるに、海づら一面に霧立渡りて、おくれ先だつ舟どもも見えぬばかりなるに、朝日ほのぼのと出《いづ》る頃、霧に映じて五色に彩《いろどり》たるが如くなる中に、いかめしき宮殿楼閣あらはれたり。人々あはやとおどろきて、口々に物いふ声聞ゆれど、霧にてあまたの船どもは見えず。船人の云はく、こは蛤の息吹きたるにて、むかしもかゝる事ありしとなりと語れり。とかくするほどに霧もやゝ晴れゆくにしたがひて、かの楼閣もうすれうすれと見えずなりにけり。よく見れば蛤の気にはあらず、大江戸の大御城に朝日のうつろひたるが海面にうつり、やがて霧に映じたるなり。今の箱目鏡《はこめがね》向うの穴より山海の景地をうつし、中なる鏡にうけて上なる玉板を移す工夫は、かゝる事よりや思ひよりて造り初めけんと、その時不斗(ふと)思ひしなり。好弘は六十余りにて身うせ、好祖は三十にたらで身まかりぬ。我は今ながらへて、当主讃岐守好貞もつゞきて門弟なれば、我ぞ好貞にはかたりきかせぬる。
[やぶちゃん注:「卯花園漫録」読みは現代仮名遣で「うのはなぞのまんろく」或いは「ぼうかえんまんろく」。作者は江戸の故実家であった石上宣続(いそのかみのぶつぐ)で文化文政期の人(詳細事績不詳)。同書は史伝・故実・言語その他の起源・沿革を記した随筆で、『文政六年』(一八二三年)『夏日』と記す序がある。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。
「なかふ」小学館「日本国語大辞典」で見つけた。但し、「ながふ」であった。『蜃気楼(しんきろう)を言う。*改正増補和英語林集成』(初版は明治五(一八七二)年刊であるが、国立国会図書館デジタルコレクションで調べたが、それには載っていない)『「Nagafu ナガフ」』とあり、『語源説』に『ナガフキ(長吹)の義(名言通)』とする。「名言通」(めいげんつう)は辞書で著者は服部大方著。天保六(一八三五)年刊。ここまでしか判らなかったが、「長吹」というのは、蜃気楼を産み出す蜃(おおはまぐり)が、長い妖気を吹き出して高楼の幻しを見せるとした古くからの絵に親和性が認められるように私には思われた。
「吾国の伊勢の海」石上宣続は伊勢出身らしい。
「蛤蜊」ハマグリとアサリ、或いはシオフキを指すとするが、ここは古くからのこの怪異を齎す正体とされる「蜃」、大きなハマグリの化け物「おおはまぐり」のことであろう。筆者は訳も判らず、実際のハマグリを語り出す。どうもこの作者、信ずるに堪えない衒学者である。
「羽津」現在の三重県四日市市羽津町(はづちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「楠邑」現在の四日市市内に楠《くす》地区がある。
「楠邑の南川」三重県四日市市楠町南川(くすちょうみなみがわ)。
「楠の南一里ばかりに郷あり。その名を長大と書て、なかふと訓ぜり」楠地区から南南西一里の位置に、現在、三重県鈴鹿市南長太町(みなみなごちょう)がある。この周辺は古く「長太(なご)」と呼ばれた地区であることが、「ひなたGPS」でも確認出来る。「長大」は「長太」の誤字であろう。
「神代余波」国学者斎藤彦麿(明和五(一七六八)年~安政元 (一八五四)年)の随筆。齋藤は三河の矢作(現在の愛知県岡崎市)生まれ。本姓は荻野。寛政八(一七九六)年に斎藤家の相続に伴い、改姓した。後に江戸に入り、石見浜田藩士となり、松平康任に仕えた。その後、伊勢貞丈の門人となり、有職故実を、賀茂季鷹に入門して和歌を学んだ。後に本居大平から古学等の国学を学ぶ。なお、その頃、彦麿は本居宣長の門人と自称していたことがあった。この学びを活かして、神道・古学。随筆等を執筆・刊行し、同時期に活動していた村田春海を痛烈に批判するなど、堂々たる活躍を展開した。また、山東京伝ら戯作者とも親交を持っていたされる。彦麿の門人は数多く、五百人ほどあったされる(当該ウィキに拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『燕石十種』第二(岩本佐七編・明治四〇(一九〇七)年国書刊行会刊)のこちらで、挿絵入りで、視認出来る(左ページ下段最終行から)。また、早稲田大学図書館「古典総合データベース」で嘉永三(一八五〇)年跋の写本画像があり、ここで、より良く描かれた挿絵を見ることが出来る。
「文化八九年の頃」一八一一年~一八一二年。
「佃嶋住吉の神社」東京都中央区佃にある住吉神社。
「平岡日向守好弘」サイト「note」の吉野啓史氏の「どうする家康と佃煮 大阪・田蓑神社と東京・佃住吉神社の歴史を探る Part 1」に、寛政八(一七九六)年三月一日に『江戸佃住吉神社の宮司・津守日向守好弘が平岡日向に改名した』とある。
「舎人」ここは単に「家来」の意。
「助好祖」不詳。
「箱目鏡」所謂、幻灯機のことであろう。
「当主讃岐守好貞」前の吉野氏の記載に、天保三(一八三二)年十一月一日に、『江戸佃住吉神社の宮司・平岡好貞が『大江戸佃島住吉神社略縁起』を起草した』とある人物であろう。]
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