柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「不忍池の怪」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
不忍池の怪【しのばずのいけのかい】 〔塩尻巻六十八〕忍ばずの池<東京都台東区内>は慶長の頃より水谷氏の別業《べつぎやう》なりし。東叡山御建立の時、寄附し参らせらる。其後池の端在家やゝ立そめし、山名勘十郎といへるすゑ物切《ものぎり》、世渡る者ありし。彼が母容《かたち》うるはしかりけれど、心猛き女にて、人のなま首を見ざれば、食もすゝまずとて、我子にいひて、毎《つね》に人の屍骸を側にかさね置きしかば、山名ももてあつかひける。或時下部に乗物させ打乗り、城西を廻り、今の山王の西なる池辺に乗物おろさせ、やうこそあれ、汝等は帰り去れとて強ひて帰せし。僕等《しもべら》帰るまねしてその辺にかくれうかゞひしに、俄かに空かきくもり、夕立雷電はげしく、浪立さわぎて水《みづ》路《みち》をひたせし。かの乗りし馬の主《あるじ》(浅草の馬子《まご》)跡より息も続ぎ[やぶちゃん注:ママ。後注のリンク先の活字本では『續あへす』(「ず」)であるから、「き」の誤字か誤植である。]あへず馳来《はせきた》り、我《われ》赤坂溜池の辺を通りしに、怪しげなる女房、水中より浮き出《いで》馬をひかへ、我をこの馬にのせよとて飛乗りしかば、さるにても何方《いづかた》へ行きたまふぞと問へば、我里は此あたりなりし故、この池の主《ぬし》とならんと思ひしに、先に鯉ありて主となり、我を拒《こば》めり。さらば住馴《すみな》れし辺りなる忍ばずの池へとて馳出《はせい》で侍りしが、得《え》追つかで追《おひ》参りし。その女房は如何にと問ふ。人々物恐ろしく、この池にとて騒ぎあヘり。その後まゝ怪異の事もありしに、勧学院の了翁僧都、嶋を築き弁才天を安置し、悪霊を鎮《ちん》せられし。然るに一旦地震して、鐘楼倒れ、鐘池中に沈みし。房州の海士《あま》を将《ゐ》て[やぶちゃん注:率(ひき)いて。]きたり、かづき求めしに、泥深く底を尽し入る事を得ず。これもまた彼《かの》霊の取りしにやといへり。了翁一切経を彼嶋に安置せられし後は、怪しき事も絶えしとかや。
[やぶちゃん注:「鼬の火柱」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」下巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(右ページ下段)で正字で視認出来る。にしても、この「山名勘十郎」の母親というのが、何故、かくした大異変を起こしたのか、その正体は何か、というところが(多分、龍の変化らしいが)、全くのブラック・ボックスで、私には消化不良も大抵にしてくれ! と叫びたくなった。
「勧学院」鎌倉時代以後、諸大寺で、堂舎を建てて、宗学を教授したところ。最古は弘安四(一二八一)年創建の高野山の勧学院。「勧学講院」とも呼ぶ。ここは、次の注に出る、不忍池に近い寛永寺の中に了翁が創建した「勧学寮」のこと。
「了翁僧都」江戸前期の黄檗宗の名僧了翁道覚(りょうおうどうかく 寛永七(一六三〇)年~宝永四(一七〇七)年)。出羽国雄勝郡八幡村生まれ。当該ウィキによれば、寛文五(一六六五)年)、三十六歳の時、『了翁は黄檗山萬福寺を下り、寺塔の建立と蔵経の奉納の誓願を立て、そのための募金の旅に出、畿内を発して奥羽地方から関東に及び、多くの人々から喜捨をうけた。江戸では旗本の松平孝石邸に滞泊していたが、そのとき指灯の旧痕が再び痛み出した。一心に観世音菩薩を念じて平癒を祈ったある日、了翁は霊夢をみたという』、『それは、長崎興福寺を開いた明の高僧黙子如定が夢枕に現れ、霊薬の製法を与えるという夢だった。そのとおり』、『薬を調整して患部に塗ると間もなく指痛は鎮まった。その後、羅切の痛みが再発したときも、如定の霊薬により平癒した。また、飲用すると心身爽快になったといわれる。この妙薬を人々に施せば功徳があると考えた了翁は、浅草の観世音菩薩に祈念し、籤を』三『度ひいて「錦袋円(きんたいえん)」と名づけた。薬の効能は素晴らしいもので、傷病に苦しむ多くの人を救ったとされる』。『錦袋円は、江戸上野の不忍池』(☜)『のほとり(現池之端仲町)に構えられた店舗でも売られた。甥の大助に経営を任せたところ、これが評判を呼んで飛ぶように売れ、江戸土産にまでなり、寛文』一〇(一六七〇)年には、『金』三千『両を蓄えるまでに至った。「勧学里坊(勧学屋)」と名付けられた薬舗の看板は、水戸光圀の直筆の文字を左甚五郎が彫ったものともいわれており、『江戸名所図会』にも「池之端錦袋円店舗の景」が描かれている』。彼は同年、その金をもとに、三百『両で宿願の大蔵経(天海版大蔵経)六千三百二十三『巻)を購入した。さらに輪王寺宮初代の守澄法親王の許可を得て、不忍池に小島(「経堂島」)を築き、そこに』二『階建の経堂を建てて』、『大蔵経を納めた。その後、京都の東福寺塔頭普門院に行き、聖一国師円爾の像を礼拝し、座元を務めた。また、号を了然より』、『了翁に改めた』。翌寛文十一年には、『水面に近い位置に建てられた経堂を上部に移築し、広く内外の典籍を蒐集、識者の披閲に供し、堂内に如定将来の三聖像を安置した。また、伊勢の安養寺の門前に施薬館を建てたほか、京都の泉涌寺の門前にも施薬所を設置して』五万五『千袋余に及ぶ錦袋円を処方した』。漢文十二年には、『棄児十数人の養育をはじめている。また、同年、上野寛永寺のなかに勧学寮』(☜)『を建立し、教学の専任となった。並立した文庫』六『棟には和漢の書籍を収蔵し、僧侶ばかりではなく、一般にも公開した。これは、日本初の一般公開図書館であったばかりでなく、閲覧者のなかで貧困の者や遠来の者には』、『飯粥や宿を与えるという画期的な教育文化施設であった』とある。初期と後年の事績はリンク先を見られたい。]
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