柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「山門修復中の異変」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
山門修復中の異変【さんもんしゅうふくちゅうのいへん】 〔翁草巻百二十〕宝暦四戌年冬[やぶちゃん注:一七五四年だが、旧暦十一月中旬には一七五五年になっている。]、山門<叡山>御修復あり。京町奉行、土屋越前守御用掛りにて御修復中、組与力同心を彼地へ付け置きける。与力は別宿、同心は一所に同宿して有りしが、或夜所がら烈寒の砌《みぎり》故、各〻《おのおの》一つの巨燵《こたつ》にあたり、臥しながら本などを読み居たりしに、相川又四郎と云ふ同心、傍輩の佐伯吉五郎といふ者を呼びよせて、吉五郎何心なく来る所を、一刀に水もたまらず首を打落す。残る者ども驚き騒ぐ処を、両人に手疵を負はせ、一人は辛うじてその場を避《さ》く。右の内一人は重創にて後日に死す。仍《よつ》て別宿したる同心支配の与力本多金蔵へ急を告ぐ。御普請の事なれば、捕手《とりて》の手当を為す事も克《あた》はず。金蔵自ら鎗を提げて、彼所《かのところ》へ馳せ行きみれば、はや又四郎は自身吭(のど)を刎ね斬つて自殺せり。主意奈何とも知れず、乱心に決して事済みぬ。山門は場所柄の事故、人々逗留中潔斎して、物毎《ものごと》慎みぬるが、この又四郎は平日放逸無慙の僻《ひが》有りし者なれば、究めて何ぞ法外《ほふぐわい》の事有て罰せられしにやと、人皆咡《ささや》き合へり。余<神沢貞幹>も右御普請取懸りの最初には、右の御用掛りを勤め、因《よつて》玆《この》破損点検の為に、三塔幷に坂本の間に、前後九日逗留して、三塔所々に止宿せり。飯室谷《いむろ》の一坊(名失念)に止宿の時、案内の衆徒の曰く、一昨夜当院騒動の事有り。その所以は、深更の頃、何とは知れず、百千雷《かみなり》の落ちかゝり、坤軸《こんぢく》[やぶちゃん注:「坤」は地の意で、大地の中心を貫いて大地を支えていると想像された地軸のこと。]も砕くるばかり震動す。院内の者周章(あわて)起き出《いで》て、院内を改むるに別条なし。門前へ出て見れば、路傍の大杉微塵に成《なり》て谷へ落ち、小径《こみち》これが為に頽《くづ》れ潰《つい》えて、谷を隔《へだて》て通路を絶つ。各〻こはいかにとあきれ果て、変を告げんにも道なし。梯《はしご》とても人力及ばず、翅《はね》なければいかにせんと各〻惑ひて、所詮夜明けてこそ評議せめと明《あく》るを待ち、夜明けて其所を見れば、大杉も元の如く、崩れたりと見し道も常の通りにて、何事もなし。再びあきれて安堵致しぬ。かゝる事折々有りて、かねて心得たる者も惑ふ事度々なり。公用とても変の程は測りがたく、その心得有ㇾ之様にと教喩す。余輩之を諾して伏しけるが、その夜何の怪も無かりし。既に横川《よかは》の大師の拝殿には、天狗の間と称して、一間四面釘〆にして板囲《いたがこひ》有り。時に寄ては、その囲の内に羽音ありと衆徒語れり。かゝる場所なれば、変異有るまじきに非ず。
[やぶちゃん注:「翁草」「石臼の火」で既出既注。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」校訂十二(池辺義象校・明三九(一三〇六)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。標題は「山門修復中相川某の亂心及怪異の咄」。同書百二十巻「雜話」の冒頭である。
「京町奉行、土屋越前守」旗本土屋正方(宝永六(一七〇九)年~明和五(一七六八)年)は、この二年前の宝暦二(一七五二)年二月に京都町奉行(東町奉行)に昇任し、同四月十五日に従五位下・越前守に叙任している。宝暦三(一七五四)年に江戸町奉行(南町奉行)に転任。
「余」「神沢貞幹」「も右御普請取懸りの最初には、右の御用掛りを勤め」本書の著者は、京都町奉行所の与力を務めた後、四十過ぎで職を辞し、随筆などの著述活動に余生を送った。
「飯室谷」ここ(グーグル・マップ・データ)。
「横川の大師の拝殿」恐らく現在の「四季講堂」。ここは本来は「元三(がんさん)大師堂」である。珍しく私も行ったことがあり、平安の昔、元三大師が鬼の姿となり、疫病神を退散したときの姿を写し取った降魔(ごうま)の御札「角大師」(つのだいし)も気入ったので、買って、今も居間に飾ってある。]
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