柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「春夢仙遊」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
春夢仙遊【しゅんむせんゅう】 〔黒甜瑣語一編ノ四〕我藩の一郎生《せい》某は聞えし董賢《とうけん》・潘岳《はんがく》が風韵《ふういん》[やぶちゃん注:風流な趣き。]をかねたり。一年、君《くん》に従ひて東都に祗役《しえき》す[やぶちゃん注:君主の命令で赴いた。]。この都は古《いにしへ》より綿面萍腸《めんめんへうちやう》[やぶちゃん注:よく判らんが、「絶えることなく、長く栄えて盛んに続くこと。」の意であろう。]の郷と称せり。叡岳(うへの)の花、墨水《すみだかは》の舟、人情を勾引して春風のごとし。生この境《きやう》に入りてより、日として遨遊《がういう》[やぶちゃん注:遊ぶこと。]せざるはなし。或日両国橋<東京都墨田区内>辺の憩亭《ちやや》に遊びしに、亭の主人生《せい》を人なき所に招きて低声《ひきごゑ》に云へるは、僕(やつがれ)が知れる侯門に一娘子《いちぢやうし》のはべる、深窻《しんさう》に成長して清春二八[やぶちゃん注:青い美空の十六歳。]、生れ得て韵度妖嬈《いんどやうでう》[やぶちゃん注:風雅に富み、艶かしく美しいこと。]なり。君を金竜山[やぶちゃん注:浅草寺の山号。]の麓に見しより、風彩に懸想して恋慕の情止むべからず。傅母僕《かしつぎ》[やぶちゃん注:乳母。]に命じて針児(はりくち)の線(いと)を曳かしむ、君唯諾《ゆいだく》せば僕《ぼく》[やぶちゃん注:亭の主人の謙遜語。]幇襯(とりもち)をなして、一窠《ひとむれ》の錦世界《はなのせかい》に遊ばしめんと云ふ。生聞きて神魂既に飛ぶ遽爾《きょじ》として[やぶちゃん注:不意に。]許諾す。其時主人一つの古櫃《ふるびつ》を出《いだ》して、生にこの中に隠れよと云ふ。生少しく疑惑の想ひをなして、若し不慮の事あらばいかんすべき。主人笑つて、君は鴛鴦債中《ゑんあうせきちゆう》の粋俊《すいしゆん》、これより危き事もなしつらん、不慮の事あらば他日我命を以て君に贖《あがな》はんと、空《そら》だのみなる一言《ひとこと》に、生は莞爾《にこ》と笑ひ、意を決して櫃中に入る。主人家の一管家(おもてだい)[やぶちゃん注:筆頭の手代。]なる者に委しく分附(いひつけ)して、二人の担夫《たんぷ》にこの櫃を昇《か》かせ、きびしく扁鎖して送り出す。担九途を急く事迅速飛ぶがごとし。橋を過《すぐ》る時あり、阪に上る時あり、前竿(まへかた)相呼《あひよ》び、後竿(うしろかた)これに応じ、勉強して走る。生櫃中に屛息《へいそく》[やぶちゃん注:凝っと静かにしていること。]して考へ量るに、凡そ三時[やぶちゃん注:約六時間。]ばかりもやあるらん。侯家邸第の辺《ほとり》にや、関門の側《かたはら》を過るに、忽ち誰呵《すいか》の声を聞く。管家前(すす)みて呸々(へいへい)慇懃すれども、関吏聞かず、櫃を開きて査点(ぎんみ)すべしと云ふ。管家の云く、僕は両国橋辺の漆匠家(うるしや)、今邸第の内家叢(だいかそう)より誂らへられし家具を収むる者なり、嚮《むかひ》には曲房(おく)の幹吏(やくにん)来られ、厳しく鎖を封ぜられ、鑰匙(かぎ)は腰にして帰られはべると答ふ。関吏極めて曲房の吏を怖る。故に允(ゆる)して通しけり。生櫃中に在《あり》て殆ど生気なし。百悔《ひやくくわい》臍《へそ》を噬《か》む。端なく曲房の東廂《ひがしびさし》に至れば、女伴《ぢよはん》数多《あまた》ありてこれを接す。一老女の声として管家に叮嚀に返命しければ、管家担夫を連れて帰る。女伴この櫃を挙げて遙かの閑所に至り、席上にすゑ置きしやうなるが、女伴も亦悉く去れり。後は少しも人声跫音なく、幽寂として深山に夜《よる》坐して在るがごとし。日の暮るゝや、夜も明けしや、幾時の更漏を移せしや、知らずなりけり。時に廡廊《ぶらう》[やぶちゃん注:主な建物を、囲み廻らす回廊。]の方、剝啄《はくたく》の声[やぶちゃん注:戸などを叩く音。]を聞く。忽ち爰に来る。生思ふに今や好消息(よすが)ならんかと。来りし者鎖を解きて蓋を少しく揚げ、一の紙裹(かみづつみ)をなげこみ、また鎖を扃《とざ》してはしり去る。これを索(さぐ)れば温煖甘味の気紙上に透《とほ》れり。生午《ひる》より少しも点心せざれば、腹中の空如(へり)いはん方なし。依てこれを喰ふに、今蒸《む》せしと覚ゆる豆沙糕(やうかん)、炒米糕(らくがん)、片纒麪堛(みとりせんへい)、その佗《た》環餅(けんぴ)、捻頭(ぼうる)、浮石糖(かるめいら)の類《たぐひ》なり。ますます殿中沈々《しんしん》として人音なし。暫くありて廡廊の方ざわざわの声を聞く。人来て鎖に鑰(かぎ)して生を出《いだ》す。これを見れば一老女打扮(いでたち)整斉にして、引燈(ぼんぼり)を携へ至れり。女伴多く明り障子の外にあり。紙を鑽《き》り穴《あな》して、生が風彩を見て絮々喃々、その舌雀《すずめ》のごとし。老女慇懃に午よりの状を慰《い》し、御寮人《ごれうにん》遅(また)せ給ふ事久し、老婦に尾(したが)ひて来らるべしと、また一層深邃の所に至る。雲母の屛、水晶の窗《まど》、沈檀《ぢんだん》[やぶちゃん注:沈香と白檀。]四囲に薫ず。老女簾内に向ひて声を伝へ、生をかしこに推しやる。<略>時に外面《そとも》老女の声として、既に黎明に及べり、重会を約して牽牛《ひこぼし》を送り還すべし。二人これを聞て恍惚として失する所あるがごとし。一つの袱裒(ふくさ)を別に贐(はなむけ)す。老女生を引てはじめの席へ至り、懇ろに附属して再び櫃中へ匿し扃鎖《とざ》[やぶちゃん注:二字に対して。]して、女伴これを東廂に持出せば、管家担夫既に在りてこれを接す。老女関門の符券(きつて)をわたす。管家これを関吏に見せ、それより途《みち》を急ぐ事きのふに倍し、ほどなく憩亭へ至り、直《ただち》に奥の間へ舁く。主人櫃を明くれば、生頬痩せ眉重く、鬢髪髼鬆(ふさふさ)にし、欠伸《あくびのび》して出づ。時既に停午《ひる》[やぶちゃん注:二字に対して。]に近し。主人茶飯を喫せしめ、仔細を訊《と》ふ。生一々物語りて、懐中よりかの一套を出《いだ》し解けば、一套《いつたう/ひとかさね》[やぶちゃん注:後に示す活字本の左右にあるものを参考にした。]の朱提《しゆばん》[やぶちゃん注:]坐辺《そこら》に晃々《きらきら》たり。其半ばを配(わ)けて与ふ。主人眼に仏なく[やぶちゃん注:「ほとけなく」か。意味不明。]笑《ゑみ》を含み、必ず再期を誤り給ふな、この事に於ては僕いく度も左袒《さたん》せん。生唯諾して帰る。藩邸に生の同僚数輩《すはい》あり。大に恚(ふづく)み[やぶちゃん注:怒り、腹を立て。]、生を責めて云く、弟《てい》きのふより何処《いづこ》に去れりや、邸門の厳法は弟も元より知る所なり、吾儕《わなみ》にこの首尾を繕はせける事幾回《いくたび》ぞや、遁辞《なまらか》する事なく白地(あからさま)に其実を告(のる)べし。生また同僚に向ひて一五一十(はじめをはり)を語る。同僚大驚して云ふ。この都古《みやこ》より浮華《ふくわ》[やぶちゃん注:上辺(うわべ)が華やかであるが、実質は乏しいこと。]を以て聞ゆ。矧(いは)んや貴顕侯家の令愛、醜声《うきな》外に顕はるゝ時は禍《わざはひ》蕭墻《せうしやう》にあり[やぶちゃん注:一家の内部にもめ事が起こること。うちわもめが起こるさま。「韓非子」の「用人」が出典。]、在昔《ざいせき》唐の則天女主頗る淫風あり、常に麗譙《ものみちん》[やぶちゃん注:美しい高楼。]に上りて巷街を眺(のぞ)み、往来に標致の郎子あれば、靚粧《せいさう》[やぶちゃん注:美しく飾り装おうこと。きれいに化粧すること。]の冶女《やぢよ》[やぶちゃん注:艶めかしい女。]をしてこれを嫌《すか》し招き、恣《ほしいまま》に淫しまた発覚を怖れてこれを縊《くび》り死《じに》し、麹町<東京都千代田区内>の古井の故事も似かよひし事、必ずしも重会に趣く事なかれ、若しこの言を用ひずんば審かにその状を挙げて国許へ送り届けんと云へば、生も始めて悟り大いに畏縮し、陽台の重期に負けりと。<略>
[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらの右丁の六行目下方から、正規表現で視認出来る。全体の標題は「蕉雨齋の夜話」という長い話の一部である(始まりはここから。「蕉雨齋」は著者で久保田藩藩士人見蕉雨のこと)。また、ここには、三行分に当たる、墨塗りの伏字部分がある。閨での交合のさまを描いたものらしいが、殆んど見えないように潰してあり、判読は出来ない(なお、宵曲はその伏字の前の視認可能な箇所も省略してしまっている)。この欠損部は国立国会図書館デジタルコレクションの別の戦後の活字本でも『(欠)』とあって判らぬ。それに加えて、これ、かなり漢字の読みが難しい。一部は前掲の読みに従い、また、『ちくま文芸文庫』で追加された読みも参考にした(同書のルビは新仮名遣でお話しにならないのだが)。それでも読み不明、意味不明の箇所が私にはあった。失礼乍ら、柴田宵曲がルビを振っていない箇所には、彼自身が読みも意味も分からない部分が含まれてあるように思われる。私は私が知り得る部分を文中で注し、全体のストーリーは把握出来たと信ずる。一部は無視したので、後は、どうぞ、ご勝手に。この一篇(抜粋)は、ちょっと原作者の衒学趣味のイヤみが見え隠れして、イヤな感じな上に、少々、疲れた。これで擲つ。悪しからず。]
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