「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蟋蟀」
[やぶちゃん注:本電子化はサイトの「心朽窩新館」で偏愛する『ジュール・ルナール「博物誌」岸田国士訳(附 Jules Renard “ Histoires Naturelles ”原文+やぶちゃん補注版)』を公開している(新字新仮名戦後版)が、今回は国立国会図書館デジタルコレクションの正字正仮名のもの、戦前の岸田國士譯ジュウル・ルナアル 「博物誌」(昭一四(一九三九)年白水社刊)の画像(リンク先は当該書の標題附き扉二)を視認出来るようになったことから、それをブログ版として、新規まき直しで、零から始めることとしたものである。詳しくは初回の冒頭注を参照されたい。
また、ボナールの画像に就いては、十六年前のそれではなく、再度、新潮文庫版のそれを、新たにOCRで読み込み、補正・清拭して用いる。注も一からやり直すこととし、原文は前回のものを調べたところ、アクサンテギュの落ちが有意に認められたので(サイト版は敢えてそのままにしておいた)、新たにフランスのサイト“TEXTES LIBRES”の電子化された同書原文のものをコピー・ペーストさせて戴くこととすることとした。]
蟋 蟀(きりぎりす)
この時刻になると、步きくたびれて、黑んぼの蟲は散步から歸つて來、自分の屋敷の取散らかされてゐる所を念入りに片附ける。
彼は先づ狹い砂の道を綺麗にならす。
鋸屑をこしらえて、それを隱れ家(が)の入口のところに撒く。
どうも邪魔になるそこの大きな草の根を鑢(やすり)で削る。
ひと息つく。
それから、例のちつぽけな懷中時計を出して、ねぢを卷く。
すつかり片附いたのか、それとも時計が毀れたのか、彼はまたしばらくぢつと休んでゐる。
彼は家の中へはいつて戶を閉める。
永い間、手のこんだ錠前へ鍵を突つこんでみる。
それから、耳を澄す――
外には、なんの氣配もない。
然し、彼はまだ安心できないらしい。
で、滑車の軋む鎖で、地の底へ降りる。
あとはなんにも聞えない。
靜まり返つた野原には、ポプラの並木が指のやうに空に聳えて、ぢつと月の方を指さしてゐる。
[やぶちゃん注:岸田の戦後版では「蟋蟀」には「こおろぎ」と振られている。ルナールの述べている対象も、ボナールの描いているのも、明らかに「蟋蟀(シッシュ/こおろぎ)」である。則ち、昆虫綱直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科コオロギ亜科 Gryllinae で止めるまでもなく、鳴き声とボナールの絵からは、西ヨーロッパに広く棲息する、フタホシコオロギ属ヨーロッパクロコオロギ Gryllus campestris と同定したい。概要は同種のフランス語のウィキを見られたい。音声ファイルもある。
問題は、岸田の「きりぎりす」のルビである。結論から言うと、戦前の作家は十把一絡げで「きりぎりす」と「こほろぎ」は近代まで相互に入れ変わって呼ばれていたと多くの学者・作家、大衆の中の自称「知識人」の殆んどは、それを鵜呑みにしていた。岸田もそれに洩れなかったのである。これは、私が甚だ拘る問題対象で、かなりの電子化注で従来の定説(近代以前の本邦ではキリギリス(剣弁亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科キリギリス属 Gampsocleis :現在は少なくとも日本には四種が棲息する)とコオロギが相互に入れ替わっていたというまことしやかな国文学者の脳の皺のない非科学的妄説)の問題を取り上げて批判してきた。決定版は「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟋蟀(こほろぎ)」にブチ挙げた私の注の長いマニアックな考証である(よく見られたい。「近世以前はコオロギとキリギリスは名が逆転していた」という国文学者は「和漢三才圖會」さえろくに検証していないことがバレるのだ。寺島良安はちゃんと「蟋蟀」の漢字の読みに「こほろぎ」と振っているのだ! 江戸時代初期にはちゃんと正しく「こほろぎ」と読んでコオロギに同定しているのだ!)そもそも、これは、大多数の日本国民は、芥川龍之介の「羅生門」の冒頭の第四文(第二段落内)の、
*
唯、所々丹塗(にぬり)の剝げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる。
*
であり、羅生門下の第一シークエンスの終り(第八段落末尾。次の段落で楼上へと通ずる梯子を見出す)では、
*
丹塗の柱にとまつてゐた蟋蟀(きりぎりす)も、もうどこかへ行つてしまつた。
*
とある部分で、鬼の首を取ったような教科書注で『今のコオロギの古名』なんどとやらかして、戦中の絶対主義国家教科書よろしく伝家の宝刀として偉そうに定説として掲げていた(多分、現在もそうだろう)。しかし、私はこのシークエンスの虫を「コオロギ」とするのは、あり得ない虚妄、致命的大勘違いであると断言する。詳しくはリンク先を見られたいのだが、要は、私は「羅生門」の好きなシーンを四クラスの総ての生徒に自由に思った通りにコンテを描かせたのである。その際、敢えて「教科書の注を無視してよい。」と告げた。すると、冒頭を選んだ生徒が、かなり、いた。ところが、『唯、所々丹塗の剝げた、大きな圓柱に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる』のに対して、コオロギを描く者と、キリギリスを描く者が出てきたのである。それを見て、私は、考えた。
①コオロギでは丸柱にはとまりにくかろう。いるなら、丸柱の根である。とまれるのはキリギリスである。
②カメラが丸柱の下に寄ったとしてもエンマコオロギでは体色から絵にならない。絵になるのはモノクロームの画面に一点彩色のキリギリスに若(し)くはない。
③柱にとまっているという描写、それがいなくなるという描写、というのは時間経過を示すための小道具であるが、それを認知出来るのは、聴覚的な虫の鳴き声よりも(それは無論あってもよい)、緑色の体色によって初めて際だって成功する。
であった。この確信は今も変わらない。なお、私の『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信訳) / 「五」の「ハタオリムシ」・「うまおひ」・「キリギリス」』も見られたい。そこで私は小泉八雲が鳴き声を致命的に誤認していることに気づいて、迂遠な考証をブチ挙げている。そこでも便宜上、「蟋蟀(きりぎりす)」問題も掲げてある。因みに、昆虫嫌いの私は、例外的に小さな頃からコオロギを偏愛している。しかし、キリギリスは、その頭部を暫く見ている内、気持ちが悪くなるを常としている。なお、一応、言っておくと、フランスに棲息するキリギリスは、我々が普通に知っているキリギリスとは似ていない、キリギリス亜科 Ephippiger 属 Ephippiger ephippiger という種のようである。フランス語の当該種のページを参照されたい。
辻昶訳一九九八年岩波文庫刊「博物誌」では、注があり、『この章でルナールはこおろぎの鳴き声をいろいろに表現しようとして、こおろぎに六つの動作をやらせている。ここでは、生態もある程度描かれているが、それよりも音が問題なのである。』と述べておられる。]
*
LE GRILLON
C'est l'heure où, las d'errer, l'insecte nègre revient de promenade et répare avec soin le désordre de son domaine.
D'abord il ratisse ses étroites allées de sable.
Il fait du bran de scie qu'il écarte au seuil de sa retraite.
Il lime la racine de cette grande herbe propre à le harceler.
Il se repose.
Puis il remonte sa minuscule montre.
A-t-il fini ? Est-elle cassée ? Il se repose encore un peu.
Il rentre chez lui et ferme sa porte.
Longtemps il tourne sa clé dans la serrure délicate.
Et il écoute :
Point d'alarme dehors.
Mais il ne se trouve pas en sûreté.
Et comme par une chaînette dont la poulie grince, il descend jusqu'au fond de la terre.
On n'entend plus rien.
Dans la campagne muette, les peupliers se dressent comme des doigts en l'air et désignent la lune.
« 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鉦鼓が淵」 | トップページ | 「博物誌」ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ボナール挿絵+オリジナル新補注+原文) 「ばつた」 »