譚海 卷之五 京洛隱者琴を彈じ狸腹鼓うちたる事
[やぶちゃん注:句読点・記号・読みを変更・追加した。和歌のみ改行し、上句・下句に分け、後者を有意に下げた。]
○何某といへる洛外の邊土に住(すみ)ける隱者にて、常は筝(さう)を彈(ひき)て樂しみける。いかなる德ある人にや、堂上方も、ゆきむかひ給ひて、絕(たえ)ず往來ありしが、餘り、程遠ければ、洛中に移り住なば、よかるべし、などありしに付(つき)て、やがて便(たよ)りを求めて、洛中に住つきぬ。老女一人、召仕ひけり。此女、物とゝのヘに町へ出(いで)たるついで、人がいづかたにおはすと問ひければ、そこそこと語りしに、其人、聞(きき)怪(あやし)みて、其おはする所は、世にばけ物屋敷とて、恐ろしき所にいひ傳へたり。たぬきなど、折々、鼓(つづみ)打(うつ)など、人もいふなるは。と、あばめける[やぶちゃん注:意味不明。「噂をばらした」ということか?]を、女、聞(きき)、驚きて、急ぎ歸りて、主人に、しかじか、此所をば、人申侍る。早く住替させ給へと、諫(いさ)めけれど、承引なければ、さらば、みづからには御暇(おいとま)賜はりてよ。かゝる恐敷(おそろしき)所に、いかで、住つきて仕奉(つかまつりてまつ)らん、とて、終(つひ)に暇をこひ、去りたり。げに、其後(そののち)、或時は、夜中など、鼓、打(うつ)音、聞へける。又、絕(たえ)て聞(きこ)ヘざる事も、久敷(ひさしく)ありける。此何某(なにがし)、
あなさびしたぬき鼓うて琴ひかん
我琴ひかんたぬきつゞみうて
と、一首の歌を詠じける。是にめでけるにや、其後は、鼓打音も、聞えず、怪しきことも、絕てなかりしと、いへり。
[やぶちゃん注:この和歌は、本日、たまたま、全く偶然に電子化した、『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狸の腹鼓」』の中の、大田南畝の随筆「一話一言」の巻十三に載る、
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京に隠者あり、縫菴《ぬひあん》といふ。琴をよくひけり。信頰(のぶつら)といへるもの横笛をよくす。二人相和して楽しむに、狸庭に来りてその尾を股間にいれ、腹つゞみうちてたてり。
やよやたぬましつゞみうて琴ひかん
われことひかんましつゞみうて
縫菴
はうしよくたぬつゞみうてわたつみの
をきなことひきわれ笛ふかん
信頰
福井立助の物語りのよし、鳴嶋氏(忠八)きけるとにて、鈴木氏(新右衛門)予にかたりき。
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とある、前の一首と酷似しているし、内容も異様に似ているから、本篇の「何某」とは、この「縫菴」なる人物であったと考えてよいだろう。]