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2023/12/31

フライング単発 甲子夜話卷二十三 10 飛脚、箱根山にて怪異に逢ふ事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

23-10 箱根山(はこねやま)にて怪異に逢ふ事

 何(いづ)れの飛脚か、二人づれにて箱根を踰(こえ)けるとき、夜(よ)、闌(たけなは)に及び、ひとしほ、凄寥(せいれう)[やぶちゃん注:物凄く寂しいこと。]たる折から、山上(さんじやう)、遙(はるか)に、人語の喧々(けんけん)たるを聞く。

 二人、不審に思ひながら行くに、山上の路傍、芝生の處に、幕(まく)、打𢌞(うちまわ)し、数人(すにん)群宴の體(てい)にて、或(あるい)は醉舞、或は放歌、絃声(げんせい)、交〻(こもごも)、起(おこ)り、道路、張幕の爲に、遮られて行(ゆく)こと能(あた)はず。

 二人、相言(あひいひ)て曰(いはく)、

「謁(えつ)を通じて可(か)ならん。」

と。

 因(より)て、幕中(まくうち)に告ぐ。

 幕中の人、應(こたへ)て云ふ。

「通行すべし。」

と。

 二人、卽(すなはち)、幕に入れば、幕、忽然として消滅し、笑語・歡聲も絕えて、寂々たる深山の中(なか)なり。

 二人、驚き、走行(はしりゆ)くに、やゝありて、絃歌(げんか)・人響(じんきやう)、故(もと)の如し。

 顧望(こばう)[やぶちゃん注:振り返って見ること。]すれば、幕を設くること、如ㇾ初(はじめのごとし)。

 二人、益々(ますます)驚き、疾行(しつかう)、飛(とぶ)が如くにして、やうやく、人居(じんきよ)の所に到りし、と。

 これ、世に、所謂、「天狗」なるものか。

フライング単発 甲子夜話續篇卷四十六 16 本莊七不思議の一、遠鼓

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナは珍しい静山自身のルビである。標題は「本莊(ほんしやう)七不思議の一(ひとつ)、遠鼓(とほつづみ)」と読んでおく。「つづみ」は現代では、専ら、小鼓(こつづみ)を指すが、「鼓」は本来は広く大小の「革を張った打楽器」を指す語である。]

 

46―16

 予が莊(さう)のあたり、夜(よる)に入れば、時として、遠方に鼓聲(つづみごゑ)、きこゆることあり。

 世に、これを「本莊(ほんさう)七不思議」の一(ひとつ)と稱して、人も、往々(わうわう)、知る所なり。

 因(よつ)て、其鼓聲をしるべに、其處(そこ)に到れば、又、移(うつり)て、他所(よそ)に聞ゆ。

 予が莊にては、辰巳(たつみ)[やぶちゃん注:南東。]に當る遠方にて、時として、鳴ること、あり。

 この七月八日の夜、邸(てい)の南方に聞へしが、驟(にはか)に近くなりて、

『邸中(ていちゆう)にて、擊(うつ)か。』

と思ふばかり也しが、忽ち、又、轉じて、未申(ひつじさる)[やぶちゃん注:南西。]の方(かた)に遠ざかり、其音(そのオト)かすかに成(なり)しが、忽ち、殊に近く邸内にて鳴らす如(ごとき)なり。

 予は几(つくへ)に對して字を書(かき)しゐしが、侍婢など、懼れて、立騷(タチサハグ)ゆゑ、

「若(もし)くは狡兒(かうじ)が所爲(しよゐ)か。」

と、人を出(いだ)して見せ使(しめ)しに、

「近所なる割下水迄は、其聲を尋(たづね)て行(ゆた)れど、鼓打(つづみうつ)景色もなく、又、其邊(アタリ)に問(とひ)ても、誰(たれ)も其夜は鼓を擊つことも無し。」

と答へたり。

 其音(オト)は世の宮寺(ミヤテラ)などに有る太鼓の、面(めん)の徑(わた)り一尺五六寸ばかりなるが、表の革は、しめり、裏革は、破れたる者の音(ネ)の如く、又は、戶板などを撲(う)てば、調子よく、

「ドンドン。」

と鳴ること、あり。

 其聲の如く、拍子は、始終、

「ドンツクドンツク、ドンドンドンツクドンドンドンツクドンドンドンツク。」

と、ばかりにて、此二つの拍子、或(あるい)は高く、或は卑(ひく)く、聞ゆ。

 何の所爲(しよゐ)なるか。狐狸(こり)のわざにもある歟(か)。

 歐陽氏、聞かば、「秋聲賦」の後(のち)、又、一賦の作、有るべし。

■やぶちゃんの呟き

 本篇は、柴田宵曲の「妖異博物館」の「狸囃子」で、一度、電子化している。

「予が莊」「ほんさう」で「本所」のこと。本所は、ここが中世の荘園制度に於ける荘園であったことに由来する地名である(荘園を実効支配する領主を「本所」と呼んだ)。なお、当時の平戸藩下屋敷は旧本所中之郷(現在の墨田区東駒形:グーグル・マップ・データ)にあった。

「本莊(ほんさう)七不思議」「本所(ほんじよ)七不思議」に同じ。当該ウィキを見られたいが、その内の「狸囃子」(たぬきばやし)がそれで、本所では「馬鹿囃子」の名でも呼ばれた。当該ウィキによれば、『囃子の音がどこから聞こえてくるのかと思って音の方向へ散策に出ても、音は逃げるように遠ざかっていき、音の主は絶対に分からない』。『音を追っているうちに夜が明けると、見たこともない場所にいることに気付くという』。『平戸藩主・松浦清もこの怪異に遭い、人に命じて音の所在を捜させたが、割下水付近で音は消え、所在を捜すことはできなかったという』(本話)。『その名の通り』、『タヌキの仕業ともいわれ、音の聞こえたあたりでタヌキの捜索が行われたこともあったが、タヌキのいた形跡は発見できなかったという』。『東京都墨田区の小梅や寺島付近は、当時は農村地帯であったことから、実際には収穫祝いの秋祭りの囃子の稽古の音が風に乗り、いくつも重複して奇妙なリズムや音色になったもの』、『または柳橋付近の三味線や太鼓の音が風の加減で遠くまで聞こえたものなどと考えられている』とある。

「この七月八日の夜」前後の話柄から、これは文政十三年七月八日(グレゴリオ暦八月十五日)を指すことが判った。なお、この半月余り後の文政十三年十二月十日(グレゴリオ暦一八三一年一月二十三日)に「天保」に改元している。

「狡兒」悪戯っ子・不良少年・チンピラの意。

「見せ使しに」見せに遣らせたが。

「面の徑り一尺五六寸」太鼓の打撃する皮張りの部分で直径四十五・四五~四十八・四八センチメートル。

「歐陽氏」北宋の文人政治家欧陽脩(おうようしゅう 一〇〇七年~一〇七二年)で、「秋聲賦」は長文の秋の夜の趣を謳いあげた賦で、彼の代表作として人口に膾炙される。

明恵上人夢記 106 兜率天に到る夢

106

一、同初夜坐禪の時、滅罪の事を祈願し、戒躰(かいたい)を得たり。

「若(も)し好相(かうざう)現(げん)ぜば、諸人(しよにん)に戒を授けむ。」

と祈願す。

 其の禪中、前(さき)の六月の如く、身心、凝然たり。

 空より、瑠璃(るり)の棹(さを)、筒(つつ)の如くにて、

『其の中(なか)、虛しき也。』

と思ふ。

 其の末(すゑ)を取りて、人、有りて、予を引き擧(あ)ぐ。

 予、

『之に取り付きて、兜率(とそつ)に到る。』

と覺ゆ。

 其の筒の上に、寶珠、有り。

 淨(きよ)き水、流れ出でて、予、之(この)遍身に灑(そそ)く。

 其の後(のち)に、心に、

『予、之(この)實躰(じつたい)を見む。』

と欲す。

 其の面(おもて)、忽ちに、明鏡(めいきやう)の如し。漸々(ぜんぜん)に、遍身、明鏡の如し。卽ち、圓滿なること、水精(すいしやう)の珠(たま)の如し。

 動き、轉じて、他所(たしよ)に到る。

 又、音の告げ有るを待つに、卽ち、聲、有りて云はく、

「諸佛、悉く、中(うち)に入(い)る。汝、今、淸淨を得たり。其の後、變じて大きなる身と成り、一間許(ばか)りの上に、七寶(しつぱう)の瓔珞(やうらく)、有りて、莊嚴(しやうごん)す。」

と云々。

 卽ち、觀(くわん)より、出で了(をは)んぬ。

 又、其の前に眞智惠門(しんちゑもん)より出でて、五十二位を遍歷す。

 卽ち、信位之(の)發心(ほつしん)は文殊也。佛智は十重(とへ)を分(わか)ち、此の空智を現ず。

 此の十住の中(うち)に一切の理事を攝(せふ)して、諸法(しよほふ)、盡きぬ。

 卽ち、文(もん)に云はく、

『十方(じつはう)、如來の初發心(しよほつしん)は、皆、是、文殊の敎化(きやうげ)の力(ちから)なり、といふは、是也。文殊の大智門より、十住の佛果を生ずるが故(ゆゑ)也。眞智に於いて、住果(ぢゆうくわ)を生ずといふは、佛果の文殊より生ずる也。信位に於いて、初住の一分(いちぶ)を生(しやう)ずといふは、文殊、佛果の弟子と爲(な)る也。卽ち、因果の相卽(さうそく)する也。此の下(しも)十行は、之(これ)、普賢の大行(だいぎやう)の具足する也。十𢌞向(じふゑかう)は理智の和合也。此より、十地を生じ、理智を作(な)すこと無く、又、冥合(めいがふ)を證得する也。佛果は此(これ)、能生(のうしやう)也。定(ぢやう)の中に於いて、忽ちに、此の義を得るは、卽ち、因果、時を同じくする也。之を思ふべし。紙筆に記し難し。』

と云々。

 同十八日に、之を記(しる)す。其の夜、同十日に、彼(か)の事あり。

[やぶちゃん注:これは、順列からも、承久二(一二二〇)年八月七日の夢と確定されている。明恵は若き日より、文珠菩薩に従って自己の信仰を揺るぎないものとする信念を持っていた。それは、彼が、建久六(一一九五)年に、東大寺への出仕を辞し、神護寺を出て、俗縁を絶って、紀伊国有田郡白上(しらかみ:現在の和歌山県有田郡湯浅町(ゆあさちょう)白上:グーグル・マップ・データ)に遁世し、凡そ三年に亙って白上山(しらかみやま)で修行を重ねた際、翌建久七年、二十四歳の時、『人間を辞して少しでも如来の跡を踏まんと思い、右耳の外耳を剃刀で自ら切り落とした』(当該ウィキより引用)直後に、文殊菩薩の示現に与(あず)かったことからの、長い個人的な確信的信仰であった。河合隼雄「明惠 夢に生きる」(京都松柏社一九八七年刊)でも、この夢を、河合氏が『心身凝然の夢』と名づけて、一章を設けておられる(278284ページ)。それによれば、『この夢は『冥感伝』にも詳しく述べられている。『夢記』には書かれていない部分もあり、極めて大切な夢であるから、重複もするが『冥感伝』の記載を次に示すことにする』とあって、同書の同夢の引用がある。私は「冥感伝」(正しくは「華嚴佛光三昧冥感傳」で明恵が承久三年十一月九日に完成させた「華厳仏光三昧観秘宝蔵」の一部であることが判っている)所持せず、原本は漢文なので(「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」のここから視認出来る。但し、写本)、以下、河合氏の訓読された、それを恣意的に正字化して示すことする。読みは、河合氏の附されたもののほかに、私が推定で歴史的仮名遣で付加してある。

   *

同八月七日に至り、初夜の禪中に、身心凝然として、在るが如く、亡(な)きが如し。虛空中に三人の菩薩有り。是れ、普賢、文珠、觀音なり。手に瑠璃の杖を執(と)りたまふ。予、が右の手を以て堅く杖の端を執る。菩薩、杖の本(もと)を執り、予、杖の右を執る。三菩薩、杖を引き擧げたまふ。予、杖に懸(かか)りて速(すみや)かに兜率天に到り、彌勒の樓閣の地トに着(ちやく)す。其の間、身(しん)淸涼として心(こころ)適悅(てきえつ)す。譬(たと)へ取らんに、物なし。忽ち瑠璃の杖の、寶地(はうち)の上に立つを見る。其の杖の頭に寶珠あり。寶珠より寶水流れ出で、予の遍身を沐浴(もくよく)す。爾(そ)の時に當たりて、予の面(おもて)、忽ち明鏡の如く、漸々(ぜんぜん)に遍身明鏡の如し。漸々に遍身の圓滿なること水精(すいしやう)の珠の如く、輪(わ)の如く運動す。其の勢(いきほひ)、七八間許りの舍宅の如し。禪中に心想有るが如く、奇異の想ひを作(な)す。時に、忽ち空中に聲有るを聞く。曰はく、「諸佛、悉く中に入る。汝今、淸淨を得たり」と。其の後、本(もと)の身に復(かへ)るに、卽ち七寶の瓔珞有りて虛空中(ちゆう)に垂(た)れ莊(かざ)る。予、其の下に在りて、此の相(さう)などを得ると與(とも)に、定(ぢやう)を出で畢(をは)んぬ。

   *

河合氏は、この後に以下のように解説されておられる。

   《引用開始》

 これらを見ると、『夢記』には「前の六月の如く、身心凝然たり」とあって、六月の「兜率天に登る夢」[やぶちゃん注:私の「92」がそれ。]のときも、同様の状態になったことが解るが、この「身心凝然」とはどのような状態を言うのだろうか。これについては『冥感伝』の「身心凝然として、在るが如く、亡きが如し」という表現が理解を助けてくれる。おそらく身も心もひとつになり、しかも、それは極めて軽やかな、あるいは、透明な存在となったのであろう。明恵の場合は、修行を通じて、その身体存在が心と共に変化するところが特徴的である。身体は、彼にとって幼少のときから常に問題であった。空から降りてきた瑠璃の棹によって、明恵は兜率天へと上昇するが、そのとき棹をもって明恵を引きあげてくれたのが、普賢、文殊、観音の三菩薩であることを、『冥感伝』の記述が明らかにしてくれる。兜率天に到達するときの感じが、そこには「身清涼として心適悦す」と表現されている。

 杖の上に宝珠があり、そこから流れでる宝水によって明恵の全身が洗われるのは、前の「兜率天に登る夢」と同様である。このときに明恵の体には大きい変容が生じ、まずその顔が鏡のようになり、続いて体全体が水精の珠のようになる。まさに「透体」というべき状態である。そのときに声がして、「諸仏、悉く中に入る。汝今、清浄を得たり」と言う。この「諸仏、悉く中に入る」というところが、[やぶちゃん注:中略。]まさに華厳の世界の体現という感じを与える。

 これに対する明恵のコメントは、前の「天よりの棹の夢」[やぶちゃん注:私の「97」がそれ。]のときに述べたことを、もっと詳しく論じている。つまり、十信の位の達成は、文殊の智によってする五十二位の遍歴に通じ、成仏に到っているという彼の考えを開陳している。このコメントの結びとして、「定の中に於いて忽ちに此の義を得るは、即ち、因果、時を同じくする也」と述べているところも、いかにも華厳らしい考えである。[やぶちゃん注:中略。]

 このような夢に接すると、明恵という人にあっては、その宗教における教義の理解、修行の在り方、またそれによって生じてくる夢想などのイメージが一体となり、統一的に把握され、それに今までに示してきたような彼の生活の在り方も関連してきて、「行住坐臥」のすべてが、深い宗教性と結びついていたことが解る。

   《引用終了》

「初夜」六時の一つ。戌の刻(午後八時頃)。宵の口で、その時刻に行う勤行をも指す。

「戒躰」「戒」の「実体」の意。戒を受けることによって得られる、悪を防ぎ止め、善を行なう、ある種の法力。

「好相」「相好(さうがう(そうごう))」に同じ。仏の身体に備わっている三十二の相と八十種の特徴の総称。

「身心、凝然たり」一種のトランス状態であろう。

「水精」水晶。

「一間」約一・八二メートル。

「五十二位」菩薩が仏果に至るまでの修行の段階を五十二に分けたもの。「十信」・「十住」・「十行」・「十回向」・「十地」、及び、「等覚」・「妙覚」をいう。「十信」から「十回向」までは「凡夫」で、十地の初地以上から「聖者」の位に入り、「等覚」で仏と等しい境地となる。

「信位之發心」「三種発心」、「信成就発心」・「解行(げぎょう)発心」・「証発心」の初回である「信成就発心」。業(ごう)の果報、或いは、大悲を信じることによる発心であり、また、護法の因縁による発心を指す。参照した「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「三種発心」によれば、『また』、元暁の「起信論疏」に『よれば、信成就発心は』、『信心が成就して決定心が起こること、解行発心は六波羅蜜の修行が熟して回向心が起こること、証発心は法身を証得して真心が起こることである。これら三種の発心は、菩薩の階位と対応して理解され』、『信成就発心が十信・十住、解行発心が十行・十回向、証発心が初地以上とされる。良忠は』「東宗要」の一に『おいて、義寂の説を用いて』、『法蔵の発心を』、『この三種に分類するが、これは』「悲華経」と「無量寿経」との『二経典に説かれる説を合わせた上で、前者を初住の発心、後者を地上の発心と理解したものである』とある。 

「文(もん)に云はく」以下は「華厳経」の引用かと思われる。

「同十八日に、之を記(しる)す。其の夜、同十日に、彼(か)の事あり。」意味深長な附記である。河合氏は同前の章でこれについて、以下のように述べておられる。

   《引用開始》

 ここで少し楽屋話めくことを一つ。『夢記』を通読しているうちに、この「身心凝然の夢」のすぐ後に続いて、

 「同十八日に之を記す。其の夜、同十日に彼の事あり」

という記録があり、これが心に残った。そして続いて読みすすむうちに、前章で取りあげた「毘廬舎耶の妃の夢」に至り、ここで明恵が「彼の事」と書いたのは、女性との関係において、記録しておくべきだが明らさまには書かぬ方がいいと判断されることがあったのではないかと考えた。「毘廬舎那の妃の夢」については既にコメントしたが、このように考えるとすると、これらは承久三年のことである方が、承久の乱後の明恵が女性と接触をもつ機会が多かっただけに、蓋然性が高いのである。ところが、当時は『夢記』に関する一番信頼し得る資料は『明恵上人資料第二』であり、そこでは奥田勲がこれらはすべて承久二年のこととしていた。

 ところで、『夢記』の影印本文を見ると、前記の「彼の事あり」の記録は、極めて小さい字で、おそらく余白に後で書き込んだのではないかと思われ、筆者の推察を強化するような感しを与えた。ここで女性に関することというのは、既に前章に論じたとおり、明恵にとっては極めて深い意味をもつことであり、戒を破りかけたときに「不思議な」ことが生じたことを、彼は大切に考えているので、そのような体験についての心覚えを、ここに留めておこうとしたのではないかと推察したのである。

 このような点と、承久二年の夢があまりに多いこともあって、おそらく承久三年の夢が錯簡によってはいりこんでいるのではないかと考えていた。そのときに『冥感伝』のなかに、既に述べたような「承久三年」という日付を見出したので、これで疑問が晴れたと思ったが、そうなると「身心凝然の夢」や「善妙の夢」などまでが承久三年のものとなる可能性が生じてくる。筆者の考えとしては承久二年に、このような深い宗教的体験を成就したからこそ、明恵は承久の乱のなかで冷静に対外的に対処できたのだ、としていたので、これらの夢も承久三年となると、そのへんの理解が困難となってくるのである。そのようなとき、奥田勲の新しい研究に触れ、まさに「同十八日に之を記す。其の夜、同十日に彼の事あり」の行より承久三年のことと判定されていることを知り、理解の筋が通ったようで嬉しく思った次第である。もちろん、この「彼の事」について、あるいは「毘廬舎那の妃の夢」について、女性との実際的な関係を考えるのは、筆者の当て推量に過ぎないのではあるが。

   《引用終了》

私は河合氏の説を全面的に支持するものである。]

 

□やぶちゃん現代語訳

 同じ初夜の座禅の際、滅罪の事を祈願し、戒体を得た。そこで私は、

「もし好相(こうぞう)が現(げん)じたならば、諸人(しょにん)に戒を授けんとする。」

と祈願した。

 その禅の最中、先の六月の如く、身心が、凝然となった。

 夢が始まった……

 空より、瑠璃(るり)の棹が、筒の如くにして下ってくるのを直感した。

『其の筒の中は、誰もいない。』

と、やはり、直感した。

 虚空に、人があって、その筒の端(はし)の部分を取って、私を、

「すうっ」

と引き挙(あ)げた。

 私は、

『これに取りついて、私は、兜率天に到るのだ。』

と直感した。

 そのの筒の上には、宝珠がある。

 清浄な水が流れ出でており、その浄水が、私の遍身に灑(そそ)がれた。

 その後(のち)に、心に、

『私は、この実体を見たい。』

と欲した。

 その筒の表面は、瞬時に明鏡のようになった。

 すると、徐々に、私の遍身もまた、明鏡のようになる。

 筒も、私も、まさに円満なること、水晶の珠(たま)のようになる。

 筒と私は、ともに動き、転じて、別な所に到った。

 又、声の告げがあるのを待っていると、即座に、声があって曰わく、

「諸仏、悉く、中(うち)に入(い)った。汝は、今、清浄を得たのだ。その後(のち)、変じて、大なる身体となって、一間ばかりの上に、七宝(しっぽう)の瓔珞(ようらく)があって、汝の存在を荘厳(しょうごん)する。」

と……。

 その瞬間、観(かん)から脱して、夢は終わった。

 因みに、言い添えると、その前に、真智恵門(しんちrもん)から出(い)でて、五十二位を遍歴していた。

 則ち、「信位の発心」は文殊である。

 仏智は十の階梯を分かって、この「空智」を現じたのであった。

 この十住の内に、一切の理(ことわ)りを、悉く、摂取して、諸法も、これ、悉く、完遂していたのである。

 則ち、経文(きょうもん)に曰わく、

『「十方(じっぽう)の如来の初発心は、皆、これ、文殊の教化(きょうげ)の力(ちから)である。」と言うのは、これを指すのである。文殊の「大智門」より、十住の仏果を生ずるが故である。「真智に於いて、住果(じゅうか)を生ず。」と言うのは、仏果の文殊より生ずるものなのである。「信位に於いて、初住の一分(いちぶ)を生ずる。」と言うは、文殊の、仏果の弟子となることなのである。即ち、因果の相即(そうそく)することを指すのである。この下(しも)十行は、これ、普賢の大行(だいぎょう)の具足することを指すのである。「十回向」は「理智の和合」を意味する。これにより、十地を生じて、理智をなすこと、なく、また、冥合(めいごう)を証得するということなのである。仏果はこれ、能生(のうしょう)である。定(じょう)の中に於いて、忽ちにして、この義を得ることは、即ち、因果が、時を同じくすることに等しい。これをしっかりと思うがよい。紙筆には記し難きものなのである。』

と……。

 因みに、訳(わけ)あって、以上は、夢を見た日から十五日経った、八月十八日に、これを記(しる)した。

 ああ、そうだ。その夜――則ち、夢を見た日から丁度、四日後の八月十日の夜のこと、まさに――「あの事」――が、あったのだった。

2023/12/30

譚海 卷之九 同所仙北郡辻堂猫の怪の事(フライング公開)

 

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。なお、標題の『同所』は前の三条が、皆、『羽州』の出来事であったことによる。]

 

 仙北郡の人、薪を伐(きり)て山より歸る時、夕(ゆふべ)になりて、雨、降出(ふりいで)たれば、辻堂の緣に、雨やどりせしかば、堂の中(うち)、人音(ひとおと)、きこえて、にぎはしく、しばし有(あり)て、

「太郞婆々(たらうばば)、いまだ、來らず。こたびの躍(をどり)、出來がたからん。」

など、いふ聲せしに、又、しばし有りて、

「婆々、來れり。」

とて、

「をどり、はじめむ。」

といふ。

 婆々のいふやう、

「しばし、待ちたまへ。人や、ある。」

とて、堂の格子の穴より、尾を、いだし、かきまはしたるを、此男、尾を、とらへて、外より引(ひき)たるに、

「内には、引入(ひきいれ)ん。」

と、こづむに、あはせて、尾を引(ひき)きりて、もたりければ、恐ろしくなりて、雨のはるゝも、またず、家に歸りて、此尾をば、深く、藏置(をさめをき)たり。

 そののち、鄰家の太郞平なるもの、

「母、『痔、起りたり。』とて、うちふしてある。」

よし。

 此男、見廻(みまひ)に行(ゆき)て見れば、誠に、心わろく見へ[やぶちゃん注:ママ。]ける。

「いかに。」

と、いへば、

「痔のいたむ。」

よしを、いふ。

 あやしくて、夕(ゆふべ)に、又、件(くだん)の尾を懷(ふところ)にかくして、見廻(みまひ)に行(ゆき)てければ、

「なほ、心、あし。」

とて、居(ゐ)たりしかば、

「それは。このやうな事の、わづらひにては、なきや。」

と、尾を引出(ひきいだ)して見せければ、この母、尾(を)を、かなぐりとりて、母屋(おもや)を、けやぶりて、失せぬ。

 猫の化けたるにて、ありける。

 誠の母の骨は、年ヘたるさまにて、天井にありける、とぞ。

[やぶちゃん注:この話は、柴田宵曲の「妖異博物館」の「化け猫」で採られている関係上、既にそこで私が電子化しているが、今回は、推定読みを付加しているので、新たにフライング単独公開とした。

「仙北郡」秋田県(旧出羽国および羽後国)の郡。旧郡域は、同県の東端の中央部を広域に含んだ。当該ウィキの地図を見られたい。

「こづむ」本来は「偏(こづ)む」は「筋肉がかたくなる・凝る」、「心が重くなる・気がめいる」、「馬が躓いて倒れかかる」であるが、他に「一ヶ所に片寄って集まる・ぎっしり詰まる」の意があるので、「引き入れようと、大勢の者(猫)が、積み重なるようにして、一斉に太郎婆の体を引っ張った」ことを指すようである。映像として面白い。]

畔田翠山「水族志」 ツルグヒ (サクラダイ)

(三二)

ツルグヒ【紀州若山】 一名アカヤハギ【阿州堂浦】エビスダヒ【土佐浦戶】イトヒキ【勢州阿曾浦】ヲヒロ【紀州田邊】

五六寸ノ者多シ形狀黃稽魚ニ似テ上唇决短ク下唇出身深紅色ニ乄

白斑アリテ縱ニ二道ニ相並ブ腹淡紅色白斑アリ頰淡紅色脇翅紅色

腹下翅深紅色ニ乄端黑色背鬣淡紅色ニ乄頭ヨリ第三ノ刺長ク出一

寸半許下鬣第一刺ノ末長ク出二寸許黃色ニ乄餘ハ淡紅色尾上下俱

ニ細長ニ乄上ハ三寸半許リ出黃色也下ハ三寸許出深紅色眼ノ邊腮

ノ上背ニ及テ黃色ヲ帶上ニ黑斑アリテ頭上ヨリ尾ノ上ニ至ル

○やぶちゃんの書き下し文

つるぐひ【紀州若山。】 一名「あかやはぎ」【阿州堂浦(だうのうら)。】・「えびすだひ」【土佐浦戶(うらど)。】・「いとひき」【勢州阿曾浦。】・「をひろ」【紀州田邊。】

五六寸の者、多し。形狀、「黃檣魚(わうしやうぎよ)」に似て、上唇、决(えぐれ)、短く、下唇、出づ。身、深紅色にして、白斑ありて、縱に二道に相(あひ)並ぶ。腹、淡紅色、白斑あり。頰、淡紅色。脇翅(わきひれ)、紅色。腹下翅(はらしたびれ)、深紅色にして、端(はし)、黑色。背鬣(せびれ)、淡紅色にして、頭(かしら)より第三の刺(とげ)、長く出づ。一寸半許(ばか)り。下鬣(したびれ)、第一刺(し)、末(すゑ)、長く出づ。二寸許(ばかり)。黃色にして、餘(よ)は淡紅色、尾、上下俱(とも)に細長(ほそなが)にして、上は三寸半許り、出づ。黃色なり。下は三寸許、出(いで)、深紅色。眼の邊(あたり)、腮(えら)の上、背に及(および)て、黃色を帶(おぶ)。上に黑斑ありて、頭上より、尾の上に至る。

[やぶちゃん注:底本のここから次のコマにかけて。さて、種同定であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの宇井縫蔵氏の「紀州魚譜」(第三版・昭和七(一九三二)年刊)のこちらによって、

スズキ目スズキ亜目ハタ科ハナダイ亜科サクラダイ(桜鯛)属サクラダイ Sacura margaritacea

に同定されるが、畔田の記載は、「紅色」が有意に示されていることから、彼が扱った個体は同種のとなった個体であると考えられる。但し、当該ウィキによれば、『体長約』十五センチメートル。『雌雄で体の色や模様が異なる。雌性先熟で、生まれたときは全て』、『雌であるが、成長すると』、『雄に性転換する』。『雌はオレンジ色を基調とした体色で、背鰭の付け根に』一『対の黒色斑を持つ。雄は真紅の身体に白い斑紋が点在し、非常に美しい。また、婚姻色の雄は、顔の色が銀色に近い桜色となる』とある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの画像で雌雄(三枚の真ん中の写真が♀)の違いが視認出来る。

「つるぐひ」同前の宇井氏の同見開きの右ページに「ツルグエ」が載り、条鰭綱スズキ目ハタ科ハナスズキ属ツルグエ(鶴虞絵(宇井氏の表記を参考にした)) Liopropoma latifasciatum とある。そこで宇井氏は田辺で『之に近いものにも用ひる』とある(実は宇井氏は「サクラダイ」の方にも同じ注記を示しておられる)。「近い」と言われても、WEB魚図鑑」の同種の画像を見ると、凡そ見間違えたり、同じ仲間とは思われない様相である。ようするに、ハタ科 Epinephelidaeのド派手な赤系統の体色を持つ多くの類に、この異名が多く使われていたものらしい。

「阿州堂浦」現在の徳島県鳴門市瀬戸町(せとちょう)堂浦(どうのうら:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。

「土佐浦戶」高知県高知市浦戸。坂本龍馬像があることで知られる。

「勢州阿曾浦」三重県度会郡南伊勢町(ちょう)阿曽浦(あそうら)

「をひろ」恐らく特徴的な分岐して先が延びた尾鰭の上下端からの「尾廣」であろう。

「黃檣魚」ワカサダヒ(キダイ)」で既注だが、再掲すると、『最近、この手の漢語の魚類名を検索してがっくりくるのは、検索結果に、本文も画像も、私のブログとサイトが掛かってきちゃうという鏡返し現象の現実である。一つは、ブログの『栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 ヒメ小鯛・黄檣魚 (キグチ?)』』(スズキ目スズキ亜目ニベ科キグチ属 Larimichthys (シノニム: Pseudosciaena )。同属の本邦産はキグチ  Larimichthys polyactis )『で、今一つは、サイトの「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「黄穡魚 はなをれだい」だ。「黃檣魚」の「黃檣」(おうしょう)は、目から鼻孔の部分と上顎の吻部が黄色く、また、背鰭に沿った背部にも三対の黄斑があることが由来で、さらにマダイ Pagrus majorに比して』、キダイは『成魚では鼻孔の周辺部が凹んでおり、口吻が前方に突き出た形になり、その形状が和船の帆を立てた帆柱(檣)に似ているからであろう。両書の内容は、よくキダイに一致しているとは言えるし、キダイの生息域は東シナ海大陸棚からその縁辺域にと広いから、問題ない』としたものである。

「决」前の「カネヒラ」に出た。「抉(えぐ)れて切れていること」の意。]

フライング単発 甲子夜話卷三十四 16 武雄山の白龍

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。漢文訓点の内、「各」の「〻」は踊り字「〱」であるが、かく代えた。因みに、返り点(一二点を使わずに、上下点を用いている)、及び、振られた送り仮名(一部は漢字の読み含む)は、かなり不全である。なお、底本(『東洋文庫』版)では、「龍」は総て『竜』とするが、私はこの「竜」の字を生理的に好まないので、総て「龍」とした。図があるのだが、底本の『東洋文庫』版は非常に薄く、加工してみたが、限界があるので、特異的に所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)にある宵曲の模写したそれを、OCRで読み込み、トリミング補正して並置して掲げた。前が原本、後が宵曲のもの。但し、宵曲のそれは、元の龍の顏とは、全然、似てないぞッツ!

 

34―16 武雄山(たけをやま)の白龍(はくりよう)

 

Hakuryugenzu

 

Hakuryouzusibatamosya

 

 去(いに)し寬政辛亥[やぶちゃん注:寛政三年。一七九一年。]の夏、長崎より、一客、來れり

 一夕(いつせき)、これと對話せしときの話に、客、所識(しよしき)の僧、先年、白龍(はくりよう)を見たり。その僧、妄言(まうげん)する者にあらず。眞實(しんじつ)、語(かたり)なり。

 予、輙(すなはち)、其(その)ことを記(しる)せんとす。

 客、曰く、

「僧、已に、其ことを、記(しる)せり。」

と。

 後(のち)に、その記事を得たり。

   視白龍

余到肥之武雄驛。日既桑楡旅舍シテ溫泉、而閑行逍遙焉。驛西之山、高キコト百餘仭、松樹雜ㇾ翠、磴道馮ㇾ虛。其巓石相倚而立、陰宕鬱㠥無ㇾ所ㇾ依。因振ㇾ衣而下。山半一巡左轉シテ、地狹シテ平坦、峭壁峙列。有池水。極淸冷。同行數子、各シテ以飮、散╸于峭碧之間。余獨盤╸シテ池頭、殿數子シテシテ。水中有ㇾ物、磷々乎。熟視スレバ則純白之龍也。雙角競、纖毛被ㇾ首。頤連蝟鬚。鱗鬣相映、皎潔甚於氷雪ヨリ。但瞳子淺黑ニシテ、大如豆實。兩足跨池底、擧ㇾ首正面。顏長七八寸、身圍可ㇾ拱腹心。而上凡二尋、下體卽不ㇾ見。蓋在于穴罅乎。貌不激烈ナラ。端嚴ニシテ且懿。配レバ乾爻、則膺九三乾乾惕若之象邪。余與ㇾ之隔ルコト數尺。相對斯須。而余不驚悸者、以彼貌ルヲ激烈ナラ乎。乃呼數子而曰。玆靈物、可シト而視。數子未ㇾ到。龍俄然トシテ矣。下ㇾ山還驛舍。以ㇾ事語ㇾ主。主異トシテㇾ之曰。恐クハ彼山之神也ナル乎。未ㇾ聞有ㇾ觀ㇾ焉者。實寶曆癸未秋七月廿一日也。長崎白龍大壽撰、幷書。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ。]

白龍山人、於ㇾ予有通家之誼。嘗爲ㇾ予談其観白龍之事。予聞ㇾ之以爲ㇾ奇矣。蓋山人以白龍自称者、拠ㇾ之也。今及ㇾ讀記文竊謂如ㇾ斯之奇、可一ㇾ傳乎。予遂請山人命ㇾ工。倂ㇾ圖剞劂焉。天明戊申夏五月、北島長孝識。

 

■やぶちゃんの呟き

 これ、実は一度、「柴田宵曲 妖異博物館 地上の龍」の私の注で電子化している。但し、Unicode導入以前であったため、漢字不全があるので、今回は全くの零から作業した。

 まず、「觀白龍記」の訓読を試みる。訓点は不全なので、送り仮名を追加し、読みは推定で歴史的仮名遣を用いた。恐らく作者は、殆んど音を用いているものと思うが、私のものは、敢えて読み易さを考えて、意図的に訓で意訓にしたところがある。また、段落を成形した。

   *

   白龍を視るの記

 余、肥の武雄(たけを)驛に到(いた)る。

 日(ひ)、既に桑楡(さうゆ)に在り。旅舍(りよしや)に就(つ)き、溫泉に浴して、而して、閑行逍遙(かんかうせうえう)す。

 驛西(えきせい)の山、高きこと、百餘仭、松樹(しやうじゆ)、翠(みどり)を雜(まぢ)へ、磴道(とうだう)、虛(こ)に馮(よ)る。

 其の巓(いただき)、石、相ひ倚(よ)りて、立ち、陰宕鬱㠥(いんたううつるい)、依る所、無し。

 因(よつ)て、衣(い)を振(ふり)て下(くだ)る。

 山の半(なかば)の一逕(いつけい)、左轉(さてん)して、地、狹(せば)くして、平坦、峭壁(しやうへき)、峙列(じれつ)す。

 池水(ちすい)有り。極めて、淸冷(せいれい)。

 同行(どうかう)の數子(すうし)、各(おのおの)、掬(き)くして、以つて、飮(いん)し、縹碧(へうへき)の間(かん)に散步す。

 余、獨り、池頭(ちとう)に盤桓(ばんくわん)して、數子(すうし)を殿(しんがりす)る。

 而して、偃(いこひ)して、飮(いん)す。

 水中、物、有り、磷々乎(りんりんこ)たり。

 熟視すれば、則ち、純白の龍なり。

 雙角(さうかく)、競ひ起こり、纖毛(せんもう)、首(かうべ)に被(かぶ)る。

 頤(おとがひ)、蝟鬚(いしゆ)、連なる。

 鱗・鬣(たてがみ)、相ひ映(は)え、皎潔(かうけつ)せること、氷雪(ひやうせつ)より甚だし。

 但(ただ)、瞳子(どうし)、淺黑にして、大いさ、豆の實(み)のごとし。

 兩足、池底(ちてい)に跨(またが)り、首(かうべ)を擧(あ)げて、正面(しやうめん)す。

 顏、長さ、七、八寸、身圍(みまはり)、腹心(ふくしん)を拱(こまね)く。

 而して、上(うへ)、凡そ二尋(ひろ)、下體(かたい)は、卽ち、見えず。

 蓋(けだ)し、穴(あな)の罅(ひび)の中に在るか。

 貌(かほ)、激烈ならず。端嚴(たんげん)にして、且つ、懿(うるは)し。

 諸(もろもろ)を、乾爻(けんこう)に配(はい)すれば、則ち、九三(くさん)の乾乾(けんけん)惕若(てきじやく)の象(かたち)に膺(あた)るか。

 余、之れと隔(へだ)つること、數尺。相ひ對して、斯(か)く、須(しばら)くす。

 而して、余、驚悸(きやうき)せざるは、彼(か)の貌(かほ)の激烈なたざるを以つてか。

 乃(すなは)ち、數子を呼びて、曰(い)ふ。

「玆(ここ)に靈物(れいぶつ)有る、來たりて視るべし。」

と。

 數子、未だ到らず。

 龍、俄然として、隱(かく)る。

 山を下り、驛舍に還(かへ)る。

 事を、以つて、主(あるじ)に語る。主、之れを、

「異(い)。」

として、曰く。

「恐らくは、彼(か)の山の神なるか。未だ、焉(これ)を觀(み)る者、有るを、聞かずざるなり。」

と。

 實(じつ)に寶曆癸未(みづのとひつじ/きび)秋七月廿一日なり。

 長崎、白龍大壽、撰(せん)し、幷びに、書(しよ)す。

   ※

白龍山人(はくりゆうさんじん)、予に於いて、通家(つうけ)の誼(よし)み、有り。嘗つて、予、爲(な)すに其の「白龍」を観しの事を談ず。予、之れを聞きて、以つて、「奇」と爲す。蓋(けだ)し、山人、「白龍」を以つて自称するは、之れに拠(よ)るなり。今、記文を讀むに及んで、竊(ひそ)かに謂(い)ふ、「斯(か)くのごとき奇(き)、可以つて傳へざるべきか。」[やぶちゃん注:反語。]と。予、遂(つひ)に、山人に請(こ)ひて、工(たくみ)[やぶちゃん注:ここは版木の彫り師。]に命ず。圖と倂(あは)せて剞劂(きけつ)[やぶちゃん注:彫刻。]焉(をはん)ぬ。天明戊申(つちのえさる/ぼしん)[やぶちゃん注:天明八年。一七八八年。]夏五月、北島長孝識。

    ※

   *

 語注する。これも、先の私の古いものを参考にせず、新たに附した。

「肥の武雄(たけを)驛」佐賀県武雄市(たけおし:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。

「桑楡(さうゆ)」夕日が樹木の枝にかかること。 夕方。

「溫泉」武雄市市街中心に「武雄温泉」が今もある。

「驛西(えきせい)の山」位置関係と標高(「百餘仭」=約二百十二メートル超)から、「御船山」(みふねやま)と推定する。「ひなたGPS」で戦前の地図の方を見ると、ピークを二百十一メートルとする(現在の国土地理院図では二百七・一メートル)。グーグル画像検索「武雄市御船山」を見ると、以下に記す景観と、遜色ない。

「磴道(とうだう)」石の坂道。

「虛(こ)」虚空、空の意で採った。

「馮(よ)る」向かう。

「陰宕鬱㠥(いんたううつるい)」「宕」は洞穴。「㠥」は岩山が幾重にも連なっているさま。

「峭壁(しやうへき)」切り立った険しいがけ。

「峙列(じれつ)」高く聳え、峙(そばだ)ち、しかも、それが列を成していること。

「池水(ちすい)有り」「ひなたGPS」を見て貰うと、御船山の東北から西にかけて、五つの池を確認出来る。「左轉」というのが不審だが、この孰れかであろう。候補としては、戦前の地図でも確認出来る、ここの「四十九重池」か「鏡池」に絞ってよいかとも思われる。

「縹碧(へうへき)」藍よりも少し碧(あお)い色。ここは池水のそれ。

「盤桓(ばんくわん)」うろうろと歩き回ること。 また、ぐずぐずすること。

「偃(いこひ)して」「偃」(音「エン」)には「憇う・休む」の意がある。

「磷々乎(りんりんこ)」水が透き通って、底の石の見えるさま。

「蝟鬚(いしゆ)」濃い髭(ひげ)。

「鬣(たてがみ)」背鰭。

「皎潔(かうけつ)」白く清らかで汚(けが)れのないさま。

「瞳子(どうし)」瞳孔。

淺黑にして、大いさ、豆の實(み)のごとし。

 兩足、池底(ちてい)に跨(またが)り、首(かうべ)を擧(あ)げて、正面(しやう「腹心(ふくしん)を拱(こまね)く」腹上部(その下部は隠れて見えない)と胸部部分で、「拱く」はその部分が「両手で抱えるほどの太さである」ことを言っているように思われる。

「上(うへ)、凡そ二尋(ひろ)」実際に見えているとする腹上部から頭部までの長さであろう。「尋」は本邦では五尺、或いは、六尺であるから、三メートルから三メートル六十四センチメートルほど。この言い方が、物理的に事実であるなら、もう、蟒(うわばみ)の類いで、実在する本邦のヘビではあり得ない。現行、最大種は爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora だが、それでも全長で三メートル超だからである。しかし、私は、この「龍」がアルビノ(白化個体)であることから、アオダイショウのアルビノであるだけでなく、下半身が潰れた奇形個体なのではないか? と推定するものである。

「乾爻(けんこう)に配(はい)すれば、則ち、九三(くさん)の乾乾(けんけん)惕若(てきじやく)の象(かたち)に膺(あた)るか」易(えき)は興味がなく、知りもしないので、注さない。先行電子化では、『よく判らぬが、易に基づく八卦から諸相を判断した、相を述べているのであろう』と誤魔化しているので、ここは正直に言っておく。

「寶曆癸未」「秋七月廿一日」宝暦十三年七月二十一日は、グレゴリオ暦で一七六三年八月二十九日。

「長崎」「白龍大壽」不詳。

「北島長孝」不詳。

2023/12/29

譚海 卷之九 鍋島家士坂田常右衞門夫婦の事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 鍋島家の士に坂田常右衞門と云(いふ)者、をさなきときより、妻を、おなじ家士の娘に約し、兩家の親、約諾(やくだく)終りて、結納をもやりたるに、常右衞門、はたちあまりのころ、江戶づめの役、さゝれ、出府せしが、篤實なる者にて、首尾能(よく)勤(つとむ)るほどに、段々、劇職にうつり、俸祿など加增ありて、年來(ねんらい)、江戶に在(あり)しが、常右衞門ならでは、江戶の事、治(をさ)まりがたきやうに成(なり)て、いくとしも、歸鄕のいとま、かなはず、數年(すねん)經たりしかば、約諾の娘も生長(せいちやう)に過ぎ、あまり、年久しく成(なり)ぬる事故、

「世悴(せがれ)、江戶にあれども、かくても、あるまじき事、我等も年寄(としより)ぬるまゝ、介抱にもあづかりたき。」

よしを、兩親、まめやかに、いひやりければ、娘の親も、

『もつともなる事。』

に思ひて、先づ、娘を、常右衞門親のもとへ、つかはしけるに、此(この)嫁、殊に、おなじき心ばへにて、常右衞門親に、よくつかへ、年々(としどし)を送りけれども、夫(をつと)は、なほなほ、歸國のゆるしもなく、江戶に在勤しけり。

 かゝれば、二、三十年も立(たち)ぬる事ゆゑ、終(つひ)には、しうと・しうとめも、をはりぬ。

 それまで、此よめ、つかへ、孝成(なる)事、見聞く人も、哀れを、もよほさざるは、なし。

 さて、常右衞門、四十餘年、江戶にありて、七十歲に及びて、天明[やぶちゃん注:底本では編者傍注があり、『(明和)』の誤りとする。]五年、はじめて、江戶の役を、ゆるされ、歸國せしかば、共に白髮の夫婦にて、はじめて婚姻の儀式、調ひたる、とぞ。

 珍敷(めづらしく)も、又、貞婦成(なる)事に、人々、感じかたり傳へける、とぞ。

[やぶちゃん注:「鍋島家」肥前国佐賀藩主鍋島家。江戸出仕時は第五代藩主鍋島宗茂で、明和五(一七六八)年当時は第七代藩主鍋島重茂(しげもち)の治世。実に三代を通じて、坂田常右衛門を不憫と思わなかったということは、代々が、人情を解さぬ糞藩主であったと断じる外はない。いやさ、「鍋島藩残酷物語」である。

「劇職」激務の要職。]

ブログ・アクセス2,060,000突破記念 只野真葛 むかしばなし (122) 「むかしばなし」後書+工藤氏系譜・桑原氏系譜 / 「むかしばなし」電子化注~完遂!

[やぶちゃん注:本最終電子化は、三日前の十二月二十七日に、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが2,060,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年十二月二十九日 藪野直史】]

 

  書昔話後

昔話六卷、藩醫工藤周庵之女眞葛所筆記也。系譜附于後、以示於此記耳。周庵及眞葛之筆記數部、存于其家云云。

  乙卯春書省齋南窓下    佐々城直知

 

[やぶちゃん注:以上は、底本では全体が三字下げ。最後の署名は、底本では三字上げ下インデント。推定で訓読しておく。

   *

  「昔話」の後(あと)に書す

「昔話」六卷、藩醫工藤周庵の女(むすめ)眞葛、筆記する所なり。系譜、後(あと)に附き、以つて此の記を讀む者に示すのみ。周庵、及び、眞葛の筆記、數部、其の家に存(そん)すと云云(うんぬん)。

  乙卯春書省齋南窓下    佐々城直知

   *

「乙卯」安政二(一八五五)年。因みに、真葛は文政八年六月二十六日(一八二五年八月十日)に没している。享年六十三であった。

「佐々城直知」佐々城朴安(ささきぼくあん 天明五(一七八五)年~文久元(一八六一)年)は医師。陸奥桃生郡(現宮城県)出身。直知は本名。通称は他に「朴庵」がある。「省齋」は号。京都で婦人科学を学んだ。文化一一(一八一四)年、陸奥仙台藩の医員となり、「医学館」の付属薬園長・婦人科教授に就任した。天保四(一八三三)年には、「救荒略」を著し、飢饉の際に食用となる草木二百三種を紹介している。他の著作に「救民単方」などがある。

 以下の系譜は、例式で罫線でずっと繋がっているが、ブラウザでは加工が困難であるから、略記号に代えた。各人の表記はポイントが大きく、その事績本文は二行割注であるが、【 】で、本文(訓点は下・上附きは再現した)ポイント落ちとし、ブラウザの不具合を考え、長いものは適宜改行した。特に難しくもないので、訓読・注は附さない。底本の『原傍註』とある箇所は[ ]で入れた。割注の最後には句読点がないが、句点を打った。

 

工藤氏系譜略

 

○工藤丈庵【獅山樣御代被召出一袖ケ崎邸御隱居後同邸定詰。】

┗周庵【丈庵養子、實徹山樣御代還俗被仰付、號平助、出入司勤仕。】

 ┃

 ┣女子【藩士只野伊賀爲後妻、號眞葛、無ㇾ子、母桑原隆朝之

 ┃   嫡女、眞葛卒歲。】

 ┣長庵【早世。】

 ┣女子【津輕侯之臣雨森權八郞妻。】

 ┣女子【田安樣奉仕、御姬樣松平越前守樣御入輿付、御附御老女

 ┃   相勤候所、御姬樣御卒去付、其後爲ㇾ尼、號瑞性院

 ┃   天保六年卒。】

 ┃  【右御姬樣、桑名少將定信松平越中守[初居城奧州白川。]、實

 ┃   田安中納言宗武卿御三男、依臺命定邦侯養子、隱居而

 ┃   樂翁

 ┃   桑名少將樂翁侯ノ御姪樣付、樂翁樣時々罷出候付、樂翁樣

 ┃   御書數通持居候付、乞受取而私方ニも數通持居申候。瑞性院手

 ┃   跡もよく、觀音經認候を私も所持仕居申候。】

 ┣源四郞【平助家督、御近習相勤、眞葛只野伊賀方後妻相成、

 ┃    江戶ヨリ罷下候砌、同伴罷下候、文化年中病死。】

 ┣周庵【三代目之桑原隆朝二男、源四郞急病

    養子、今安政二乙卯盲目ニテ年五十餘歲、

    北三番丁木町通ヨリ二軒目。】

 

桑原氏系譜略

 

初代

○桑原隆朝【生國氏系不ㇾ知、忠山樣御代橘家ヲ爲人元

 ┃   召出。】

 ┃

 ┣女子【工藤平助妻。】

 ┃

 ┃二代目

 ┣隆朝【桂山樣御代御藥上相勤、妻谷田太郞左衞門娘也。

 ┃   谷田氏其節公儀使ニテ定詰。】

 ┃

 ┃三代目

 ┣隆朝

 ┃

 ┃四代目

 ┣隆朝【當時御近習相勤、住二同心町玄貞坂行當リヨリ西ノ方南側。】

 ┃

 ┗周庵【工藤氏爲養子。】

 

工藤平助女子七人有ㇾ之、秋の七草たとへ名付候付、只野伊賀妻私繼母眞葛と申候。[外女子四人緣付候所承合候而追々可申上候。]右兩家之系譜御聞被ㇾ成度旨御問合付、大略申上候。委敷義は昔話御參考被ㇾ成候得者、相知可堅甲候。以上

  十一月廿日        眞山杢左衞門

[やぶちゃん注:以上の署名は、底本では三字上げ下インデント。]

  佐々城朴安樣

 

 尙々私儀は只野伊賀次男ニ而、眞山養子相成候付、繼母之緣ニ而兩家之系統承居候處ヲ、匆々申上候。尙亦委く工藤桑原へ御聞被ㇾ成候方と奉ㇾ存候。以上

 

[やぶちゃん注:この只野真葛の「むかしばなし」の電子化は、二〇二一年二月二日に始動したが、途中、他の電子化注にかまけて、中断多く、結果、三年足らずかかってしまった。当初、底本のルビを( )で、私の推定歴史的仮名遣のルビを《 》にしていたものを、長くペンデイングしている中で、途中から逆転させてしまったミスも起こしてしまった。数少ない読者に御礼とともに、陳謝しておく。]

只野真葛 むかしばなし (121) 玉の話 / 「むかしばなし」本文~了

 

一、田沼樣、退役有(あり)し當坐に、寺社奉行をつとめらる大・小大名のつかひ番の足輕、夜中に、柳原の土手を通りしに、つまづきたる物、有(あり)。

 よりて、あかりにて、見れば、眞黑(まつくろ)ぬりの箱に、萠黃(もえぎ)さなだの紐、つきし物なり。

 其中を、ひらき見しに、また、「かぶせ蓋(ぶた)」有て、ちりめんの「あわせふくさ」、又、「わた入(いれ)ふくさ」などに、丁寧に包(つつみ)たる中(なか)に、卵(たまご)より、少し、おほめなる玉(たま)入(いり)て有しが、手につかめば、人肌(ひとはだ)ぐらひ[やぶちゃん注:ママ。]に、あたゝかみ、有(あり)、おせば、少し、

「ふわふわ」

といふくらひ[やぶちゃん注:ママ。]にやわらかにて、手をはなせば、元のごとく、ふくれる物なりし、とぞ。

 何かは、しらず、とりて、懷中し、歸り、主用(あるじのよう)終りて後(のち)、部屋にて、ばくちをうちしに、座中、惣(そう)ざらい[やぶちゃん注:ママ。]をして、あくるひ、紋付など、其頃は、おほき物なりしを、いづれを、つけても、あたりしほどに、おもしろくおもひ、神明(しんめい)に行(ゆき)て富(とみ)[やぶちゃん注:富籤。]をつけしに、「一ノ富」にあたりて、百兩、取(とり)し、とぞ。

「誠に、ひろひし玉の奇特ならん。」

と、いひ合(あひ)しを、手狹(てぜま)なる家中(かちゆう)のこと故、だんだん、上へも聞えしかば、

「其玉を上(あげ)よ。」

と、いはれて、いだしたれば、取上(とりあげ)と成(なり)し、とぞ。

 ひそかに、公義へ、さし上られしとの事なり。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落してある。]

 其玉は、「天草陣(あまくさのじん)」の落城のあとに有(あり)しものにて、公義御寶物なりしを、如何してか、田沼が所持して有(あり)しほどに、めきめきと、立身出世せられしを、退役候後(のち)、御あらためあらん事を、おそれて、ひそかにすてしを、ひろひしものにて、内々(ないない)、公義、御たづねの品ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、早速、上られしと沙汰、仕(つかまつり)たりし。

 御城内へ、あらたに、御寶藏、立(たて)て、おさまりし、との事なり。

[やぶちゃん注:「57」で真葛は田沼意次について、以下のように評している(下線太字は私が附した)。「田沼とのもの守と申人は、一向、學文なき人にて有し。今の人は惡人のやうに思ど、文盲なばかり、わるい人では無りしが、其身、文盲より、書のよめる人は、氣味がわるく思われしかば、其時の公方樣をも、書に眼の明ぬ樣にそだて、上、御身ちかくへ、少しにても、學文せし人は、寄られざりし故、出世のぞみ有人は、書を見る事を、いみ嫌いし故なり。」。「悪い人ではない」と言うやや好評価であるのは、意外に感じられるが、それには、別に理由がある。実は、彼は仙台藩医であった真葛の父工藤平助と強い接点があったからである。詳しくは、平助の当該ウィキを見られたい。

「柳原」東京都千代田区の北東部で、神田川南岸の万世橋から浅草橋に至る地域の古くからの通称(グーグル・マップ・データ)。神田川右岸の通り。現在も「通り」名として「柳原通り」が残る。

「神明」現在の東京都港区芝大門一丁目にある芝神明宮(グーグル・マップ・データ)。公式サイトの「由緒」によれば、伊勢神宮の祭神である天照大御神(内宮)・豊受大神(外宮)の二柱を主祭神とし、鎮座は平安時代の寛弘二(一〇〇五)年、一条天皇の御代に創建されたとある。古くは飯倉神明宮・芝神明宮と称され、鎌倉時代には源頼朝の篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代には徳川幕府の篤い保護の下、大江戸の大産土神(うぶすながみ)として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を受けた、とある。江戸時代には富籤(とみくじ)興行が行われたことで知られる。

 なお、参考底本とした一九九四年国書刊行会刊の「江戸文庫 只野真葛集」(鈴木よね子校訂・新字表記)の鈴木氏の解説に、本書の『興味深い』点として、三つを挙げておられ、まず、『第一に華やかな天明期前後の江戸の文化を闊達な口語文体で写しとった点』を示され、『第二に、序に明記されてあるように』、『実家の滅びた原因を女の悪念とし、それを全編の主題とした点が挙げられる。都市の共同幻想』(「都市伝説」)『と関連させている』特徴を指摘され、『第三に、女性に拠る家の記が書かれた点でも興味深い。その場合の家の概念も特殊である。あくまで長井家という武士の末裔としての父がいて、それを中心としたものであり。必ずしも医家工藤家の系譜を指していない。文章中には、女でありながら』、『尊敬する父になりかわろうとする気持ちも述べられていて、いわゆるエレクトラ・コンプレックスが指摘される。母に関する記述が少ないことも同様の原因によるものと思われる』と締め括っておられる。この第三の分析は、非常に優れており、真葛の病跡学的な新たな地平が見えてくる気がした。

只野真葛 むかしばなし (121) 玉の話 / 「むかしばなし」本文~了

 

一、田沼樣、退役有(あり)し當坐に、寺社奉行をつとめらる大・小大名のつかひ番の足輕、夜中に、柳原の土手を通りしに、つまづきたる物、有(あり)。

 よりて、あかりにて、見れば、眞黑(まつくろ)ぬりの箱に、萠黃(もえぎ)さなだの紐、つきし物なり。

 其中を、ひらき見しに、また、「かぶせ蓋(ぶた)」有て、ちりめんの「あわせふくさ」、又、「わた入(いれ)ふくさ」などに、丁寧に包(つつみ)たる中(なか)に、卵(たまご)より、少し、おほめなる玉(たま)入(いり)て有しが、手につかめば、人肌(ひとはだ)ぐらひ[やぶちゃん注:ママ。]に、あたゝかみ、有(あり)、おせば、少し、

「ふわふわ」

といふくらひ[やぶちゃん注:ママ。]にやわらかにて、手をはなせば、元のごとく、ふくれる物なりし、とぞ。

 何かは、しらず、とりて、懷中し、歸り、主用(あるじのよう)終りて後(のち)、部屋にて、ばくちをうちしに、座中、惣(そう)ざらい[やぶちゃん注:ママ。]をして、あくるひ、紋付など、其頃は、おほき物なりしを、いづれを、つけても、あたりしほどに、おもしろくおもひ、神明(しんめい)に行(ゆき)て富(とみ)[やぶちゃん注:富籤。]をつけしに、「一ノ富」にあたりて、百兩、取(とり)し、とぞ。

「誠に、ひろひし玉の奇特ならん。」

と、いひ合(あひ)しを、手狹(てぜま)なる家中(かちゆう)のこと故、だんだん、上へも聞えしかば、

「其玉を上(あげ)よ。」

と、いはれて、いだしたれば、取上(とりあげ)と成(なり)し、とぞ。

 ひそかに、公義へ、さし上られしとの事なり。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落してある。]

 其玉は、「天草陣(あまくさのじん)」の落城のあとに有(あり)しものにて、公義御寶物なりしを、如何してか、田沼が所持して有(あり)しほどに、めきめきと、立身出世せられしを、退役候後(のち)、御あらためあらん事を、おそれて、ひそかにすてしを、ひろひしものにて、内々(ないない)、公義、御たづねの品ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、早速、上られしと沙汰、仕(つかまつり)たりし。

 御城内へ、あらたに、御寶藏、立(たて)て、おさまりし、との事なり。

[やぶちゃん注:「57」で真葛は田沼意次について、以下のように評している(下線太字は私が附した)。「田沼とのもの守と申人は、一向、學文なき人にて有し。今の人は惡人のやうに思ど、文盲なばかり、わるい人では無りしが、其身、文盲より、書のよめる人は、氣味がわるく思われしかば、其時の公方樣をも、書に眼の明ぬ樣にそだて、上、御身ちかくへ、少しにても、學文せし人は、寄られざりし故、出世のぞみ有人は、書を見る事を、いみ嫌いし故なり。」。「悪い人ではない」と言うやや好評価であるのは、意外に感じられるが、それには、別に理由がある。実は、彼は仙台藩医であった真葛の父工藤平助と強い接点があったからである。詳しくは、平助の当該ウィキを見られたい。

「柳原」東京都千代田区の北東部で、神田川南岸の万世橋から浅草橋に至る地域の古くからの通称(グーグル・マップ・データ)。神田川右岸の通り。現在も「通り」名として「柳原通り」が残る。

「神明」現在の東京都港区芝大門一丁目にある芝神明宮(グーグル・マップ・データ)。公式サイトの「由緒」によれば、伊勢神宮の祭神である天照大御神(内宮)・豊受大神(外宮)の二柱を主祭神とし、鎮座は平安時代の寛弘二(一〇〇五)年、一条天皇の御代に創建されたとある。古くは飯倉神明宮・芝神明宮と称され、鎌倉時代には源頼朝の篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代には徳川幕府の篤い保護の下、大江戸の大産土神(うぶすながみ)として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を受けた、とある。江戸時代には富籤(とみくじ)興行が行われたことで知られる。]

只野真葛 むかしばなし (120) 折助のこと

 

一、「ぞうり取(とり)」を「折助(をりすけ)」とつけること、昔は世上一面(せじやういちめん)のことにて、ぞうりつかみて、ありくものをば、

「どこの折助ぞ。」

と、いひしなり。ワ、七ばかりのことなりし。ある下女(げぢよ)、他(ほか)の屋敷のぞうり取と、なじみ、戀したひしてい[やぶちゃん注:「體(てい)」。]、おかしかりしかば、

「折助どのは、なぜ、おそひ[やぶちゃん注:ママ。]。わらじができぬか、御門(ごもん)どめか。」

と、うたに作りて、うたひしが、大はやりと成(なり)、それより、いろいろ、下男のあざなを作りだし、「折助」とよばるゝ身には、氣の毒におもふこと、おほかりし故、一とう、其名をはぢることゝなりて、工藤家にても、やはり、ぞうり取は、「折助」といふが、通り名にて有(あり)しを、下男のかたより、

「何卒、折助の外(ほか)の名をつけ被ㇾ下度(たし)。」

と願(ねがひ)し故、やめたりし。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落している。]

 其ころの「地口(ぢぐち)あんどん」に、中元(ちゆうげん)[やぶちゃん注:「中間」に同じ。]が鍋を背おひし所を書(かき)て、

「折助どのは鍋をしよい」

と書(かき)しことも有し。

 又、「熊坂(くまさか)の長範《てうはん[やぶちゃん注:ママ。]》とおぼしき出(いで)だちの武者(むしや)、西瓜(すいか)みせへ、とび入(いり)、長刀(なぎなた)にて、西瓜を切(きり)し所を書(かき)て、

「うすあかどのとは夢にもしらず」

 また、大荒若衆(おほあらわかしゆ)の兩手に、深編笠をさし上(あげ)て、にらみし形(かたち)、腰より下は、ほそぼそと仕(したて)たる形、かうのづに、しのぶの裾模樣のふり袖にて、黑ぬりの駒下駄をはきし足つき、手とは、かわり[やぶちゃん注:ママ。]て、しなやかなり。上に、「鎌倉の權五郞かげまさ」。是等、なにとなく、をかしみ有(あり)て、其ころのできなりと、おぼへし。

[やぶちゃん注:「折助」江戸時代、武家に使われた中間(ちゅうげん)や小者(こもの)の異称・卑称である。「折公」「駄折助」などとも呼んだ。「折助根性」(折助が一般に持つ性質で、人の前では働くが、人の見ていない所では、極力、働かないでいようという、ずるい気持ちを言う卑称)や「折助凧(をりすけだこ)」(武家の下僕などが気どって歩くときにする、袂(たもと)の先を、中から、つかんで、袖を左右に引っぱった形に似せて作った凧。奴凧(やっこだこ))などの卑語が生まれた。また「奴」(やっこ)の語源も、この連中の本来の謂いである「家つ子(やつこ)」(やっこ)だとされている。「折」の語源は、小学館「日本国語大辞典」の「おりすけ」に、『⑴赤坂辺に住んでいたオリスケ(折助)という下男の名前から』、『⑵主人の後先になって立ち働く所作が、折句の題をおもわせるためか』、『⑶尻を端折ったような短いはっぴ姿に対するあだ名からか』とあった。

「地口あんどん」「地口行燈(灯)」。「ぢぐちあんどう」とも。地口を書いた行灯。多く、戯画を添えて描き、祭礼の折りなどに路傍や軒先などに掛けられた。「地口」。

「熊坂の長範」小学館「日本大百科全書」の「熊坂長範」によれば、『生没年不詳。平安末期の大盗賊。実在の人物として証拠だてるのは困難であるが、多数の古書に散見し、石川五右衛門と並び大泥棒の代名詞の観がある。出身地は信州熊坂山、加賀国の熊坂、信越の境(さかい)関川など諸説ある。逸話に』よれば、七『歳にして寺の蔵から財宝を盗み、それが病みつきになったという。長じて、山間に出没しては旅人を襲い、泥棒人生を送った』が、承安四(一一七四)年の『春、陸奥(むつ)に下る豪商金売吉次を美濃青墓(みのあおはか)の宿に夜討ちし、同道の牛若丸に討たれたとも伝わる。この盗賊撃退譚』『は、義経』『モチーフの一つではあるが、俗説の域を出ない。謡曲』「烏帽子折(えぼしおり)」や「熊坂」、能狂言「老武者」、歌舞伎狂言「熊坂長範物見松(ものみのまつ)」は『長範を扱って有名』とある。

「大荒若衆」滋賀県高島市新旭町安井川にある大荒比古(おおあらひこ)神社(明治初年までは「河内大明神」と称していた)の例祭「七川祭」(しちかわまつり:現在は五月四日に行われる)の若い衆によって行われる派手な「奴振り」(やっこぶり)を喩えたものだろうか。「うずら」さんのブログ「おかんのネタ帳」の「七川祭 奴振り」を見られたい。写真がある。

「かうのづ」は「香の圖」で、元来の意味である「源氏香の図」(五本の線を基本として、組香(くみこう)の違いを示したものから転じて、それを象った紋所、或いはそれを文様化したものを、ここでは指す。私は前面にそれを散らしたハンカチーフを持っている。知られたものでは、岩波書店版初版の「鏡花全集」の本体のデザインが、真っ先に浮かぶ。

「鎌倉の權五郞かげまさ」私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社」の注を参照されたい。]

2023/12/28

只野真葛 むかしばなし (119) 力士「谷風」と蕎麦食いを張り合った役者澤村宗十郎のこと

 

一、鐵山樣[やぶちゃん注:これは「徹山樣」の誤記。既に何度も注しているが、仙台藩第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)のこと。彼の戒名「叡明院殿徹山玄機大居士」に基づく。彼は宝暦六(一七五六)年七月、父宗村の死に伴い、家督を相続し(但し、当時、未だ十五歳であったため、若年を理由に、幕府より、国目付が派遣され、叔父の陸奥一関藩主田村村隆の後見を受けた)、寛政二(一七九〇)年に次男斉村(なりむら)に家督を譲って隠居した。]の御代に出(いで)しは「谷風」なり。

 近頃のこと故、人もしれば、かゝず。

 命、ながくて、世人(せじん)にしられたれど、「まる山」は、それにも、まさりしものならんが、其間、みじかゝりし故、江戶人なども、今は、しるもの、すくなかるべし。

 其世に名を得し澤村宗十郞、「まる山」と、そばの食(くひ)くらせしことも、人の、よく、しりし事なりしが、後(のち)は、しる人もなくなりぬべし。

[やぶちゃん注:前の「118」の横綱丸山に触発されて記されたもの。

「谷風」谷風梶之助(たにかぜかじのすけ 寛延三(一七五〇)年~寛政七(一七九五)年)は、「奥州ばなし 丸山 / (菊田喜大夫)」の「丸山」の最後にちらっと出るので、見られたい。注もしてある。事実上、史上初の実在した横綱である。

「澤村宗十郞」歌舞伎役者の四代目澤村宗十郎(天明四(一七八四)年~文化九(一八一三)年)。文化八(一八一一)年十一月、市村座において、四代目澤村宗十郎を襲名し、大当りをとったが、翌年十二月、病いにより没した。享年二十九。]

 此宗十郞、そば好(ずき)にて、手打の「そばみせ」を出(だ)し、狂言やすみの折(をり)は、其みせへ、女客、おほく來り、繁昌せし、とのことなりし。

「其頃、『おはなこま』といふ博打、はやりて、役者などの、もはら[やぶちゃん注:「專」。]、せしことなりしが、宗十郞、いつも『おはなこま』にまけると、駕(しのぐ)にも、かけおちして、舞臺を引(ひき)し時、御城女中(ごじやうぢよちゆう)[やぶちゃん注:江戸城大奥勤めの女中。]より合(あはせ)て、「つぐのひ金(きん)」して、舞臺へ、いだせし事、數度(すど)有(あり)し。」

と、ばゞ樣、常のはなしなりし。

[やぶちゃん注:サイト「ゲームの会ボードウォーク・コミュニティー」の「お花こま」に、『お花こま・お花コマ・お花独楽』とあり、『江戸時代に街角で行われた遊戯。六角柱の木材に心棒を付けた独楽で』六『つの側面に絵を描いてある。別にその』六『つの絵を描いた紙を用意し、これに賭け金を出させる。独楽を回し、回り終わって倒れた時に、書けた絵が上面に出ていれば賭け金の』四・五『倍程度の賞金が帰ってくる仕組み。絵柄が、お花半七、お染久松などが描かれていたので、お花独楽と言う』とあって、画像も載る。見られたい。]

 文化年中に「宗十郞」といひしが、「ぢゞ」にて、男ぶりよく、至極の風雅人にて有しとのはなしなり。

「役者の妻など、不義有(ある)事は、いさめがたし。」

とて、「女房」といふ名のつきし女、五人ばかり、常に、もちて、所々に、かこひおき、氣にむきたる所にとまり、其身、かへりて、間男(まをとこ)の氣どりにて、たのしみし、とのことなりし。

 上方へのぼるとて、いとまごひに海老藏方へ行(ゆき)し時、屁(へ)の出(いで)しを、

  ふつと立(たつ)顏にもみぢの置(おき)みやげ

と、いひしかば、

  餘りくさゝにはなむけもせず

と、海老藏つけし故、

「此歌にて、ことすみし。」

とて、其頃の世人、いひはやせしとて、ばゞ樣のはなしなり。

 宗十郞、俳諧上手にて、よき句ども、あまた有しとぞ。

  くどかれて火ばちのはいもうつくしく

などいふ、口つきなり。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」一時更新中止

本日、接続して判ったのだが、「国立国会図書館デジタルコレクション」は昨日より、一月四日までの間、「NDLオンライン」へのログインが休止しているため、当該底本を視認出来ないことから、更新を中止する。一月五日に再開する。

只野真葛 むかしばなし (118) 力士「丸山」

 

一、忠山樣御代に、御家老衆の徒步(かち)のものとなりてのぼりし内、權太左衞門といふ男、勝(すぐれ)たる大男にて有(あり)しが、江戶見物を願(ねがひ)て、供人となり、登りしに、大男のくせ、道下手(みちべた)にて、身は、おもし、一日に二足のわらじをふみ切(きり)しに、道中、出來合(できあひ)のわらじ、なく、宿へつきてより、我(わが)足にあふほどに作(つくり)て、はかねばならず、二足のわらじをつくるうちには、いつも御供ぞろひとなり、日中、つかれても、馬にのれば、足が下へ、つきて、ゆかれず、終日(ひねもす)、あゆみては、又、とまりには、わらじつくる故、やうやう、江戶まで來り、あくる年は、

『ぜひ、道中がならぬから、江戶にとゞまりたし。』

と思ひしを、世話やく人、有(あり)て、

「相撲(すまふ)になれ、」

と、すゝめし故、終(つひ)に相撲には成(なり)し、とぞ。

 是は、桑原ぢゞ樣、つとめ中(ちゆう)故、始終のこと、よく御ぞんじなりし、とぞ。

 いまだ、主人は、沙汰なしにて、内々、

「相撲に、ならん。」

といふかけ合(あひ)せし時、しごくの密談なるに、いくら聲をひそめても、喉(のど)、ふとく、大桶の底をたゝくごとくにて、

「權太左衞門、密談の事(こと)有(あり)。」

とは、その長屋中は申(まふす)におよばず、又々、隣(となり)の長屋までも、しれて有し、とぞ。

 手判(てはん)をおすに、半紙一枚ヘ、一ぱいにおされしを、大はやりにて、人々、もとめしほどに、一枚百文にうりし、とぞ。

 仙臺まる山といふ所の生(うまれ)なりし故、「まる山」と名のりしなり。

 一向、相撲の手をしらず、たゞ兩手にて、おしいだすに、こらへしもの、なかりし、とぞ。

 江戶・京・大坂を經て、長崎にいたり、「まる山」といふ所にて、死(しし)たりしは、おしきことなりし。

 仙臺「まる山」に生れて、長崎の「丸山」にて死せしも、不思議のことなり。

 御國(みくに)には、折々、名代の關取、いづる所なり。

[やぶちゃん注:「奥州ばなし 丸山 / (菊田喜大夫)」の「丸山」が同一人物の話であるが、こちらの方が、話が、しっかりしており、特に後の半分が、そちらには、ない。

「仙臺まる山」実在した第三代横綱とされる「丸山權太左衞門」は、上記リンク先の私の注を見られたいが、現在、彼の生地は、陸奥国遠田郡中津山村、現在の宮城県登米(とめ)市米山町(よねやままち)中津山(なかつやま:グーグル・マップ・データ。以下同じ)の出身とされている。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、「丸山」の地名はない。しかし、ここには旧「米山村」で、字名に「中津山」がある点で、「山」が入る地名ではある。なお、宮城県仙台市泉区野村丸山なら、ここにあり、ここは仙台市街の北直近で、真葛が、誰かに、東北弁で訛った発音で「むらやま」を「まるやま」と聴き違え、城下近くの知られる地名として、こちらに誤認した可能性があるようにも思われる。

「長崎」「まる山」古くから知られた花街であった。現在の長崎県長崎市丸山町(まるやままち)。なお、ウィキの「丸山権太左衛門」では、『死因は赤痢と言われている』とあるのだが、しかし、『日本庶民生活史料集成」版の中山栄子氏の注によれば、丸山は、『長崎で剣客を破り』、『怨みをか』って、『毒殺された』とあった。

只野真葛 むかしばなし (117) 力士「布引」と柔の使い手「佐藤浦之助」の勝負

 

一、靑山樣御代(みよ)に、「布引(ぬのびき)」といひし角力取(すまひとり)有(あり)しが、其由來は、ある時、

『ちからを、ためさん。』

と、おもひて、日本橋ヘ出(いで)て、くるまうしのはしり行(ゆく)を引(ひき)とゞめしに、牛は、はしりかゝるいきほひ、こなたは、大力にて、ひかへしを、引合(ひきあひ)て、くるま、中(なか)より、われて、左右へ、わかれし、とぞ。

[やぶちゃん注:「靑山樣」「伊達騒動」の火中を生きた仙台藩四代藩主伊達綱村。万治三(一六六〇)年七月、父綱宗の叔父に当たる伊達宗勝(陸奥一関藩主)の政治干渉や、家臣団の対立などの様々な要因が重なり、父が強制隠居させられ、僅か二歳(満年齢で一歳四ヶ月)で家督を相続し、元禄一六(一七〇三)年に養嗣子で従弟の吉村に後を譲って隠居した。]

 それより後(のち)は、牛の胸へ布をかけて引(ひき)しに、いつも、とゞまりし故、「布引」とは、つきしぞ。

「天下に、まれなる力士。」

と、いはれしを、茶の湯しゃ[やぶちゃん注:ママ。「ゃ」もママ。「茶の湯者」であろう。]の大名【六萬石ばかり】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、松浦(まつら)ちんさいと申御人(ごじん)かゝへに被ㇾ成て、

「凡(およそ)、天下に、我(わが)かゝへのすまふを、なげる人は、あらじ。」

と、自慢有(あり)しを、かねて靑山樣にも御じゆこん[やぶちゃん注:ママ。「御昵懇(ごぢつこん)」。]なりしうへ、御家中にも、かれ是、茶の弟子、有(あり)しとぞ。

[やぶちゃん注:「松浦ちんさい」肥前国平戸藩第四代藩主松浦重信(元和八(一六二二)年~元禄一六(一七〇三)年)。隠居後に諱を、曾祖父と同じ鎮信(しげのぶ)へと改めており、その漢字表記の方が知られているが、ここの出る「ちんさい」の号は確認出来ない。彼は「甲子夜話」で知られる松浦(静山)清の事実上の五祖父である。

 以下は底本でも改段落してある。]

 靑山樣、仰出(おほせいだ)さるゝは、

「御家中に『布引』を、なげんとおもふ、おぼえのものあらば、申(まふし)いでよ。」

と、御(おん)ふれ、有(あり)しに、村方の役人とか、つとめし人に、佐藤浦之助といへ[やぶちゃん注:ママ。]しもの、小兵(こ《ひやう》)にて、大力の柔(やはら)とりにて有しが、

「拙者こと、ひしと、かゝり柔《やはら》鍛鍊(たんれん)仕(つかまつ)りなば、なげ申べし。」

と、申上たりしを、

「さあらば。」

とて、けいこ被仰付、其内は、日々、鴨二羽を食(しよく)に給(たまは)りし、とぞ。

 日(ひ)有(あり)て、

『わざも、熟したり。』

と、おもひしかば、そのよしを申上し時、松浦へ仰入(おほせいれ)らるゝは、

「手前家中に『布引』と力をこゝろ見たしと願(ねがふ)ものゝ候。いかゞしきことながら、くるしからずおもはれなば、御なぐさみながら勝負を御覽候わんや[やぶちゃん注:ママ。]。」

と被仰遣しに、もとより、角力好(すまひずき)の松浦なれば、

「興(けう)有(ある)事。」

と悅(よろこび)て、

「いそぎ、こなたへ被ㇾ遣よ。」

と、挨拶有(あり)しかば、浦之助を被ㇾ遣しに、

『あなたは、名におふ關取なり。こなたは、常より、小ひよう[やぶちゃん注:ママ。]にて、いかでか、是が勝(かつ)べきぞ。』

と、たちおふ事さへ、おかしきほどに、人々、おもひしに、

「ひらりひらり」

と、ぬけくゞりて、中々、布引が手にのらず、いかゞはしけん、大男をかつぎて、

「ひらり」

と、なげり[やぶちゃん注:ママ。]たりけり。

 人々、案に相違して、おどろき、ほめて有し、とぞ【浦之助は、「大ひよう[やぶちゃん注:ママ。]大力の男にとらへられては、必定、まけなり。」とて、工夫して、手にとられぬやうに、立𢌞(たちまは)りし、とぞ。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 松浦殿、興に入(いり)、

「すぐすぐ、是(これ)へ、是へ。」

とて、浦之助を、はだかのまゝ、女中なみ居(をり)し奧坐敷へ、とほされ、側(そば)ちかく、めされて、

「今日のふるまひ、誠におどろき入(いり)たり。是は、いかゞしけれども、つかはす。」

とて、二重切(にぢゆうぎり)の花生(はないけ)【名器なり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。「二重切」は竹の花入れの一種で、二つの節の間に、各々、窓をあけ、水溜めも二ヶ所つけたもの。利休の創始による。]を手づから賜り、

「さて、此座にある女のうち、いづれにても、其方が心にかなひしを、妻に、つかはすべし。いざいざ、のぞめ。」

と有(あり)ければ、いなかそだちの無骨もの、女中なみ居しまん中へ、まるはだかにて、引(ひき)いだされ、おもひがけなき御ことばに、當感して有(あり)けるが、

『見めよき女は、我に、一生、つれそうまじ。』

と、おもひて、一番みにくきも[やぶちゃん注:ママ。衍字であろう。]顏の女を望みて、かへりし、とぞ。

 さてこそ、浦之助を、「日の下(もと)かいざん」とは、つけられし、とぞ。「布引」は、浦之助に、やわらの手にて、なげられしを、生涯、『むねん。』にて有(あり)し、とぞ。

[やぶちゃん注:この話、「奥州ばなし」にも「佐藤浦之助」として同話が載る。そちらの注を見られたい。]

只野真葛 むかしばなし (116) 仇討ち二話

 

一、長井工藤のぢゞ樣がた、むかしなじみの人に、父のあだを打(うち)、後(のち)に醫となりし人、兩人、有(あり)しが、いづれも、骨、ふとく、大男、力もさぞ有べし。醫は、餘り、上手にては、なかりし、とぞ。

 其内、壱人の、つたひは、あだをねらう身なれば、常にさして、おもし、と、思ふほどの刀をさして居(をり)たりし、とぞ。

 しかるに、大坂の町中にて、あるとき、ふと、敵(かたき)に行合(ゆきあひ)、なのりかけて、立(たち)あひしが、日暮のことなりしに、このていを見るより、兩側(りやうがは)の町屋にては、

「ひし」

と、戶をさして、いづる人、なし。

 雨は、しきりに、ふりまさるに、二うち、三打、うちあふ内に、くらくなりて、たがひにけわひ[やぶちゃん注:ママ。「氣配」。]を、めがけて、うつことなりしに、常に、おもしと、おもふ刀の、かろきこと、手に持(もち)しやうにも、なかりしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、

『あやしや、俺も、死つるか。』

と、つば本(もと)より、先迄、みねを引(ひき)て見し内、切りこまれたる太刀より、うけだちと成(なり)て、はなはだ、あやふく、隅の所へ、おしつけられ、すで一うちとなるべき時、いさゝか、計略をめぐらし、

「着ごみをきてゐるから、脚を、なぐれ。」

と言葉をかけし故、すけだち、有(ある)や【かたきの心なり。】[やぶちゃん注:底本に『原傍註』とある。]

と、後(うしろ)を見かへる時、きりつけて、仕(し)とめたり、とぞ。

 誠に、この一言にて勝(かち)とは成(なり)しなり【「かゝる急難に逢(あひ)し内、か樣(やう)の一言(ひとこと)は、中々、今時(いまどき)の人の出(いで)まじきことなり。」と、父樣、常に被ㇾ仰し。】[やぶちゃん注:底本に『原傍註』とある。]。

 其時、數(す)ケ所、きずをうけ、右のうでを、きられしが、筋(すぢ)へかゝり、不自由に成(なり)て、刀をふること、あたわねば[やぶちゃん注:ママ。]、醫とは、なりし、とぞ。

 大音にて、玄關より、

「お見舞申(まふす)。」

といふ聲、家内にひゞきし、とぞ。

 今壱人は、六、七萬石の大名の家中なりしが、殿、御年、若く、劍術をこのませられ、新參の劍術者を、御取立(おとりたて)有(あり)て、家老に被ㇾ成(なされ)しより、元來、よろしからぬものにて、譜代の忠臣・老臣を、いみて、過半、是がために讒《ざん》せられし中(なか)に、廿餘(はたちあまり)のせがれに、劍術を、よくして、大力大兵(たい《ひやう》)のもの、有しを、父子共に、いまれて、御いとま出(いで)し、とぞ。

 さて、殿は、大坂御城代を仰蒙(おほせかふむ)らせられて、かの惡家老(わるがらう)も、供にめしつれられて、御立(おたち)有し夜(よ)、浪人せし老臣、せがれを、めしつれ、御門前にいたり、石に腰をかけ、

「さて。汝に、いひおくこと有(あり)。殿、新參佞人(《ねい》じん)にまよわせられ、忠臣を、うしなはるゝこと、なげくに、たえず。あの佞人を打(うつ)て、すてたくおもひ[やぶちゃん注:ママ。]ども、年老たれば、彼に及びがたきを、はかる間に、浪々の身とまでなりしは、無念のいたりなり。汝は、天晴(あつぱれ)、かれを打(うつ)べき力量あれば、是より、すぐに追付(おひつけ)、佞人を、打(うつ)て、我(わが)無念を、はらさせよ。おしからぬ命は、今、汝を、はげますために、絕つぞ。」

とて、もろはだぬぎて、腹、切(きり)ながらも、

「少しも、はやく、佞人を打(うつ)て、我我(われわれ)、まうしう[やぶちゃん注:ママ。「妄執」で「まうしふ」が正しい。]を、はらさせよ。死がいは、此まゝ、すておくべし。

人の見付(みつけ)て、『おもふ心、有(あり)』とは、沙汰すべし。」

とて、息、たえたり。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落してある。]

 一子は、此ていを見て、無念のおもひ、もゆるがごとく、少しも早くとはおもへども、一日(いちにち)路(みち)おくれし事故(ゆゑ)、是非なく、旅用意を、とゝのへて、道中を追(おひ)かけしが、便(びん)あしくして、道にては、出(いで)あはず。

 大坂にいたりては、每日、大手をうかゞひしに、かの家老、美々しく出いで)たちて、馬にうちのり、城門を出(いで)しを見かけ、心、悅(よろこび)、太刀をぬいて、おどりいで、先(せん)がち[やぶちゃん注:「先徒歩(せんがち)」。]の中へ、きりいりしに、廿人餘(あまり)の供廻り、壱人も、敵(てき)するもの、なく、皆、ちりぢりに、にげさりて、かたき壱人(ひとり)となりし時、大聲、あげて名のるは、

「我は、是(これ)、其方(そのはう)がために、ざんせられて、浪人せし、何の何がしが悴《せがれ》なり。父は、其方をうらみて、過(すぎ)し御出立(おんしゅつたつ)の夜(よ)、御門前にて、切腹して、相(あひ)はてたり。父のかたき、のがさず。」

と、切(きつ)てかゝりしかば、さすが、劍術者ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、臆する色なく、馬上ながら、わたり合(あひ)しを、馬のもろ膝(ひざ)、なぐつて、引(ひき)おろし、徒步(かち)だちとなりて、しばしは敵《てき》も仕合(しあはせ)しが、孝子は、終(つひ)にうちかちて、首(くび)をかきしぞ、いさましき。

 此勝負は、至(いたつ)て、はれなことにて有(あり)し、とぞ。

 大坂御城前の廣場故(ゆゑ)、近よる人こそ、なけれ、四方は、人ぶすまを作りて、見物せしが、首、引提(ふつさげ)て、立上(たちあが)り、

「ことの由(よし)をうつたへん。」

と、奉行所、さして行(ゆく)あとへ、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり、へだちて見物の人、おして來(きた)るどよめきは、芝居の打(うち)だしのごとくなりし、とぞ。

 日も暮(くれ)しかば、手々(てんで)にて、提燈、さげて、したひくるを、

『いかゞするとぞ。』

と、こゝろ見に、ふみとまれば、數人(すにん)も、とどまり、あゆめば、また、追(おひ)くる故、あとへ、少し、もどりしかば、

「ワツ。」

ト、いふて、にげちるてい、おもしろきことゝおもひて、度々(たびたび)、後(うしろ)をふりむき、刀を、ふりなどして、おどしたりし、とぞ。

 さて、奉行所へ、いりて、ことのよしを、つぶさに申上(まふしあげ)しに、隨分、ていねいなるとりあつかひにて、落着(おちつく)までは、「預り」に成(なり)て有(あり)しに、

『人も、いやしめねば、よし。』

と、おもひて有しを、

「明日、落着(らくちやく)。」

と聞(きき)し時より、段(だん)おちして、「斬罪《ざんざい》」のもののあしらひと成(なり)し故、

『命(いのち)おしき事は、なけれど、「しばり首」きられんは、無念、いたり。』

と思へ、其夜、風呂に入(はいり)し時、ゆかた一枚にて、手ぬぐひを、帶となし、風呂屋をぬけて、出(いで)たりしが、やゝありて、追手(おつて)のかゝるていなりし故、藪にかゞみて、やうすを見しに、兩三度、其前を過(すぎ)しが、藪の中まで、さがすていにもなかりしかば、藪ごしに街道へ出(いで)しが、折ふし、極寒の夜なるに、湯上りといひ、ひとへにて、寒氣、絕(たえ)がたくおもひし時、むかふより、侍、壱人、來りしを、とらへて、

「我は、是(これ)、おとにも聞及(ききおよび)つらん、このほど、父のあだをうちし何の何がしなり。明日(あす)、『しばり首』きられんよし、聞(きき)し故、無念におもひてたちのくなり。其方、衣服・大小、申(まふし)うけたし。もし、異議におよばゞ、命迄ももらわねば[やぶちゃん注:ママ。]、ならず。」

と、いひければ、ふるひ、ふるひ、衣類・大小を、わたしたりし故、身の𢌞りを、こしらへ、夜明(よあけ)て見れば、大小、氣にいらぬ故、刀屋(かたなや)の見世(みせ)へ、いりて、始(はじめ)のごとく、なのり、

「此大小、とりかへもらひたし。」

と云(いひ)ければ、亭主は、おずおず、あまたの大小を、いだしたるを、

「するり」

と、ぬいて下に置(おき)、又、ぬいては、おきおきして、刄物(はもの)を、殘らず、ぬきならべ、其内にて、心にかなひしをとりてさし出行(いでゆき)しに、一言も、いふことなかりし、とぞ。

 後(のち)に聞(きけ)ば、ぬきたりし刄物を、四、五日は、おめる[やぶちゃん注:ママ。『日本庶民生活史料集成』版では、『おさめる』(ママ)である。]人、なくて、大坂中の人、見物に來りし、とぞ。

「大坂人は、ものおぢする。」

と、いへば、さぞ、あらんかし。

只野真葛 むかしばなし (116) 深川の異次元

 

一、築地の時分、「せうか」といふ野太鼓と、町の名主と、二人づれにて來り、夕方より、はなしごと有(あり)し時、父樣、手本(てもと)に、むだづかひにして、よき、かね、有しを、兩人に、つかはされ、

「いづかたへぞ、遊びに、ゆけ。」

と被ㇾ仰しかば、大きに悅(よろこび)、すぐに、深川へ行(ゆき)し、とぞ。

 いづくよりも繁華にて、しごく、兩人とも、もてたることにて、大うかれにて、翌晚、來りて、はなしに、

「いや、近頃におぼへぬことなりし。料理の結構さ、中々、つとめなしに、あればかりでも、やすき事。」[やぶちゃん注:「つとめなし」「自分の仕(し)まわしたのではない金ではなしに」の意か。]

とて、一晚、その夜の、おもしろかりし、はなしゝて、歸りしが、名主のかいたる女、「お長」とやらいひしを、其夜のもてなし、わすれかねて、二、三日、立(たつ)て、

「深川へ行(ゆく)。」

とて、舟をかりしに、舟宿のもの、あやしみて、

「あの燒原《やけわら[やぶちゃん注:ママ。]》へ、何しにお出被ㇾ成まし[やぶちゃん注:ママ。『日本庶民生活史料集成』版では「まし」は『ます』である。]。『ばけ物が、でる。』とて、日がくれてからは、誰(たれ)も、參りません。」

と、いはれて、おもへば、廿日ばかり先に、地步(じほ)、はらつて、やけし、あとなり。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落となっている。]

 其火事は、江戶中の人、しらぬ事、なし。

 さりながら、まさしく、このほど見しけしき故、餘り合點ゆかず、無理に行(ゆき)て、みた所が、有(あり)しにかはる、燒原(やけはら)なり。

「そこよ、爰(ここ)よ、」

と、少し、人のゐる所へ行(ゆき)て聞(きく)に、

「『お長』といふ女は、なし。」

と、ばかり、こたへしが、小屋がけの髮結床(かみゆひどこ)に、七十ばかりのぢゞの居(ゐ)たりしが、聞(きき)て、

「はて、かはつた名を聞(きく)人だ。むかし、『お長』といふ女が、深川一番のもので有(あつ)たが、賊に逢(あひ)て、ころされてから、誰(たれ)も其名はつぎませんが、火事について、もし、其(その)ゆふれい[やぶちゃん注:ママ。]でも、出たか。」

と、いはれし。

「うすきみわるく、すごすご、歸りし。」

と、其後(そののち)、來りての、はなしなりし。

 父樣にも、はじめに御聞被ㇾ成し時、

「大火の事を、おもひいでざりしは、ばけ物の、とばしり、かゝりしや。何を食(くふ)て、『うまし。』と、おもひしや。ふしぎこと。」

と、仰(おほせ)し。

[やぶちゃん注:「とばしり、かゝりしや」「かの二人だけでなく、私(父平助)も、その化け物に、とばっちりを掛けられた、食らったものか。」という意味であろう。]

只野真葛 むかしばなし (115) 腑分け後の怪異

 

一、父さま、いまだ、獨身にて有(あり)し時、解體(かいたい)の師に付(つき)て、とが人の、どうを、かついで、俯分(ふわけ)をしに、先生と、同門弟、四、五人づれにて、鈴が森に御出(おいで)有しに、十月末にて、から風、吹(ふき)、さむき夜中、死人をいろいろに、とき、さばき、見おわりて[やぶちゃん注:ママ。]、

「家へ、かへるよりは。」

とて、いづれも、品川に行(ゆき)、あそびしに、女郞共、何か、そはそはとして、おちつかぬていなりしが、寢(いね)さまに、茶わんにて、酒、二、三盃のみて、ふしたりし、とぞ。

『酒の好(すき)な女か。』

と、おもひて、御出(おいで)有しが、一寢(ひとね)ねて、目のさめし時、枕の上にて、ほととぎすの聲せしが、

『軒(のき)ぎわ[やぶちゃん注:ママ。]か、もしは、廊下内(うち)か。』

と、おもふほど、ちかゝりしを、聞(きく)とひとしく、女郞は、

「ひつ。」

と、いふて、すがりつきし、とぞ。

「夜のあくるやいな、いづれもかへりしが、家に來りてよく考(かんがふ)るに、時鳥(ほととぎす)の鳴(なく)時節ならず、女郞ども、はじめのそぶりも、たゞならず、何か、變のある家にて、有(あり)しならんに、其一座の客、いづれも、死人くさかりしなども、女郞共の方にては、『いや』に、おもひしならん。」

と被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:小さな異変は、それ自体はたいした怪異ではないが、全体がブラック・ボックスとなっている不思議な怪奇実談となっていて、なかなかに興味をそそる。]

只野真葛 むかしばなし (114) 茶坊主「近藤いせん」の事

 

一、公義御(お)ぼうづ、「近藤いせん」といひしは、數代(すだい)、富家(ふけ)にて、今の「いせん」が、ぢゞの代までは、誠にさかんのことなりし、とぞ【家居(いへゐ)のけつかう[やぶちゃん注:ママ。]、酒は、甘(あま)に、辛(から)に二樽ヅヽ、常に、たくわひ[やぶちゃん注:ママ。]、「百樹(はくじゆ)」といひし「いせん」は若且那とて、常に八丈そろひの衣類にて、はなはだ、おごりのことなりし、とぞ。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

[やぶちゃん注:「近藤いせん」不詳。]

 其「いせん」は、中年にて死し、若世(わかよ)[やぶちゃん注:若主人の支配する時代。]に成(なり)て、とりしまり、なく、其頃は、田沼世界にて、ばくゑきの制、ゆるく、家ごとにして、とがめなかりしかば、人々、あつまりて、ばくちに夜をあかす事、つねなりし故、茶の間に、こたつをして置(おき)、下女は、大方、それにあたりて、夜をあかすことなりしに、ふと、「いせん」、

「用たしに行(ゆく)。」

とて、茶の間を、とほりしに、下女と、むかひ合(あひ)に、こたつにあたりて、ねむりたる男、有(あり)し故、立(たち)どまり、見るに、兩人共、たわひなく[やぶちゃん注:ママ。]寢入(ねいり)て有しが、一向、見なれぬ男なりし故、ゆりおこして、

「いづくより、來りしものぞ。」

と、たづぬるに、ふつゝかなる挨拶なりしを、おして、とへば、

「御隱居樣方へ、金の出入(でいり)にて、つかひにたのまれ參りしが、餘り、手間どれ候間(あひだ)、一寸、此火に、あたり、寢(ね)わすれし。」

と、いひて、誤り入(いれ)して、いにして有(あり)しに、下女も、一向、しらぬ人故(ゆゑ)、目、さめ、おどろきて有(あり)し、とぞ。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落している。]

 隱居といふは、「いせん」ぢゞ夫婦にて、別家にすみて、「ほまち金(がね)」を廻して、隱居料とせし故、えしれぬ人のいりくるは、常の事ながら、たのまれし人の名をかたらぬ故、隱居へ人を聞(きき)につかわす[やぶちゃん注:ママ。]間(あひだ)、番人をつけて置(おき)しに、其男の仕度(したく)、白き手おひに、脚絆かけて、旅出立(たびいでたち)のていなりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「ほまち金」ここでは「へそくり」或いは「定収入以外に得た臨時収入」の意。「外持金」とも書く。平凡社「改訂新版 世界大百科事典」によれば、本来は、主として東国で、河原や河川の中州などに開かれた小規模な耕地を指して言った。「ほまち田」とも称し、洪水などの被害に遭いやすいところに開墾されていたので、不安定な収穫しか得られぬ劣悪な耕地であった。年貢の賦課される田地の売券には、田数が明記されるのに対し、「ほまち田」の場合は「ほまち田一枚」とか「何斗蒔」(なんとまき)と記されるのみであり、領主の関心外の耕地であったと考えられている。小百姓や下人たちが、主人の目を盗んでか、或いは、余暇の労働によって開墾し、生活の資としたり、その自立・成長の基礎とした場合が多かったと思われる。それが、近世になって、秘かに蓄えた金銭や、定収入以外に得た臨時収入をも意味するようになった。西国では、これを「まつぼり」といい、例えば、近江甲賀郡の「山中文書」には「まちほり」の用例がみられる、とあった。]

 番人に、むかひて、いふは、

「小水(しやうすい)[やぶちゃん注:小便。]、つまりし間(あひだ)、御面倒ながら、一寸、外へ、ついて行(ゆき)て被ㇾ下。」

といふ故、戶を明(あけ)ておもてへ、つれ行(ゆき)し時、のし立(だて)の塀へ、手をかくるやいな、

「ひらり」

と上(あが)りて、飛鳥(ひてう)のごとく、いづちへかに、げさりし、とぞ。

「扨こそ、あやしきものにたがひなし。」

といひおる内、隱居へ、やりし人、かへりきて、

「一向、隱居にても、おぼえなきよし。」

を、いひし、とぞ。

 茶の間のこたつのわきに、野太刀(のだち)と紙入(かみいれ)を置(おき)て行(ゆき)し故、其刀をぬきて、みたれば、今がた、人をあやめしと見へて、つば本(もと)まで、なまなましき、血、つきて有しを見て、いづれも、おそれ居(をり)しに、かみ入を、あらためし時、けつかうなる香疊(かうだたみ)、有(あり)しを見て、「いせん」、色を、かへて、いふは、

「其(その)たとうは、先年、くらのやじりをきりて入(いり)し『ぬす人』、あまたの品をとりし時、ひとつにとられし疊なり。しからば、その時、いりしぬす人の、また、あだ、しに、來りしならん。」

とて、殊の外、おそれて有し、とぞ。

 年頃、三十七、八、未(いまだ)四十には、ならじ、と、見ゆる男なりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「香疊」とは「香木」・「香包」(こうづつみ)・「香箸」(こうばし)・「銀挟(ばさ)み」などの香道具を包む畳紙(たとうがみ)。「こうたとう」とも言う。単に「たとう」とも呼ぶ。]

只野真葛 むかしばなし (113) 藤上検校の凄絶な体験

 

一、生田流の琴の上手、「藤上(ふじへ)」といひし盲目【後(のち)は検校《けんぎやう》になりしや。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、其はじめ、越後の國より、夫婦づれにて、五才の男子をつれて、江戶をこゝろざしのぽりしに、道にて、行(ゆき)くれ、辻堂に一宿せし時、夜中、狼、二(ふたつ)、來りて、五才のせがれと、妻女をくらひし、とぞ。

 妻の、おそれて、泣(なき)さけぶ聲のふびんさ、かなしさ、息もたへて後(のち)、骨を、

「ひしひし」

と、くらふ音のすごさ、わびしさ、聞(きく)にしのびず、はらわたをたつ思ひなりしが、盲目のかなしさ、たすけんかたもなく、懷劍の、ぬき持(もち)て、少しも、うごかず、座(ざ)して有(あり)しに、狼は、あだせざりしとぞ【盲目故に、かひりて[やぶちゃん注:ママ。]、命、たすかりしものなるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 夜の、あくるを、まちて、所のものを賴(たのみ)、供養・囘向など、あるべきかぎりして、淚ながらに、壱人、すごすご、江戶にのぽり、段々、修行して後(のち)、一名を天下にしられしが、琴の弟子どもをあつめては、いく度(たび)も、いく度も、辻堂の物がたりをして、人も、

「かほどの難に逢(あふ)ものか。妻子の、かなしむ聲、骨をかみひしぎし音など、耳に、のこりて、わするゝ世(よ)、なし。」

と、いひし、とぞ。心中(しんちゆう)、おもひやられしことなり【後々までも、犬の魚の骨をくらふ音、きらひにて有(あり)しと、きゝし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

[やぶちゃん注:「藤上」「藤植(ふじへ:現代仮名遣「ふじえ」)検校」。十八世紀半ばに活躍した盲人音楽家。「藤上」とも書く。都名(いちな:琵琶法師などが自身につけた名。名前の最後に「一」・「市」・「都」などの字がつく。特に、鎌倉末期の如一 (にょいち) を祖とする平曲の流派は、「一」名(な)をつけるので、「一方 (いちかた) 流」と呼ばれた。後、広く一般の盲人も用いた)は喜古一。元文元(一七三六)年、岡永検校「わさ一」のもとで、検校に登官し、胡弓の弦数を三弦から四弦に改め(第三・第四弦同調律の複弦)、以後、この四弦胡弓による胡弓音楽が、江戸で「藤植流」として普及した。「栄(さかえ)獅子」・「越天楽」・「鶴の巣籠」などの本曲十二曲のほか、「岡康(安)砧」・「松竹梅」も本曲として加えられている。「山田流」箏曲と結びついて、その三曲合奏の胡弓のパートを外曲として伝承された。藤植の名は、元幸一・親朦一・植一・光孝一・寿軒一・和専一などに受け継がれ、植一は第七十一代「江戸惣録」を務めた。「藤植流」は、第七代「藤植」を称した植(上)崎秋峰から、近現代の山室保嘉・山室千代子へと伝承され、千代子の門下が「千代見会」を結成し、その保存に努めている(所持する平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

只野真葛 むかしばなし (112) 与四郎と狂える狼の戦い

 

一、柴田郡支倉(はせくら)村の内、宿(しゆく)といふ所の百姓に、與四郞といふもの有し。生付(うまれつき)、氣丈にて、力、勝(すぐれ)て、つよく、齒の達者なること、から胡桃(くるみ)を、くひわりなどして、近鄕にならびなかりし、とぞ。

[やぶちゃん注:先に言っておくと、本話は「奥州ばなし」に「與四郞」として同話があり、そこで、かなりリキを入れて注もしてあるので、本話を読んだ後に見られたい。

「柴田郡支倉村の内、宿といふ所」現在の宮城県柴田郡川崎町(かわさきまち)支倉宿(はせくらしゅく:グーグル・マップ・データ)

 なお、以下は底本でも改段落している。]

 寬政の頃、十二月末に、病狼(やみおほかみ)、あれて、宿の町のものども、數人(すにん)、あやめられしこと、有(あり)。

[やぶちゃん注:「寬政の頃」「十二月末」天明九年一月二十五日(グレゴリオ暦一七八九年二月十九日)に改元し、寛政十三年二月五日(同一八〇一年三月十九日)に享和に改元しているので、寛政元年から寛政十二年の閉区間の旧暦十二月となる。但し、旧暦十二月末はグレゴリオ暦では総て翌年になるので、一九九〇年から一八〇一年の内となる。]

 其頃、與四郞、外(ほか)へ、夜ばなしに行(ゆき)て、九ツ[やぶちゃん注:午前零時。]頃かへるに、折ふし、眞(しん)の闇なりしが、何心もなく、小唄にて行(ゆく)うしろより、狼、出(いで)て、腓《こむら》を、くひたり。

「ハツ。」

ト、ふりむくうち、乳の下をくひ、又、とびこして、あばらの下を、くひし時、狼と心付(こころづき)、聲を、あげて、

「やれ、與四郞は、狼に、くはるゝぞ。たすけてくれ、たすけてくれ、」

と、よばわり[やぶちゃん注:ママ。]しかども、夜更(よふけ)といひ、たまたま聞付(ききつけ)る、人、有(あり)ても、おそれて、いであはず、前後左右より、くはるゝこと、數(す)ケ所なり。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落している。]

『此身は、くひころさるゝとも、やはり、敵《かたき》とらで、はてめや。』

と、おもへども、羽(はね)有(ある)ごとく、とびのき、とび付く、ひつく[やぶちゃん注:「引(ひ)つ付く」。]に、棒一本も持(もた)ざれば、せんかたなく、手にさわる時、とらへて、引(ひき)しき[やぶちゃん注:引っしぎ。]、膝をかけて、四足(よつあし)をおし折(をり)、おし折せしほどに、三本までは、折たれども、壱本にて、とびありき、くひつくこと、やまず。漸(やうやう)、壱本のあしを、とりし時、頤《おとがひ》ヘくひ付(つき)しを、兩手にて、引(ひき)なせば、肉まで、はなれしとき、狼の、のんどに、與四郞、くひ付(つき)て、やゝしばらくかゝりて、喉のかみをくひ切(きり)、かたきをとりし、とぞ。

 與四郞は、惣身(そうみ)、血潮(ちしほ)にそまらぬ所、なし。

 其あたりの戶を、たゝき、

「狼は、仕(し)とめたれば、心づかひ、なし。明(あけ)よ、明よ、」

と、いひし故、やうやう、明たる所に入(いり)て、かひほう[やぶちゃん注:ママ。「介抱(かいはう)」。]に逢(あひ)、夜(よ)のあくるを、まちて、長町といふ所に、狼に、くはれたるを、よく療治する醫師あれば、それが方へ行(ゆく)て、傷口をあらためしに、四十八ケ所、有しとぞ。

[やぶちゃん注:「長町」宮城県仙台市太白区長町(ながまち:グーグル・マップ・データ)。「支倉宿」とは直線でも十八キロメートル離れている。

 なお、以下は底本でも改段落している。]

 醫の曰く、

「かほど、くはれし人を、見しこと、なし。數ケ所の内には、急所かゝる所も見ゆれば、療治、屆(とどく)や、いなや、うけ合(あひ)がたけれど、先(まづ)。」

とて、取(とり)かゝる。

 其仕方(しかた)は、狼にくはれたる所を、くりぬきて、艾《もぐさ》をねぢこみ、灸を、度々(たびたび)、すゑる[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]ことのよし。

 四十八所のきず口へ、十分に灸をせし内、與四郞は、ひるめる色なく、こらへて有しとぞ。

 醫師、おもふほど、療治をして、此氣丈を感じ、

「今迄、數人(すにん)、療治せしが、只、一、二ケ所のきずにさへ、人參をのませながら、灸治するに、氣絕せぬものは、すくなし。五十にちかき疵口を、始終、かほど、たしかにて、療用うけしは、前後にまれなる氣丈もの。」

と、ほめしとぞ。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落している。]

「大毒[やぶちゃん注:ママ。以下、意味が通じないが、ここは「奥州ばなし」では、『犬毒』(けんどく)となっているので、真葛の誤記である。]も、のきたれば、よし。是より、禁物(きんもつ)、大切なり。第一に、ます・雉子(きじ)・小豆餠(あづきもち)なり。其外、油のつよきもの、みな、いむべし。」

と、いはれて、

「私事は下戶にて候へば、もち、大好(だいすき)なり。小豆餠、くわぬ事にては、生(いき)たるかひ、なし。左樣なら、今までの如く、灸を、また、一ペんすゑなば、早速より、禁物なしとも、よからんや。」

と聞(きき)し、とぞ。

 醫の曰(いはく)、

「いや。さやうに、やきたりとて、禁物なしに、よき事には、あらず。先々(まづまづ)、かへれ。」

とて、歸しけるに、正月も、ちかし、三十日もたゝぬ内、餠つきとなりしに、與四郞、こらへず、小豆餠、たくさんに、くひしが、少しも、さわら[やぶちゃん注:ママ。]ざりし、とぞ。

 雉子・ますなども、ほしきまゝに食(くひ)しが、まなこ、くらく成(なり)し故、

「一向、めくらに成(なり)ても、せん、なし。」

とて、後(のち)は、くはざりし、とぞ。

 此文化九年の頃は、五十二、三なりしが、達者にて有し、とぞ。

 是より、五、六年過(すぎ)て、又、狼、あれるといふ事、有しに、おなじ村の百姓に劍術をこのみて、たしなみしもの有しに、狼を切(きる)法【狼をきるには、左の手を出(だ)して行(ゆく)ば、それを、くらはんと來(きた)る時、手を引(ひき)て、きれば、見事にきらるゝと、おしへられしとぞ。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]を習(ならひ)しを、一度、ためし見たく、内心、願(ねがひ)しに、親類うちに、ふるまひ有(あり)て、夫婦づれにて出(いで)しこと有しに、家人は、

「かならず、早く、日のくれぬうち、かへれ。」

と、いひつけやりしかば、妻は、殊に、おそれて、先(さき)をも[やぶちゃん注:「奥州ばなし」では、『先方をも』となっている。これだと、「先方の親類も振舞いを(早々に終らし)」の意で続き、躓かない。]、早く仕舞(しまひ)て、七ツ時分、かへりしに、むかふに、狼、見へし故、少々、道を𢌞りて、かへりしが、家に入(いり)て、夫(を)ツトは、妻をおくと、すぐに、わきざしをもちて出行(いでゆく)を、

「かならず、けが、するな。」

と、とゞめしかども、きかず、

「ぜひ、きりて見たし。」

とて、出(いで)し、とぞ。

 はじめの所に行(ゆき)て見しに、たゞ、すくみて居(をり)たるを見て、脇差を、ぬきもちて、左の手を、いだして、ちかよれば、十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]ばかりに成し時、狼は、背をたてゝ、胸を地に付(つけ)、こなたを、めがけ、ねらふていなり。

『うごかば、きらん。』

と、心をくばり、よせしに、八間[やぶちゃん注:十四・五四メートル。]ばかりになりし時、とび來りて、手に、くひつきしが、一向、目に、さへぎらず、引(ひき)かねて、手をくはれながら、きりたり。

 かしら、そげて、おちしが、口は手に付(つき)て有しを、

『先(まづ)、仕とめたれば、よし。』

と、おもひ、後(うし)足に、なわ[やぶちゃん注:ママ。]をつけて、引(ひき)ながら、與四郞は、四十八ケ所、くわれてさへ、生(いき)おほせしを、

「只、一ケ所なれば、心やすし。」

と、おちつきて、かへると、すぐに、醫のもとに行(ゆき)、療治、たのしみが、一ケ所の灸治さへ氣絕して、おもふほど、療治、なりがたく、廿日もめぐらず、死(しし)たり、とぞ。

只野真葛 むかしばなし (111) 菅野三郎左衛門、山女に逢う

 

一、手前家中(かちゆう)に菅野三郞左衞門といふ者、若年のころ、奧山にいりて、日々、たき木をとりしに、ある時、朝、例より、はやくいでゝ、薪(たきぎ)とりしに、やうやう、朝日のあがる頃、むかひの山の中ほどを、橫にとほるもの、有(あり)。

 よく見れば、女の、髮の洗(あらひ)たるさまにて來(きた)るを、

『あやしや。人もかよわぬ此山へ、早朝といひ、女のたゞ壱人(ひとり)、しかも洗髮(あらひがみ)にて、とほるべきよし、なし。』

と、おもひて、まもりゐしに、眞むかひに立(たち)どまりて、ふと、このかたを見むきしに、色、白く、肌、うるはしく、朝日に、てりて、うつくしき女なり。

 眼中(まなこうち)の、いやなること、更に人間とおもはれず。

 松に、かくれて、かたちは見へ[やぶちゃん注:ママ。]ざりしが、身の毛、たちて、おそろしくおぼへしほどに、つかねかけたる木を、すてゝ、あとをも見ず、一さんに山を、にげくだり、其後(そののち)ふたゝび、その山へは、ゆかざりし、とぞ。

 追(おつ)て考(かんがへ)るに、其松の木共(ども)、若松ながら、みな、壱丈餘(あまり)の木なりしに、其うへより、かしらの見へしは、丈のたかきも、しられたりし。

 かしらのおほきさも、二尺餘ばかりも有しとおもひいづるにつけて、あやしき事なりし。

「世にいふ『山女(やまをんな)』のたぐひならんか。」

と、いひあへりし、とぞ。

[やぶちゃん注:本話は「奥州ばなし 三郞次」と同話である。「山女」その他の注を附してあるので、そちらを見られたい。『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山男の家庭』も参考になろう。]

只野真葛 むかしばなし (110) 三吉鬼

 

一、秋田に、「三吉鬼(さんきちおに)」といふもの有(あり)。

 人里へ出(いで)そめしは、いく年(とし)先(さき)のことにや、しらず。

 いではじめには、見なれぬ男の、酒屋へ、いりて、酒を、おほく、のみて、さらに、あたひをつぐのはずして、いで行(ゆき)しを、むたひに、酒代(さかだい)を、はたれば、かならず、わざわひに逢ことなりし故、おそれて、心よく、ふるまひしもの有(あり)しに、其夜中に、酒代、十倍ほどのたき木を、門に、つみおきし、とぞ。

 それより、いづかたにても、『其男ならん。』と、おもへば、あくまで、酒を、のませしに、かならず、夜中に、かわり[やぶちゃん注:ママ。]の物を、つみおきしを、誰云(たれいふ)となく「三吉鬼」とよびて、後には、

「いづくの山の大松(だいまつ)を、この庭中(にはなか)ヘ、うつしくれよ。」

と願(ねがひ)かけて、酒だるを、さゝげおけば、酒は、なくなりて、一夜のうちに松の木を、庭にうゑおき、大名なども、人力にうごかしかたき品を、酒をいだして、ねがへば、心のごとく、はこぶことにて、人家の重寶なりし故、

「三吉鬼、三吉鬼、」

と、いひはやせしに、此文化年中より三、四十年前より、たへて[やぶちゃん注:ママ。]、そのもの、人里にいでず成(なり)しとぞ。

 いかゞせしや、ふしぎのことなりし。

[やぶちゃん注:「三吉鬼」当該ウィキが存在する。真葛の本記事も紹介されているので、全文を引く。『三吉鬼(さんきちおに)は秋田県に伝わる正体不明の妖怪。江戸時代の女流文学者・只野真葛の著書』「むかしばなし」に『記述がある』。『三吉神(鬼)の最も古い記録は、只野真葛や菅江真澄のものがある。江戸女流文学者の只野真葛が著した』「むかしばなし」では、『三吉鬼は「見知らぬ男」と言われている。酒屋で酒を飲んで、そのまま出ていこうとするが、そこで男に酒代を請求すると必ず災いに遭い、酒を捧げると酒代十杯ほどの薪が門に積み上がっている。それからは、その男』とおぼしい男に、『酒をあくまで飲ませれば』、『必ず』、『夜中に代わりの物が積み上がっているので、誰が言うと無く「三吉鬼」と呼んだ。後には』、『どこかの山の大松をこの庭に移してくれと願をかけて酒樽をささげると』、『酒は無くなり』、『一夜のうちに松の木が庭に植えられている。大名も人力で動かせない品を酒を出して願うと、願いに従って運ぶ』。「三吉鬼、三吉鬼、」と『もてはやしたが、文化年中より三~四十年前より』、『絶えてその者は人里に出なくなってしまった』。『菅江真澄は』「月酒遠呂智泥」(つきのおろちね:文化九(一八一二)年七月筆)で、『ある年仙北郡のなる外大伴村(外小友村)で相撲取りをして世を渡っている若者が、太平山に登り』。『三吉神に酒や粢を供えることで力士は力を得ているとしている』。『三吉神の力の神としての性格がうかがえる。一方』、『「三吉」の所在を尋ねられた籠舎』(ろうしゃ:牢屋。)『にいた人々が「神仙であるからどことも定まっていない」と答えていることにも注目すると、太平山村近の人々は三吉神が神仙であると認識していることになる。太平山三吉神社に保存されている棟札にも「仙人三吉権現」』(元禄四(一六九一)年)『と記されていることから、三吉神は』本来は『仙人と考えられていたと推測できる』。『そのように人々にもてはやされていた三吉鬼だが、文化年中より』三十~四十『年ほど前からは』、『人里に現れることはなくなったという』。『こうした三吉鬼の伝承には』、『秋田の太平山に伝わる鬼神・三吉様の信仰が背景にあるといわれ』、『太平山三吉神社の三吉霊神が人間の姿で人前に現れたときには』「三吉鬼」の『名で呼ばれたとする説もある』とある。太平山三吉神社はここ(グーグル・マップ・データ)。]

只野真葛 むかしばなし (109) 松前藩用人の「おもくろしい」話

 

一、むかし工藤家築地住居の節、松前樣用人のよしにて、松前人壱人(ひとり)、少々、公事(くじ)ざたによりて、江戶にのぼりしが、公邊(こうへん)むき、不案内故、父樣をたのみ、願(ねがひ)の下書(したがき)その外(ほか)、諸方かけ合(あひ)ぶりなど、なろふ[やぶちゃん注:ママ。]とて、日々相談に來りし、とぞ。

 四十ばかりにて、人がらよく、至極かたき人なりし故、奧へも通し、お遊・おつねなど、松前ばなしを聞(きき)たりし。口重(くちおも)にて、こなたよりとはねば、かたらぬ人なりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「お遊」平助の妻で、真葛の母。

「おつね」真葛の妹である三女「つね子」。家内のニックネームは「女郎花(おみなへし)」。加瀬家に嫁した。

 以下は底本でも改段落している。]

 はじめは、松前のやしきに居(をり)たりしが、

「道、遠し。」

とて、うねめ原に、大井卯之助とて、九ツばかりなるが、當主にて、父は、「金かし」なりしが、早く死し、母壱人、三十餘の若後家(わかごけ)にて、手がるに、母子(ぼし)すまゐして在かたへ、

「同居せよ。」

と、せわする人、有(あり)て、そこに、うつり住(すみ)しより、近所なれば、心やすく、日夜となく、來りて有しとぞ。

[やぶちゃん注:「うねめ原」「采女原」で正しくは「うねめがはら」。松平采女正(うねめのしょう)定基の邸があったための呼称。現在の東京都中央区銀座四・五丁目付近。辻講釈・見世物小屋が並び、夜鷹が多かった(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 元來、世話する人も、後家も、金を持(もち)し旅人故、「ほまち仕事」に、だまして、金を引(ひく)つもりなりしを、客人は、夢にもしらず、心やすくていなることゝ、悅(よろこび)て有しなり。

[やぶちゃん注:「ほまち仕事」「外持仕事」で、本職以外の臨時の金儲け仕事を指す。]

 一年ばかりも同居せし頃、早朝に其用人方より、

「極内用御直覽(ごくないようおんぢきらん)」

と小書(こがき)して、二重ふうじ印(いん)おしたる狀(じやう)來り[やぶちゃん注:ママ。]故、

「合點、ゆかず。」

と、ひらき見れば、

「同居の女人(によにん) 昨夜より 不快に候所有(ある)につき 極(ごく)内々御談(おんだん)じ申度(まふしたき)義の候間 御調合 御仕舞 早々 御出(おで)がけに御立(おたち)より被ㇾ下度(たく)候 尤(もつとも) 音(おと)高からぬやうに御より被ㇾ下ベし 委才[やぶちゃん注:ママ。底本には「才」を「細」の当て字とする編者注がある。]は御面談に申上べし」

といふ狀なり。

「承知せし。」

と挨拶して、使(つかひ)をかへし、出がけに御立(おたち)より被ㇾ成しに、用人は門に出(いで)て待居(まちをり)たりしが、

「先々(まづまづ)。」

とて、ひそかに、ともなひ入(いれ)て、座につけて、あたり見廻し、膝、すりよせ、さて、汗をふき、さしうつむき、さも迷惑氣(げ)な、やう子(す)にて、やうやう、いひ出すは、

「いかにお心やすい[やぶちゃん注:ママ。]とて、かやうの事、おはなし申(まふす)も、何とも、おつもり[やぶちゃん注:(平助が)想像なさっていること。]のほども、はづかしく、面目(めんぼく)なけれども、やみがたきことの候故、恥をかヘり見ず、極みつ、極みつ、御賴(おたより)申なり。かならず御他言被ㇾ下まじ。」

と、口かため、又、うつむきて、しばし考(かんがへ)、

「さりとても、侍(さふらひ)の有(ある)まじきことながら、永々(ながなが)同居いたすうち、ふと、心がまよひまして、此家の女と、不義、いたしましてござる。」

といふ故、父樣は、

「たがひに、女、なし、夫、なし。さやうのことは有(ある)うちのこと。」

と挨拶あれば、誠に、赤面、あせにひたり、

「さやうに被ㇾ仰ては、消(きえ)も人(いり)たき。」

とて、めいわくのていなり。

「扨、昨夜、小產《おさん》いたしましたが、後(のち)のものとやらが、『おりぬ。』とて、くるしみます故、今朝(けさ)申上しが、それも、先ほど、下(さが)りましたそうに[やぶちゃん注:ママ。]ござります。私が男の身でさへ、かやうに存(ぞんず)るもの、女は、いかばかり、氣の毒にぞんじ候やしれず、かならず、爰(ここ)より申上しとは不ㇾ被ㇾ仰(おほせなられず)、『ふと御立より被ㇾ成しが、不快と御聞(おきき)、おみまひ被ㇾ成(なされし)ていに被仰下べし。」[やぶちゃん注:「後のもの」後産(のちざん)。胞衣(えな)のこと。]

と、吳々、たのむ。

 其(その)ひま入(いる)こと、父樣、さらさらとした心には、しごく面倒におもはれしとぞ。

「先(まづ)、やうし[やぶちゃん注:ママ。「やうす」。]を見ん。」

とて、後家が住間(すむま)へ御いで有(ある)を、はなはだ、心もとながるやう子にて立(たち)て見送り居(をり)たりしに、へだてのふすま明(あけ)ながら、

「平助で、ござります。ふと、御立より申(まふし)たら、昨夜より、御不快そうにござる。幸(さいはひ)、御やう子を、見ませう。」

とて、御入被ㇾ成しに、後家は、床の上にすわりて、衣紋(えもん)つまぐり居(ゐ)たりしが、

「ハア、平助さん、よくおいで被ㇾ成ました。私も、昨晚、小(お)さん致ました。後產(のちざん)が下りませんで、難儀致ましたが、それも、先程、下りまして、今は、よふ[やぶちゃん注:ママ。]ござります。」

と、一向、平氣にて居(ゐ)たりし、とぞ。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落している。]

「江戶ものゝ氣(き)のかろき、松前人(まつまへびと)のまわり遠(どほ)さ、二重ふうじの印封の狀、おもて座敷の密談は、まるまるの『むだごと』、たゞ『ひまつぶし』せしのみ。後家が小(お)さんしたとても、醫師が先(さき)の相手を、たゞすものではなし、結句、しらぬ顏して居(をつ)た方が、いくらましか、しれず。左樣のおもくろしき心から、いくら入知惠(いれぢゑ)しても、かけ合(あひ)、後手(ごて)にばかりなりて、公事(くじ)にまけ、牢死せしぞ、ふびんなる。」

と、御(お)はなしなり。

[やぶちゃん注:「おもくろしき心」「おもくるし」は「おもぐるし」とも言い、「押さえつけられるようで苦しい・陰鬱である・はればれしない」、「重々しく堅苦しい・軽快でない」の意で、口語的には「おもくろしい」とも言った。]

2023/12/27

只野真葛 むかしばなし (108) 平助、神明の私娼窟へ行く

 

一、父さま、中年の頃、さる他家の家中の人と、病家にて懇意に被ㇾ成しが、其人、神明(しんめい)の女郞に、なじみ、殊の外、はまりて、他のはなしを、せず【人さひ[やぶちゃん注:ママ。「さへ」。]見れば、「神明へ、遊びにゆけ、遊びにゆけ。」と、すゝめし、とぞ。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 ある時、來りて、

「どうぞ神明ヘ、一度、我等も、つれ立(だち)、御(お)いで、あれ。」

と、すゝめし、とぞ。

 父樣は、

「神明へは、行(ゆき)しこと、なし。」

と御斷(おことわり)被ㇾ成しを、

「いや、さやうに、すてられぬ所なり。私(わたくし)あいかたの女(をんな)が、私を、とりあつかふ、しんせつさ。誠に吉原・品川・深川などには、又、あのやふな[やぶちゃん注:ママ。]實(じつ)な女郞は、ござりません。どうぞ、つれ立(だつ)ござつて、あの女の、とりあつかへぶりを見て被ㇾ下。」

とは、逢度(あふたび)には、すゝめる事、ぜひなく、

「左樣なら、參りませふ[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、つれ立有(だちあり)しに、道すがらも、其女の事ばかり、かたり、

「それが、外(ほか)の客へも、そふ[やぶちゃん注:ママ。]することでは、なるほど、つゞきますまひ[やぶちゃん注:ママ。]。私に、かぎりて、あのやうにしてくれると申(まふす)事、なり。」

など、大(おほ)きにのび過(すぎ)たるていにて有(あり)しに、神明の女郞屋へ行(ゆき)しに、

「少々、故障(こしやう)の義がござりまして、お客を、とらせませぬ」

と斷(ことわり)しを、

「それは。せつかく來たに。折(をり)あしきことなり。それなら、おれが合(あひ)かたの女を、一寸、よんで、くりやれ。」

と、いへば、

「いや。其女の事に付(つき)ての事で、ござります。」

「それは、氣づかひ。どうした。」

と、いへば、

「昨晚、外(ほか)の客と、心中いたして、死(しに)ました。」

と、いはれて、

「ハア。」

とて、歸る、ばかばかしさ。

「是ほど、拍子のぬけし事は、なかりし。」

と、御(お)はなしなりし。

[やぶちゃん注:「神明」芝神明、現在の港区芝大門(グーグル・マップ・データ)の「芝大神宮」の前の通りの両側には、料亭が並び、「神明三業組合」が組織されていた(但し、それが許可されてあったのは、平助が生まれる前の万治四・寛文元(一六六一)年~寛文一二・寛文一三年・延宝元年(一六七三)年である)。当時は「芝海老芸者」と呼ばれ、ここには「岡場所」(半公認の私娼)や、違法な「私娼窟」、及び、男色客専門の「陰間茶屋」が立ち並んでいた。後の平助の生きた時代も、恐らくは、未公認のそうした私娼があったものと推察される。]

只野真葛 むかしばなし (107) 桑原家の思惑に〆の怨念再び / 源四郎死去後の顚末

 

 桑原のをぢ樣、おば樣は、世上の人には、よく、したしみ、下人を、ふかくめぐみ、慈悲ふかき人達なりしが、〆が怨念のなすわざにや、只(ただ)、工藤家へ對してばかり、あくまで、をとしめ[やぶちゃん注:ママ。]、いやしめ、恥のうえにも迷惑を重(かさぬ)ることのみ、こしらへ、まふけて、

『こゝろよし。』

と、おもはれたりし。

 其かたはしを、いはゞ、夏むき物の、味の、かはる時、外(そと)より、魚、もらひかさね、義理首尾に、つかふほどは、やりふさぎ、家内(いへうち)上下(うへした)、あくまで食(くひ)みてみても、又、もらひおけば、くさるし、

「犬にやらふか、工藤家へ、やらふか。」

といふほどの時ならでは、物を送られしこと、なし。

 其もとを、しりては、何をもらひても、

「また、あまし物ならん。」

と、うき心の先達(さきだつ)て、うれしからず、うらみを、かくし、胸を、さすりて、こなたよりは、わざわざと、のべたる品にて禮をして、有(あり)し。

 今の隆朝(りゆうてう)代(だい)と成(なり)ては、何のわけもなく、いや、ますますに、工藤家の、おとろへるをのみ、下心に、よろこびて有(あり)しならん。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落となっている。]

 先年の類燒以後、源四郞、かんなん申(まふす)ばかりなく、やうやう、もとめし藪小路の家へ、いるやいなや、枕も、あがらぬ大病、終(つひ)に、はかなく成(なり)し後(のち)、日頃、

「いやしめを。」

と、しめられし桑原家へ、跡式《あとしき》のすみしは、つぶれしよりも、心うきことなりし。

 隆朝は、若氣(わかげ)の一途に、

『我(わが)ものに、成(なり)し。』

と、おもふ心、すさみに、人のおもひなげかんことも、はからず、煙の中より、やうやうと、からくとりいだせし諸道具・家財・漬物等にいたるまで、「見たおし屋」を、よびて、直(ね)ぶみさせ、家内のものゝ見る前にて、金五十兩にうり拂(はらひ)しぞ、むざんなる。

 書物は、のこらず、養子へとゆづりしをも、かくして、うり拂しと見へて[やぶちゃん注:ママ。]、この地の書物屋にさへ、父の印、おしたる書物、うりものに、いでしと聞(きき)しは、よく年のことなりし。

 日頃、

『にくし、いまわし[やぶちゃん注:ママ。]。』

と、おもひし工藤家の品は、

「ちりも、我子に、手、ふれさせじ。」

と、わざと、いみきらひて、取(とり)ちらせしなるべし。

 世に、名もたかき父の末(すゑ)の、見るがまに、かく成行(なりゆく)を、子の身として、いかで、無念と、おもはざるべき。

『哀れ、我身、宮づかへの御緣(ごえん)あらば、命のあらんかぎり、いたつきて、父の名ばかりは、世に、のこさましを。』

と、おもひ願ふこと、やむときなし。

[やぶちゃん注:「先年の類燒」江戸三大大火の一つである「文化の大火」。文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)発生。

「隆朝」既注だが、再掲すると、真葛の母方の祖父で仙台藩医桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)の後を継いだ、真葛の母「お遊」の弟である桑原隆朝純(じゅん)。既に注した通り、真葛の弟源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで、同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に、未だ三十四の若さで過労からくる発病(推定)により、急死した。これによって、工藤家は跡継ぎが絶えたため、母方の従弟である桑原隆朝如則(じょそく:読みは推定)の次男で、まだ幼かった菅治が養子に入り、後に工藤周庵静卿(じょうけい:読みは推定)を名乗ることとなった(「跡式《あとしき》のすみし」はそれを指す)。男兄弟がいなくなったとはいえ、未婚の女子もある以上、婿養子という形の相続もあり得たが、桑原如則の思惑に押し切られる形で話が進んだという。如則は、また、ここに書かれている通り、工藤家の大切な家財道具や亡父平助の貴重な蔵書を、家人がいる前で、悉く、売り払ってしまったのである(以上はウィキの「只野真葛」に拠った)。]

ブログ・アクセス2060000突破

先ほど、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが2,060,000アクセスを突破した。何事も起こらねば、大晦日までに、その記念として、只野真葛の「むかしばなし」の電子化注を終わらせ、その記念テクストとする予定では、いる。

只野真葛 むかしばなし (106) 平助、後の仙台藩第十代藩主伊達斉宗(幼名、徳三郎)二歳を救う

 

一、父樣には、けんもん御用は、あまた御つとめ被ㇾ成しが、病用は御家中一ヘんにて、六十餘まで、御用被仰付しこともなかりしを、當屋形樣御二歲の秋、以(もつて)の外(ほか)、御大病にて、あらせられし頃、御奉藥被仰付しぞ有(あり)がたき。誠に御大病にて、此世のものにも仕奉(つかまつりたてまつ)らざりしほどのことなりしを、ふしぎに御快氣被ㇾ遊しかば、御ほうびとして、嶋ちゞみ二反・銀五枚被ㇾ下し。有がたきことながら、御家にてこそ御次男樣とて、人も、すさめ奉らざりしが、世上にては、父君ましまさぬ御代の御次男樣故、御世つぎ同然ごとく存上(ぞんじあげ)し故、逢人(あふひと)ごとに、

「此ほどは、大手がらなり。扨、かやうの節、御家(おんいけ)にては、いかほど、御ほうび被ㇾ下るゝものや。」

と、とわれしを[やぶちゃん注:ママ。]、挨拶に御こまり被ㇾ成しと被ㇾ仰しし[やぶちゃん注:ママ。]。

「其節は、あかぬ事の樣に、おもはれしが、今、考えれば[やぶちゃん注:ママ。]、いさゝかにても、御家恩(ごかおん)がましき事、有(あり)て、『人のたから』と成(なり)はてなば、いかばかり、心憂(う)かるべし、何事もなきぞ、心やすき。」

と、かヘすがへす、おもわれたり[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「當屋形樣御二歲」これは、実際に後の仙台藩第十代藩主となった伊達斉宗(なりむね 寛政八(一七九六)年九月十五日~文政二(一八一九)年)のこと。幼名を「德三郞」と言った。父・斉村は同年七月二十七日に死去しており、父の死去後の出生である。

 以下、底本でも改段落されてある。]

 さし上られし藥法の事、委しくはしらねど、其年は、殊の外、暑氣つよく、秋に成(なり)て暑氣あたりのたゝり、いでゝ、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、熱病、あるひは、はれ[やぶちゃん注:「腫れ」か。]病(やまひ)など、いろいろの病人、おほかりしを、「沈香(ぢんかう)てんまとう」といふ藥、其年のはやりによく合(あひ)て、手がゝりの病人、此一方(いつぱう)にて、壱人も、けがなかりし、とのことなり。やはり、その法に少しのかげんは有(あり)しならんが、始終、一法(うつぱう)を奉りて、御快氣被ㇾ遊しと御はなしなりし。

 はじめ、隨分、御相應にて、あらせられしを、三日、四日ばかり有(あり)て、御吐瀉など有(あり)て、御不出來(おんふでき)のこと有しに、とくと、御やう子伺(うかがふ)に、藥法のあしきには、あらず。御小兒には一度の御藥上高(おんくすりうへだか)、さじに一滴づゝなるを、御付の人たち、御藥御相應を悅(よろこび)、

「少し、おほく、さし上(あげ)て、猶、御快氣を。」

と、いのりすごし、御藥の上高、過(すぎ)し故の御吐瀉と察し奉りて、

「別法、さし上候間、上過(すご)しなき樣に。」

と、かたく、斷(ことわり)、やはり、其法を、さし上(あげ)しに、それにて、御快氣あらせられし、と伺(うかがひ)し。

「此節、御藥も、みては、けして、御快氣あらせられまじ。御大病中、御不出來(おんふでき)のこと、あらせられても、平助、壱人に相(あひ)まかされて有(あり)しぞ、此君(きみ)の御運(ごうん)、よかりしこと。」

と、内々、申上られし。

 今、此君の御代(みよ)と成(なり)しを見奉りても、源四郞にても、ながらへてあらば、などか、御めぐみのなかからん。」

と、うれしきながらも、かなしき。

[やぶちゃん注:「源四郞」既注だが、再掲すると、真葛(あや子)の次弟(周庵(平助)の次男)。例の七草のそれでは「尾花」と呼ばれた。真葛より十一年下であった。やはり既に述べたが、長弟で長男であった長庵元保(幼名は安太郎。七草名「藤袴」。真葛より二歳下)は早逝している。「日本ペンクラブ」公式サイト内の「電子文藝館」の門(かど)玲子氏の「只野真葛小伝」によれば、亡くなった時、『嫡男長庵』は、『まだ二十二歳の若さであった』とある。源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで、同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、ウィキの「只野真葛」他によれば、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで急死した。源四郎は『江戸に風邪が大流行し』、陸奥仙台藩第九代藩主伊達周宗(ちかむね:寛政八(一七九六)年に特例の生後一年足らずで藩主となり、親族であった幕府若年寄堀田正敦(ほったまさあつ)の後見を受けたが、疱瘡のために文化九(一八一二)年に十四で夭折した。一説に死去は十一歳であったともされる)『の重要な縁戚である堀田正敦』(当時は近江堅田藩藩主で幕府若年寄。第六代藩主伊達宗村の八男。周宗は曽孫)『夫人も罹患したので』、『源四郎は常にその傍らにいて看病した。夫人は』、『その甲斐なく』、『亡くなっている。公私ともに多くの患者をかかえていた源四郎は、休まず患家をまわって診療したあげく、自らも体調を著しく衰弱させてしまったのであった』。『真葛は、みずからのよき理解者でもある大切な弟を亡くし、また、源四郎を盛り立てる一心で』、『みずから江戸から仙台に嫁したことがむなしくなったと悲しんだ』とある。この後にも、その末期の記載が出現する。]

只野真葛 むかしばなし (105) 小便組女顚末

 

一、世のもてあましものとする小便組(せうべんぐみ)の女を、さる公義衆、かゝへられしに、おさだまりのごとく、三日ばかりは、よくつとめ、のちは、床(とこ)の上に小便をしたりしを、少しも、おどろく色、なかりしかば、大便を、したゝか、仕(し)ておきし、とぞ。

[やぶちゃん注:「小便組」江戸時代、妾(めかけ)奉公に出て、わざと、寝小便を垂れ、暇(いとま)を出されるのをよいことに、支度金や給金を詐取する女、或いは、そうした詐欺行為を企む集団や仲間。「おししぐみ」「ししぐみ」「手水組(ちょうずぐみ)」或いは、単に「小便」とも呼んだ。]

 主人は、やはり、いかりの色なく、下人に申付(まふしつけ)て、犬をくゞし[やぶちゃん注:「括(くく)す」縛る。]たるごとく、四ツ繩にしばらせて、中庭に𢌞(まわし)おろし、むしろにて、小屋をかけて、後(うしろ)に大部な、くひ、打(うち)て、それに、繩を結付(ゆひつけ)、人のくひあませし飯汁(めしじる)を、ひとつ器(うつは)に入れて、日に、三度ヅヽ、あてがひ、いやしめ、かひて、出入(でいりの)人々に見せて、

「床上(とこうへ)に、糞(くそ)まり仕(し)ちらし候畜生を、かひたるてい、御覽ぜよ。」

とて、はぢをあたひ[やぶちゃん注:ママ。]しと聞(きく)ぞ、こゝろよきしかたなる。

 此主人、「きりやう人(じん)」[やぶちゃん注:「器量人」。]と見へたり。

 やどは、このよしを聞つけて、日ごとに、いとまを願(ねがひ)にくれども、一向、とりあわず、

「畜生を、人と見たがへしは、手前のそゝう[やぶちゃん注:ママ。「粗相」「麁喪」。]なり。されど高金(たかがね)いだして、かゝへしもの故、約束の日數(ひかず)、通(かよふ)は、かふ心なり。」[やぶちゃん注:「かふ心」は「孝心(かうしん)」が正しい。或いは、「妾買(めかけが(か)ひ)」に懸けた洒落かも知れぬ。]

とて、ゆるさず、百日近く糺明(きうめい)して後(のち)、ゆるしたり。

 小便組の、よき、いましめなり。

只野真葛 むかしばなし (104) 熊本藩四代藩主細川宣紀の側室扱いの騒動

 

一、近年、賢人細川樣と申せし殿の御腹(おんはら)は、惡人にて有(あり)し、とぞ。

[やぶちゃん注:「細川樣」この細川は、以下の叙述から、肥後国熊本藩四代藩主細川宣紀(のぶのり 延宝四(一六七六)年~享保一七(一七三二)年)である。「御腹」ここは「本当の御心」の意なので注意。本文を読んだ後、最後の注を参照のこと。

 父君、人より先にめしつかはれし御妾(おめかけ)を、願ふにまかせて、故もなく、御上分(ごじゃうぶん)にはとりたて、他行(たぎやう)には長刀(なぎなた)を持(もた)せるほどの格に被ㇾ成しに、はるか後に上(あが)りし女、男子をうみ奉るに、いまだ御世つぎましまさねば、殊の外、いきほひよかりし、とぞ。

 上分に成(なり)し女、神佛に願(ねがひ)て、やうやう、男子をうみ奉りしが、二ッ三ッ、御年を、とりしなり。御世(およ)つぎ御願(おねがひ)は、御としかさの方(かた)に、さだまりしかば、御腹[やぶちゃん注:ここは「御妾」の誤字ではなかろうか。]は、上分に上り、長刀御免の身と成しに、

「此御家中に、兩人、長刀をもたせし御部屋、有(あり)しためし、なし。」

とて、老臣たち、しきりにいさめ奉りし故、ふるき御部屋の上座を、次に、さげられ、長刀をも、やめられし、とぞ。

 尤(もつとも)、御寵愛も、古きは、おとろへ、若きかた、さかり成しかば、ふるき御部屋、うらみ、いきどほりて、左樣の被仰渡(おほせわたされ)有(あり)し日より、部屋にこもりて、食を、たち、天地に、いのり、のゝしるやうは、

「人のおもひの有(ある)なしは、おしつけ見すらすべきぞ。わがうみ奉りし若君を、御世(みよ)に立申(たちまう)さで、おくべきや。」

と、晝夜、泣(なき)さけびて、終(つひ)に、兩眼、ぬけいでゝ、死せし、とぞ。

 それより、御部屋も、病(やまひ)をうけ、殿も、かくれさせ給ひしかば、若殿、世をとり給へども、はじめは御發明にてあらせられしが、月まし、日ましに、御心(みこころ)くらみ、物も、はきとは、言仰(いひあふが)ず、殿中、御つとめも、やうやに被ㇾ遊しが、八月十五日御登城の所、人たがひにて、いたくらに、きられて、御死去なり。惡女のねがひに少しもたがはず、御次男樣の御世とは成し。

 是、賢君にてありし。

[やぶちゃん注:「御部屋も、病をうけ、殿も、かくれさせ給ひしかば、若殿、世をとり給へども、はじめは御發明にてあらせられしが、月まし、日ましに、御心(みこころ)くらみ、物も、はきとは、言仰ず、殿中、御つとめも、やうやに被ㇾ遊しが、八月十五日御登城の所、人たがひにて、いたくらに、きられて、御死去なり」。この刃傷で亡くなったのは、宣紀の四男(兄三名は孰れも一~六歳で夭折している)であった第五代藩主細川宗孝(むねたか 正徳六(一七一六)年~延享四(一七四七)年)である。享保一七(一七三二)年、父宣紀の死去に伴い、十七歳で家督を相続したが、当該ウィキによれば、『当時の熊本藩は、父』『宣紀の時代から』、『洪水・飢饉・旱魃などの天災に悩まされて、出費が著しいものとなって』おり、『宗孝が藩主となった翌年には』、『参勤交代に使用される大船』『「波奈之丸」』(なみなしまる)『の建造費、さらに』は、再び、『洪水・飢饉・疫病などの天災が起こり、その治世は多難を極めた』とある。しかし、延享四(一七四七)年八月十五日、月例の拝賀式のために登城し、大広間脇の厠に立った際、旗本寄合席の板倉勝該(かつたね)が乱心し、突然、背後から斬りつけられ、まもなく絶命した。享年三十二であった。ウィキの「板倉勝該」によれば、『勝該は』、『日頃から』、『狂疾の傾向があり、家を治めていける状態ではなかったため、板倉本家当主の板倉勝清は、勝該を致仕させ』、『自分の庶子に』、『その跡目を継がせようとしていたという。それを耳にした勝該は恨みに思い、勝清を襲撃しようとしたが、板倉家の「九曜巴」紋と細川家の「九曜星」紋が極めて似ていたため、背中の家紋を見間違えて細川宗孝に斬りつけてしまったとされる』。『一方で、人違いではなく』、『勝該は最初から宗孝を殺すつもりであったとする説も存在する。大谷木醇堂』の「醇堂叢稿」に『よれば、白金台町にあった勝該の屋敷は、熊本藩下屋敷北側の崖下に位置し、大雨が降るたびに』、『下屋敷から汚水が勝該の屋敷へと流れ落ちてきたので、勝該は細川家に排水溝を設置してくれるように懇願したが、無視されたため』、『犯行に及んだという』。『事件後』、『勝該は水野忠辰宅に預けられ、同月』二十三『日に同所で切腹させられ』ている(生年未詳のため享年は不詳)。戻ると、細川宗孝の母は、ウィキの「細川宣紀」によれば、側室の際(映心院。鳥井氏。なお、父宣紀には正妻はおらず、判っているだけでも六人の側室がいた)が母であり、宗孝が殺害された後を継いで熊本藩第六代藩主となったのは、宣紀の側室利加(岩瀬氏)が生んだ五男の細川重賢(しげかた 享保五(一七二一)年~天明五(一七八五)年)であった。当時の熊本藩は、連年、財政困難にあり、参勤交代・江戸藩邸の費用にも事欠くありさまであった。重賢は藩主に就任すると、堀勝名(かつな)を大奉行に抜擢し、藩政改革にとりかかった。先ず、綱紀粛正を図り、行政機構の整備や刑法草書の制定、財政再建に向けての地引合(じびきあわせ:検地の一種)による隠田(おんでん)の摘発、櫨(はぜ)・楮(こうぞ)の専売、藩士には知行世減(せいげん)法を行ったほか、藩校「時習館」を建てて、人材の育成を図り、農商人の子弟でも俊秀の者には門戸を開いた。この藩政改革によって、藩財政は立ち直り、藩体制を強固なものとした(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。則ち、腹違いの子らは、相応に藩主として立ち向かった人物であったのである。だから、最初の「御腹」の黒い「惡人」とは、彼らを指すのではなく、側室の扱いを我意に任せた父宣紀を指すのである。]

只野真葛 むかしばなし (103)

一、むかし、吉原の「名取(なとり)」といはれし女郞、勞症(らうしやう)[やぶちゃん注:労咳。肺結核。]にて、つとめを引(ひき)し故、親方は、いふにおよばず、茶屋・舟宿にいたるまで、

「勞症の妙藥もがな。」

と、たづねしに、ある日、

「少し、快氣。」

とて、中(なか)の町(まち)へ出(いで)し時、他國人、吉原見物に來りし、道人(だうじん)ていの五十ばかりなる坊主、茶屋に居(ゐ)あわせて[やぶちゃん注:ママ。]、其女郞を見て、

「あれは『勞症やみ』と見うけたり。我等、幸妙藥を持(もち)あわせし[やぶちゃん注:ママ。]間、進ずべし。」

と、いひし、とぞ。

[やぶちゃん注:「中の町」元吉原及び新吉原の中央を貫き、北東より南西へ、大門口より京町まで達する通り。後者は現在の台東区千束四丁目附近(グーグル・マップ・データ)。]

「それこそ、のぞむ所。」

と、悅(よろこび)、もらひてのませしに、すらすらと快氣せし、とぞ。

「是ほど、よく聞(きく)[やぶちゃん注:ママ。「效(き)く」。]藥なら、其人のすむ所をきいておけばよかつたに、どこの人やら、誰(たれ)もしらねば、また、もらひ樣(やう)も、禮の仕(し)やうも、なし。」

と、いひて有(あり)し内(うち)、又々、其病(やまひ)、おこりしかば、しきりに、其人の行衞をたづねしに、しれず。

 新造・かむろは、神に、佛に、

「其人の行衞を、しらせ給へ。」

と願ひし、念やとゞきけん、ふと、其老人、中町(なかのまち)を通りしかば、

「夢か、うつゝか。」

と、人々、いで、袖つまを引(ひき)て、よびいれ、有(あり)しこと共(ども)をつげて、藥を、こひしかば、老人曰(いはく)、

「やすき事ながら、持(もち)あわせも、是ばかりなり。」

とて、いさゝか、あたへ、

「我は他國の人なれば、此のち、來らじ。藥方を、つたへ申べし。夏土用の内、炎天を見て、どぜうを壱升に、酒、壱盃にて、殺し、めざしにして、しごく、高き所へ、いだして、たゞ一日に干(ほす)べし。さて、後(のち)、黑燒として、『のり丸(ぐわん)』に、すべし。」

と、いひをしへて、さりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「のり丸」意味不明。「ねり(煉り)丸」の誤記か。なお、以下は底本でも改段落している。]

 其頃、吉原へ入(いり)びたりて有(ある)人、このはなしを聞(きき)て語(かたり)しが、其人の、「ひやうとく正川(しやうせん)」[やぶちゃん注:道人の名乗り。]といひし故、藥名に付(つけ)たり。

 どぜう、こまかならねば、一日に干(ほせ)ず、もし天氣を見そこねて、夕がた、曇(くもり)、干(ほせ)ぬときは、ほいろにかけてなりとも、一日に、ばりばりと、をれるほどに、干(かはかす)ばかりが、傳授なり。

[やぶちゃん注:「道人」この場合は、雰囲気からして「神仙の道を得た人」の意であろう。

「ひやうとく正川」「表德」であろう。「徳をあらわすこと」の意。

「どぜう」歴史的仮名遣は「どぢやう」が正しい。博物誌はサイト版「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚  寺島良安」(今年の九月に全面リニューアルした)の「どじやう 泥鰌」、或いは、ブログ版の「大和本草卷之十三 魚之上 泥鰌(ドヂヤウ) (ドジョウ)」を見られたい。

「ほいろ」「焙爐(焙炉)」。茶・薬草(生薬)・海苔などを乾燥させる道具。木の枠や籠の底に和紙を張り、遠火の炭火を用いる。また、「ほいろう」ともいう。「日葡辞書」には、「Foiro」と記され、「茶を焙(ほう)じ煎(い)る所、または、その炉」と解釈している。また、「和漢三才図会」などの江戸時代の類書類には、茶を焙じることを主な役目として記してある。]

只野真葛 むかしばなし (102)

 

一、桑原の高弟に「養丹」といひし人、有(あり)し。此名、付られしころまでは、おぢ樣も萬事、父樣のまねばかり被ㇾ成し時なりし。

「人の名は、書(かき)よく、おぼへよきが、よひ[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、「元丹」といふ弟子有しにならひて、つけられしなり。後に五、六萬石の大名家中となりて有し【追(おつ)て聞(きく)、「養丹は仙石越前守樣御家中、熊崎某(なにがし)養子に成(なり)、後(のち)「養春」といひしなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 同家中の用人の妻、ふしぎの病(やまひ)にて有し。

 見うけたる所、つねの如く、食も相應に成(なり)、氣分もよく、色つやもよし。

 縫物を手にとれば、たちまち、ふさぎ、一向に、すること、ならず。

 二月、三月は、うちすてゝもおきしが、三年わづらひて、家内(いへうち)、ぼろを引(ひき)て有し、とぞ。

 いろいろ、「しやく」の藥も用ひしかど、しるしなかりしに、其頃、他國より來りし下人を、めしつかひしが、ある時、其中元(ちゆうげん)[やぶちゃん注:「中間」に同じ。]が申(まふす)は、

「私(わたくし)が家につたはりし一子相傳の積[やぶちゃん注:ママ。前の「しやく」と同じで、「癪」。多くは古くから女性に見られる「差し込み」という奴で、胸部、或いは、腹部に起こる一種の痙攣痛。医学的には胃痙攣・子宮痙攣・腸神経痛などが考えられる。別称に「仙気」「仙痛」「癪閊(しゃくつかえ)」等がある。]の妙藥の候。奧樣へ、さし上見申度(あげみまふした)し。」

と、いひし、とぞ。

「『とても、藥は、きかぬもの。』と思ひしを、何にても、こゝろみん。」

とて、もらひうけてのみしに、すらすらと、快氣せし、とぞ。

「ふしぎのこと。」

と、悅(よろこび)、ほうびなどつかわして[やぶちゃん注:ママ。]有しに、一季に成(なり)しかば、いとま申上(まうしあげ)て國へかへる時、主人のいふは、

「其方、おぼゑし粉藥(こなぐすり)、誠(まこと)にきたいの名法なり。あまねく、人にほどこして、病(やまひ)のたすけともなすべきを、何卒、我に、其法を傳授せよ。」

と、いひしに、下人、淚をながして、

「御尤なる御意(ぎよい)に候へども、父が末期(まつご)につたへしこと故、遺言とも形見とも存(ぞんじ)候こと故、御つたへ申上がたし。」

と、いひし、とぞ。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落してある。]

 主人も、ぜひなく、法をならはざりしに、其中元、下りて後(のち)、半年ばかり有(あり)て、又、例の病(やまひ)おこりし、とぞ。

 藥をこひしたひて有し所へ、養丹、見舞(みまひ)しかば、有しことゞもを語(かたり)つゞけて、法をおしみ[やぶちゃん注:ママ。]しを、にくみておるを、養丹は、たばこのみながら、つくづくと聞居(ききをり)しが、

「さて、其藥は、きぐすり屋よりとゝのへ來りしや。」

と、とふ。

「さやうなり。」

といふ。

「わたくし、少々、心あたりのことも候間、近日、藥法を承りいだし、調合さし上申(あげまふす)べし。」

とて、しりぞき、心中におもふ。

『其中元、たしかに、近所の藥屋へ行(ゆき)しなるべし。かねて、酒のみなかまの藥屋に、もし、うり上帳(あげちやう)に、付(つけ)てあるや。』

と、こゝろ付(づき)し故、其足にて、行(ゆき)たり。

 養丹といふ人は、大の酒好(さけずき)にて、いづかたにても、酒の有(ある)所へ、ひしと、入(いり)びたりて居(を)る人なりしが、此藥屋も、酒のみにて、日ごとの友なりしかば、例のごとく、酒をのみあひて後(のち)、

「我、我等(われら)屋敷の用人の所なる中元、此見世へ、粉藥を、かひに來りし事は、なきや。」

と聞(きき)しに、

「去年中、折々、來りし。」

といふ故、

「しからば、むつかしながら、其時のうり上帳を、少し、見たき事、有(あり)。」

と、いひしかば、

「やすきこと。」

とて取(とり)いだしみせしに、買藥(かひやく)のかなしさは、かくしとすれど[やぶちゃん注:ママ。「隱しとすれど」か。「隱(かく)さんとすれど」であろう。]、おのづから、分量、ありありと、しるし有(あり)し、とぞ。

 養丹、大きに、悅(よろこび)、うつしとりて、すぐすぐ、藥屋にて調合し、翌日、用人かたへ持參してのませしに、たちまち、こゝろよく成(なり)し故、大(おほ)ほこりせし、とぞ。

「是、『酒のみ養丹』が一生の出來(でき)なり。」

と聞(きき)し。

 藥種三味(さんみ)・龍膽(りんだう)二匁(もんめ)・細辛五匁・沈香(ぢんかう)壱匁。

 其中元、名、惣八といひし故、「惣八散」と名付しが、合(あはせ)て、八匁なれば、よしある名なるべし。

 さて、此病(やまひ)は、わかき人に、しばしば有(ある)ことなれど、病とはしらで、「縫物きらい[やぶちゃん注:ママ。]」と名付(なづく)る事なり。

 養丹は、はきはきとせず、ずるけものといふなり。五十ばかりに成(なり)て、ひさしく病(やまひ)せしに、氣(き)のごとく、はきともせず[やぶちゃん注:彼の性格と同じで、病態ははっきりと現れず。]、又、わるくもならず、其内、分(わけ)て、すぐれぬとき、日中、看病人など置(おき)し事有(あり)しに、夏の事なりし。

 長日[やぶちゃん注:夏のある日。]七ツ頃[やぶちゃん注:午後四時頃。]、床の上にうすねぶりて居(ゐ)しに、いづくより來りしや、薄鬢(うすびん)のふとりたる大男、枕上(まくらがみ)のかたに、座して有(あり)しが、其男の曰(いはく)、

「其方、病は、いかゞせられしや。我等も、昔、そのやうに、わづらひ、久しく難儀せしが、次郞坊樣の御弟子になつてから、すきと、よく成(なり)し。其方にも御弟子になる心は、ないか[やぶちゃん注:ママ。]。御弟子に成氣(なるき)なら、俺と、つれだちて、ござれ。」

と、いひし、とぞ。

 養丹は、うつうつとしながら、こたふるは、

「近頃、かたじけなきことなり。さりながら主人を持(もち)し身(み)故、いとまをもらはねば、身は、うごかしがたし。」

といふを、聞(きき)おわらぬうち[やぶちゃん注:ママ。]、かの大男、まなこをかへして、

「橫道(わうだう)ものめ。」[やぶちゃん注:「橫道」人間としての正しい道に外れていること。邪(よこし)ま。邪道。]

としかりし聲、耳にひゞきて、今ぞ誠に目はさめしが、其男は、たちてあゆむともなく、庭の角(すみ)なる八ツ手の下にて、消(きえ)うせたり。

 柿色の帷巾(かたびら)に、淺黃(あさぎ)のすゞしの羽織を着たりし、と、見うけし。[やぶちゃん注:「すゞし」「生絹」。まだ練らないままの絹糸。生糸 (きいと) 。この怪人の姿も、挙げた「次郞坊」という名も、全く以って天狗である。]

 看病人は、次に、ねむりて居(ゐ)しが、

「何か、うなさる[やぶちゃん注:ママ。]聲、する。」

とて、おどろきて[やぶちゃん注:目を覚まして。]、見に來りし、とぞ。

「是、世にいふ『神かくし』の成(なり)そこねならんか。」

と、いひあひし。

 大男の着たる物、極(ごく)むかしの服付(ふくつき)なり。

 ことばなども、今時(こんじ)、聞(きき)なれず、「橫道もの。」といひしも、中々、作りごとには、いでじ。

 養丹、元來、きつとせし心もなくて、表むき尤(もつとも)にて、口入(くちいれ)しがたき挨拶せし故、さやうに、いひしなるべし。

 それより、だんだん、快氣と成(なり)しも、不思議のことなりし。

只野真葛 むかしばなし (101)

 

一、女の惡念、むくひをなすも珍らしからず。是は、其人をしりし故、しるす。

 赤羽邊の十萬石餘の大名の家中、用人などつとめし人にや、娘、壱人(ひとり)持(もつ)て、むこ養子をせしに、よき息子をもらひあてゝ、諸藝も大(たち)ていに心得、男ぶりよく、當世風のきれゝもの、何にも、ぬけめなく、二親(ふたおや)に、よくつかへ、いひぶんもなかりしを、娘、大惡女(おほわるをんな)、心ざまも、荒々しく、

「一人娘。」

と、もてはやされし故、氣まゝにて、たをやかならざりしを、男は、若氣(わかげ)のいたり、信實(しんじつ)、『氣に、いらず。』おもひて有(あり)し、とぞ。

 すでに、日限(にちげん)をきわめて、婚禮、とゝのへんと云(いふ)時、むこは、里に歸りて、來らず、實(まこと)の兩親へ、願ふは、

「あの娘につれそふことなら、あの家は、つぎがたし。いかなる身に成(なる)とても、御免被ㇾ下ベし。」

と、いふ故、やみがたく仲人(なかうど)して、其ことを、養家へ、つげしかば、養父母、殊の外、なげきいたみ、

「わが子ながらも、娘が心は、よくもおもはれず、此養子をとりはづしなば、けして[やぶちゃん注:ママ。]、外(ほか)によき人、有(ある)べからず、もし、よき人をたづねとるとも、又、むすめを、きらはん、うたがひなし。いかにせん。娘をば、他へ緣付(えんづけ)て、此養子を、よびかへさん。」

とて、まづ、そのあらましを、娘に語りきかせしに、娘は、「よき男を持(もち)し。」とて、下悅(したよろこびし)て有(あり)しを、かく、「きらはれし。」と聞(きき)て、たけだけしき心に、いかゞおもひひけん、

「とても、そはれぬこと。」

と、いはれ、前後無言にて居《ゐ》たりしが、

「はて、殘念な。」

と、一聲、さけびし音、隣までもきこへて、

「おそろしき大音なりし。」

とぞ。

 其後(そののち)、無言・絕食にて、死せし、とぞ。

 食をたちしは、七日(なぬか)なり。

 末期(まつご)の樣子なども、おそろしきことなりし、とぞ。

 とりおきすみて後(のち)、養子は歸りしが、兩親[やぶちゃん注:聟養子となった亡き娘の両親。]の前、悔(くやみ)をいふも、すみ付(つき)あしく、おかしなものにて有(あり)しなり。

 二親、繁昌のうちは、遠慮して、妻も持ざりし、とぞ。

 其間(そのあひだ)に、娘がうらみのおもひにや、鼻の上に、はれ物、いでゝ、二、三年、なやみ、終(つひ)に直りたれども、はれは、ひかず、赤味も、一生、とれず、男ぶり、あしく成(なり)たり。つとめのさわり[やぶちゃん注:ママ。]には、ならず。

 二親、なくなりて後(のち)、妻をもとめしが、中(なか)むつまじく、子も、壱人、もちて、何事もなかりしに、夫婦とも、酒好(さけずき)にて、夏になれば、庭にすゞみ臺を置(おき)て、夫婦さかもり、下女は、ねかして、さしむかひ、さしつ、おさへつ、たのしみしに、かはりばんに[やぶちゃん注:かわりばんこに。]酒の燗(かん)をしに行(ゆく)さだめにて有(あり)しに、夫(をつと)の酒の燗をしに行(ゆき)し内(うち)、

「ワツ。」

と、一聲、たまぎる音(こゑ)せし故、おどろきて來り見れば、妻は、すゞみ臺より、おちて、氣絕して居(ゐ)たり。

「藥よ、針よ、」

と、さわぎしが、終(つひ)に本意(ほい)つかず、それが限りにて、有(あり)し、とぞ。

 其後(そののち)むかへし妻も、男子、壱人、持(もち)て、三年めの夏、

「行水(ぎやうずい)を、つかふ。」

とて、湯殿にて、一聲、さけびしが、それ切(きり)にて死し、三度めの妻も、やはり、子、一人有(あり)て、三年目におなじことにて、死(しし)たり。

 むかしの、日向《ひなた》とう庵は、病家のうへ、近所なれば、分(わけ)て懇意にて、つねに來て、日向の家に、はなし居(をり)し、とぞ。

 三度めの妻、絕入(たえいり)しときは、碁寄合(ごよりあひ)にて、日向に有(あり)しに、内のものあわたゞしくかけ付(つけ)、

「御新造樣が、氣絕被ㇾ成(なされ)ました。」

と、つげしかば、其人は、げうてんの色なく、

「はてこまつたものだ。また、いきまひ[やぶちゃん注:ママ。「生きまい」で「生きてはおられまい。」の意であろう。]。」

と、いひし、とぞ。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落している。]

 それより、無妻にて有(あり)しが、あるとし、日向の家内(いへうち)とつれ立(だち)、船遊山(ふなゆさん)にいでし時、ひとつに來りて有(あり)しが、十ばかりの男子をつれて來りし。

[やぶちゃん注:「ひとつに」ここは「夫婦連れで」の意であろう。以下のそれは、その女の年であろう。]

 五十ばかりの人なりし。

 子共あれば、跡はたへず、男ぶり、あしくても、武士のじやまにもならず。

 たゞ、當人に、手不自由をさせるやうな、祟りやうなり。

 

一、細川樣御家、中井上加左衞門といひし人も、むこ養子にきて、家娘をきらひし人、なり。是も、おなじやふなことにて引(ひき)とりて後(のち)、二親の氣に入(いり)ながら、妻になるべき女をきらひて、

「いかにも、夫婦と成(なり)がたき。」

よしを、兩親ヘ願(ねがへ)しゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、他へ緣付(えんづけ)るはづにて有(あり)しを、娘も、意地はりものにて、自由にならず、

「一生、御奉公せん。」

と、いひて、其御殿へ上りしを、家娘故、加左衞門、姊分にしてうやまへたりしに、ねだりごとや、氣まゝは、いひ次第にて、其妻女となれば、いぢめ、いぢめして、氣恨(きこん)つゞかず、病死すること、三人。

 加左衞門は、ちと、ひんしやんとした人物にて、みなりをはじめ、萬事、りつは好(すき)[やぶちゃん注:「立派好(りつぱず)き」。]、きれ口をきゝて[やぶちゃん注:啖呵(たんか)を切ること。威勢のよい放言をすること。]、身つまりと成(なり)、自殺して、はてたり。家娘を養子のきらふは、よろしからぬ事か。

只野真葛 むかしばなし (100) 影の病い――芥川龍之介が自身の怪談集に採録したもの

 

一、北勇治といひし人、外より歸り、わが居間の戶を明(あけ)て見れば、机にかゝりて、人、有(あり)。と

『あやしや。誰ならん。』

と、よく見れば、髮の結處・衣類・帶にいたるまで、我(わが)常に着ものにて、

『我(わが)うしろすがたを見しことは、なけれども、寸分、たがわ[やぶちゃん注:ママ。]じ。』

と、おもわれ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

 餘り、

『ふしぎ。』

に思(おもは)るゝ故、しばし、立(たち)て見居《みをり》たりしが、とてものことに、

『おもてを、見ん。』

と、つかつかと、あゆみよりしに、あなたを、むきたるまゝにて、緣先に、はしり出(いで)しが、いづちへ行(ゆき)しや、見うしない[やぶちゃん注:ママ。]たり。

 家内(いへうち)に、其由を、かたりしかば、母は、物をも、いはず、何か【祖父や父の、病(やまひ)にて、死せし事を。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、

「ひそひそ。」

として、有(あり)し、とぞ。

 それより、病付(やみつき)て、其年の中(うち)に、死(しし)たり。是まで、三代、其身の形(かたち)を見て、病付死たり、とぞ。

 これや、いはゆる、「影の病(やまひ)」なるべし。

 若《もし》、母や、家來は、しるといへども、あまり忌々(ゆゆ)しきこと故、主(あるじ)には、かたらで有(あり)し故、しらざりしなり。

[やぶちゃん注:「奥州ばなし 影の病」で既出。そちらで、リキを入れた注を附してある。そちらでも記したが、この話、芥川龍之介が、大正元(一九一二)年前後を始まりとして、終生、蒐集と分類がなされたと推測される怪奇談集を集成したノート「椒圖志異」(サイト版)の中にも、「影の病」として採録している。芥川龍之介は、自身、最晩年に、自分のドッペルゲンガーを見たと、座談会で証言している(精神科医の式場隆三郎に『ドッペル・ゲンゲルの經驗がおありですか。』と問われた際、『芥川 あります。私の二重人格は一度は帝劇に、一度は銀座に現はれました。』とある。私の、『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』(ブログ版)を見られたい。ネット上では、「芥川龍之介は自分のドッペルゲンガーを見たから自殺した」という非科学的な、古びた似非心霊学者のような流言を流して、喜んでいる輩が、糞のようにいるので、注意されたい。

只野真葛 むかしばなし (99)

 

一、長庵、幼年の時に、守女(もりをんな)ども兩人、父樣、出前《しゆつまへ》に玄關口に駕(かご)の有(あり)しを、長庵を、のせて、かつぎあげしに、そのゆれる事、地震のごとし。

 あと棒の女、聲かけて、

「八助、こしを、すへろ、すへろ。」

と、いへば、先ぽうの女、きいたふりにて、

「ヲヽ、うちへ歸りて、すゑよう。」

と、灸(きう)の氣に成(なり)てこたへし故、大わらひと成(なり)し。

[やぶちゃん注:「長廬」真葛の弟で工藤平助の長男「長庵元保」。幼名は安太郎。家内のネーミングは「藤袴」。あや子より二歳下。二十二歳で早逝した。]

只野真葛 むかしばなし (98)

 

一、濱町に工藤家かり宅せし時の家主は、木村養春とて、二百俵の公義御醫師にて有(あり)しが、勝(すぐれ)たる小男なり。

 品川の「年明(ねんあけ)女郞」を後妻とせしが、此女も、

「坊主、大きらひ。小男も、きらひ。」

にて、いつも此二色(ふたいろ)の客をとれば、ふりつけて、あはざりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「ふりつけて」「振り付けて」で、「人を嫌って、はねつける。」の意。]

 其女のかたへ、なじみにてくる客、二人、有し時、壱人は有馬の家中とやらにて、殊の外、わる氣のまわる大ねぢ客なりし。

 此客、きたれば、粉(こ)になるおもひなりしに、二日、居(ゐ)つゞけせられ、やうやう、かへして、

『やれ、うれしや。橫にでもなつて、ちと、休(やすま)う。』

と、おもふ時、初會の客、有(あり)。

 みれば、小男・ぼうづなり。

 物をも、いはず、得手(えて)のごとく、ふりつけしを、少しも氣にかけしていもなく、居つゞけして、新造・かむろを相手にして、打(うち)はを、ふつて、居(をり)し、氣のかるさ。[やぶちゃん注:「打(うち)は」「団扇」か。]

「寢床の中にて、『是そこ[やぶちゃん注:ママ。「是(これ)こそ」の誤記。]、まことの『こなれ人(びと)』といふにやあらん。』と、おもひしより、打とけてなじみとなり、年明にて、身のかたづく時も、願(ねがひ)て、爰(ここ)へきたりしが、緣は、いなものなり。」

と、心やすき人に、かたりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「97」に続く「うかれめの、おもはぬ人にそふは、珍らしからず、といへども、まさしく見しこと」の第二話。]

只野真葛 むかしばなし (97)

 

一、うかれめの、おもはぬ人にそふは、珍らしからず、といへども、まさしく見しこと故(ゆゑ)、しるす。

 吉原に、「かなや」の内、「直衞(なほゑ)」といふ女、高井孫兵衞とて、わるしわく、理屈の外には、なしを、しらぬ人を客にとりて、ふつふつ、氣にいらず、

『いやよ、いやよ、』

と、おもふ故、いくら、ふりつけても、あきずにくる故、いつも、またせておく事なりしに、ある時、例のごとく、またせて置(おき)しに、かぶろ・新造も、あきて居(をら)ぬうち、いづくへ行(ゆき)しや、客、見へず成(なり)しこと有(あり)。

 直衞は、

「顏をださずば、なるまひ[やぶちゃん注:ママ。]。」と、いやいや、座敷をのぞひ[やぶちゃん注:ママ。]て見れば、客は、なし。

 内のものにきけど、誰(たれ)も、しる人、なし。

「大方、おかへり被ㇾ成ましたろう。」

と、みないふ故、その氣に成(なり)、

「ほんに、かへたか[やぶちゃん注:ママ。]。」

と聞(きき)ありくに、人々、

「歸りし。」

といふ故、大に悅(よろこび)、

「もし、誰(たれ)さんも、きなんしよ。うれしいことが有(ある)。いやな客人が歸つたとさ。」

とて、なかまをよび集(あつめ)、うまひものをとりよせて、おもひおもひ、食(くひ)ながら、其客のわるひ[やぶちゃん注:ママ。]ことを、くりかへし、思ひだし、思うひだし、語りて、胸をはらし居《を》る時、もはや、わるくち、いひつくせしを、聞(きき)すまし、後(うしろ)の戶棚を、

「さらり」

と明(あけ)て、孫兵衞、立(たち)いづれば、外(ほか)の女らは、にげて行(ゆき)、直衞は、赤面、消(きえ)いるおもひ、

『如何はせん。』

と無言にておると、孫兵衞は、大きに腹でも立(たち)そふ[やぶちゃん注:ママ。]な所を、さらにいかりの色、無(なく)、

「金にかはるゝつとめの身、わかい心に、すいた、しかぬは有(ある)うちのこと、一々、尤(もつとも)なり。我、仕かたのあしかりし。」

と、感心せしてい[やぶちゃん注:「體」。]にて、おとなしく歸りし、とぞ。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落。]

 直衞は、いよいよ、面目(めんぼ)くなく、

「いかに、つとめの身なればとて、あまりに、さがなき物いひを、きかれしこと。」

と、はぢ入(いり)て、

「とやせん、かくや、」

と、心も、すまず、案じわづらひ居《をり》たる所へ、孫兵衞は、仲人(なかうど)をこしらへて、いはするは、

「先刻は、段々、心中、のこらず聞(きき)とゞけたり。さほど、きらはるゝ孤身(ひとりみの)事、きれて、のぞみをかなへんことは、やすけれど、『客を、さがなくそしりしを聞付(ききつけ)られ、あいそつかして、來(こ)ぬ。』と評判せられては、外聞は、さておき、おや方(かた)の前へ、顏が、たつまじ。とにもかくにも、一度(ひとたび)なれそめしこと。是より、あらためて、しんみの客にして逢(あふ)心なら、聞(きき)しことは、他言せじ。」

と、いひやりしかば、

「わたりに、舟。」

と、よろこびて、其言(そのげん)にしたがひしより、實(まこと)に打(うち)とけし客と成(なり)て、終(つひ)にうけだされて、一生、つれそひ、數寄屋町居宅の河岸(かし)のかたに家居して有(あり)しが、工藤家へも、度々(たびたび)來り、あのかたへも、茶湯ふるまへ[やぶちゃん注:ママ。]に、度々、よびて有(あり)し。

 孫兵衞といふぢゞ、見たりしが、いかにも、女のきらひそふな[やぶちゃん注:ママ。]人なりし【「しつくこい[やぶちゃん注:ママ。]ものには、しめらるゝ。」といふは、是なるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

[やぶちゃん注:「しつくこいものには、しめらるゝ。」「しつこい者には、占められる。」か。]

只野真葛 むかしばなし (96)

 

一、工藤家數寄屋町のかり宅は、石崎九郞右衞門といへる町人のたてし家作なり。

 此人は、もと、駕《かご》のものの「口入(くちいれ)」をして、世をわたりし人なりしが、ふと、金をまふけて[やぶちゃん注:ママ。]大町人(だいちやうにん)の中間へ入(いり)しに、いつも出合(であふ)の時は、

「ものしらず。」

「不風雅。」

とて、なかまはづれにばかり成(なり)しを、無念に、おもひて居(をり)しに、辰ノ年の大火にて、江戶中、燒失、三嶋地面も、けむりと成て、借手(かりて)もなかりし時、九郞右衞門、

「此時ならん。」

と、工夫して、三嶋吉兵衞に相談して、地面をかりて、普請、其外、家びらきのせつ、「中間(なかま)ふるまひ」のことまで、萬事をまかせて賴(たのみ)しかば、三嶋は、もとより大風流の物しり人、

「落(おとし)わらふ人數(にんず)の、何ほどのことやしらん。其義ならば、よろしくぞ、はからふべし。」

とて【「故よきなぐさみ」と悅(よろこび)て、うけ合(あふ)。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、公家衆の家居(いへゐ)のごとくに、圖を引(ひき)て、普請をし、庭には「源氏籬(ませ)」をまわし、「見こしの赤松」・「軒端の紅梅」など、すべて、下人の目なれぬことばかりして、普請出來後(しゆつたいご)、「なかまふるまひ」の日は、上段の間に御簾《みす》を懸(かけ)て、上野(うえの)の樂人(がくじん)をたのみ、音樂を奏じて、饗應ごとせし故、かねて口きくなかまども、一言(いちごん)もなく、ほめることさへ、しらざりしは、心地よかりしことなりし。

[やぶちゃん注:「辰ノ年の大火」幼少の真葛のトラウマとなると同時に、彼女を成人後に「経世済民」の考え方に導いたとされる、明和九壬辰(みずのえたつ)年二月二十九日(一七七二年四月一日)に目黒行人坂(現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近:グーグル・マップ・データ)で発生した「明和の大火」。「3」を参照。

「三嶋」出火元から考えて、東京都品川区西五反田にある三島稲荷神社附近と思われる(グーグル・マップ・データ)。

「上野の樂人」上野東照宮の祭日で音曲を奏でる者。

「源氏籬(ませ)」数寄屋建築にある「源氏塀」(げんじべい)。グーグル画像検索「源氏塀」をリンクさせておく。]

 それからあとは、公家の氣取りにて、衣類を仕立(したて)、まことの公家は見しこともなき故、萬事、芝居のまねなりしとぞ。[やぶちゃん注:以下は、底本も改段落あり。]

 九郞右衞門、妻も、はやく世をさり、娘、壱人(ひとり)有(あり)しを、「お姬」とよび、祕藏せしが、普段着には、白無垢に緋鹿子(ひがのこ)ふりそで、淺黃(あさぎ)のしごきなりし、とぞ。

 片目、つぶれしに、入目(いれめ)して、婿ゑらみのうち、九郞右衞門も死し、後(のち)、桑原に居候(ゐさうらふ)にて有(あり)し「佐七」といふ男を、伯父樣、世話にて被ㇾ遣しが、手もなく、追出(おひだ)されたり。

「外(ほか)に、姬が氣に入(いり)し男、有(あり)し。」

との、ことなりし。

 其緣切(えんきり)のかけ合(あひ)に、桑原へおくりし文(ふみ)の上書(うはがき)は、

「隆朝(りゆうてう)樣 姬より」

と、かきてこしたりし、とぞ。

 娘ばかりにて、跡も、たへたる家とは成(なり)しなり。

[やぶちゃん注:「隆朝」真葛の母方の祖父で仙台藩医桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)の後を継いだ、真葛の母「お遊」の弟桑原隆朝純(じゅん)。「26」を参照されたい。]

只野真葛 むかしばなし (95)

 

一、九月廿日過(すぎ)、ひるより、

「雉子(きじ)を、うたん。」

とて、犬をつれて、山に入(いり)、とかくたづねれども、鳥も、なかりしに、やうやう七(ななつ)[やぶちゃん注:午後二時。]時分、一羽、見いだしたれど、それも、はでにして[やぶちゃん注:暴れて。]、河原(かはら)に、おちたり。

 犬は、つゞきて、崖を下りしが、人は、ゆかねば、まはりて行(ゆき)て見しに、鳥は見へず[やぶちゃん注:ママ。]。

「もし、河水にながれしや。」

と、とかく、もとむるとて、時刻うつり、木の根に腰かけ、やすらひ居(ゐ)たれば、かたはらにふしたる犬、空をあふぎて、しのび聲に、さけびたり【かならず、毛ものゝ、くる時、する事なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

「もし、いたちなどの、いづるや。」

と見めぐらしに[やぶちゃん注:ママ。]、河上(かはかみ)より、人のくる影、見ヘたり[やぶちゃん注:ママ。]。

 河柳(かはやなぎ)の間より見れば、女なり。

『此かはらは、山中にて、人のかよはぬ所なり。木こりなどは、まれにも、かよヘど、女のくべき所、ならず。まして、暮かゝるに、いづちへか行べき。』

と、其さまを、よくみれば、十三ばかりの人のおほきさにて、手は懷(ふところ)へ入(いれ)、兩手とも、入(いれ)しかたち【袖とおぼしきものも見へず。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、古手ぬぐひをかぶり、黑き布子をきて、茶色の帶を〆たり。柳や笹葉にさはりても、少しも、音もせず、足もうごかず、作付(つくりつけ)なる物を、おすやふ[やぶちゃん注:ママ。]なり。

 形は、人にて、人、ならず。

『まづ、ことばを、かけてみむ。』

と、おもひて、

「姊(あね)、どこひ[やぶちゃん注:ママ。]、行(ゆく)。」

と問へば、

「うふゝ。」

とかいふ樣に、こたへしが、かはづの聲に、似たり。

 しかも、

『七、八間わきの、やふなり。』[やぶちゃん注:「七、八間」十二・七三~十四・五四メートル。「やふ」はママ。或いは、「樣(やう)」ではなく、「藪」の濁点落ちかも知れない。]

と、おもひて、そのかたを見やれば、むかひの笹藪の中より、ちひさき狐、首(かうべ)をいだしてゐしが、其狐の、はたらくごとく、人形(ひとがた)も、はたらけば、

『扨は。是が、なすわざに、たがひなし。鐵砲をためてみんとも、見付(みつけ)やせん。』[やぶちゃん注:「ためて」片目を閉じて、狙いをつけて。]

と、あやぶまれて、やうやう外(そと)より、めぐらして、狐のかたへ、むけしに、むかふ見當は、はや、見へず。

『手とらば、いよいよ、くらくならん。』

と、おもひ、火ぶたをきれば、ひゞきと、ひとしく、狐も、人形も、なくなりたり。

 犬を、おこして、やりしに、一聲、鳴(なき)て、歸り來たりし。

 鼻面(はなづら)に、血、付たり。

『仕とめたる』

と、おもひて、笹を分(わけ)て見れば、年ふりし女狐(めぎつね)の、齒も、大方、かけて、二、三枚、有(ある)か、なし、とぞ。

「此あたりにて、人をばかすわるき狐、有(あり)しが、是より、人もばかされねば、是ならん。」

と所のもの、悅(よろこび)し、とぞ。

[やぶちゃん注:流れから、主人公は前に出た「八弥」である。それは、続く次の話で明らかに示される。]

 

 おなじ人、文化三年[やぶちゃん注:一八〇六年。]の秋、おぎしゝ打(うち)に出(いで)しに、

『人氣(ひとけ)なき山を、たづねん。』

と心ざせしに、道にて、「おぎ笛」をうしなひたり【「古事記」に、『天照大御神を、おぎ奉つる。』といふ事、有。「あらぬことを、おもしろげにかまへて、あざむく。」を、いふ。此笛も、ふるき名なるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

[やぶちゃん注:「おぎしゝ」。「只野真葛 むかしばなし (86)」、「おぎ笛」を「荻」の葉で作った「猪」寄せの笛ととったのだが、お恥ずかしいことに、六年前に自分が電子化注した「柴田宵曲 妖異博物館 化物の寄る笛」で、

   *

「おき笛」「日本国語大辞典」によれば、宮城県仙台の例が挙がる方言で(原典の筆者只野真葛は仙台藩医の娘)、猟師が鳥獣を呼び寄せるために吹く笛とある。但し、原典(後掲)では「おぎ笛」と濁り、しかも『「古事記」に、天照大御神をおぎ奉つるといふ事有。あらぬことをおもしろげにかまへて、あざむくをいふ。此笛もふるき名なるべし。』という全く別な名前由来が注されてある。しかし、この「あらぬことをおもしろげにかまへて、あざむく」意味の「おぐ」という動詞は私は知らない。或いは「招(を)く」で「招(まね)く」の謂いか。これなら、鷹匠言葉で「餌など鳥を招きよせる」という意味もあるから、最初の「おき笛」との酷似性が強まると言えるように私には思われる。さらにそれなら、今の「バード・ホイッスル」(鳥笛)との相似性も出てくる。

   *

と明らかに記していた。なお、以下に出る「鹿」も、私は総て、「しし」と読み、「猪」「鹿」を包括した意で採っておく。

 せん方なければ、かの養父忠太夫より、ゆづられし「ひめどう」を取いだし、ふきしに、澤底にて、女の、わらふ聲、はるかに聞えしを、

『「きのことり」に來りし女ならん。』

と、おもひて有(あり)しに、やうやう、ふきかけしを、鹿(しし)を、近づけんとて、吹(ふき)かけし笛をきゝてちかき澤にて、女の笑聲せしほどに、鹿は、おどろきて、にげさりたり。

[やぶちゃん注:「ひめどう」これも、今回、「宮古市北上山地民俗資料館」公式サイトのこちら(「山村生産用具コレクション」の「狩猟・漁労用具」)の「キジおぎ おぎ笛」で、『鹿の骨製の笛で、雄用が正方形に近く、雌用が長方形である』とあって、『資料番号:E-1-37』・『詳細図:e1-37f』・『作図者:安藤稀環子』とあるこの画像を見ることが出来た。これによって、前注と合わせると、「おぎ」は「招ぎ」の可能性が高く、「キジ」は鳥獣を代表する(里近くでも容易に捕獲出来る点ですこぶるポピュラーである)「雉」と考えてよいだろう。而して、想像していた可憐な形ではない、マタギ系を感じさせる道具であることも判明した。

『外(そと)に、よりくる鹿もや。』

と、しきりに笛をふけば、其たびたびに、わらふこと、しばしばなり。

 終(つひ)に、萱(かや)、かき分(わけ)て、

「さらさら」

と、のぼりくるもの、有(あり)。

『又、いにし年の狐のたぐひには、あらずや。』

と、よく見しに、さらに化(け)したる物ならず。

 「おぎ笛」を、よろこびたるさまにて、右の手を、いたゞきに、あげ、左の手を、むな前(まへ)に、つけて、こなたを、見やりて、こゝろよげに、わらへるつらつき、赤きこと、猩猩緋(しやうじやうひ)のごとく、かしらの髮は、つき毛馬(げうま)の尾のごとし。

[やぶちゃん注:「つき毛馬」葦毛(葦の芽生えの時の青白の色に因み言う馬の毛色名。栗毛・青毛・鹿毛(かげ)の原毛色に後天的に白色毛が発生してくるもの)で、やや赤みを帯びて見えるの馬。由来は鴾(つき:ペリカン目トキ科トキ亜科トキ属トキ Nipponia nippon の古くからの異名)の羽色を連想させるところから。]

 朝日に、うつりて、ひかりかゞやき、惣身(そうみ)の毛は、くちば色にて、豆(まめ)がらを付(つけ)たるごとく、ぬけいでゝ、さがれる物、ひまなく、付(つき)たり。

 見事なる奇獸なり【鐵砲をとりまわすとて、少し、かたちの見えしにや、毛物、おどろきて、】。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 落(おち)、さかさにかへりて、にげ行(ゆく)所を、背の四ツ合(あひ)を、ねらひ打(うち)し。

 鐵砲の音と、ひとしく、おめき、さけび、澤底(さわぞこ)に入(いり)しが、なく聲、小女(しやうじよ)に、たがふこと、なし。やゝひさしく、くるひて、聲もたへしが、其からは、故有(ゆえあり)て手に入るに、あまたの年は、へぬれども、名笛(めいてき)のしるし、有けるぞ、ふしぎなる。

[やぶちゃん注:この最後のシークエンス、私は、何だか、妙に心穏やかではいられない。ここにくるまで、八弥は一貫して、「女の」「笑」「ふ聲」とし、「狐のたぐひには、あらずや」と疑うも、「よく見しに、さらに化(け)したる物ならず」と否定して、人形(ひとがた)で少女の姿であることを言明している。顔や頭髪が強い赤い色を呈していること、「惣身」に朽葉色の毛に覆われて、ぼそぼそと抜けたそれを、「ひまなく」ぶら下げているというのは、「山姫」・「山女」のように特異的ではあるが、としても、これは、どうみても、ヒトの少女に違いない。ところが、それを、打ち殺す直前では「見事なる奇獸なり」「毛物」と言い変え、「にげ行所を、背の四ツ合を、ねらひ打」ったのである。ところが、「鐵砲の音と、ひとしく、おめき、さけび、澤底に」転落した後も、その「なく聲」は「小女に、たがふこと、なし」と言っているではないか? 何故、八弥は、その獲物=奇獣を回収しなかったのだ? それは、この子は、事実、山中に住んでいた少女であったからではなかったか? 口減らしや、何らかの身体的・精神的疾患を持った少女の捨て子、ペドフィリアにかどわかされたが、その男が死んだか、そこから逃げた、少女だったのではなかったか? 八弥は、姿こそ異様だが、人間の少女と実は認識したからこそ、「ヤバい」と感じ、放置して、逃げ帰ってきたのではないか? その後悔を、真葛に怪奇談の妖怪の山姫・山女の少女として語り変えることで、自身の道義的責任(殺人罪)を逃げているとしか、私には読めないのである。そうすると、「86」の最後に出る『「養子覺左衞門に、讓る。」とて、「此笛は、しかじかの事、有(あり)て、吹(ふけ)ば、化物の、よりくる笛なり。必ず、用(もちふ)べからず。」と、いひし、とぞ【後、覺左衞門ふきし時も、あやしき毛物、より來りし。】』とあるのも、何やらん、この後の少女殺人を回避する目的のみえみえの伏線のようにしか、私には思われない気もするのである。

2023/12/26

只野真葛 むかしばなし (94)

 

一、七月半頃、年魚《あゆ》、しきりにとれる時、夕方より雨ひまなくふりしに、

「こよひは川主(かはぬし)も漁には出(いで)じ。いざ徒ごとせん。」

とて、八弥、小性(こしやう)の梅津河右衞門をつれて、孫澤のかたへ、ぬすみ川つかひに行(ゆき)しに、狐火(きつねび)のおほきこと、左右の川ふちを、のぼり、くだり、數もしれざりし、とぞ。

『あの狐どもめが、魚を、くひたがりて。』

と、心中にくみながら、だんだん、河をのぼりて、魚をとることおびたゞしく、

「大ふごに、一ぱいとらば、やめん。」

と約束して、とりゐるうち、はるか河上(かはかみ)にて、大かがりをたく影、見えたり。

 ふと、みつけて、兩人とも、立(たち)よどみ、

「もしや、この雨にも、河主の、年魚とりに、いでしや。」

「何にもせよ、今、少しにて、一ぱいになれば、やめずに、とるべし。くらき夜なれば、よも見つけられじ。」

と、やはり、魚をとりゐたるに、かゞりの置(おき)所より、人、壱人(ひとり)、たひまち[やぶちゃん注:底本にママ注記あり。「たいまつ」(松明)。]を付(つけ)て、川に、をりき[やぶちゃん注:ママ。]たり、「夜ともし」をするていなり【「夜ともし」とは、よる、川中へ、かがりをふりて、魚をとることなり。]】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

『すわや[やぶちゃん注:ママ。「すはや」が正しい。]。』

と、心さわぎしかど、

『あなたは、壱人、こなたは、兩人なれば、見とがめらるゝとも、いかゞしてか、のがれん。』

と、心をしづめて見居(みゐ)たりしに、よく打(うち)まもりて、河右衞門が曰(いふ)、「あれは、人にたがはぬやうなれども、誠の人にては、あらじ。持(もち)たる火の、上にのみ、上りて、下に落(おつ)ることのなきは、まことの火に、あらず。」

といふ故、よく見るに、いかにも、あやしき火なり。

 兩人、川中に立(たち)て、おどろかで、有(あり)しかば、一間ばかり、ちかくへ、來りて立居(たちをり)しが、

『ばかしそこねし。』

とや、おもひけん、人の形は、

「はた」

と消(きえ)て、あかしばかり、中《ちう》をとびて、岡へ上りし、とぞ。

「まさしく、ちかく、狐のばけたるを見しこと、はじめてなり。」

と、八弥、はなしなり。

 河右衞門は、眞夜中に、河をつかひて、物におどろかぬ人なり。

 覺左衞門、はなし。

[やぶちゃん注:以上は、「奥州ばなし 狐火」と、ほぼ同内容である。そちらで、綿密に注を附してあるので、見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「白猿刀を奪う」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 白猿刀を奪う【はくえんかたなをうばう】 〔兎園小説第十一集 〕佐竹侯の領国羽州に山役所《やまやくしよ》といふ処あり。この役所を預りをる大山十郎といふ人、先祖より伝来する所の貞宗の刀を秘蔵して、毎年夏六月に至れば、これを取り出だして、風を入るゝ事あり。文政元六月例のごとく座敷へ出だし置きて、あるじもかたはら去らず、守り居けるに、いづこよりいつのまに来りけん、白き猿の三尺ばかりなるが一疋来りて、かの貞宗の刀を奪ひ立ち去り、ゆくりなき事にて、あるじもやゝといひつゝ、おつとり刀にて追ひかけ出づるを、何事やらんと従者共もあるじのあとにつきて、走り出でつゝ追ひゆく程に、猿はそのほとりの山中に入りてゆくへを知らず。あるじはいかにともせんすべなさに、途中より立ち帰り、この事従者等をはじめとして、親しき者にも告げ知らせ、翌日大勢手配りして、かの山にわけ入り、奥深くたづねけるに、とある芝原の広らかなる処に、大きなる猿二三十疋まとゐして、その中央にかの白猿は、藤の蔓を帯にして、きのふ奪ひし一腰を帯び、外の猿どもと何事やらん談じゐる体《てい》なり。これを見るより十郎はじめ、従者も刀をぬきつれ切り入りければ、狼ども驚き、ことごとく逃げ去りけれども、白猿ばかりは、かの貞宗を抜きはなし、人々と戦ひけるうち、五六人手負ひたり。白猿の身にいさゝかも疵つかず。度々《たびたび》切りつくるといへども、さらに身に通らず。鉄砲だに通らねば、人々あぐみはてゝ見えたるに、白猿は猶山ふかく逃げ去りけり。それより山猟師共を語らひけるに、この猿たまたま見あたる時も候へども、中々鉄砲も通らずといへり。この後《のち》いかになりけん。今に手に入らざるよし、その翌年、かの地の者来りて語りしを思ひ出でて、けふの兎園の一くさにもと、記し出だすになん。<『道聴塗説廿編』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 白猿賊をなす事』を参照されたい。なお、宵曲は「柴田宵曲 妖異博物館 猿の刀・狸の刀」でも採り上げているので、そちらも、どうぞ。そこで、最後の宵曲の附記の「道聴塗説」の当該話も電子化してある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「馬角」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 馬角【ばかく】 〔甲子夜話巻十一〕馬角のこと典故には聞けども、実《まこと》に見たると云ふを聞かず。近頃、弘前侯の領内、角ある馬を産すと聞く、その図并《ならび》記事如ㇾ左。

柏木組夕貌関村百姓長四郎立駒当三歳鹿毛《かげ》。

 

Bakaku

 

左の耳に長さ一寸丸九分位の角生じ、図の如く曲り、色黒くかたし。但本の方は和くして、また右の方にも生立ちし角見え申候。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷十一 12 馬角の圖」を注を附して公開しておいた。底本にも図があるが、宵曲が模写したもので、小さいので、そちらで掲げた『東洋文庫』版の図をトリミング補正したものを、再度、掲げておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷十一 12 馬角の圖

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナの読みは静山自身が附したもので、珍しく多く振っている。図は底本の『東洋文庫』版の図をトリミング補正して用いた。]

 

11―12 馬角(ばかく)の圖

 馬角のこと、典故には聞けども、實(まこと)に見たると云ふを、聞(きか)ず。

 近頃、

「弘前侯の領内、角(つの)ある馬を、產す。」

と聞く。其圖、幷、(ならびに)、記事、如ㇾ左。

 

Bakaku

 

柏木組(かしはぎぐみ)夕貌關村(ゆふがほせきむら)百姓、長四郞、立駒(たちごま)、當三歲、鹿毛(かげ)。

左の耳に、長さ一寸、丸(まるさ)九分位(ぐらゐ)の角、生じ、圖の如く曲り、色黑く、かたし。但(ただし)、本(もと)の方は和(やはら)くして、又、右の方(かた)にも生立(おいだ)ちし角(つの)、見え申候。

■やぶちゃんの呟き

「馬角」「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 馬角」に図入りで出る。馬の頭部に生えた角状の角質の腫瘍(概ね良性のものが多いようである)。ヒトにも稀れに見られる。

「弘前侯」「兎園小説」でよく知っているが、弘前氏は、代々、大の馬好きである。

「柏木組夕貌關村」現在の青森県北津軽郡板柳町(いたやなぎまち)夕顔関(ゆうがおせき:グーグル・マップ・データ)。「柏木組」同村は西に牡丹森村を挟んで柏木村があったから、これは複数の村を合わせた上位の村落集団を言ったものである。

「立駒」よく判らないが、現行では一般的に、馬は四歳までを未成熟とし、五歳を成人として、それ以降は毎年二・五歳をとるものとしている。それに当て嵌めるならば、当時は数えであるから、立って普通にふらつかずに歩けるようになった個体を指していると読んでおく。

「鹿毛」は、狭義には、体は鹿に似た褐色で、鬣・尾・足の下部などが黒いものを指すが、普通、我々が「馬」と言われて想起する色、則ち、一般的に見られる茶褐色の馬のことを指すと言ってもよい。

「丸」角状の根もとの円周を言うか。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「墓石磨き」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 墓石磨き【はかみがき】 〔甲子夜話続篇巻五十〕また鼎<朝川鼎>が門人に関宿《せきやど》<千葉県野田市>の辺の人あり。彼《かの》地に往《ゆ》[やぶちゃん注:底本も『ちくま文芸文庫』版も『住』とするが、「東洋文庫」の原本で確認したところ、『往』で、誤植であることが判ったので、特異的に訂した。]きたる時、正しく聞見して語れるとて、鼎がまた語れるは、かの石塔を磨く事、始めは古河<茨城県古河市>あたりよりして関宿・野火留の辺、所々至らざる無し、大凡《おほよそ》一夜に磨くこと二百塔に及ぶと。且つ塔の文字に朱を入れたるは、新たに朱をさし、金をいれたるは、古きは新たに山梔(くちなし)を入れて黄色をなす、されど雨を蒙れば色消《け》すと。この如くなれば、この妖を憂ふる者は、石塔を家に持ち帰ればその夜これをも洗磨《あらひみがき/せんま》す。とかく奇怪なれば、その領主より妖物《えうぶつ》を捕へんため、足軽輩数人《すにん》を出《いだ》し窺ひ、要するに見えず。女の音声騒々《そうそう》として三四十人も集り居《を》ると聞ゆ。されども姿は見ゆること無し。鼎曰く、この怪解し難き事千万なり、予<松浦静山>曰ふ、いかなる妖か。<『甲子夜話続篇巻十五』『きゝのまにまに』天保元年の条にもこの事がある>

[やぶちゃん注:まず、言っておくと、最後の宵曲の附記の内、「甲子夜話続篇巻十五」とあるのは、「甲子夜話続篇巻五十五」の誤りである。『ちくま文芸文庫』版も誤ったままである。ちょっと調べれば、おかしいことが判るのに、筑摩書房の編集者も落ちたもんだ。以上の本文は、事前に「フライング単発 甲子夜話續篇卷五十 5 石塔磨の怪事」で、電子化しておいた。さらに、「甲子夜話続篇巻五十五」についても、先ほど、「フライング単発 甲子夜話續篇卷五十五 1 墓磨(ハカミガキ)の怪事 / 同卷 2 墓磨の再話(注にて「甲子夜話續篇卷之二十八 20 焚死の靈の爲に塔を建つ」も電子化した)」で図入りで公開してあるので、是非、見られたい。

「きゝのまにまに」「聞きの間に間に」の意で、風俗百科事典とも言うべき「嬉遊笑覧」で知られる喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の雑記随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十一(三田村鳶魚・校訂/随筆同好会編/昭和三(一九二八)年米山堂刊)のこちらで正字で視認出来る(左ページ五行目から)が、僅か五行で、甚だ短い。]

フライング単発 甲子夜話續篇卷五十五 1 墓磨(ハカミガキ)の怪事 / 同卷 2 墓磨の再話(注にて「甲子夜話續篇卷之二十八 20 焚死の靈の爲に塔を建つ」も電子化した)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、続き物で連続なので、カップリングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナの読みは静山自身が附したもので、珍しく多く振っている。]

 

55―1 墓磨(ハカミガキ)の妖事

 或人の文通に、此節、處々、寺院の暮石を磨くこと、種々(しゆじゆ)、雜說、多し。是も、追々、聞き給ふならん。「夜話」に書き入らるべきのこと也。

 一昨年、西國風變、大阪邪宗門、越後地震。去年、江戶大火。今年は京都地震。數般(すはん)の異事を唱ふること、引(ひき)もきらず。

 是等、既に册中に戴られたり。かゝる種々の異、竝び至るは、拙夫、この老年まで、一度も遇はざることなり。

 又頃日(このごろ)、紀海(きのうみ)に、潮(うしほ)さしたるのみにて、引くこと、無し、と云(いふ)。

 阿波の國民(くにたみ)、一男を產せしが、生れながらにして、能く言語し、けしからぬことを云ひて死したり抔(など)、其外、世間の風聞、數般、囂(かまびす)しきことども也。

 江都(えど)築地門跡には、蕎麥、一本、生じて、其尺(タケ)、一丈を超したりしに、友人、その枝を見たりしが、凡(およそ)、四尺を越(こし)しとぞ。

 又、墓磨は、虛事(そらごと)にあらず。

 予が莊(さう)の北東なる、近所、福嚴寺の墓も、昨夜、磨きたりと、聞くゆゑ、人を遣はし、視(み)せしむるに、返(かへり)て、曰(い)ふ。

「その磨きし痕は、砥石などにてすりたるにもなく、さゝら抔にて、磨きたる體(てい)なり。

 銘に朱を入れたりと云(いふ)も、紅がらの如き赤き物を施せり。其寺に土牆(つちかべ)を門の如く高く築揚(つきあ)げ、その上に藥師の石像を安置せし、その面(おもて)をも、洗ひたり、と覺(おぼ)しく、磨(みがき)て見へ[やぶちゃん注:ママ。]、口には、赤色を塗りたり。

 この門牆(もんかべ)、容易に人の上り難きに、いかさま、妖物(えうぶつ)の所爲か、又は惡少(ワルモノ)等(など)が爲す所か。

 人にもせよ、化物にもせよ、何れか爲(ス)るならん。

 群墓の中(うち)、向(むかひ)の墓を磨かんとて、爲(セ)しなるべく、その前の墓を推朴(おしたふ)して、又、大なる墓石に觸(ふる)れば、大なる方、二つに割損(われそん)じて有りし、と。

 是等は、遣したる者の目擊語(がたり)。

 又、或人、曰(いはく)、

「何れの寺か、某侯の墓、在(あり)しを、これも、その面を磨き、遂に、兆域(ハカマハリ)の石籬(ヰガキ)を引壞(ヒキクズシ)したり。」

と。

 又、十月八日に、東漸院にて聞(きき)しは、

「上野の山内(さんない)にも、此事ありて、護國院の墓所も磨きたり。因(よつ)て、寺社奉行より、嚴しく、申付ありて、以來、『このこと、有らば、卽時に申達(まうしたつ)すべし。』との令(れい)なり。」

と。

 又、或者、云(いふ)。

「この近鄕にて、墓磨を心づけゐしに、或夜、白衣(びやくえ)僧形(そうぎやう)なる男女(なんによ)二人、來(きた)り、磨くゆゑ、捕へんと爲(せ)しが、顧(かへりみ)て、疾視(ニラミ)たる眼(まなこ)、懼(おそろ)しかりければ、其人、退(しりぞ)きたる間に、彼(かの)二人を、見失(みうしなひ)し。」

と。

 附會の說か、否(いな)。

■やぶちゃんの呟き

「一昨年、西國風變、大阪邪宗門、越後地震。去年、江戶大火。今年は京都地震」「西國風變、大阪邪宗門、越後地震」の「西國風變」文政一一(一八二八)年八月に、主に西国で広範囲に発生した台風と、それに伴う洪水災害を指す私の。『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「文政十一年戊子の秋、西國大風洪水幷に越後大地震の風說」』を見られたい。「大阪邪宗門」は文政十年に京坂で切支丹を信仰する人々の存在が発覚、追々、詮議が行われれ、結果、文政十二年十二月に処罰された事件の展開のピークを言う。「越後地震」は三条地震」或いは「越後三条地震」「文政三条地震」とも呼ぶ。文政十一年十一月十二日(一八二八年十二月十八日)、現在の新潟県三条市芹山附近を震央とし、マグニチュードは六・九と推定されている(同前リンク先参照のこと)。「江戶大火」は「文政の大火」(神田佐久間町の火事)のこと。文政十二年三月二十一日(一八二九年四月二十四日)発生。死者約二千八百名。焼失家屋三十七万戸。「京都地震」は文政十三年七月二日(一八三〇年八月十九日に発生した直下型地震で、京都市街を中心に大きな被害を出した。マグニチュード六・五前後とされ、町方だけで負傷者千三百人、即死二百八十人とされる(御所・武士のデータは不明)。私の『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「文政十三年庚寅秋七月二日京都地震之事」』等を参照されたい。

「東漸院」寛永寺の子院。現在はここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「護國院」同前。ここ

 

55―2 墓磨の再話

 後(のち)、十月十日、增上寺に詣(まゐり)たれば、宿坊雲晴院にして、

「御寺にも、此こと、ありや。」

と問ふに、住持、答ふ。

「未だ無けれども、近頃、何院にか有りし迚(とて)、人、群集せしが、是は、檀家より磨き來れる墓を、取違(とりちが)へたり、と。されども、寺社奉行よりは、『若(も)し、密かに磨く者あらば、指置(さしお)かず、召捕(めしとら)ふべし。』との嚴令なり。」

 住持、又、曰、

「聞く、このこと、豫州より初(はじま)りて、東海道を經(へ)たるが、田舍のことゆゑ、さ程にも有らざりしに、武・常・總・野州のあたりより、沙汰、廣くなりて、遂に御府内(みふない)には、入(はい)りたり。」

と【されば、「『御蔭參り』は、阿州より起れり。」と聞けば、是等のこと、皆、四國よりぞ、基(もと)ひ[やぶちゃん注:ママ。]せし。】。

 又、曰。

「某佛師、來りて云(いふ)には、

『新堀(にいほり)なる某社(ぼうやしろ)の祠前(ほこらのまへ)に置(おき)たる兩狐の石像を、これも、磨きたり。されば、墓石にも限らず。』

と。又、何れよりか聞(きき)たる、侍婢(じひ)等が話(はなさ)れるは、

『或所にて、夫婦連(づれ)にて墓參せしに、一夫(いつぷ)の、前立(さきだ)つて、其人の先墓(せんぼ)を磨く、あり。夫婦、「これは、我等が方(はう)の墓なり。磨くに及ばず。」と云(いひ)たれば、其人、顧(かへりみ)て、「我(われ)、磨く、奚(なん)ぞ、汝等(なんぢら)が構(かま)ひ有らん。」と答(こたへ)たるゆゑ、夫婦も恚(いかり)て、又々、咎めたれば、其まゝ、其夫(ふ)の姿、消(きえ)うせたり。夫婦、驚き、急ぎ、我家に歸りたるに、あとに居(をり)し七歲なる女子(をんなご)の、成婦(せいふ)の如く、眉を剃り、齒を染(そめ)てありたるゆゑ、又、驚(おどろき)て、その齒を磨き、おとせども、白からず。されば、「彼(か)の妖物の愈(たちまち)、この如き返報や、せし。」と、愈々、恐怖して、爲(せ)ん方を知らざりし。』

と。」

 是等は、人の附言せし者乎。

 前に記せし「石狐」のことは、聞(きき)誤りか。鼎(けい)が話せしは、新堀の寺に、祠にか、屋上の四隅に、置(おき)し狐形(きつねがた)を、三疋は洗磨(あらひみがき)せしが、何にしたるや、一疋は故(もと)のまゝなるに、その左眼には、丹(に)をいれ、右には金(きん)をいれし。」

と。

「急(いそぎ)て、過(あやまち)たるか。」

と、人、皆、笑ひし。

 人の話には、推量、又は、相違も多けれど、目(ま)の當りなるは、予が醫師嵐山某と云(いふ)が寺は、法音寺橋の邊(ほと)り、永隆寺【法華。】と云(いふ)なるが、此一族の墓、在(あ)るを、皆、磨きたり。其中(そのなか)、某(なにがし)が幼女、近頃、沒せしが墓あるは、新墓のことゆゑ、銘には、墨を濃(コク)いれたりしを、是等は素(シロ)く、石色(いしいろ)のまゝに、驚くばかりに磨きなしたり、と。

 さすれば、是は直語(なほきこと)、正(マサ)しきこと也。

 又、鼎が云ふ。

「我が門人に某と云(いふ)は、御代官の「手付(てつき)」、「八州廻(はつしうマハリ)」と云(いふ)勤(つとめ)にて、この役は、近鄕の「盜賊あらため」也。因(よつ)て、此度(このたび)は、この墓磨の穿鑿を云付(いひつけ)られて、心をつけたるが、曾て、手がゝり、無し。夫(それ)故に、何れにて磨きたりと聞きては、輙(すなはち)こゝに赴(おもむ)けども、每(つね)に、その、後(あと)のみ、なり。されども、其ありさまは、必ず、妖怪とも思はれぬは、井(イド[やぶちゃん注:ママ。])ある所は、この水を以て、洗磨(あらひとぎ)せしと覺しく、井どより、墓所まで、行々(ユクユク)、水のこぼれたる、痕、あり。又、洗(あらひ)たる墓には、水つきたる足跡あるを見れば、常人の足痕(あしあと)なり。又、或所にては、磨たる墓石に、「依心願磨之」[やぶちゃん注:「しんぐわんによりてこれをみがく」。]の字を、黑く書(かき)たるあり。甚(はなはだ)拙筆なり。是等は、人の戲(たはむれ)に書たる者か、若(もし)くは、實(まこと)に心願にて、墓を磨く者か。是れ、彼(かの)門人が話なり。」

と。

 鼎、又、話す。

「囘向院は、その宅の近くなれば、『彼(か)の寺内の墓を、磨きたる。』と聞(きき)しゆゑ、往(ゆき)て見たるに、成(なる)ほど、洗磨せしに違(ちがひ)なし。其寺の構へも、あらはならず。然(しか)るに、何(いか)にして入りたる者か、何(いづ)れ、夜分のことなるべし。且(かつ)、門内にある大塔【この塔は、續篇二十八卷に記せし、大火の後、燒死を吊(とむらひ)せし塔にして、高(たかさ)二間なり。古塔と合せて、三基あり。】、三つなるを、二つは、磨きて、一つは舊(もと)の如し。長(た)け高き塔なるが、何(い)かにして磨きたるや、上方(うへかた)なる寶珠形(はうじゆがた)は殘して、下は、皆、磨きたり。『足次(アシツギ)にても、無くば。』と思はる。

 予、幸(さいはひ)に、翌日、彼(かの)寺の門前を過(よぎ)ることあれば、轎中(かごうち)より見しに、鼎が言の如く、二つは、よく磨き、新碑の如く、一つは、古色存(そん)せし。殆ど不思議と、云べし。

 又、或人、云ふ。

「上野山下の某寺にては、番人を付け置(おき)てかの妖を禁ぜしが、或夜、墓間(はかのあひだ)に人あるを知(しり)て、守(まもる)者、打(うち)より、捕へたるに、一人にあらず、男女(なんによ)なり。

『怪物か。』

とたゞすに、婬會(いんくわい)の者なりし。人皆(ひとみな)、笑散(わらひちら)せし。」

と。

 北山(ほくざん)が子、綠陰が、鼎に咄したるは、

「湯嶋天神下に宅(たく)する奥醫片山與庵、先祖の墓は、五輪塔にして、古塔ゆゑ、殊に大(おほ)ひ[やぶちゃん注:ママ。]なるが、いつか、傾(かたぶ)き倒れて、年を歷(へ)たるを、修建(しゆけん)には、數金(すきん)の費(つひへ)、かゝれば、意外に舍寘(ステおき)たるに、この度(た)び、かの妖磨(えうま)が、いつか、磨きたるうへ、倒れたる大塔を、故(もと)の如く建たり。」

と。

 是等、所謂、「鬼に瘤(こぶ)を取られし者」か【鬼瘤の事、「宇治拾遺」に見ゆ。】。

■やぶちゃんの呟き

「雲晴院」浄土宗。現在の港区芝公園のここに現存する。この寺は静山の先祖の松浦肥前守室(雲晴院尼)が檀主となり、寛永一〇(一六三三)年建立されたものである。

「『御蔭參り』は、阿州より起れり。」伊勢神宮のそれは、私のブログ・カテゴリ「兎園小説」の、曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「松坂友人書中御陰參りの事」以下の連続する五篇の記事が、「御蔭參り」についての私の注では、最も完備しているので、見られたい。

「新堀」現在の東京都江戸川区新堀(にいほり)であろう。拡大すると、ここに「稲荷八坂神社」の祠ある。

「鼎」朝川鼎。私の「フライング単発 甲子夜話卷之十 37 くだ狐の事」で注済み。読みは調べ得なかったが、彼は儒学者であるから、「けい」と音読みしていると私は思うので、今回は入れた。

「新堀の寺」現行では、新堀地区では、真言宗勝曼寺が確認出来る。江戸時代からあった寺である。

「法音寺橋」これは東京都墨田区太平にある大横川親水公園に架かる「法恩寺橋」の誤記と思われる。その地図の東北に「法恩寺」(日蓮宗)があり、同寺の広大な墓地も確認出来る。

「永隆寺【法華。】」これは、寺としては見当たらないが、それは平凡社「日本歴史地名大系」で解消された。その「本所永隆寺門前」に、『東京都墨田区』の『旧本所区地区本所永隆寺門前』があったが、その『現在地名』は『墨田区太平』『一丁目』であり、『南本所出村』『町御用屋敷の法恩』『寺表門前続き分の西にあり、西は南本所出村町、北は法恩寺。永隆寺境内北側に立てられた門前町屋』であった。『永隆寺は』、『初め』、『谷中』『で地所を拝領しており、その当時から門前町屋があったが、元禄四』(一六九一)年、『寛永寺境内に囲い込まれて上地』(あげち)『となり、同年』、『本所法恩寺前続きに代地を与えられた。門前町屋も拝領地に含まれて移り、本所永隆寺門前と称した。延享二』(一七四五)年には、『町奉行支配となった』とあったからである。思うに、永隆寺は一応、そこで、寺として存在したが、恐らくは、法恩寺の附属寺院となっていたものと推定される。

『御代官の「手付(てつき)」、「八州廻(はつしうマハリ)」』関東取締役出役(でやく)。江戸幕府の職名の一つで、文化二(一八〇五)年、関八州(武蔵・相模・上野・下野・上総・下総・安房・常陸。幕府は将軍の御膝元という理由などで、その取締りには特に意を注いだ)の悪党・無宿・博徒の取締り・逮捕を目的に設けられた。関東代官四役所から、手付・手代二人ずつを選任し、勘定奉行の直轄とし、関八州の御料・私領・寺社領の別なく、巡回させた。逮捕者は勘定奉行に差し出した。俗に「八州廻(回)り」「八州様」とも称し、単に「関東取締役」とも呼んだ。

「あらはならず」いい加減ではない。境内の周辺を厳重に作り構えてあることを言う。

「門内にある大塔【この塔は、續篇二十八卷に記せし、大火の後、燒死を吊(とむらひ)せし塔にして、高(たかさ)二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]なり。古塔と合せて、三基あり。】」この「續篇二十八卷」は、前の項で示した「文政の大火」の惨事を、丸々、二十八条もの膨大な記事として一巻としたもので、当初は、電子化をしないつもりであったが、どうも、今までのフライングの経験上、座り心地が悪いので、当該条のみを、以下に電子化することにした。まさにこの慰霊の塔の図が含まれているからである。最後に図を底本の「東洋文庫」版からOCRで読み込み、トリミング補正したものを掲げておく。

   *

 

甲子夜話續篇卷之二十八 20 焚死の靈の爲に塔を建つ

 

28-20

 前に、築地の海邊にて、夜陰に、幽靈、叫喚することを云(いひ)き。

 頃(このご)ろ、彼(かの)地に住(すめ)る某(なにがし)話しは、叫喚の聲は、

「たすけてくれ、たすけてくれ、」

と、呼ぶ。又は、數人聲(すにんのこゑ)にて、

「わあ、わあ、」

とばかり、云(いふ)とぞ。

一、石匠(いしく)道榮坊曰(いはく)、

「一日(あるひ)、士、二人、來り、

『燒亡者の墓石。』

とて、命ず。一人の墓石とも覺へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。又、主人の名をも、云はず。福井侯の婢女(はしため)、多く燒亡すれば、若(もし)や、この侯の士か。又、先頃、何(イヅレ)かの家賴(けらい)、かねて識らざる者、來り、

『此度(このたび)の災(わざはひ)にて、死亡者、多し。菩提のため、囘向院に塔を建つべし。』

迚(とて)、その注文を、與(あた)へ、還る。

『何方(いづかた)の屋鋪。』

と問(とへ)ども、答(こたへ)ずして、去る。又、道榮が本宅のあたりに、御納屋勤(おんなんやづとめ)の者あり。その娘、仙臺の後宮小姓勤(おくむきこしやうづとめ)に出(いで)たり。或日、下宿して人に語るは、

『我が屋鋪より、此度(このたび)、囘向院に塔石を建給ふ。』

と。されば、彼(か)の大塔は、仙臺侯より、建(たつ)るか。この度の火、侯邸に及ばず。道榮、察するに、彼侯、近頃、代々、世を蚤(はや)ふし給ふ。因(よつ)て、非命を吊(とふらひ)て、冥福を求めらるゝ歟。

と。


左   聞所說、莫シ觀喜。諸天人民

法本

    蠕動之類、皆蒙慈恩ヲ、解脫憂苦


 論云。讚スルニ諸功德、無コト分別心

 能滿功德大寶海


後 字行は三行に長書す

 今季文政十二己丑三月廿一日、府内大火、罹

 於玆禍命亦夥矣。于玆有噠嚫主、竊愍

 其亡靈、從五月二十一日市設五箇連日之別

 時念佛大施餓鬼、及滿辰放生會慈濟之法要

 以造立此石碑、被福無怙無恃之幽魂

 也。維時文政十二己丑秋七月佛歡喜日。當院

 十六主名譽代。


[やぶちゃん注:以上の碑文は底本では全体が一字下げであり、「右」と「後」はポイント落ちだが、「左」に合わせて、同ポイントとした。難しくないので、訓読は示さない。語注をしておくと、「噠嚫主」は「たつしんしゆ(たっしんしゅ)」で、ここは単に「施主」を指す。「無怙無恃」の「怙」「恃」は、ともに「頼む」の意。]

右の碑文に據れば、「仙侯」と云はんも、其由(そのよし)、あり。若(もし)くは、亦、「福侯」か。當院名譽は、先年、都下(とか)に喧呼せし德本行者の高弟にして、「晝夜不臥の行者。」と聞く。

 

Tousekinozu

 

   *

「足次(アシツギ)」慰霊塔の高さから見て、単なる「梯子」のことであろう。

「北山が子、綠陰」儒者山本緑陰 (安永六(一七七七)年~天保八(一八三七)年)。江戸生まれ。儒者山本北山の子。名は信謹。詩集「臭蘭稿」を著わし、大窪詩仏と「宋三大家絶句箋解」を編集した。

「片山與庵」恐らくは与安法印とも称して、徳川家に仕えた江戸前期の医師片山宗哲(天正元(1573)年~元和八(一六二二)年)の後裔であろう。

先祖の墓は、五輪塔にして、古塔ゆゑ、殊に大(おほ)ひ[やぶちゃん注:ママ。]なるが、いつか、傾(かたぶ)き倒れて、年を歷(へ)たるを、修建(しゆけん)には、數金(すきん)の費(つひへ)、かゝれば、意外に舍寘(ステおき)たるに、この度(た)び、かの妖磨(えうま)が、いつか、磨きたるうへ、倒れたる大塔を、故(もと)の如く建たり。」

『鬼瘤の事、「宇治拾遺」に見ゆ』私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「難病治癒」(その2)』の私の注で電子化してあるので、見られたい。

2023/12/25

フライング単発 甲子夜話續篇卷五十 5 石塔磨の怪事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。書き付けの部分は標題を含めて、前後を一行空けた。カタカナの読みは静山自身が附したもの。]

 

50―5 石塔磨(せきたうみがき)の怪事

 是も亦、檉宇(ていう)が示(しめし)しなり。

 この怪事、已に或人より聞(きき)て、

『疑がはし。』

と思(おもひ)ゐしを、此書寫を見て、復(また)、半(なかば)、信(しん)を生(しやう)ぜり。其文(そのふみ)。

 

   申利より差越候儘寫置候書付

石川中務少輔樣【石川氏居城、常州下館。】[やぶちゃん注:底本に『欄外注記』とする編者注がある。]御領分、當八月朔日夜より、御領分之寺々、石塔磨候もの有ㇾ之、何者之仕業とも相知不ㇾ申、二日、三日あたりは晝も磨候由。一晝夜には、何ケ寺と申事も無ㇾ之、數(す)百本之石塔、一度に磨申侯。其音がりがりと聞え候得(さふらえ)ども、人目に見え不ㇾ申候。石塔は奇麗に相成(あひなり)候上は、朱墨等、入替(いれかへ)候抔(など)も有ㇾ之、其邊に足跡も無ㇾ之、扨々、怪敷(あやしき)事共に御坐候。相違(さうい)も無ㇾ之義に付、御上(おんうへ)え[やぶちゃん注:ママ。]も伺候處、觀音寺・極樂寺には、御石碑も有ㇾ之候間、召捕(めしとり)として、御中小性(おんちゆうこしやう)、其外、廻り方(かた)、加役(かやく)詰切御番(きりつめごばん)被仰付候。右磨候石塔見物之老若男女、群集をなし申候。結城・小山・關宿(せきやど)之方(かた)、段々廻り、下舘え[やぶちゃん注:ママ]此節(せつ)參り磨候由。關宿に而は磨居(みがきを)るを見付(みつけ)、追缺(おひかけ)候處、女之姿之由。其足、早き事に而(て)、姿を見失ひ、追かけ候もの五人之内、いつの間やら、髮を被ㇾ切、三人、ざん切に被ㇾ致候よし。右餘り珍敷(めづらしき)義に付申上候。

   八月

 

 又、鼎が門人に關宿の邊の人あり、彼(かの)地に往(ゆ)きたる時、正しく聞見して語れるとて、鼎が、又、語れるは、

「かの石塔を磨く事、始めは古河(こが)あたりよりして、關宿・野火留の邊、所々、至らざる無し。大凡(おほよそ)、一夜に磨くこと、二百塔に及ぶ、と。且(かつ)、塔の文字に朱(しゆ)を入れたるは、新(あらた)に朱をさし、金をいれたるは、古きは、新たに山梔子(クチナシ)を入れて黃色をなす。されども、雨を蒙れば、色、消(け)す、と。この如くなれば、この妖(えう)を憂ふる者は、石塔を、家に持(もち)歸れば、其夜(そのよ)、これをも、洗磨(あらひみがき/せんま)す。とかく奇怪なれば、其領主より、妖物(えうぶつ)を捕へんため、足輕輩(あしがるはい)數人(すにん)を出(いだ)し、窺ひ、要するに、見へず[やぶちゃん注:ママ。]。女(をんな)の音聲(おんじやう)、騷々(そうそう)として、三、四十人も集り居(を)ると、聞ゆ。されども、姿は見ゆること、無し。」

 鼎曰く、

「この怪、解(かい)し難き事、千萬なり。」

 予、云ふ、

「いかなる妖か。」

■やぶちゃんの呟き

「檉宇」林檉宇(はやしていう 寛政五(一七九三)年~弘化三(一八四七)年)は儒学者。幕府に仕えた儒官の家として、代々、大学頭(だいがくのかみ)を称した林家の当主で、お馴染みの静山の親友林述斎の三男。当該ウィキによれば、『佐藤一斎や松崎慊堂に学び、天保』九(一八三八)年に、『父祖同様、幕府儒官として大学頭を称して侍講に進んだ』。『著作に』「澡泉録」『などがあり、能書家としても知られる』とあった。

「八月」少し後に、西丸大手門で発生した刃傷事件記事から(興味のある方は私の『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「山形番士騷動聞書幷狂詩」』を見られたい。但し、かなり長いので、御覚悟あれ)、これは文政一三(一八三〇)年八月を指すことが判った。静山七十一歳。

「鼎」朝川鼎。私の「フライング単発 甲子夜話卷之十 37 くだ狐の事」で注済み。読みは調べ得なかったが、彼は儒学者であるから、「けい」と音読みしていると私は思う。

「關宿」現在の千葉県野田市関宿町(せきやどまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)があるが、この地区には、現行では寺がなく、また、周囲に「関宿」を冠する地名が複数あるので、そこまで範囲を広げておいた方がよいだろう。因みに、ここは利根川から江戸川が分岐する場所である。

「古河」茨城県古河市。ここ

「野火留」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図で、関宿より南の地区を探したが、見当たらない。埼玉に野火止用水で知られる埼玉県新座市野火止や、東京都東久留米市野火止があるが、あまりにも南西に離れ過ぎているので、違うだろう。而して、「のびどめ」と読むことにも、躊躇するのである。しかし「のびる」という地名も見当たらないのである。万事窮す。識者の御教授を乞うものである。

「塔の文字に朱をいれたる」生前に仏門に入って戒名を持っている場合、生きている間は朱(赤)を入れておく。

「金をいれたる」これは、結構、見かける。所謂、位牌の戒名が金色で書かれることが殆んどだからである。

「山梔子(クチナシ)」リンドウ目アカネ科サンタンカ(山丹花)亜科クチナシ連クチナシ属クチナシGardenia jasminoides 。乾燥させた果実は、古くから、黄色の染料・着色料として用いられてきた。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「生(はえ)ぬきの地蔵」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

    

 

 生ぬきの地蔵【はえぬきのじぞう】 〔北国奇談巡杖記巻三〕越後のくに柏崎<新潟県柏崎市>といへる駅の径路に、生ぬき地蔵とて、一丁ばかり隔て二尊まします。一ツは立像、二ツは座像にして、大石にきざめるが、半《なかば》は土中に埋みたまふ。いつの頃かとか里人等掘出《いだ》さんと、石を蹷(うごかし)みるに容易(たやす)からず。地中数《す》十丈穿《うが》てども、その際限をえずして止みにき。その尊容、古代の作にして尊敬に任せ、利益《りやく》一かたならず、石老《お》いくろぐろと苔むし立たせ玉ふ。またいにしへ、柏崎殿と申して領したまふありしが、遁世し給ふにより、その室、夫のわかれを悲しみ、物狂はしく転出《ころびいで》けるとぞ。今に狂出《くるひいで》の橋とて存せり。この館《たち》あとは一宇の禅刹となりて、柏崎殿累代の霊位を奠(まつ)れり。

[やぶちゃん注:「北国奇談巡杖記」加賀の俳人鳥翠台北茎(ちょうすいだい ほっけい)著になる越前から越後を対象とした紀行見聞集。かの伴蒿蹊が序と校閲も担当しており、文化三(一八〇六)年十一月の書肆の跋がある(刊行は翌年)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第九巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字活字で読める。『卷之三』の『越後國之部』の冒頭。標題は『○生ぬきの地藏』。次のコマに挿絵がある。底本には絵はない。吉川弘文館『随筆大成』版のものをOCRでトリミング補正して以下に添えておく。この絵は、まさに地蔵に見えるが、これ、恐らく、京都の絵師で村上茂篤(天保一二(一八四一)年没・享年六十六)、号を松堂なる人物の絵になるものらしいだが、以下の注で判るが、実は、これ、地蔵ではない。推定するに、松堂は作者の言うままに、モロに地蔵の像を想像で描いてしまったのに違いない(因みに、路傍の石仏の地蔵菩薩像に脇侍が配されることはそれほど多くはないが、通常は掌善童子と掌悪童子の二体ではある)。

 

Haenukijizou

 

この地蔵、調べてみたところ、「生ぬき地蔵」とは記していないが、柏崎市立図書館作成になるサイト「陽だまりホームページ」の「柏崎市の文化財一覧表」にある「ねまり地蔵と立地蔵」の「立地蔵 一体」にある「立地蔵」の方の写真が、挿絵のものとかなり似ているので、これであろう。実際には、以下に見る通り、地蔵ではなく、薬師如来である。そこには、『通称「立地蔵」と呼ばれ、大町(現在の西本町二丁目)』(ここ。グーグル・マップ・データ。サイド・パネルのこの写真がよく判る)『の東端街道の中央に立って、人々に親しまれ』、『信仰を集めていたものである』。『天保』一二(一八四一)年七月二十二日、『埋没部分の発掘によって型式は薬師三尊像、脇侍(わきじ)に日光(にっこう)・月光(がっこう)菩薩(ぼさつ)像の存することが判明した。堅くて細工のしにくい巨岩に、薬師如来(やくしにょらい)像は厚さ』四十四『センチメートルの浮き彫りとされ、高さは』一・六二『半丈六仏の作りである』。『三尊が一石に彫られた薬師は類がなく、作風も古様である』。明治一一(一八七八)年九月、『明治天皇の北陸御巡幸の際に現在地に遷座(せんざ)した』とあった。同サイド・パネルのこちらの標柱にも『舊迹 立藥師如来』と彫られてある。私もかなりの仏像を見てきたが、この三尊を彫ったというのは、見たことがない。

「柏崎殿と申して領したまふありしが、遁世し給ふにより、その室、夫のわかれを悲しみ、物狂はしく転出けるとぞ。今に狂出の橋とて存せり。この館《たち》あとは一宇の禅刹となりて、柏崎殿累代の霊位を奠(まつ)れり」この話、能の狂女物「柏崎」(榎並左衛門五郎原作・世阿弥元清改作)をもとにしたものであろう。実際に、「狂出の橋」や「この館あと」の「柏崎殿累代の霊位を奠(まつ)」った「一宇の禅刹」なるものが、調べた限りでは見当たらない。能「柏崎」の内容は小原隆夫氏のサイト内のこちらが詳しい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「野衾」 / 「の」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 因みに、本篇を以って「の」の部は終わっている。]

 

 野衾【のぶすま】 〔梅翁随筆巻四〕午四月鎌倉河岸辺<東京都千代田区内神田>へ怪しきもの出るよしいひけるが、打殺すものもなくありし。松下町の薪河岸《まきがし》にて、猫をとり血を吸ふ所を、鳶の者に伊兵衛といふが走り寄り、打殺したるによりて、人々集まりてみるに、面体《めんてい》鼬(いたち)のごとく、つまりしやくみ、眼《まなこ》は兎のごとく、左右翅《はね》のごとくにして羽にあらず。その先に爪あり。手の指四本、足の指五本、竪横壱尺二三寸、尻尾その外毛色香《にほ》ひとも、栗色のごとくなり。町内にてしるものなければ、手習ひ素読謡《うたひ》等をも少々をしふる浪人に尋ねければ、大いに驚きたる体《てい》なりしが、しばらく見ていふやう、このもの深山にありては珍らしとするにたらず、いはゆる野ぶすまこれなり、しかれども深山幽谷に住むべきものの、今繁華の地に生ずる事、これ気候の変のなす所にして、世の給息にあづかれり、政事《まつりごと》を執る人のもつとも心を用ふべき所なり、早々訴へ出《いづ》る方《はう》宜《よろ》しかるべしと申しける。その子細は知らねども、手習師匠のかく申す事ゆゑ、則ち西御番所へ申出ける。村上肥後守勤役《つとめやく》の時なり。江戸には珍らしきものなりとて、取置きて人々にも見せたり。後に聞けば今度《このたび》日光御修営に付き参りし者の内に、とらへて帰府せしが、そのうち取《とり》にがしたり。餌《ゑ》にうゑてこの辺に出《いで》けるとなり。<『半日閑話巻二十五』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○野衾をとらへし事』。

「野衾」「野ぶすま」「後に聞けば」、「今度」、「日光御修営に付き参りし者の内に、とらへて帰府せしが、そのうち」、「取にがしたり。餌にうゑて」、「この辺に出けるとなり」と正体と出所が明らかにされてある。結論を言うと、これは、

哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista(全八種で東アジア・南アジア・東南アジアに分布)で、本邦に棲息するのは、日本産固有種ホオジロムササビ Petaurista leucogenys

或いは、同一種と誤解している方も多い(江戸時代まで区別されていなかった)と思うのだが、別種で形態は似ているが、遙かに小さい、

リス亜科モモンガ族モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momonga

である。博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか) (ムササビ・モモンガ)」を参照されたいが、「古今百物語評判卷之四 第三 野衾の事」で江戸時代に妖獣とされていたことが判り、しかも著者の山岡元隣は正体を正しく記している。また、『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙』でも、「ノブスマ」として挙げて(私の電子化注では、分割して電子化しており、当該部はここ)、

   *

ノブスマ 土佐の幡多《はた》郡でいふ。前面に壁のやうに立塞《たちふさ》がり、上下左右ともに果《はて》が無い。腰を下して煙草をのんで居ると消えるといふ(民俗學三卷五號)。東京などでいふ野衾《のぶすま》は鼠(むささび)か蝙蝠《かうもり》のやうなもので、ふわりと來て人の目口を覆ふやうにいふが、これは一種の節約であつた。佐渡ではこれを單にフスマといひ、夜中後《うしろ》からとも無く前からとも無く、大きな風呂敷のやうなものが來て頭を包んでしまふ。如何なる名刀で切つても切れぬが、一度でも鐵漿《かね》を染めたことある齒で嚙切《かみき》ればたやすく切れる。それ故に昔は男でも鐵漿をつけて居たものだといひ、現に近年まで島では男の齒黑《はぐろ》めが見られた(佐渡の昔話)。用心深い話である。

   *

とある。また、「生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (一)逃げること~(1)」でも、モモンガが絵入りで語られてあるので、参照されたい(二〇一二年の古い電子化で正字不全があるが、そこは許されたい)。

「午四月」前記本の前方の記事を確認したところ、これは寛政十年戊午と確認出来た。グレゴリオ暦では旧暦四月一日は五月十六日である。

「鎌倉河岸辺」「東京都千代田区内神田」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。この河岸名は江戸幕府開府の頃、江戸城を普請するために、鎌倉から来た材木商らが、ここで築城に使う木材を仕切っていたことから名付けられたと伝わっている。

「松下町の薪河岸」現在の東京都千代田区外神田の神田川のここの左岸附近。ここは旧神田松住町内で、当時、やはり材木を扱う商人が集まっていたことから「材木町」という通称があり、さらに、この町の南を流れる神田川の川辺周辺には、薪(まき)を売る商人が集中していたことから、「薪河岸(まきがし)」という異名もあったとされる(「千代田区」公式サイト内の「町名由来板:神田松住町(かんだまつずみちょう)」を参照した)。

「給息」底本にはなにも記していないが、意味が判らぬ。前記活字本を見ると、ママ注記がある。本文の謂いから見て、凶兆で、世の「終焉」の意か。

「村上肥後守」旗本で江戸南町奉行となった村上義礼(よしあや 延享四(一七四七)年~寛政十年十月二十二日(一七九八年十一月三十日)。従五位下肥後守。当該ウィキによれば、寛政四(一七九二)年十一月、『西ノ丸目付』であった『時、通商を求めたロシアの使節ラクスマンと交渉する宣諭使』『に目付石川忠房とともに選ばれ、蝦夷地松前に派遣され』、『翌年』の六月二十七日の『会見で、通商交渉のための長崎入港を許可する信牌を与えた』人物としても知られ、彼は寛政八年九月に『江戸南町奉行とな』り、まさに、この事件から七ケ月ほど後に、『在任中』のまま、『没した』とある。村上個人にとっては、「終焉」の凶兆だったのかもと、言えなくもない。

「『半日閑話巻二十五』に同様の文がある」「半日閑話」は「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここにある(右ページ二行目)、これは標題が『○怪異三種』の二条目であるが、「同様」とは言えない。但し、前の記載から、同じ寛政十年で、出現地は比較的近いから、別ソースの同じ実際にあった「野衾事件」の別話(本篇か、これの孰れかが、流言)ではあるとは言える。短いので、電子化しておく。一部に読点を追加し、推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。

   *

一車力《しやりき》のもの【此車力は盜人なりしとぞ。此十二月初《はじめ》に刑せらる。】、石町河岸《こくちやうがし》にて、野衾、猫を、まきて居しを、朝、みつけ、棒を持て、打しゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、野衾は死し、猫は足を損じたる、と云。この野衾は町奉行により、上覽に入しといふ。

   *

頭の「一」は条数字。「石町河岸」は現在の中央区日本橋本石町四丁目で、ここ。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「野尻湖の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 野尻湖の怪【のじりこのかい】 〔四不語録巻四〕寛文年中の比(ころ)、越後村上<新潟県村上市>の城主松平大和守直矩の御家礼(けらい)に、藍沢徳右衛門と云ふ侍あり。或時武州江戸より村上に帰りしに、信濃国野尻<長野県上水内郡《かみみのちぐん》内>の駅に一宿すべしとて、荷物従者どもは先へ遣はし、その身は若党一人、草履取一人、鑓持(やりもち)一人、挟箱持一人召連れ、駅馬に乗りて野尻の池の辺を行きしに、俄かに大風吹き出で、黒雲まひさがり、暴雨車軸を流す。何《いづ》れも頭痛して歩む事もならず。徳右衛門乗りし駅馬もすくみて歩まず。徳右衛門馬より下りて挟箱に腰を懸け、しばらく休み居《ゐ》たるに、池の面《おもて》俄かに洪波(こうは)立さわぐ。いかなる事と見る内に波しづまり、その儘池の面紅《くれなゐ》に変じ、その中より四尺四方の顔の、目の大さ二尺ほどにして、その色朱《しゆ》の如く、その長(たけ)二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]ばかりの物出づ。頭《かしら》の髪は瑠璃(るり)色にして下に垂れたり。これを見る者、何れも打伏して前後を忘(ぼう)ず。その凄(すさま)しさいはん方なけれども、藍沢も名ある武士なれば少しも臆せず、刀に手を掛け睨み付けて居たり。従者どもは打伏したるに、草履取は気を取失はず。かの物しばらく四方を見廻して波の底に引入ければ、また池の面紅になり、その跡に波風立噪(さわ)ぎ、しばらくあつて静まりぬ。何れも人心地付きて野尻の駅に著く。駅よりも迎ひに人を出《いだ》せり。徳右衛門宿《やど》に著きて、所の者を呼び寄せて、今日《けふ》の怪異を見たるかと尋ねしに、見たる者三人ありしに、その物語り少しも異なる事なし。昔よりもかゝる事ありやと問へば、年寄りたる者云へるは、この六十年ばかり以前に、私二十(はたち)ばかりになりし時、まさしく見申候、その時のやうすも今日御覧の御咄に少しもかはり申さず候、先年見候も私ともに三人、その中《うち》二人は死去いたし、私一人残り居候。徳右衛門この老人の口上書と、今日見たる三人の者口上書いたさせ、右の趣《おもむき》大和守殿へ申上るとぞ。この徳右衛門故《ゆゑ》あつて村上を立退《たちしりぞ》き、加州へ来りしばらく滞留す。その物語りを聞きし者、予<浅香山井>に語りしまゝ爰に記す。或識者この物語りを聞きて、これ魍魎(もうりやう)と云ふ物ならん、山に住むを魑魅(ちみ)と云ひ、水に住むを魍魎と云ふなり、その形きはまりたる物にあらず、時によりて様々《さまざま》の形あるとぞ、されども魍魎はその色青き物なりとぞ、彼《かの》物出《いづ》る時に池の面紅に染《そまり》しは、両眼《りやうまなこ》の光りのうつりしなるべしと弁ぜられたり。

[やぶちゃん注:「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。

「寛文年中」万治四年四月二十五日(グレゴリオ暦一六六一年五月二十三日)に改元、寛文十三年九月二十一日(一六七三年十月三十日)、「延宝」に改元。

「越後村上」「新潟県村上市」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「松平大和守直矩」(なおのり 寛永一九(一六四二)年~元禄八(一六九五)年)は江戸前期の大名。結城秀康の五男松平直基の長男。慶安元(一六四八)年、七歳で播磨姫路藩主。翌慶安二(一六四九)年六月九日に越後村上に移封となったが、寛文七(一六六七)年八月十九日には、再び、姫路に戻った。しかし、宗家の「越後騒動」に関係して閉門となり、元和(げんな)二年、七万石に減ぜられて、豊後日田(ひた)に移された。後、出羽山形藩を経て、元禄五(一六九二)年、十五万石で、陸奥白河藩藩主松平越前家初代となった。歌舞伎を愛し、「松平大和守日記」がある。従って、本話の時制は、「寛文年中」と言いながら、実際には、寛文元年から寛文七年八月中旬の閉区間となる。

「藍沢徳右衛門」不詳。

「信濃国野尻」「長野県上水内郡《かみみのちぐん》内」「の駅」長野県上水内郡信濃町野尻のここで、野尻湖の北西岸の直近(後者は拡大)。

「魍魎(もうりやう)と云ふ物ならん、山に住むを魑魅(ちみ)と云ひ、水に住むを魍魎と云ふなり」私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類  寺島良安」(最近、リニューアルした)の「魍魎(もうりやう) みつは」を見られたいが、その冒頭の注で、私は以下のように記した。

   *

「廣漢和辭典」によれば、「魍魎」の「魍」も「魎」も、『すだま』・『もののけ』とする。そもそも、「魑魅魍魎」は「山川の精霊(すだま)」、物の怪のオール・スターを総称する語であるが、特に「魑」が「山の獣に似たモンスター」という具体的形象を、「魅」が「劫を経た結果として怪異を成すようになったもの」という具体的属性を附与するに止まり、「魍」「魎」は、専ら、単漢字ではなく、「魍魎」で語られることが多い。「廣漢和辭典」によれば、「魍魎」は『山水木石の精気から出る怪物。三歳ぐらいの幼児に似て、赤黒色で、耳が長く目が赤くて、よく人の声をまねてだますといわれる。』と本文と同様に記してある。また、参考欄には、『国語のこだま・やまびこは、もと木の精、山の精の意で魍魎と同義であったが、その声の意から、今では山谷などにおける反響の意に転じて用いる。』と次の項「彭侯(こだま)」の補注のような解説が附いている。ウィキの「魍魎」には、「本草綱目」に記されている亡者の肝を食べるという属性から、本邦にあっては、「死体を奪い去る妖怪・怪事」として「火車」(かしゃ)と同一視されて、「火車」に類した話が、「魍魎」の名で語られた事例がある由、記載がある。本文が記載する「春秋左氏傳」や「日本書紀」の引用を見ても、「魑魅」を「山」の、「魍魎」を「水」の、神や鬼とする二分法が、日中、何れに於いても、非常に古くから行われていたことが見てとれる。「魍魎」は「罔兩」と同義で、「影の外側に見える薄い影」の意、及び、本義の比喩転義であろう「悪者」の意もある。別名「方良」であるが、これは「もうりょう」と発音してもよい。何故なら、「方」には、正にこの「魍魎」を指すための「魍」=「マウ(モウ)」との同音の、“wăng”「マウ(モウ)」という音、及び、中国音が存在し、「良」の方も中国音でも、「良」“liáng”と「魎」“liăng”で、近似した音である。特に「方」「良」の漢字の意味は意識されていないと思われる(というか、邪悪なものを、邪悪でない目出度い字に書き換える意図があったものと私は推測する)。なお、私が全巻の翻刻訳注を終えた根岸鎭衞の「耳囊」の「卷之四」に「鬼僕の事」という一章があるので読まれたい。

   *

因みに、「鬼僕の事」には、リニューアル前のものだが、上記が転写してあるので、携帯などでサイト版が見られない方は、そちらを見られるとよいだろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「濃州仙女」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

    

 

 濃州仙女【のうしゅうせんじよ】 〔兎園小説第十集〕大垣領にや、北美濃越前境にもや、根尾野山中に仙女住居申候。初めには斎藤道三の女子なりと申し伝へ候所、さにはあらで越前の朝倉が臣の妻、懐妊の身にて朝倉没落の時、山中へのがれ、女子を出産せし。その女子幽穴中にて成長し、今年は二百六十歳計り、顔色は四十歳の人と相見え申候。髪はシユロの毛の如しと申候。写真も不ㇾ遠来り可ㇾ申存候。詳《つまびらか》なる事は未だ所々水災にて、誰も誰も途中の決口を恐れ得往観不レ申候なり。奇な事に候。

  九月四日

 右尾張公儒官秦鼎手簡なり。〈『道聴塗説十編』に同様の事がある〉

[やぶちゃん注:私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 濃州仙女』を参照されたい。書簡の枕部分が、全部、カットされてしまっている。これはいかんでしょう! 以下に示す。

   *

今年は、雨、多にて、濃州も前月十四日夜、水災、長良川、殊に溢決いたし、尾州領も、堤三千間も溢決申し候。溺死も今日にて百人計も相分候へども、いづれも二百人からの儀と相聞候。總ては八百人とも千人とも申候。可憐事ども、いはん樣も無之候。

   *

なお、発表者「輪池」は、馬琴と非常に親しかった幕府御家人で右筆にして国学者であった屋代弘賢(やしろひろかた)の号。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「煉酒」 / 「ね」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 煉酒【ねりざけ】 〔黒甜瑣語巻一〕林大仏が年々湊《みなと》へ著岸《ちやくがん》の摂州神戸<神戸港>の船長《せんどう》甚左なる者あり。彼が物語りに、一年海上に見知らぬ黒船に遇ひけり。人の云ふなる、かゝる船には海賊外法(げほふ)[やぶちゃん注:異教徒。魔術師・妖術師の意も含む。但し、後に示す活字本では『げはう』とルビする。個人的には悩ましい。何故かというと、歴史的仮名遣では一般名詞の「法」は「はふ」だが、仏教用語では「ほふ」が正しいからである。しかし、仏教の「法(ほふ)」から「外」れる異教であるわけだから、私は「げほふ」に軍配を挙げる。]の者を載すると聞きたり。その難を避けんとて、桐葉金一方を紙にひねり、かの船に投ぜしに、その時かの黒船より恠(あや)しき人出《いで》て、莞爾々々(にこ《にこ》)笑ひて一《ひとつ》の瓶《かめ》を贈れり。甚左受け得て瓶の口を開くに、膏薬のかたまりしやうの物にて、酒気鼻を撲(う)つ。伝へ聞きし煉酒てふものならんと、少しく沸湯(にえゆ)を用ひ、一碗《かなまり》の中へ漬《ひた》すに、名も知らぬ醇醪(よいにごりざけ)なり。異船は何国の者か知りがたしと語りし。煉酒の法を聞くに、今や本邦にも広まり、粗(ほぼ)これを製するに黒丸子《こくぐわんし》の大なるを常に薬籠(やくろう)に入れて、要する時盃水《さかづきみづ》へ二三粒を浮ぶと云ふ。

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。標題は「目次」では『煉酒(ねりさけ)』。これは「練り酒」とも書き、本邦産のものは、白酒(しろざけ)に似て、濃く粘りけのある酒で、通常は普通の清酒に混ぜて飲む。蒸した糯米(もちごめ)を酒とまぜ、石臼で挽いて漉して製した。「練り貫き酒」「練貫」「練り」とも言った。博多産の物が有名で、現在も「博多練酒」として販売されているものがあるが、固形物ではなく、ヨーグルトのような濁り酒である。ここに登場する粒状のものは、恐らく麹のような、乾燥発酵させた固形の酒と思われる。「月桂冠」公式サイト内の「東アジアの酒 風土と文化により育まれた、各地域固有の発酵文化」に、『最近の調査研究の結果、稲の原産地は中国の雲南省からインドのアッサムに及ぶ照葉樹林帯であるとされています。この地域でつくられている酒は、ヒエ、アワ、ムギ、米などの穀粒を、茹でたり、蒸したりした後、竹むしろの上でさまし、白い麹を加え、水は全く加えず、竹駕籠やカメなどに入れてそのまま発酵させます。「チャン」とか「トンパ」と呼ばれるパサパサした固体の酒です』(☜)。『雲南省のアシ族は、この酒をそのまま箸でつまんで食べヒマラヤ地帯の人々はこれを「ピトム」と呼ぶ太い竹筒の中につめ、熱湯を注ぎ溶け出した液体を細い竹のストローで飲みます。この原始的な醸造法こそ、東アジアの酒の源流で』、紀元前二~三『世紀、稲作複合文化の一つとして、日本へも伝播したと考えられています。最近の遺伝子による調査から、長江下流を稲作起源地とする説もあります』。ここに出るのは、この「チャン」・「トンパ」に近いものであろう。リンク先に中国の豆腐型の固形麹の画像があるが、外側は黝ずんでいる。

「林大仏」不詳。

「黒船」二ヶ所ともそうなっているが、前記の活字本では、『異船』となっている。昭和四三(一九六八)年刊の「人見蕉雨集 第一冊」(『秋田さきがけ叢書』一)も当該部を確認したが、やはり『異船』であった。宵曲の底本は『単行』とあるのみで、書誌が不明である。私は「異船」の方が正しい気がする

「桐葉金一方」前掲活字本では、右に『桐葉』に『とうよう』、『方』に『ほう』と振り、左に『葉』に『きん』、『一方』に『いちぶ』とルビを振る。しかし、後者の「きん」は「金」の字の左に附すのを、植字工が誤植したものと思われる。「桐葉金」は江戸時代を通じて流通した(但し、後記は等価の一部銀の流通で激減した)一分金。一両の四分の一。長方形で、小さい。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されてある。「方」は一分金の形の「四角」を以ってそれを指すに代えたのであろう。

「醇醪」前記活字本では、『しゆんりやう』と振る。この底本のルビ、『よい』が気になる。著者が振るなら「よき」であろう。この訓読み、宵曲が勝手に附したものと推定する。

2023/12/24

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鼠の宿替」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鼠の宿替【ねずみのやどかえ】 〔四不語録巻五〕右に記す<元禄三年三月十六日>金沢大火事の節、村越何某と云ふ人あり。その弟松浦氏の宅は新竪町《しんたてまち》の火本よりはほど近し。村越の宅は遙かにへだたりしゆゑに、家来をあまた松浦方へ遣はし、火を防がせければ、火災はのがれたり。何《いづ》れも働きて疲れたるらんとて、村越方にて食物《しよくもつ》を調へ、松浦方へ持たせつかはす。村越某その食物の試みせんとて、三の間へ出て奴婢(めしつかひ)を以て給仕させて食事をいたしけるに、奴婢次の間へ立ちし跡に、納戸のより鼠あまたつれ立ち出《いで》て、三の間の縁《えん》の方へ行く。何某こは珍らしき事なりとながめ居《を》る所へ、奴婢かへりてこれを見付け、逐《お》ひ打たんとす。何某これを制して、いかゞなり行く、これを見はたすべきとて、戸外《こがい》へ出《いで》てこれを見るに、隣さかひの塀を踰(こ)えて、後(うしろ)の町屋へ行く。その数二三百もあらんと見ゆ。しばらく連立《つれだ》ち行きてやみぬ。いといぶかしき事と思ふ所に、十七日の朝の火事に村越宅も残らず焼失しぬ。かの鼠の行きし後《うしろ》の町屋は焼けざるなり。これ予(あらかじ)め火災を知りて、鼠の宿を替へしならん。

[やぶちゃん注:「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。

「元禄三年三月十六日」同月「十七日の朝の火事」資料によれば、元禄三年三月十六日と三月十七日(グレゴリオ暦一六九〇年四月二十四日と二十五日)に、金沢では、別に二度、続いて、大火が起こっている。前者は九百軒、後者は六千六百三十九軒と大量の家屋が焼失している。金沢では旧暦の三月から四月にかけて大火が多かったが、これは、北陸地方特有の、所謂「フェーン現象」に起因するものである。

「新竪町」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鼠の刑罰」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鼠の刑罰【ねずみのけいばつ】 〔蕉斎筆記〕当年大坂にて公儀の御普請所有りけるが、大工ども𨻶《すきま》に暮し、慰みもなきゆゑにや、鼠を捕へ木にて馬を拵へ、のぼり立てさせ、錐または釘の類にて刑罪の道具を拵へ、その場所にて引廻し磔《はりつけ》にかけて遊びたるよし、御上《おかみ》に聞え、小事の罪なれども、仮初(かりそめ)ながら上《かみ》の法を学び真似しけること不届なりとて、頭取《とうどり》両人遠嶋仰せ付けられるとなり。珍しき遊びにてありしが、遂には報い有りけりとなりと、諸人評判せしよし、定めて弁当などを鼠に食はれけるより、憎み引《ひつ》とらへ、はり附けにかけたるなるべし。

[やぶちゃん注:儒者で安芸広島藩重臣に仕えた小川白山(平賀蕉斎)の随筆。寛政一一(一七九九)年。国立国会図書館デジタルコレクションの「百家隨筆」第三(大正六(一九一七)国書刊行会刊)のこちら(右ページ下段)で視認出来る。なお、この『三』はパート標題が『寬政七乙卯年拔書』であるから、「当年」はグレゴリオ暦一七九五年である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鼠の薬」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鼠の薬【ねずみのくすり】 〔退閑雑記後編巻四〕ある商人《あきんど》ありけり。楽しみあそぶ事もなく、たゞあまた鼠をあつめて愛しけり。ある日その鼠あるじの手をかみたるが、毒気支体《したい》にめぐりて発熱甚しく、紫色の斑文《はんもん》体《からだ》をめぐりたり。そのあるじ鼠に向ひて、予、汝を愛す、汝、予をかみてかくの如く悩めども、予、汝を憎まず、汝、何ゆゑにわれをかみて、かく悩ましても癒さんともせず、くゆる気色《けしく》もせず、いかなる心ばへにや、浅ましと、誠に人にいふ如くうち向かひて言ひたれば、鼠うち聞きたるさまして、それよりいづくへか行きけん見えず。あるじはその悩みにて、枕によりてねぶれるに、その疵に、何か冷かなるものおしあつるやう覚えて目醒めたれば、かの鼠、草の葉くはへてその疵におしあつるなり。されば、この草よく毒を解《かい》すためと思ひて、その草汁を疵につけ、草もてその疵をおほひ、その草をせんじてのみたれば、毒気忽ち解して愈えぬ。その草は紀の国より蜜柑の実に交《まぢ》へ来たる、石菖《せきしやう》てふ草に似たるものなりとぞ。この事つくり物語のやうなれども、さにはあらず。近き頃の事にて、その商人物語りありて、その人にねもごろなるもの、名さへいひて語りしといふを聞きしなり。

[やぶちゃん注:松平定信の随筆。全十三巻。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十四巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)で正規表現の当該部がここ視認出来る。

「ある日その鼠あるじの手をかみたるが、毒気支体にめぐりて発熱甚しく、紫色の斑文体をめぐりたり」所謂、「鼠咬症」である。異なる二種の原因菌により発症する、別の感染症の総称であり、人獣共通感染症の一つ。「鼠咬熱」とも呼ぶ。「鼠咬症スピロヘータ感染症」及び「モニリホルム連鎖桿菌感染症」である。「鼠咬症スピロヘータ感染症」の原因菌はグラム陰性非芽胞形成微好気性螺旋菌、真正細菌プロテオバクテリア門βプロテオバクテリア綱Beta Proteobacteriaニトロソモナス目Nitrosomonadalesスピリルム科スピリルム属スピリルム・ミヌスSpirillum minus であり、「モニリホルム連鎖桿菌感染症」の原因菌は、真正細菌フソバクテリウム綱フソバクテリウム目レプトトリキア科ストレプトバチルス属ストレプトバチルス・モニリホルム Streptobacillus moniliformis である。当該ウィキによれば、『前者では感染』一~二『週間後に発熱、咬傷部の潰瘍、局所リンパ節の腫脹。後者では感染』十『日以内に発熱、頭痛、多発性関節炎、局所リンパ節の腫脹。両者とも』、『心内膜炎、肺炎、肝炎などを発症することもある。両者とも一般にネズミに対しては無症状』であるとある。私は、大学生の時、汚い食堂で、夕食を食いながら、そこにあった漫画雑誌(私は六十六になる現在まで、一度も漫画雑誌を買ったことがない。但し、好きな作家はいる。手塚治虫先生と、諸星大二郎・星野之宣で、彼らの単行本はだいたい買ってきた)で、さいとうたかを作の「サバイバル」の一場面を見て知った。

「石菖」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus 学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。当該ウィキによれば、『根茎や葉は薬草として用いられ、神経痛や痛風の治療に使用されている。例えば』、『蒸し風呂(湿式サウナ)で用いられる時には、セキショウの葉を床に敷いて』、『高温で蒸す状態にして、鎮痛効果があるテルペン』(terpene)『を成分とする芳香を放出させ』、『膚や呼吸器から体内に吸収するようにして利用する』とある。なお、本文の、このシーンの解説部分は極めて鋭い。私の「譚海 卷之一 紀州蜜柑幷熊野浦の事」を見られたい。紀州蜜柑の輸送の際の緩衝材に石菖が用いられたのだ。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鼠の怪異」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鼠の怪異【ねずみのかいい】 〔兎園小説第九集〕今玆《こんじ》(文政乙酉)四月、奥州伊達郡保原《ほばら》<福島県伊達市保原町>といふ所の大経師松声堂(俗称福井重吉、俳名万年)の物語に、おのれ事は南部の産にて、この春、親族の方より消息して、世にめづらしき事をしらせ起したり。そは南部盛岡<盛岡市>より凡そ二十里許りおくに、福岡といふ所にて、そこに青木平助といふ旧家あり。その家作のふるき事、五六百年前に造りなしたるが、そのまゝにて住居来《すまゐきたり》れり。げにその家、今やうの造りざまにあらず、いかにも由あるものの末ならんと思はるになり。しかるにこの春二月の比、あるじ兵助の夢に、棟の上に一塊のほのほ炎炎《えんえん》ともゆと見て、驚きさめてふと仰ぎ見れば、こはそもいかにぞや。夢に見たるにつゆ違《やが》はず。おのれが寐《ね》たる上の棟に、火燃えゐたりければ、あわてふためき起き上り、手早くはしごをものして、手ごろなる器に水を入れ、水をそゝぎかけなどしければ、忽ちに火はきえてさせる事なし。あるじとゞろく胸はやゝ静まりしかども、いかなることにて、この怪しみのありけるにやと思へば、さらに心安からねど、かゝる事を家の内のものに告げしらさば、さこそ物の化《ばけ》たゝりならんと云ひのゝしりてうるさかるべし。何《なん》にまれ、今少し試みばやと、ひとりむねにをさむるものから、その暁までいもねられであかしゝとぞ。かくてあけの朝起き出でて、例のごとくうからうちよりて、朝いひたふべんとする折、かの宵にことありし棟とおぼしき処より、物のはたと落ちたり。思ひもかけぬ事なれば、女わらべなどは、あれとさわぎて飛びのきつ。あるじは心にかゝ心ふしもあれば、さてこそとて、きとそのものを見とむるに、いと年ふりて大きなる鼠のおなじ程なるが、その数九つ、尻と尻とつき合せて、わらふだの如くまろくなりつゝかたみに手あしをもがきて、かけり逃《のが》れんとするなりけり。しかるにその鼠、いかにもがきても、尻と尻つながりて離れず、只ひたすらにかけ出でんとするのみにて、くるくるおなじ所をめぐるのみなれば、人みな恐れ驚ろく中にも、亦興ある事におぼえて、こはけしからぬ物なり。いかにしてかくまで、同じ鼠の九つよくも揃ひけん。それすらあるに、尻と尻の離れぬは、いかなる故ぞとのゝしりつゝ、とり離してやらんか、うちも殺さんやなどいひよどみて、割木やうのものを持《も》て[やぶちゃん注:後掲する私の本文に従った。]、両三人左右より引きわけんとするに得《え》[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」に当て字したもの。]はなれず。こはおかしき物なりとて、つよく引きたて見れば、怪しむべし、この鼠の尾と尾のからみあひたる事、あじろをくみたらんが如くにて、つよく物《もの》せば、しり尾も抜けんずらんなどいふ人もあれば、そがまゝに置きたるを、近きわたりの人々、聞き伝へ集《つど》ひきて、扨も珍らしきものを見つるかな、吾れらに得させ給へとて、竹の先に引きかけて処々もち歩きて、なほ人に見せたる果《はて》は、川へや流しけん、土中にや埋《うづ》みけん、そのよりにまた怪しきことの聞えなば、なほまた告げまゐらせんなどいひおこしたりと語りしより、友人の伝聞にまかして、けふの兎園の数に入れ侍るになん。

[やぶちゃん注:私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 鼠の怪異」』を見られたい。発表者は「文寶堂」で本名は「龜屋久右衞門」、本姓実名はともに不詳。飯田町に住みて薬種屋を商っていた。後に二代目「蜀山人」の名を継いだ人物でもある。それにしても、前の火の怪異と、後の鼠の怪異との連関が語られず、結末も尻切れトンボで、消化不良を起こす、上手くない怪奇談である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫物を言う」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猫物を言う【ねこものをいう】 〔耳囊巻四〕寛政七年の春、牛込山臥町<東京都新宿区山伏町>の、何とか言へる寺院、秘蔵して猫を飼ひけるが、庭に下りし鳩の、快よく遊ぶを覗ひける様子故、和尚声を懸け、鳩を追ひ逃しけるに、右猫、残念なりと物言ひしを、和尚大きに驚き、右猫勝手の方へ逃げしを押へて、小束(こづか)を持ち、汝畜類として物を言ふ事奇怪なり、全《まつたく》化《ばけ》候《さふらふ》て人をたぶらかしなん、一旦人語をなすうへは、真直《しんちよく》に尚又可ㇾ申、若《も》しいなみ候においては、我殺生戒を破りて、汝を殺さんと憤りければ、彼《か》の猫申けるは、猫の物を言ふ事、我等に不ㇾ限、拾年余も生き候得ば、都(すべ)てものは申ものにて、夫《それ》より拾四五年も過ぎ候得《さふらえ》ば、神変を得候事なり、併《しか》し右の年数、命を保ち候猫無ㇾ之由を申けるゆゑ、しからば汝物云ふもわかりぬれど、未だ拾年の齢ひに非ずと尋ね問ひしに、狐と交りて生れし猫は、その年功《ねんこう》なくとも、物言ふ事なりとぞ、答へけるゆゑ、然《しか》らば今日物言ひしを、外《ほか》に聞ける者なし、我暫くも飼置きたるうへは、何か苦しからん、これまでの通り可罷在と、和尚申ければ、和尚へ対し三拝をなして出行《いでゆ》きしが、その後いづちへ行きし見えざりしと、彼《か》の最寄《もより》に住める人の語り侍る。<『耳囊巻五』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之四 猫物をいふ事」である。これは、最も人口に膾炙した猫の怪である。最後の宵曲の附記のそれは、底本違いで、私のものは、「耳嚢 巻之六 猫の怪異の事」である。但し、『同様』というより、「同様に近い別話」とすべきものである。なお、無論、宵曲は、「妖異博物館 ものいふ猫」でも採用している。そこでは、本邦のこれらのルーツの一つと考えてよい、中国の志怪小説も挙げてあるので、是非、読まれたい。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫の報恩」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猫の報恩【ねこのほうおん】 〔閑窻瑣談巻一〕遠江国蓁原郡御前崎<静岡県榛原《はいばら》郡御前崎町>といふ所に[やぶちゃん注:「         蓁」は「榛」の異体字。]、高野山の出張にて西林院といふ一寺あり。この寺に猫の墓、鼠の猫といふ石碑二ツ有り。そもそも此所は伊豆の国石室崎<静岡県賀茂郡南伊豆町>、志摩国鳥羽の湊<三重県鳥羽市>と同じ出崎《でさき》にて、沖よりの目当《めあて》に、高燈籠《たかどうろう》を常燈としてあり。されば西林院の境内にある猫塚の由来を聞くに、或年の難風《なんぷう》に、沖の方《かた》より船の敷板(いたご)に子猫の乗りたるが、波にゆられて流れ行くを、西林寺の住職は丘の上より見下《みおろ》して、不便(ふびん)の事に思はれ、舟人《ふなびと》を急ぎ雇ひて小舟を走らせ、既に危き敷板の子猫を救ひ取り、やがて寺中《ぢちゆう》に養はれけるが、畜類といへども、必死を救はれし大恩を深く尊《たっと》み思ひけん。住職に馴れて、その詞《ことば》をよく聞きわけ、片時《へんじ》も傍《かたはら》を放れず。かゝる山寺にはなかなかよき伽《とぎ》を得たるこゝちにて寵愛せられしが、年をかさねて彼《かの》猫のはやくも十年を過《すご》し、遖《あつぱ》れ[やぶちゃん注:実は底本も『ちくま文芸文庫』版も『遖(あは)れ』とルビするのだが、従えないので、特異的に後に示す活字本に従った。]逸物《いちもつ》の大猫《おほねこ》となり、寺中には鼠の音も聞く事なかりし。さて或時寺の勝手を勤める男が、縁の端に転寐《まろびね》して居《ゐ》たりしに、彼《かの》猫も傍《かたはら》に居《ゐ》て庭をながめありし所へ、寺の隣なる家の飼猫が来りて、寺の猫に向ひ、日和《ひよい》も宜《よろ》しければ伊勢ヘ参詣(まゐら)ぬかといへば、寺の猫が云ふ。我も行きたけれど、この節は和尚の身の上に危き事あれば、他《た》へ出で難しといふを聞《きき》て、隣家《りんか》の猫は寺の猫の側《そば》近くすゝみ寄り、何やら咡(ささや)き合ひて後《のち》に別れ行きしが、寺男は夢現(ゆめうつつ)のさかひを覚えず。首《くび》をあげて奇異の思ひをなしけるが、その夜《よ》本堂の天井にて、いと怖ろしき物音し、雷《らい》の轟《とどろ》くにことならず。この節《せつ》寺中には、住職と下男ばかり住みて、雲水の旅僧《たびそう》一人《ひとり》止宿(とまり)て四五日を過《すご》し居《ゐ》たるが、この騒ぎに起きも出でず。住持と下男は燈火《ともしび》を照らして、かれこれと騒ぎけれども、夜中《よなか》といひ、高き天井の上なれば、詮方なく夜《よ》を明《あか》しけるが、夜明《よあけ》て見れば、本堂の天井の上より生血《なまち》のしたゝりて落ちけるゆゑ、捨ておかれず、近き傍《あたり》の人を雇ひ、寺男と俱(とも)に天井の上を見せたれば、彼《かの》飼猫は赤(あけ)に染《そ》みて死し、またその傍《かたはら》に隣家《となり》の猫も疵を蒙りて、半ば死したるが如し。それより三四尺を隔りて、丈《た》け二尺ばかりの古鼠《ふるねづみ》の、毛は針《はり》をうゑたるが如きが生じたる、怖ろしげなるが血に染《そま》りて倒《たふ》れ、いまだ少しは息のかよふ様《やう》なりければ、棒にて敲き殺し、やうやうに下へおろし、猫をばさまざま介抱しけれども、二疋ながら助命(たすから)ず。かの鼠はあやしいかな、旅僧の著《き》て居《ゐ》たる衣《ころも》を身にまとひ居《ゐ》たり。彼れこれと考へ察すれば、旧鼠(ふるねづみ)が旅の僧に化けて来り、住職を喰《く》はんとせしを、飼猫が旧恩の為に、命を捨てて住職の災ひを除きしならんと、人々も感じ入り、頓(やが)て二匹の猫の塚を立て回向《ゑかう》をし、鼠もいと怖ろしき変化(へんげ)なれば捨ておかれずと、住持は慈悲の心より、猫と同じ様に鼠の塚を立て法事をせられしが、今猶伝へてこの辺を往来《ゆきき》の人の噂に残り、塚は両墓《ふたつ》ともものさびて寺中に在り。(予が友人伝菴桂山《でんあんけいざん》遊歴の節《とき》に、彼《かの》寺にいたりて書《かき》とゞめしをこれに出《いだ》せり)

[やぶちゃん注:「閑窻瑣談」江戸後期に活躍した戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~ 天保一四(一八四四)年)の随筆。怪談・奇談及び、日本各地からさまざまな逸話。民俗を集めたもの。浮世絵師歌川国直が挿絵を描いている。吉川弘文館『随筆大成』版で所持するが、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第九巻(国民図書株式会社編・昭和三(一九二八)年同刊)のこちらから、で正字で視認出来る。挿絵(次のコマ)もある。通しで『第七』話目の『猫(ねこ)の忠義(ちうぎ)』である。総ルビに近いので、読みは、積極的にそれを参考にした(但し、歴史的仮名遣の誤りや、奇体な読みのものは無視した)。なお、この話は、既に二度、電子化してある。最初のものは、「谷の響 一の卷 十六 猫の怪 並 猫恩を報ふ」の私の注で、そこに示した挿絵(吉川弘文館『随筆大成』版からOCRで読み取り、トリミング補正したもの)を参考図として、この注に後に添えておくこととする。今一つは、「柴田宵曲 妖異博物館 猫と鼠」である。孰れも注を施してあるので(特に前者で詳しい)参照されたい。

 

Sairinjijyusyoku

 

「静岡県榛原郡御前崎町」現在は静岡県御前崎市(グーグル・マップ・データ)。]

〔耳囊巻二〕安永・天明の頃なる由、大阪農人橋《のうにんばし》に河内屋惣兵衛と云へる町人ありしが、壱人の娘容儀も宜く、父母の寵愛大方ならず。然るに惣兵衛方に年久しく飼ひ置ける猫あり。ぶち猫の由、彼娘も寵愛はなしぬれど、右の娘につきまとひ、片時も立離れず。定住座臥、厠の行来等も附まとふ故、後々は彼娘は猫見入りけるなりと、近辺にも申し成し、縁組等世話いたし候ても、猫の見人りし娘なりと、断るも多かりければ、両親も物憂き事に思ひ、暫く放れ候場所へ追放しても、間もなく立帰りけるゆゑ、猫は恐ろしきものなり、殊に親代より数年《すねん》飼ひ置けるものなれど、打殺し捨るにしかじと、内談極めければ、かの猫行衛なくなりしゆゑ、さればこそと、皆家祈禱その外魔よけ札等を貰ひ、いと慎みけるに、或夜惣兵衛の夢に、彼猫枕元に来りてうづくまり居けるゆゑ、爾(なんぢ)はなにゆゑ身を退《しりぞ》き、また来りけるやと尋ねければ、猫のいはく、我等娘子を見入りたるとて殺されんと有る事ゆゑ、身を隠し候、よく考へても見給へ、我等この家先代より養はれて、凡そ四拾年程厚恩を蒙りたるに、何ぞ主人のためあしき事をなすべきや、我《われ》娘子の側を放れざるはこの家に年を経《へ》し妖鼠《ようそ》あり、彼《かの》娘子を見入りて近付かんとする故、我等防ぎのために聊かも放れず、附《つき》守るなり、勿論鼠を制すべきは、猫の当前ながら、中々右鼠、我壱人《ひとり》の制に及びがたし、通途《つうと》の猫は二三疋にても制する事なりがたし、爰に一つの法あり、嶋の内口河内屋市兵衛方に、虎猫壱疋有り、これを借りて我と俱(とも)に制せば、事なるべしと申して行方知らずなりぬ。妻なる者も同じ夢見しと、夫婦かたり合ひて驚きけれども、夢も強《しひ》て用ふべきにもあらずとて、その日は暮れぬるに、その夜又々かの猫来りて、疑ひ給ふ事なかれ、かの猫さへかり給はば、災のぞくべしと語ると見しゆゑ、かの嶋の内へ至り、料理茶屋躰《てい》の市兵衛方へ立寄り見しに、庭の辺《へん》縁頰《えんばな》に抜群の虎猫ありけるゆゑ、亭主に逢ひて、密かに口留めして、右の事物語りければ、右猫は年久しく飼ひしが、一物(いちもつ)なるや、その事は知らず。せちに需(もと)めければ、承知にて貸しけるゆゑ、あけの日右猫をとりに遣しけるが、彼れもぶち猫より通じありしや、いなまずして来りければ、色々馳走などなしけるに、かのぶち猫もいづちよりか帰りて、虎猫と寄合ひたる様子、人間の友達咄し合ふがごとし。扨(さて)その夜、またまた亭主夫婦が夢に、彼ぶち猫来り申しけるは、明後日彼鼠を制すべし、日暮れは我等と虎猫を二階へ上げ給へと約しけるゆゑ、その意に任せ、翌々日は両猫《ふたつねこ》に馳走の食を与へ、さて夜に入り二階へ上げ置きしに、夜四つ<午後十時>頃にも有ㇾ之べくや。二階の騒動すさまじく、暫しが間は震動などする如くなりしが、九つ<夜半十二時>にも至るころ、少し静まりけるゆゑ、誰彼(たれか)れと論じて、亭主先に立ちあがりしに、猫にもまさる大鼠ののどぶえへ、ぶち猫喰ひ付きたりしが、鼠に脳をかき破られ、鼠と俱に死しぬ。かの嶋の内のとら猫も、鼠の脊にまさりけるが、気力つかれたるや、応(まさ)に死に至らんとせしを、色々療治して、虎猫は助かりけるゆゑ、厚く礼を述べて、市兵衛方に帰しぬ。ぶち猫はその忠心を感じて、厚く葬りて、一基の主《あるじ》となしぬと、在番中聞きしと、大御番勤めし某物語りぬ。

[やぶちゃん注:本篇は、私のでは底本違いで、「耳嚢 巻之九 猫忠死の事」である。「耳囊」にはほぼ相同の内容を持ったものが、私のでは、「耳嚢 巻之七 猫忠臣の事」があるので比較されたい(後者は伏字があったりして、私は好きくない)。また、これ、大坂が舞台で、私は大阪弁に冥いため、関西出身の私の若い教え子に、上前記の私の拙訳を見て貰い、正しい大阪弁版現代語訳に校訂して貰ったものを、原文本文附きで、後に「耳嚢 巻之九 猫忠死の事 ――真正現代語大阪弁訳版!―」として公開してある。合せて、お楽しみあれ! また、「柴田宵曲 妖異博物館 猫と鼠」でも採用している。

 なお、以下は、上記本文の最後に一字空けで繋がっているが、特異的に前に合わせて、改行した。

〔宮川舎漫筆巻四〕文化十三年子年の春、世に専ら噂ありし、猫恩を報はんとしてうち殺されしを、本所回向院<東京都江東区内>へ埋め碑を建て、法名は徳善畜男《とくぜんちくなん》と号す。三月十一日とあり。右由来の儀は、両替町《りやうがへちやう》時田喜三郎が飼猫なるが、平日出入の肴屋《さかなや》某が、日々魚を売るごとに魚肉をかの猫に与へける程に、いつとても渠《かれ》が来れる時には、猫先づ出《いで》て魚肉をねだる事なり。さて右の肴屋病気にて長煩ひしたりし時、銭一向無ㇾ之難儀なりし時、何人《なんぴと》ともしらず金二両あたへ、その後《のち》快気して商売のもとでを借《か》らんとて、時田がもとに至りける時、いつもの猫出《いで》ざるにつき、猫はと問ひければ、この程打殺し捨てたりしと。その訳は先達《せんだつ》て金子二両なくなり、その後《のち》も金を両度まで喰(くは)へて迯出(にげ《い》)でたり、併《しか》し両度ともに取戻しけるが、然《しか》らばさきの紛失したりし金も、この猫の所為《しよゐ》ならんとて、猫をば家内寄り集りて殺したりといふ。肴屋泪《なみだ》を流して、その金子はケ様々々の事にて、我等方にて不思議に得たりと、その包紙を出し見せけるに、この家の主が手跡なり。しからばその後《のち》金をくはへたるも、肴の基手《もとで》にやらんとの猫が志《こころざし》にて、日頃魚肉を与へし報恩ならん。扨々知らぬ事とて、不便《ふびん》の事をなしたりとの事なり。後にくはへ去らんとしたる金子をも、肴屋に猫の志を継ぎて与へける。肴やもかの猫の死骸をもらひ、回向院に葬りしたる事とぞ。凡そ恩をしらざるものは猫をたとへにひけど、又かゝる珍らしき猫もありとて、皆人《みなひと》感じける。

[やぶちゃん注:「宮川舎漫筆」宮川舎政運(みやがわのやまさやす)の著になる文久二(一八六二)年刊の随筆。筆者は、かの知られた儒者志賀理斎(宝暦一二(一七六二)年~天保一一(一八四〇)年:文政の頃には江戸城奥詰となり、後には金(かね)奉行を務めた)の三男。谷中の芋坂下に住み、儒学を教授したとあるが、詳細は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで、正字表現で視認出来る。標題は『猫(ねこ)恩(おん)を報(むくふ)』。子の墓は「鼠小僧供養碑(鼠小僧の墓)」の脇に、「猫塚」(グーグル・マップ・データ)として現存する。いろいろ調べたが、法名の「德善畜男」は見当たらない。

「文化十三年子年」一八一六年。

「両替町」現在の中央区日本橋本石町二丁目(「日本銀行」本店)、及び、日本橋室町二丁目(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫の声」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猫の声【ねこのこえ】 〔窓のすさみ〕小野浅之丞とて、半之丞の甥なりしとぞ。十七八歳ばかりのころ、隣の家より猫の来りて、飼鳥《かひどり》を取る事度々なりしかば、憎きものかな、射殺しなんと思ひ居けるをり、向うの築山《つきやま》の陰に猫の戯れ遊ぶを見附けて、あはやそれぞと神頭(じんどう)の矢をつがひ、秘かにねらひよりてこれを射る。あやまたず当りて、その儘たふれぬ。立寄りて見れば、日頃のにはあらず外《ほか》のなり。あなあさまし、憎しと思へばこそ射つれ、これには罪もなきものを、と後悔すれどもかひなし。日暮れしまゝ一間《ひとま》なる所にありしに、ひるまの猫の事心にかゝり、さるにてもよしなきことして、思ひがけぬあやまちをしつ、心よく遊び居《ゐ》しを射たる聊爾(れうじ)さ[やぶちゃん注:迂闊さ。]よ、とくれぐれと思ひながら、夜も少しふくるころふしどに入りけれど、とくも寝《ね》られざりければ、衾《ふすま》をかづきてつくづくと思ひ続けて居《ゐ》しほどに、ほのかに猫のなく声すれば、不思議やひるまのなき声にも似たる哉《かな》と思ひ、枕をあげて聞くに、ひた啼きに啼く。はては床(ゆか)の下に声のするやうなれば、不思議さよと怪しく心をつけて聞けば、更《ふ》くるにつけてしきりに啼く。いかゞしてかゝるぞと、障子の外に出《いで》て聞けば、えんの下になく。おり立ちて逐ひぬればやみぬ。さてはなかりしなど思ひつゝ立入りてうち臥せば、また枕の下に声す。夜一夜《よひとよ》いもねず、明ければ止みぬ。さしも怪しかりつるかなと思ヘど、人に語るべくもあらねば、心一つに思ふやう、夜にならばまたや声すべき、若しも生き還りたるにやと、何となく築山の辺《あたり》を尋ね見、床の下の塵はらへとて、人を入れて、何事もあらずや、と問へば、蜘《くも》の網ならではなし、と答ふ。とかくして夜《よ》になりて臥しければ、前の如くひた啼きに啼きしかば、目もあはずして明《あか》しぬ。昼ほどになれどもおきやらで、引きかづき有りけるを、人々心もとながりて問ひつらねしほどに、やうやう日たけておきいでたれば、今日は昼になりても止まず。亭に出《いで》ても、おやの前に有りても、我《わが》居《ゐ》る床の下に声たえず、暮れかゝる比(ころ)よりは我腹《わがはら》の中に啼く。いよいようるさし。とやせんかくやと思へば、猶うちしきり啼く。これよりしておのづから病人となりて、物喰ふ事も得《え》[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」に当て字したもの。]せざりしかば、日に日にかたちも衰ろヘゆき、人心地《ひとごごち》もなく、一間に閉ぢこもり、腹をおさへてうづくまりてのみありける。こゝに伯父の何某《なにがし》、聞ゆる勇士にて知謀ありしが来りて云ひけるは、汝不慮の病《やまひ》をうけて、その儘ならば命終《をは》らん事、程あらじ、然れども少年なりとも士たるものゝ獣の類ひに犯されて病み死なんは、世の聞く所、先祖の名をも汚さんことも口惜しからずや、とても永かるまじき身をもつて、いさぎよくして憤りを忘れざる事を世にしらせば、少しは恥を雪(そそ)ぎなん、自《みづか》らはかり見よかし、とありしかば、浅之丞うちうなづき、仰せまでもなく始めより口借しく、いかにもなりなんと存ずれど、親達の歎き給はんが心ぐるしくて、今までのび候なり、この上はいよいよ思ひきはめ候、と云ひければ、いしくも[やぶちゃん注:「美しくも」。殊勝にも。よくも。]心得たり、親達にもかくと告げ知らせて、明日《あす》の夜《よ》来りて介錯《かいしやく》しなん、おもひ残す事なき様《やう》、よくしたゝめ置かれよ、と約して帰りぬ。その夜になりしかば、宵過ぐるころ伯父来り、湯あみさせ、衣服を改め、父母《ふぼ》に見(まみ)えて暇乞《いとまこ》はせける。親の心量り知るべし。子一《ねひとつ》[やぶちゃん注:午後十一時。]ばかりになりしかば、いざ時も至りぬ、只今思ひきはめよ、といひしかば、心得候ひぬ、御《おん》はからひにて恥辱を雪ぎなん事、いみじう悦《うれ》しくこそ、この上跡《あと》の苦しからぬ様《やう》に頼み奉る、と式礼《しきれ》して、白く清げなる肌をぬぎ、刀《かたな》を取《とつ》てすでにおしたてんとする時に、伯父の云ふやう、今しばらく待てよ、汝今死ぬるは、猫の腹に入《い》つて声するが為にわづらはされて、恥かしさにの事にあらずや、今はの時に、それぞともきかずして終らんは詮《せん》なし、今一度《いまひとたび》まさしく聞き定めて、その声にしたがひて刀をおし立てよ、と有りければ、刀を持ちながら聞くに声せず。いかゞし候やらん、宵までありつるが聞えず候は、と云ひければ、それは死に臨みて心おくれて聞えぬなり、心を静めてよく聞け、とうちしきり問へども、聞え申さず、といふ。さらば今しばし待て、そのわかちもなくて急ぎなんは、誠《まこと》に犬死ぞかし、夜更《よふ》くるとも聞き定めての事よとて、一夜附き居《ゐ》て、しばしば問ひしかども、終《つひ》に声のせぬよしなりければ、さらばとゞまれ、とうち笑ひてやみぬ。これよりして後《のち》、絶えて心にかゝる事もなかりけり。かしこかりける謀計《はかりごと》かなと、時の人申せしとて、大津にある医師の語りき。

[やぶちゃん注:「窓のすさみ」松崎尭臣(ぎょうしん 天和(てんな)二(一六八二)年~宝暦三(一七五三)年:江戸中期の儒者。丹波篠山(ささやま)藩家老。中野撝謙(ぎけん)・伊藤東涯に学び、荻生徂徠門の太宰春台らと親交があった。別号に白圭(はっけい)・観瀾)の随筆(伝本によって巻冊数は異なる)。国立国会図書館デジタルコレクションの「有朋堂文庫」(大正四(一九一五)年刊)の当該本文で正規表現で視認出来る。同書の「目錄」によれば、標題は『小野淺之丞猫に惱む』。かなり丁寧にルビがあるのを積極的に参考にした。

「神頭(じんどう)の矢」的矢の鏃(やじり)の一種。鏑矢(かぶらや)に似て、先を平らに切って鈍体にしたもので、的や激しくは傷つけないようにしたもの。長さ五~六センチメートルで、多くは木製で、黒漆塗り。「磁頭」とも言う。鉄製のものを「金神頭」(かなじんどう)という。庭の中であり、猫との距離が近く、さらに金神頭を用いていれば、射た猫の部位が悪ければ(主人公「小野淺之丞」は自分の腹部から猫の声が聴こえるとあるから、柔らかい腹部を狙った可能性が高い)、猫がショック死することもあろう。

 さても。この「小野淺之丞」の病態は、PTSDPost Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)の変形した一例で、幻聴を聴いているに過ぎず、自刃を決したところで、覚悟した意識がそちらに集中したことによって、幻聴が止んだものと読め、幸いにも一過性で全快した擬似怪談である。事実としてあった実話であろう。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫の踊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猫の踊【ねこのおどり】 〔甲子夜話巻二〕先年角筈《つのはず》村<東京都新宿区内>に住《すみ》給へる伯母夫人に仕《つかへ》る医高木伯仙と云へるが話は、我《わが》生国《しやうごく》は下総《しもふさ》の佐倉<千葉県佐倉市>にて、亡父或夜睡後に枕頭に音あり。寤(さめ)て見るに、久しく畜《か》ひし猫の首に手巾《てふき》を被《かぶ》りて立ち、手をあげて招くが如く、そのさま小児の跳舞《とびまふ》が如し。父即ち枕刀《ちんとう》を取《とり》て斬《き》らんとす。猫駭《おどろ》き走りて行く所を知らず、それより家に帰らずと。然《しか》れば世に猫の踊《をどり》と謂ふこと妄言にあらず。〔同巻七〕猫のをどりのこと前に云へり。また聞く、光照夫人(予が伯母、稲垣侯の奥方)の角筈村に住み玉ひしとき、仕へし婦の、今は鳥越邸に仕ふるが語りしは、夫人の飼ひ玉ひし黒毛の老猫《らうびやう》、或夜かの婦の枕頭に於てをどるまゝ、衾《ふすま》引《ひき》かつぎて臥したるに、後足にて立《たち》てをどる足音よく聞えしとなり。またこの猫常に障子のたぐひは自ら能く開きぬ。これ諸人の所ㇾ知なれども、如何にして開きしと云ふこと、知るものなしとなり。

[やぶちゃん注:私のもので、前者は「甲子夜話卷之二 34 猫の踊の話」、後者は「甲子夜話卷之七 24 猫の踊り」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫と蛞蝓」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猫と蛞蝓【ねことなめくじ】 〔寛政紀聞〕この節<寛政十年>小普請阿部大学支配何某、庭中の植込みの中に接骨木(にはとこ)有りしに、如何なる子細にや、いつの頃よりともなしに猫集り来り、日々に数《かず》殖え、後には数万《すまん》とも申すべき程に相成り、彼《か》の木に登り、或ひはその下に臥し、己が様々戯れ遊び、追へどもうてども退《の》かざりければ、主人も為んかたなく、右の接骨木を切り倒されしに、この木みな空洞にて、その中より五六寸ツヽ[やぶちゃん注:ママ。]のなめくじ、殊の外夥しく溢れ出《いで》しに、猫はその有様を見るや否《いな》、いづくともなく散々に迯失《にげう》せしとぞ。誠に怪異の事なりと、世間の噂まちまちなり。

[やぶちゃん注:「寛政紀聞」「天明紀聞寬政紀聞」が正題。天明元年から寛政十一年までの聴書異聞を集録する。筆者不詳だが、幕府の御徒士(おかち)であった推定されている。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第四(三田村鳶魚校訂・ 随筆同好会編・昭和二(一九二七)年米山堂刊)のこちらで当該話を視認出来る(右ページ最終行九字目以降)。本書は概ね編年体を採っており、この記事は前に別な短い記事が載り、それによって、寛政十年の『九月中旬』の出来事であることが判る。

「接骨木(にはとこ)」「庭常」とも書く。双子葉植物綱マツムシソウ目ガマズミ科ニワトコ属亜種ニワトコ Sambucus racemosa subsp. sieboldiana 当該ウィキによれば、『日本の漢字表記である「接骨木」(ニワトコ/せっこつぼく)は、枝や幹を煎じて水あめ状になったものを、骨折の治療の際の湿布剤に用いたためといわれる。中国植物名は、「無梗接骨木(むこうせっこつぼく)」といい、ニワトコは中国で薬用に使われる接骨木の仲間であ』るとあって、『若葉を山菜にして食用としたり、その葉と若い茎を利尿剤に用いたり、また』、『材を細工物にするなど、多くの効用があるため、昔から庭の周辺にも植えられた』。『魔除けにするところも多く、日本でも小正月の飾りや、アイヌのイナウ(御幣)などの材料にされた』。『樹皮や木部を風呂に入れ、入浴剤にしたり、花を黒焼にしたものや、全草を煎じて飲む伝統風習が日本や世界各地にある』。『若葉は山菜として有名で、天ぷらにして食べられる』。但し、『ニワトコの若葉の天ぷらは「おいしい」と評されるが』、『青酸配糖体を含むため』、『多食は危険で』、『体質や摂取量によっては下痢や嘔吐を起こす中毒例が報告されている』とあった。『果実は焼酎に漬け、果実酒の材料にされる』とある。私は、若葉の「天ぷら」を食べたことがある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫と狐」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猫と狐【ねこときつね】 〔筱舎漫筆第七〕高橋司の物語に、天保七年申の七月十四日の夜のことなり。富野の宅のまへに荒れたる畠あり。厠にゆきて窓より外の方をみやりたりしが、猫ひとつふらふらと出来《いできた》る。やがて狐ひとつ来《きた》る。かの猫とならびゐけるが、狐まづ手をあげ、乳のあたりとおぼしき所におれ、すこし背をのし、小足にてあゆみ出す。猫またその定にして、あとより歩む。六七間もある畠をま直《すぐ》にゆく。帰りには常のあしにて、ふらりふらりともとの所へゆく。かくすること五六十度にもおよびぬ。そのはせゆく所は、月かげにて垣のくま糸はへたるごとくにあり。その筋をゆくなりとぞ。そのうち司しはぶきしたれば、驚ろきて二疋ともに飛びさりぬとなり。またまた狐に教へられて歩くことの稽古なるべし。このわざ数度におよびてなん、種々の伝授をば受くなるべし。 〔譚海巻五〕深川小奈木沢<東京都江東区内>近き川辺に、或人先祖より久しく住居《すみゐ》て有る宅あり。自《おのづか》ら田畑近く人気《ひとけ》すくなき所なりしに、ある夕暮、あるじ庭を見てゐたれば、縁の下より小《ちさ》き狐壱ツはひ出てうづくまり居《ゐ》しを、家に飼ひ置ける猫見附けて怪しめる様《やう》なるが、頓(やが)ておづおづ近寄り、狐の匂ひを嗅ぎて、うたがはずなれ貌《がほ》に寄添《よりそ》ひ、後々《あとあと》は時として伴なひ歩《あり》きなどして友達になりけるが、終《つひ》に行方《ゆくへ》なくかい失せぬるとぞ。元来同じ陰獣なれば、同気《どうき》相和《あひわ》して怪しまず、かく有りけるにやとその人の語りぬ。すべて猫は狸奴《りど》と号して、狐狸の為《ため》つかはるゝ物なれば、誘引せらるゝ時は、共に化けてをどり歩《ある》く事なり。狐狸のつどふ所には猫必ず交《まぢは》る事あり。或人越ケ谷<埼玉県越ケ谷市>に知音有りて、行きて両三日宿りたるに、毎夜座敷の方に、人の立居《たちゐ》る如く、ひそかに手を打《うち》てをどる声聞ゆる故、わびしく寝られぬまゝ亭主にかくと語りければ、さもあれ心得ざる事とて、亭主伺ひ行きければ、驚《おどろき》て窻《まど》のれんじより飛出《とびいづ》る物あり。つゞきて飛出る物をはゝきにて打ちたれば、あやまたず打ち落しぬ。火をともして見れば、家に久しくある猫、この客人の皮足袋《かはたび》をかしらにまとひて死《しし》て有り。かゝれば狐などをどりさわぐは、猫なども交りてかく有りける事と、その人帰り物語りぬ。

[やぶちゃん注:「筱舎漫筆」(ささのやまんぴつ)は「牛と女」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第二巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字で当該部が視認出来る。標題は『○猫狐あやしきわざ』である。後者は、私の「譚海 卷之五 狐猫同類たる事 附武州越ケ谷にて猫おどる事」を見られたい。

「高橋司」不詳。名は「つかさ」と訓じておく。

「天保七年申の七月十四日」グレゴリオ暦一八三六年八月二十五日。

「富野」不詳。

「六七間」十一~十二・七二メートル。

「深川小奈木沢」上記リンク先で注したが、転写すると、これは「深川小名木川(ふかがはおなきがは)」の誤りであろう。ここに現在もある(グーグル・マップ・データ)。「三井住友トラスト不動産」公式サイト内の「このまちアーカイブズ」の「東京都 深川・城東」に「江戸切絵図」から諸画像・近現代の写真と、当該地区の歴史的解説も豊富に書かれてあるので、是非、見られたい。]

2023/12/23

只野真葛 むかしばなし (93)

 

一、今田善作といひし人、在合[やぶちゃん注:底本に「合」を当て字として、『(郷)』と本文割注をしてある。]にて野良狐(のらぎつね)をならして、日ごとに食をあたへしかば、終(つひ)に、緣先に晝寢して居《ゐ》るほどになれしに、そのはじめよりは、三年ばかりも、かいて、有(あり)し、とぞ。

 善作、机にかゝりておるかたわらの緣の上に、狐、居て、細目に明(あけ)て、善作が顏を、まもり、物いひたげなるていなりしに、善作、ことばをかけ、

「是、きつね。そちを扶持(ふち)せしも、はや、三年なり。少しは禮を仕(し)そふ[やぶちゃん注:ママ。]なこと。いかに野良狐だとて、あまり陰(かげ)[やぶちゃん注:「お蔭」。謝意。]のなきことなり。鳥の一羽も、才覺は、ならぬか。」

と、いひおはるやいなや、とび下(お)りて、いづくともなく行(ゆき)しに、

「さて、聞分(ききわけ)しやうな、ていなり。いかゞしつる。」

と、家内と物がたりして、日をくらせしに、よく朝、ひしくひ一羽、こつぜんと、枕上(まくらがみ)に有(あり)。されば、

「狐の、きゝ分(わけ)て持(もち)きしならん。」

と、料理して見しに、一向、身のなき、やせ鳥なりし、とぞ。

 後(のち)にきけば、其あたりにかひて有(あり)し「おとり雁(がん)」をとりて、あたへし、とぞ。

 食(くひ)ては、うまくなし。とられしかたには、大迷惑せしなり。

 野良狐の心、いきなるべし【「おとり」とは、かひおきたる鳥を野場につなぎて、鳥をよびて、打(うつ)なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

[やぶちゃん注:「ひしくひ」カモ目カモ亜目カモ科マガン属ヒシクイ Anser fabalis serrirostris 。本邦に渡り鳥として南下してくるのは他に、オオヒシクイ Anser fabalis middendorffii がいる。詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴻(ひしくひ)〔ヒシクイ・サカツラガン〕」を参照されたい。]

只野真葛 むかしばなし (92)

 

一、正左衞門、龍が崎の御役人をつとめし頃、少々、御用金を廻し行(ゆく)に、いつも東通りの道中、すきにて有(あり)し故、その通りにかゝるに、折ふし、道中、物さはがしきこと有しかば、

「いよいよ、荷物、大切にし、少しも、はやく、其宿を通りぬけん。」

と、夜どほふし[やぶちゃん注:ママ。「夜通し」。]仕(し)て[やぶちゃん注:後で出るが、荷を運ぶために馬子を使っているので「仕」なのである。]行(ゆく)に、四ツ倉に着(つき)たりしが、其身は駕(かご)にて先へ行(ゆき)、八弥(はちや)[やぶちゃん注:前に出た正左衛門の養子。]を荷廻しにして、あとにのこせしに、人步(にんぷ)、滯(とどこほり)て、いでず、日も暮(くれ)、夜も五ツになれども、出ず。

「ぜひ、ぜひ。」

と催促すれども、宿(しゆく)にては、

「今晚は、何卒、御とまり被ㇾ下。」

と、いへども、其荷つゞらは、御用金、入(いる)を、わざと、粗末にとりあつかひて、心を付(つけ)てまわし行(ゆく)ことなれば、養父は、先へ行しに、あとには、いかにも、とゞまりがたく、

「たとへ、夜が明(あくる)るまでも、人足を、まちて、立(たて)。」

とて、荷物に、こしかけ、催促しきりにせしかば、四ツ頃に、漸(やうやう)出(いで)しは、十二、三の小女、兩人なり。[やぶちゃん注:宿次ぎの付き添いの雇い人が少女二人というのは、八弥ならずとも、空いた口が塞がらぬわ!]

 八彌は、そのとし、十八才なり。

『まさかの時は、足手まとひよ。』

と、おもふには、なきよりも、心ぼそし。

 せんかたなければ、引(ひつ)たて行(ゆく)に、その物さはがしきといふは、

今、行(ゆく)海邊、

「人家なき所の眞中頃(まんなかごろ)の岩穴に、ぬす人、兩三人、かくれすんで、晝も、壱人(ひとり)行(ゆく)人をば、とらへ、衣類を、はぎて、からをば、海にいれる。」

ことのよし、馬子共(まごども)のかたるを聞き、

『絕體絕命。』

と、心も、こゝろならぬに、浪の打(うつ)にまかせて、まか[やぶちゃん注:底本に右にママ注記し、本文直後に『(はるか)』と補注する。]うみ中(なか)に、さしわたし、壱尺餘りなる火の玉のごとき光、あらはれて、くらき夜なるに、足もとの小貝まで、あらわに見へたり。

「はつ」

と、おどろき、

「あれは、何(な)ぞ。」

と、馬子に、とへば、

「此所は龍燈(りゆうとう)の上(のぼ)る所と申(まふし)ますから、大かた龍燈でござりませう。」

と、いひしが、誠にふしぎの光なりし、とぞ。

「ぬす人のすむ岩屋の前へきたら、しらせろ。」

と、いひおきしが、

『「爰(ここ)ぞ、其所(そこ)。」と聞(きき)し時は、何ものにもあれ、出(いで)きたらば、只、一打(ひとうち)にきりたほさん。』

と、鍔元《つばもと》を、くつろげて、心をくばり行過(ゆきすぎ)しが、ぬす人の運や、つよかりけん、音もせざりし、とぞ。

「其ひかりは、三度《みたび》まで、見たりし。」

とぞ。

 いたく、夜ふけて、先(さき)の宿(しゆく)にいたりしかば、正左衞門は、寢(いね)もやられず、門に立(たち)て待居(まちをり)たりしが、遠く來(きた)る音を聞(きき)て、

「やれ、八弥、無難にて、きたりしや。よしなき夜通ふし仕(つかへ)て、大勞をも、ふけしぞや。」

とて、悅(よろこび)しとぞ。

 海漁(うみりやう)をするもののはなしに、

「世に『龍燈』といひふらすもの、實(じつ)は火にあらず、至(いたつ)て、こまかなる羽蟲(はむし)の身に螢などのごとく、光(ひかり)有(ある)一種なり。餘り、ちひさくて壱など有(あり)ては、光も見へ[やぶちゃん注:ママ。]ねど、おほくよれば、おのづから白く見ゆるものなり。つよく雨のふる夜、風の吹(ふく)時などは、ちりて、まとまらず。夏の末より秋にかゝりて、おほく、水上(すいじやう)に生(うま)る蟲にて、あつまりしを遠く見れば、火のごとく、見ゆるものなり。高き木末、堂の軒ばなどにかゝるは、みな此蟲のまとまりたるにて、奇とするに、たらず。沖に舟をかけて、音もせで、をれば、まぢかくもあつまりくるを、少しにても、息、ふきかくれば、たちまち、ちりて、見へず成(なる)。」

と、いふを、此夜、見たりしは、それとはことなり、いづれ、あやしき光なりし。

[やぶちゃん注:この話は、「奥州ばなし」にも、「四倉龍燈 / 龍燈のこと(二篇)」で載る。この発光生物については、そちらの私の注で考証してあるので、参照されたい。また、本格的「龍燈」考証は、私の『南方熊楠「龍燈に就て」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・2.9MB・51頁)』をどうぞ。

只野真葛 むかしばなし (91)

 

[やぶちゃん注:本篇の主人公は既に「88」に出た馴染みの人物。この話、実は私がブログで電子化するのは、実に三度目である。「奥州ばなし 狐つかひ」を見られたい。

一、淸安寺といふ寺の和尙は、「狐つかひ」にて有(あり)し、とぞ。

 橋本正左衞門、ふと、懇意に成(なり)て、折々、夜ばなしに行(ゆき)しに、あるよ、和尙の曰く、

「おなぐさみに、芝居を御目にかくべし。」

といふより、たちまち、座敷、芝居のていとなり、色々の役者ども、いでゝ、はたらき、道具だての仕かけ、鳴物の拍子、少しも正眞の通(とほり)、たがふことなく、おもしろく、居合(ゐあは)せし人々も、感じ入(いり)て有(あり)し、とぞ。

 正左衞門は、不思議をこのむもの故、分(わけ)て、悅(よろこび)、それより、又、ならひたしと思(おもふ)心、いでゝ、しきりに行(ゆき)しを、和尙、さとりて、

「そなたには、飯綱《いづな》の法、ならいたくねがはるゝや。さあらば、まづ、試(こころみ)に三ばん【三度なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。「三晩」ではなく、「三番」であることを真葛は示唆したかったのだろう。]ためし申(まふす)べし。是を、こらゆることのならば、おしへ[やぶちゃん注:ママ。]申さん。」

と、いひし、とぞ。

 正左衞門は、かぎりなく悅(よろこび)、

「いかなることをも、たへ[やぶちゃん注:ママ。]しのぎて、いで、そのいづな習はんものを。」

と、いさみて來りしを、一間に、壱人(ひとり)おきて、

「この攻めにたえかねたる時は、聲を、あげられよ。さすれば、皆、きへうせるなり。」

と、いひきかせて、和尙、入(いり)しあとに、

「つらつら」

と、鼠のいでゝ、膝にあがり、袖に入(いり)、襟(えり)をわたりなどする事、めいわくなりといへども、誠のものにあらずとおもふ故、

『よし。食(くひ)つかれても、きずは、つくまじ。』

と、心をすゑて[やぶちゃん注:ママ。]、こらへし程に、やゝしばらくせめて、いづくともなく無成(なくなり)たり。

 和尙、出合(いであひ)、

「御氣丈なることなり。」

と、あいさつして、

「明晚、しらで。」[やぶちゃん注:『日本庶民生活史料集成』版は『しらて』で右にママ注記を打つ。「奥州ばなし 狐つかひ」では、『「明晚、來られよ。」』で躓かない。しかし誤る前の表現が、まるで推定出来ないのは、狐に騙されたようだ。]

といふ故、またゆきしに、前夜のごとく、壱人、をると、此度(このたび)は、蛇のせめなり。

 いくらともなく、大小の蛇、はひいでゝ、袖に入(いり)、襟(えり)にまとひ、わるくさき事、たへがたかりしを、

『是も誠のものならず。』

と、こらへとほふ[やぶちゃん注:ママ。]して有し、とぞ。

 さて、明晚が過(すぐ)れば、ならふことゝ、心、悅(よろこび)て、翌晚、行(ゆき)しに、壱人有(あり)ても、何も出(いで)こず、やゝまち遠(どほ)におもふ折(をり)しも、こはいかに、早く、わかれし實母の、末期(まつご)に着たりし衣類のまゝ、まなこ、引付(ひつつき)、小鼻、おち、口びる、かわき、ちゞみはてゝ、よわりはてたる顏色・容貌、髮の亂(みだれ)そゝけたるまで、落命の時と、身にしみて、今も、わすれがたきに、少しも、たがわぬさまして、

「ふわふわ」

と、あゆみ出(いで)、たゞ、むかひて、座したるは、鼠・蛇に百倍して、心中のうれい[やぶちゃん注:ママ。]、かなしみ、たとへがたく、すでに、言葉を、かはさんとするてい、身にしみじみと、心わるく、こらへかねて、

「眞平御免被ㇾ下ベし。」

と、聲を上(あげ)しかば、母と見得しは、和尙にて、笑(ゑみ)、座(ざ)して有(あり)し、とぞ。

 それより、ふたゝび、ゆかず成(なり)しとぞ。

 正左衞門、繼母は、上遠野伊豆(かどのいづ)が家より、いでし人なり。此人のはなしに、

「伊豆は、狐をつかひし。」

と、いひしとぞ。八弥も、養子と成(なり)て有し故、伊豆にちかしくして、手離劍[やぶちゃん注:「手裏劍」の当て字。]打(うち)やふ[やぶちゃん注:]なども、ならひたりしなり。

[やぶちゃん注:最終段落の「上遠野伊豆」や「養子」「八弥」、及び、手裏剣(上遠野伊豆が達人であった)のことは、先の「87」で書かれてある。

 なお、「奥州ばなし 狐つかひ」の冒頭注で、私は、『これは恐らく正左衛門の作話で(実録奇譚である本書の性質から、私は真葛の創作とは全く思わない)、その元は、かの唐代伝奇の名作、中唐の文人李復言の撰になる「杜子春傳」であろう。リンク先は私の作成した原文で、「杜子春傳」やぶちゃん版訓読「杜子春傳」やぶちゃん版語註「杜子春傳」やぶちゃん訳、及び、私の芥川龍之介「杜子春」へのリンクも完備させてある。但し、柴田はそれ以外に、『「宇治拾遺物語」にある瀧口道則が、信濃の郡司から異術を習ふ話に似てゐる』とも記す。その「瀧口道則習術事」(瀧口道則(たきぐちのみちのり)、術を習ふ事)も「柴田宵曲 妖異博物館 飯綱の法」の注で電子化しておいたので、比較されたい。実際には、私の電子テクストには、この「飯綱の法」に纏わる怪奇談や民俗学上の言及が十件以上ある。「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始めて聞く飯綱の法」や、「老媼茶話卷之六 飯綱(イヅナ)の法」も読まれたい』と記した。それを変更する気は、全くない。

只野真葛 むかしばなし (90) / 最終巻「六」~始動

 

むかしばなし 六

 

一、此御家中とら岩《いは》道齋《だうさい》といひし外療(ぐわいれう)[やぶちゃん注:外科医。]、大力(だいりき)の大男にて、しごく、元氣ものなりしが、長袖(ちやうしう)[やぶちゃん注:袖ぐくりをして、鎧(よろい)を着る武士に対し、長袖の衣服を着ているところから、「公卿・僧・神官・医師・学者」等を指す語。]のこと故、武藝は、まねば[やぶちゃん注:ママ。]ざりしが、甥の若生(わかおひ)、すぐれたる小男なりしが、時ならず、麻上下(あさがみしも)を着て、見廻(みまわり)し故、

「何のための、禮服ぞ。」

と、とがめしかば、

「今日、劍術の傳授をとりし、歸りがけなり。」

と、こたへしを、

「其方ごとき、非力小兵(こ《ひやう》)にて、劍術は、おぼつかなし。我(われ)、何の手もしらねども、立合(たちあひ)たら、ひしぐに、心、やすからん。」

と、あざわらひて居《をり》たりし、とぞ。

 甥も、傳授をとりし身の、さやうにいわれて[やぶちゃん注:ママ。]、

『立(たち)がたし。』

とや、おもひけん、

「さあらば、立合て、ごらんあれ。私(わたくし)かたより、そなたへは、棒を、あて申まず[やぶちゃん注:ママ。「申(まうす)まじ」。『日本庶民生活史料集成』版も『まじ』となっている。]。私を、一打(ひとうち)、うつて、御覽あれ。」

と、いひしを、

「いざ、おもしろし。」

と、庭に、とびおり、棒をふつて、かゝるに、さすが、傳授を得しほど有(あり)て、「うけ巧者(かうしや)」にて、いかにうてども、身にあたらず、まつかふ[やぶちゃん注:ママ。「まつかう」。額の正面。]みぢんと、打(うち)つくる棒を、隨分、よく、うけとめたれども、うけたるまゝ、かさにかゝつて、おしつけしかば、こらへかねて、ひしげし、とぞ。

 道齋、悅(よろこび)、

「さぞあらんと、おもひし。」

とて、上(あが)りし、とぞ。

只野真葛 むかしばなし (89) / 「むかしばなし」五~了

 

一、たわけなる事も、言(いひ)つのれば、事六ケ(ことむつか)しく成(なる)こと有(あり)。

 御國(みくに)にて、あるねぢけぢゝ[やぶちゃん注:「爺」。]、見世先(みせさき)にmあぐらかきてゐしが、金玉(きんたま)、あらはに見えしを、道行人(みちゆくひと)、みせの物に、直(あたい)を付(つく)る序(ついで)に、

「その金玉も、うり物か。」

と、をどけて[やぶちゃん注:ママ。]聞(きき)しを、

「左樣でござる。」

と答へし故、

「いくらだ。」

と、いへば、

「三兩でござります。」

「三兩、金を出したら、賣(うる)か。」

「隨分、うります。」

と云(いひ)し故、

「おもしろし。」

と、明日(みやうにち)、金三兩、持(もつ)て、

「きのふの金玉、かいにきた。」

と、いひし時、こなたには、死人(しびと)の金玉を切(きり)ておきて、いだしたり。

「是では、ない。」

と、いへば、

「きのふのは、看板で、うられぬ。」

と、いふを、

「それは、ならぬ。」

と、いひつのり、大喧嘩となり、中々、たがひに、きかず、うつたへに成(なり)しぞ。

 まがまがしき事かな。

[やぶちゃん注:巻掉尾に女の真葛が掲げるには、ちと、下ネタに落ち過ぎるが、これこそ、当時の稀なる才媛の作家としての面目とも言えなくもない。]

只野真葛 むかしばなし (88)

 

[やぶちゃん注:以下は前の「87」に、ちらりと出た「八弥」の養父である橋本正左衛門の若き日の話。彼は、『日本庶民生活史料集成』版の中山栄子氏の注に『竜ケ崎の伊達陣屋に勤務した藩士で』、『不思議を好む性のため、狐にばかされた事のある人』とある。同内容の「奥州ばなし めいしん」の本文と私の注を参照されたい。「弥」を正字化しなかったのも、それに準じたものである。

一、「名人」といふ一法あり。出家の災難に逢し時、身を遁(のが)るゝ爲の心がけに行ふ法なり。一世一度の難と思ふ時、實(まこと)に、其身にとりて、一度ならでは、きかぬことの、よし。

 ある和尙、此法をおこなふといふ事を、八弥養父、正左衞門、聞付(ききつけ)て、此人、わかき時は、奇なる事をこのみし故、頻りに習得(ならひえ)たくおもゑて[やぶちゃん注:ママ。]、和尙に親(し)たしくして、常に寢とまりして、其法をならわん事を願(ねがひ)しに、

「今、少し、心、定まらず。」

と、いひて敎(をしへ)ざりし、とぞ。

 其寺に、幼年よりつとめし小性(こしやう)[やぶちゃん注:「小姓」はこうも書いた。]有(あり)しが、是も、しきりに、

「その法を、ならひたし。」

と願しとぞ。

 あまり他事(たじ)なく願(ねがふ)ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、和尙、曰(いふ)は、

「さほど、しんせつに願ふ事、つたへるは、やすけれど、正左衞門も、あの如く習わん[やぶちゃん注:ママ。]と願(ねがふ)を、そこにばかり、をしへたりと聞(きか)ば、うらむべし。必ず、習(ならひ)しとは、他言すべからず。」

とて、傳へたりし、とぞ。

 正左衞門は、例の如く、執心の餘り、夜咄(よばなし)の後(のち)、とまりて有しが、十月末の事なり、音もなく、雪のふりて、よほど、つもりたりしを、誰(たれ)もしらで、寢たりしに、夜中比(ごろ)、

「ばつたり」

と、おほきなる音、したりし故、和尙は勿論、正左衞門も、とびおきて見しに、和尙の肌付衣(はだづきぎぬ)を、晝、洗(あらひ)て、棹に掛(かけ)て、干(ほし)たりしを、宵には、雪の降(ふら)ざりし故、とりも入(いれ)ざりしに、おほく、雪のかゝりたりしを、彼(かの)小性、目(め)も、ろくに醒(さめ)ずに、小用しにおきて、ふと、見つけ、

『大入道の立(たつ)て有(ある)は、是ぞ、一世一度の難ならん。』

と、此程、習ひし法をかけしに、新しき木綿肌着、さけたりし音にて有し、とぞ。

 小性は、面目なくて、たゞ、ひれ伏して、

「眞平御免被ㇾ下。」

と、わび居《ゐ》たり。

 和尙は、大きに立腹して、

「それ見よ。『心、定(さだま)らぬ内(うち)、ゆるしがたし。』と云(いひ)しは、是ぞ。にくき奴め哉《や》。多年、目、掛(かけ)てつかひしも、是切(これきり)ぞ。明朝、早々、立(たち)され。」

と暇(いとま)申渡し、正左衞門に向ひ、

「其許(そこもと)には、只、『愚僧が、法を、をしむ。』とのみ、思はるべし。あれぞ、手本なる。心の定まらぬ人にゆるすと、かくの如くの、けが出來(いでく)る故、ゆるし申さぬなり。必ず、うらみ給ふべからず。是は幼年よりめしつかひし者の、他事なく、ねがふ故、心もとなく思ひながら、ゆるせし事なり。我さへ、是にこりて、ゆるし難し。」

と、いひし、とぞ。

 其小性は、二度(ふたたび)行ひても、しるしなき法をかけて、早々、追い[やぶちゃん注:ママ。]だされしなり。

 正左衞門も、

『實(まこと)に、おそろし。』

と、おもゑし[やぶちゃん注:ママ。]、とぞ。

法といふものは、不思議のものなり。たゞ、となへ事したりばかりにて、棹と、單(ひと)への衣(ころも)、さけたるは、かへすがへす、あやしきこと。」

と、同人(どうにん)、度々、語(かたり)し、とぞ。

只野真葛 むかしばなし (87)

 

一、上遠野伊豆(かどのいづ)といひし人は【祿八百石。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、武藝に達し、分(わけ)て、工夫の手裏劍、奇妙なりし、とぞ。

 針を、二本、人差指の兩わきに、はさみて、なげ出(いだ)すに、其當り、心にしたがはずといふ事、なし。

「元來、此針の劍(けん)の工夫は、敵に出逢(であひ)し時、兩眼を、つぶしてかゝれば、如何なる大敵なりとも、恐るゝにたらずと、思ひつきし事。」

とぞ。

 常に、針を、兩の鬢(びん)に四本ヅヽ八本、隱しさして置(おき)し、とぞ。

 徹山樣、御このみにて、御杉戶の、陰に櫻の下に駒(こま)の立(たち)たるを[やぶちゃん注:老婆心乍ら、これは、杉板の扉に描かれた「絵」である。]、

「四ツ足の爪を、うて。」

と被ㇾ仰付(おほせつけらるる)に、二度に打しがヽ少しも違わずさりし[やぶちゃん注:総てママ。『日本庶民生活史料集成』版では、同じだが、『さりし』の「り」の右に『(し)』と傍注する。]、とぞ。芝御殿、御燒失前は、其跡は、きと[やぶちゃん注:鮮やかにはっきりと。]、有(あり)しとぞ。

[やぶちゃん注:「徹山樣」平助が藩医を務めた仙台藩の第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)のこと。彼の戒名は「叡明院殿徹山玄機大居士」。当該ウィキはこちら。]

 昔、富士のまき狩に、仁田四郞、猪に乘りしとゆふ[やぶちゃん注:ママ。]傳の有(ある)を羨みて、御山(おんやま)おひの度每(たびごと)に、

「猪に、いつも、のりし。」

とぞ。

「手負猪(ておひしし)ならでは、のられず。はしり行(ゆく)猪を追かけては、乘る事、能わず[やぶちゃん注:ママ。]。手負になれば、『人を、すくわん[やぶちゃん注:ママ。]。』と迎ひ來(きたつ)て、少し、ためろふ[やぶちゃん注:ママ。]時、後ろむきに、とびのりて、しり尾に、とり付(つい)て、只、落(おち)ぬ樣にばかりして、しばらく、猪の行まゝに成(なり)て、狂わすれば[やぶちゃん注:ママ。]、いつかは、よわるなり[やぶちゃん注:ママ。]。其時、足場よろしき所を見て、差通(さしとほ)せば、仕留(しとむ)るなり。猪は、肩の骨、廣く、尻ぼそなる物(もの)故、いかなる『ばら藪(やぶ)』をくゞるとても、能(よく)取付(とりつき)て居(を)れば、さはらぬもの。」

と、父樣、委細の事を、御とひ被ㇾ成し時、じきに語(かたり)しを聞(きき)て、御(おん)はなしなり。

 手裏劍を習わん[やぶちゃん注:ママ。]と云(いふ)人あれば、

「我(われ)、元より、人に敎(をしへ)られしにあらず。只、しんしの暇(いとま)にも、心、はなさず、二本の針を、手に付(つけ)て打(うち)しに、年を經て、おのづから、心にしたがふ如く成(なり)しなり。外(ほか)に傳ふべき事、なし。」

と、いひし、とぞ。

[やぶちゃん注:「しんし」「參差」であろう。「一定しない不揃いの時間の」空きの折りであっても、の意で採る。]

 八弥(はちや)は、よしありて、したしくせし程に、若年の比(ころ)、少し、まねびて有(あり)しが、

「いかにも、晝夜、かんだんなくすれば、三十日をへれば、三尺ほど向ふへ、まなばしの如く立(たつ)事を得し。」

とぞ。

「三年、たゆみなくすれば、心にしたがふ。」

といヘど、氣根たへがたくて、學び得し人、なし。

 御本丸のがけは、屛風をたてたる如くにて、數《す》十丈あるを、

「馬にて落(おと)さるゝ、いかに。」[やぶちゃん注:騎馬の状態で下りきることが出来るか?]

と、徹山樣、御たづね被ㇾ遊しに、

「隨分おとし申べし。去(さり)ながら、馬は微塵に成(なる)べし。其故は、下へおちつく、二、三間ほどに成し時、とびおりれば、人は、三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]の所を、とびしに成(なる)故、けが、なし。馬は數十丈を落(おち)し故、粉(こな)になり申(まふす)べし。」

と申上(まふしあげ)しかば、

「無益に馬を殺すべからず。」

とて、やめられし、とぞ。

 此人、實(じつ)は、狐を、つかひし、とぞ。

 さる故(ゆゑ)に、なし難きことも、成る・成らぬといふことを、能(よく)悟りてせし故、けがなかりし、とぞ。さも、有(ある)事ならんかし。

[やぶちゃん注:本篇も「奥州ばなし 上遠野伊豆」に載る。そちらで詳細注を附してあるので参照されたい。]

只野真葛 むかしばなし (86)

 

一、福原縫殿といひし人、忠太夫が弟子にて、是も上手なり。

 縫殿が家來に細工すぐれたる者有しが、おぎ笛をくらせしが[やぶちゃん注:ママ。『日本庶民生活史料集成』版では『つくらせしが』とある。]、奇妙なる笛にて、是をふけば、化物までも、より來りしとぞ。

 或時、縫殿、

「猪を待(まつ)。」

とて、山に宿りて居(をり)しに、夜明がたに、とやの戸口に、妻女の、寢卷のまゝにて、立ゐたりしが、いかに見ても人に違(たがひ)なし。去(さり)ながら、

『女などの、只、壱人(ひとり)、しかも、寢卷のまゝにて來(きた)るべきやう、なし。變化《へんげ》の物に違(ちが)ひなし。』

と、おもゑ[やぶちゃん注:ママ。]すまして、鐵砲にて打止(うちとめ)たりしが、いつまで見ても、妻の形なりしかば、壱人、里に歸りて見しに、妻は、かはる事なくて出迎(でむかへ)し、とぞ。

 さすが、顏色の惡(あし)かりし故、【ぬひが顏色のわるきなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

「病にや。」

と尋(たづね)しとぞ。

 何事も語らず、家來を呼(よび)て、

「今朝(けさ)、あやしき物を打(うち)とめたり。いそぎ、行(ゆき)て、見て參れ。」

と云付(いひつけ)やりしとぞ。

「行て見たれば、古むじなの打(うた)れて有(あり)し。」

とて、持(も)て來たりしを見て、始めて、事を、かたりし、とぞ。

 又、或時、獵に出(いで)しに、十匁(じふもんめ)の玉を二ツ玉に籠(こめ)て待居《まちをり》し時、七間ばかり向《むかふ》へ、大うわばみ[やぶちゃん注:ママ。]、口を明(あけ)て一吞にせんとしたりし時、其鐵砲にて、口中(くちなか)を打(うち)しかば、何かはもつてたまるべき、谷底へ轉び落(おち)しとぞ。去(さり)ながら、空、曇り、大風、起(おこり)て、山鳴(やまなり)・震動(しんどう)夥しく、おそろしかりし事なりし、とぞ。

 うわばみは、三日、谷中(たになか)に、くるひて、死(しし)たり。

 長、十三間、有(あり)し、とぞ。

 後のかたり草にとて、背の骨を、一車(くるま)、とりて、庭に置(おき)しが、わたり七寸ばかりありし、とぞ。

 是、皆、おぎ笛によりて、來りしとなり。

 それより、「ひめどう」と名付(なづけ)て、祕藏せられし、とぞ。

 然るを、忠太夫、其笛二有し内一をもらいて[やぶちゃん注:ママ。]、寶物(はうもつ)として置(おき)しを、病死の時、

「養子覺左衞門に、讓る。」

とて、

「此笛は、しかじかの事、有(あり)て、吹(ふけ)ば、化物の、よりくる笛なり。必ず、用(もちふ)べからず。」

と、いひし、とぞ【後、覺左衞門ふきし時も、あやしき毛物、より來りし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

[やぶちゃん注:この話、実は、「柴田宵曲 妖異博物館 化物の寄る笛」の私の注で、全文を電子化している(但し、読みを附していない底本のベタ版である)ので、見られたい。注もしてある。【追記】この最後の記事は、後の「95」によって、ある種の殺人隠蔽の疑いがある。]

只野真葛 むかしばなし (85) 馬鹿力の面々

 

一、徹山樣御代に、勝れたる力持(ちからもち)といはれし人、多き中に、砂金三十郞は、男振(をとこぶり)よく、大力にて、度々、江戸詰をせしが、智惠、うすく、みづから、力に、ほこり、大徒人(おほかちびと)なり。酒に醉(ゑひ)て歸る時は、辻番所を引(ひき)かへすが癖なり。寺のつき鐘を、はづして、困せたる事も有し、とぞ。

[やぶちゃん注:「徹山樣」平助が藩医を務めた仙台藩の第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)のこと。彼の戒名は「叡明院殿徹山玄機大居士」。当該ウィキはこちら

「砂金三十郞」以下の話は「奥州ばなし」にも「砂三十郞」として、だいたい同内容の話が載るが、そちらでは「砂三十郞」(いさごさんじふらう)である。「金」は衍字のようにも思われるが、『日本庶民生活史料集成』でも『砂金』である。]

 いづくにや、

「細橫町に、化物、出(いづ)る。」

と云(いふ)評判なりしに、三十郞、

「行(ゆき)て、試見(こころみ)ん。」

とて、ゆきしが、餘り歸りおそき故、ある人、ゆきて、見たれば、塀《へい》かさの上に、またがりて居(をり)しとぞ。

「何故、そこには登りし。」

と、聲かけしかば、

「いや、此馬の口のこわさ、中々、自由、きかぬ。」

と、いひて有(あり)し、とぞ。

 いつか、ばかされたりしを、笑(わらは)られて、心付(こころづく)と、なり。

[やぶちゃん注:「細橫町に、化物、出(いづ)る。」『日本庶民生活史料集成』の中山栄子氏の注に、『仙台細横町とて』、『今も名が残っているが』、『昔』、『化物が出たという伝えがある』とあった。位置は、「あきあかね」氏のブログ「from仙台」の「細横丁の不思議(3)」が歴史的に追跡されて、地図も豊富であるので、是非、読まれたい。因みに「(1)」と、「(2)」もリンクしておく。なお、同氏のブログには『「化物横丁」の話』もあるが、そこは別な場所である。]

 其比、淸水左覺と云(いひ)し人も、大男にて、大力なりしが、おとなしき人なりし。

 されど、三十郞と、常に力を爭(あらそひ)て、たのしみとせし、とぞ。

 左覺、三十郞に向ひ、

「その方、力自慢せらるゝが、尻の力は、我に、まさらじ。先(まづ)、試(こころみ)られよ。」

とて、尻のわれめに、小石を、はさみ、三十郞に拔(ぬか)せしに、ぬき兼(かね)て有し、とぞ。

 左覺は、我(わが)思ふ所ヘ、一身の力をあつむる事、得手(えて)なりし。

 三十郞は、色々、惡じきをせしとぞ。何にても、食(くひ)たる物を吐(はか)んと思ひば[やぶちゃん注:ママ。]、心に隨(したがひ)て、はかれし、とぞ。昨日、くひたるこんにやくの刺身を、味噌と、こんにやくと、別々に、はきて、みせし、とぞ。

 或時、

「うなぎを、生(いき)ながら、食(くは)ん。」

とて、口中へ入(いれ)しに、手をくゞりて、一さんに腹中に入(いり)たりし。

 其(その)くるしき事、鎗にて、つかるゝ思ひ。さすがの我張(がはり)も、大きに、こまり、座中に有合(ありあふ)烟草盆のはいふきを、二ッすゝりしが、死(しな)ず、鹽一升なめてみても、死ず、濁酒(にごりざけ)を二升のみしかば、是にて、うなぎも、しづまりし、とぞ。

 さりながら、此あくじきにて、四、五日、腹を、わづらいし[やぶちゃん注:ママ。]、となり。

 左覺、

『又、三十郞を、なぶらん。』

と思(おもひ)て、

「貴樣、いろいろの惡じきをせらるゝが、犬の糞を、くふ氣は、ないか。」

 三十郞、

「いや。是は、くわれぬ。」

 左覺、

「それなら、おれが、食(くふ)てみせやふ[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、連立(つれだつ)て出(いで)、うす月夜(づきよ)の事なりしが、兼(かね)て、「むぎこがし」を、ねりて、きれいな石へ、糞の如く、つきかけて置(おき)しを、

「むさ」

と、つかみて、くひしかば、三十郞、大あやまりにて有(あり)し、とぞ。

 三十郞、娘、兩人有(あり)しが、いづれも大力にてありし。姊娘七ッばかりの比(ころ)、

「大根の香の物、漬(つけ)るに、おもはしき『おし石』、なし。」

とて、人の尋ぬるを見て、壱人(ひとり)、河原へはしり行(ゆき)て、よほど大きな石を持(もち)て來(きた)り、

「此石が、よかろふ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と云(いふ)を見て、何(いづれ)も膽(きも)を潰し、

「そんな大きな石を、子共は、持(もた)ぬもの。」

と、しかりしかば、ほめられんとおもひし心、たがひて、いそぎ、手をはなせし時、足の指の上におとして、二本、ひしげて、なくし、一生、かたわと成(なり)し、とぞ。

 其石を、かたづけるに、男二人にて、やうやう、持(もち)し、とぞ。

 外へ緣付(えんづけ)ても、力をば、隱して出(だ)さゞりしが、ある年の暮、年始酒を大桶に作(つく)て置(おき)しが、置所(おきどころ)のあしかりしを、置なほすには、外(ほか)へとり分(わけ)て、外(ほか)は動し難かりしを、兎角、人の噪(さはぐ)を、

「先(まづ)、まて。おれが、其まゝにて、置(おき)かへん。」

とて、やうやう、手の廻る程の桶に、酒の入(いり)たるを、輕々と外(ほか)の所へ持行(もちゆき)て、すゑたりし、とぞ。

「其外に、力わざせし事を見し事、なし。」

と、なん。

 次の娘は、幼少より江戶の奧に勤め、後(のち)、芳賀皆人(はがみなひと)妻に被ㇾ下て有(あり)し。是も、力有(ある)事を、誰もしらざりしが、勤中、御風入(おんかざいれ)有しに、俄(にはか)に夕立せし時、長持を、かた手打(てうち)に、

「ばらばら」

と御座敷へ、なげ入(いれ)し故、

「力持。」

と、人は、しりたり。

 父三十郞、江戶づめ中(ちゆう)、新橋の酒屋へ入(いり)て、酒をのみ居《ゐ》たりし内、はき物を、取られたり。

『歸らん。』

と思ひて、見るに、なし。

 亭主を呼(よび)て、

「おれがはき物が、なくなりしが、なぜ、始末をせぬ。」

と、いへば、

「おはき物の事は、私どもは、ぞんじませぬ。」

と云(いふ)を、ほろ醉(ゑひ)きげんのあばれ草(ぐさ)に、大きに怒り、

「此店に有(ある)うちは『且那』なり。「『だんな』のはき物しらぬ。」と、いはゞ、よし。其過代(あやまちだい)に、酒代は、はらはじ。」

と、いへば、

「それは、ちか比、御(ご)むりなり。」

と、いふ時、

「さあらば、吐(はき)て、かへすぞ。」

といひしま[やぶちゃん注:ママ。『日本庶民生活史料集成』版では]『といひさま』。「と言ひ樣」で躓かない。]、彼(かの)得手物(えてもの)の「わけ吐(はき)」に、酒は、ちろりへ、さしみは、皿へ、味噌は猪口(ちよこ)へと、其(その)入(いり)たりし、うつわ、うつわへ、吐(はき)ちらすを見て、

『あばれ者。』

と思ひ、さやうの時、取沈(とりしづめ)る爲(ため)、兼(かね)て賴みのわかい者、五六人、連來(つれきた)り、かゝらせしに、片手に攫(つか)みて、ひとつぶてに、なげのけ、なげのけ、御上屋敷(おんかみやしき)へ戾る道筋、

「やれ、あばれ者、あばれ者。」

と聲かくる故、何かはしらず、棒を持(もつ)て、人が、でれば、取返して、なぐり、梯子(はしご)をもつて、出(で)れば、それを取(とつ)て、先(さき)をなぐり、木戶を打(うて)ば、押破(おしやぶ)り、平地(ひらち)の如く、大わらはに成(なり)、白晝に、はだしにて、御門へ入りしかば、早々、仙臺へ下(くだ)され、其後(そののち)、のぼらず。あばれながらも、氣味よき事なりし。

一、覺左衞門養父、澤口忠太夫と云(いひ)し人も、勝(すぐれ)たる「氣丈もの」なりし。十の年[やぶちゃん注:本書の執筆年代以前で元号が「十」の「亥」年というのは、見当たらない。真葛の誤記であろう。]、かの細橫丁の化物を、しきりにゆかしがりて、

『いつぞ、行(ゆき)て、ためさん。』

と願(ねがひ)て有しが、冬の夜、やゝ更けて、外より歸るに、雪後、うす月の影すこしみゆるに、其橫丁を見通す所に至り、連(つれ)も、三、四人ありしを、つれの人にむかい[やぶちゃん注:ママ。]、

「扨。私も多[やぶちゃん注:当て字。底本では『(他)』と補っている。]、日比(ひごろ)、」『細橫町の、化物、出る。』といふを、行てためし見たく思(おもひ)しが、今夜、願(ねがひ)に叶ひし夜なり。何卒、一人(ひとり)行て見たし。失禮ながら、皆樣は、是より御歸り被ㇾ下ベし。打連行(うちつれゆけ)ば、化物も、おそるべし。」

と、云しとぞ。

 望(のぞみ)にまかせて、壱人、やりしが、連の人もゆかしければ、其所(そこ)をさらで、忠太夫が後ろ姿を守り居《をり》し、とぞ。

『中比《なかごろ》にも行きらん。』

と、おもふに、下に居(ゐ)て、少し、隙(ひま)どり、又、あゆみしが、又、下にゐて、何か隙どり、二、三間も行(ゆき)しとおもふと、又、下に居しが、月影に、

「ひらり」

と、刀の光、見えたり。

「たしかに、刀を拔しに、たがはず。いざ、行て、容子を問(とは)ん。」

と、足を、はやめて、何(いづ)れも來りし、とぞ。

「いかゞ仕(つかまつ)たる。」

と故(ゆゑ)をといば、

「扨、今夜のやうな、けちな目に逢(あひ)し事、なし。今朝(けさ)、おろしたる、がんぢき【「がんぢき」は、はき物の名なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]の尾[やぶちゃん注:当て字。「緖」。]が、かたしづゝ、二度にきれしを、やうやう繕ひてはきしに、爰にて兩方一度に、又、きれし故、つくろわん[やぶちゃん注:ママ。]と思ひてゐし内、肩に掛りて、おすもの、有(あり)しを、引(ひき)はづして、なげ切(ぎり)にしたりしが、そこの土橋の下へ入(いり)し、と、見たり。尋ねて吳(く)れ。」

と、いひし故、人々、行て見たれば、小犬ほどの大猫(おほねこ)の、腹より咽(のんど)まで切れて有しが、息はたえざりしを、引出(ひきいだ)したり。

 忠太夫、かしらを、おさへて、

「誰ぞ、とゞめを、さしてくれ。」

と云しを、うろたへて、忠太夫が手を、したゝか、さしたり、とぞ。

 其(その)さゝれたる跡は、後(のち)までも有し、とぞ。

 取返して、忠太夫、とゞめ、さしたり。

 薦(こも)にくるみて、持歸りしが、首と尾は、垂(たれ)て出(で)たりし、とぞ。

 忠太夫は、鐵砲の上手なりし【猫の、勝(すぐれ)て大きなるは、いづくにて聞し咄しも、敷物などにくるめば、首と尾の後(うしろ)、先より出るほどか、狐か、ときこえたり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

[やぶちゃん注:以上の話も「奥州ばなし 澤口忠大夫」に出ている。]

只野真葛 むかしばなし (84)

 

一、松平越中守樣、御補佐仰蒙らせられし時、父樣、鳥渡《ちよつと》はなしを御作(おつくり)被ㇾ成し。

 九鬼樣と白河樣は、御手廻りも、御箱の御紋も、大かた似たる事にて、ふと、人の見まがふやうなりしを、御補佐被仰付御下(おささが)りがけ、俄事(にわかごと)にて見付(みつけ)の者、うろつき、下座をするや、せぬやしれぬ故、聲かけて、

「九鬼か。」

「イヽヤ松平越中守だアほさ。」

[やぶちゃん注:「松平越中守樣」「白河樣」松平定信。

「九鬼樣」摂津三田藩第九代藩主で九鬼氏第二十一代当主九鬼隆張(たかはる 延享四(一七四七)年~文政四(一八二一)年)か。

九鬼氏の家紋は「七曜」(しちよう)で、松平定信のそれは「星梅鉢」(ほしうめばち)で、似ている(リンク先はサイト「家紋のいろは」のそれら)。]

只野真葛 むかしばなし (83)

 

[やぶちゃん注:本篇は前の「81」「82」の続きのコーダである。]

 此殿、御一生、世を嘲弄被ㇾ遊て、御たのしみにのみ、過(すご)させ給ひし。御隱居後、

「人の墓所(《はか》しよ)は、いくら、結構をつくされても、見ぬ事にて、おもしろからず。」

とて、御存生中(ごぞんしやうちゆう)に、穴の中の石だゝみ・御石碑まで御好(おすき)にて御しつらひ、御㚑屋《みたまや》[やぶちゃん注:「㚑」は「靈」の異体字。]の中の戶扉に十六羅漢の高彫(たかぼり)あり。下繪は狩野榮川(かのうえいせん)に被仰付しに、書(かき)て奉らぬうちは、日々、御本(ごほん)供(とも)にて、御自身、せつき[やぶちゃん注:「節季」。]にいらせられし故、迷惑がりて、忽(たちまち)、認(したた)め、差上し、とぞ。

 御墓所(おんぼしよ)、出來《でき》しより、年每の花盛(はなざかり)には、其穴の中へ被ㇾ爲ㇾ入(いらせられ)て、御覽被ㇾ遊、後(うしろ)の、ぬけ道を、かまへて、御殿山にて、賑々(にぎにぎ)しく御酒盛被ㇾ遊し、とぞ【御酒(ごしゆ)も、おほくは、めし上らず、人に飮せて、たのしませられし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

[やぶちゃん注:「狩野榮川」狩野典信(みちのぶ 享保一五(一七三〇)年~寛政二(一七九〇)年)。江戸中期の竹川町家、後に木挽町家狩野派第六代目の絵師。詳しい事績は当該ウィキを見られたい。

「御本供にて」よく判らないが、「この秋本殿が手本として、かの絵師から渡されていた下絵をともに持って」の意か。]

只野真葛 むかしばなし (82)

 

○又、或町醫、御出入を望(のぞみ)し人ありしが、度々、御長屋まで來りて願(ねがひ)しを、御取上もなきやいなや、たえて御沙汰もなかりし、とぞ。

 ある日、夕方より、嵐して、風、强く、雨ふる夜、出羽樣より、

「急病用。」

とて、四枚がたの駕(かご)、迎(むかへに來りしかば、願所(ねがふところ)と悅(よろこび)て、取物も、とりあいず[やぶちゃん注:ママ。]、いそぎ、駕に乘りて出(いで)しに、どこへ行(ゆく)ことか、やたらに、かつぎ行く。

 果《はて》、

『もふ[やぶちゃん注:ママ。]、行付(ゆきつき)そふ[やぶちゃん注:ママ。]なもの。』

と思ふと、坂を登り、山の上から、かごを、下へ、おろしたり。

 何かは、しらず、

『合點、ゆかず。』

と思ひ居《を》ると、寂しい道中にて、駕をおろして、手廻共、

「そこへ、でろ、でろ。」

と聲々に呼立(よびたて)る。

 中に、ふるへてゐるを、手を取(とり)て引出(ひきいだ)し、衣類、殘らず、はぎ取(とり)、藥箱とも、駕に入て、一さんに、かつぎ行(ゆく)。

 醫師は、松の木へ、しばり付られて、まぢまぢしてゐると、雨もやみて、おぽろに月も出(いで)たり。

 むかふより、灯燈(ちやうちん)の火、みゆる。

「やれ、うれしや。」

と待間(まつま)ほどなく、前を過行(すぎゆ)けば、

「モシモシ。」

と、聲、かけ、

「かやうかやうの難に逢候間、何卒お慈悲にお助被ㇾ下。」

と、淚ながら語れば、

「やれやれ、それは、さぞ、御難儀ならん。しかし、身に怪我なくて仕合(しあはせ)なり。」

とて、繩を解(とき)、

「是より、此道を、すぐにゆけば、あかりが見えべし。其所(そこ)の主(あるじ)は慈悲ふかき人故、行(ゆき)て賴まれよ。」

と、をしへて、行過(ゆきすぎ)たり。

「有難し。」

と、一禮、のべ、敎(をしへ)の如く行てみれば、すかし垣(がき)に、しおり戸有(あり)て、風雅のすまゐと見えたり。

 立よりて、あなひ[やぶちゃん注:ママ。]を、こひ、ありし事共を語れば、

「それは、さてさて、あぶなき事。幸(さいはひ)、ふろの立(たて)てあれば、先(まづ)、いられよ。」

とて、すぐに、湯殿へ伴なへ[やぶちゃん注:ママ。]行(ゆく)。

 其湯どのの結構、申(まふす)ばかりなし。

 竿(さほ)に懸(かけ)たるゆとりをきて、出)いで)んとする時、

「是にても、召されよ。」

と、何か一重(ひとがさ)ねの衣類を取いでゝ、着せる。

「かさねがさねの御情(おなさけ)、いつの世にか忘るベき。」

と、禮を述(のぶ)れば、

「是を御緣に、御心やすく御出入被ㇾ下たし。承れば、御醫師の由。幸、娘、少々、病氣なれば、容子御覽被ㇾ下よ。」

と賴み、

「まづ、御空腹ならん。」

と奇麗の茶漬めしを出(いだ)し、其後(そののち)、娘らしき女、出て、容子(ようす)みてもらひ、

「お藥箱有合(ありあはせ)の品、是にても御用被ㇾ下。」

と出せしは、先に取(とら)れし我(わが)藥箱故、心付(こころづき)、衣類を見るに、それも、はぎ取れしに違(たがひ)なし。ふしぎ晴(はれ)ねど、粗忽(そこつ)にも、とわれず多[やぶちゃん注:ママ。]、ためろふ[やぶちゃん注:ママ。]内、しづしづと、人を拂ふ音して、

「殿樣の御入成(おいりなり)。」

と、ひしめき、すらすらと、あゆみいでゝ、座に着せられしを見れば、繩をといてくれし飛脚ていのものと、おもえし人なり。

 是、御目通(おめどほり)のはじめなりし、とぞ。

 ちらもなく、廻り道をして、御庭口より通りて、御やしきへ入(いり)しを知らざりしなり。

 枝折戶(しをりど)の家は、御茶屋にて有(あり)し、とぞ。

 此咄しは、江戶中、ぱつと、評判にて、芝居・草ぞうし・讀本類に迄(まで)いでゝ、人のはなしも百色(ももいろ)ばかりなれば、いづれ、實說といふ事、たしかにしり難し。其ひとつをとりて、しるす。

[やぶちゃん注:この事件の張本人は、前の「81」で奇体な茶席をやらかした『秋本樣』で、恐らく、出羽山形藩第二代藩主で館林藩秋元家第八代の秋元永朝(つねとも)かと思われる。]

只野真葛 むかしばなし (81) 徹頭徹尾奇体な茶席

 

 秋本樣は、多年、御懇意にて有(あり)しが、

「茶の湯は、むつかしきもの。」

とて、好ませられざりしを、少し御嘲弄の心や有けん、無理に御勸め、茶の御ふる舞、有し。

[やぶちゃん注:「(45)」に出た出羽山形藩第二代藩主で館林藩秋元家第八代の秋元永朝(つねとも)のことか。]

 御正客介添(ごしやうきやくかひぞへ)、公儀御茶道一人、御脇は父樣、善助おぢ樣、誹諧師の柏塘(はくたう)御詰なりしとぞ。

[やぶちゃん注:「御正客介添」茶会での城跡の客に付き添って世話をする役の人を指す。]

 御客、被ㇾ爲ㇾ入(いれなさられる)と、駒次郞【駒次郞樣は出羽樣の御末子、一生むそくにて、をはらせられし人なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、御先立にてしばらく御いで、箱の樣なる大廊下へかゝり、早足に御あゆみ被ㇾ成しが、ふと、姿を見失ふと、跡も先も、戸口

「ぴん、ぴん。」

と、錠(かぎ)のおりる音して、一向、行(ゆく)端(はな)なし。

「是は、是は、」

と、其廊下に、しばらく、まごつきて有しが、やゝありて、何方(いづかた)よりか、駒樣、御いで有(あり)、

「こなたへ。」

と被ㇾ仰るを、

「それ、此度(このたび)は見失ふな。」

と、帶にすがらぬばかりにして、從ひ行(ゆく)に、圍(まはり)と云(いふ)は、極(ごく)下人の番部屋と見えて、疊ばかり新しく、柱・天上の煤けた事、幾年へたりとも、しられず。

 生花(いけばな)には、六月の大柳、柱ほどのふとさの木を、橫だをし[やぶちゃん注:ママ。]にしたる物にて、座中、一ぱいにひろがり、

「蟲など、落(おち)やせん。」

と、むさ苦しき事、いわんかたなし。

 御亭主は、はだか身へ、其比(そのころ)、中村のしほが、舞臺へ着て出(いで)し袖なし羽織に、袴を、めされ、紫ぼうしを、おきて、のしほが聲色(こはいろ)なり。【路考、早く死せし後、のしほを、かはりに召(めさ)れし。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

[やぶちゃん注:「中村のしほ」歌舞伎役者の名跡中村野塩。屋号は天王寺屋。恐らくは、二代目中村野塩(宝暦九(一七五九)年~寛政一二(一八〇〇)年)で、二代目生島十四郎の門弟、初代中村富十郎の娘婿で養子。

「路考」「80」に出た二代目瀬川菊之丞の俳号。彼は三十四歳で亡くなっている。]

 焚物(たきもの)には、薰陸(くんろく)・硫黃を夥(おびただし)くくべて、こまらせ、茶釜へは、きのふあたりから、煮つめておきしと覺しき番茶を入(いれ)て、眞黑にせんじ、大兜鉢(おほかぶとばち)に、一ぱい、汲(くみ)て出(いだ)されしは、一口も吞(のま)れず。

[やぶちゃん注:「薰陸」二種あるが、ここは「出羽」から、松・杉の樹脂が地中に埋もれ固まって生じた化石で、琥珀に似るが、琥珀酸を含まない。粉末にして薫香とする。岩手県久慈市に産するそれであろう。]

 御料理も、大方、わすれたれど、「菓子わん小塚原」とて、かまぼこにて、人の腕を少さく拵(こしら)ひたる、すましなり。

 猪口(ちよく)に、なますが、てうど、灰吹(はひふき)の形したるうつわへ、ひどり昆布を、ふきがらの如く、まろめて、此わたにてあへたるが、味はよくて、むさくろし[やぶちゃん注:ママ。]。

 給仕人は「ヲランダ」と「黑ぼう」なり。瘦(やせ)て背の高き人を「かびたん」に拵(こしら)ひ、八ツばかりなる兒を、墨にて眞黑に塗(ぬり)て、まるはだか、ちんぼう、だして、立(たち)ながら、正客の前へ行(ゆき)、

「汁を、かへろ。」

と、早言にいふ、にくさ、限(かぎり)なし。

[やぶちゃん注:「灰吹」煙草の吸殻を吹き落としたり、叩き入れたりする筒。多くは竹を節を底にして上を伐った円筒形で煙草盆に附属してある。

「ひどり昆布」「日取り昆布」で天日干しのコンブのことであろう。

「ふきがら」「吹き殼」で煙草の吸殻。

「此わた」「海鼠腸」(このわた)。ナマコの腸で作る塩辛。古代より能登の名産として知られた珍味。]

 腹あしきながら、膳、をはりて、待合へ行(ゆく)所、是も、變なる古藏(ふるぐら)の、きたなき所なり。中へいれて、外より

「ぴん。」

と、錠をおろす音。

「なむさんぽう。」

と、皆、顏見合はせて居ると、腰掛に烟草盆はあれども、火は、炭を丹(に)にて塗(ぬり)たる拵ひ物、「きせる」は、節をぬかぬ、長(なが)らうにて、つんぼのごとし。

[やぶちゃん注:「長らう」長い羅宇(らう)。「らう」は煙管(きせる)の火皿と吸口の間を繋ぐ竹の管(くだ)で、インドシナ半島のラオス産の黒斑竹を用いたのが、この名の起こりという。江戸時代に喫煙が流行するとともに、三都などで、「らう」のすげかえを行う「羅宇屋」が生まれた。]

 小便所ばかり、[やぶちゃん注:以下は底本よりOCRで読み込み、トリミング補正した。]

Syoubensuruna

の形を上に書(かき)たる札、たてゝ、

「此所 小便可ㇾ被ㇾ成候」

と書付あり。

 暮(くれ)かゝれば、蚊の多き事、ふりかゝるが如し。

 正客は、はじめから、殊の外、御迷惑のてい。中にも、此待合、あく藏(ぐら)にて、誰もケ樣の所に入(いる)事、なし。茶道(ちやだう)こそめいわく、正客にいく度も、

「是が、茶の湯に有事(あること)か、有事か。」

と、いわれ、

「いや。かつて、ござりませぬ事。」

といふ。

[やぶちゃん注:「あく藏」長く使用していない空き蔵のことであろう。]

 御答も、百度、千度、いゝつくし、せんかた、つくれば、正客はくよくよと、

「おれも十萬石の家に生れ、夏は『かやりよ、蚊拂(かばらひ)よ。』と、分相應に不自由なるめも見ざりしを、かやうの責(せめ)に逢(あふ)事は、何のむくひ・たゝりならん。」

と、淚ぐみての、よまい事、只、

「御尤(ごもつとも)。」

と申(まふす)より、外に事なし。

 其近き塀(へい)、ひとへ内の座敷にては、おもしろそふに[やぶちゃん注:ママ。]酒盛の音、三味線、取々、けん酒(しゆ)なり。咽草が吞(のみ)たくてならぬ、同腹《どうぶく》らへ、色々のたばこの榮耀《えよう[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「ええう」が正しい。]》ばなししながら吞逢(のみあふ)てい。

 何も、愁歎する外(ほか)なし。

「是は、手を打(うつ)がよかろふ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、人々、手を打(うて)ども、一向、しらぬ顏なり。

 やうやう、人の來る音して、藏の戶を開き、駒次郞樣、御いで、

「今日は、色々、不禮・御氣つめ・御大屈、申上べき樣(やう)なし。さあ、さあ、こなたへ。」

とて、好(よき)御座敷へ、いれ、燭臺、あまた、ともし、女藝者三人、其外、色々、御もてなし有(あり)、終日の恨(うらみ)、はるゝばかりの御饗應なりし、とぞ。

 いづれも、やうやう生(いき)たる心(ここち)して、快よく食(くひ)て、明がた近く、御立成(おたちなり)し、とぞ。

 此時の難義、御正客は、勿論の事、父樣・おぢ樣・茶道・はいかい師に至るまで、一生におぼえぬことなりし、とぞ。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫と老媼」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猫と老媼【ねことおうな】 〔北国奇談巡杖記巻三〕同国<越後>弥彦<新潟県西蒲原郡弥彦村>のやしろの末社に、猫多羅天女(めうたらてんによ)の禿(ほこら)とてあり。このはじめを尋ぬるに、佐渡国雑太《さはた》郡小沢といへる所に、一人の老婆ありけるが、折ふし夏の夕つかた、上の山に登りて涼み居けるに、ひとつの老猫きたりて、ともに遊びけるが、砂上に臥しまろびて、さまぐと怪しき戯れをなせり。老婆も浮かれて、かの猫の戯れにひとしく、砂上に臥転《ふしまろ》びてこれを学びしに、何とやらん総身涼しく、快よきほどに、また翌晩もいでてこの業《わざ》をなしてけるに、また化猫来りて狂ひ、ともにたはむれつつ、斯のごとく数日《すじつ》におよぶに、おのづから総身軽く、飛行自在《ひぎやうじざい》になりて化通《けつう》を得て、天に洄溯し地をはしり、倐(たちま)ちに隅目(ますみだ)ち、頇(はげかしら)[やぶちゃん注:底本では「頇」が、(つくり)が「チ」のようになっているが、後に示す活字本に従った。]となり、毛を生じ、形勢すさまじく、見る人肝を消して噩(おどろ)くに絶えたり。かくて終に発屋(いへをはばき)て虚空にさる。岌面(まのあたり)鳴雷して山河も崩るゝごとく、越後の弥彦山にとゞまり、数日《すじつ》霊威をふるひ、雨を降らしぬ。里人時に丁(あた)つて難渋するにより、これを鎮めて猫多羅天女と崇《あが》む。これよりとしごとに一度づつ佐州に渡るに、この日極めて雷鳴し、国中を脅かすこと情つたなき還迹(ありさま)なり。

[やぶちゃん注:「北国奇談巡杖記」加賀の俳人鳥翠台北茎(ちょうすいだい ほっけい)著になる越前から越後を対象とした紀行見聞集。かの伴蒿蹊が序と校閲も担当しており、文化三(一八〇六)年十一月の書肆の跋がある(刊行は翌年)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第九巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字活字で読める。『卷之二』の『越後國之部』の内。標題は『猫多羅天女』。この一篇、異様に奇体な熟語と読みが多い。

「弥彦」「新潟県西蒲原郡弥彦村」「のやしろの末社に、猫多羅天女(めうたらてんによ)の禿(ほこら)とてあり」現在は「彌彦神社」(現在の「彌彦」は「やひこ」であるが、古くは「いやひこ」と読んでいたので、ここもその読みである可能性がある)の北東直近にある真言宗紫雲山龍池寺宝光院の阿弥陀堂に、この「妙多羅天女像」は安置されている。弥彦観光協会・弥彦観光案内所のサイト「やひ恋」の「弥彦の昔話」の「妙多羅天女と婆々杉」によれば、

   《引用開始》

妙多羅天女は彌彦神社鍛匠(たんしょう)―鍛冶職の家柄―であった黒津弥三郎の祖母(一説に母)でした。黒津家は彌彦の大神の来臨に随従して、紀州熊野からこの地に移り、代々鍛匠として神社に奉仕した古い家柄でした。

 白河院の御代、承暦3年(1079)彌彦神社造営の際、上棟式奉仕の日取りの前後について鍛匠と工匠(大工棟梁家)との争いとなり、結局、弥彦庄司吉川宗方の裁きで、工匠は第1日、鍛匠は第2日に奉仕すべしと決定されました。

 これを知った祖母は無念やるかたなく、怨みの念が高じて悪鬼に化け、庄司吉川宗方や工匠にたたり、さらに方々を飛び歩いて悪行を重ねました。

 ついには弥三郎の狩りの帰路を待ちうけ、獲物を奪おうとして右腕を切り落とされました。さらに、家へ戻って弥三郎の5歳ばかりになった長男弥次郎をさらって逃げようとしたところを弥三郎に見つけられ失敗しました。家から姿を消した祖母は、ものすごい鬼の姿となり、雲を呼び風を起こして天高く飛び去ってしまいました。

 それより後は、佐渡の金北山・蒲原の古津・加賀の白山・越中の立山・信州の浅間山と諸国を自由に飛行して、悪行の限りを尽くし、「弥彦の鬼婆」と恐れられました。

 それから80年の歳月を経た保元元年(1156)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が、ある日、山のふもとの大杉の根方に横になっている一人の老婆を見つけ、その異様な形態にただならぬ怪しさを感じて話したところ、これぞ弥三郎の祖母であることがわかりました。

 驚いた典海大僧正は、老婆に説教し、本来の善心に立ち返らせるべく秘密の印璽を授けられ、「妙多羅天女」の称号をいただきました。

 高僧のありがたいお説教に目覚めた老婆は、

 「今からは神仏の道を護る天女となり、これより後は世の悪人を戒め、善人を守り、とりわけ幼い子らを守り育てることに力を尽くす。」

 と大誓願を立て、神通力を発揮して誓願のために働きだしました。

 その後は、この大杉の根元に居を定め、悪人と称された人が死ぬと、死体や衣類を奪って弥彦の大杉の枝にかけて世人のみせしめにしたといわれ、後にこの大杉を人々は「婆々杉」と呼ぶようになったといいます。

 婆々杉は宝光院の裏山のふもとにあって、樹齢一千年を数えるといい、昭和27年、県の天然記念物に指定されました。

 弥彦山の頂上近く、婆の仮住居の跡といわれる婆々欅(ばばけやき)、世を去った土地といわれる宮多羅(みやたら)の地名もあります。この欅は農民が雨乞い祈願に弥彦山へ登山するとき、必ず鉈目を入れたといわれている大欅です。

   《引用終了》

とある。私には既に、二〇一七年に公開した「北越奇談 巻之六 人物 其二(酒呑童子・鬼女「ヤサブロウバサ」)」があるが、そこでも紹介した、高橋郁子氏の「ヤサブロバサをめぐる一考察」という優れたページが存在する。是非、読まれたい。サイト「福娘童話集」の「鬼女になった、弥三郎の母」は、この妖怪が佐渡にまで渡った話となっており、やはり読まれんことをお薦めする。なお、個人サイト「山は猫」の「宝光院の妙多羅天女像御開帳(新潟県弥彦村)」で、実見された現在の天女像について、『阿弥陀堂に入った。中央に阿弥陀如来像、左側に「妙多羅天」の額があり、立派な飾り厨子の扉が開いていた』。『妙多羅天女像は、黒っぽく変色していて相当古そうだ。奪衣婆像によく見られる綿帽子をまとうように被り、何かにつかみかかるようなお姿だった。かつてこの真綿は、子どもの首に巻くと百日咳が治る「妙多羅天御衣」として参拝者の信仰を集めたという』。『三体ある妙多羅天の残り二体は、阿弥陀如来像の左右に安置されている。このうち左側の像が写真でよく紹介されているものだった。片膝を立てた姿は奪衣婆像そのもの』であった、とある。「ZIPANG-5 TOKIO 2020 全国の姥神像行脚(その25)妙多羅天女は、古代ペルシアの「ミトラ」神信仰が元⁉【寄稿文】廣谷知行」で、後者の二像の写真があるが、これは明らかに「奪衣婆」であり、前掲した「婆々杉」も強い親和性がある。鬼子母神と同様で、忌まわしい鬼女が改心して仏の眷属となるという説話は、却って民衆に受け入れられ易いのである。

「佐渡国雑太郡小沢」郡名は現代仮名遣では「さわた」。現行の地名に「小沢」はない。但し、旧雑太郡内の佐渡市窪田に「小沢窯跡(こざわがまあと)」がある(グーグル・マップ・データ)。この窯跡は、「佐渡市」公式サイト内の「佐渡の文化財」の「佐渡市指定 記念物:小沢窯跡」には、『この場所は「焼場跡」とも呼ばれ、窯の起源は不明であるものの、『佐渡四民風俗』に、文化年間』(一八〇四年〜一八一七年)『中期か後期頃の成立であろうと記されている』とあるだけで、地名とも判然とはしない。

「還迹(ありさま)」『ちくま文芸文庫』も同じだが、前掲の正字版では、『𨗈迹(ありさま)』となっている。「𨗈」は「行跡・行い」の意であるから、しっくりくる。この「還」の字は宵曲の誤記か、誤植である。]

2023/12/22

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫絵画き」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

       

 

 猫絵画き【ねこえかき】 〔一話一言巻十六〕近頃(天明・寛政の頃なり)白仙といへるもの、年六十にちかき坊主なりき。出羽秋田に猫の宮あり。願ひの事ありて、猫と虎とを画《ゑが》きて、社に一枚ヅツ奉納すと云ふ。自ら猫画《ねこゑか》きと称して、猫と虎とを画く。筆をもちて都下を浮かれ歩行《ありき》、猫書《ねこかき》かうかうといひしなり。呼びいれて画かしむれば、わづかの価《あたひ》をとりて画く。その猫は鼠を避けしといふ。上野山下<東京都台東区内>の茶屋の壁に虎を画きしより人もよく知れり。近頃はみえず。 〔黒甜瑣語三編ノ二〕雲洞山人は秋田比内の産にて、これも三ケ津をわたり、今は近き国々をめぐるに、一人の子を背負ひ、街頭を高らに、画《ゑ》を書かう、画はいらぬか、猫の画を書かうと、横柄に徇(ふ)れあるくに、山形辺にて人の云へる、渠《かれ》が猫の画の精妙は鼠が怖れて来らずと云ひはやせしに、蚕(こがひ)する家々にて画一枚を桐葉二方(きんにぶ)までにこぎり書《かか》せしとなん。

[やぶちゃん注:「一話一言」は複数回既出既注。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いた大田南畝著の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻四(明治四〇(一九〇七)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は『𤲿猫虎人』で、読みは「ねこ、とらを、ゑがくひと」であろう。

「天明・寛政」安永十年四月二日(グレゴリオ暦一七八一年四月二十五日)に「天明」改元し、天明は天明九年一月二十五日(グレゴリオ暦一七八九年二月十九日)に「寛政」に改元、寛政十三年二月五日(グレゴリオ暦一八〇一年三月十九日)に「享和」に改元している。その閉区間。

「出羽秋田に猫の宮あり」「猫の宮」(グーグル・マップ・データ)は山形県東置賜(ひがしおきたま)郡高畠町(たかはたまち)高安(こうやす)に現存する神社。拡大すると、対になる形で「犬の宮」もあり、日本でも非常に珍しい犬と猫とを祀る神社である。それぞれのサイド・パネルの写真の中に、前者の「猫の宮由来記」、及び、「犬の宮由来記」の説明板が視認出来る。孰れもしっかりした伝承で、感動した。是非、読まれたい。

「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『秋田さきがけ叢書』の「人見蕉雨集」第一冊(一九六八年秋田魁新報社刊)のここで、新字旧仮名でならば、視認出来る。標題は『○雲洞山人』。

「雲洞山人」この名の絵師は実在するが、如何にも好き者の号であるから、特定は出来ない。

「秋田比内」この附近の広域(グーグル・マップ・データ)。

「三ケ津」不詳。識者の御教授を乞う。

「桐葉二方(きんにぶ)」江戸時代に流通した金貨の一種である「一分(歩)判」(いちぶきん)二枚の意。ウィキの「一分金」によれば、『金座などで用いられた公式の名称は一分判(いちぶばん)であ』るが、「三貨図彙」には『一歩判と記載されている。「判」は』、『金貨特有の呼称・美称であり、品位・量目を保証するための極印と同様の意味を持つ』。『一方』、「金銀図録」及び「大日本貨幣史」等の『古銭書には』「一分判金」「壹分判金」(いちぶばんきん)という『名称で収録されており、貨幣収集界では「一分判金」の名称が広く用いられる』。『「一分金」の名称は、一分銀と区別するために普及するようになったのであり、幕末の』天保八(一八三七)年『以降のことである』とある。『形状は長方形』で、『表面には、上部に』、『扇枠に五三の桐紋』(☜)、『中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋』(☜)『中が刻印されている。一方、裏面には「光次」の署名と』、『花押が刻印されている』。『これは鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である。なお、鋳造年代・種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている』とあった。

「こぎり」「それで、おしまい。」「それで、全部。」の意の「こっきり」であろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「盗人の沈酔」 / この一篇のみを収載する「ぬ」の部

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「盗人の沈酔」 / この一篇のみを収載する「ぬ」の部

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 特異点だが、「に」の部は、この一篇のみである。「沼の怪」でも、幾らもあろうに……。

 

    

 

 盗人の沈酔【ぬすびとのちんすい】 〔耳囊巻六〕番町<東京都千代田区内>辺御旗本の由、常に酒を好み、酒友の方にて沈酔の上、帰宅のうへ、手水所にて、手水など遣ひしに、蔵の脇あやしき物音いたし、立帰り候節も、何か心に掛り候事有りし故、枕脇差《かむらわきざし》を差而《さして》、蔵の脇へ至り見しに、見知らざる男、沈酔の体《てい》にて臥《ふせ》り居《をり》候故、家内僕《しもべ》などを起し候処、右盗賊も酔さめ候や、眼をさまし候間、何故武家屋敷へ這入臥《はひいりふせ》り候哉《や》、尋ね問ひけるに、一言《ひとこと》の申訳なく、盗に入り候へ共、沈酔故、見合せ候内、不ㇾ思臥《ふせ》り候由、申けるとなり。その後《のち》如何なりしや、近頃の事と聞きしが、名は洩しぬ。

[やぶちゃん注:私のは、底本違いで、「耳嚢 巻之十 盜人醉ふて被捕醉ふて盜人を捕へし事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「木偶目瞬(にんぎょうのまたたき)」 / 「に」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って、「に」の部は終わっている。]

 

 木偶目瞬【にんぎょうのまたたき】 〔奇遊談巻三ノ下〕宝暦十二三年の頃にやありけん、予<川口好和>が幼かりしとき、東山極楽寺真如堂の長押《なげし》のうへに彫りたる仙人の中に、正面よりは北の間《ま》、蝦蟇仙《がません》の人形の眼光、いつとなく光りかゞやき、下より望みみるに、左右上下へ瞳《ひとみ》うごき、いかさまにも天にやのぼらん、地にや立たんとみえける。初めは六十六部といふもの見出しけるとぞ。幼きときなりしかど、多く人のむらがり集《つど》ひけることは忘れず。さて日頃へて、あまりの群集《ぐんじゆ》ゆゑに、かねて堂中《だうちゆう》に住みなれし鳩鳥《はと[やぶちゃん注:後掲する活字本で二字へルビする。]》ども驚ろきさわぎ飛び違ひけるに、この仙人の頭面(かしら)にあたりければ、なにか小さき瞳のごときもの落ちたり。これを堂司《だうす》のやせ法師拾ひ見れば、表は黒く裏は白き大指《おほゆび》の頭《かしら》ほどなるものなり。さて上《うへ》なる仙人を見あぐれば、今まで動きし眼《まなこ》はたとやみてけり。さてはと寺僧どもかけはしして[やぶちゃん注:梯子を掛けて。]、恐れつゝも登りて見れば、この長押の人形ども、眼目《がんもく》いづれも玉眼《ぎよくがん》にてありしが、このがま仙人の眉毛の所は、高くけづりあげて、上の布《ぬの》をはりて蛤粉(ごふん)にてぬりしが、年へてかの布むくりあがりて落つべきに、わづかなる布の糸に、かのかけたる眉毛かゝりて、わざと下げしやうになりたるが、きらきらと動くに、黒きかたうつれば左を見、白きかたうつれば右を見るごとくうつれるなり。さても怪しきことは世になきことなりとぞ思はれぬ。

[やぶちゃん注:「奇遊談」川口好和著が山城国の珍奇の見聞を集めた随筆。全三巻四冊。寛政一一(一七九九)年京で板行された。旅行好きだった以外の事績は未詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十一(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊のここで当該部が視認出来る(よくルビが振られてあるので一部を参考にした)。標題は『○木偶(にんぎやう)仙人(せんにんの)目瞬(めまじき)』(「めまじき」は瞬きをすることを指す)。

「宝暦十二三年」一七六二年一月二十五日から一七六四年二月一日まで。

「東山極楽寺真如堂」現在の京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗鈴聲山(れいしょうざん)真正極楽寺(しんしょうごくらくじ:グーグル・マップ・データ)。「真如堂」はこの寺全体の通称であるが、ここは、その本堂であろう。サイド・パネルのこの画像などを見ると、確かにそれらしいものがありそうだが、拡大しても判らない。残念だ。この本堂は重要文化財で、享保二(一七一七)年に再建されているから、著者が見たのは、その後のことである。

「蝦蟇仙」中国の仙人の一人としてよく知られる蝦蟇仙人。青蛙神(せいあしん:三本足の蟾蜍(ヒキガエル)の霊獣とされ、三本の足は、前足が二本、後足が一本で、後足は「蝌蚪」(オタマジャクシ)の尾のように中央に付いている。天災を予知する力を持つ霊獣若しくは神で、非常に縁起の良い「福の神」とされ、「青蛙将軍」「金華将軍」などとも呼ばれる。道教教徒の間で特に信仰されていた)を従えて妖術を使うとされる。当該ウィキによれば、『左慈』(さじ:後漢末期の方士。字は元放。揚州廬江郡の人。「後漢書」に記載があり、後の小説「三国志演義」にも登場する)『に仙術を教わった三国時代の呉の葛玄、もしくは呂洞賓』(りょ どうひん 七九六年~?:唐末宋初の道士。中国の代表的な仙人である「八仙」の一人)『に仙術を教わった五代十国時代後梁の劉海蟾』(りゅう かいせん)『をモデルにしているとされる。特に後者は日本でも画題として有名であり、顔輝』の「蝦蟇鉄拐図」(がまてっかいず)の『影響で』、『李鉄拐(鉄拐仙人)と対』(つい)『の形で描かれる事が多い。しかし、両者を一緒に描く典拠は明らかでなく、李鉄拐は八仙に選ばれているが、蝦蟇仙人は八仙に選ばれておらず、中国ではマイナーな仙人である。一方、日本において』は、『蝦蟇仙人は仙人の中でも特に人気があり、絵画、装飾品、歌舞伎・浄瑠璃など様々な形で多くの人々に描かれている』とある。鉄拐は私の好きな仙人だが、実際には、中国の仙画の中には、実在していた劉海蟾=蝦蟇仙人=鉄拐仙人とする絵も残っている。

「玉眼」私はよく知っているが、小学館「日本大百科全書」をから引いておく。『仏像の眼部に水晶をはめ込んで、実際の人間の眼(め)に近い輝きを持たせたもの。彫像の頭部を、像自体の矧(は)ぎ目とは別に、面部を割り離し、面部の内側を刳(く)って眼に穴を開け、レンズ状に磨いた水晶の薄片を当てて、内側に瞳(ひとみ)を描いた絹や紙を宛がって、綿で押さえ、さらに木片で押さえる。この当て木は周囲から竹針で止めるが、漆で接着した例もある。玉眼は』鎌倉時代の『運慶の創案ともいうが、それ以前』の仁平元(一一五一)年の『奈良・長岳寺阿弥陀(あみだ)三尊にすでに使用されている。俗説としてガラスを使ったともいうが、ガラスを使用した例は』、『近世のごくわずかな例を除いては』、『ない』とある。しかし、精巧なそれを作るためには、頭部を刳り抜くか、「寄せ木造り」にする必要があり、分解される「寄せ木造り」によって、部分の仏師の分業(工房化)が細部まで精緻になるのは、鎌倉時代以降のことである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「人形の魂」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 人形の魂【にんぎょうのたましい】 〔宮川舎漫筆巻四〕諺に仏造りて魂を入れずとは、物の成就せざる譬《たとへ》なり。扨(さて)魂の入《いれ》ると入れざるとは、細工人の精心にあり。都(すべ)て仏師なり、画工なり、一心に精心を込むれば、その霊をあらはす事、挙げて算《かぞ》ふべからず。既に上野鐘楼堂<東京都台東区内>の彫物《ほりもの》の竜は、夜な夜な出《いで》て池水を飲む、浅草の絵馬出て田畝《たんぼ》の草を喰ふといふ事、むかし語《がた》りなれども、偽りにてはよもあるべからず。予<宮川政運>愚息の友なる下河辺《しもかうべ》氏、ある人形遣ひの人形を一箱預り置きし処、その夜人静まりし頃、その箱の内冷(すさま)じくなりしかば[やぶちゃん注:中から物凄い音が聴こえてきたので。]、鼠にても入りしなるべしとて、燈火《ともしび》を点じ改め見しところ、ねずみのいりし様子もなき故、臥床《ふしど》に戻りいねんとせしに、またまた箱の中《うち》にて打合《うちあ》ふ音など再々《さいさい》ありしかば、その事を持主《もちぬし》にはなせし処、それは遣ひ人《て》の精心籠りし人形ゆゑ、いつとてもさの如く珍しからず。右ゆゑ若し敵役《かたきやく》の人形と実役《じつやく》の人形をひとつに入れ置く時は、その人形喰合うて[やぶちゃん注:後に示す活字本では正しく『喰合(くひあ)ふて』となっている。]微塵になるといへり。実に精心のこもりし処なるべし。されば人は万物《ばんもつ》の霊なれば、何事の精心の入らざることなし。その訳《わけ》は仏師有《あつ》て子安《こやす》の観音を彫刻せば、子育(こそだて)を守るに験(しるし)あり。また雷除《らいよけ》の観音を彫刻せば、雷落ちざる守(まもり)の験あり。これ観音は一躰《いつたい》なれども、その守る処は別にして、ともに利益《りやく》験然《げんぜん》[やぶちゃん注:活字本では『顯然(げんぜん)』とする。]たるを見るべし。その利益は仏師の精心の凝《こ》る処にして、観世音も利益を授け給ふなるべし。<中畧[やぶちゃん注:「畧」の字はママ。]>我《われ》昔《むかし》彫物師《ほりものし》埋忠《うめたゞ》嘉次右衛門が噺を聞きし事あり。埋忠が云ふ。当時は人間の性《せい》日々わるがしこくなりし故、何職《なにしよく》も細工の早上《はやあが》りのみ工夫なせば、むかしの細工のかたは少しもなき故、いかなるものも皆《みな》死物《しぶつ》のみ多し。昔の細工は金銭にかゝはらず、おのれがちから一ぱいに彫りし故、霊もあり妙も有りといへり。埋忠《うめただ》持伝《もちつた》への品《しな》に、むかし笄《かうがい》あり。至つて麁末《そまつ》なれども、細工は妙なり。その彫《ほり》は編笠被りし人物なりしが、年代ものゆゑ自然《しぜん》と編笠すれし処、下に顔あり、眼《め》口あざやかに彫りありしといふ。中々当時なぞは見えもせぬ処なれば、誰々《たれだれ》も彫らず。これ魂入らぬ処なりといへり。[やぶちゃん注:以下は、底本では終りまで全体が一字下げで記されてあり、字間も通常より半角ほど広い。]

因《ちなみ》にいふ。一昨年中、浅草奥山《おくやま》<都内台東区浅草>にて生人形《いいきにんぎやう》といへる見世物あり。評判高きゆゑ、老弱男女(らうにやく《なんによ》)[やぶちゃん注:活字本では正しく『老若男女(らうにやくなんによ)』となっているが、これは編者が訂した可能性が高い。]この見世物見ざれば恥のごとく思ひなし、日々群集《ぐんじゆ》なす事《こと》実《じつ》に珍らし。この作人《さくにん》は肥後の生れにして、喜三郎といへり。その生質《せいしつ》朴《ぼく》、至《いたつ》て孝心厚きもののよし噂なり。この者の細工自然と妙を得《え》る[やぶちゃん注:活字本に従った。]事、既に大坂にて薪《たきぎ》を荷《にな》ひし人形口を利きて、アヽ重いといひし由、予も見し処、いづれも今にも言葉をいださん有様《ありさま》、感ずるに余りあり。ある人、この者人形拵へ居《ゐ》しを見しに、その念の入りし事は、人形にほりものある人形は残りなくほりあげ、その上へ衣服を著せしよし、これ外《ほか》へは見えぬ処なれば、余り念《ねん》過ぎたりと笑ひし者あれども、これ前にしるせし編笠の下に顔を彫りし細工と同日にして、実《じつ》に感ずべき事なり。されば口利きしといふももつともなるべしとは思はれける。

[やぶちゃん注:「宮川舎漫筆」宮川舎政運(みやがわのやまさやす)の著になる文久二(一八六二)年刊の随筆。筆者は、かの知られた儒者志賀理斎(宝暦一二(一七六二)年~天保一一(一八四〇)年:文政の頃には江戸城奥詰となり、後には金(かね)奉行を務めた)の三男。谷中の芋坂下に住み、儒学を教授したとあるが、詳細は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで、正字表現で視認出来る。標題は『精心込(こむ)れば魂(たましい[やぶちゃん注:ママ。])入(いる)』。儒者にしては、文章が杜撰で、歴史的仮名遣の誤りも散見される。但し、読みが多く振られていたので、それを大いに参考にした。

「上野鐘楼堂の彫物」上野寛永寺に鐘楼堂を建立するに当たって、家光から四方の欄間に龍を彫れという命が下り、全国から四人の名工が選ばれ、その中にかの左甚五郎がおり、彼が彫ったその龍は、毎夜、抜け出して、不忍池を呑みに行ったという伝承が残る。現在の鐘楼堂は後のもので、旧のそれは、現在の上野公園の小松宮彰仁親王銅像(グーグル・マップ・データ)が建つ附近にあったようである。なお、東照宮では上野東照宮の唐門にある左甚五郎の竜の彫刻が、その「水呑み龍」だと伝えているらしい。「龍楽者」氏のサイト「龍と龍水」の「龍の謂れとかたち 上野東照宮の唐門にある左甚五郎の龍の彫刻2014」で画像を見ることが出来る。

「埋忠嘉次右衛門」不詳。慶長の頃の山城国の刀工・刀剣金工に埋忠明寿(うめただみょうじゅ 永禄元(一五五八)年~寛永八(一六三一)年)がいるが、この末裔を名乗る者か。

「浅草奥山」浅草寺の裏一帯を指す旧地名。江戸の代表的な盛り場で、見世物小屋が並ぶとともに、香具師(やし)の拠点となり、軽業や、居合抜きなど、特異な芸を見せつつ、物を売った場所であった。明治になり、その見世物小屋の多くは六区に移転した。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「喜三郎」「生人形」これは私もよく知っている人形師松本喜三郎(文政八(一八二五)年~ 明治二四(一八九一)年)。彼の作品が初めて「生人形」と称されたものである。当該ウィキによれば、『肥後国(現・熊本県)の商家に生まれる。早くから様々な職人技を覚え、日用雑貨を用いて人物などを仕立てる「造りもの」を手がけた』。二十『歳の頃』、『生きた人と見まごう等身大の人形を作ったので「生人形」と呼ばれた。そのまるで生きてるようなリアリズムは、幼き日の高村光雲』(詩人で美術家であった高村光太郎の実父で、仏師・彫刻家)『にも強い感動を与えた』。『やがて数十体の人形にテーマ性を持たせて製作し展示するようにな』り、『幕末の』嘉永七(一八五四)年『以降、大坂(現在の大阪)難波新地に於いて「鎮西八郎島廻り」、江戸(現在の東京)にて「浮世見立四十八癖」他を見世物にし興行し』、『維新後の』明治四(一八七一)年から八年には、『「西国三十三所観音霊験記」を浅草の奥山で興行を行った』。『この作品は西日本の各地を巡回し、後に』、「お里沢市」で『有名な人形浄瑠璃「三拾三所花野山」(「壺坂」)の祖形となった。そのうちの「活人形谷汲観音像」が熊本市の浄国寺に安置されて』おり、『熊本県熊本市来迎院に』は『「活人形聖観音菩薩立像」が安置されている(有形文化財)』。『このほか』、『桐生八木節まつりの山車に用いられた「桐生祇園祭「四丁目鉾」生人形素盞嗚尊」(桐生市本町四丁目自治会蔵)、絶作の「本朝孝子伝」などがある』とある。グーグル画像検索「松本喜三郎 生人形」をリンクさせておく。特に、「ピグマリオン人形教室のスタッフブログ」by pygmaliondollの「松本喜三郎」がよい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「人魚」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 人魚【にんぎょ】 〔甲子夜話巻二十〕人魚のこと大槻玄沢が『六物新志』に詳かなり。且つ附考の中、吾国所見を載す。予<松浦静山>が所ㇾ聞は延享の始め、伯父伯母二君(本覚君光照夫人)平戸<長崎県平戸>より江都《えど》に赴き給ひ、船玄海を渡るとき、天気晴朗なりければ、従行の者ども船櫓に上りて眺臨せしに、舳の方十余間の海中に物出たり。全く人体《じんてい》にて腹下は見ざれども、女容《ぢよよう》にして色青白く、髪薄赤色にて長かりしとぞ。人々怪しみて、かゝる洋中に蜑(あま)の出没すること有るべからずなど云ふ中《うち》に、船を望み微笑して海に没す。尋《つ》いで魚身現れぬ。没して魚尾出たり。この時人始めて人魚ならんと云へり。今『新志』に載する形状を照すに能く合ふ。漢蛮共に東海に有りと云へば、吾国内にては東西二方も見ること有る歟。〔斉諧俗談巻五〕相伝へて云ふ。推古天皇の二十七年に、摂津国堀江に物ありて網に入る。そのかたち、児《ちご》のごとく魚にあらず、人にあらず、名付くる事を知らずと云ふ。また云ふ、西国大洋の中に間《まま》にありとぞ。その頭《かしら》、婦女に似て、その外は全く魚の身なり。色は浅黒く鯉に類せり。尾に岐(また)ありて、両の鰭に蹼(みづかき)ありて手のごとく、脚はなし。俄かに風雨せんとする時あらはると。漁人、網に入るといへども、奇(あやし)みてこれを捕らずと云ふ。『本草綱目』に『稽神録』を引きて云ふ。謝中王と云ふ人あり。或時、水辺を通りしに、一人の婦人、水中に出没するを見る。腰より以下は皆魚なりと云ふ。また査道《さだう》といふ人、高麗へ使す。時に海沙の中に、一人の婦人を見る。肘の後に紅の鬘ありと。右の二物ともに、これ魚人なりと云ふ。〔諸国里人談巻一〕若狭国大飯郡御浅嶽<福井県大飯郡内>は魔所にて、山八分より上に登らず。御浅明神の仕者は人魚なりといひ伝へたり。宝永年中乙見村の猟師、池に出けるに、岩の上に臥したる体《てい》にして居るものを見れば、頭は人間にして、襟に鶏冠のごとくひらひらと赤きものまとひ、それより下は魚なり。何心なく持ちたる櫂(かい)を以て打ちければ則ち死せり。海へ投入れて帰りけるに、それより大風起つて海鳴る事一七日《ひとなぬか》止まず。三十日ばかり過ぎて大地震し、御浅嶽の麓より海辺まで地裂けて、乙見村一郷堕入《おちい》りたり。これ明神の祟りといへり。

[やぶちゃん注:第一話は、事前に「フライング単発 甲子夜話卷二十 26 玄海にて人魚を見る事」を公開しておいた。第二話の「斉諧俗談」は「一目連」で既出だが、再掲すると、大朏東華(おおひ(或いは「おおで」)とうか)の随筆で、何時、刊行されたか不明だが、後編は宝暦八(一七五八)刊とするから、それ以前の出版ではある。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここで当該部を正字で視認出来る。標題は『○人魚』。なお、そこで『査道(さどう)』とルビするのは誤りである。なお、私の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」(先日、全体を大改訂した)の「人魚」の項を見られたいが、この話は、それの順序を変えただけの、引用に過ぎない。この著者は、あたかも自分が書いたように示すことが多く、甚だ不愉快極まりない。だから、上記リンク先の私の注でこと足りるので、注する必要もないのである。そちらで、ジュゴン以外の候補海獣類も残らず掲げてある。第三話は私の「諸國里人談卷之一 人魚」を見られたい。]

フライング単発 甲子夜話卷二十 26 玄海にて人魚を見る事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナの読みは総て静山自身のルビである。珍しくかなり打たれてある。]

 

20―26

 人魚のこと、大槻玄澤が「六物新志」に詳(つまびらか)なり。且つ、附考の中(うち)、吾國、所見を載す。

 予が所聞(きくところ)は、延享の始め、伯父母(おぢ・おば)二君【本覺君。光照夫人。】)平戶より、江都(えど)に赴(おもむき)給ひ、船、玄海を渡るとき、天氣晴朗なりければ、從行(じゆうかう)の者ども、船櫓(ふなやぐら)に上(のぼ)りて眺臨(ちやうりん)せしに、舳(へさき)の方(かた)、十餘間の海中に、物、出(いで)たり。

 全く、人體(じんてい)にて、腹下は見へ[やぶちゃん注:ママ。]ざれども、女容(ぢよよう)にして、色、靑白く、髮は、薄赤色(うすあかいろ)にて、長かりし、とぞ。

 人々、怪しみて、

「かゝる洋中(なだなか)に、蜑(あま)の出沒すること、有(ある)べからず。」

抔(など)、云ふ中(うち)に、船を望み、微笑して、海に沒す。

 尋(つい)で、魚身、現れ、又、沒して、魚尾(ぎよび)、出(いで)たり。

 この時、人、始めて、

「人魚ならん。」

と云へり。

 今、「新志」に載(の)る形狀を照(てら)すに、能(よく)合ふ。

 漢・蠻、共に、

「東海に有り。」

と云へば、吾國内にては、東西二方も見ること有る歟(か)。

■やぶちゃんの呟き

「人魚」海域にやや問題があるが、漂流個体は九州・本州・四国でも目撃されているから、私は、まず、哺乳綱カイギュウ目ジュゴン科ジュゴン Dugong dugon としてよいように思われる。アシカやオットセイよりも、遙かに♀の「人魚」に誤認されやすいからである。

『大槻玄澤が「六物新志」仙台藩江戸定詰藩医で蘭医の大槻玄沢(宝暦七(一七五七)年~文政一〇(一八二七)年:陸奥生まれ。名は茂質(しげたか)。号は磐水。杉田玄白・前野良沢について学んだ。学塾「芝蘭堂」(しらんどう)を江戸に開き、また、蘭書翻訳に従事した)の「六物新志」は天明元(一七八一)年序で、同六(一七八六)年刊。私のものでは、『毛利梅園「梅園魚譜」 人魚』が最も適切であろう。同書の人魚の画像も挙げてある。

「延享の始め」延享は五年までで、一七四四年から一七四八年まで。徳川吉宗は延享二年十一月に家重に将軍職を譲っている。静山は宝暦十年一月二十日(一七六〇年三月七日)生まれで、未だ生れていない。

「伯父母(おぢ・おば)二君【本覺君。光照夫人。】この「光照夫人」から解読すると、志摩国鳥羽藩二代藩主(鳥羽藩稲垣家六代)稲垣昭央(てるなか 享保一六(一七三一)年~寛政二(一七九〇)年)の正室は松浦誠信(さねのぶ)の娘で、院号を光照院という。誠信は、長男の邦(くにし)の死後、後継者を三男政信と定めていたが、その政信は明和八(一七七一)年に、やはり、父に先立って死去したため、嫡孫である政信の子の清(静山)を後継者として定めたので、事実上は大伯母であるが、実質的な家督嗣子の関係からは「伯父」「伯母」と称して問題ない。

「十餘間」十間は約十八メートル、十一間でほぼ二十メートルだから、十九メートルほどであろう。

「髮」ジュゴンの好物は海底の砂地に植生する単子葉植物綱オモダカ目トチカガミ科ウミヒルモ属 Halophila等の「海草」であるが、「薄赤色(うすあかいろ)にて、長かりし」とあり、沿岸ではなく、沖での目撃であるから、千切れて海面を漂流することがよく見られる、褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属 Sargassum 等の「海藻」が頭部に引っ掛かっていたものとすれば、問題ない。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「新田神霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 新田神霊【にったしんれい】 〔思出草紙巻一〕武州荏原郡矢口村<現在の東京都大田区矢口町か>に鎮座ある新田《につた》大明神は、義興の霊社にして、霊験いちじるし。新田義興(よしおき)は新田左中将義貞の嫡男にて、幼名を徳寿丸といふ。吉野の帝よりその名を下し玉はつてより、左兵衛義興と名乗り給ひて、武蔵野の合戦に度々勝利あるに依て、足利家の武士畠山道哲、江戸遠江守、竹沢右京亮と偽り欺き、奸謀を以て延元三年十月十日に、矢口の渡しにて忿死有りて、その霊崇り有るがゆゑ、一社の神と祭れり。(この事は『太平記』にこれあり)それより以来今四百有余歳のほどふるといへども、かの三士の末孫《ばつそん》に祟り有りけるが、取分け高家たるかの畠山氏は、前々より参詣なす事度々なりといへども、その途中にて落馬なし、あるひは帯剣さやはしりて、怪我なす事もあるに依て、先祖の非を悔い、その罪を謝し、永代御殿の建立鳥居など、その家のあらん限り、寄進なすべきよし祈念したるに依て、元より正直を心にめづる神霊なれば、その忿(いか)りも散じたるにや。それより災ひなきにより、今は畠山家より毎月十日には代参を立《たて》て、長く拝殿鳥居等建立なりとかや。享保十三申年[やぶちゃん注:一七二八年。]三月、将軍家矢口付辺へ御遊猟有りし節、新田の社へ御参詣有るべきよしにて、御供揃ひある所に、この日一天に雲なくのどかなる空、忽ち俄かにかき曇り、風強く吹落ちて物すごし。雨は車軸を流すがごとく降りしかば、将軍上意有りけるは、供の者共の中に、もし畠山・江戸・竹沢が末孫はなきか、吟味せよとの事に付て、向々(むき《むき》)に糺明なせし所に、小十人勤仕《こじふにんごんし》の内に、本姓竹沢にて、今に小野と名乗りけるもの御供に候と、爰に於て早速かの者、御場先《おんばさき》の御暇《おんいとま》を仰付けられて、右の小野帰宅したりしに、不思議なるかな、風雨するどなる物すごき気色も、空晴れて雨やみ、強風もおさまり、誠にうらゝかなる天気快然として、今までの風情、何地《いづち》に行きけん。まづ別世界の如しとかや。この事跡は村翁の言ひ伝へぬ。また近年、熊本の藩中の侍三人参詣して、下向の節わらんぢの紐とけぬるをしめ直さんと、拝殿の石段に足ふみ掛けしを、片はらより非礼なりと咎めしに、かの男あざ笑ひ、何の事か有らんと悪口《あくこう》して、鳥居の前に至れるに、この侍俄かに気絶して倒れたり。連れの面々驚き、漸《やうや》く呼び生《いか》し、大いに恐れ、別当を頼み祈念なして、その非礼を謝したるにぞ、事なく帰宅せしとなり。また寛政十二申年[やぶちゃん注:一八〇〇年。]の正月、別当の台所にあるいろりの火、畳に移り、既に火災となるべき、誰とは知らず、眠れる枕をゆり動かす者あり。大いに驚き目覚《めざ》めて、その火の光りを見つけ、早速その火を消し止めたり。あとにて思へば、誰も臥所《ふしどころ》に来て起しけるものなしとかや。その神霊あふぎても余りあり。その外に奇々妙々たる霊験を蒙むるもの少なからず。また頓《とみ》に爵をうくるもの多しとかや。

[やぶちゃん注:「思出草紙」「古今雜談思出草紙」が正式名で、牛込に住む栗原東随舎(詳細事績不詳)の古今の諸国奇談珍説を記したもの。『○新田神靈ある事』がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここで正規表現で視認出来る。

「新田」「義興」は「耳嚢 巻之四 神祟なきとも難申し事」の私の注を参照されたい。

「武州荏原郡矢口村」「現在の東京都大田区矢口町か」現在は「東京都大田区矢口」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で「町」はつかない。旧「矢口の渡し」で知られるが、ここで問題になっているのは、同地区にある「新田神社」である。現在も、同神社の境内の西部分は「御塚」(おつか)と称し、禁足地として、人は立ち入り禁止である。

「別当」神仏習合時代の新田大明神の別当寺(現存しない)の僧。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「贋幽霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 贋幽霊【にせゆうれい】 〔甲子夜話続篇巻四十一〕高橋作左衛門が子両人、八丈遠嶋になりしとき、十四人とか一同に出船せし中に、五十五歳なる婦もその中なりし。その婦のゆゑを聞くに、去年三月築地<東京都中央区内>辺大火の後、幽霊と偽り人を欺き盗をせし者とぞ。その幽霊の仕方は身に白き衣(きもの)を著《き》、衣の腰より下を黒く染め、脊に黒き版(いた)の幅広なるを負ひ、ちらりちらりと人前に出《いで》、また迯去《にげさ》らんとするときは、負ひたる板黒きゆゑ、人目には消失《きえう》せたるが如し。斯くして多く人を欺き、人の迯行きしあとにて家財を奪ひ去りしとなり。実に新しき仕方なりと人々云ひしが、文化年中深川永代橋墜ちしとき、既に斯《かくの》事ありて、夜話前編第二巻に載せたり。さればその故智《ふるぢゑ》を仮りたるなり。 〔甲子夜話巻二〕この時<文化四年八月永代落橋の際>一両日を経てその辺の家夜幽霊出づ。白衣披髪して来るゆゑ、家人は溺死の亡魂ならんと駭き恐れて皆迯げ去る。この如きこと度々なれば、人々心づきその家財を省みるに、失亡多かりける。奸盗(かんとう)の人を欺きし詭術(きじゆつ)にてぞ有りける。またこの時堂兄稲垣氏、祭礼を見に往き楼上に居《をり》たるが、何か騒動せし物音なりしが、やがて満身水に濡れたる衣服きし男女の、その下を通りたる体《てい》を疑ひ見ゐたる中に、一人の銀鼈甲(《ぎん》べつこう)の櫛簪(くしかんざし)を手にあまる程、一束に握り走り行くを、跡より一人追かけ行きける。これはまさしく盗み取りたる物と覚えしと。かゝる騒擾危難の中にも盗賊は亦この如く有りける。 〔文化秘筆巻二〕当三月<文化十五年>のころの由、松平肥後守様御国、奥州若松<福島県会津若松市>にて右御家来軽き人の由、女房病死の所、右女房を不便(ふびん)に存じ、明暮その事のみ申し、右亭主病気付き候由、それより右女房毎夜八ツ時<午前二時>のころ参りて、伏り居り候枕元に参り候て、私は存命の内持居り候諸品、心にかかりうかみ申さず候に付、何とぞ何とぞ私の望みの品々、私に下され候様に申す。亭主臆病者にて夜著を引かぶり伏り、何のかんざしを下され候様に申せば、押入の櫛筥《くしばこ》の内に有ㇾ之候間、持參候様申せば、幽霊自分にて持参り候。右の通り、毎晩八ツ時分に戸をたたき、枕元に参りすわり、色々の物を持ち、著用まで持参り、亭主は弥〻《いよいよ》病気重くなり候所、近辺の心易き友、右亭主に何故に右の通りの病気出で候哉《や》と相尋ね候へば、貴様故に申す、私の亡妻毎晩参りて私の枕元に参り、著用等よこし候様申して持帰り候、この事甚だ心にかかり、かくの次第と申す。右心安き友、左候はゞ今晩も参るべき間、手前かげにかくれ居り、見糺(ただ)し申すべく候旨申し、何時比哉《なんどきごろや》と相尋ね候へば八ツ時分に参り、戸をたたき候、それより明け候へば内に入り、御咄し申候次第と申す。左候はゞ今晩参りて戸をたたき候はゞ、明け候て物かげより見申すべき旨、約束にて帰り、九ツ時分<夜半十二時>のころ、右の心易き友参りて蔭にかくれ居り候へば、程なく八ツ時に相成《あひなる》の比、例の通り幽霊白支度《しろじたく》にて参り、右友蔭より承り居り候へば、例の通り品物を取りに参り候。右かくれ居り候友、幽霊の後ろより抱き留め、燈をよくてらし見候へば、白き物を著、青ざめたる顔色にて、ちと不審の心うかみ、流に連れ参りて顔を見候へば右亡妻の病中より死後迄、頼み置き候心易き人の女房、幽霊となり毎夜参り、色々の品盗み取り候由、その事あらはれ召捕られ、程々の咎仰付けられ候由、恩田半五左衛門殿実母、肥後守様御国に逗留に参りて承られ候由、半五左衛門咄にて承る。

[やぶちゃん注:「甲子夜話続篇巻四十一」は事前に「フライング単発 甲子夜話續篇卷四十一 9 幽靈の似(ニセ)を爲し老婦人八丈嶋遠島の事」として、正字表現で電子化注しておいた。宵曲は冒頭の枕をカットしている。

「甲子夜話巻二」のそれは、「甲子夜話卷之二 45 深川八幡宮祭禮のとき永代橋陷る事」で既にルーティンで電子化注済み。

「文化秘筆」「文化秘筆巻一」作者不詳。文化より文政(一八〇四年~一八三〇年)の内の十年ばかりの見聞を集録した随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第八(三田村鳶魚校訂・随筆同好会編・昭和2(一九二七)年米山堂刊)のここで正字表現で視認出来るのが、それである(右ページ八行目以降)が、類話というより、同話である。]

フライング単発 甲子夜話續篇卷四十一 9 幽靈の似(ニセ)を爲し老婦人八丈嶋遠島の事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナの読みは総て静山自身のルビである。珍しくかなり打たれてある。]

 

41―9

 此頃、人の物語りしことどもを、聞(きく)まゝに記(し)する。[やぶちゃん注:ここは底本でも改行している。但し、字下げはない。]

 高橋作左衞門が子、兩人、八丈遠嶋になりしとき、十四人とか、一同に出船せし中に、五十五歲なる婦も、その中なりし。

 その婦のゆゑを聞くに、去年三月、築地邊、大火の後、幽靈と僞り、人を欺き、盜(ぬすみ)をせし者、とぞ。

 その幽靈の仕方は、身に白き衣(キモノ)を着(き)、衣の腰より下を、黑く、染め、脊に、黑き版(イタ)の、巾廣(はばびろ)なるを負(お)ひ、

「ちらりちらり」

と、人前に出(イデ)、又、逃去(にげさら)んとするときは、負(おひ)たる板、黑きゆゑ、人目には消失(キヘウセ[やぶちゃん注:ママ。])たるが如し。斯(かく)して、多く、人を欺き、人の逃行(にげゆき)しあとにて、家財を奪去(うばひさ)りし、となり。

「實(まこと)に、新しき仕方なり。」

と、人々、云(いひ)しが、文化年中、深川永代橋、墜ちしときも、既に斯(かくの)事ありて、「夜話」前篇第二卷に載(のせ)たり。されば、その故智(ふるぢゑ)を假(か)りたるなり。

■やぶちゃんの呟き

「高橋作左衞門が子、兩人、八丈遠嶋になりしとき」「シーボルト事件」捕縛されて老死した天文方高橋作左衞門景保(かげやす 天明五(一七八五)年~文政一二(一八二九)年)。天文暦学者。天文方高橋至時(よしとき)の長男として大坂に生まれた。「Globius」という号もある。幼時より才気に富み、暦学を父に学んで通暁し、オランダ語にも通じた。二十歳で父の後を継いで天文方となり、間重富(はざましげとみ)の助力を受けて浅草の天文台を統率し、優れた才能と学識で、その地位を全うした。伊能忠敬が彼の手附手伝(てつきてつだい)を命ぜられると、忠敬の測量事業を監督し、幕府当局との交渉及び事務方につき、力を尽くし、その事業遂行に専心させた。文化四(一八〇七)年に万国地図製作の幕命を受け、三年後に「新訂万国全図」を刊行した。翌年には暦局内に「蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)」を設けることに成功し、蘭書の翻訳事業を主宰した。満州語についての学識をも有し、「増訂満文輯韻(まんぶんしゅういん)」ほか、満州語に関する多くの著述がある。景保は学者でもあったが、寧ろ優れた政治的手腕の持ち主で、「此(この)人学才は乏しけれども世事に長じて俗吏とよく相接し敏達の人を手に属して公用を弁ぜしが故に此学の大功あるに似たり」と、大槻玄幹(おおつきげんかん)は評している。この政治的手腕がかえって災いしたものか、文政一一(一八二八)年の「シーボルト事件」の主犯者として逮捕され、翌年、四十五歳の若さで牢死した。存命ならば死罪となるところであった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。私の「反古のうらがき 卷之四 雲湖居士」を参照。そこに『其子御赦にて歸嶋(きたう)せしが、直(ぢき)に天文方手傳(てつだいひ)とて、十人扶持被ㇾ下(くだされ)、御用、相勤(あひつとめ)、程なく、十人扶持本高に被下置(くだされおき)、以(もつて)上席へ御召出しに成(なり)たる例あれば、孫助をも還俗させて、出役(しゆつやく)ある場所[やぶちゃん注:臨時役職。]へ差出し申度(まうしたき)旨(むね)、いゝたる。』とある。景保には五人の子どもがいたが、その内、高橋小太郎、同作次郎の二人は、父の罪に連座され、遠島の処分を受けていることがネットで確認出来た。

「去年三月、築地邊、大火」前注の処罰は文政一三(一八三〇)年であるから、この「大火」は「文政の大火」である。文政十二年三月二十一日(一八二九年四月二十四日)に江戸で発生した大火で、当該ウィキによれば、『神田佐久間町から出火し、北西風により』、『延焼した。「己丑火事」「神田大火」「佐久間町火事」などとも呼ばれる』。『焼失家屋は』三十七『万、死者は』二千八百『人余りに達した。神田佐久間町は幾度も大火の火元となったため、口さがない江戸っ子はこれを「悪魔(アクマ)町」と呼ぶほどであった。火災の原因は、タバコの不始末であったという』とある。神田佐久間町はここ(グーグル・マップ・データ)で、築地は、そのほぼ南に当たるので(前の地図下方参照)、延焼に問題はないように思われる。なお、「国立公文書館」公式サイト内の「天下大変」の「32. 文政回禄記」(写本)に、この「文政の大火」の解説記事があるが、そこに、『この火事では、多数の焼死者が出たせいか、怪談がいくつも生まれました。本書にも、「御救小屋」(焼け出された人々のための仮設住居)に全身火傷の首なし人間が迷い出た話や、びしょ濡れで青ざめた女の幽霊がさめざめと泣いていた話などが載っています』とあり、まさに、この女の幽霊こそが、贋幽霊であったとも読めなくはない。

『「夜話」前篇第二卷に載たり』私の「甲子夜話卷之二 45 深川八幡宮祭禮のとき永代橋陷る事」を参照されたい。注は、そちらに譲る。

2023/12/21

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「贋天狗」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 贋天狗【にせてんぐ】 〔梅翁随筆巻五〕加州金沢<石川県金沢市>の城下に、堺屋長兵衛というて数代《すだい》の豪家あり。弥生半ばの頃、まだ見ぬかたのはなを尋ねんとて、手代小者めしつれて、かなたこなたと眺めけるに、ある社《やしろ》の松の森の方より羽音高く聞えける故、あふぎ見れば天狗なり。あな恐ろしやとおもふ間もなく、この者の居たる所へ飛び来《きた》るにぞ、今ひき裂かるゝやらんと、生きたる心地もなくひれふしけるに、天狗のいはく、その方にたのみたき子細あり、別儀に非ず、今度京都より仲間(なかま)下向に付き、饗応の入用多き所、折ふしくり合せ悪しくさしつかへたり、明後日昼過までに金子三千両、此所へ持参して用立つべしといふ。長兵衛いなといはゞいかなるうきめにや逢はんと思ひて、かしこまり候よし答へければ、早速承知過分なり、しからばいよいよ明後日此処にて相待つべし、もし約束違《たが》ふことあらば、その方は申すに及ばず、一家のものども八ツ裂きにして、家蔵《いへくら》ともに焼きはらふべし、覚悟いたして取計ふべしといひ捨て、社壇のかたへ行きにける。長兵衛命をひろひし心地して、早々我家に帰り、手代どもへこの由を話しけるに、或ひは申すに任すべしといふもあり。又は大金を出す事しかるべからずといふもありて、評議まちまちなりけるに、重手代(おもてだい)のいはく、たとひ三千両出《いだ》したりとも、身《しん》だいの障《さは》りになるほどの事にあらず、もし約束を違ヘて家蔵を焼きはらはれては、もの入りも莫大ならん、その上一家のめんめんの身の上に障る事あらば、金銀に替ふべきにあらず、三千両にて災《わざはひ》を転じて、永く商売繁昌の守護とせんかたしかるべしと申しけるゆゑ、亭主元来その心なれば、大いに安堵し、この相談に一決したり。さればこの沙汰奉行所へ聞えて、その天狗といふものこそ怪しけれ、やうす見届けからめ取るべしと用意有りける。さてその日になりければ、長兵衛は麻上下《あさかみしも》を著し、三千金を下人に荷《にな》はせ、社前につみ置き、はるか下《さが》つて待ちければ、忽然と羽音高くして、天狗六人舞ひさがり、善哉《ぜんざい》々々、なんぢ約束のごとく持参の段満足せり、金子は追々返済すべし、この返礼には商ひ繁昌、寿命長久うたがふ事なかれと、高らかに申し聞かせ、かの金を一箱づつ二人持(ふたりもち)して、社のうしろのかたへ入りければ、長兵衛は安堵して、早々我家へ帰りける。かくて奉行所より遣し置きたる捕手《とりて》のものども、物蔭にこの体《てい》をみて、奇異の思ひをなしけるが、天狗の行方《ゆくへ》を見るに、谷のかたへ持行《もちゆ》きける。爰にて考へみるに、まことの天狗ならば、三千両や五千両くらゐの金は、引つかんで飛び去るべきに、一箱を二人持して、谷のかたへ持ち行く事こそこゝろえね、この上は天狗を生捕りにせんとて、兼ねての相図なれば、螺貝(ほら《がひ》)を吹き立つると等しく、四方より大勢寄り集まり、谷のかたへ探し入り、五人ながら天狗を鳥《とり》の如く生捕りにして、奉行所ヘ引き来《きた》れり。吟味するに鳥の羽、獣の皮にて身をつゝみこしらへたるものにて、実《っまこと》の天狗にてはあらず。されば飛び下ることは、傘を持て下るなれば自由なれども、飛び上る事とては曾てならずとなり。さてこれをば加賀国にて天狗を生捕りたる話は末代、紙代《しだい》は四文《しもん》、評判々々と午《うま》の八月江戸中売り歩行(あるき)しは、この事をいふなるべし。<『蕉斎筆記四』『寛政紀聞』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○加賀にて天狗を捕へし事』。

「蕉斎筆記」儒者で安芸広島藩重臣に仕えた小川白山(平賀蕉斎)の随筆。寛政一一(一七九九)年。国立国会図書館デジタルコレクションの「百家隨筆」第三(大正六(一九一七)国書刊行会刊)のこちら(右ページ上段から)で視認出来る。枕が異なり、事件の現場を『金澤の近方』の『至て高き山ありて魔所なりける』とし、しかも、偽天狗の親玉らしい正体を、その近所の『異人五兵衞』なる『常に人にも交はらず、至て異風なる男』が示唆してあり(但し、この名は結末には出ない)、さても連中を召し捕ったところが、『何れも家中歷々の息子ども』であることがわかり、『深くしらべ候へば、段々不首尾なるものも有、また當り障りもあるゆゑ、悉く仕置被仰付、その建札に』は、『天狗五疋死罪に行者也』(おこなふものなり)『と書きたるよし、此ころきゝしと皆川文藏咄し也』とあって、こっちに方が、結末はリアルで面白い。なお、この記事はパート標題『寬政十一年己未年記』であり、当該本文では、時制を『或時』としつつも、最後に話し手の名も明記されそこで「此ころ」とあるから、寛政十一年の直近の出来事であったことが推定されるのである(次の注も参照のこと)。

「寛政紀聞」「天明紀聞寬政紀聞」が正題。天明元年から寛政十一年までの聴書異聞を集録する。筆者不詳だが、幕府の御徒士(おかち)であった推定されている。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第四(三田村鳶魚校訂・ 随筆同好会編・昭和二(一九二七)年米山堂刊)のこちらで当該話を視認出来る。本書は概ね編年体を採っており、この記事は寛政十年の『九月上旬』の出来事とするから、これで、寛政十年で決まりである。ロケーションもはっきりしており、『金澤城下より五里程山奥にて天狗森と云所』で、その奥にある観音堂へ参詣に向かった町人『八兵衞』が被害者である。後半の捕縛に至るシークエンスが三種の内、もっとも詳しくリアルである(但し、処罰はあっさりと『重罪ニ仕置相成しとぞ』である)。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「二条城の不明蔵」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 二条城の不明蔵【にじょうじょうのあかずのま】 〔耳嚢巻五〕二条御城内に、久しく封を切らざる御蔵ありて、いつの頃何ものか申出しけん、この蔵を開くものは乱心なすとて、弥〻《いよいよ》恐れをののきて、数年打過ぎしが、浚明院様<徳川家治>御賀の時、先格《せんかく》の日記、御城内にあるべきとて、番頭《ばんがしら》より糺し有りし故、普く捜し求むれども、その旧記さらになし。せん方なければ、その訳《わけ》申答《まふしこた》へんと評議ありしに、石川左近将監、大番士たりし時、彼《かの》平日不明《あけざる》御蔵をも改めずしては、決して無ㇾ之とも申し難しと言ひしを、誰《たれ》ありて申伝ヘの偶言に怖れて、明べきといふものなし。されど右を捜し残して、なきとも申し難ければ、衆評の上、戸前《とまへ》を明け、燈《おもしび》など入れて捜しけれど何もなし。二階を見るべしとて、湿りも籠りたる処ゆゑ、提灯など入れしに、両度迄消えければ、弥〻湿気の籠れるを悟りて、弥〻燈火を増して、消えざるに至りて、上りて見しに、御長持二棹《さほ》並べありし故、右御長持を開き改めしに、御代々の御賀の記、顕然ありしかば、やがてその御用を弁ぜりと、左近将監かたりぬ。

[やぶちゃん注:私のは、底本違いで、「耳嚢 巻之六 物を尋るに心を盡すべき事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「二十年経て帰宅」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 二十年経て帰宅【にじゅうねんへてきたく】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕江州八幡<滋賀県八幡市>は彼国にては繁花なる場所の由。寛延・宝暦の頃、右町に松前屋市兵衛といへる有徳《うとく》なる者、妻を迎へて暫く過ぎしが、いづち行きけんその行方なし。家内上下大に歎き悲しみ、金銀惜しまず所々尋ねけれど、曾てその行方知れざりし故、外に相続の者もなく、かの妻も元一族の内より呼び迎へたるものなれば、外より入夫して跡を立て、行衛なく失ひし日を命日として訪《と》ひ弔《とむら》ひしける。かの失ひし初めは、夜に入り用場へ至り候とて下女を召連れ、厠の外に下女は燈火を持ち待居りしに、いつ迄待てども出《いで》ず。妻は右下女に夫の心ありやと疑ひて、かの厠に至りしに、下女は戸の外に居りし故、何故用場の永き事と、表より尋ね問ひしに一向答へなければ、戸を明け見しに、いづち行きけん行方なし。かゝる事ゆゑ、その砌《みぎり》は右の下女など難儀せしとなり。然るに二十年程過ぎて、或日かの厠にて人を呼び候声聞えし故、至りて見れば右市兵衛、行方なくなりし時の衣服等、少しも違ひなく坐し居りし故、人々大いに驚き、しかじかの事なりと申しければ、しかと答へもなく、空腹の由にて食を好み、早速食事など進めけるに、暫くありて著《ちやく》し居り候衣類も、ほこりの如くなりて散り失せて裸になりし故、早速衣類等を与へ薬など与へしが、何か古への事覚えたる様子にもこれなく、病気或は痛所などの呪《まじな》ひなどなしける由。予<根岸鎮衛>が許へ来《きた》る眼科の、まのあたり八幡の者にて見及び候由咄しけるが、妻も後夫《うはを》もをかしき突合《つきあひ》ならんと一笑なしぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之五 貮拾年を經て歸りし者の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「廿騎町の怪異」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 廿騎町の怪異【にじっきまちのかい】 〔反古のうらがき巻一〕余<鈴木桃野>が祖母常に語りしは、加賀屋敷・御旗本屋敷なき以前は、みな原なり。久貝《くがひ》・久志本・服部・巨勢《こせ》・三枝《さへぐさ》・長谷川、これ程の野原にて、組屋敷うち常に怪異あり。或時は鉦太鼓面白くはやしなどするに、西かと思ヘば東なり。誰《たれ》ありて見届けたる人なし。山崎といへる家にては、夜な夜な猫をどり、縁頰《えんづら》にて足音す。明《あく》る日見るに、矢をふく手拭をかぶりたる様子なり。また或時は誰ともなく、障子をさらさらとすりて縁頰を行きかよふ。明《あ》けて見るに人なし。また深夜にしほしほと呼び売る声ありて、誰見当りしことなし。或時余が曾祖父内海彦右衛門、対門《むかふやしき》なる山崎に行きて、夜更けて帰らんとて立出《たちいづ》るに、門の扉に大の眼《まなこ》三つあり。光輝《ひかりかがやき》人を射る様《さま》、明星の如く、大胆なる人なれば、こは珍らし、独りみんも本意《ほい》なしとて家に帰り、予が大叔父内海五郎左衛門を呼び、面白き者なり、行きてみるべしとて誘ひて行きけるに、最早一つ消えて二つ残れり。さては消ゆる者とみえたり、皆消ゆる迄見果てんとて、父子まばたきもせずにらみ居《をり》たりしに、漸《やうや》く光り薄くなりて又一つ消えたり。父子笑ひて、初めよりかくあらんと思ひしと帰りしと、祖母善種院語らる。今の人よりは、皆心《こころ》剛《かう》にありけるといましめられしなり。

[やぶちゃん注:私の「反古のうらがき 卷之一 廿騎町の恠異」で、かなり子細に注を施してあるので、見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「二恨坊の火」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 二恨坊の火【にこんぼうのひ】 〔諸国里人談巻三〕摂津国高槻庄《たかつきのしやう》二階堂村<大阪府茨木市二階堂>に火あり。三月の頃より六七月までいづる。大きさ一尺ばかり、家の棟、或ひは諸木の枝梢《えだ・こづゑ》にとゞまる。近く見れば眼耳鼻口のかたちありて、さながら人の面《おもて》のごとし。讎(あだ)をなす事あらねば、人民さしておそれず。むかし此所《ここ》に日光坊といふ山伏あり。修法《しふほふ》、他にこえたり。村長(むらをさ)が妻、病《やまひ》に臥す。日光坊に加持をさせけるが、閨《ねや》に入て一七日《ひとなぬか》祈るに、則ち病癒えたり。後に山伏と女密通なりといふによつて、山伏を殺してけり。病平癒の恩も謝せず。そのうへ殺害す。この恨《うらみ》、妄火《ばうくわ》となりて、かの家の棟に毎夜飛び来《きたつ》て、長《をさ》をとり殺しけるなり。日光坊の火といふを、二恨坊の火といふなり。

[やぶちゃん注:「諸國里人談卷之三 二恨坊火」及び私の注を参照されたい。この怪火、特に知られた怨念火として知られるものである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「濁り川・年取らず川」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 濁り川・年取らず川【にごりがわ・としとらずがわ】 〔梅翁随筆巻六〕木曾路塩多奈宿のこなた塚原といふところの往来に、三四尺計りの溝川あり。これを濁り川といふ。川の源は浅間山よりながるゝとぞ。この川月の初め十五日は水すみ、下十五日は濁りて、毎月違《たが》ふ事なしといへり。[やぶちゃん注:以下、改行段落成形はママ。後に示す活字本では、改行はなく、ベタで続いている。]

 また武蔵国入間郡藤沢村<現在の埼玉県入間市内>四谷海道中野より八里ばかり先に、年とらず川といふあり。青梅の近きあたり、川幅凡そ二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]ばかり、清水常にみなぎり流るゝなり。この土地高くして、井戸を掘る事たやすからねば、この川水をくみとりて、村中遣ひ水とせり。しかるに除夜には極めて水かれて川原となれり。誠に水一滴もなし。この日朝より水次第々々にへりて、暮がたはから堀のごとくかるゝ事、年々かはる事なし。立春の日より水次第に流れ出《いで》て元のごとし。それゆゑにこの川を年とらず川とはいへり。

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」作者不詳の寛政年間を中心とした見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(左ページの「『○信州にごり川の事附』(つけたり)『武州都市とらず川の事』で正規表現版が視認出来る。

「塩多奈宿」「中山道六十九次」の内、江戸から数えて二十三番目の宿場である「塩名田宿」(しおなだしゅく)のこと。当該ウィキによれば、『現在の長野県佐久市塩名田。暴れ川であった千曲川の東岸にあり、旅籠が』十『軒以下の小さな宿場にも拘らず、本陣と脇本陣が合わせて』三『あった。橋も掛けられたが』、『洪水の度に流失し、船や徒歩で渡るのが専らであった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「年とらず川」現在、「不老川」(としとらずがわ/ふろうがわ)として現存する。当該ウィキによれば、『東京都及び埼玉県の』、『主に武蔵野台地上を流れる一級河川で』、『荒川水系新河岸川の支流である』とあり、『東京都西多摩郡瑞穂町の狭山池の伏流水が水源とされる。瑞穂町二本木の国道』十六『号付近に水路が見られる。そこから北東へ向かって流れ、埼玉県入間市宮寺と藤沢、所沢市林、狭山市入曽(不老川が北入曽と南入曽の境界になっている)と堀兼、川越市今福などを流れ、林川、今福川、久保川などを合わせ、川越市岸町と川越市砂の境界で新河岸川に合流する。流域には河岸段丘が形成されている。高低差があるため、ところどころに落差工がある』。『霞川、柳瀬川、黒目川、白子川、石神井川などと並び、かつての古多摩川の名残の一つとされている』。『周囲は武蔵野台地に位置し、地下水も低く、水に恵まれないため』、『畑作(狭山茶など)が行われていた。貴重な河川であったことから親しみを込めて「大川」(おおかわ)と呼ばれることもあった。大雨の際には』、『水が』、『すべて』、『不老川に集まるため、しばしば氾濫を起こし』、二〇〇〇『年代以降にも河道の拡張工事が行われている』。一九八三年から三年『連続で「日本一汚い川」になるという不名誉な記録を作った時期もあったが、現在ではその汚名を返上して』おり、『市民団体や行政により』、『浄化の取り組みが続いており、小魚や水生昆虫、カルガモなどが生息する程度まで回復している。狭山市の流域においてはしばしば鯉が泳ぐ姿も確認されている。週末になると釣り人も多い。一方、近隣河川や池沼同様に特定外来生物であるウシガエルの生息・繁殖も確認されるようになり、回復しつつある生態系を保全するためこれを駆除するとともに、オタマジャクシや卵の除去作業も続けられている』。『元々の読みは「としとらずがわ」であり、江戸時代に編纂された』「新編武蔵風土記稿」では『「年不取川」の表記を用いている』。『近代以降』、『「不老川」の表記となったことから』、『音読みの「ふろうがわ」という読みが広まり、現在、一般化している。この川を示す看板には「ふろうがわ」「FURO RIVER」という読み仮名がふられているものもある』。『「としとらず」の由来』の項。『雨が少ない冬になると』、『干上がってしまい、太陰暦における年のはじめ(旧正月・春節)には水が流れなくなる。このため』、『旧暦正月に全員が』一『歳ずつ年齢を重ねる数え年の習慣における加齢の際に』、『その姿を現さない』ことから、『「年とらず川」あるいは「年とらずの川」と呼び習わされている』。『また、干上がった川の橋の下で一晩を過ごすと、歳をとらないといわれる伝承があり、そのことから、「としとらず」川といわれるようになったともされる』。『生活雑排水が流れ込むようになると』、『水量が増え干上がることはなくなっていたが、生活雑排水が流れ込まなくなってからは水量が減り、現在』、『一部流域では水が干上がることがある』とある。『年不取(としとらず)川を詠んだ歌』の項には、『江戸期の随筆』に載る「詠み人知らず」で、

 武藏野や年とらず川に若水を

    汲(くむ)程もなく春は來にけり

 昔し誰(たれ)わたり初(そめ)けん武藏野の

            若むらさきの年とらず川

の二首が掲げられてある。「渇水により干上がった不老川」の画像もある。サイト「川の名前を調べる地図」のこちらで、流域が判る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「肉芝」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

   

 

 肉芝【にくし】 〔嘉良喜随筆巻一〕延宝五年八月廿五日ノ夜、霊山権阿弥《りやうぜんごんあみ》ガ庭ニ丸ク白クシテ大ナル菌《きのこ》出ヅ。二三日ノ間ニ成リテ、白犬《しろいぬ》ノ蹲踞《そんきよ》ノ体《てい》に似タリ。タヽケバコンコント云フ。肉芝ノ類《るゐ》トミユ。

[やぶちゃん注::「嘉良喜随筆」は前項「南都の怪」で既出。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十一(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで(左ページ四行目から)視認出来る。

「延宝五年八月廿五日」グレゴリオ暦一六七七年九月二十一日。

「霊山権阿弥」これは、現在の時宗霊山正法寺(りょうぜんしょうぼうじ:グーグル・マップ・データ)の旧塔頭の東光寺(権阿弥:この寺の塔頭にはそれぞれ「阿弥号」があった)を指す(東光寺は現存しない)。幕末、ここは本願寺の住職の別荘「翠紅館」となった。京都が一望出来る。京都観光オフィシャルサイト「京都観光Navi」の「翠紅館跡」に地図がある。

「肉芝」菌界担子菌門ハラタケ綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科 Ganodermataceae に属するキノコ。薬用として知られたマンネンタケ属レイシ(霊芝)Ganoderma lucidum が含まれる。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「南都の怪」 / 「な」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 なお、本篇を以って、「な」の部は終わっている。]

 

 南都の怪【なんとのかい】 〔嘉良喜随筆巻四〕寛文十二年九月初メ、南都<奈良>今厨子ト云フ所、夜々《よよ》光ル。ソノ光ヲモトメテ地ヲ四尺程掘レバ、髑髏(ドクロ)ノ大《おほき》サノ少シ平(ヒラ)キ物アリ。中々臭気深クテ何トモナラズ。即チ捨《すつ》ルト光モナシ。マタ春日ノ一鳥井《いちのとりゐ》ノ辺《あたり》ニ、夜ニ入レバ七尺バカリノ人ノ如クナ[やぶちゃん注:ママ。]者、髪ヲ長クシテ人ヲカイテ[やぶちゃん注:「搔いて」か。「舁いて」ではおかしい。]追ヘバニゲル。コレハ野馬ノタケテ[やぶちゃん注:年を経て。]居《を》ルニテ有ルベシトナリ。希有ノ事ナリ。

[やぶちゃん注:「嘉良喜随筆」(からきずゐひつ)は垂加流神道家の山口幸充(こうじゅう 生没年未詳:日向生まれ)の随筆(全五巻)であるが、諸家の雑録・随筆からの抄録が多い。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十一(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで(左ページ八行目から)視認出来る。

「寛文十二年九月初メ」同九月一日はグレゴリオ暦で一六七二年十月二十一日。

「今厨子」現在の奈良県奈良市今辻子町(いまづしちょう)であろう(グーグル・マップ・データ)。

「春日ノ一鳥井」春日大社のそれはここ(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「南禅寺天狗」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 南禅寺天狗【なんぜんじてんぐ】 〔甲子夜話巻九〕寛政の末、誠拙和尚南禅寺の夏結制<夏籠り>に招かれて到りたるとき、かの後山の上にて、衆人の舞ひ歌ふごとき声頻りに聞ゆ。一山《いつさん》の人皆聞けり。因て云ふ。これは誠拙の来たるを天狗の悦びて此《かく》の如しと。また同じ時、誠拙厠《かはや》にゆくとき草履を厠外に脱ぎ置くに、出《いで》て見ればいつも正しく双《なら》べあるゆゑ、不審に思ひ侍者に問ひたるに皆知らず。これも天狗の所為《しよゐ》なりと言ひき。また一日鉄鉢《てつぱつ》に飯を盛りて本堂の仏前に供し、大衆《だいしゆ》勤行に及ばんとするに及んで鉄鉢なし。誠拙恚(いか)り一僧に命じて鎮守祠《ちんじゆのほこら》の前に焚香《たきかう》し、守護の疎《おろそか》なるを告げしむ。その日誠拙が宿院の庭籬《にはまがき》にかの鉢を載せて、その辺に血痕斑斑《はんぱん》たり。これ天狗の護神の譴(せめ)をうけしと云ふ。この事吾雄香寺の耕道和尚、その頃侍者にて目撃せしよし、印宗和尚語れり。印宗も誠拙に常に随従せし弟子なり。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷之九 25 誠拙和尙、南禪寺にて天狗を戒むる事」を公開しておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷九 25 誠拙和尙、南禪寺にて天狗を戒むる事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

9-25

 寬政の末、誠拙和尙、南禪寺の夏結制(げけつせい)に招かれて到(いたり)たるとき、かの後山(こうざん)の上にて、衆人の舞ひ歌ふごとき聲、頻(しきり)に聞ゆ。一山(いつさん)の人、皆、聞けり。

 因(よつ)て云ふ。

「これは、誠拙の來たるを、天狗の悅びて、如ㇾ此(かくのごとし)。」

と。

 又、同(おなじ)時、誠拙、厠(かはや)にゆくとき、草履を厠外に脫置(ぬぎおく)に、出(いで)て見れば、いつも、正しく雙(なら)べあるゆゑ、不審に思ひ、侍者に問(とひ)たるに、皆、知らず。これも、

「天狗の所爲(しよゐ)なり。」

と、人、言ひき。

 又、一日、鐵鉢(てつぱつ)に飯を盛りて、本堂の佛前に供し、大衆(だいしゆ)、勤行(ごんぎやう)に及ばんと爲(す)るに及(およん)で、鐵鉢、なし。

 誠拙、恚(いか)り、一僧に命じて、鎭守祠(ちんじゆのほこら)の前に焚香(たきかう)し、守護の疎(おろそか)なるを、告(つげ)しむ。

 其日、誠拙が宿院の庭籬(にはまがき)に、かの鉢を載せて、その邊(あたり)に、血痕、殷殷(いんいん)たり。

「これ、天狗の、護神の譴(せめ)をうけし。」

と云ふ。

 此事、吾(われ)、雄香寺(ゆうかうじ)の耕道和尙、その頃、侍者にて目擊せしよし、印宗和尙、語れり。印宗も誠拙に常に隨從せし弟子なり。

■やぶちゃんの呟き

 この話は、最初の部分が酷似した話が、同じ「甲子夜話」の「卷之六十四」の三条目、「南禪寺守護神」として出る。そこの注で私が電子化したものを示すと、

   *

享保辛酉の夏、鎌倉圓覺寺の誠拙和尙、京都南禪寺の招に依て上京淹留す。このとき寓居の院は、南禪の山中嶮峰の下に在り。然るに和尙淹留中、晴天月夜などには、時々深更に及び峰頂にして數人笛を吹き、鼓を鳴し、歌舞遊樂の聲頻なること數刻。この峰頂は尋常人の至る處にあらず。因て初は從徒もあやしみ驚きたるが、山中の古老曰ふには、この山中、古代より吉事ある時は、必ず峰頂に於て歌舞音曲の聲あり。これ守護神の歡喜する也と。守護神は天狗なりと言傳ふ【印宗和尙話】。

   *

そこで注したが、享保年間に「辛酉」(かのととり)の年はない。私はそこで、『享保二(一七一七)年丁酉(きのととり)或いは享保六(一七二一)年辛丑(かのとうし)の誤りであろう』としたのだが、干支を誤るのは、史料では最も資料としての価値が失われるため、最も忌避されるものである。而して、この酷似した内容から、私は、以上の静山が語った二つの話柄に限って言うならば、寛政十三年辛酉の出来事であったとするのが正しいと感じた。さらに、本篇の後の二話も宵曲が、『鎌倉圓覺寺の誠拙和尙が、南禪寺の招きによつて上京し、暫く逗留して居つたが』と枕するところから、この年の体験であったと断ずるものである。何故なら、以下の注を見ると判る通り、誠拙が円覚寺前堂首座になったのは天明三(一七八三)年であり、わざわざ、禅宗の頂点にある名刹南禅寺が、まだ、形式上、修行僧でしかなかった彼を、享保年間に招くことは考え難いと判断したからである。

「寬政の末」寛政十三年二月五日(グレゴリオ暦一八〇一年三月十九日)に「享和」に改元している。

「誠拙和尙」誠拙周樗(せいせつしゅうちょ 延享二(一七四五)年~文政三(一八二〇)年)は伊予生まれの傑出した臨済僧で歌人としても知られた。円覚寺の仏日庵の東山周朝に師事し、その法を継ぎ、天明三(一七八三)年に円覚寺前堂首座に就任した。書画・詩偈も能くし、茶事にも通じ、出雲松江藩第七代藩主で茶人としても知られた松平不昧治郷とも親交があった。香川景樹に学び、歌集に「誠拙禅師集」がある。文政二(一八一九)年に相国寺大智院に師家として赴任したが翌年、七十六で示寂した。(以上は思文閣の「美術人名事典」及びウィキの「誠拙周樗」に拠った)。松浦静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)より十五年上になるが、同時代人である。

「南禪寺」京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派大本山瑞龍山南禅寺。「京都五山」及び「鎌倉五山」の上に置かれる別格扱いの寺院で、本邦の全ての禅寺の中で最も高い格式を持つ寺である。

「夏結制」狭義には「夏安居」(げあんご:仏教の本元であったインドで、天候の悪い雨季の時期の、相応の配慮をした、その期間の修行を指した。多くの仏教国では、陰暦の四月十五日から七月十五日までの九十日を「一夏九旬」(いちげくじゅん)・「一夏」、或いは、「夏安居」と称し、各教団や大寺院で、種々の安居行事(修行)がある。本邦では、暑さを考えたものとして行われた夏季の一所に留まった修行を指す)の初日で、陰暦四月十五日。「結夏」(けつげ)とも言い、終了は「解夏(げげ)」と呼ぶ。

「殷殷」物音が盛んに轟渡るさま。

「雄香寺」長崎県平戸市にある臨済宗妙心寺派俊林山(しゅんりんさん)雄香寺(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、元禄八(一六九五)年に『当時の』第五代『平戸藩主松浦棟』(たかし:第九代藩主静山の曽祖父の長兄)『により』、『的山大島の江月庵を移し』、『現在地に建立された。開山は棟が師事していた禅僧の盤珪永啄。棟以降』、『歴代平戸藩主の菩提寺となった』とある。無論、静山の墓もここにある。

「耕道和尙」詳細事績不詳。

「印宗和尙」不詳。明山印宗という法力抜群の禅僧がいるが、誠拙周樗より前の人物であるから、違う。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「南海侯の化物振舞」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 南海侯の化物振舞【なんかいこうのばけものぶるまい】 〔甲子夜話巻五十一〕予<松浦静山>少年の頃久昌夫人の御側にて聞きたりしを、よく記億してあれば玆(ここ)に書《かき》つく。芝高輪の片町<東京都港区内>に貧窶《ひんる》の医住めり。誰問ふ人もなく、夫婦と薬箱のみ在《あり》て、僕《しもべ》とてもなき程なり。然るに一日訪問者有り。妻乃《すなは》ち出《いで》たるに、家内に病者あり、来診せらるべしと曰ふ。妻不審に思ひて見るに、身ぎれいなる人の帯刀して武家と見ゆ。因《よつ》て夫に告ぐ。医出て、某《それがし》固《もと》より医業と雖ども、洽療のほど覚束なし、他に求められよと辞す。士曰く、然らず、必ず来らるべしと。医固辞すれども聴かず。乃ち麁服《そふく》のまゝ随はんとす。見るに駕《かご》を率《ひき》ゐ、僕従数人《すにん》あり。妻愈〻(いよ《いよ》)疑ひて、薬箱を携ふる人なしと、以ㇾ実《じつを》て辞す。士曰くさらば従者に持たしめんとて、薬箱を持して医を駕に乗せ行く。妻更に疑はしく跡より見ゐたるに、行くこと半町もや有りけんと覚しき頃、駕の上より縄をかけ、蛛手《くもで》十文字にからげたり。妻思ふに極めて盗賊ならん、されども身に一銭の貯ヘなく、弊衣竹刀《しなひ》何をか為(な)すらんと思へども、女一人のことなれば、為すべきやうもなく、唯悲しみ憂へて独り音づれを待暮しぬ。医者は側らより駕の牗(まど)を堅く塞ぎて、内より窺ふこと能はざれば、何づくへ往くも知らざれど、高下迂曲《かうげうきよく》せるほど凡そ十余町も有るらんと覚しく、何方につれ行くかと案じ悶えたるが、ほどなく駕を止めたると覚しきに、傍人曰く、爰にて候出たまへとて戸を開きたるゆゑ、見たるに大造《たいさう》なる家作の玄関に駕を横たへたり。医案外なれば還《かへつ》て驚きたれど、為方《せんかた》なく出たるに、その左右より内の方にも数人並居《なみゐ》て、案内の人と行くほどに、幾間も通りて、書院と覚しき処にて、爰に待居《まちを》られよと、その人は退入《のきい》りたり。夫より孤坐して居るに、良久(ややひさしく)ありても人来らず。如何にと思ふに人声も聞こえざる処ゆゑ、若しや如何なる憂きめにや遇ふらんと思ふに、向うより七八歳も有らんと覚しき小児、茶台を捧げて来る。近寄りて見れば、未だ坊主あたまなるに、額に眼一つあり。医胸とゞろき、果して此所は化物屋鋪ならんと思ふ中《うち》、この怪も入りて、また長《た》け七八尺も有らん、大の総角(あげまき)の美服なる羽織袴を著、烟草盆(たばこ《ぼん》)を目八分《はちぶ》ンに持来《もちきた》る。医愈〻怖れ、怪窟はや脱する所あらじ、逃出《にげいで》んとするも行く先を知らず、兎やせん、角やせんと思ひ廻らすに、遙かに向うを見れば、容顔端麗なる婦の神仙と覚しく、十二単衣(ひとへ)に緋袴《ひばかま》きて、すらりすらりと過ぐる体《てい》、医心にこれこの家の妖王《やうわう》ならん、然れどもかれ近寄らざれば一時の難は免れたりと思ふ間《あひだ》に、程なくして一人継上下《つぎかみしも》を著たる人出で来て、御待遠なるべし、いざ案内申すべしと云ふ。医こはごは従ひ行くに、また間かずありて襖を隔て人声喧《かまびす》し。人云ふ、これ病者の臥所《ふしどころ》なりとて襖を開きたれば、その内には酒宴の体《てい》にて、諸客群飲して献酬頻りなり。医こゝに到ると一客曰く、初見の人いざ一盃を呈せんとて医にさす。医も仰天して固辞するを、また余人寄て強勧《きやうくわん》す。医辞すること能はず、乃ち酒盃受く。時に妓《ぎ》楽座《がくざ》に満ちて絃歌涌くが如く、俳優周旋して舞曲眼《まなこ》に遮《さへぎ》る。医生も岩木《いはき》に非ざれば稍〻《やや》歓情を生じ、相俱(《あひ》とも)に傾承《けいしよう》時を移し、遂に酩酊沈酔して坐に臥す。それより医の宅には、夫の事を思へども甲斐なければ、寡坐《ひとりざ》して夜闌《たけなは》に到れども消息なし。定めし賊害に遭ひたらんと寐《ね》もやらで居《をり》たるに、鶏声狗吠《けいせいくはい》暁を報ずる頃、戸を敲く者あり。妻怪しみて立出たるに、赤鬼青鬼と駕を舁《かき》て立てり。妻大いに駭き、即ち魂《たま》も消えんとせしが、命は惜しければ内に逃入りたり。されども流石《さすが》夫の事の捨てがたく、暫して戸𨻶《とのすき》より覘(うかが)ひたるに、鬼ははや亡去(にげ《さ》)りて駕のみ在り。また先の薬箱も故(もと)の如く屋中《やうち》に入れ置きたり。夜もはや東方《とうはう》白《びやく》に及べば、立寄りて駕を開きたるに、夫は丸裸にて身には褌《ふんどし》あるのみ。妻死せりと伺ふに、熟睡して鼾息《いびき》雷《かみなり》の如し。妻はあきれて曰く、地獄に墜ちたるかと為《す》れば左もなく、盗難に遭ひたるかと為れば酒気甚し。狐狸に欺かれたるかと為れば、傍《かたはら》に大なる包《つつみ》あり。発《ひら》きて見れば、始め著ゐたりし弊衣の外に、新衣をうち襲《かさ》ねて襦袢紙入れ等迄、皆具して有りたり。然れども夫の酔覚めざれば姑《しばら》く扶《たす》けいれ、明朝やゝ醒めたるゆゑ、妻事の次第を問ふに、有りし如く語れり。妻も亦その後《のち》のことを語り合ひて、相互《あひたがひ》に不審晴れず。この事遂に近辺の伝話《つたへばなし》となり、誰《たれ》知らざる者も無きほどなりしが、誰云ふともなく、これは松平南海の徒然《つれづれ》を慰めらるゝ戯《たはむれ》にして、斯くぞ為《せ》られしとなん。この時彼《か》の老侯の居《を》られし荘《さう》は、大崎とか云ふて高輪(たかなわ)遠からざる所なる故《ゆゑ》なり。また一目童子《ひとつめのどうじ》は、その頃封邑《ふういふ》雲州にて産せし片わなる小児なりしと。八尺の総角は世に伝へたる釈迦獄《しやかがたけ》と云ひし角力人(すまふ《にん》)にて、亦領邑より出し力士なり。また神仙と覚しき婦は瀬川菊乃丞と呼びし俳優にして、その頃侯の目をかけられし者なりしとぞ。<『落栗物語』後編に同様の文がある>

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷卷五十一 13 貧醫思はず侯第に招かる事」を細かな注を附して公開しておいた。そこの冒頭注で述べた通り、この話、実は、柴田宵曲の「妖異博物館」の巻頭第一話「化物振舞」の私の注で、一度、『東洋文庫』版の体裁のままにベタで全篇通し一段で、恣意的正字表現で電子化している。但し、注は附していない。今回は完全にブラッシュ・アップしたので、最初のリンク先が決定版となる。

「落栗物語」は豊臣時代から江戸後期にかけての見聞・逸話を集めた大炊御門家の家士侍松井成教(?~天明六(一七八六)年)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『百家隨筆』第一 (大正六(一九一七)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が正字表現で視認出来る(右ページ下段後ろから二行目以降)が、実は、これも柴田宵曲の「妖異博物館」の巻頭第一話「化物振舞」の私の注で、一度、『東洋文庫』版の体裁のままにベタで全篇通し一段で、恣意的正字表現で電子化した。今回、上記の『百家隨筆』版を底本にし、そちらの本文を校訂しておいたので、そちらを見られたい。なお、こちらは、注は不要と断じた。

フライング単発 甲子夜話卷卷五十一 13 貧醫思はず侯第に招かる事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。

 但し、この話、実は、柴田宵曲の「妖異博物館」の巻頭第一話「化物振舞」の私の注で、一度、『東洋文庫』版の体裁のままにベタで全篇通し一段で、恣意的正字表現で電子化している。但し、注は附していない。

 本篇は、比較的長く、展開が甚だ面白いので、完全に零から仕切り直し、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えて読み易くし、さらに、可能な限り、注を、文中、或いは、段落末に附した。

 

51―13 貧醫(ひんい)思はず侯第(こうだい)に招かる事

 予、少年の頃、久昌(きうしやう)夫人の御側(おそば)にて聞(きき)たりしを、よく記憶してあれば、玆(ここ)に書(かき)つく。

[やぶちゃん注:「久昌(きうしやう)夫人」静山の祖母で養母に当たる静山の祖父松浦誠信(まつらさねのぶ 正徳二(一七一二)年~安永八(一七七九)年)の正室となった「宮川とめ」、後に「久昌院」を名乗った人物である。静山の実父松浦政信は清(静山)が生まれた宝暦一〇(一七六〇)年から十一年後の明和八(一七七一)年八月、家督を継がずに早逝したため、長男ではあったが、側室の子であった清は(正室には子がなかった)、それまで「松浦」姓を名乗れずに「松山」姓を称していたものを、同年十月二十七日に祖父誠信の命で養嗣子となったのであった。四年後の安永四(一七七五)年二月十六日、祖父(養父)の隠居により、家督を相続、肥前国平戸藩第九代藩主となった。]

 芝高輪の片町に、貧窶(ひんる)の醫、住めり。誰(たれ)問ふ人もなく、夫婦と藥箱(くすりばこ)のみ在(あり)て、僕(しもべ)とても無きほどなり。

[やぶちゃん注:「貧窶」非常に貧しいこと。「ひんく・ひんろう」とも読む。]

 然(しか)るに、一日、訪者あり。

 妻、乃(すなはち)、出(いで)たるに、

「家内に病者あり。來診せらるべし。」

と曰ふ。

 妻。不審に思(おもひ)て見るに、身ぎれいなる人の、帶刀して、武家と見ゆ。因(よつ)て、夫に告ぐ。

 醫、出て、

「某(それがし)、固(もと)より醫業と雖ども、治療のほど、覺束(おぼつか)なし。他(ほか)に求められよ。」

と辭す。

 士、曰(いはく)、

「然らず。必ず、來らるべし、」

と。

 醫、固辭すれども、聽かず。

 乃(すなはち)、麁服(そふく)のまゝ隨はんとす。

[やぶちゃん注:「麁服」粗末な服。]

 見るに、駕(かご)を率(したが)へ、僕從、數人(すにん)あり。

 妻、愈々、疑(うたがひ)て、

「藥箱を攜(たづさへ)る人、なし。」

と、以ㇾ實(じつをもつて)て、辭す。

 士、曰、

「さらば、從者に持(もた)しめん。」

迚(とて)、藥箱を持して、醫を駕に乘せ行く。

 妻、更に疑はしく、跡より見ゐたるに、行(ゆく)こと半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]もや有(あら)んと覺しき頃、駕の上より、繩を、かけ、蛛手(くもで)・十文字に、からげたり。

 妻、思(おもふ)に、

『極(きはめ)て、盜賊ならん。去れども、身に一錢の貯(たくはへ)なく、弊衣・竹刀(しなひ)、何をか爲(な)すらん。』

と思へども、女一人のことなれば、爲(なす)べきやうもなく、 唯、かなしみ憂(うれへ)て、獨り、音づれを待暮(まちくら)しぬ。

 醫者は、側(かたは)らより、駕の牖(まど)[やぶちゃん注:連子(れんじ)窓。格子窓。]を、堅く、塞(ふさぎ)て、内より窺ふこと、能はざれば、何づくへ往(ゆく)とも知らざれど、高下迂曲(かうげうきよく)[やぶちゃん注:上下にわざと揺らして遠回りすること。]せるほど、凡(およそ)十餘町も有るらんと覺しく、

『何方(いづかた)につれ行くか。』

と、案じ悶(もだへ)たるが、程なく、駕を止めたると覺しきに、傍人、曰く、

「爰(ここ)にて候。出(いで)たまへ。」

迚(とて)、戶を開きたるゆゑ、見たるに、大造(たいさう)なる家作の玄關に、駕を橫たへたり。

 醫、案外なれば、還(かへつ)て駭(おどろ)きたれども、爲方(せんかた)なく出たるに、その左右より、内の方にも、數人(すにん)幷居(ならびゐ)て、案内(あない)の人と行(ゆく)ほどに、幾間(いくま)も通りて、書院と覺しき處にて、

「爰に待(まち)ゐられよ。」

と、その人は、退入(のきいり)たり。

 夫(それ)より、孤坐(こざ)してゐるに、良(やや)久(ひさしく)ありても、人、來らず。

『何(い)かに。』

と思ふに、人聲(ひとごゑ)も聞こへざる處ゆゑ、

『若(もし)や、何(いか)なる憂きめにや、遇ふらん。』

と思ふに、向(むかふ)より、七、八歲も有らんと覺しき小兒(しやうに)、茶臺を捧(ささげ)て來(きた)る。

 近寄りて見れば、未だ坊主あたまなるに、額に、眼(まなこ)、一つ、あり。

 醫、胸、とゞろき、

『果して、此所は化物屋鋪(やしき)ならん。』

と思ふ中(うち)、この怪も入りて、また長(た)け、七、八尺も有らん大(だい)の總角(あげまき)の、美服なる羽織・袴を着、烟草盂(たばこぼん)を目八分(ぶ)んに持來(もちきた)る。

[やぶちゃん注:「目八分」物を差し出す際、両手で目の高さより少し低くして捧げ持つこと。ここでは大男だから、物理的にはそうなるのであるが、この言いは、通常、「傲慢な態度で人に接する・ 人を見下す」の意が含まれ、ここもそれを狙っている。]

 醫、愈々、怖れ、

『怪窟(くわいくつ)、はや、脫する所あらじ。逃出(にげいで)んとするも、行く先を知らず。兎(と)や爲(せ)ん、角(かく)やせん、』

と、思𢌞(おもひめぐ)らすに、遙(はるか)に向(むかふ)を見れば、容顏端麗なる婦(ふ)の、神仙と覺しく、十二ひとへに緋袴(ひばかま)きて、

「すらりすらり」

と過(すぐ)る體(てい)、醫、心に、

『是れ、此家の妖王(えうわう)ならん。然れども、かれ、近依らざれば、一時の難は免れたり。』

と思ふ間(あひだ)に、程なくして、一人、繼上下(つぎかみしも)を着たる人、出來て、

「御待遠(おまちどほ)なるべし、いざ、案内申すべし。」

と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「繼上下」肩衣と袴を、それぞれ、別の生地で仕立てた江戸時代の武士の略儀の公服。元文(一七三六年~一七四一年)末頃から平日の登城にも着用した(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 醫、こはごは、從行(したがひゆく)に、又、間(ま)かずありて、襖を障(へだ)て、人聲、喧(かまびす)し。

 人、云(いはく)、

「これ、病者の臥所(ふしど)なり。」

とて、襖を開きたれば、その内には、酒宴の體(てい)にて、諸客群飮して、獻酬、頻(しきり)なり。

 醫、こゝに到ると、一客の曰、

「初見の人、いざ、一盃を呈せん。」

迚(とて)、醫に、さす。

 醫も仰天して固辭するを、又、餘人、寄(より)て强勸(がうくわん)す。

 醫、辭すること能はず、乃(すなはち)、酒盃を受く。

 時に妓樂(ぎがく)、坐に滿(みち)て、弦歌、涌(わく)が如く、俳優、周旋して、舞曲、眼(まなこ)に遮る。

 醫生も、岩木(いはき)に非ざれば、稍(やや)、歡情を生じ、相俱(あひとも)に傾承(かたむけうけ)、時を移し、遂に、酩酊沈睡して坐に臥す。

 夫(それ)より、醫の宅には、夫(をつと)のことを思へども、甲斐なければ、寡坐(かざ)して夜闌(よふけ)に到れども、消息、なし。

『定(さだめ)し、賊害に遭(あひ)たらん。』

と、寐(いね)もやらで居(をり)たるに、鷄聲狗吠(けいせいくはい)、曉を報ずる頃、戶を敲く者、あり。

 妻、あやしみて、立出たるに、赤鬼・靑鬼と、駕を舁(かい)て立てり。

 妻、大(おほき)に駭(おどろ)き、卽(すなはち)、魂(たま)も消(きえ)んとせしが、命は惜)をし)ければ、内に逃入(にげい)りたり。

 されども、流石(さすが)、夫のことの捨(すて)がたく、暫しして、戶隙(とすき)より覘(うかがひ)たるに、鬼はゝや亡去(うせさり)て、駕のみ、在り。

 又、先の藥箱も、故(もと)の如く、屋中(をくうち)に入れ置(おき)たり。

 夜もはや、東方(とうはう)白(びやく)に及べば、立寄(たちより)て、駕を開(あけ)たるに、夫は丸裸にて、身には褌(ふんどし)あるのみ。

 妻、

『死せり。』

と伺ふに、熟睡して、鼾息(いびき)、雷(かみなり)の如し。

 妻は、あきれて、曰、

「『地獄に墜(おち)たるか』と爲(な)れば、左(さ)もなく、『盜難に遭(あひ)たるか』と爲れば、醺氣(くんき)、甚し。『狐狸に欺れたるか』と爲れば、傍(かたはら)に大なる包(つつみ)あり。」

 發(ひらき)て見れば、始め、着ゐたりし弊衣の外に、新衣をうち襲(かさね)て、襦袢・紙入れ等迄、皆、具して有りたり。

 然れども、夫の醉(ゑひ)、覺(さめ)ざれば、姑(しばら)く扶(たすけ)いれ、明朝、やゝ醒(さめ)たるゆゑ、妻、事の次第を問(とふ)に、有(あり)し如く語れり。

 妻も亦、その後(あと)のことを語り合(あひ)て、相互に不審、晴れず。

 この事、遂に、近邊の傳話(つたへばなし)となり、誰(たれ)知らざる者も無きほどなりしが、誰(たれ)云(いふ)ともなく、

「是は、松平南海の徒然(つれづれ)を慰めらるゝの戲(たはむれ)にして、斯(かく)ぞ爲(せ)られし。」

と、なん。

 この時、彼(かの)老侯の居られし莊(さう)は、大崎とか云(いひ)て、高輪(たかなは)、遠からざる所なる故(ゆゑ)なり。

 又、一目の童子は、その頃、彼(か)の封邑(ふういふ)雲州にて產せし片(かた)わなる小兒なりし、と。

 又、八尺の總角は、世に傳へたる「釋迦ヶ嶽」と云(いひ)し角力人(すまふにん)にて、亦、領邑(りやういふ)に出(いで)し力士なり。

 又、神仙と覺しき婦は、「瀨川菊之丞」と呼(よび)し俳優にして、その頃、侯の目をかけられし者なりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「松平南海」出雲国松江藩六代藩主松平宗衍(むねのぶ 享保一四(一七二九)年~天明二(一七八二)年)が隠居(明和四(一七六七)年十一月に財政窮乏の責任を取って、次男治郷(不昧)に家督を譲った。隠居時は四十三歳)後、十年程して名乗った法号。当該ウィキによれば、『隠居してからの宗衍は奇行を繰り返したため、以下のように奇行にまつわる逸話が多い』とし、『家臣に命じて』、『色白の美しい肌の女を連れて来させては、その女性の背中に花模様の刺青を彫らせて薄い白色の着物を着せた。着物からうっすらと透けて浮き上がってくる背中の刺青を見て喜んだといわれる。刺青を入れられた女性は「文身(いれずみ)侍女」と呼ばれて江戸の評判になったが、年をとって肌が弛んでくると宗衍は興味を失い、この侍女を家臣に与えようとした。しかし誰も応じず、仕方なく』一千『両を与えるからと』命じても、『誰も応じなかったという』。『江戸の赤坂にある藩邸の一室に、天井から襖まで』、『妖怪や』、『お化けの絵を描いた化け物部屋を造り、暑い夏の日は一日中そこにいた。見聞集』「江戸塵拾」や「当代江戸百化物」でも、奇癖の持ち主として『「雲州松江の藩主松平出羽守」の名前が挙がっている』。『参会者が全員、裸で茶を飲む裸茶会を開催している』。「赤蝦夷風説考」『などの著書で知られる医師』で『経世家(経済学者)であ』った『工藤平助』(私の好きな只野真葛の父)『との交流の話が残る』とあり、無論、本篇も、『松平南海が退屈を紛らわすために長身力士の釋迦ヶ嶽雲右エ門を化物に扮装させて、芝高輪(現・高輪)の貧乏医者をからかった旨の記述がある』と記す。

「彼老侯の居られし莊は、大崎とか云て、高輪、遠からざる所なる故なり」サイト「江戸マップ」の「江戸切絵図」の「芝高輪辺絵図」を見られたい。左端の方に「大崎村」の表示があり、そのすぐ下方に「松平出羽守」とあるのが、それ。ここの北は現在の品川区立御殿山小学校の一部で、その東北直近が現在の高輪であるから、南海の屋敷から最大でも三キロと離れていないものと思われる。というか、「高下迂曲」という表現から見ると、この医師の家は、案外、ごく近くだったのではないかと私は考えている。

「一目の童子は、その頃、彼の封邑雲州にて產せし片わなる小兒なりし」サイクロプス症候群(単眼症)の子どもであるが、同症候群は、脳の形成異常を伴う重症の奇形で、殆んどが死産、若しくは、出生直後に死亡し、長くても一年以内に死亡するようである。手塚治虫の「ブラック・ジャック」の「魔女裁判」で単眼症の少年が登場するが、ああいうことは一寸考え難い気がする。

『「釋迦ヶ嶽」と云し角力人にて、亦、領邑に出し力士なり』釋迦が嶽雲右衞門(寛延二(一七四九)年~安永四(一七七五)年)は出雲国能義郡(現在の島根県安来市)生まれ。当該ウィキによれば、身長二メートル二十六センチメートル、体重百七十二キログラムで、『江戸相撲では並外れた超大型の力士で』、『実力も高いことで知られている。しかし従来から病人であるためか』、『顔色が悪く、眼の中が澱んでいたという』。現役中の二十七歳で若死にしているが、『釈迦の命日と同じであり、四股名と併せて奇妙な巡り合わせと評判になった』。なお、安永二(一七七三)年には、『後桜町天皇から召されて関白殿上人らの居並ぶ中で拝謁して土俵入りを披露し、褒美として天皇の冠に附ける緒』二『本が与えられた。それは聞いた主君の出羽守(松平治郷)』(松平不昧。第十代松江藩主)『から召されて』、二『本の緒を目にした出羽守は驚きつつ喜び、側近に申し付けて小さな神棚を設けて緒を祀った。釋迦ヶ嶽が死去した時、神棚が激しい音を立てて揺れたため、出羽守は気味悪く思って出雲大社に奉納したと伝わっている』とある。

「瀨川菊之丞」三代目瀬川菊之丞(宝暦元(一七五一)年~文化七(一八一〇)年)化政期に活躍した女形の歌舞伎役者。瀬川富三郎として安永三(一七七四)年春の市村座での「二代目菊之丞一周忌追善」として「百千鳥娘道成寺」(ももちどりむすめどうじょうじ)を踊り、大評判となり、同年十一月の市村座の顔見世で三代目瀬川菊之丞を襲名している。「釋迦ヶ嶽」と「瀨川菊之丞」は、私の「只野真葛 むかしばなし (80)」でも記されてある。]

2023/12/20

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「縄池」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 縄池【なはいけ】 〔北国奇談巡杖記巻二〕越中国蓑谷山の絶頂にあり。その広さ三百七十間四方にして、漫水藍のごとく湛へたり。この池に神蛇住んで、毎年七月十五日の夜、容顔美麗の女体《によたい》とあらはれ、池上に一夜遊楽するとて、人を制して登山を禁ず。またこの池に不思議のことあり。むかしこの里の土民、豊作のねぎごと[やぶちゃん注:「祈(ね)ぎ事」。神仏に祈り願うこと。]ありて、村長《むらをさ》および古き老友など饗応せんとおもへども、家貧にして宴《うたげ》をなすべき器《うつは》もなく、ある日この池のほとりに彳(たたず)みて、ひとりごとしてつぶやきゐけるに、俄かに池波《いけなみ》動揺して、池上《ちじやう》に朱椀朱膳十人前浮き出たり。このものおもへらく、これこそ池主の感愍《かんびん》ありて、我に借《かし》たまへりと、厚く礼拝して、明後日まで貸したまはれ、この方《はう》の用事済み次第、返し奉るべしといひて、家路に荷ひこみて、その饗応をとゝのひ、かくてその約日に謝し返しけるに、ずるずると沈み失せたり。その後このこと村中に流布し、人々奇特に信をのべて、用要の時はこの池辺にその前日まうでて、明日は何人前貸したまはれと秘かに祈り、明《あく》る暁に行きてみるに、何ほどにても願ひ入れし数ほど、かならず浮出《うきいで》ありとなり。よて[やぶちゃん注:後掲する活字本もママ。「よりて・よつて」。]里人等、呼びて家具貸《かぐかし》の池とぞ号《なづ》けける。そののちひとりの朽尼《きうに》有りて、三人前かり入れ、十日ばかりも返さず。終《つっひ》に中椀《ちゆうわん》二ツを損ひて、不足のまゝに戻せしが、池浪《いけなみ》頻りに荒鳴《かうめい》し、大雨をふらし洪水を出《いだ》し、老婆[やぶちゃん注:「老尼」を指す。]が屋敷逆溢《げきいつ》に流れ、命もとられけるとぞ。そののち家具ををしみ、祈れどもたのめども出さずとなり。只をしむらくはこれ瑞品《ずいひん》なりけらし。今は蕀々《きよくきよく》と生茂《しやうも》して物すごく、深さは千尋《ちひろ》に及び、常に日影も至らず、梟《ふくろふ》松桂《まつかつら》の枝にかくれ、狐狼の臥戸(ふしど)となりて寂寞のところなり。

[やぶちゃん注:「北国奇談巡杖記」加賀の俳人鳥翠台北茎(ちょうすいだい ほっけい)著になる越前から越後を対象とした紀行見聞集。かの伴蒿蹊が序と校閲も担当しており、文化三(一八〇六)年十一月の書肆の跋がある(刊行は翌年)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第九巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字活字で読める。『卷之二』の『越中國之部』の内。標題は『○繩池』。後半部は柳田國男が好きな「椀貸伝説」の典型的例である(例えば、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』以下を見られたい)。

「縄池」南砺市北野にある「縄ヶ池」(「ひなたGPS」)。私は高校一年の春、一度だけ、所属していた「生物部」の採集を兼ねたハイキングで訪れたことがある。この池は、「縄ヶ池の龍神伝説」で知られる。サイト「いこまいけ南砺」の「縄が池姫神社」に、『約』千二百『年前に鎮守府将軍をしていた藤原秀郷(俵藤太)が近江国で』、「大むかで」を『退治したお礼に龍神から龍の子(姫)をもらいました。そして、この地に小さな池を』掘り、『龍神の子を放し、しめ縄を広く張り巡らしたところ、一夜にして大きな池となったと伝えられています』。『その時の龍の子が縄ヶ池の守り神になっと言われ、湖畔に小さな石の祠が建てられています。縄ヶ池は龍神の住む池のため、池に石を投げると祟りがあるといわれています』とある。ここは特にミズバショウの自生地としても有名である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鳴門の太鼓」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鳴門の太鼓【なるとのたいこ】 〔斉諧俗談巻三〕阿波国鳴門は、海上一の難所なり。相伝へて云ふ。後光厳院の御宇、康安元年の夏秋の間大地震して、七月廿四日に俄かに潮《うしほ》かわきて陸となる。このとき、鳴門の岩の上に周(まはり)二十尋ばかりの太皷《たいこ》見たり。※(どう)[やぶちゃん注:「※」=(へん:「鼓」-「支」)+(つくり:「桑」)。「どう」の読みは、底本ではカスレで判読出来ない。後に示す活字本と『ちくま文芸文庫』を採用した。太鼓の「胴」である。]は石にして、面《めん》は水牛の皮、巴《ともゑ》の紋を画《ゑが》き、銀の泡頭(びやう)をうつ。これを見る人、大きに怪しみおどろく。曾て試みにこれを打つに、大なる鐘本(しゆもく)を用《もつ》て、鐘を撞《つ》くがごとくす。しかるにその音、天にひゞき、山崩れ潮湧き出《いで》て、人民迯去《にげさ》りて、かの太鼓の行方を知らずと云ふ。また或書に云ふ。いつの頃にか有りけん。鳴門つよく鳴りて、近国その響音《きやうおん》雷《かみなり》のごとし。因《よつ》て都にて諸卿評議ありて、小野小町に勅諚《ちよくぢやう》ありて小町、淡路に下向して、鳴門に行きて一首の和歌を詠ず。[やぶちゃん注:以下の和歌は二字下げベタ二行だが、上・下句で分離し、字下げを施した。]

 ゑのこ穂がおのれと種を蒔置きて

      粟のなるとは誰か云ふらん

と読みければ、たちまち鳴動やみけるとなん。淡路国の行者《ぎやうじや》が嶽《たけ》の下なる所の海端《うみはた》に、小町岩と云ひて、岩の上に少し平《たひら》なる岩、海上へ望みてあり。この岩の上にて、小町哥を詠じて、水神を祭りし所と云へり。

[やぶちゃん注:「斉諧俗談」は「一目連」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(同書『目錄』の標題は『○鳴門太皷(なるとのたいこ)』)で当該部を正字で視認出来る。

「後光厳院の御宇」南北朝の北朝第四代天皇後光厳天皇(在位:観応三(一三五二)年~応安四(一三七一)年)。

「康安元年の夏秋の間大地震して、七月廿四日に俄かに潮かわきて陸となる」南海トラフ沿いの巨大地震と推定されている「正平地震」(しょうへいじしん)の一三六一年に発生した大地震。当該ウィキによれば、『この地震名の「正平」は南朝の元号から取ったものであり、北朝の元号である康安から取って康安地震(こうあんじしん)とも呼称され、多くの史料が北朝の年号で書かれているため』、『現在の日本史学の慣習に従って「康安地震」と称した方が良いとする意見がある』とある。正平一六/康安元年六月二十四日寅刻(ユリウス暦一三六一年七月二十六日午前四時頃、グレゴリオ暦換算同年八月三日)に、『畿内・熊野などで被害記録が残るような大地震が発生した』とあり、「太平記」巻第三十六の記事を引いて、『二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。』とあり、例によって引用元は、この「太平記」であることがバレバレである。『鳴戸では三四日前に海が干上がり、地震前後に数時間に亘って地鳴りが響き渡り、地震による地殻変動と思われる現象で再び没して海に戻った様子が比喩的に表現されている』とあることで、太鼓は「狂言回し」であることが判る。後半の小町のそれは、出所を調べる気にもならぬ。悪しからず。

「周(まはり)二十尋」一尋を五尺(一・五二メートル)とすると、胴回り三十・四メートルで、直径は約四十八センチメートルとなる。

「淡路国の行者が嶽」淡路島の南西端(兵庫県南あわじ市福良丙(ふくらへい))に、「行者ヶ嶽砲台」跡がある。

「小町岩」この海岸線のどこかか(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「中山家怪異」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 中山家怪異【なかやまけかいい】 〔閑窻自語〕延享二年、中山故大納言栄親《ひでちか》卿いしやの家にて、人の恠異《かいい》とて、朝よりゆふべまで調度の類《るゐ》うごき、また陶器などは、おのづから飛びて割れぬ。夜にいれば、怪しき事さらになし。かの祈禱などさせけれども、さらにしるしなし。その秋、栄親卿の室、俄かにうせられぬ。そのさとし[やぶちゃん注:「諭し」神託。]にやと、人いひあへり。およそ一月あまりまで、この怪しみありて、その後はかの怪異、鳥丸中立売《からすまなかだちうり》の毘沙門堂の里坊に移りしとぞ。そのあくるとし、中御門院皇女籌宮《かづのみや》、かの里坊にしばらくおはしませしに、弥生<三月>ばかりなりけるに、雛のあそびの人形とりならべてありけるに、そのひなども人のごとく笑ひけるにおどろかせ給ひて、院御所へ内々わたらせ給ひしと、或人の語りし。

[やぶちゃん注:「閑窻自語」(かんさうじご)は公卿柳原紀光(やなぎわらもとみつ 延享三(一七四六)年~寛政一二(一八〇〇)年)の随筆。権大納言光綱の子。初名は光房、出家して「暁寂」と号した。宝暦六(一七五六)年元服し、累進して安永四(一七七五)年、権大納言。順調な昇進を遂げたが、安永七年六月、事により、解官勅勘を被った。翌々月には許されたが、自ら官途を絶って、出仕することなく、亡父の遺志を継いで国史の編纂に力を尽くし、寛政一〇(一七九八)年まで前後二十二年間を要して「続史愚抄」禅全八十一冊を著した。国立国会図書館デジタルコレクションの『隨筆三十種』第五集(今泉定介・畠山健校訂編纂/明三〇(一八九七)年青山堂刊)で、ここから次のコマで視認出来る。

「中山故大納言栄親」中山栄親(宝永六(一七〇九)年~明和八(一七七一)年)は江戸中期の公卿。中山兼親の子。正二位・権大納言。享保一七(一七三二)年には、参議に任じられている。正室は勧修寺(かじゅうじ)高顕の娘。

「鳥丸中立売の毘沙門堂の里坊」とあるので、ここの西の大宮通から東にあったものであろうが、現存しないようである。

「中御門院皇女籌宮」中御門天皇の第五皇女成子内親王(籌宮 享保一四(一七二九)年~明和八(一七七一)年)で、閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひとしんのう 享保一八(一七三三)年~寛政六 (一七九四)年)の妃となった。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「中万字屋の幽霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 中万字屋の幽霊【なかまんじやのゆうれい[やぶちゃん注:底本では、「なかまんしや」っであるが、『ちくま文芸文庫』で濁音を採用した。]】 〔半日閑話巻十〕文化七庚午年旦畝(タンホ)中万字屋妓を葬る。[やぶちゃん注:改行は底本のママ。]

 十月末の事なり。この妓病気にて引込み居《ゐ》たりしを、遣り手[やぶちゃん注:遊里で遊女の監督・采配などをする年配の女。]仮初《かりそめ》なり[やぶちゃん注:実際の病気ではなく、いい加減な仮病だと断じたのである。]とて、折檻を加へしに、ある日小鍋に食を入れて煮て喰はんとせしを見咎め、その鍋を首にかけさせ、柱に縛り付けて置きしかば、終《つひ》に死《し》しけり。その幽霊首に小鍋をかけて廊下に出るよし、沙汰あり。

[やぶちゃん注:「半日閑話」「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題は『○中萬字屋の幽靈』である。

「文化七庚午年旦畝(タンホ)」一八一〇年。干支は正しいが、「旦畝(タンホ)」が判らない。「旦」は正月のことだろう。「畝」が判らない。「卯」は実は、上記活字本では、『印』となっているのだが、まあ「卯」であろう。同年一月の「卯」の日は一月十二日・二十四日の二日だけである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「中橋稲荷の霊験」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

       

 

 中橋稲荷の霊験【なかのばしいなりのれいげん】 〔思出草紙巻六〕享保十二丁未年四月、江戸小石川<東京都文京区内>石野何某が妻怪《くわい》有《ある》の事あり。その妻が里は官医阿部の娘にて、石野は再縁にして、今年の春に婚姻なしたり。その節より彼《かの》妻、自然に鬼女の形なるものあらはれて、かたはらを離るゝ事なし。依《よつ》て恐ろしともいふ計《ばか》りなし。召仕ひぬる女どもの目にも、鬼の形ちをりふし見えければ、暇《いとま》をこひて出《いづ》るもの多し。後には昼夜のへだてなく、異形《いぎやう》のもの、妻のかたはらを離るゝ事なし。この事を人に語り聞かすれども、誰々も誠の事とは思ひよらざりき。この前《さき》の妻も、かゝる異形のもの、常々附添ひたることつのりて、世をさりたるなるべしと恐ろしく、親里へ帰りて逗留の中、曾てこの事なく、小石川へ帰れば、また元のごとく異形のもの前にあつて、甚だ怒れる形総[やぶちゃん注:ママ。後に示す活字本でも同じ。「形相(ぎやうさう)」の誤記か。]、うるさくも恐ろしき事いふばかりなし。後々は妻も心地なやましくなつて、既に妖怪の為に命もたえだえにして、いかゞせんと思案なしたりしが、流石(さすが)に武士の家に居《をり》て、後《おく》れたるやうに恐れ迷はん事も賤《いや》しかるべし。如《し》かじ自害して、この苦しみをさらんにはとて覚悟を極め、あるとき納戸に閉ぢこもりて、守り刀を抜き持ちて、既に自害せんとせるを、乳《め》の女《をんな》その外四五人縫ひものして居たるに、その中に独りの女、針を捨て急に馳せ行き、納戸の襖蹴放《けはな》し、取付き留めて大いにさけびけるにぞ、残りたる女も大いにおどろき、はしり来り取留めたり。女が声《こゑ》気色《けしき》、常の風情にあらずして申しけるは、扨々あやふきかな、我今少しおそかりせば、大切のこの子に怪我あるべしと、言ふとそのまゝ引倒れ、正体なく寝入りたり。それより石野が妻に乗移り、気色かはりて見えければ、石野も大いにおどろき、先づ里ヘこの段言ひ遣はしたるに、舅の阿部来りて、いかゞせんと取かこみたり。阿部、娘に問うて曰く、汝いかなるものの取付けるぞ、この程《ほど》鬼形《きぎやう》の者ありて、目にさへぎりしと聞きしは、扨は汝が所為なるか、具さに申すべし。石野が妻答へて曰く、思ひ寄らざる御尋ねなり、夢々左様のものにあらず、我は代々の御屋敷中橋の鎮守たるおまん稲荷の神霊《しんれい》なり、かの鬼形のものは、石野家代々の霊気《れいき》なり、今にて妻たる人三人ほろびて、この息女四人目なり、いづれもその霊のなす業《わざ》なり、既に先刻あやふき所を、我れいたましく思うて、はしり来り救ひたり、この分にては霊気立《たち》さる事かたかるべし、我かくしてある内はおかす事叶ふべからず、然れどもこれにては本心にあらず、所詮この霊気の為に法華一七日《ひとなぬか》読誦あるべし、さあらば霊気も退散あらん。座中この事を聞きこれにしたがひ、丸山本妙寺の住僧を頼みて転読するに、石野の妻も衆僧と一同に経をよむ事流るゝ如し。さて一七日満《みつ》る日、妻の曰く、この功力《くりき》に依て悪霊も退散せり、我も放《はな》るにも別事あるべからず、最早帰るべし。石野おどろいて曰く、この程より取紛れて問ひ聞く事あたはず、今しばらく逗留あるべし、この礼も申したくと押とどめければ、妻の曰く、我は殊の外いそがし、先々(まづ《まづ》)立帰るべし、来ル五月十五日は王子稲荷<北区内>に参る間、その序《ついで》に立寄るべしとて、妻は玄関まで立出《たちいで》て打倒《うちたふ》れ、正体も無く寝入りけるが、暫くあつて目ざめて正気元のごとく、日頃に替る事なし。よつてみなみなこのほどの事尋ねるに、妻の曰く、曾て覚えなし、されども経の声などは、かすかに聞えたることあり。然るに物の気付《きづ》きたる日より、天女の形ちの神人《しんじん》、ならびに神童壱人衣冠して剣を帯して、一七日の中ありありと眼前に居まして宣ひけるは、我かくてある内は気遣はしき事なかれとの時に、鬼形はいづくともなく逃げ去りて、その形ちも見えず。依てかの神体有難く覚えて、毎度拝礼す。その衣冠の糸《いと》紋《もん》綾《あや》まで確かに覚えたりとの事ゆゑ、則ち狩野休真隆信を招きよせて、妻の直談に、かの趣を語りて、これを画像に書かせしなり。小松万亀といふもの、隆信の宅にてその下画《したゑ》を見たるに、吉祥天の如くにして、頂きに法華経の八之巻を戴き、法剣を帯したり。さてまたその後《のち》石野が妻事、何の悩みもなく、霊気も失せて、平生のごとく、翌月十五日、妻は総官《そうくわん》[やぶちゃん注:先の稲荷神であろう。]ありとて衣類などあらため著《ちやう》し居《をり》しに、昼になりて夢中のごとくなり、稲荷乗移りて見えければ、石野忽ち渇仰(かつごう)[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「かつがう」が正しい。]して、問《とひ》をなす事さまざまなりしが、妻は一々家来などの旧悪を演説して答へければ、奇異いふばかりなし。石野が曰く、家の宝につかまつるまゝ、何ぞ認《したた》めあたへよと所望なせしかば、紅《べに》を出《いだ》さしめて、常の筆の小《ちい》さきを点じて、妙法の二字を大字に書して、居(すゑいん[やぶちゃん注:ママ。])印と覚しきものあり。さながらはね題目[やぶちゃん注:日蓮宗の髭文字の「南無妙法蓮華經」のそれ。]の判に似たり。暫くあつて妻が曰く、最早われ立帰るべしとて相倒《あひたふ》れけるが[やぶちゃん注:この「相」は接頭語で、動詞に付いて、単に語勢や語調を整えるためのもの。妻と憑依した狐などと勘繰る必要はない。]、一寝入《ひとねいり》して本性になれり。その外奇特余多(あまた)ありとぞ。古来より神前に紅を捧ぐる事あるが故、紅にて書きし事なるべし。世に京橋中橋<中央区内>のおまん稲荷といふこれなり。阿部氏の町屋敷の鎮守たり。その頃は地面の奥にありしが、近年は表の木戸の際に鎮座なり。その横手の向うにおまん鮨《すし》といふ名物も、この名をかりけるなり。この談は飯田町中坂<千代田区内>の小松屋三右衛門といへる薬種商人《やくしゆあきんど》あり。その老父隠居して百鬼と号して、健やかの老人ありしが見聞せしとて物語りぬ。この百鬼は今はこの世の中になき人となれり。

[やぶちゃん注:「思出草紙」全十巻の奇談随筆。自序に『牛門西偶東隨舍誌』とあるが江戸牛込に住む以外の事績は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本随筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらから正字で視認出来る。標題は『○中橋稻荷靈驗の事』である。

「享保十二丁未年四月」この年は閏一月があったため、旧暦四月一日でグレゴリオ暦一七二七年五月二十一日相当である。

「中橋の鎮守たるおまん稲荷」本篇を抄録現代語で記したウィキの「おまん稲荷」によれば、現存しない。「中橋」も不詳。しかし、東京駅八重洲口側のここ(東京都中央区日本橋)に「於満稲荷神社」がある。本篇では、それが、「中橋稲荷」の後裔としているのだが、こちらの「於満」は実在する人物で、家康の側室で十男の初代紀州藩主徳川頼宣と、十一男の水戸初代藩主徳川頼房を生んだ家康の側室「お万の方」を祀っている神社である。ところが、「中央区観光協会特派員ブログ」の「於満稲荷」の解説板を見ると、『寛延年間(一七四八~五一)には於満稲荷ゆかりの「於満すし」が江戸中の名物にな』ったとあるし、宵曲は、この「於満稲荷」を確信犯で同一であるとしていることが判る。

「丸山本妙寺」現在は東京都豊島区巣鴨に移転している法華宗陣門流東京別院徳栄山総持院本妙寺(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、建立以降、いろいろと移転しているが、元和二(一六一六)年に『小石川(現在東京都文京区)へ移し、本堂、客殿、鐘楼を建立した』が、寛永一三(一六三六)年、『小石川の堂塔伽藍が全焼し』、『この時』、『幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷』五『丁目)へ移り』、『客殿、庫裡を建立した。立地条件も良く』、『明治の終わりまでの約』二百七十『年間はこの地をはなれなかったので』、『異称を「丸山様」といわれるようになった』。『本妙寺に行くに』『本妙寺坂を下って』行った『突き当りに総門があ』り、『寺の敷地は拝領地が』四千九百十坪』、『無年貢の』境内地が二百四十七『坪半』『と広く』、『この中に九間四面の本堂、客殿、書院、庫裡、鐘楼、塔頭の十二ヶ寺があった』。しかし、明暦三(一六五七)年一月十八日から二十日に発生した「明暦の大火」(振袖火事)で全焼した(『火元は本妙寺とされているが、様々な説があり』、『実際の火元は不明』である)。『これだけの大火の火元であるならば』、『当然』、『厳罰に処されるものと思われるが、本妙寺に対して一切お咎』(とがめ)『がなかったとされている』。さらに『大火後』、『多くの寺社が移転させられているにもかかわらず、本妙寺は移転されることもなく』、『数年後には元の場所で復興し、さらには「触頭」』(ふれがしら)『へと異例の昇格をしている。なぜお咎がなかったということに関しては』、『本妙寺火元引き受け説がでるものの、あくまでも推測の域を出ない』とあった。明治四一(一九〇八)年から三年がかりで』、『丸山本郷の地を去り、現在の豊島区巣鴨』『の地へ移転した』とある。また、『現在も本郷』四『丁目付近に「本妙寺坂」なる地名が残されている』とあった。ここ(グーグル・マップ・データ)である。

「王子稲荷」「北区内」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「狩野休真隆信」不詳。ウィキの「狩野派」の中にも、この名はない。

「小松万亀」不詳。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鳥の地獄」 / 「と」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

なお、本篇を以って、「と」の部は終わっている。]

 

 鳥の地獄【とりのじごく】 〔北国奇談巡杖記巻二〕同郡<越中国礪波郡>五箇《ごか》の庄《しやう》、林道といへる所に、聳峯《しようほう》あり、そくばね山といふ。この半腹に泉沢といへる池あり。常に酒の香ありて、落水清らに見ゆれども、毒泉にして空をかける翼、地をはしる蟲、生を失ふこと一日に幾千万に及べり。諸鳥上がうへにかさなり死して、臭気充満せり。故に鳥の地獄と呼ぶとぞ。たまたま木樵(きこり)などこの気にあたるもの、三時《みとき》[やぶちゃん注:六時間。]をまたず死すといへり。かゝるためしは、下野国那須の原<栃木県那須郡内>の殺生石のほとりにも有ることなれど、此所にはしかず。仮初にもあやまち山にのぼり玉ふなと、里人の語るを聞くも、身の毛のいよだちて恐ろし。また林道の跳松(はいまつ)[やぶちゃん注:「跳」はママ。以下に示す活字本でも同じ。]とて、数樹夜毎に生《しやう》を変へて、音頭囃子《おんどはやし》の声ありとぞ。加賀の麦水《ばくすい》老人もこの所に一夜あかして、この松声《しやうせい》を聞き侍ると、予<烏翠堂北坙>に語られける。

[やぶちゃん注:「北国奇談巡杖記」加賀の俳人鳥翠台北茎(ちょうすいだい ほっけい)著になる越前から越後を対象とした紀行見聞集。かの伴蒿蹊が序と校閲も担当しており、文化三(一八〇六)年十一月の書肆の跋がある(刊行は翌年)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第九巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字活字で読める。『卷之二』の『越中國之部』の巻頭から第四話目。標題は『○鳥の地獄』。なお、宵曲の最後の注では『烏翠堂北坙』とあるが、ネットで調べてみると、このようにも書いたようである。

「林道」富山県南砺市林道(りんどう:グーグル・マップ・データ)。現在の「五箇山」から北へ約六キロメートルの位置にある、れっきとした地名である。

「そくばね山」「つくばね山」のこと(「ひなたGPS」の右手の「国土地理院図」参照)。標高七百四十七メートル。

「泉沢」現在の南砺市城端の平野の中に「泉沢」(いずみざわ)の地名を見出せる。グーグル・マップ・データで同地区内に池らしきものを見出せるが、この中央のそれか(今一つの東北のそれは、ストリートビューで見たところ、池ではなく、田圃であった)。しかし、現在は、ストリートビューで見ると、コンクリートで固められた農業用の「ため池」である。だが、本文では、「そくばね山」の「半腹に泉沢といへる池あり」とあって、この記載が正しいとすれば、ここではない。地図を見直してみると、眼に入る池は、「つくばね山」の東にある南砺市北野の「縄ヶ池」(「ひなたGPS」)である。私は高校一年の春、一度だけ、所属していた「生物部」の生物採集を兼ねたハイキングで訪れたことがある。この池は、「縄ヶ池の龍神伝説」で知られる。サイト「いこまいけ南砺」の「縄が池姫神社」に、『約』千二百『年前に鎮守府将軍をしていた藤原秀郷(俵藤太)が近江国で』、「大むかで」を『退治したお礼に龍神から龍の子(姫)をもらいました。そして、この地に小さな池を』掘り、『龍神の子を放し、しめ縄を広く張り巡らしたところ、一夜にして大きな池となったと伝えられています』。『その時の龍の子が縄ヶ池の守り神になっと言われ、湖畔に小さな石の祠が建てられています。縄ヶ池は龍神の住む池のため、池に石を投げると祟りがあるといわれています』とある。ここは特にミズバショウの自生地としても有名である。取り敢えず、ここを候補としておこうと思ったのだが、実は、底本のこの後に、「縄池」(なわいけ)が出、それは、同じ「北国奇談巡杖記」からの引用であるから、原著者が間違える可能性は零と考えてよく、そちらは明らかに「縄ヶ池」あるから、以上の私の説は無効となった。そこで、仕切り直して、「ひなたGPS」を、再度、見直してみると、林道の山入りする附近に、「♨」マークが戦前の地図に二ヶ所、現在の国土地理院図でも一ヶ所見出すことが出来ることに気づいた。仮に、ここが硫黄泉であるとするなら、「鳥の地獄」のニュアンスが現実味を持ってくると期待したが、残念乍ら、遊離二酸化炭素、及び、単純二酸化炭素冷鉱泉であった。これでは、鳥は死なない。やっぱり、ダメだった。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「富札一枚」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 富札一枚【とみふだいちまい】 けころは賤妓〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻二〕これは近き頃の事なり。下谷広小路<東京都台東区内>辺に茶屋を出し、情を商ふかのけころ家(や)へ、加賀の足軽体《てい》の男来りて、けころを買ひ遊び帰りけるが、鼻紙差《はなかみさし》[やぶちゃん注:鼻紙入れであるが、財布と兼用した。]を落し置きぬ。追駈けて見しに、最早影見えねば、またこそ来り給はんとて、中を改め見れば何もなく、谷中<台東区内>感応寺の富札一枚有りければ、親方へ預け置きけるが、その後足軽来らず。尋ぬべきにも名を知らねば詮方なく、右富札は捨置くも如何なり、富の定日には感応寺へ至りみんとて、その日かの富札を持ちて谷中へ至りけるに、不思議にも右札一の富に当りて、金子百両程受取りぬ。さるにても右足軽を尋ねみんと、加賀の屋敷、分家出雲守・備後守屋敷などをもよりもより聞き侍れど、元より空《くう》をつかむ事なれば、知るべきやうもなく、誠に感応寺の仏の加護ならんと、右門前へかの金子を元手として酒廓《さかみせ》を出し、未だ妻やなかりけん、右のけころを妻として、今は相応に暮しけると、感応寺の院代を勤めぬる谷中大念寺といへる僧の語りぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之二 賤妓家福を得し事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「飛物」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 飛物【とびもの】 〔反古のうらがき巻一〕四ツ谷裏町<東京都新宿区内>の与力某打寄りて、棊《ご》を打ちけるが、夜深けて各〻家に帰るとて立出しに、一声がんといひて光り物飛び出で、連立ちし某《なにがし》がながしもとあたりと思ふ所へ落ちたり[やぶちゃん注:「と云ふ」が欲しい。]。直《ただち》に打運れて其所に至り、挑燈振りてらして尋ねけるに、何もなし。明《あく》る朝主人立出て見るに、流し元のうごもてる土の内に、ひもの付きたる真鍮の大鈴一ツ打込みてあり。神前などにかけたる物と覚えて、ふるびも付きたり。かゝる物の此所に打捨て有るべき道理もなければ、定めて夜前の光り物はこれなるべしと云へり。この大鈴何故光りを放して飛び来けるや、その訳解しがたし。天保初年の事なり。この二十年ばかり前、十月の頃、八ツ時<午後二時>頃なるに、晴天に少し薄雲ありて、余<鈴木桃野>が家より少々西によりて、南より北に向ひて、遠雷の声鳴渡りけり。時ならぬこととばかり思ひて止みぬ。一二日ありて聞くに、早稲田と榎町<共に新宿区内>との間、とゞめきといふ所に町医師ありて、その玄関前に二尺に一尺ばかりの玄蕃石の如き切り石落ちて二つに割れたり。焼石と見えて余程あたゝかなり。其所にては響《ひびき》も厲《はげ》しかりしよし。浅尾大嶽その頃そのわたりに住居して、親しく見たりとて余に語る。これも何の故といふことをしる者なかりし。後に考ふるに、南の遠国にて山焼《やけ》ありて吹上げたる者なるべし。切石といふも方直に切りたる石にてはなく、へげたる物なるべし。

[やぶちゃん注:私の二〇一八年の「反古のうらがき 卷之一 飛物」を参照されたい。また、今年の三月、『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その8)』の「トビモノ」の私の注で、何を思ったものか、この「飛物」と、後に出る「白昼の飛び物」をピック・アップして電子化している。本「随筆辞典 奇談異聞篇」の電子化注は二〇二三年八月十日始動であり、当時は、この全電子化注をする気は、さらさら無かった。というより、この本をその時、眼につく箇所に置いたのが、五ヶ月後の契機となったような記憶はある。]

2023/12/19

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鳶と蛇」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鳶と蛇【とびとへび】 〔甲子夜話巻廿一〕当三月のこととぞ。大城大手の石垣にて、蛇の石垣の間より出たるを、鳶挈(とら)んとす[やぶちゃん注:「挈」は「ひっ提げる」の意。]。蛇は鳶を吞《の》まんとす。鳶飛べば蛇逐ふこと能はず、蛇石間《いしのあひだ》に入れば鳶取ること能はず。かくすること良《やや》久《ひさしく》なりしを、如何かにしてか、鳶遂に蛇にとられて石間に引入れらる。立《たつ》てこれを見るもの殊に多し。然るにやゝ引込《ひきこ》んで後は、その体《たい》纔《わづか》ばかりになりたり。人愈〻見居《みゐ》たる中《うち》にその身を没しぬ。この時衆人同音にやあゝと云ひたり。その声下御勘定所に聞えて、皆々驚き、何の声なるやとて出《いで》て、この事を聞き知りぬと云ふ。予<松浦静山>嘗て登城せしとき、鍮鉐御門(ちゆうじやく《ごもん》)を入らんとするに、数人立停り仰ぎ見る体《てい》ゆゑ、予も見たれば、石垣の間より蛇出《いで》ゐたり。その腹の回り九寸余とも覚《おぼ》しかりし。されども高き所を遠目に見れば、実はいまだ大きく有りけん。且つその首尾《しゆび》は石間に入りて見えず。卑賤の諸人は止りて見ゐたれど、予は立留るべくもあらざれば、看過《みすぎ》て行きぬ。大手の蛇もこの類《るゐ》なるべし。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷二十一 10 大城の大手にて、蛇、鳶をとる事」を注を附して公開しておいたので、必ず、参照されたい。宵曲の引用は微妙に異同があるからである。

フライング単発 甲子夜話卷二十一 10 大城の大手にて、蛇、鳶をとる事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。「東洋文庫版」では、標題を『大城(だいじやう)の大手にて蛇、鳶をとる事』となっているが、以上のように蛇の前に読点を追加した。]

 

21―10 大城(だいじやう)の大手にて、蛇、鳶をとる事

 當三月のこと、とぞ。

 大城[やぶちゃん注:江戸城。]大手(おほて)の石垣にて、蛇の石垣の間(あひだ)より出(いで)たるを、鳶、挈(とら)んとす[やぶちゃん注:「挈」は「ひっ提げる」の意。]。

 蛇は鳶を吞(の)まんとす。

 鳶、飛べば、蛇、逐ふこと能はず。

 蛇、石間(いしのあひだ)に入れば、鳶、取ること、能はず。

 かくすること、良(やや)久(ひさしく)なりしを、何(い)かにしてか、鳶、遂に蛇にとられて、石間に引入れらる。

 立(たつ)て、これを見るもの、殊に多し。

 然るに、やゝ引込(ひきこま)れて後(のち)は、その體(たい)、纔(わづか)ばかりになりたり。

 人、愈(いよいよ)見ゐたる中(うち)に、その身を、沒しぬ。

 このとき、衆人、同音に、

「やあゝ。」

と云(いひ)たり。

 その聲、下御勘定所(しもごかんぢやうしよ)に聞えて、皆々、驚き、

「何の聲なるや。」

とて、出(いで)て、この事を聞知(ききし)りぬ、と云ふ。

 予、嘗て登城せしとき、鍮鉐御門(あかがねごもん)を入らんとするに、數人(すにん)、立停(たちどま)り、仰ぎ見る體(てい)ゆゑ、予も見たれば、石垣の間より、蛇、出(いで)ゐたり。

 その腹の囘(まは)り、九寸餘とも覺(おぼ)しかりし。

 されども、高き所を遠目(とほめ)に見れば、實(じつ)は、いまだ、大(ほき)く有(あり)けん。

 且(かつ)、その首尾(しゆび)は石間に入りて、見へず[やぶちゃん注:ママ。]。卑賤の諸人は、止りて見ゐたれど、予は、立留(たちどま)るべくもあらざれば、看過(かんか)して行きぬ。

 大手の蛇も、此(この)類(るゐ)なるべし。

■やぶちゃんの呟き

「當三月」前後の話柄を見ても、時制を確定出来ない。

「下御勘定所」 江戸幕府勝手方勘定奉行の執務する勘定所は、城内と、大手門番所裏の二ヶ所にあって、前者を「御殿勘定所」、後者を「下勘定所」、または「御番役御勘定所」と呼んだ。「大手門」(グーグル・マップ・データ)の入った番所のとっつきの西に面してあったようである。

「鍮鉐御門(あかがねごもん)」の読みは、底本である「東洋文庫」版の編者は振ったルビを参考にした。但し、柴田宵曲の「随筆辞典 奇談異聞篇」では、「鍮鉐」に『ちゆうじやく』と振る。さて、この門はどこか? これは、syusai123氏のブログの「御朱印帳アートお城編 江戸城」を見られたい。復元された江戸城の美しいイラストが示されてある。それによれば、「大手門」を入り、「三の丸」を通り抜けると、「二の丸下乗門(三之門)」という複雑な門を抜け、次いで「中ノ門」となり、ここからは大名のみが入ることを許されるとある。その「中ノ門」を入り、左手の坂を登ると、本丸正門に「本丸御書院門」、別名を「中雀門」(ちゅうじゃくもん)というのだそうである。これが、静山の記した「鍮鉐御門」である。syusai123氏によれば、『桝形に二重櫓門を二つ持つ、最高格式の門でした』とあり、『本丸御殿への坂道途中にある』ため、『桝形内にも雁木が設けられ、門扉には真鍮が貼られ』てあり、そこから、『鍮石門と呼ばれ、黄金色に輝いていました。通常の城門は防御力増加のため、門扉に鉄板を貼』『った鉄門(くろがねもん)か、鉄板を筋状に貼った筋鉄門としていますが、最高格式のこの門は、黄金色の真鍮貼りとしていました。鍮石(ちゅうじゃく)の当て字として、「中雀」を使用されることも有りました。徳川の城では、格式有る建物の瓦』『に』は、『銅瓦が使用されることが有り(江戸城寛永天守・駿府城・名古屋城・二条城など)、文献には無いのですが、敢えて銅瓦で復元しました』とあって、『この門の向こうに見えているのが、本丸御殿です。玄関側から「表」「中奥」「大奥」と別れ、その向こうは北桔橋(はねばし)門、大奥の左に天守が有りました』とあった。静山がどう呼んでいたかは、最早、今では判らない。

「その腹の囘り、九寸餘とも覺しかりし」円周が二十七センチメートル超なると、体を伸ばせば、四メートルにもなんなんとする驚くべき大蛇である。遠見でのそれであるから、まず、三メートル程度に割り引いてよいだろう。而して、本邦で三メートル超えの蛇は、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora 以外には考えられない。当該ウィキによれば、アオダイショウは『樹上に上るときには』、『枝や幹に巻きついて登っていくのではなく、腹板の両端には強い側稜(キール)があり、これを幹や枝に引っかけることでそのまま垂直に登ることができ、樹上を移動する』。『壁をよじ登ることもでき、その習性が他のヘビがいなくなった都市部でも、本種が生息できる原動力となっている』。『食性は肉食で、主に鳥類や』、『その卵、哺乳類を食べる』。『噛み付いて捕らえた獲物に身体を巻き付けて、ゆっくり締め付ける』とあった。但し、逆にアオダイショウの『天敵はイヌワシ』(☜)、『タヌキ、キツネ、イノシシなどで、幼蛇は』、『ノネコやカラス』(☜)、『シマヘビなども天敵となる』ともある。而して、:   鳥綱タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans も、当該ウィキを見ると、捕食対象に蛇が挙がっている。