[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、続き物で連続なので、カップリングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナの読みは静山自身が附したもので、珍しく多く振っている。]
55―1 墓磨(ハカミガキ)の妖事
或人の文通に、此節、處々、寺院の暮石を磨くこと、種々(しゆじゆ)、雜說、多し。是も、追々、聞き給ふならん。「夜話」に書き入らるべきのこと也。
一昨年、西國風變、大阪邪宗門、越後地震。去年、江戶大火。今年は京都地震。數般(すはん)の異事を唱ふること、引(ひき)もきらず。
是等、既に册中に戴られたり。かゝる種々の異、竝び至るは、拙夫、この老年まで、一度も遇はざることなり。
又頃日(このごろ)、紀海(きのうみ)に、潮(うしほ)さしたるのみにて、引くこと、無し、と云(いふ)。
阿波の國民(くにたみ)、一男を產せしが、生れながらにして、能く言語し、けしからぬことを云ひて死したり抔(など)、其外、世間の風聞、數般、囂(かまびす)しきことども也。
江都(えど)築地門跡には、蕎麥、一本、生じて、其尺(タケ)、一丈を超したりしに、友人、その枝を見たりしが、凡(およそ)、四尺を越(こし)しとぞ。
又、墓磨は、虛事(そらごと)にあらず。
予が莊(さう)の北東なる、近所、福嚴寺の墓も、昨夜、磨きたりと、聞くゆゑ、人を遣はし、視(み)せしむるに、返(かへり)て、曰(い)ふ。
「その磨きし痕は、砥石などにてすりたるにもなく、さゝら抔にて、磨きたる體(てい)なり。
銘に朱を入れたりと云(いふ)も、紅がらの如き赤き物を施せり。其寺に土牆(つちかべ)を門の如く高く築揚(つきあ)げ、その上に藥師の石像を安置せし、その面(おもて)をも、洗ひたり、と覺(おぼ)しく、磨(みがき)て見へ[やぶちゃん注:ママ。]、口には、赤色を塗りたり。
この門牆(もんかべ)、容易に人の上り難きに、いかさま、妖物(えうぶつ)の所爲か、又は惡少(ワルモノ)等(など)が爲す所か。
人にもせよ、化物にもせよ、何れか爲(ス)るならん。
群墓の中(うち)、向(むかひ)の墓を磨かんとて、爲(セ)しなるべく、その前の墓を推朴(おしたふ)して、又、大なる墓石に觸(ふる)れば、大なる方、二つに割損(われそん)じて有りし、と。
是等は、遣したる者の目擊語(がたり)。
又、或人、曰(いはく)、
「何れの寺か、某侯の墓、在(あり)しを、これも、その面を磨き、遂に、兆域(ハカマハリ)の石籬(ヰガキ)を引壞(ヒキクズシ)したり。」
と。
又、十月八日に、東漸院にて聞(きき)しは、
「上野の山内(さんない)にも、此事ありて、護國院の墓所も磨きたり。因(よつ)て、寺社奉行より、嚴しく、申付ありて、以來、『このこと、有らば、卽時に申達(まうしたつ)すべし。』との令(れい)なり。」
と。
又、或者、云(いふ)。
「この近鄕にて、墓磨を心づけゐしに、或夜、白衣(びやくえ)僧形(そうぎやう)なる男女(なんによ)二人、來(きた)り、磨くゆゑ、捕へんと爲(せ)しが、顧(かへりみ)て、疾視(ニラミ)たる眼(まなこ)、懼(おそろ)しかりければ、其人、退(しりぞ)きたる間に、彼(かの)二人を、見失(みうしなひ)し。」
と。
附會の說か、否(いな)。
■やぶちゃんの呟き
「一昨年、西國風變、大阪邪宗門、越後地震。去年、江戶大火。今年は京都地震」「西國風變、大阪邪宗門、越後地震」の「西國風變」文政一一(一八二八)年八月に、主に西国で広範囲に発生した台風と、それに伴う洪水災害を指す私の。『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「文政十一年戊子の秋、西國大風洪水幷に越後大地震の風說」』を見られたい。「大阪邪宗門」は文政十年に京坂で切支丹を信仰する人々の存在が発覚、追々、詮議が行われれ、結果、文政十二年十二月に処罰された事件の展開のピークを言う。「越後地震」は三条地震」或いは「越後三条地震」「文政三条地震」とも呼ぶ。文政十一年十一月十二日(一八二八年十二月十八日)、現在の新潟県三条市芹山附近を震央とし、マグニチュードは六・九と推定されている(同前リンク先参照のこと)。「江戶大火」は「文政の大火」(神田佐久間町の火事)のこと。文政十二年三月二十一日(一八二九年四月二十四日)発生。死者約二千八百名。焼失家屋三十七万戸。「京都地震」は文政十三年七月二日(一八三〇年八月十九日に発生した直下型地震で、京都市街を中心に大きな被害を出した。マグニチュード六・五前後とされ、町方だけで負傷者千三百人、即死二百八十人とされる(御所・武士のデータは不明)。私の『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「文政十三年庚寅秋七月二日京都地震之事」』等を参照されたい。
「東漸院」寛永寺の子院。現在はここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。
「護國院」同前。ここ。
55―2 墓磨の再話
後(のち)、十月十日、增上寺に詣(まゐり)たれば、宿坊雲晴院にして、
「御寺にも、此こと、ありや。」
と問ふに、住持、答ふ。
「未だ無けれども、近頃、何院にか有りし迚(とて)、人、群集せしが、是は、檀家より磨き來れる墓を、取違(とりちが)へたり、と。されども、寺社奉行よりは、『若(も)し、密かに磨く者あらば、指置(さしお)かず、召捕(めしとら)ふべし。』との嚴令なり。」
住持、又、曰、
「聞く、このこと、豫州より初(はじま)りて、東海道を經(へ)たるが、田舍のことゆゑ、さ程にも有らざりしに、武・常・總・野州のあたりより、沙汰、廣くなりて、遂に御府内(みふない)には、入(はい)りたり。」
と【されば、「『御蔭參り』は、阿州より起れり。」と聞けば、是等のこと、皆、四國よりぞ、基(もと)ひ[やぶちゃん注:ママ。]せし。】。
又、曰。
「某佛師、來りて云(いふ)には、
『新堀(にいほり)なる某社(ぼうやしろ)の祠前(ほこらのまへ)に置(おき)たる兩狐の石像を、これも、磨きたり。されば、墓石にも限らず。』
と。又、何れよりか聞(きき)たる、侍婢(じひ)等が話(はなさ)れるは、
『或所にて、夫婦連(づれ)にて墓參せしに、一夫(いつぷ)の、前立(さきだ)つて、其人の先墓(せんぼ)を磨く、あり。夫婦、「これは、我等が方(はう)の墓なり。磨くに及ばず。」と云(いひ)たれば、其人、顧(かへりみ)て、「我(われ)、磨く、奚(なん)ぞ、汝等(なんぢら)が構(かま)ひ有らん。」と答(こたへ)たるゆゑ、夫婦も恚(いかり)て、又々、咎めたれば、其まゝ、其夫(ふ)の姿、消(きえ)うせたり。夫婦、驚き、急ぎ、我家に歸りたるに、あとに居(をり)し七歲なる女子(をんなご)の、成婦(せいふ)の如く、眉を剃り、齒を染(そめ)てありたるゆゑ、又、驚(おどろき)て、その齒を磨き、おとせども、白からず。されば、「彼(か)の妖物の愈(たちまち)、この如き返報や、せし。」と、愈々、恐怖して、爲(せ)ん方を知らざりし。』
と。」
是等は、人の附言せし者乎。
前に記せし「石狐」のことは、聞(きき)誤りか。鼎(けい)が話せしは、新堀の寺に、祠にか、屋上の四隅に、置(おき)し狐形(きつねがた)を、三疋は洗磨(あらひみがき)せしが、何にしたるや、一疋は故(もと)のまゝなるに、その左眼には、丹(に)をいれ、右には金(きん)をいれし。」
と。
「急(いそぎ)て、過(あやまち)たるか。」
と、人、皆、笑ひし。
人の話には、推量、又は、相違も多けれど、目(ま)の當りなるは、予が醫師嵐山某と云(いふ)が寺は、法音寺橋の邊(ほと)り、永隆寺【法華。】と云(いふ)なるが、此一族の墓、在(あ)るを、皆、磨きたり。其中(そのなか)、某(なにがし)が幼女、近頃、沒せしが墓あるは、新墓のことゆゑ、銘には、墨を濃(コク)いれたりしを、是等は素(シロ)く、石色(いしいろ)のまゝに、驚くばかりに磨きなしたり、と。
さすれば、是は直語(なほきこと)、正(マサ)しきこと也。
又、鼎が云ふ。
「我が門人に某と云(いふ)は、御代官の「手付(てつき)」、「八州廻(はつしうマハリ)」と云(いふ)勤(つとめ)にて、この役は、近鄕の「盜賊あらため」也。因(よつ)て、此度(このたび)は、この墓磨の穿鑿を云付(いひつけ)られて、心をつけたるが、曾て、手がゝり、無し。夫(それ)故に、何れにて磨きたりと聞きては、輙(すなはち)こゝに赴(おもむ)けども、每(つね)に、その、後(あと)のみ、なり。されども、其ありさまは、必ず、妖怪とも思はれぬは、井(イド[やぶちゃん注:ママ。])ある所は、この水を以て、洗磨(あらひとぎ)せしと覺しく、井どより、墓所まで、行々(ユクユク)、水のこぼれたる、痕、あり。又、洗(あらひ)たる墓には、水つきたる足跡あるを見れば、常人の足痕(あしあと)なり。又、或所にては、磨たる墓石に、「依心願磨之」[やぶちゃん注:「しんぐわんによりてこれをみがく」。]の字を、黑く書(かき)たるあり。甚(はなはだ)拙筆なり。是等は、人の戲(たはむれ)に書たる者か、若(もし)くは、實(まこと)に心願にて、墓を磨く者か。是れ、彼(かの)門人が話なり。」
と。
鼎、又、話す。
「囘向院は、その宅の近くなれば、『彼(か)の寺内の墓を、磨きたる。』と聞(きき)しゆゑ、往(ゆき)て見たるに、成(なる)ほど、洗磨せしに違(ちがひ)なし。其寺の構へも、あらはならず。然(しか)るに、何(いか)にして入りたる者か、何(いづ)れ、夜分のことなるべし。且(かつ)、門内にある大塔【この塔は、續篇二十八卷に記せし、大火の後、燒死を吊(とむらひ)せし塔にして、高(たかさ)二間なり。古塔と合せて、三基あり。】、三つなるを、二つは、磨きて、一つは舊(もと)の如し。長(た)け高き塔なるが、何(い)かにして磨きたるや、上方(うへかた)なる寶珠形(はうじゆがた)は殘して、下は、皆、磨きたり。『足次(アシツギ)にても、無くば。』と思はる。
予、幸(さいはひ)に、翌日、彼(かの)寺の門前を過(よぎ)ることあれば、轎中(かごうち)より見しに、鼎が言の如く、二つは、よく磨き、新碑の如く、一つは、古色存(そん)せし。殆ど不思議と、云べし。
又、或人、云ふ。
「上野山下の某寺にては、番人を付け置(おき)てかの妖を禁ぜしが、或夜、墓間(はかのあひだ)に人あるを知(しり)て、守(まもる)者、打(うち)より、捕へたるに、一人にあらず、男女(なんによ)なり。
『怪物か。』
とたゞすに、婬會(いんくわい)の者なりし。人皆(ひとみな)、笑散(わらひちら)せし。」
と。
北山(ほくざん)が子、綠陰が、鼎に咄したるは、
「湯嶋天神下に宅(たく)する奥醫片山與庵、先祖の墓は、五輪塔にして、古塔ゆゑ、殊に大(おほ)ひ[やぶちゃん注:ママ。]なるが、いつか、傾(かたぶ)き倒れて、年を歷(へ)たるを、修建(しゆけん)には、數金(すきん)の費(つひへ)、かゝれば、意外に舍寘(ステおき)たるに、この度(た)び、かの妖磨(えうま)が、いつか、磨きたるうへ、倒れたる大塔を、故(もと)の如く建たり。」
と。
是等、所謂、「鬼に瘤(こぶ)を取られし者」か【鬼瘤の事、「宇治拾遺」に見ゆ。】。
■やぶちゃんの呟き
「雲晴院」浄土宗。現在の港区芝公園のここに現存する。この寺は静山の先祖の松浦肥前守室(雲晴院尼)が檀主となり、寛永一〇(一六三三)年建立されたものである。
「『御蔭參り』は、阿州より起れり。」伊勢神宮のそれは、私のブログ・カテゴリ「兎園小説」の、曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「松坂友人書中御陰參りの事」以下の連続する五篇の記事が、「御蔭參り」についての私の注では、最も完備しているので、見られたい。
「新堀」現在の東京都江戸川区新堀(にいほり)であろう。拡大すると、ここに「稲荷八坂神社」の祠ある。
「鼎」朝川鼎。私の「フライング単発 甲子夜話卷之十 37 くだ狐の事」で注済み。読みは調べ得なかったが、彼は儒学者であるから、「けい」と音読みしていると私は思うので、今回は入れた。
「新堀の寺」現行では、新堀地区では、真言宗勝曼寺が確認出来る。江戸時代からあった寺である。
「法音寺橋」これは東京都墨田区太平にある大横川親水公園に架かる「法恩寺橋」の誤記と思われる。その地図の東北に「法恩寺」(日蓮宗)があり、同寺の広大な墓地も確認出来る。
「永隆寺【法華。】」これは、寺としては見当たらないが、それは平凡社「日本歴史地名大系」で解消された。その「本所永隆寺門前」に、『東京都墨田区』の『旧本所区地区本所永隆寺門前』があったが、その『現在地名』は『墨田区太平』『一丁目』であり、『南本所出村』『町御用屋敷の法恩』『寺表門前続き分の西にあり、西は南本所出村町、北は法恩寺。永隆寺境内北側に立てられた門前町屋』であった。『永隆寺は』、『初め』、『谷中』『で地所を拝領しており、その当時から門前町屋があったが、元禄四』(一六九一)年、『寛永寺境内に囲い込まれて上地』(あげち)『となり、同年』、『本所法恩寺前続きに代地を与えられた。門前町屋も拝領地に含まれて移り、本所永隆寺門前と称した。延享二』(一七四五)年には、『町奉行支配となった』とあったからである。思うに、永隆寺は一応、そこで、寺として存在したが、恐らくは、法恩寺の附属寺院となっていたものと推定される。
『御代官の「手付(てつき)」、「八州廻(はつしうマハリ)」』関東取締役出役(でやく)。江戸幕府の職名の一つで、文化二(一八〇五)年、関八州(武蔵・相模・上野・下野・上総・下総・安房・常陸。幕府は将軍の御膝元という理由などで、その取締りには特に意を注いだ)の悪党・無宿・博徒の取締り・逮捕を目的に設けられた。関東代官四役所から、手付・手代二人ずつを選任し、勘定奉行の直轄とし、関八州の御料・私領・寺社領の別なく、巡回させた。逮捕者は勘定奉行に差し出した。俗に「八州廻(回)り」「八州様」とも称し、単に「関東取締役」とも呼んだ。
「あらはならず」いい加減ではない。境内の周辺を厳重に作り構えてあることを言う。
「門内にある大塔【この塔は、續篇二十八卷に記せし、大火の後、燒死を吊(とむらひ)せし塔にして、高(たかさ)二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]なり。古塔と合せて、三基あり。】」この「續篇二十八卷」は、前の項で示した「文政の大火」の惨事を、丸々、二十八条もの膨大な記事として一巻としたもので、当初は、電子化をしないつもりであったが、どうも、今までのフライングの経験上、座り心地が悪いので、当該条のみを、以下に電子化することにした。まさにこの慰霊の塔の図が含まれているからである。最後に図を底本の「東洋文庫」版からOCRで読み込み、トリミング補正したものを掲げておく。
*
甲子夜話續篇卷之二十八 20 焚死の靈の爲に塔を建つ
28-20
前に、築地の海邊にて、夜陰に、幽靈、叫喚することを云(いひ)き。
頃(このご)ろ、彼(かの)地に住(すめ)る某(なにがし)話しは、叫喚の聲は、
「たすけてくれ、たすけてくれ、」
と、呼ぶ。又は、數人聲(すにんのこゑ)にて、
「わあ、わあ、」
とばかり、云(いふ)とぞ。
一、石匠(いしく)道榮坊曰(いはく)、
「一日(あるひ)、士、二人、來り、
『燒亡者の墓石。』
とて、命ず。一人の墓石とも覺へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。又、主人の名をも、云はず。福井侯の婢女(はしため)、多く燒亡すれば、若(もし)や、この侯の士か。又、先頃、何(イヅレ)かの家賴(けらい)、かねて識らざる者、來り、
『此度(このたび)の災(わざはひ)にて、死亡者、多し。菩提のため、囘向院に塔を建つべし。』
迚(とて)、その注文を、與(あた)へ、還る。
『何方(いづかた)の屋鋪。』
と問(とへ)ども、答(こたへ)ずして、去る。又、道榮が本宅のあたりに、御納屋勤(おんなんやづとめ)の者あり。その娘、仙臺の後宮小姓勤(おくむきこしやうづとめ)に出(いで)たり。或日、下宿して人に語るは、
『我が屋鋪より、此度(このたび)、囘向院に塔石を建給ふ。』
と。されば、彼(か)の大塔は、仙臺侯より、建(たつ)るか。この度の火、侯邸に及ばず。道榮、察するに、彼侯、近頃、代々、世を蚤(はや)ふし給ふ。因(よつ)て、非命を吊(とふらひ)て、冥福を求めらるゝ歟。
と。
左 聞テ二佛ノ所說ヲ一、莫シㇾ不二觀喜一。諸天人民
法本ニ曰ク
蠕動之類、皆蒙テ二慈恩ヲ一、解二脫憂苦一。
右
論云。讚スルニ二佛ノ諸功德ヲ一、無ㇾ有コト二分別心一。
能ク令ム三速ニ滿二足セ功德大寶海ヲ一。
後 字行は三行に長書す
今季文政十二己丑三月廿一日、府内大火、罹二
於玆禍一喪ㇾ命亦夥矣。于ㇾ玆有二噠嚫主一、竊愍二
其亡靈一、從二五月二十一日一市設テ二五箇連日之別
時念佛大施餓鬼、及滿辰放生會慈濟之法要ヲ一、
以造二立此ノ石碑ヲ一、被ㇾ資二福無怙無恃之幽魂ヲ一者
也。維時文政十二己丑秋七月佛歡喜日。當院
十六主名譽代。
[やぶちゃん注:以上の碑文は底本では全体が一字下げであり、「右」と「後」はポイント落ちだが、「左」に合わせて、同ポイントとした。難しくないので、訓読は示さない。語注をしておくと、「噠嚫主」は「たつしんしゆ(たっしんしゅ)」で、ここは単に「施主」を指す。「無怙無恃」の「怙」「恃」は、ともに「頼む」の意。]
右の碑文に據れば、「仙侯」と云はんも、其由(そのよし)、あり。若(もし)くは、亦、「福侯」か。當院名譽は、先年、都下(とか)に喧呼せし德本行者の高弟にして、「晝夜不臥の行者。」と聞く。
*
「足次(アシツギ)」慰霊塔の高さから見て、単なる「梯子」のことであろう。
「北山が子、綠陰」儒者山本緑陰 (安永六(一七七七)年~天保八(一八三七)年)。江戸生まれ。儒者山本北山の子。名は信謹。詩集「臭蘭稿」を著わし、大窪詩仏と「宋三大家絶句箋解」を編集した。
「片山與庵」恐らくは与安法印とも称して、徳川家に仕えた江戸前期の医師片山宗哲(天正元(1573)年~元和八(一六二二)年)の後裔であろう。
先祖の墓は、五輪塔にして、古塔ゆゑ、殊に大(おほ)ひ[やぶちゃん注:ママ。]なるが、いつか、傾(かたぶ)き倒れて、年を歷(へ)たるを、修建(しゆけん)には、數金(すきん)の費(つひへ)、かゝれば、意外に舍寘(ステおき)たるに、この度(た)び、かの妖磨(えうま)が、いつか、磨きたるうへ、倒れたる大塔を、故(もと)の如く建たり。」
『鬼瘤の事、「宇治拾遺」に見ゆ』私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「難病治癒」(その2)』の私の注で電子化してあるので、見られたい。