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2023/12/31

フライング単発 甲子夜話卷二十三 10 飛脚、箱根山にて怪異に逢ふ事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

23-10 箱根山(はこねやま)にて怪異に逢ふ事

 何(いづ)れの飛脚か、二人づれにて箱根を踰(こえ)けるとき、夜(よ)、闌(たけなは)に及び、ひとしほ、凄寥(せいれう)[やぶちゃん注:物凄く寂しいこと。]たる折から、山上(さんじやう)、遙(はるか)に、人語の喧々(けんけん)たるを聞く。

 二人、不審に思ひながら行くに、山上の路傍、芝生の處に、幕(まく)、打𢌞(うちまわ)し、数人(すにん)群宴の體(てい)にて、或(あるい)は醉舞、或は放歌、絃声(げんせい)、交〻(こもごも)、起(おこ)り、道路、張幕の爲に、遮られて行(ゆく)こと能(あた)はず。

 二人、相言(あひいひ)て曰(いはく)、

「謁(えつ)を通じて可(か)ならん。」

と。

 因(より)て、幕中(まくうち)に告ぐ。

 幕中の人、應(こたへ)て云ふ。

「通行すべし。」

と。

 二人、卽(すなはち)、幕に入れば、幕、忽然として消滅し、笑語・歡聲も絕えて、寂々たる深山の中(なか)なり。

 二人、驚き、走行(はしりゆ)くに、やゝありて、絃歌(げんか)・人響(じんきやう)、故(もと)の如し。

 顧望(こばう)[やぶちゃん注:振り返って見ること。]すれば、幕を設くること、如ㇾ初(はじめのごとし)。

 二人、益々(ますます)驚き、疾行(しつかう)、飛(とぶ)が如くにして、やうやく、人居(じんきよ)の所に到りし、と。

 これ、世に、所謂、「天狗」なるものか。

フライング単発 甲子夜話續篇卷四十六 16 本莊七不思議の一、遠鼓

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナは珍しい静山自身のルビである。標題は「本莊(ほんしやう)七不思議の一(ひとつ)、遠鼓(とほつづみ)」と読んでおく。「つづみ」は現代では、専ら、小鼓(こつづみ)を指すが、「鼓」は本来は広く大小の「革を張った打楽器」を指す語である。]

 

46―16

 予が莊(さう)のあたり、夜(よる)に入れば、時として、遠方に鼓聲(つづみごゑ)、きこゆることあり。

 世に、これを「本莊(ほんさう)七不思議」の一(ひとつ)と稱して、人も、往々(わうわう)、知る所なり。

 因(よつ)て、其鼓聲をしるべに、其處(そこ)に到れば、又、移(うつり)て、他所(よそ)に聞ゆ。

 予が莊にては、辰巳(たつみ)[やぶちゃん注:南東。]に當る遠方にて、時として、鳴ること、あり。

 この七月八日の夜、邸(てい)の南方に聞へしが、驟(にはか)に近くなりて、

『邸中(ていちゆう)にて、擊(うつ)か。』

と思ふばかり也しが、忽ち、又、轉じて、未申(ひつじさる)[やぶちゃん注:南西。]の方(かた)に遠ざかり、其音(そのオト)かすかに成(なり)しが、忽ち、殊に近く邸内にて鳴らす如(ごとき)なり。

 予は几(つくへ)に對して字を書(かき)しゐしが、侍婢など、懼れて、立騷(タチサハグ)ゆゑ、

「若(もし)くは狡兒(かうじ)が所爲(しよゐ)か。」

と、人を出(いだ)して見せ使(しめ)しに、

「近所なる割下水迄は、其聲を尋(たづね)て行(ゆた)れど、鼓打(つづみうつ)景色もなく、又、其邊(アタリ)に問(とひ)ても、誰(たれ)も其夜は鼓を擊つことも無し。」

と答へたり。

 其音(オト)は世の宮寺(ミヤテラ)などに有る太鼓の、面(めん)の徑(わた)り一尺五六寸ばかりなるが、表の革は、しめり、裏革は、破れたる者の音(ネ)の如く、又は、戶板などを撲(う)てば、調子よく、

「ドンドン。」

と鳴ること、あり。

 其聲の如く、拍子は、始終、

「ドンツクドンツク、ドンドンドンツクドンドンドンツクドンドンドンツク。」

と、ばかりにて、此二つの拍子、或(あるい)は高く、或は卑(ひく)く、聞ゆ。

 何の所爲(しよゐ)なるか。狐狸(こり)のわざにもある歟(か)。

 歐陽氏、聞かば、「秋聲賦」の後(のち)、又、一賦の作、有るべし。

■やぶちゃんの呟き

 本篇は、柴田宵曲の「妖異博物館」の「狸囃子」で、一度、電子化している。

「予が莊」「ほんさう」で「本所」のこと。本所は、ここが中世の荘園制度に於ける荘園であったことに由来する地名である(荘園を実効支配する領主を「本所」と呼んだ)。なお、当時の平戸藩下屋敷は旧本所中之郷(現在の墨田区東駒形:グーグル・マップ・データ)にあった。

「本莊(ほんさう)七不思議」「本所(ほんじよ)七不思議」に同じ。当該ウィキを見られたいが、その内の「狸囃子」(たぬきばやし)がそれで、本所では「馬鹿囃子」の名でも呼ばれた。当該ウィキによれば、『囃子の音がどこから聞こえてくるのかと思って音の方向へ散策に出ても、音は逃げるように遠ざかっていき、音の主は絶対に分からない』。『音を追っているうちに夜が明けると、見たこともない場所にいることに気付くという』。『平戸藩主・松浦清もこの怪異に遭い、人に命じて音の所在を捜させたが、割下水付近で音は消え、所在を捜すことはできなかったという』(本話)。『その名の通り』、『タヌキの仕業ともいわれ、音の聞こえたあたりでタヌキの捜索が行われたこともあったが、タヌキのいた形跡は発見できなかったという』。『東京都墨田区の小梅や寺島付近は、当時は農村地帯であったことから、実際には収穫祝いの秋祭りの囃子の稽古の音が風に乗り、いくつも重複して奇妙なリズムや音色になったもの』、『または柳橋付近の三味線や太鼓の音が風の加減で遠くまで聞こえたものなどと考えられている』とある。

「この七月八日の夜」前後の話柄から、これは文政十三年七月八日(グレゴリオ暦八月十五日)を指すことが判った。なお、この半月余り後の文政十三年十二月十日(グレゴリオ暦一八三一年一月二十三日)に「天保」に改元している。

「狡兒」悪戯っ子・不良少年・チンピラの意。

「見せ使しに」見せに遣らせたが。

「面の徑り一尺五六寸」太鼓の打撃する皮張りの部分で直径四十五・四五~四十八・四八センチメートル。

「歐陽氏」北宋の文人政治家欧陽脩(おうようしゅう 一〇〇七年~一〇七二年)で、「秋聲賦」は長文の秋の夜の趣を謳いあげた賦で、彼の代表作として人口に膾炙される。

明恵上人夢記 106 兜率天に到る夢

106

一、同初夜坐禪の時、滅罪の事を祈願し、戒躰(かいたい)を得たり。

「若(も)し好相(かうざう)現(げん)ぜば、諸人(しよにん)に戒を授けむ。」

と祈願す。

 其の禪中、前(さき)の六月の如く、身心、凝然たり。

 空より、瑠璃(るり)の棹(さを)、筒(つつ)の如くにて、

『其の中(なか)、虛しき也。』

と思ふ。

 其の末(すゑ)を取りて、人、有りて、予を引き擧(あ)ぐ。

 予、

『之に取り付きて、兜率(とそつ)に到る。』

と覺ゆ。

 其の筒の上に、寶珠、有り。

 淨(きよ)き水、流れ出でて、予、之(この)遍身に灑(そそ)く。

 其の後(のち)に、心に、

『予、之(この)實躰(じつたい)を見む。』

と欲す。

 其の面(おもて)、忽ちに、明鏡(めいきやう)の如し。漸々(ぜんぜん)に、遍身、明鏡の如し。卽ち、圓滿なること、水精(すいしやう)の珠(たま)の如し。

 動き、轉じて、他所(たしよ)に到る。

 又、音の告げ有るを待つに、卽ち、聲、有りて云はく、

「諸佛、悉く、中(うち)に入(い)る。汝、今、淸淨を得たり。其の後、變じて大きなる身と成り、一間許(ばか)りの上に、七寶(しつぱう)の瓔珞(やうらく)、有りて、莊嚴(しやうごん)す。」

と云々。

 卽ち、觀(くわん)より、出で了(をは)んぬ。

 又、其の前に眞智惠門(しんちゑもん)より出でて、五十二位を遍歷す。

 卽ち、信位之(の)發心(ほつしん)は文殊也。佛智は十重(とへ)を分(わか)ち、此の空智を現ず。

 此の十住の中(うち)に一切の理事を攝(せふ)して、諸法(しよほふ)、盡きぬ。

 卽ち、文(もん)に云はく、

『十方(じつはう)、如來の初發心(しよほつしん)は、皆、是、文殊の敎化(きやうげ)の力(ちから)なり、といふは、是也。文殊の大智門より、十住の佛果を生ずるが故(ゆゑ)也。眞智に於いて、住果(ぢゆうくわ)を生ずといふは、佛果の文殊より生ずる也。信位に於いて、初住の一分(いちぶ)を生(しやう)ずといふは、文殊、佛果の弟子と爲(な)る也。卽ち、因果の相卽(さうそく)する也。此の下(しも)十行は、之(これ)、普賢の大行(だいぎやう)の具足する也。十𢌞向(じふゑかう)は理智の和合也。此より、十地を生じ、理智を作(な)すこと無く、又、冥合(めいがふ)を證得する也。佛果は此(これ)、能生(のうしやう)也。定(ぢやう)の中に於いて、忽ちに、此の義を得るは、卽ち、因果、時を同じくする也。之を思ふべし。紙筆に記し難し。』

と云々。

 同十八日に、之を記(しる)す。其の夜、同十日に、彼(か)の事あり。

[やぶちゃん注:これは、順列からも、承久二(一二二〇)年八月七日の夢と確定されている。明恵は若き日より、文珠菩薩に従って自己の信仰を揺るぎないものとする信念を持っていた。それは、彼が、建久六(一一九五)年に、東大寺への出仕を辞し、神護寺を出て、俗縁を絶って、紀伊国有田郡白上(しらかみ:現在の和歌山県有田郡湯浅町(ゆあさちょう)白上:グーグル・マップ・データ)に遁世し、凡そ三年に亙って白上山(しらかみやま)で修行を重ねた際、翌建久七年、二十四歳の時、『人間を辞して少しでも如来の跡を踏まんと思い、右耳の外耳を剃刀で自ら切り落とした』(当該ウィキより引用)直後に、文殊菩薩の示現に与(あず)かったことからの、長い個人的な確信的信仰であった。河合隼雄「明惠 夢に生きる」(京都松柏社一九八七年刊)でも、この夢を、河合氏が『心身凝然の夢』と名づけて、一章を設けておられる(278284ページ)。それによれば、『この夢は『冥感伝』にも詳しく述べられている。『夢記』には書かれていない部分もあり、極めて大切な夢であるから、重複もするが『冥感伝』の記載を次に示すことにする』とあって、同書の同夢の引用がある。私は「冥感伝」(正しくは「華嚴佛光三昧冥感傳」で明恵が承久三年十一月九日に完成させた「華厳仏光三昧観秘宝蔵」の一部であることが判っている)所持せず、原本は漢文なので(「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」のここから視認出来る。但し、写本)、以下、河合氏の訓読された、それを恣意的に正字化して示すことする。読みは、河合氏の附されたもののほかに、私が推定で歴史的仮名遣で付加してある。

   *

同八月七日に至り、初夜の禪中に、身心凝然として、在るが如く、亡(な)きが如し。虛空中に三人の菩薩有り。是れ、普賢、文珠、觀音なり。手に瑠璃の杖を執(と)りたまふ。予、が右の手を以て堅く杖の端を執る。菩薩、杖の本(もと)を執り、予、杖の右を執る。三菩薩、杖を引き擧げたまふ。予、杖に懸(かか)りて速(すみや)かに兜率天に到り、彌勒の樓閣の地トに着(ちやく)す。其の間、身(しん)淸涼として心(こころ)適悅(てきえつ)す。譬(たと)へ取らんに、物なし。忽ち瑠璃の杖の、寶地(はうち)の上に立つを見る。其の杖の頭に寶珠あり。寶珠より寶水流れ出で、予の遍身を沐浴(もくよく)す。爾(そ)の時に當たりて、予の面(おもて)、忽ち明鏡の如く、漸々(ぜんぜん)に遍身明鏡の如し。漸々に遍身の圓滿なること水精(すいしやう)の珠の如く、輪(わ)の如く運動す。其の勢(いきほひ)、七八間許りの舍宅の如し。禪中に心想有るが如く、奇異の想ひを作(な)す。時に、忽ち空中に聲有るを聞く。曰はく、「諸佛、悉く中に入る。汝今、淸淨を得たり」と。其の後、本(もと)の身に復(かへ)るに、卽ち七寶の瓔珞有りて虛空中(ちゆう)に垂(た)れ莊(かざ)る。予、其の下に在りて、此の相(さう)などを得ると與(とも)に、定(ぢやう)を出で畢(をは)んぬ。

   *

河合氏は、この後に以下のように解説されておられる。

   《引用開始》

 これらを見ると、『夢記』には「前の六月の如く、身心凝然たり」とあって、六月の「兜率天に登る夢」[やぶちゃん注:私の「92」がそれ。]のときも、同様の状態になったことが解るが、この「身心凝然」とはどのような状態を言うのだろうか。これについては『冥感伝』の「身心凝然として、在るが如く、亡きが如し」という表現が理解を助けてくれる。おそらく身も心もひとつになり、しかも、それは極めて軽やかな、あるいは、透明な存在となったのであろう。明恵の場合は、修行を通じて、その身体存在が心と共に変化するところが特徴的である。身体は、彼にとって幼少のときから常に問題であった。空から降りてきた瑠璃の棹によって、明恵は兜率天へと上昇するが、そのとき棹をもって明恵を引きあげてくれたのが、普賢、文殊、観音の三菩薩であることを、『冥感伝』の記述が明らかにしてくれる。兜率天に到達するときの感じが、そこには「身清涼として心適悦す」と表現されている。

 杖の上に宝珠があり、そこから流れでる宝水によって明恵の全身が洗われるのは、前の「兜率天に登る夢」と同様である。このときに明恵の体には大きい変容が生じ、まずその顔が鏡のようになり、続いて体全体が水精の珠のようになる。まさに「透体」というべき状態である。そのときに声がして、「諸仏、悉く中に入る。汝今、清浄を得たり」と言う。この「諸仏、悉く中に入る」というところが、[やぶちゃん注:中略。]まさに華厳の世界の体現という感じを与える。

 これに対する明恵のコメントは、前の「天よりの棹の夢」[やぶちゃん注:私の「97」がそれ。]のときに述べたことを、もっと詳しく論じている。つまり、十信の位の達成は、文殊の智によってする五十二位の遍歴に通じ、成仏に到っているという彼の考えを開陳している。このコメントの結びとして、「定の中に於いて忽ちに此の義を得るは、即ち、因果、時を同じくする也」と述べているところも、いかにも華厳らしい考えである。[やぶちゃん注:中略。]

 このような夢に接すると、明恵という人にあっては、その宗教における教義の理解、修行の在り方、またそれによって生じてくる夢想などのイメージが一体となり、統一的に把握され、それに今までに示してきたような彼の生活の在り方も関連してきて、「行住坐臥」のすべてが、深い宗教性と結びついていたことが解る。

   《引用終了》

「初夜」六時の一つ。戌の刻(午後八時頃)。宵の口で、その時刻に行う勤行をも指す。

「戒躰」「戒」の「実体」の意。戒を受けることによって得られる、悪を防ぎ止め、善を行なう、ある種の法力。

「好相」「相好(さうがう(そうごう))」に同じ。仏の身体に備わっている三十二の相と八十種の特徴の総称。

「身心、凝然たり」一種のトランス状態であろう。

「水精」水晶。

「一間」約一・八二メートル。

「五十二位」菩薩が仏果に至るまでの修行の段階を五十二に分けたもの。「十信」・「十住」・「十行」・「十回向」・「十地」、及び、「等覚」・「妙覚」をいう。「十信」から「十回向」までは「凡夫」で、十地の初地以上から「聖者」の位に入り、「等覚」で仏と等しい境地となる。

「信位之發心」「三種発心」、「信成就発心」・「解行(げぎょう)発心」・「証発心」の初回である「信成就発心」。業(ごう)の果報、或いは、大悲を信じることによる発心であり、また、護法の因縁による発心を指す。参照した「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「三種発心」によれば、『また』、元暁の「起信論疏」に『よれば、信成就発心は』、『信心が成就して決定心が起こること、解行発心は六波羅蜜の修行が熟して回向心が起こること、証発心は法身を証得して真心が起こることである。これら三種の発心は、菩薩の階位と対応して理解され』、『信成就発心が十信・十住、解行発心が十行・十回向、証発心が初地以上とされる。良忠は』「東宗要」の一に『おいて、義寂の説を用いて』、『法蔵の発心を』、『この三種に分類するが、これは』「悲華経」と「無量寿経」との『二経典に説かれる説を合わせた上で、前者を初住の発心、後者を地上の発心と理解したものである』とある。 

「文(もん)に云はく」以下は「華厳経」の引用かと思われる。

「同十八日に、之を記(しる)す。其の夜、同十日に、彼(か)の事あり。」意味深長な附記である。河合氏は同前の章でこれについて、以下のように述べておられる。

   《引用開始》

 ここで少し楽屋話めくことを一つ。『夢記』を通読しているうちに、この「身心凝然の夢」のすぐ後に続いて、

 「同十八日に之を記す。其の夜、同十日に彼の事あり」

という記録があり、これが心に残った。そして続いて読みすすむうちに、前章で取りあげた「毘廬舎耶の妃の夢」に至り、ここで明恵が「彼の事」と書いたのは、女性との関係において、記録しておくべきだが明らさまには書かぬ方がいいと判断されることがあったのではないかと考えた。「毘廬舎那の妃の夢」については既にコメントしたが、このように考えるとすると、これらは承久三年のことである方が、承久の乱後の明恵が女性と接触をもつ機会が多かっただけに、蓋然性が高いのである。ところが、当時は『夢記』に関する一番信頼し得る資料は『明恵上人資料第二』であり、そこでは奥田勲がこれらはすべて承久二年のこととしていた。

 ところで、『夢記』の影印本文を見ると、前記の「彼の事あり」の記録は、極めて小さい字で、おそらく余白に後で書き込んだのではないかと思われ、筆者の推察を強化するような感しを与えた。ここで女性に関することというのは、既に前章に論じたとおり、明恵にとっては極めて深い意味をもつことであり、戒を破りかけたときに「不思議な」ことが生じたことを、彼は大切に考えているので、そのような体験についての心覚えを、ここに留めておこうとしたのではないかと推察したのである。

 このような点と、承久二年の夢があまりに多いこともあって、おそらく承久三年の夢が錯簡によってはいりこんでいるのではないかと考えていた。そのときに『冥感伝』のなかに、既に述べたような「承久三年」という日付を見出したので、これで疑問が晴れたと思ったが、そうなると「身心凝然の夢」や「善妙の夢」などまでが承久三年のものとなる可能性が生じてくる。筆者の考えとしては承久二年に、このような深い宗教的体験を成就したからこそ、明恵は承久の乱のなかで冷静に対外的に対処できたのだ、としていたので、これらの夢も承久三年となると、そのへんの理解が困難となってくるのである。そのようなとき、奥田勲の新しい研究に触れ、まさに「同十八日に之を記す。其の夜、同十日に彼の事あり」の行より承久三年のことと判定されていることを知り、理解の筋が通ったようで嬉しく思った次第である。もちろん、この「彼の事」について、あるいは「毘廬舎那の妃の夢」について、女性との実際的な関係を考えるのは、筆者の当て推量に過ぎないのではあるが。

   《引用終了》

私は河合氏の説を全面的に支持するものである。]

 

□やぶちゃん現代語訳

 同じ初夜の座禅の際、滅罪の事を祈願し、戒体を得た。そこで私は、

「もし好相(こうぞう)が現(げん)じたならば、諸人(しょにん)に戒を授けんとする。」

と祈願した。

 その禅の最中、先の六月の如く、身心が、凝然となった。

 夢が始まった……

 空より、瑠璃(るり)の棹が、筒の如くにして下ってくるのを直感した。

『其の筒の中は、誰もいない。』

と、やはり、直感した。

 虚空に、人があって、その筒の端(はし)の部分を取って、私を、

「すうっ」

と引き挙(あ)げた。

 私は、

『これに取りついて、私は、兜率天に到るのだ。』

と直感した。

 そのの筒の上には、宝珠がある。

 清浄な水が流れ出でており、その浄水が、私の遍身に灑(そそ)がれた。

 その後(のち)に、心に、

『私は、この実体を見たい。』

と欲した。

 その筒の表面は、瞬時に明鏡のようになった。

 すると、徐々に、私の遍身もまた、明鏡のようになる。

 筒も、私も、まさに円満なること、水晶の珠(たま)のようになる。

 筒と私は、ともに動き、転じて、別な所に到った。

 又、声の告げがあるのを待っていると、即座に、声があって曰わく、

「諸仏、悉く、中(うち)に入(い)った。汝は、今、清浄を得たのだ。その後(のち)、変じて、大なる身体となって、一間ばかりの上に、七宝(しっぽう)の瓔珞(ようらく)があって、汝の存在を荘厳(しょうごん)する。」

と……。

 その瞬間、観(かん)から脱して、夢は終わった。

 因みに、言い添えると、その前に、真智恵門(しんちrもん)から出(い)でて、五十二位を遍歴していた。

 則ち、「信位の発心」は文殊である。

 仏智は十の階梯を分かって、この「空智」を現じたのであった。

 この十住の内に、一切の理(ことわ)りを、悉く、摂取して、諸法も、これ、悉く、完遂していたのである。

 則ち、経文(きょうもん)に曰わく、

『「十方(じっぽう)の如来の初発心は、皆、これ、文殊の教化(きょうげ)の力(ちから)である。」と言うのは、これを指すのである。文殊の「大智門」より、十住の仏果を生ずるが故である。「真智に於いて、住果(じゅうか)を生ず。」と言うのは、仏果の文殊より生ずるものなのである。「信位に於いて、初住の一分(いちぶ)を生ずる。」と言うは、文殊の、仏果の弟子となることなのである。即ち、因果の相即(そうそく)することを指すのである。この下(しも)十行は、これ、普賢の大行(だいぎょう)の具足することを指すのである。「十回向」は「理智の和合」を意味する。これにより、十地を生じて、理智をなすこと、なく、また、冥合(めいごう)を証得するということなのである。仏果はこれ、能生(のうしょう)である。定(じょう)の中に於いて、忽ちにして、この義を得ることは、即ち、因果が、時を同じくすることに等しい。これをしっかりと思うがよい。紙筆には記し難きものなのである。』

と……。

 因みに、訳(わけ)あって、以上は、夢を見た日から十五日経った、八月十八日に、これを記(しる)した。

 ああ、そうだ。その夜――則ち、夢を見た日から丁度、四日後の八月十日の夜のこと、まさに――「あの事」――が、あったのだった。

2023/12/30

譚海 卷之九 同所仙北郡辻堂猫の怪の事(フライング公開)

 

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。なお、標題の『同所』は前の三条が、皆、『羽州』の出来事であったことによる。]

 

 仙北郡の人、薪を伐(きり)て山より歸る時、夕(ゆふべ)になりて、雨、降出(ふりいで)たれば、辻堂の緣に、雨やどりせしかば、堂の中(うち)、人音(ひとおと)、きこえて、にぎはしく、しばし有(あり)て、

「太郞婆々(たらうばば)、いまだ、來らず。こたびの躍(をどり)、出來がたからん。」

など、いふ聲せしに、又、しばし有りて、

「婆々、來れり。」

とて、

「をどり、はじめむ。」

といふ。

 婆々のいふやう、

「しばし、待ちたまへ。人や、ある。」

とて、堂の格子の穴より、尾を、いだし、かきまはしたるを、此男、尾を、とらへて、外より引(ひき)たるに、

「内には、引入(ひきいれ)ん。」

と、こづむに、あはせて、尾を引(ひき)きりて、もたりければ、恐ろしくなりて、雨のはるゝも、またず、家に歸りて、此尾をば、深く、藏置(をさめをき)たり。

 そののち、鄰家の太郞平なるもの、

「母、『痔、起りたり。』とて、うちふしてある。」

よし。

 此男、見廻(みまひ)に行(ゆき)て見れば、誠に、心わろく見へ[やぶちゃん注:ママ。]ける。

「いかに。」

と、いへば、

「痔のいたむ。」

よしを、いふ。

 あやしくて、夕(ゆふべ)に、又、件(くだん)の尾を懷(ふところ)にかくして、見廻(みまひ)に行(ゆき)てければ、

「なほ、心、あし。」

とて、居(ゐ)たりしかば、

「それは。このやうな事の、わづらひにては、なきや。」

と、尾を引出(ひきいだ)して見せければ、この母、尾(を)を、かなぐりとりて、母屋(おもや)を、けやぶりて、失せぬ。

 猫の化けたるにて、ありける。

 誠の母の骨は、年ヘたるさまにて、天井にありける、とぞ。

[やぶちゃん注:この話は、柴田宵曲の「妖異博物館」の「化け猫」で採られている関係上、既にそこで私が電子化しているが、今回は、推定読みを付加しているので、新たにフライング単独公開とした。

「仙北郡」秋田県(旧出羽国および羽後国)の郡。旧郡域は、同県の東端の中央部を広域に含んだ。当該ウィキの地図を見られたい。

「こづむ」本来は「偏(こづ)む」は「筋肉がかたくなる・凝る」、「心が重くなる・気がめいる」、「馬が躓いて倒れかかる」であるが、他に「一ヶ所に片寄って集まる・ぎっしり詰まる」の意があるので、「引き入れようと、大勢の者(猫)が、積み重なるようにして、一斉に太郎婆の体を引っ張った」ことを指すようである。映像として面白い。]

畔田翠山「水族志」 ツルグヒ (サクラダイ)

(三二)

ツルグヒ【紀州若山】 一名アカヤハギ【阿州堂浦】エビスダヒ【土佐浦戶】イトヒキ【勢州阿曾浦】ヲヒロ【紀州田邊】

五六寸ノ者多シ形狀黃稽魚ニ似テ上唇决短ク下唇出身深紅色ニ乄

白斑アリテ縱ニ二道ニ相並ブ腹淡紅色白斑アリ頰淡紅色脇翅紅色

腹下翅深紅色ニ乄端黑色背鬣淡紅色ニ乄頭ヨリ第三ノ刺長ク出一

寸半許下鬣第一刺ノ末長ク出二寸許黃色ニ乄餘ハ淡紅色尾上下俱

ニ細長ニ乄上ハ三寸半許リ出黃色也下ハ三寸許出深紅色眼ノ邊腮

ノ上背ニ及テ黃色ヲ帶上ニ黑斑アリテ頭上ヨリ尾ノ上ニ至ル

○やぶちゃんの書き下し文

つるぐひ【紀州若山。】 一名「あかやはぎ」【阿州堂浦(だうのうら)。】・「えびすだひ」【土佐浦戶(うらど)。】・「いとひき」【勢州阿曾浦。】・「をひろ」【紀州田邊。】

五六寸の者、多し。形狀、「黃檣魚(わうしやうぎよ)」に似て、上唇、决(えぐれ)、短く、下唇、出づ。身、深紅色にして、白斑ありて、縱に二道に相(あひ)並ぶ。腹、淡紅色、白斑あり。頰、淡紅色。脇翅(わきひれ)、紅色。腹下翅(はらしたびれ)、深紅色にして、端(はし)、黑色。背鬣(せびれ)、淡紅色にして、頭(かしら)より第三の刺(とげ)、長く出づ。一寸半許(ばか)り。下鬣(したびれ)、第一刺(し)、末(すゑ)、長く出づ。二寸許(ばかり)。黃色にして、餘(よ)は淡紅色、尾、上下俱(とも)に細長(ほそなが)にして、上は三寸半許り、出づ。黃色なり。下は三寸許、出(いで)、深紅色。眼の邊(あたり)、腮(えら)の上、背に及(および)て、黃色を帶(おぶ)。上に黑斑ありて、頭上より、尾の上に至る。

[やぶちゃん注:底本のここから次のコマにかけて。さて、種同定であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの宇井縫蔵氏の「紀州魚譜」(第三版・昭和七(一九三二)年刊)のこちらによって、

スズキ目スズキ亜目ハタ科ハナダイ亜科サクラダイ(桜鯛)属サクラダイ Sacura margaritacea

に同定されるが、畔田の記載は、「紅色」が有意に示されていることから、彼が扱った個体は同種のとなった個体であると考えられる。但し、当該ウィキによれば、『体長約』十五センチメートル。『雌雄で体の色や模様が異なる。雌性先熟で、生まれたときは全て』、『雌であるが、成長すると』、『雄に性転換する』。『雌はオレンジ色を基調とした体色で、背鰭の付け根に』一『対の黒色斑を持つ。雄は真紅の身体に白い斑紋が点在し、非常に美しい。また、婚姻色の雄は、顔の色が銀色に近い桜色となる』とある。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの画像で雌雄(三枚の真ん中の写真が♀)の違いが視認出来る。

「つるぐひ」同前の宇井氏の同見開きの右ページに「ツルグエ」が載り、条鰭綱スズキ目ハタ科ハナスズキ属ツルグエ(鶴虞絵(宇井氏の表記を参考にした)) Liopropoma latifasciatum とある。そこで宇井氏は田辺で『之に近いものにも用ひる』とある(実は宇井氏は「サクラダイ」の方にも同じ注記を示しておられる)。「近い」と言われても、WEB魚図鑑」の同種の画像を見ると、凡そ見間違えたり、同じ仲間とは思われない様相である。ようするに、ハタ科 Epinephelidaeのド派手な赤系統の体色を持つ多くの類に、この異名が多く使われていたものらしい。

「阿州堂浦」現在の徳島県鳴門市瀬戸町(せとちょう)堂浦(どうのうら:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。

「土佐浦戶」高知県高知市浦戸。坂本龍馬像があることで知られる。

「勢州阿曾浦」三重県度会郡南伊勢町(ちょう)阿曽浦(あそうら)

「をひろ」恐らく特徴的な分岐して先が延びた尾鰭の上下端からの「尾廣」であろう。

「黃檣魚」ワカサダヒ(キダイ)」で既注だが、再掲すると、『最近、この手の漢語の魚類名を検索してがっくりくるのは、検索結果に、本文も画像も、私のブログとサイトが掛かってきちゃうという鏡返し現象の現実である。一つは、ブログの『栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 ヒメ小鯛・黄檣魚 (キグチ?)』』(スズキ目スズキ亜目ニベ科キグチ属 Larimichthys (シノニム: Pseudosciaena )。同属の本邦産はキグチ  Larimichthys polyactis )『で、今一つは、サイトの「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「黄穡魚 はなをれだい」だ。「黃檣魚」の「黃檣」(おうしょう)は、目から鼻孔の部分と上顎の吻部が黄色く、また、背鰭に沿った背部にも三対の黄斑があることが由来で、さらにマダイ Pagrus majorに比して』、キダイは『成魚では鼻孔の周辺部が凹んでおり、口吻が前方に突き出た形になり、その形状が和船の帆を立てた帆柱(檣)に似ているからであろう。両書の内容は、よくキダイに一致しているとは言えるし、キダイの生息域は東シナ海大陸棚からその縁辺域にと広いから、問題ない』としたものである。

「决」前の「カネヒラ」に出た。「抉(えぐ)れて切れていること」の意。]

フライング単発 甲子夜話卷三十四 16 武雄山の白龍

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。漢文訓点の内、「各」の「〻」は踊り字「〱」であるが、かく代えた。因みに、返り点(一二点を使わずに、上下点を用いている)、及び、振られた送り仮名(一部は漢字の読み含む)は、かなり不全である。なお、底本(『東洋文庫』版)では、「龍」は総て『竜』とするが、私はこの「竜」の字を生理的に好まないので、総て「龍」とした。図があるのだが、底本の『東洋文庫』版は非常に薄く、加工してみたが、限界があるので、特異的に所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)にある宵曲の模写したそれを、OCRで読み込み、トリミング補正して並置して掲げた。前が原本、後が宵曲のもの。但し、宵曲のそれは、元の龍の顏とは、全然、似てないぞッツ!

 

34―16 武雄山(たけをやま)の白龍(はくりよう)

 

Hakuryugenzu

 

Hakuryouzusibatamosya

 

 去(いに)し寬政辛亥[やぶちゃん注:寛政三年。一七九一年。]の夏、長崎より、一客、來れり

 一夕(いつせき)、これと對話せしときの話に、客、所識(しよしき)の僧、先年、白龍(はくりよう)を見たり。その僧、妄言(まうげん)する者にあらず。眞實(しんじつ)、語(かたり)なり。

 予、輙(すなはち)、其(その)ことを記(しる)せんとす。

 客、曰く、

「僧、已に、其ことを、記(しる)せり。」

と。

 後(のち)に、その記事を得たり。

   視白龍

余到肥之武雄驛。日既桑楡旅舍シテ溫泉、而閑行逍遙焉。驛西之山、高キコト百餘仭、松樹雜ㇾ翠、磴道馮ㇾ虛。其巓石相倚而立、陰宕鬱㠥無ㇾ所ㇾ依。因振ㇾ衣而下。山半一巡左轉シテ、地狹シテ平坦、峭壁峙列。有池水。極淸冷。同行數子、各シテ以飮、散╸于峭碧之間。余獨盤╸シテ池頭、殿數子シテシテ。水中有ㇾ物、磷々乎。熟視スレバ則純白之龍也。雙角競、纖毛被ㇾ首。頤連蝟鬚。鱗鬣相映、皎潔甚於氷雪ヨリ。但瞳子淺黑ニシテ、大如豆實。兩足跨池底、擧ㇾ首正面。顏長七八寸、身圍可ㇾ拱腹心。而上凡二尋、下體卽不ㇾ見。蓋在于穴罅乎。貌不激烈ナラ。端嚴ニシテ且懿。配レバ乾爻、則膺九三乾乾惕若之象邪。余與ㇾ之隔ルコト數尺。相對斯須。而余不驚悸者、以彼貌ルヲ激烈ナラ乎。乃呼數子而曰。玆靈物、可シト而視。數子未ㇾ到。龍俄然トシテ矣。下ㇾ山還驛舍。以ㇾ事語ㇾ主。主異トシテㇾ之曰。恐クハ彼山之神也ナル乎。未ㇾ聞有ㇾ觀ㇾ焉者。實寶曆癸未秋七月廿一日也。長崎白龍大壽撰、幷書。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ。]

白龍山人、於ㇾ予有通家之誼。嘗爲ㇾ予談其観白龍之事。予聞ㇾ之以爲ㇾ奇矣。蓋山人以白龍自称者、拠ㇾ之也。今及ㇾ讀記文竊謂如ㇾ斯之奇、可一ㇾ傳乎。予遂請山人命ㇾ工。倂ㇾ圖剞劂焉。天明戊申夏五月、北島長孝識。

 

■やぶちゃんの呟き

 これ、実は一度、「柴田宵曲 妖異博物館 地上の龍」の私の注で電子化している。但し、Unicode導入以前であったため、漢字不全があるので、今回は全くの零から作業した。

 まず、「觀白龍記」の訓読を試みる。訓点は不全なので、送り仮名を追加し、読みは推定で歴史的仮名遣を用いた。恐らく作者は、殆んど音を用いているものと思うが、私のものは、敢えて読み易さを考えて、意図的に訓で意訓にしたところがある。また、段落を成形した。

   *

   白龍を視るの記

 余、肥の武雄(たけを)驛に到(いた)る。

 日(ひ)、既に桑楡(さうゆ)に在り。旅舍(りよしや)に就(つ)き、溫泉に浴して、而して、閑行逍遙(かんかうせうえう)す。

 驛西(えきせい)の山、高きこと、百餘仭、松樹(しやうじゆ)、翠(みどり)を雜(まぢ)へ、磴道(とうだう)、虛(こ)に馮(よ)る。

 其の巓(いただき)、石、相ひ倚(よ)りて、立ち、陰宕鬱㠥(いんたううつるい)、依る所、無し。

 因(よつ)て、衣(い)を振(ふり)て下(くだ)る。

 山の半(なかば)の一逕(いつけい)、左轉(さてん)して、地、狹(せば)くして、平坦、峭壁(しやうへき)、峙列(じれつ)す。

 池水(ちすい)有り。極めて、淸冷(せいれい)。

 同行(どうかう)の數子(すうし)、各(おのおの)、掬(き)くして、以つて、飮(いん)し、縹碧(へうへき)の間(かん)に散步す。

 余、獨り、池頭(ちとう)に盤桓(ばんくわん)して、數子(すうし)を殿(しんがりす)る。

 而して、偃(いこひ)して、飮(いん)す。

 水中、物、有り、磷々乎(りんりんこ)たり。

 熟視すれば、則ち、純白の龍なり。

 雙角(さうかく)、競ひ起こり、纖毛(せんもう)、首(かうべ)に被(かぶ)る。

 頤(おとがひ)、蝟鬚(いしゆ)、連なる。

 鱗・鬣(たてがみ)、相ひ映(は)え、皎潔(かうけつ)せること、氷雪(ひやうせつ)より甚だし。

 但(ただ)、瞳子(どうし)、淺黑にして、大いさ、豆の實(み)のごとし。

 兩足、池底(ちてい)に跨(またが)り、首(かうべ)を擧(あ)げて、正面(しやうめん)す。

 顏、長さ、七、八寸、身圍(みまはり)、腹心(ふくしん)を拱(こまね)く。

 而して、上(うへ)、凡そ二尋(ひろ)、下體(かたい)は、卽ち、見えず。

 蓋(けだ)し、穴(あな)の罅(ひび)の中に在るか。

 貌(かほ)、激烈ならず。端嚴(たんげん)にして、且つ、懿(うるは)し。

 諸(もろもろ)を、乾爻(けんこう)に配(はい)すれば、則ち、九三(くさん)の乾乾(けんけん)惕若(てきじやく)の象(かたち)に膺(あた)るか。

 余、之れと隔(へだ)つること、數尺。相ひ對して、斯(か)く、須(しばら)くす。

 而して、余、驚悸(きやうき)せざるは、彼(か)の貌(かほ)の激烈なたざるを以つてか。

 乃(すなは)ち、數子を呼びて、曰(い)ふ。

「玆(ここ)に靈物(れいぶつ)有る、來たりて視るべし。」

と。

 數子、未だ到らず。

 龍、俄然として、隱(かく)る。

 山を下り、驛舍に還(かへ)る。

 事を、以つて、主(あるじ)に語る。主、之れを、

「異(い)。」

として、曰く。

「恐らくは、彼(か)の山の神なるか。未だ、焉(これ)を觀(み)る者、有るを、聞かずざるなり。」

と。

 實(じつ)に寶曆癸未(みづのとひつじ/きび)秋七月廿一日なり。

 長崎、白龍大壽、撰(せん)し、幷びに、書(しよ)す。

   ※

白龍山人(はくりゆうさんじん)、予に於いて、通家(つうけ)の誼(よし)み、有り。嘗つて、予、爲(な)すに其の「白龍」を観しの事を談ず。予、之れを聞きて、以つて、「奇」と爲す。蓋(けだ)し、山人、「白龍」を以つて自称するは、之れに拠(よ)るなり。今、記文を讀むに及んで、竊(ひそ)かに謂(い)ふ、「斯(か)くのごとき奇(き)、可以つて傳へざるべきか。」[やぶちゃん注:反語。]と。予、遂(つひ)に、山人に請(こ)ひて、工(たくみ)[やぶちゃん注:ここは版木の彫り師。]に命ず。圖と倂(あは)せて剞劂(きけつ)[やぶちゃん注:彫刻。]焉(をはん)ぬ。天明戊申(つちのえさる/ぼしん)[やぶちゃん注:天明八年。一七八八年。]夏五月、北島長孝識。

    ※

   *

 語注する。これも、先の私の古いものを参考にせず、新たに附した。

「肥の武雄(たけを)驛」佐賀県武雄市(たけおし:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。

「桑楡(さうゆ)」夕日が樹木の枝にかかること。 夕方。

「溫泉」武雄市市街中心に「武雄温泉」が今もある。

「驛西(えきせい)の山」位置関係と標高(「百餘仭」=約二百十二メートル超)から、「御船山」(みふねやま)と推定する。「ひなたGPS」で戦前の地図の方を見ると、ピークを二百十一メートルとする(現在の国土地理院図では二百七・一メートル)。グーグル画像検索「武雄市御船山」を見ると、以下に記す景観と、遜色ない。

「磴道(とうだう)」石の坂道。

「虛(こ)」虚空、空の意で採った。

「馮(よ)る」向かう。

「陰宕鬱㠥(いんたううつるい)」「宕」は洞穴。「㠥」は岩山が幾重にも連なっているさま。

「峭壁(しやうへき)」切り立った険しいがけ。

「峙列(じれつ)」高く聳え、峙(そばだ)ち、しかも、それが列を成していること。

「池水(ちすい)有り」「ひなたGPS」を見て貰うと、御船山の東北から西にかけて、五つの池を確認出来る。「左轉」というのが不審だが、この孰れかであろう。候補としては、戦前の地図でも確認出来る、ここの「四十九重池」か「鏡池」に絞ってよいかとも思われる。

「縹碧(へうへき)」藍よりも少し碧(あお)い色。ここは池水のそれ。

「盤桓(ばんくわん)」うろうろと歩き回ること。 また、ぐずぐずすること。

「偃(いこひ)して」「偃」(音「エン」)には「憇う・休む」の意がある。

「磷々乎(りんりんこ)」水が透き通って、底の石の見えるさま。

「蝟鬚(いしゆ)」濃い髭(ひげ)。

「鬣(たてがみ)」背鰭。

「皎潔(かうけつ)」白く清らかで汚(けが)れのないさま。

「瞳子(どうし)」瞳孔。

淺黑にして、大いさ、豆の實(み)のごとし。

 兩足、池底(ちてい)に跨(またが)り、首(かうべ)を擧(あ)げて、正面(しやう「腹心(ふくしん)を拱(こまね)く」腹上部(その下部は隠れて見えない)と胸部部分で、「拱く」はその部分が「両手で抱えるほどの太さである」ことを言っているように思われる。

「上(うへ)、凡そ二尋(ひろ)」実際に見えているとする腹上部から頭部までの長さであろう。「尋」は本邦では五尺、或いは、六尺であるから、三メートルから三メートル六十四センチメートルほど。この言い方が、物理的に事実であるなら、もう、蟒(うわばみ)の類いで、実在する本邦のヘビではあり得ない。現行、最大種は爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora だが、それでも全長で三メートル超だからである。しかし、私は、この「龍」がアルビノ(白化個体)であることから、アオダイショウのアルビノであるだけでなく、下半身が潰れた奇形個体なのではないか? と推定するものである。

「乾爻(けんこう)に配(はい)すれば、則ち、九三(くさん)の乾乾(けんけん)惕若(てきじやく)の象(かたち)に膺(あた)るか」易(えき)は興味がなく、知りもしないので、注さない。先行電子化では、『よく判らぬが、易に基づく八卦から諸相を判断した、相を述べているのであろう』と誤魔化しているので、ここは正直に言っておく。

「寶曆癸未」「秋七月廿一日」宝暦十三年七月二十一日は、グレゴリオ暦で一七六三年八月二十九日。

「長崎」「白龍大壽」不詳。

「北島長孝」不詳。

2023/12/29

譚海 卷之九 鍋島家士坂田常右衞門夫婦の事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 鍋島家の士に坂田常右衞門と云(いふ)者、をさなきときより、妻を、おなじ家士の娘に約し、兩家の親、約諾(やくだく)終りて、結納をもやりたるに、常右衞門、はたちあまりのころ、江戶づめの役、さゝれ、出府せしが、篤實なる者にて、首尾能(よく)勤(つとむ)るほどに、段々、劇職にうつり、俸祿など加增ありて、年來(ねんらい)、江戶に在(あり)しが、常右衞門ならでは、江戶の事、治(をさ)まりがたきやうに成(なり)て、いくとしも、歸鄕のいとま、かなはず、數年(すねん)經たりしかば、約諾の娘も生長(せいちやう)に過ぎ、あまり、年久しく成(なり)ぬる事故、

「世悴(せがれ)、江戶にあれども、かくても、あるまじき事、我等も年寄(としより)ぬるまゝ、介抱にもあづかりたき。」

よしを、兩親、まめやかに、いひやりければ、娘の親も、

『もつともなる事。』

に思ひて、先づ、娘を、常右衞門親のもとへ、つかはしけるに、此(この)嫁、殊に、おなじき心ばへにて、常右衞門親に、よくつかへ、年々(としどし)を送りけれども、夫(をつと)は、なほなほ、歸國のゆるしもなく、江戶に在勤しけり。

 かゝれば、二、三十年も立(たち)ぬる事ゆゑ、終(つひ)には、しうと・しうとめも、をはりぬ。

 それまで、此よめ、つかへ、孝成(なる)事、見聞く人も、哀れを、もよほさざるは、なし。

 さて、常右衞門、四十餘年、江戶にありて、七十歲に及びて、天明[やぶちゃん注:底本では編者傍注があり、『(明和)』の誤りとする。]五年、はじめて、江戶の役を、ゆるされ、歸國せしかば、共に白髮の夫婦にて、はじめて婚姻の儀式、調ひたる、とぞ。

 珍敷(めづらしく)も、又、貞婦成(なる)事に、人々、感じかたり傳へける、とぞ。

[やぶちゃん注:「鍋島家」肥前国佐賀藩主鍋島家。江戸出仕時は第五代藩主鍋島宗茂で、明和五(一七六八)年当時は第七代藩主鍋島重茂(しげもち)の治世。実に三代を通じて、坂田常右衛門を不憫と思わなかったということは、代々が、人情を解さぬ糞藩主であったと断じる外はない。いやさ、「鍋島藩残酷物語」である。

「劇職」激務の要職。]

ブログ・アクセス2,060,000突破記念 只野真葛 むかしばなし (122) 「むかしばなし」後書+工藤氏系譜・桑原氏系譜 / 「むかしばなし」電子化注~完遂!

[やぶちゃん注:本最終電子化は、三日前の十二月二十七日に、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが2,060,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年十二月二十九日 藪野直史】]

 

  書昔話後

昔話六卷、藩醫工藤周庵之女眞葛所筆記也。系譜附于後、以示於此記耳。周庵及眞葛之筆記數部、存于其家云云。

  乙卯春書省齋南窓下    佐々城直知

 

[やぶちゃん注:以上は、底本では全体が三字下げ。最後の署名は、底本では三字上げ下インデント。推定で訓読しておく。

   *

  「昔話」の後(あと)に書す

「昔話」六卷、藩醫工藤周庵の女(むすめ)眞葛、筆記する所なり。系譜、後(あと)に附き、以つて此の記を讀む者に示すのみ。周庵、及び、眞葛の筆記、數部、其の家に存(そん)すと云云(うんぬん)。

  乙卯春書省齋南窓下    佐々城直知

   *

「乙卯」安政二(一八五五)年。因みに、真葛は文政八年六月二十六日(一八二五年八月十日)に没している。享年六十三であった。

「佐々城直知」佐々城朴安(ささきぼくあん 天明五(一七八五)年~文久元(一八六一)年)は医師。陸奥桃生郡(現宮城県)出身。直知は本名。通称は他に「朴庵」がある。「省齋」は号。京都で婦人科学を学んだ。文化一一(一八一四)年、陸奥仙台藩の医員となり、「医学館」の付属薬園長・婦人科教授に就任した。天保四(一八三三)年には、「救荒略」を著し、飢饉の際に食用となる草木二百三種を紹介している。他の著作に「救民単方」などがある。

 以下の系譜は、例式で罫線でずっと繋がっているが、ブラウザでは加工が困難であるから、略記号に代えた。各人の表記はポイントが大きく、その事績本文は二行割注であるが、【 】で、本文(訓点は下・上附きは再現した)ポイント落ちとし、ブラウザの不具合を考え、長いものは適宜改行した。特に難しくもないので、訓読・注は附さない。底本の『原傍註』とある箇所は[ ]で入れた。割注の最後には句読点がないが、句点を打った。

 

工藤氏系譜略

 

○工藤丈庵【獅山樣御代被召出一袖ケ崎邸御隱居後同邸定詰。】

┗周庵【丈庵養子、實徹山樣御代還俗被仰付、號平助、出入司勤仕。】

 ┃

 ┣女子【藩士只野伊賀爲後妻、號眞葛、無ㇾ子、母桑原隆朝之

 ┃   嫡女、眞葛卒歲。】

 ┣長庵【早世。】

 ┣女子【津輕侯之臣雨森權八郞妻。】

 ┣女子【田安樣奉仕、御姬樣松平越前守樣御入輿付、御附御老女

 ┃   相勤候所、御姬樣御卒去付、其後爲ㇾ尼、號瑞性院

 ┃   天保六年卒。】

 ┃  【右御姬樣、桑名少將定信松平越中守[初居城奧州白川。]、實

 ┃   田安中納言宗武卿御三男、依臺命定邦侯養子、隱居而

 ┃   樂翁

 ┃   桑名少將樂翁侯ノ御姪樣付、樂翁樣時々罷出候付、樂翁樣

 ┃   御書數通持居候付、乞受取而私方ニも數通持居申候。瑞性院手

 ┃   跡もよく、觀音經認候を私も所持仕居申候。】

 ┣源四郞【平助家督、御近習相勤、眞葛只野伊賀方後妻相成、

 ┃    江戶ヨリ罷下候砌、同伴罷下候、文化年中病死。】

 ┣周庵【三代目之桑原隆朝二男、源四郞急病

    養子、今安政二乙卯盲目ニテ年五十餘歲、

    北三番丁木町通ヨリ二軒目。】

 

桑原氏系譜略

 

初代

○桑原隆朝【生國氏系不ㇾ知、忠山樣御代橘家ヲ爲人元

 ┃   召出。】

 ┃

 ┣女子【工藤平助妻。】

 ┃

 ┃二代目

 ┣隆朝【桂山樣御代御藥上相勤、妻谷田太郞左衞門娘也。

 ┃   谷田氏其節公儀使ニテ定詰。】

 ┃

 ┃三代目

 ┣隆朝

 ┃

 ┃四代目

 ┣隆朝【當時御近習相勤、住二同心町玄貞坂行當リヨリ西ノ方南側。】

 ┃

 ┗周庵【工藤氏爲養子。】

 

工藤平助女子七人有ㇾ之、秋の七草たとへ名付候付、只野伊賀妻私繼母眞葛と申候。[外女子四人緣付候所承合候而追々可申上候。]右兩家之系譜御聞被ㇾ成度旨御問合付、大略申上候。委敷義は昔話御參考被ㇾ成候得者、相知可堅甲候。以上

  十一月廿日        眞山杢左衞門

[やぶちゃん注:以上の署名は、底本では三字上げ下インデント。]

  佐々城朴安樣

 

 尙々私儀は只野伊賀次男ニ而、眞山養子相成候付、繼母之緣ニ而兩家之系統承居候處ヲ、匆々申上候。尙亦委く工藤桑原へ御聞被ㇾ成候方と奉ㇾ存候。以上

 

[やぶちゃん注:この只野真葛の「むかしばなし」の電子化は、二〇二一年二月二日に始動したが、途中、他の電子化注にかまけて、中断多く、結果、三年足らずかかってしまった。当初、底本のルビを( )で、私の推定歴史的仮名遣のルビを《 》にしていたものを、長くペンデイングしている中で、途中から逆転させてしまったミスも起こしてしまった。数少ない読者に御礼とともに、陳謝しておく。]

只野真葛 むかしばなし (121) 玉の話 / 「むかしばなし」本文~了

 

一、田沼樣、退役有(あり)し當坐に、寺社奉行をつとめらる大・小大名のつかひ番の足輕、夜中に、柳原の土手を通りしに、つまづきたる物、有(あり)。

 よりて、あかりにて、見れば、眞黑(まつくろ)ぬりの箱に、萠黃(もえぎ)さなだの紐、つきし物なり。

 其中を、ひらき見しに、また、「かぶせ蓋(ぶた)」有て、ちりめんの「あわせふくさ」、又、「わた入(いれ)ふくさ」などに、丁寧に包(つつみ)たる中(なか)に、卵(たまご)より、少し、おほめなる玉(たま)入(いり)て有しが、手につかめば、人肌(ひとはだ)ぐらひ[やぶちゃん注:ママ。]に、あたゝかみ、有(あり)、おせば、少し、

「ふわふわ」

といふくらひ[やぶちゃん注:ママ。]にやわらかにて、手をはなせば、元のごとく、ふくれる物なりし、とぞ。

 何かは、しらず、とりて、懷中し、歸り、主用(あるじのよう)終りて後(のち)、部屋にて、ばくちをうちしに、座中、惣(そう)ざらい[やぶちゃん注:ママ。]をして、あくるひ、紋付など、其頃は、おほき物なりしを、いづれを、つけても、あたりしほどに、おもしろくおもひ、神明(しんめい)に行(ゆき)て富(とみ)[やぶちゃん注:富籤。]をつけしに、「一ノ富」にあたりて、百兩、取(とり)し、とぞ。

「誠に、ひろひし玉の奇特ならん。」

と、いひ合(あひ)しを、手狹(てぜま)なる家中(かちゆう)のこと故、だんだん、上へも聞えしかば、

「其玉を上(あげ)よ。」

と、いはれて、いだしたれば、取上(とりあげ)と成(なり)し、とぞ。

 ひそかに、公義へ、さし上られしとの事なり。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落してある。]

 其玉は、「天草陣(あまくさのじん)」の落城のあとに有(あり)しものにて、公義御寶物なりしを、如何してか、田沼が所持して有(あり)しほどに、めきめきと、立身出世せられしを、退役候後(のち)、御あらためあらん事を、おそれて、ひそかにすてしを、ひろひしものにて、内々(ないない)、公義、御たづねの品ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、早速、上られしと沙汰、仕(つかまつり)たりし。

 御城内へ、あらたに、御寶藏、立(たて)て、おさまりし、との事なり。

[やぶちゃん注:「57」で真葛は田沼意次について、以下のように評している(下線太字は私が附した)。「田沼とのもの守と申人は、一向、學文なき人にて有し。今の人は惡人のやうに思ど、文盲なばかり、わるい人では無りしが、其身、文盲より、書のよめる人は、氣味がわるく思われしかば、其時の公方樣をも、書に眼の明ぬ樣にそだて、上、御身ちかくへ、少しにても、學文せし人は、寄られざりし故、出世のぞみ有人は、書を見る事を、いみ嫌いし故なり。」。「悪い人ではない」と言うやや好評価であるのは、意外に感じられるが、それには、別に理由がある。実は、彼は仙台藩医であった真葛の父工藤平助と強い接点があったからである。詳しくは、平助の当該ウィキを見られたい。

「柳原」東京都千代田区の北東部で、神田川南岸の万世橋から浅草橋に至る地域の古くからの通称(グーグル・マップ・データ)。神田川右岸の通り。現在も「通り」名として「柳原通り」が残る。

「神明」現在の東京都港区芝大門一丁目にある芝神明宮(グーグル・マップ・データ)。公式サイトの「由緒」によれば、伊勢神宮の祭神である天照大御神(内宮)・豊受大神(外宮)の二柱を主祭神とし、鎮座は平安時代の寛弘二(一〇〇五)年、一条天皇の御代に創建されたとある。古くは飯倉神明宮・芝神明宮と称され、鎌倉時代には源頼朝の篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代には徳川幕府の篤い保護の下、大江戸の大産土神(うぶすながみ)として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を受けた、とある。江戸時代には富籤(とみくじ)興行が行われたことで知られる。

 なお、参考底本とした一九九四年国書刊行会刊の「江戸文庫 只野真葛集」(鈴木よね子校訂・新字表記)の鈴木氏の解説に、本書の『興味深い』点として、三つを挙げておられ、まず、『第一に華やかな天明期前後の江戸の文化を闊達な口語文体で写しとった点』を示され、『第二に、序に明記されてあるように』、『実家の滅びた原因を女の悪念とし、それを全編の主題とした点が挙げられる。都市の共同幻想』(「都市伝説」)『と関連させている』特徴を指摘され、『第三に、女性に拠る家の記が書かれた点でも興味深い。その場合の家の概念も特殊である。あくまで長井家という武士の末裔としての父がいて、それを中心としたものであり。必ずしも医家工藤家の系譜を指していない。文章中には、女でありながら』、『尊敬する父になりかわろうとする気持ちも述べられていて、いわゆるエレクトラ・コンプレックスが指摘される。母に関する記述が少ないことも同様の原因によるものと思われる』と締め括っておられる。この第三の分析は、非常に優れており、真葛の病跡学的な新たな地平が見えてくる気がした。

只野真葛 むかしばなし (121) 玉の話 / 「むかしばなし」本文~了

 

一、田沼樣、退役有(あり)し當坐に、寺社奉行をつとめらる大・小大名のつかひ番の足輕、夜中に、柳原の土手を通りしに、つまづきたる物、有(あり)。

 よりて、あかりにて、見れば、眞黑(まつくろ)ぬりの箱に、萠黃(もえぎ)さなだの紐、つきし物なり。

 其中を、ひらき見しに、また、「かぶせ蓋(ぶた)」有て、ちりめんの「あわせふくさ」、又、「わた入(いれ)ふくさ」などに、丁寧に包(つつみ)たる中(なか)に、卵(たまご)より、少し、おほめなる玉(たま)入(いり)て有しが、手につかめば、人肌(ひとはだ)ぐらひ[やぶちゃん注:ママ。]に、あたゝかみ、有(あり)、おせば、少し、

「ふわふわ」

といふくらひ[やぶちゃん注:ママ。]にやわらかにて、手をはなせば、元のごとく、ふくれる物なりし、とぞ。

 何かは、しらず、とりて、懷中し、歸り、主用(あるじのよう)終りて後(のち)、部屋にて、ばくちをうちしに、座中、惣(そう)ざらい[やぶちゃん注:ママ。]をして、あくるひ、紋付など、其頃は、おほき物なりしを、いづれを、つけても、あたりしほどに、おもしろくおもひ、神明(しんめい)に行(ゆき)て富(とみ)[やぶちゃん注:富籤。]をつけしに、「一ノ富」にあたりて、百兩、取(とり)し、とぞ。

「誠に、ひろひし玉の奇特ならん。」

と、いひ合(あひ)しを、手狹(てぜま)なる家中(かちゆう)のこと故、だんだん、上へも聞えしかば、

「其玉を上(あげ)よ。」

と、いはれて、いだしたれば、取上(とりあげ)と成(なり)し、とぞ。

 ひそかに、公義へ、さし上られしとの事なり。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落してある。]

 其玉は、「天草陣(あまくさのじん)」の落城のあとに有(あり)しものにて、公義御寶物なりしを、如何してか、田沼が所持して有(あり)しほどに、めきめきと、立身出世せられしを、退役候後(のち)、御あらためあらん事を、おそれて、ひそかにすてしを、ひろひしものにて、内々(ないない)、公義、御たづねの品ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、早速、上られしと沙汰、仕(つかまつり)たりし。

 御城内へ、あらたに、御寶藏、立(たて)て、おさまりし、との事なり。

[やぶちゃん注:「57」で真葛は田沼意次について、以下のように評している(下線太字は私が附した)。「田沼とのもの守と申人は、一向、學文なき人にて有し。今の人は惡人のやうに思ど、文盲なばかり、わるい人では無りしが、其身、文盲より、書のよめる人は、氣味がわるく思われしかば、其時の公方樣をも、書に眼の明ぬ樣にそだて、上、御身ちかくへ、少しにても、學文せし人は、寄られざりし故、出世のぞみ有人は、書を見る事を、いみ嫌いし故なり。」。「悪い人ではない」と言うやや好評価であるのは、意外に感じられるが、それには、別に理由がある。実は、彼は仙台藩医であった真葛の父工藤平助と強い接点があったからである。詳しくは、平助の当該ウィキを見られたい。

「柳原」東京都千代田区の北東部で、神田川南岸の万世橋から浅草橋に至る地域の古くからの通称(グーグル・マップ・データ)。神田川右岸の通り。現在も「通り」名として「柳原通り」が残る。

「神明」現在の東京都港区芝大門一丁目にある芝神明宮(グーグル・マップ・データ)。公式サイトの「由緒」によれば、伊勢神宮の祭神である天照大御神(内宮)・豊受大神(外宮)の二柱を主祭神とし、鎮座は平安時代の寛弘二(一〇〇五)年、一条天皇の御代に創建されたとある。古くは飯倉神明宮・芝神明宮と称され、鎌倉時代には源頼朝の篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代には徳川幕府の篤い保護の下、大江戸の大産土神(うぶすながみ)として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を受けた、とある。江戸時代には富籤(とみくじ)興行が行われたことで知られる。]

只野真葛 むかしばなし (120) 折助のこと

 

一、「ぞうり取(とり)」を「折助(をりすけ)」とつけること、昔は世上一面(せじやういちめん)のことにて、ぞうりつかみて、ありくものをば、

「どこの折助ぞ。」

と、いひしなり。ワ、七ばかりのことなりし。ある下女(げぢよ)、他(ほか)の屋敷のぞうり取と、なじみ、戀したひしてい[やぶちゃん注:「體(てい)」。]、おかしかりしかば、

「折助どのは、なぜ、おそひ[やぶちゃん注:ママ。]。わらじができぬか、御門(ごもん)どめか。」

と、うたに作りて、うたひしが、大はやりと成(なり)、それより、いろいろ、下男のあざなを作りだし、「折助」とよばるゝ身には、氣の毒におもふこと、おほかりし故、一とう、其名をはぢることゝなりて、工藤家にても、やはり、ぞうり取は、「折助」といふが、通り名にて有(あり)しを、下男のかたより、

「何卒、折助の外(ほか)の名をつけ被ㇾ下度(たし)。」

と願(ねがひ)し故、やめたりし。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落している。]

 其ころの「地口(ぢぐち)あんどん」に、中元(ちゆうげん)[やぶちゃん注:「中間」に同じ。]が鍋を背おひし所を書(かき)て、

「折助どのは鍋をしよい」

と書(かき)しことも有し。

 又、「熊坂(くまさか)の長範《てうはん[やぶちゃん注:ママ。]》とおぼしき出(いで)だちの武者(むしや)、西瓜(すいか)みせへ、とび入(いり)、長刀(なぎなた)にて、西瓜を切(きり)し所を書(かき)て、

「うすあかどのとは夢にもしらず」

 また、大荒若衆(おほあらわかしゆ)の兩手に、深編笠をさし上(あげ)て、にらみし形(かたち)、腰より下は、ほそぼそと仕(したて)たる形、かうのづに、しのぶの裾模樣のふり袖にて、黑ぬりの駒下駄をはきし足つき、手とは、かわり[やぶちゃん注:ママ。]て、しなやかなり。上に、「鎌倉の權五郞かげまさ」。是等、なにとなく、をかしみ有(あり)て、其ころのできなりと、おぼへし。

[やぶちゃん注:「折助」江戸時代、武家に使われた中間(ちゅうげん)や小者(こもの)の異称・卑称である。「折公」「駄折助」などとも呼んだ。「折助根性」(折助が一般に持つ性質で、人の前では働くが、人の見ていない所では、極力、働かないでいようという、ずるい気持ちを言う卑称)や「折助凧(をりすけだこ)」(武家の下僕などが気どって歩くときにする、袂(たもと)の先を、中から、つかんで、袖を左右に引っぱった形に似せて作った凧。奴凧(やっこだこ))などの卑語が生まれた。また「奴」(やっこ)の語源も、この連中の本来の謂いである「家つ子(やつこ)」(やっこ)だとされている。「折」の語源は、小学館「日本国語大辞典」の「おりすけ」に、『⑴赤坂辺に住んでいたオリスケ(折助)という下男の名前から』、『⑵主人の後先になって立ち働く所作が、折句の題をおもわせるためか』、『⑶尻を端折ったような短いはっぴ姿に対するあだ名からか』とあった。

「地口あんどん」「地口行燈(灯)」。「ぢぐちあんどう」とも。地口を書いた行灯。多く、戯画を添えて描き、祭礼の折りなどに路傍や軒先などに掛けられた。「地口」。

「熊坂の長範」小学館「日本大百科全書」の「熊坂長範」によれば、『生没年不詳。平安末期の大盗賊。実在の人物として証拠だてるのは困難であるが、多数の古書に散見し、石川五右衛門と並び大泥棒の代名詞の観がある。出身地は信州熊坂山、加賀国の熊坂、信越の境(さかい)関川など諸説ある。逸話に』よれば、七『歳にして寺の蔵から財宝を盗み、それが病みつきになったという。長じて、山間に出没しては旅人を襲い、泥棒人生を送った』が、承安四(一一七四)年の『春、陸奥(むつ)に下る豪商金売吉次を美濃青墓(みのあおはか)の宿に夜討ちし、同道の牛若丸に討たれたとも伝わる。この盗賊撃退譚』『は、義経』『モチーフの一つではあるが、俗説の域を出ない。謡曲』「烏帽子折(えぼしおり)」や「熊坂」、能狂言「老武者」、歌舞伎狂言「熊坂長範物見松(ものみのまつ)」は『長範を扱って有名』とある。

「大荒若衆」滋賀県高島市新旭町安井川にある大荒比古(おおあらひこ)神社(明治初年までは「河内大明神」と称していた)の例祭「七川祭」(しちかわまつり:現在は五月四日に行われる)の若い衆によって行われる派手な「奴振り」(やっこぶり)を喩えたものだろうか。「うずら」さんのブログ「おかんのネタ帳」の「七川祭 奴振り」を見られたい。写真がある。

「かうのづ」は「香の圖」で、元来の意味である「源氏香の図」(五本の線を基本として、組香(くみこう)の違いを示したものから転じて、それを象った紋所、或いはそれを文様化したものを、ここでは指す。私は前面にそれを散らしたハンカチーフを持っている。知られたものでは、岩波書店版初版の「鏡花全集」の本体のデザインが、真っ先に浮かぶ。

「鎌倉の權五郞かげまさ」私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社」の注を参照されたい。]

2023/12/28

只野真葛 むかしばなし (119) 力士「谷風」と蕎麦食いを張り合った役者澤村宗十郎のこと

 

一、鐵山樣[やぶちゃん注:これは「徹山樣」の誤記。既に何度も注しているが、仙台藩第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)のこと。彼の戒名「叡明院殿徹山玄機大居士」に基づく。彼は宝暦六(一七五六)年七月、父宗村の死に伴い、家督を相続し(但し、当時、未だ十五歳であったため、若年を理由に、幕府より、国目付が派遣され、叔父の陸奥一関藩主田村村隆の後見を受けた)、寛政二(一七九〇)年に次男斉村(なりむら)に家督を譲って隠居した。]の御代に出(いで)しは「谷風」なり。

 近頃のこと故、人もしれば、かゝず。

 命、ながくて、世人(せじん)にしられたれど、「まる山」は、それにも、まさりしものならんが、其間、みじかゝりし故、江戶人なども、今は、しるもの、すくなかるべし。

 其世に名を得し澤村宗十郞、「まる山」と、そばの食(くひ)くらせしことも、人の、よく、しりし事なりしが、後(のち)は、しる人もなくなりぬべし。

[やぶちゃん注:前の「118」の横綱丸山に触発されて記されたもの。

「谷風」谷風梶之助(たにかぜかじのすけ 寛延三(一七五〇)年~寛政七(一七九五)年)は、「奥州ばなし 丸山 / (菊田喜大夫)」の「丸山」の最後にちらっと出るので、見られたい。注もしてある。事実上、史上初の実在した横綱である。

「澤村宗十郞」歌舞伎役者の四代目澤村宗十郎(天明四(一七八四)年~文化九(一八一三)年)。文化八(一八一一)年十一月、市村座において、四代目澤村宗十郎を襲名し、大当りをとったが、翌年十二月、病いにより没した。享年二十九。]

 此宗十郞、そば好(ずき)にて、手打の「そばみせ」を出(だ)し、狂言やすみの折(をり)は、其みせへ、女客、おほく來り、繁昌せし、とのことなりし。

「其頃、『おはなこま』といふ博打、はやりて、役者などの、もはら[やぶちゃん注:「專」。]、せしことなりしが、宗十郞、いつも『おはなこま』にまけると、駕(しのぐ)にも、かけおちして、舞臺を引(ひき)し時、御城女中(ごじやうぢよちゆう)[やぶちゃん注:江戸城大奥勤めの女中。]より合(あはせ)て、「つぐのひ金(きん)」して、舞臺へ、いだせし事、數度(すど)有(あり)し。」

と、ばゞ樣、常のはなしなりし。

[やぶちゃん注:サイト「ゲームの会ボードウォーク・コミュニティー」の「お花こま」に、『お花こま・お花コマ・お花独楽』とあり、『江戸時代に街角で行われた遊戯。六角柱の木材に心棒を付けた独楽で』六『つの側面に絵を描いてある。別にその』六『つの絵を描いた紙を用意し、これに賭け金を出させる。独楽を回し、回り終わって倒れた時に、書けた絵が上面に出ていれば賭け金の』四・五『倍程度の賞金が帰ってくる仕組み。絵柄が、お花半七、お染久松などが描かれていたので、お花独楽と言う』とあって、画像も載る。見られたい。]

 文化年中に「宗十郞」といひしが、「ぢゞ」にて、男ぶりよく、至極の風雅人にて有しとのはなしなり。

「役者の妻など、不義有(ある)事は、いさめがたし。」

とて、「女房」といふ名のつきし女、五人ばかり、常に、もちて、所々に、かこひおき、氣にむきたる所にとまり、其身、かへりて、間男(まをとこ)の氣どりにて、たのしみし、とのことなりし。

 上方へのぼるとて、いとまごひに海老藏方へ行(ゆき)し時、屁(へ)の出(いで)しを、

  ふつと立(たつ)顏にもみぢの置(おき)みやげ

と、いひしかば、

  餘りくさゝにはなむけもせず

と、海老藏つけし故、

「此歌にて、ことすみし。」

とて、其頃の世人、いひはやせしとて、ばゞ樣のはなしなり。

 宗十郞、俳諧上手にて、よき句ども、あまた有しとぞ。

  くどかれて火ばちのはいもうつくしく

などいふ、口つきなり。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」一時更新中止

本日、接続して判ったのだが、「国立国会図書館デジタルコレクション」は昨日より、一月四日までの間、「NDLオンライン」へのログインが休止しているため、当該底本を視認出来ないことから、更新を中止する。一月五日に再開する。

只野真葛 むかしばなし (118) 力士「丸山」

 

一、忠山樣御代に、御家老衆の徒步(かち)のものとなりてのぼりし内、權太左衞門といふ男、勝(すぐれ)たる大男にて有(あり)しが、江戶見物を願(ねがひ)て、供人となり、登りしに、大男のくせ、道下手(みちべた)にて、身は、おもし、一日に二足のわらじをふみ切(きり)しに、道中、出來合(できあひ)のわらじ、なく、宿へつきてより、我(わが)足にあふほどに作(つくり)て、はかねばならず、二足のわらじをつくるうちには、いつも御供ぞろひとなり、日中、つかれても、馬にのれば、足が下へ、つきて、ゆかれず、終日(ひねもす)、あゆみては、又、とまりには、わらじつくる故、やうやう、江戶まで來り、あくる年は、

『ぜひ、道中がならぬから、江戶にとゞまりたし。』

と思ひしを、世話やく人、有(あり)て、

「相撲(すまふ)になれ、」

と、すゝめし故、終(つひ)に相撲には成(なり)し、とぞ。

 是は、桑原ぢゞ樣、つとめ中(ちゆう)故、始終のこと、よく御ぞんじなりし、とぞ。

 いまだ、主人は、沙汰なしにて、内々、

「相撲に、ならん。」

といふかけ合(あひ)せし時、しごくの密談なるに、いくら聲をひそめても、喉(のど)、ふとく、大桶の底をたゝくごとくにて、

「權太左衞門、密談の事(こと)有(あり)。」

とは、その長屋中は申(まふす)におよばず、又々、隣(となり)の長屋までも、しれて有し、とぞ。

 手判(てはん)をおすに、半紙一枚ヘ、一ぱいにおされしを、大はやりにて、人々、もとめしほどに、一枚百文にうりし、とぞ。

 仙臺まる山といふ所の生(うまれ)なりし故、「まる山」と名のりしなり。

 一向、相撲の手をしらず、たゞ兩手にて、おしいだすに、こらへしもの、なかりし、とぞ。

 江戶・京・大坂を經て、長崎にいたり、「まる山」といふ所にて、死(しし)たりしは、おしきことなりし。

 仙臺「まる山」に生れて、長崎の「丸山」にて死せしも、不思議のことなり。

 御國(みくに)には、折々、名代の關取、いづる所なり。

[やぶちゃん注:「奥州ばなし 丸山 / (菊田喜大夫)」の「丸山」が同一人物の話であるが、こちらの方が、話が、しっかりしており、特に後の半分が、そちらには、ない。

「仙臺まる山」実在した第三代横綱とされる「丸山權太左衞門」は、上記リンク先の私の注を見られたいが、現在、彼の生地は、陸奥国遠田郡中津山村、現在の宮城県登米(とめ)市米山町(よねやままち)中津山(なかつやま:グーグル・マップ・データ。以下同じ)の出身とされている。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、「丸山」の地名はない。しかし、ここには旧「米山村」で、字名に「中津山」がある点で、「山」が入る地名ではある。なお、宮城県仙台市泉区野村丸山なら、ここにあり、ここは仙台市街の北直近で、真葛が、誰かに、東北弁で訛った発音で「むらやま」を「まるやま」と聴き違え、城下近くの知られる地名として、こちらに誤認した可能性があるようにも思われる。

「長崎」「まる山」古くから知られた花街であった。現在の長崎県長崎市丸山町(まるやままち)。なお、ウィキの「丸山権太左衛門」では、『死因は赤痢と言われている』とあるのだが、しかし、『日本庶民生活史料集成」版の中山栄子氏の注によれば、丸山は、『長崎で剣客を破り』、『怨みをか』って、『毒殺された』とあった。

只野真葛 むかしばなし (117) 力士「布引」と柔の使い手「佐藤浦之助」の勝負

 

一、靑山樣御代(みよ)に、「布引(ぬのびき)」といひし角力取(すまひとり)有(あり)しが、其由來は、ある時、

『ちからを、ためさん。』

と、おもひて、日本橋ヘ出(いで)て、くるまうしのはしり行(ゆく)を引(ひき)とゞめしに、牛は、はしりかゝるいきほひ、こなたは、大力にて、ひかへしを、引合(ひきあひ)て、くるま、中(なか)より、われて、左右へ、わかれし、とぞ。

[やぶちゃん注:「靑山樣」「伊達騒動」の火中を生きた仙台藩四代藩主伊達綱村。万治三(一六六〇)年七月、父綱宗の叔父に当たる伊達宗勝(陸奥一関藩主)の政治干渉や、家臣団の対立などの様々な要因が重なり、父が強制隠居させられ、僅か二歳(満年齢で一歳四ヶ月)で家督を相続し、元禄一六(一七〇三)年に養嗣子で従弟の吉村に後を譲って隠居した。]

 それより後(のち)は、牛の胸へ布をかけて引(ひき)しに、いつも、とゞまりし故、「布引」とは、つきしぞ。

「天下に、まれなる力士。」

と、いはれしを、茶の湯しゃ[やぶちゃん注:ママ。「ゃ」もママ。「茶の湯者」であろう。]の大名【六萬石ばかり】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、松浦(まつら)ちんさいと申御人(ごじん)かゝへに被ㇾ成て、

「凡(およそ)、天下に、我(わが)かゝへのすまふを、なげる人は、あらじ。」

と、自慢有(あり)しを、かねて靑山樣にも御じゆこん[やぶちゃん注:ママ。「御昵懇(ごぢつこん)」。]なりしうへ、御家中にも、かれ是、茶の弟子、有(あり)しとぞ。

[やぶちゃん注:「松浦ちんさい」肥前国平戸藩第四代藩主松浦重信(元和八(一六二二)年~元禄一六(一七〇三)年)。隠居後に諱を、曾祖父と同じ鎮信(しげのぶ)へと改めており、その漢字表記の方が知られているが、ここの出る「ちんさい」の号は確認出来ない。彼は「甲子夜話」で知られる松浦(静山)清の事実上の五祖父である。

 以下は底本でも改段落してある。]

 靑山樣、仰出(おほせいだ)さるゝは、

「御家中に『布引』を、なげんとおもふ、おぼえのものあらば、申(まふし)いでよ。」

と、御(おん)ふれ、有(あり)しに、村方の役人とか、つとめし人に、佐藤浦之助といへ[やぶちゃん注:ママ。]しもの、小兵(こ《ひやう》)にて、大力の柔(やはら)とりにて有しが、

「拙者こと、ひしと、かゝり柔《やはら》鍛鍊(たんれん)仕(つかまつ)りなば、なげ申べし。」

と、申上たりしを、

「さあらば。」

とて、けいこ被仰付、其内は、日々、鴨二羽を食(しよく)に給(たまは)りし、とぞ。

 日(ひ)有(あり)て、

『わざも、熟したり。』

と、おもひしかば、そのよしを申上し時、松浦へ仰入(おほせいれ)らるゝは、

「手前家中に『布引』と力をこゝろ見たしと願(ねがふ)ものゝ候。いかゞしきことながら、くるしからずおもはれなば、御なぐさみながら勝負を御覽候わんや[やぶちゃん注:ママ。]。」

と被仰遣しに、もとより、角力好(すまひずき)の松浦なれば、

「興(けう)有(ある)事。」

と悅(よろこび)て、

「いそぎ、こなたへ被ㇾ遣よ。」

と、挨拶有(あり)しかば、浦之助を被ㇾ遣しに、

『あなたは、名におふ關取なり。こなたは、常より、小ひよう[やぶちゃん注:ママ。]にて、いかでか、是が勝(かつ)べきぞ。』

と、たちおふ事さへ、おかしきほどに、人々、おもひしに、

「ひらりひらり」

と、ぬけくゞりて、中々、布引が手にのらず、いかゞはしけん、大男をかつぎて、

「ひらり」

と、なげり[やぶちゃん注:ママ。]たりけり。

 人々、案に相違して、おどろき、ほめて有し、とぞ【浦之助は、「大ひよう[やぶちゃん注:ママ。]大力の男にとらへられては、必定、まけなり。」とて、工夫して、手にとられぬやうに、立𢌞(たちまは)りし、とぞ。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 松浦殿、興に入(いり)、

「すぐすぐ、是(これ)へ、是へ。」

とて、浦之助を、はだかのまゝ、女中なみ居(をり)し奧坐敷へ、とほされ、側(そば)ちかく、めされて、

「今日のふるまひ、誠におどろき入(いり)たり。是は、いかゞしけれども、つかはす。」

とて、二重切(にぢゆうぎり)の花生(はないけ)【名器なり。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。「二重切」は竹の花入れの一種で、二つの節の間に、各々、窓をあけ、水溜めも二ヶ所つけたもの。利休の創始による。]を手づから賜り、

「さて、此座にある女のうち、いづれにても、其方が心にかなひしを、妻に、つかはすべし。いざいざ、のぞめ。」

と有(あり)ければ、いなかそだちの無骨もの、女中なみ居しまん中へ、まるはだかにて、引(ひき)いだされ、おもひがけなき御ことばに、當感して有(あり)けるが、

『見めよき女は、我に、一生、つれそうまじ。』

と、おもひて、一番みにくきも[やぶちゃん注:ママ。衍字であろう。]顏の女を望みて、かへりし、とぞ。

 さてこそ、浦之助を、「日の下(もと)かいざん」とは、つけられし、とぞ。「布引」は、浦之助に、やわらの手にて、なげられしを、生涯、『むねん。』にて有(あり)し、とぞ。

[やぶちゃん注:この話、「奥州ばなし」にも「佐藤浦之助」として同話が載る。そちらの注を見られたい。]

只野真葛 むかしばなし (116) 仇討ち二話

 

一、長井工藤のぢゞ樣がた、むかしなじみの人に、父のあだを打(うち)、後(のち)に醫となりし人、兩人、有(あり)しが、いづれも、骨、ふとく、大男、力もさぞ有べし。醫は、餘り、上手にては、なかりし、とぞ。

 其内、壱人の、つたひは、あだをねらう身なれば、常にさして、おもし、と、思ふほどの刀をさして居(をり)たりし、とぞ。

 しかるに、大坂の町中にて、あるとき、ふと、敵(かたき)に行合(ゆきあひ)、なのりかけて、立(たち)あひしが、日暮のことなりしに、このていを見るより、兩側(りやうがは)の町屋にては、

「ひし」

と、戶をさして、いづる人、なし。

 雨は、しきりに、ふりまさるに、二うち、三打、うちあふ内に、くらくなりて、たがひにけわひ[やぶちゃん注:ママ。「氣配」。]を、めがけて、うつことなりしに、常に、おもしと、おもふ刀の、かろきこと、手に持(もち)しやうにも、なかりしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、

『あやしや、俺も、死つるか。』

と、つば本(もと)より、先迄、みねを引(ひき)て見し内、切りこまれたる太刀より、うけだちと成(なり)て、はなはだ、あやふく、隅の所へ、おしつけられ、すで一うちとなるべき時、いさゝか、計略をめぐらし、

「着ごみをきてゐるから、脚を、なぐれ。」

と言葉をかけし故、すけだち、有(ある)や【かたきの心なり。】[やぶちゃん注:底本に『原傍註』とある。]

と、後(うしろ)を見かへる時、きりつけて、仕(し)とめたり、とぞ。

 誠に、この一言にて勝(かち)とは成(なり)しなり【「かゝる急難に逢(あひ)し内、か樣(やう)の一言(ひとこと)は、中々、今時(いまどき)の人の出(いで)まじきことなり。」と、父樣、常に被ㇾ仰し。】[やぶちゃん注:底本に『原傍註』とある。]。

 其時、數(す)ケ所、きずをうけ、右のうでを、きられしが、筋(すぢ)へかゝり、不自由に成(なり)て、刀をふること、あたわねば[やぶちゃん注:ママ。]、醫とは、なりし、とぞ。

 大音にて、玄關より、

「お見舞申(まふす)。」

といふ聲、家内にひゞきし、とぞ。

 今壱人は、六、七萬石の大名の家中なりしが、殿、御年、若く、劍術をこのませられ、新參の劍術者を、御取立(おとりたて)有(あり)て、家老に被ㇾ成(なされ)しより、元來、よろしからぬものにて、譜代の忠臣・老臣を、いみて、過半、是がために讒《ざん》せられし中(なか)に、廿餘(はたちあまり)のせがれに、劍術を、よくして、大力大兵(たい《ひやう》)のもの、有しを、父子共に、いまれて、御いとま出(いで)し、とぞ。

 さて、殿は、大坂御城代を仰蒙(おほせかふむ)らせられて、かの惡家老(わるがらう)も、供にめしつれられて、御立(おたち)有し夜(よ)、浪人せし老臣、せがれを、めしつれ、御門前にいたり、石に腰をかけ、

「さて。汝に、いひおくこと有(あり)。殿、新參佞人(《ねい》じん)にまよわせられ、忠臣を、うしなはるゝこと、なげくに、たえず。あの佞人を打(うつ)て、すてたくおもひ[やぶちゃん注:ママ。]ども、年老たれば、彼に及びがたきを、はかる間に、浪々の身とまでなりしは、無念のいたりなり。汝は、天晴(あつぱれ)、かれを打(うつ)べき力量あれば、是より、すぐに追付(おひつけ)、佞人を、打(うつ)て、我(わが)無念を、はらさせよ。おしからぬ命は、今、汝を、はげますために、絕つぞ。」

とて、もろはだぬぎて、腹、切(きり)ながらも、

「少しも、はやく、佞人を打(うつ)て、我我(われわれ)、まうしう[やぶちゃん注:ママ。「妄執」で「まうしふ」が正しい。]を、はらさせよ。死がいは、此まゝ、すておくべし。

人の見付(みつけ)て、『おもふ心、有(あり)』とは、沙汰すべし。」

とて、息、たえたり。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落してある。]

 一子は、此ていを見て、無念のおもひ、もゆるがごとく、少しも早くとはおもへども、一日(いちにち)路(みち)おくれし事故(ゆゑ)、是非なく、旅用意を、とゝのへて、道中を追(おひ)かけしが、便(びん)あしくして、道にては、出(いで)あはず。

 大坂にいたりては、每日、大手をうかゞひしに、かの家老、美々しく出いで)たちて、馬にうちのり、城門を出(いで)しを見かけ、心、悅(よろこび)、太刀をぬいて、おどりいで、先(せん)がち[やぶちゃん注:「先徒歩(せんがち)」。]の中へ、きりいりしに、廿人餘(あまり)の供廻り、壱人も、敵(てき)するもの、なく、皆、ちりぢりに、にげさりて、かたき壱人(ひとり)となりし時、大聲、あげて名のるは、

「我は、是(これ)、其方(そのはう)がために、ざんせられて、浪人せし、何の何がしが悴《せがれ》なり。父は、其方をうらみて、過(すぎ)し御出立(おんしゅつたつ)の夜(よ)、御門前にて、切腹して、相(あひ)はてたり。父のかたき、のがさず。」

と、切(きつ)てかゝりしかば、さすが、劍術者ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、臆する色なく、馬上ながら、わたり合(あひ)しを、馬のもろ膝(ひざ)、なぐつて、引(ひき)おろし、徒步(かち)だちとなりて、しばしは敵《てき》も仕合(しあはせ)しが、孝子は、終(つひ)にうちかちて、首(くび)をかきしぞ、いさましき。

 此勝負は、至(いたつ)て、はれなことにて有(あり)し、とぞ。

 大坂御城前の廣場故(ゆゑ)、近よる人こそ、なけれ、四方は、人ぶすまを作りて、見物せしが、首、引提(ふつさげ)て、立上(たちあが)り、

「ことの由(よし)をうつたへん。」

と、奉行所、さして行(ゆく)あとへ、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり、へだちて見物の人、おして來(きた)るどよめきは、芝居の打(うち)だしのごとくなりし、とぞ。

 日も暮(くれ)しかば、手々(てんで)にて、提燈、さげて、したひくるを、

『いかゞするとぞ。』

と、こゝろ見に、ふみとまれば、數人(すにん)も、とどまり、あゆめば、また、追(おひ)くる故、あとへ、少し、もどりしかば、

「ワツ。」

ト、いふて、にげちるてい、おもしろきことゝおもひて、度々(たびたび)、後(うしろ)をふりむき、刀を、ふりなどして、おどしたりし、とぞ。

 さて、奉行所へ、いりて、ことのよしを、つぶさに申上(まふしあげ)しに、隨分、ていねいなるとりあつかひにて、落着(おちつく)までは、「預り」に成(なり)て有(あり)しに、

『人も、いやしめねば、よし。』

と、おもひて有しを、

「明日、落着(らくちやく)。」

と聞(きき)し時より、段(だん)おちして、「斬罪《ざんざい》」のもののあしらひと成(なり)し故、

『命(いのち)おしき事は、なけれど、「しばり首」きられんは、無念、いたり。』

と思へ、其夜、風呂に入(はいり)し時、ゆかた一枚にて、手ぬぐひを、帶となし、風呂屋をぬけて、出(いで)たりしが、やゝありて、追手(おつて)のかゝるていなりし故、藪にかゞみて、やうすを見しに、兩三度、其前を過(すぎ)しが、藪の中まで、さがすていにもなかりしかば、藪ごしに街道へ出(いで)しが、折ふし、極寒の夜なるに、湯上りといひ、ひとへにて、寒氣、絕(たえ)がたくおもひし時、むかふより、侍、壱人、來りしを、とらへて、

「我は、是(これ)、おとにも聞及(ききおよび)つらん、このほど、父のあだをうちし何の何がしなり。明日(あす)、『しばり首』きられんよし、聞(きき)し故、無念におもひてたちのくなり。其方、衣服・大小、申(まふし)うけたし。もし、異議におよばゞ、命迄ももらわねば[やぶちゃん注:ママ。]、ならず。」

と、いひければ、ふるひ、ふるひ、衣類・大小を、わたしたりし故、身の𢌞りを、こしらへ、夜明(よあけ)て見れば、大小、氣にいらぬ故、刀屋(かたなや)の見世(みせ)へ、いりて、始(はじめ)のごとく、なのり、

「此大小、とりかへもらひたし。」

と云(いひ)ければ、亭主は、おずおず、あまたの大小を、いだしたるを、

「するり」

と、ぬいて下に置(おき)、又、ぬいては、おきおきして、刄物(はもの)を、殘らず、ぬきならべ、其内にて、心にかなひしをとりてさし出行(いでゆき)しに、一言も、いふことなかりし、とぞ。

 後(のち)に聞(きけ)ば、ぬきたりし刄物を、四、五日は、おめる[やぶちゃん注:ママ。『日本庶民生活史料集成』版では、『おさめる』(ママ)である。]人、なくて、大坂中の人、見物に來りし、とぞ。

「大坂人は、ものおぢする。」

と、いへば、さぞ、あらんかし。

只野真葛 むかしばなし (116) 深川の異次元

 

一、築地の時分、「せうか」といふ野太鼓と、町の名主と、二人づれにて來り、夕方より、はなしごと有(あり)し時、父樣、手本(てもと)に、むだづかひにして、よき、かね、有しを、兩人に、つかはされ、

「いづかたへぞ、遊びに、ゆけ。」

と被ㇾ仰しかば、大きに悅(よろこび)、すぐに、深川へ行(ゆき)し、とぞ。

 いづくよりも繁華にて、しごく、兩人とも、もてたることにて、大うかれにて、翌晚、來りて、はなしに、

「いや、近頃におぼへぬことなりし。料理の結構さ、中々、つとめなしに、あればかりでも、やすき事。」[やぶちゃん注:「つとめなし」「自分の仕(し)まわしたのではない金ではなしに」の意か。]

とて、一晚、その夜の、おもしろかりし、はなしゝて、歸りしが、名主のかいたる女、「お長」とやらいひしを、其夜のもてなし、わすれかねて、二、三日、立(たつ)て、

「深川へ行(ゆく)。」

とて、舟をかりしに、舟宿のもの、あやしみて、

「あの燒原《やけわら[やぶちゃん注:ママ。]》へ、何しにお出被ㇾ成まし[やぶちゃん注:ママ。『日本庶民生活史料集成』版では「まし」は『ます』である。]。『ばけ物が、でる。』とて、日がくれてからは、誰(たれ)も、參りません。」

と、いはれて、おもへば、廿日ばかり先に、地步(じほ)、はらつて、やけし、あとなり。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落となっている。]

 其火事は、江戶中の人、しらぬ事、なし。

 さりながら、まさしく、このほど見しけしき故、餘り合點ゆかず、無理に行(ゆき)て、みた所が、有(あり)しにかはる、燒原(やけはら)なり。

「そこよ、爰(ここ)よ、」

と、少し、人のゐる所へ行(ゆき)て聞(きく)に、

「『お長』といふ女は、なし。」

と、ばかり、こたへしが、小屋がけの髮結床(かみゆひどこ)に、七十ばかりのぢゞの居(ゐ)たりしが、聞(きき)て、

「はて、かはつた名を聞(きく)人だ。むかし、『お長』といふ女が、深川一番のもので有(あつ)たが、賊に逢(あひ)て、ころされてから、誰(たれ)も其名はつぎませんが、火事について、もし、其(その)ゆふれい[やぶちゃん注:ママ。]でも、出たか。」

と、いはれし。

「うすきみわるく、すごすご、歸りし。」

と、其後(そののち)、來りての、はなしなりし。

 父樣にも、はじめに御聞被ㇾ成し時、

「大火の事を、おもひいでざりしは、ばけ物の、とばしり、かゝりしや。何を食(くふ)て、『うまし。』と、おもひしや。ふしぎこと。」

と、仰(おほせ)し。

[やぶちゃん注:「とばしり、かゝりしや」「かの二人だけでなく、私(父平助)も、その化け物に、とばっちりを掛けられた、食らったものか。」という意味であろう。]

只野真葛 むかしばなし (115) 腑分け後の怪異

 

一、父さま、いまだ、獨身にて有(あり)し時、解體(かいたい)の師に付(つき)て、とが人の、どうを、かついで、俯分(ふわけ)をしに、先生と、同門弟、四、五人づれにて、鈴が森に御出(おいで)有しに、十月末にて、から風、吹(ふき)、さむき夜中、死人をいろいろに、とき、さばき、見おわりて[やぶちゃん注:ママ。]、

「家へ、かへるよりは。」

とて、いづれも、品川に行(ゆき)、あそびしに、女郞共、何か、そはそはとして、おちつかぬていなりしが、寢(いね)さまに、茶わんにて、酒、二、三盃のみて、ふしたりし、とぞ。

『酒の好(すき)な女か。』

と、おもひて、御出(おいで)有しが、一寢(ひとね)ねて、目のさめし時、枕の上にて、ほととぎすの聲せしが、

『軒(のき)ぎわ[やぶちゃん注:ママ。]か、もしは、廊下内(うち)か。』

と、おもふほど、ちかゝりしを、聞(きく)とひとしく、女郞は、

「ひつ。」

と、いふて、すがりつきし、とぞ。

「夜のあくるやいな、いづれもかへりしが、家に來りてよく考(かんがふ)るに、時鳥(ほととぎす)の鳴(なく)時節ならず、女郞ども、はじめのそぶりも、たゞならず、何か、變のある家にて、有(あり)しならんに、其一座の客、いづれも、死人くさかりしなども、女郞共の方にては、『いや』に、おもひしならん。」

と被ㇾ仰し。

[やぶちゃん注:小さな異変は、それ自体はたいした怪異ではないが、全体がブラック・ボックスとなっている不思議な怪奇実談となっていて、なかなかに興味をそそる。]

只野真葛 むかしばなし (114) 茶坊主「近藤いせん」の事

 

一、公義御(お)ぼうづ、「近藤いせん」といひしは、數代(すだい)、富家(ふけ)にて、今の「いせん」が、ぢゞの代までは、誠にさかんのことなりし、とぞ【家居(いへゐ)のけつかう[やぶちゃん注:ママ。]、酒は、甘(あま)に、辛(から)に二樽ヅヽ、常に、たくわひ[やぶちゃん注:ママ。]、「百樹(はくじゆ)」といひし「いせん」は若且那とて、常に八丈そろひの衣類にて、はなはだ、おごりのことなりし、とぞ。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

[やぶちゃん注:「近藤いせん」不詳。]

 其「いせん」は、中年にて死し、若世(わかよ)[やぶちゃん注:若主人の支配する時代。]に成(なり)て、とりしまり、なく、其頃は、田沼世界にて、ばくゑきの制、ゆるく、家ごとにして、とがめなかりしかば、人々、あつまりて、ばくちに夜をあかす事、つねなりし故、茶の間に、こたつをして置(おき)、下女は、大方、それにあたりて、夜をあかすことなりしに、ふと、「いせん」、

「用たしに行(ゆく)。」

とて、茶の間を、とほりしに、下女と、むかひ合(あひ)に、こたつにあたりて、ねむりたる男、有(あり)し故、立(たち)どまり、見るに、兩人共、たわひなく[やぶちゃん注:ママ。]寢入(ねいり)て有しが、一向、見なれぬ男なりし故、ゆりおこして、

「いづくより、來りしものぞ。」

と、たづぬるに、ふつゝかなる挨拶なりしを、おして、とへば、

「御隱居樣方へ、金の出入(でいり)にて、つかひにたのまれ參りしが、餘り、手間どれ候間(あひだ)、一寸、此火に、あたり、寢(ね)わすれし。」

と、いひて、誤り入(いれ)して、いにして有(あり)しに、下女も、一向、しらぬ人故(ゆゑ)、目、さめ、おどろきて有(あり)し、とぞ。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落している。]

 隱居といふは、「いせん」ぢゞ夫婦にて、別家にすみて、「ほまち金(がね)」を廻して、隱居料とせし故、えしれぬ人のいりくるは、常の事ながら、たのまれし人の名をかたらぬ故、隱居へ人を聞(きき)につかわす[やぶちゃん注:ママ。]間(あひだ)、番人をつけて置(おき)しに、其男の仕度(したく)、白き手おひに、脚絆かけて、旅出立(たびいでたち)のていなりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「ほまち金」ここでは「へそくり」或いは「定収入以外に得た臨時収入」の意。「外持金」とも書く。平凡社「改訂新版 世界大百科事典」によれば、本来は、主として東国で、河原や河川の中州などに開かれた小規模な耕地を指して言った。「ほまち田」とも称し、洪水などの被害に遭いやすいところに開墾されていたので、不安定な収穫しか得られぬ劣悪な耕地であった。年貢の賦課される田地の売券には、田数が明記されるのに対し、「ほまち田」の場合は「ほまち田一枚」とか「何斗蒔」(なんとまき)と記されるのみであり、領主の関心外の耕地であったと考えられている。小百姓や下人たちが、主人の目を盗んでか、或いは、余暇の労働によって開墾し、生活の資としたり、その自立・成長の基礎とした場合が多かったと思われる。それが、近世になって、秘かに蓄えた金銭や、定収入以外に得た臨時収入をも意味するようになった。西国では、これを「まつぼり」といい、例えば、近江甲賀郡の「山中文書」には「まちほり」の用例がみられる、とあった。]

 番人に、むかひて、いふは、

「小水(しやうすい)[やぶちゃん注:小便。]、つまりし間(あひだ)、御面倒ながら、一寸、外へ、ついて行(ゆき)て被ㇾ下。」

といふ故、戶を明(あけ)ておもてへ、つれ行(ゆき)し時、のし立(だて)の塀へ、手をかくるやいな、

「ひらり」

と上(あが)りて、飛鳥(ひてう)のごとく、いづちへかに、げさりし、とぞ。

「扨こそ、あやしきものにたがひなし。」

といひおる内、隱居へ、やりし人、かへりきて、

「一向、隱居にても、おぼえなきよし。」

を、いひし、とぞ。

 茶の間のこたつのわきに、野太刀(のだち)と紙入(かみいれ)を置(おき)て行(ゆき)し故、其刀をぬきて、みたれば、今がた、人をあやめしと見へて、つば本(もと)まで、なまなましき、血、つきて有しを見て、いづれも、おそれ居(をり)しに、かみ入を、あらためし時、けつかうなる香疊(かうだたみ)、有(あり)しを見て、「いせん」、色を、かへて、いふは、

「其(その)たとうは、先年、くらのやじりをきりて入(いり)し『ぬす人』、あまたの品をとりし時、ひとつにとられし疊なり。しからば、その時、いりしぬす人の、また、あだ、しに、來りしならん。」

とて、殊の外、おそれて有し、とぞ。

 年頃、三十七、八、未(いまだ)四十には、ならじ、と、見ゆる男なりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「香疊」とは「香木」・「香包」(こうづつみ)・「香箸」(こうばし)・「銀挟(ばさ)み」などの香道具を包む畳紙(たとうがみ)。「こうたとう」とも言う。単に「たとう」とも呼ぶ。]

只野真葛 むかしばなし (113) 藤上検校の凄絶な体験

 

一、生田流の琴の上手、「藤上(ふじへ)」といひし盲目【後(のち)は検校《けんぎやう》になりしや。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、其はじめ、越後の國より、夫婦づれにて、五才の男子をつれて、江戶をこゝろざしのぽりしに、道にて、行(ゆき)くれ、辻堂に一宿せし時、夜中、狼、二(ふたつ)、來りて、五才のせがれと、妻女をくらひし、とぞ。

 妻の、おそれて、泣(なき)さけぶ聲のふびんさ、かなしさ、息もたへて後(のち)、骨を、

「ひしひし」

と、くらふ音のすごさ、わびしさ、聞(きく)にしのびず、はらわたをたつ思ひなりしが、盲目のかなしさ、たすけんかたもなく、懷劍の、ぬき持(もち)て、少しも、うごかず、座(ざ)して有(あり)しに、狼は、あだせざりしとぞ【盲目故に、かひりて[やぶちゃん注:ママ。]、命、たすかりしものなるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 夜の、あくるを、まちて、所のものを賴(たのみ)、供養・囘向など、あるべきかぎりして、淚ながらに、壱人、すごすご、江戶にのぽり、段々、修行して後(のち)、一名を天下にしられしが、琴の弟子どもをあつめては、いく度(たび)も、いく度も、辻堂の物がたりをして、人も、

「かほどの難に逢(あふ)ものか。妻子の、かなしむ聲、骨をかみひしぎし音など、耳に、のこりて、わするゝ世(よ)、なし。」

と、いひし、とぞ。心中(しんちゆう)、おもひやられしことなり【後々までも、犬の魚の骨をくらふ音、きらひにて有(あり)しと、きゝし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

[やぶちゃん注:「藤上」「藤植(ふじへ:現代仮名遣「ふじえ」)検校」。十八世紀半ばに活躍した盲人音楽家。「藤上」とも書く。都名(いちな:琵琶法師などが自身につけた名。名前の最後に「一」・「市」・「都」などの字がつく。特に、鎌倉末期の如一 (にょいち) を祖とする平曲の流派は、「一」名(な)をつけるので、「一方 (いちかた) 流」と呼ばれた。後、広く一般の盲人も用いた)は喜古一。元文元(一七三六)年、岡永検校「わさ一」のもとで、検校に登官し、胡弓の弦数を三弦から四弦に改め(第三・第四弦同調律の複弦)、以後、この四弦胡弓による胡弓音楽が、江戸で「藤植流」として普及した。「栄(さかえ)獅子」・「越天楽」・「鶴の巣籠」などの本曲十二曲のほか、「岡康(安)砧」・「松竹梅」も本曲として加えられている。「山田流」箏曲と結びついて、その三曲合奏の胡弓のパートを外曲として伝承された。藤植の名は、元幸一・親朦一・植一・光孝一・寿軒一・和専一などに受け継がれ、植一は第七十一代「江戸惣録」を務めた。「藤植流」は、第七代「藤植」を称した植(上)崎秋峰から、近現代の山室保嘉・山室千代子へと伝承され、千代子の門下が「千代見会」を結成し、その保存に努めている(所持する平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

只野真葛 むかしばなし (112) 与四郎と狂える狼の戦い

 

一、柴田郡支倉(はせくら)村の内、宿(しゆく)といふ所の百姓に、與四郞といふもの有し。生付(うまれつき)、氣丈にて、力、勝(すぐれ)て、つよく、齒の達者なること、から胡桃(くるみ)を、くひわりなどして、近鄕にならびなかりし、とぞ。

[やぶちゃん注:先に言っておくと、本話は「奥州ばなし」に「與四郞」として同話があり、そこで、かなりリキを入れて注もしてあるので、本話を読んだ後に見られたい。

「柴田郡支倉村の内、宿といふ所」現在の宮城県柴田郡川崎町(かわさきまち)支倉宿(はせくらしゅく:グーグル・マップ・データ)

 なお、以下は底本でも改段落している。]

 寬政の頃、十二月末に、病狼(やみおほかみ)、あれて、宿の町のものども、數人(すにん)、あやめられしこと、有(あり)。

[やぶちゃん注:「寬政の頃」「十二月末」天明九年一月二十五日(グレゴリオ暦一七八九年二月十九日)に改元し、寛政十三年二月五日(同一八〇一年三月十九日)に享和に改元しているので、寛政元年から寛政十二年の閉区間の旧暦十二月となる。但し、旧暦十二月末はグレゴリオ暦では総て翌年になるので、一九九〇年から一八〇一年の内となる。]

 其頃、與四郞、外(ほか)へ、夜ばなしに行(ゆき)て、九ツ[やぶちゃん注:午前零時。]頃かへるに、折ふし、眞(しん)の闇なりしが、何心もなく、小唄にて行(ゆく)うしろより、狼、出(いで)て、腓《こむら》を、くひたり。

「ハツ。」

ト、ふりむくうち、乳の下をくひ、又、とびこして、あばらの下を、くひし時、狼と心付(こころづき)、聲を、あげて、

「やれ、與四郞は、狼に、くはるゝぞ。たすけてくれ、たすけてくれ、」

と、よばわり[やぶちゃん注:ママ。]しかども、夜更(よふけ)といひ、たまたま聞付(ききつけ)る、人、有(あり)ても、おそれて、いであはず、前後左右より、くはるゝこと、數(す)ケ所なり。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落している。]

『此身は、くひころさるゝとも、やはり、敵《かたき》とらで、はてめや。』

と、おもへども、羽(はね)有(ある)ごとく、とびのき、とび付く、ひつく[やぶちゃん注:「引(ひ)つ付く」。]に、棒一本も持(もた)ざれば、せんかたなく、手にさわる時、とらへて、引(ひき)しき[やぶちゃん注:引っしぎ。]、膝をかけて、四足(よつあし)をおし折(をり)、おし折せしほどに、三本までは、折たれども、壱本にて、とびありき、くひつくこと、やまず。漸(やうやう)、壱本のあしを、とりし時、頤《おとがひ》ヘくひ付(つき)しを、兩手にて、引(ひき)なせば、肉まで、はなれしとき、狼の、のんどに、與四郞、くひ付(つき)て、やゝしばらくかゝりて、喉のかみをくひ切(きり)、かたきをとりし、とぞ。

 與四郞は、惣身(そうみ)、血潮(ちしほ)にそまらぬ所、なし。

 其あたりの戶を、たゝき、

「狼は、仕(し)とめたれば、心づかひ、なし。明(あけ)よ、明よ、」

と、いひし故、やうやう、明たる所に入(いり)て、かひほう[やぶちゃん注:ママ。「介抱(かいはう)」。]に逢(あひ)、夜(よ)のあくるを、まちて、長町といふ所に、狼に、くはれたるを、よく療治する醫師あれば、それが方へ行(ゆく)て、傷口をあらためしに、四十八ケ所、有しとぞ。

[やぶちゃん注:「長町」宮城県仙台市太白区長町(ながまち:グーグル・マップ・データ)。「支倉宿」とは直線でも十八キロメートル離れている。

 なお、以下は底本でも改段落している。]

 醫の曰く、

「かほど、くはれし人を、見しこと、なし。數ケ所の内には、急所かゝる所も見ゆれば、療治、屆(とどく)や、いなや、うけ合(あひ)がたけれど、先(まづ)。」

とて、取(とり)かゝる。

 其仕方(しかた)は、狼にくはれたる所を、くりぬきて、艾《もぐさ》をねぢこみ、灸を、度々(たびたび)、すゑる[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]ことのよし。

 四十八所のきず口へ、十分に灸をせし内、與四郞は、ひるめる色なく、こらへて有しとぞ。

 醫師、おもふほど、療治をして、此氣丈を感じ、

「今迄、數人(すにん)、療治せしが、只、一、二ケ所のきずにさへ、人參をのませながら、灸治するに、氣絕せぬものは、すくなし。五十にちかき疵口を、始終、かほど、たしかにて、療用うけしは、前後にまれなる氣丈もの。」

と、ほめしとぞ。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落している。]

「大毒[やぶちゃん注:ママ。以下、意味が通じないが、ここは「奥州ばなし」では、『犬毒』(けんどく)となっているので、真葛の誤記である。]も、のきたれば、よし。是より、禁物(きんもつ)、大切なり。第一に、ます・雉子(きじ)・小豆餠(あづきもち)なり。其外、油のつよきもの、みな、いむべし。」

と、いはれて、

「私事は下戶にて候へば、もち、大好(だいすき)なり。小豆餠、くわぬ事にては、生(いき)たるかひ、なし。左樣なら、今までの如く、灸を、また、一ペんすゑなば、早速より、禁物なしとも、よからんや。」

と聞(きき)し、とぞ。

 醫の曰(いはく)、

「いや。さやうに、やきたりとて、禁物なしに、よき事には、あらず。先々(まづまづ)、かへれ。」

とて、歸しけるに、正月も、ちかし、三十日もたゝぬ内、餠つきとなりしに、與四郞、こらへず、小豆餠、たくさんに、くひしが、少しも、さわら[やぶちゃん注:ママ。]ざりし、とぞ。

 雉子・ますなども、ほしきまゝに食(くひ)しが、まなこ、くらく成(なり)し故、

「一向、めくらに成(なり)ても、せん、なし。」

とて、後(のち)は、くはざりし、とぞ。

 此文化九年の頃は、五十二、三なりしが、達者にて有し、とぞ。

 是より、五、六年過(すぎ)て、又、狼、あれるといふ事、有しに、おなじ村の百姓に劍術をこのみて、たしなみしもの有しに、狼を切(きる)法【狼をきるには、左の手を出(だ)して行(ゆく)ば、それを、くらはんと來(きた)る時、手を引(ひき)て、きれば、見事にきらるゝと、おしへられしとぞ。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]を習(ならひ)しを、一度、ためし見たく、内心、願(ねがひ)しに、親類うちに、ふるまひ有(あり)て、夫婦づれにて出(いで)しこと有しに、家人は、

「かならず、早く、日のくれぬうち、かへれ。」

と、いひつけやりしかば、妻は、殊に、おそれて、先(さき)をも[やぶちゃん注:「奥州ばなし」では、『先方をも』となっている。これだと、「先方の親類も振舞いを(早々に終らし)」の意で続き、躓かない。]、早く仕舞(しまひ)て、七ツ時分、かへりしに、むかふに、狼、見へし故、少々、道を𢌞りて、かへりしが、家に入(いり)て、夫(を)ツトは、妻をおくと、すぐに、わきざしをもちて出行(いでゆく)を、

「かならず、けが、するな。」

と、とゞめしかども、きかず、

「ぜひ、きりて見たし。」

とて、出(いで)し、とぞ。

 はじめの所に行(ゆき)て見しに、たゞ、すくみて居(をり)たるを見て、脇差を、ぬきもちて、左の手を、いだして、ちかよれば、十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]ばかりに成し時、狼は、背をたてゝ、胸を地に付(つけ)、こなたを、めがけ、ねらふていなり。

『うごかば、きらん。』

と、心をくばり、よせしに、八間[やぶちゃん注:十四・五四メートル。]ばかりになりし時、とび來りて、手に、くひつきしが、一向、目に、さへぎらず、引(ひき)かねて、手をくはれながら、きりたり。

 かしら、そげて、おちしが、口は手に付(つき)て有しを、

『先(まづ)、仕とめたれば、よし。』

と、おもひ、後(うし)足に、なわ[やぶちゃん注:ママ。]をつけて、引(ひき)ながら、與四郞は、四十八ケ所、くわれてさへ、生(いき)おほせしを、

「只、一ケ所なれば、心やすし。」

と、おちつきて、かへると、すぐに、醫のもとに行(ゆき)、療治、たのしみが、一ケ所の灸治さへ氣絕して、おもふほど、療治、なりがたく、廿日もめぐらず、死(しし)たり、とぞ。

只野真葛 むかしばなし (111) 菅野三郎左衛門、山女に逢う

 

一、手前家中(かちゆう)に菅野三郞左衞門といふ者、若年のころ、奧山にいりて、日々、たき木をとりしに、ある時、朝、例より、はやくいでゝ、薪(たきぎ)とりしに、やうやう、朝日のあがる頃、むかひの山の中ほどを、橫にとほるもの、有(あり)。

 よく見れば、女の、髮の洗(あらひ)たるさまにて來(きた)るを、

『あやしや。人もかよわぬ此山へ、早朝といひ、女のたゞ壱人(ひとり)、しかも洗髮(あらひがみ)にて、とほるべきよし、なし。』

と、おもひて、まもりゐしに、眞むかひに立(たち)どまりて、ふと、このかたを見むきしに、色、白く、肌、うるはしく、朝日に、てりて、うつくしき女なり。

 眼中(まなこうち)の、いやなること、更に人間とおもはれず。

 松に、かくれて、かたちは見へ[やぶちゃん注:ママ。]ざりしが、身の毛、たちて、おそろしくおぼへしほどに、つかねかけたる木を、すてゝ、あとをも見ず、一さんに山を、にげくだり、其後(そののち)ふたゝび、その山へは、ゆかざりし、とぞ。

 追(おつ)て考(かんがへ)るに、其松の木共(ども)、若松ながら、みな、壱丈餘(あまり)の木なりしに、其うへより、かしらの見へしは、丈のたかきも、しられたりし。

 かしらのおほきさも、二尺餘ばかりも有しとおもひいづるにつけて、あやしき事なりし。

「世にいふ『山女(やまをんな)』のたぐひならんか。」

と、いひあへりし、とぞ。

[やぶちゃん注:本話は「奥州ばなし 三郞次」と同話である。「山女」その他の注を附してあるので、そちらを見られたい。『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山男の家庭』も参考になろう。]

只野真葛 むかしばなし (110) 三吉鬼

 

一、秋田に、「三吉鬼(さんきちおに)」といふもの有(あり)。

 人里へ出(いで)そめしは、いく年(とし)先(さき)のことにや、しらず。

 いではじめには、見なれぬ男の、酒屋へ、いりて、酒を、おほく、のみて、さらに、あたひをつぐのはずして、いで行(ゆき)しを、むたひに、酒代(さかだい)を、はたれば、かならず、わざわひに逢ことなりし故、おそれて、心よく、ふるまひしもの有(あり)しに、其夜中に、酒代、十倍ほどのたき木を、門に、つみおきし、とぞ。

 それより、いづかたにても、『其男ならん。』と、おもへば、あくまで、酒を、のませしに、かならず、夜中に、かわり[やぶちゃん注:ママ。]の物を、つみおきしを、誰云(たれいふ)となく「三吉鬼」とよびて、後には、

「いづくの山の大松(だいまつ)を、この庭中(にはなか)ヘ、うつしくれよ。」

と願(ねがひ)かけて、酒だるを、さゝげおけば、酒は、なくなりて、一夜のうちに松の木を、庭にうゑおき、大名なども、人力にうごかしかたき品を、酒をいだして、ねがへば、心のごとく、はこぶことにて、人家の重寶なりし故、

「三吉鬼、三吉鬼、」

と、いひはやせしに、此文化年中より三、四十年前より、たへて[やぶちゃん注:ママ。]、そのもの、人里にいでず成(なり)しとぞ。

 いかゞせしや、ふしぎのことなりし。

[やぶちゃん注:「三吉鬼」当該ウィキが存在する。真葛の本記事も紹介されているので、全文を引く。『三吉鬼(さんきちおに)は秋田県に伝わる正体不明の妖怪。江戸時代の女流文学者・只野真葛の著書』「むかしばなし」に『記述がある』。『三吉神(鬼)の最も古い記録は、只野真葛や菅江真澄のものがある。江戸女流文学者の只野真葛が著した』「むかしばなし」では、『三吉鬼は「見知らぬ男」と言われている。酒屋で酒を飲んで、そのまま出ていこうとするが、そこで男に酒代を請求すると必ず災いに遭い、酒を捧げると酒代十杯ほどの薪が門に積み上がっている。それからは、その男』とおぼしい男に、『酒をあくまで飲ませれば』、『必ず』、『夜中に代わりの物が積み上がっているので、誰が言うと無く「三吉鬼」と呼んだ。後には』、『どこかの山の大松をこの庭に移してくれと願をかけて酒樽をささげると』、『酒は無くなり』、『一夜のうちに松の木が庭に植えられている。大名も人力で動かせない品を酒を出して願うと、願いに従って運ぶ』。「三吉鬼、三吉鬼、」と『もてはやしたが、文化年中より三~四十年前より』、『絶えてその者は人里に出なくなってしまった』。『菅江真澄は』「月酒遠呂智泥」(つきのおろちね:文化九(一八一二)年七月筆)で、『ある年仙北郡のなる外大伴村(外小友村)で相撲取りをして世を渡っている若者が、太平山に登り』。『三吉神に酒や粢を供えることで力士は力を得ているとしている』。『三吉神の力の神としての性格がうかがえる。一方』、『「三吉」の所在を尋ねられた籠舎』(ろうしゃ:牢屋。)『にいた人々が「神仙であるからどことも定まっていない」と答えていることにも注目すると、太平山村近の人々は三吉神が神仙であると認識していることになる。太平山三吉神社に保存されている棟札にも「仙人三吉権現」』(元禄四(一六九一)年)『と記されていることから、三吉神は』本来は『仙人と考えられていたと推測できる』。『そのように人々にもてはやされていた三吉鬼だが、文化年中より』三十~四十『年ほど前からは』、『人里に現れることはなくなったという』。『こうした三吉鬼の伝承には』、『秋田の太平山に伝わる鬼神・三吉様の信仰が背景にあるといわれ』、『太平山三吉神社の三吉霊神が人間の姿で人前に現れたときには』「三吉鬼」の『名で呼ばれたとする説もある』とある。太平山三吉神社はここ(グーグル・マップ・データ)。]

只野真葛 むかしばなし (109) 松前藩用人の「おもくろしい」話

 

一、むかし工藤家築地住居の節、松前樣用人のよしにて、松前人壱人(ひとり)、少々、公事(くじ)ざたによりて、江戶にのぼりしが、公邊(こうへん)むき、不案内故、父樣をたのみ、願(ねがひ)の下書(したがき)その外(ほか)、諸方かけ合(あひ)ぶりなど、なろふ[やぶちゃん注:ママ。]とて、日々相談に來りし、とぞ。

 四十ばかりにて、人がらよく、至極かたき人なりし故、奧へも通し、お遊・おつねなど、松前ばなしを聞(きき)たりし。口重(くちおも)にて、こなたよりとはねば、かたらぬ人なりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「お遊」平助の妻で、真葛の母。

「おつね」真葛の妹である三女「つね子」。家内のニックネームは「女郎花(おみなへし)」。加瀬家に嫁した。

 以下は底本でも改段落している。]

 はじめは、松前のやしきに居(をり)たりしが、

「道、遠し。」

とて、うねめ原に、大井卯之助とて、九ツばかりなるが、當主にて、父は、「金かし」なりしが、早く死し、母壱人、三十餘の若後家(わかごけ)にて、手がるに、母子(ぼし)すまゐして在かたへ、

「同居せよ。」

と、せわする人、有(あり)て、そこに、うつり住(すみ)しより、近所なれば、心やすく、日夜となく、來りて有しとぞ。

[やぶちゃん注:「うねめ原」「采女原」で正しくは「うねめがはら」。松平采女正(うねめのしょう)定基の邸があったための呼称。現在の東京都中央区銀座四・五丁目付近。辻講釈・見世物小屋が並び、夜鷹が多かった(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 元來、世話する人も、後家も、金を持(もち)し旅人故、「ほまち仕事」に、だまして、金を引(ひく)つもりなりしを、客人は、夢にもしらず、心やすくていなることゝ、悅(よろこび)て有しなり。

[やぶちゃん注:「ほまち仕事」「外持仕事」で、本職以外の臨時の金儲け仕事を指す。]

 一年ばかりも同居せし頃、早朝に其用人方より、

「極内用御直覽(ごくないようおんぢきらん)」

と小書(こがき)して、二重ふうじ印(いん)おしたる狀(じやう)來り[やぶちゃん注:ママ。]故、

「合點、ゆかず。」

と、ひらき見れば、

「同居の女人(によにん) 昨夜より 不快に候所有(ある)につき 極(ごく)内々御談(おんだん)じ申度(まふしたき)義の候間 御調合 御仕舞 早々 御出(おで)がけに御立(おたち)より被ㇾ下度(たく)候 尤(もつとも) 音(おと)高からぬやうに御より被ㇾ下ベし 委才[やぶちゃん注:ママ。底本には「才」を「細」の当て字とする編者注がある。]は御面談に申上べし」

といふ狀なり。

「承知せし。」

と挨拶して、使(つかひ)をかへし、出がけに御立(おたち)より被ㇾ成しに、用人は門に出(いで)て待居(まちをり)たりしが、

「先々(まづまづ)。」

とて、ひそかに、ともなひ入(いれ)て、座につけて、あたり見廻し、膝、すりよせ、さて、汗をふき、さしうつむき、さも迷惑氣(げ)な、やう子(す)にて、やうやう、いひ出すは、

「いかにお心やすい[やぶちゃん注:ママ。]とて、かやうの事、おはなし申(まふす)も、何とも、おつもり[やぶちゃん注:(平助が)想像なさっていること。]のほども、はづかしく、面目(めんぼく)なけれども、やみがたきことの候故、恥をかヘり見ず、極みつ、極みつ、御賴(おたより)申なり。かならず御他言被ㇾ下まじ。」

と、口かため、又、うつむきて、しばし考(かんがへ)、

「さりとても、侍(さふらひ)の有(ある)まじきことながら、永々(ながなが)同居いたすうち、ふと、心がまよひまして、此家の女と、不義、いたしましてござる。」

といふ故、父樣は、

「たがひに、女、なし、夫、なし。さやうのことは有(ある)うちのこと。」

と挨拶あれば、誠に、赤面、あせにひたり、

「さやうに被ㇾ仰ては、消(きえ)も人(いり)たき。」

とて、めいわくのていなり。

「扨、昨夜、小產《おさん》いたしましたが、後(のち)のものとやらが、『おりぬ。』とて、くるしみます故、今朝(けさ)申上しが、それも、先ほど、下(さが)りましたそうに[やぶちゃん注:ママ。]ござります。私が男の身でさへ、かやうに存(ぞんず)るもの、女は、いかばかり、氣の毒にぞんじ候やしれず、かならず、爰(ここ)より申上しとは不ㇾ被ㇾ仰(おほせなられず)、『ふと御立より被ㇾ成しが、不快と御聞(おきき)、おみまひ被ㇾ成(なされし)ていに被仰下べし。」[やぶちゃん注:「後のもの」後産(のちざん)。胞衣(えな)のこと。]

と、吳々、たのむ。

 其(その)ひま入(いる)こと、父樣、さらさらとした心には、しごく面倒におもはれしとぞ。

「先(まづ)、やうし[やぶちゃん注:ママ。「やうす」。]を見ん。」

とて、後家が住間(すむま)へ御いで有(ある)を、はなはだ、心もとながるやう子にて立(たち)て見送り居(をり)たりしに、へだてのふすま明(あけ)ながら、

「平助で、ござります。ふと、御立より申(まふし)たら、昨夜より、御不快そうにござる。幸(さいはひ)、御やう子を、見ませう。」

とて、御入被ㇾ成しに、後家は、床の上にすわりて、衣紋(えもん)つまぐり居(ゐ)たりしが、

「ハア、平助さん、よくおいで被ㇾ成ました。私も、昨晚、小(お)さん致ました。後產(のちざん)が下りませんで、難儀致ましたが、それも、先程、下りまして、今は、よふ[やぶちゃん注:ママ。]ござります。」

と、一向、平氣にて居(ゐ)たりし、とぞ。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落している。]

「江戶ものゝ氣(き)のかろき、松前人(まつまへびと)のまわり遠(どほ)さ、二重ふうじの印封の狀、おもて座敷の密談は、まるまるの『むだごと』、たゞ『ひまつぶし』せしのみ。後家が小(お)さんしたとても、醫師が先(さき)の相手を、たゞすものではなし、結句、しらぬ顏して居(をつ)た方が、いくらましか、しれず。左樣のおもくろしき心から、いくら入知惠(いれぢゑ)しても、かけ合(あひ)、後手(ごて)にばかりなりて、公事(くじ)にまけ、牢死せしぞ、ふびんなる。」

と、御(お)はなしなり。

[やぶちゃん注:「おもくろしき心」「おもくるし」は「おもぐるし」とも言い、「押さえつけられるようで苦しい・陰鬱である・はればれしない」、「重々しく堅苦しい・軽快でない」の意で、口語的には「おもくろしい」とも言った。]

2023/12/27

只野真葛 むかしばなし (108) 平助、神明の私娼窟へ行く

 

一、父さま、中年の頃、さる他家の家中の人と、病家にて懇意に被ㇾ成しが、其人、神明(しんめい)の女郞に、なじみ、殊の外、はまりて、他のはなしを、せず【人さひ[やぶちゃん注:ママ。「さへ」。]見れば、「神明へ、遊びにゆけ、遊びにゆけ。」と、すゝめし、とぞ。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 ある時、來りて、

「どうぞ神明ヘ、一度、我等も、つれ立(だち)、御(お)いで、あれ。」

と、すゝめし、とぞ。

 父樣は、

「神明へは、行(ゆき)しこと、なし。」

と御斷(おことわり)被ㇾ成しを、

「いや、さやうに、すてられぬ所なり。私(わたくし)あいかたの女(をんな)が、私を、とりあつかふ、しんせつさ。誠に吉原・品川・深川などには、又、あのやふな[やぶちゃん注:ママ。]實(じつ)な女郞は、ござりません。どうぞ、つれ立(だつ)ござつて、あの女の、とりあつかへぶりを見て被ㇾ下。」

とは、逢度(あふたび)には、すゝめる事、ぜひなく、

「左樣なら、參りませふ[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、つれ立有(だちあり)しに、道すがらも、其女の事ばかり、かたり、

「それが、外(ほか)の客へも、そふ[やぶちゃん注:ママ。]することでは、なるほど、つゞきますまひ[やぶちゃん注:ママ。]。私に、かぎりて、あのやうにしてくれると申(まふす)事、なり。」

など、大(おほ)きにのび過(すぎ)たるていにて有(あり)しに、神明の女郞屋へ行(ゆき)しに、

「少々、故障(こしやう)の義がござりまして、お客を、とらせませぬ」

と斷(ことわり)しを、

「それは。せつかく來たに。折(をり)あしきことなり。それなら、おれが合(あひ)かたの女を、一寸、よんで、くりやれ。」

と、いへば、

「いや。其女の事に付(つき)ての事で、ござります。」

「それは、氣づかひ。どうした。」

と、いへば、

「昨晚、外(ほか)の客と、心中いたして、死(しに)ました。」

と、いはれて、

「ハア。」

とて、歸る、ばかばかしさ。

「是ほど、拍子のぬけし事は、なかりし。」

と、御(お)はなしなりし。

[やぶちゃん注:「神明」芝神明、現在の港区芝大門(グーグル・マップ・データ)の「芝大神宮」の前の通りの両側には、料亭が並び、「神明三業組合」が組織されていた(但し、それが許可されてあったのは、平助が生まれる前の万治四・寛文元(一六六一)年~寛文一二・寛文一三年・延宝元年(一六七三)年である)。当時は「芝海老芸者」と呼ばれ、ここには「岡場所」(半公認の私娼)や、違法な「私娼窟」、及び、男色客専門の「陰間茶屋」が立ち並んでいた。後の平助の生きた時代も、恐らくは、未公認のそうした私娼があったものと推察される。]

只野真葛 むかしばなし (107) 桑原家の思惑に〆の怨念再び / 源四郎死去後の顚末

 

 桑原のをぢ樣、おば樣は、世上の人には、よく、したしみ、下人を、ふかくめぐみ、慈悲ふかき人達なりしが、〆が怨念のなすわざにや、只(ただ)、工藤家へ對してばかり、あくまで、をとしめ[やぶちゃん注:ママ。]、いやしめ、恥のうえにも迷惑を重(かさぬ)ることのみ、こしらへ、まふけて、

『こゝろよし。』

と、おもはれたりし。

 其かたはしを、いはゞ、夏むき物の、味の、かはる時、外(そと)より、魚、もらひかさね、義理首尾に、つかふほどは、やりふさぎ、家内(いへうち)上下(うへした)、あくまで食(くひ)みてみても、又、もらひおけば、くさるし、

「犬にやらふか、工藤家へ、やらふか。」

といふほどの時ならでは、物を送られしこと、なし。

 其もとを、しりては、何をもらひても、

「また、あまし物ならん。」

と、うき心の先達(さきだつ)て、うれしからず、うらみを、かくし、胸を、さすりて、こなたよりは、わざわざと、のべたる品にて禮をして、有(あり)し。

 今の隆朝(りゆうてう)代(だい)と成(なり)ては、何のわけもなく、いや、ますますに、工藤家の、おとろへるをのみ、下心に、よろこびて有(あり)しならん。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落となっている。]

 先年の類燒以後、源四郞、かんなん申(まふす)ばかりなく、やうやう、もとめし藪小路の家へ、いるやいなや、枕も、あがらぬ大病、終(つひ)に、はかなく成(なり)し後(のち)、日頃、

「いやしめを。」

と、しめられし桑原家へ、跡式《あとしき》のすみしは、つぶれしよりも、心うきことなりし。

 隆朝は、若氣(わかげ)の一途に、

『我(わが)ものに、成(なり)し。』

と、おもふ心、すさみに、人のおもひなげかんことも、はからず、煙の中より、やうやうと、からくとりいだせし諸道具・家財・漬物等にいたるまで、「見たおし屋」を、よびて、直(ね)ぶみさせ、家内のものゝ見る前にて、金五十兩にうり拂(はらひ)しぞ、むざんなる。

 書物は、のこらず、養子へとゆづりしをも、かくして、うり拂しと見へて[やぶちゃん注:ママ。]、この地の書物屋にさへ、父の印、おしたる書物、うりものに、いでしと聞(きき)しは、よく年のことなりし。

 日頃、

『にくし、いまわし[やぶちゃん注:ママ。]。』

と、おもひし工藤家の品は、

「ちりも、我子に、手、ふれさせじ。」

と、わざと、いみきらひて、取(とり)ちらせしなるべし。

 世に、名もたかき父の末(すゑ)の、見るがまに、かく成行(なりゆく)を、子の身として、いかで、無念と、おもはざるべき。

『哀れ、我身、宮づかへの御緣(ごえん)あらば、命のあらんかぎり、いたつきて、父の名ばかりは、世に、のこさましを。』

と、おもひ願ふこと、やむときなし。

[やぶちゃん注:「先年の類燒」江戸三大大火の一つである「文化の大火」。文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)発生。

「隆朝」既注だが、再掲すると、真葛の母方の祖父で仙台藩医桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)の後を継いだ、真葛の母「お遊」の弟である桑原隆朝純(じゅん)。既に注した通り、真葛の弟源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで、同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に、未だ三十四の若さで過労からくる発病(推定)により、急死した。これによって、工藤家は跡継ぎが絶えたため、母方の従弟である桑原隆朝如則(じょそく:読みは推定)の次男で、まだ幼かった菅治が養子に入り、後に工藤周庵静卿(じょうけい:読みは推定)を名乗ることとなった(「跡式《あとしき》のすみし」はそれを指す)。男兄弟がいなくなったとはいえ、未婚の女子もある以上、婿養子という形の相続もあり得たが、桑原如則の思惑に押し切られる形で話が進んだという。如則は、また、ここに書かれている通り、工藤家の大切な家財道具や亡父平助の貴重な蔵書を、家人がいる前で、悉く、売り払ってしまったのである(以上はウィキの「只野真葛」に拠った)。]

ブログ・アクセス2060000突破

先ほど、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが2,060,000アクセスを突破した。何事も起こらねば、大晦日までに、その記念として、只野真葛の「むかしばなし」の電子化注を終わらせ、その記念テクストとする予定では、いる。

只野真葛 むかしばなし (106) 平助、後の仙台藩第十代藩主伊達斉宗(幼名、徳三郎)二歳を救う

 

一、父樣には、けんもん御用は、あまた御つとめ被ㇾ成しが、病用は御家中一ヘんにて、六十餘まで、御用被仰付しこともなかりしを、當屋形樣御二歲の秋、以(もつて)の外(ほか)、御大病にて、あらせられし頃、御奉藥被仰付しぞ有(あり)がたき。誠に御大病にて、此世のものにも仕奉(つかまつりたてまつ)らざりしほどのことなりしを、ふしぎに御快氣被ㇾ遊しかば、御ほうびとして、嶋ちゞみ二反・銀五枚被ㇾ下し。有がたきことながら、御家にてこそ御次男樣とて、人も、すさめ奉らざりしが、世上にては、父君ましまさぬ御代の御次男樣故、御世つぎ同然ごとく存上(ぞんじあげ)し故、逢人(あふひと)ごとに、

「此ほどは、大手がらなり。扨、かやうの節、御家(おんいけ)にては、いかほど、御ほうび被ㇾ下るゝものや。」

と、とわれしを[やぶちゃん注:ママ。]、挨拶に御こまり被ㇾ成しと被ㇾ仰しし[やぶちゃん注:ママ。]。

「其節は、あかぬ事の樣に、おもはれしが、今、考えれば[やぶちゃん注:ママ。]、いさゝかにても、御家恩(ごかおん)がましき事、有(あり)て、『人のたから』と成(なり)はてなば、いかばかり、心憂(う)かるべし、何事もなきぞ、心やすき。」

と、かヘすがへす、おもわれたり[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「當屋形樣御二歲」これは、実際に後の仙台藩第十代藩主となった伊達斉宗(なりむね 寛政八(一七九六)年九月十五日~文政二(一八一九)年)のこと。幼名を「德三郞」と言った。父・斉村は同年七月二十七日に死去しており、父の死去後の出生である。

 以下、底本でも改段落されてある。]

 さし上られし藥法の事、委しくはしらねど、其年は、殊の外、暑氣つよく、秋に成(なり)て暑氣あたりのたゝり、いでゝ、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、熱病、あるひは、はれ[やぶちゃん注:「腫れ」か。]病(やまひ)など、いろいろの病人、おほかりしを、「沈香(ぢんかう)てんまとう」といふ藥、其年のはやりによく合(あひ)て、手がゝりの病人、此一方(いつぱう)にて、壱人も、けがなかりし、とのことなり。やはり、その法に少しのかげんは有(あり)しならんが、始終、一法(うつぱう)を奉りて、御快氣被ㇾ遊しと御はなしなりし。

 はじめ、隨分、御相應にて、あらせられしを、三日、四日ばかり有(あり)て、御吐瀉など有(あり)て、御不出來(おんふでき)のこと有しに、とくと、御やう子伺(うかがふ)に、藥法のあしきには、あらず。御小兒には一度の御藥上高(おんくすりうへだか)、さじに一滴づゝなるを、御付の人たち、御藥御相應を悅(よろこび)、

「少し、おほく、さし上(あげ)て、猶、御快氣を。」

と、いのりすごし、御藥の上高、過(すぎ)し故の御吐瀉と察し奉りて、

「別法、さし上候間、上過(すご)しなき樣に。」

と、かたく、斷(ことわり)、やはり、其法を、さし上(あげ)しに、それにて、御快氣あらせられし、と伺(うかがひ)し。

「此節、御藥も、みては、けして、御快氣あらせられまじ。御大病中、御不出來(おんふでき)のこと、あらせられても、平助、壱人に相(あひ)まかされて有(あり)しぞ、此君(きみ)の御運(ごうん)、よかりしこと。」

と、内々、申上られし。

 今、此君の御代(みよ)と成(なり)しを見奉りても、源四郞にても、ながらへてあらば、などか、御めぐみのなかからん。」

と、うれしきながらも、かなしき。

[やぶちゃん注:「源四郞」既注だが、再掲すると、真葛(あや子)の次弟(周庵(平助)の次男)。例の七草のそれでは「尾花」と呼ばれた。真葛より十一年下であった。やはり既に述べたが、長弟で長男であった長庵元保(幼名は安太郎。七草名「藤袴」。真葛より二歳下)は早逝している。「日本ペンクラブ」公式サイト内の「電子文藝館」の門(かど)玲子氏の「只野真葛小伝」によれば、亡くなった時、『嫡男長庵』は、『まだ二十二歳の若さであった』とある。源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで、同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、ウィキの「只野真葛」他によれば、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで急死した。源四郎は『江戸に風邪が大流行し』、陸奥仙台藩第九代藩主伊達周宗(ちかむね:寛政八(一七九六)年に特例の生後一年足らずで藩主となり、親族であった幕府若年寄堀田正敦(ほったまさあつ)の後見を受けたが、疱瘡のために文化九(一八一二)年に十四で夭折した。一説に死去は十一歳であったともされる)『の重要な縁戚である堀田正敦』(当時は近江堅田藩藩主で幕府若年寄。第六代藩主伊達宗村の八男。周宗は曽孫)『夫人も罹患したので』、『源四郎は常にその傍らにいて看病した。夫人は』、『その甲斐なく』、『亡くなっている。公私ともに多くの患者をかかえていた源四郎は、休まず患家をまわって診療したあげく、自らも体調を著しく衰弱させてしまったのであった』。『真葛は、みずからのよき理解者でもある大切な弟を亡くし、また、源四郎を盛り立てる一心で』、『みずから江戸から仙台に嫁したことがむなしくなったと悲しんだ』とある。この後にも、その末期の記載が出現する。]

只野真葛 むかしばなし (105) 小便組女顚末

 

一、世のもてあましものとする小便組(せうべんぐみ)の女を、さる公義衆、かゝへられしに、おさだまりのごとく、三日ばかりは、よくつとめ、のちは、床(とこ)の上に小便をしたりしを、少しも、おどろく色、なかりしかば、大便を、したゝか、仕(し)ておきし、とぞ。

[やぶちゃん注:「小便組」江戸時代、妾(めかけ)奉公に出て、わざと、寝小便を垂れ、暇(いとま)を出されるのをよいことに、支度金や給金を詐取する女、或いは、そうした詐欺行為を企む集団や仲間。「おししぐみ」「ししぐみ」「手水組(ちょうずぐみ)」或いは、単に「小便」とも呼んだ。]

 主人は、やはり、いかりの色なく、下人に申付(まふしつけ)て、犬をくゞし[やぶちゃん注:「括(くく)す」縛る。]たるごとく、四ツ繩にしばらせて、中庭に𢌞(まわし)おろし、むしろにて、小屋をかけて、後(うしろ)に大部な、くひ、打(うち)て、それに、繩を結付(ゆひつけ)、人のくひあませし飯汁(めしじる)を、ひとつ器(うつは)に入れて、日に、三度ヅヽ、あてがひ、いやしめ、かひて、出入(でいりの)人々に見せて、

「床上(とこうへ)に、糞(くそ)まり仕(し)ちらし候畜生を、かひたるてい、御覽ぜよ。」

とて、はぢをあたひ[やぶちゃん注:ママ。]しと聞(きく)ぞ、こゝろよきしかたなる。

 此主人、「きりやう人(じん)」[やぶちゃん注:「器量人」。]と見へたり。

 やどは、このよしを聞つけて、日ごとに、いとまを願(ねがひ)にくれども、一向、とりあわず、

「畜生を、人と見たがへしは、手前のそゝう[やぶちゃん注:ママ。「粗相」「麁喪」。]なり。されど高金(たかがね)いだして、かゝへしもの故、約束の日數(ひかず)、通(かよふ)は、かふ心なり。」[やぶちゃん注:「かふ心」は「孝心(かうしん)」が正しい。或いは、「妾買(めかけが(か)ひ)」に懸けた洒落かも知れぬ。]

とて、ゆるさず、百日近く糺明(きうめい)して後(のち)、ゆるしたり。

 小便組の、よき、いましめなり。

只野真葛 むかしばなし (104) 熊本藩四代藩主細川宣紀の側室扱いの騒動

 

一、近年、賢人細川樣と申せし殿の御腹(おんはら)は、惡人にて有(あり)し、とぞ。

[やぶちゃん注:「細川樣」この細川は、以下の叙述から、肥後国熊本藩四代藩主細川宣紀(のぶのり 延宝四(一六七六)年~享保一七(一七三二)年)である。「御腹」ここは「本当の御心」の意なので注意。本文を読んだ後、最後の注を参照のこと。

 父君、人より先にめしつかはれし御妾(おめかけ)を、願ふにまかせて、故もなく、御上分(ごじゃうぶん)にはとりたて、他行(たぎやう)には長刀(なぎなた)を持(もた)せるほどの格に被ㇾ成しに、はるか後に上(あが)りし女、男子をうみ奉るに、いまだ御世つぎましまさねば、殊の外、いきほひよかりし、とぞ。

 上分に成(なり)し女、神佛に願(ねがひ)て、やうやう、男子をうみ奉りしが、二ッ三ッ、御年を、とりしなり。御世(およ)つぎ御願(おねがひ)は、御としかさの方(かた)に、さだまりしかば、御腹[やぶちゃん注:ここは「御妾」の誤字ではなかろうか。]は、上分に上り、長刀御免の身と成しに、

「此御家中に、兩人、長刀をもたせし御部屋、有(あり)しためし、なし。」

とて、老臣たち、しきりにいさめ奉りし故、ふるき御部屋の上座を、次に、さげられ、長刀をも、やめられし、とぞ。

 尤(もつとも)、御寵愛も、古きは、おとろへ、若きかた、さかり成しかば、ふるき御部屋、うらみ、いきどほりて、左樣の被仰渡(おほせわたされ)有(あり)し日より、部屋にこもりて、食を、たち、天地に、いのり、のゝしるやうは、

「人のおもひの有(ある)なしは、おしつけ見すらすべきぞ。わがうみ奉りし若君を、御世(みよ)に立申(たちまう)さで、おくべきや。」

と、晝夜、泣(なき)さけびて、終(つひ)に、兩眼、ぬけいでゝ、死せし、とぞ。

 それより、御部屋も、病(やまひ)をうけ、殿も、かくれさせ給ひしかば、若殿、世をとり給へども、はじめは御發明にてあらせられしが、月まし、日ましに、御心(みこころ)くらみ、物も、はきとは、言仰(いひあふが)ず、殿中、御つとめも、やうやに被ㇾ遊しが、八月十五日御登城の所、人たがひにて、いたくらに、きられて、御死去なり。惡女のねがひに少しもたがはず、御次男樣の御世とは成し。

 是、賢君にてありし。

[やぶちゃん注:「御部屋も、病をうけ、殿も、かくれさせ給ひしかば、若殿、世をとり給へども、はじめは御發明にてあらせられしが、月まし、日ましに、御心(みこころ)くらみ、物も、はきとは、言仰ず、殿中、御つとめも、やうやに被ㇾ遊しが、八月十五日御登城の所、人たがひにて、いたくらに、きられて、御死去なり」。この刃傷で亡くなったのは、宣紀の四男(兄三名は孰れも一~六歳で夭折している)であった第五代藩主細川宗孝(むねたか 正徳六(一七一六)年~延享四(一七四七)年)である。享保一七(一七三二)年、父宣紀の死去に伴い、十七歳で家督を相続したが、当該ウィキによれば、『当時の熊本藩は、父』『宣紀の時代から』、『洪水・飢饉・旱魃などの天災に悩まされて、出費が著しいものとなって』おり、『宗孝が藩主となった翌年には』、『参勤交代に使用される大船』『「波奈之丸」』(なみなしまる)『の建造費、さらに』は、再び、『洪水・飢饉・疫病などの天災が起こり、その治世は多難を極めた』とある。しかし、延享四(一七四七)年八月十五日、月例の拝賀式のために登城し、大広間脇の厠に立った際、旗本寄合席の板倉勝該(かつたね)が乱心し、突然、背後から斬りつけられ、まもなく絶命した。享年三十二であった。ウィキの「板倉勝該」によれば、『勝該は』、『日頃から』、『狂疾の傾向があり、家を治めていける状態ではなかったため、板倉本家当主の板倉勝清は、勝該を致仕させ』、『自分の庶子に』、『その跡目を継がせようとしていたという。それを耳にした勝該は恨みに思い、勝清を襲撃しようとしたが、板倉家の「九曜巴」紋と細川家の「九曜星」紋が極めて似ていたため、背中の家紋を見間違えて細川宗孝に斬りつけてしまったとされる』。『一方で、人違いではなく』、『勝該は最初から宗孝を殺すつもりであったとする説も存在する。大谷木醇堂』の「醇堂叢稿」に『よれば、白金台町にあった勝該の屋敷は、熊本藩下屋敷北側の崖下に位置し、大雨が降るたびに』、『下屋敷から汚水が勝該の屋敷へと流れ落ちてきたので、勝該は細川家に排水溝を設置してくれるように懇願したが、無視されたため』、『犯行に及んだという』。『事件後』、『勝該は水野忠辰宅に預けられ、同月』二十三『日に同所で切腹させられ』ている(生年未詳のため享年は不詳)。戻ると、細川宗孝の母は、ウィキの「細川宣紀」によれば、側室の際(映心院。鳥井氏。なお、父宣紀には正妻はおらず、判っているだけでも六人の側室がいた)が母であり、宗孝が殺害された後を継いで熊本藩第六代藩主となったのは、宣紀の側室利加(岩瀬氏)が生んだ五男の細川重賢(しげかた 享保五(一七二一)年~天明五(一七八五)年)であった。当時の熊本藩は、連年、財政困難にあり、参勤交代・江戸藩邸の費用にも事欠くありさまであった。重賢は藩主に就任すると、堀勝名(かつな)を大奉行に抜擢し、藩政改革にとりかかった。先ず、綱紀粛正を図り、行政機構の整備や刑法草書の制定、財政再建に向けての地引合(じびきあわせ:検地の一種)による隠田(おんでん)の摘発、櫨(はぜ)・楮(こうぞ)の専売、藩士には知行世減(せいげん)法を行ったほか、藩校「時習館」を建てて、人材の育成を図り、農商人の子弟でも俊秀の者には門戸を開いた。この藩政改革によって、藩財政は立ち直り、藩体制を強固なものとした(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。則ち、腹違いの子らは、相応に藩主として立ち向かった人物であったのである。だから、最初の「御腹」の黒い「惡人」とは、彼らを指すのではなく、側室の扱いを我意に任せた父宣紀を指すのである。]

只野真葛 むかしばなし (103)

一、むかし、吉原の「名取(なとり)」といはれし女郞、勞症(らうしやう)[やぶちゃん注:労咳。肺結核。]にて、つとめを引(ひき)し故、親方は、いふにおよばず、茶屋・舟宿にいたるまで、

「勞症の妙藥もがな。」

と、たづねしに、ある日、

「少し、快氣。」

とて、中(なか)の町(まち)へ出(いで)し時、他國人、吉原見物に來りし、道人(だうじん)ていの五十ばかりなる坊主、茶屋に居(ゐ)あわせて[やぶちゃん注:ママ。]、其女郞を見て、

「あれは『勞症やみ』と見うけたり。我等、幸妙藥を持(もち)あわせし[やぶちゃん注:ママ。]間、進ずべし。」

と、いひし、とぞ。

[やぶちゃん注:「中の町」元吉原及び新吉原の中央を貫き、北東より南西へ、大門口より京町まで達する通り。後者は現在の台東区千束四丁目附近(グーグル・マップ・データ)。]

「それこそ、のぞむ所。」

と、悅(よろこび)、もらひてのませしに、すらすらと快氣せし、とぞ。

「是ほど、よく聞(きく)[やぶちゃん注:ママ。「效(き)く」。]藥なら、其人のすむ所をきいておけばよかつたに、どこの人やら、誰(たれ)もしらねば、また、もらひ樣(やう)も、禮の仕(し)やうも、なし。」

と、いひて有(あり)し内(うち)、又々、其病(やまひ)、おこりしかば、しきりに、其人の行衞をたづねしに、しれず。

 新造・かむろは、神に、佛に、

「其人の行衞を、しらせ給へ。」

と願ひし、念やとゞきけん、ふと、其老人、中町(なかのまち)を通りしかば、

「夢か、うつゝか。」

と、人々、いで、袖つまを引(ひき)て、よびいれ、有(あり)しこと共(ども)をつげて、藥を、こひしかば、老人曰(いはく)、

「やすき事ながら、持(もち)あわせも、是ばかりなり。」

とて、いさゝか、あたへ、

「我は他國の人なれば、此のち、來らじ。藥方を、つたへ申べし。夏土用の内、炎天を見て、どぜうを壱升に、酒、壱盃にて、殺し、めざしにして、しごく、高き所へ、いだして、たゞ一日に干(ほす)べし。さて、後(のち)、黑燒として、『のり丸(ぐわん)』に、すべし。」

と、いひをしへて、さりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「のり丸」意味不明。「ねり(煉り)丸」の誤記か。なお、以下は底本でも改段落している。]

 其頃、吉原へ入(いり)びたりて有(ある)人、このはなしを聞(きき)て語(かたり)しが、其人の、「ひやうとく正川(しやうせん)」[やぶちゃん注:道人の名乗り。]といひし故、藥名に付(つけ)たり。

 どぜう、こまかならねば、一日に干(ほせ)ず、もし天氣を見そこねて、夕がた、曇(くもり)、干(ほせ)ぬときは、ほいろにかけてなりとも、一日に、ばりばりと、をれるほどに、干(かはかす)ばかりが、傳授なり。

[やぶちゃん注:「道人」この場合は、雰囲気からして「神仙の道を得た人」の意であろう。

「ひやうとく正川」「表德」であろう。「徳をあらわすこと」の意。

「どぜう」歴史的仮名遣は「どぢやう」が正しい。博物誌はサイト版「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚  寺島良安」(今年の九月に全面リニューアルした)の「どじやう 泥鰌」、或いは、ブログ版の「大和本草卷之十三 魚之上 泥鰌(ドヂヤウ) (ドジョウ)」を見られたい。

「ほいろ」「焙爐(焙炉)」。茶・薬草(生薬)・海苔などを乾燥させる道具。木の枠や籠の底に和紙を張り、遠火の炭火を用いる。また、「ほいろう」ともいう。「日葡辞書」には、「Foiro」と記され、「茶を焙(ほう)じ煎(い)る所、または、その炉」と解釈している。また、「和漢三才図会」などの江戸時代の類書類には、茶を焙じることを主な役目として記してある。]

只野真葛 むかしばなし (102)

 

一、桑原の高弟に「養丹」といひし人、有(あり)し。此名、付られしころまでは、おぢ樣も萬事、父樣のまねばかり被ㇾ成し時なりし。

「人の名は、書(かき)よく、おぼへよきが、よひ[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、「元丹」といふ弟子有しにならひて、つけられしなり。後に五、六萬石の大名家中となりて有し【追(おつ)て聞(きく)、「養丹は仙石越前守樣御家中、熊崎某(なにがし)養子に成(なり)、後(のち)「養春」といひしなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 同家中の用人の妻、ふしぎの病(やまひ)にて有し。

 見うけたる所、つねの如く、食も相應に成(なり)、氣分もよく、色つやもよし。

 縫物を手にとれば、たちまち、ふさぎ、一向に、すること、ならず。

 二月、三月は、うちすてゝもおきしが、三年わづらひて、家内(いへうち)、ぼろを引(ひき)て有し、とぞ。

 いろいろ、「しやく」の藥も用ひしかど、しるしなかりしに、其頃、他國より來りし下人を、めしつかひしが、ある時、其中元(ちゆうげん)[やぶちゃん注:「中間」に同じ。]が申(まふす)は、

「私(わたくし)が家につたはりし一子相傳の積[やぶちゃん注:ママ。前の「しやく」と同じで、「癪」。多くは古くから女性に見られる「差し込み」という奴で、胸部、或いは、腹部に起こる一種の痙攣痛。医学的には胃痙攣・子宮痙攣・腸神経痛などが考えられる。別称に「仙気」「仙痛」「癪閊(しゃくつかえ)」等がある。]の妙藥の候。奧樣へ、さし上見申度(あげみまふした)し。」

と、いひし、とぞ。

「『とても、藥は、きかぬもの。』と思ひしを、何にても、こゝろみん。」

とて、もらひうけてのみしに、すらすらと、快氣せし、とぞ。

「ふしぎのこと。」

と、悅(よろこび)、ほうびなどつかわして[やぶちゃん注:ママ。]有しに、一季に成(なり)しかば、いとま申上(まうしあげ)て國へかへる時、主人のいふは、

「其方、おぼゑし粉藥(こなぐすり)、誠(まこと)にきたいの名法なり。あまねく、人にほどこして、病(やまひ)のたすけともなすべきを、何卒、我に、其法を傳授せよ。」

と、いひしに、下人、淚をながして、

「御尤なる御意(ぎよい)に候へども、父が末期(まつご)につたへしこと故、遺言とも形見とも存(ぞんじ)候こと故、御つたへ申上がたし。」

と、いひし、とぞ。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落してある。]

 主人も、ぜひなく、法をならはざりしに、其中元、下りて後(のち)、半年ばかり有(あり)て、又、例の病(やまひ)おこりし、とぞ。

 藥をこひしたひて有し所へ、養丹、見舞(みまひ)しかば、有しことゞもを語(かたり)つゞけて、法をおしみ[やぶちゃん注:ママ。]しを、にくみておるを、養丹は、たばこのみながら、つくづくと聞居(ききをり)しが、

「さて、其藥は、きぐすり屋よりとゝのへ來りしや。」

と、とふ。

「さやうなり。」

といふ。

「わたくし、少々、心あたりのことも候間、近日、藥法を承りいだし、調合さし上申(あげまふす)べし。」

とて、しりぞき、心中におもふ。

『其中元、たしかに、近所の藥屋へ行(ゆき)しなるべし。かねて、酒のみなかまの藥屋に、もし、うり上帳(あげちやう)に、付(つけ)てあるや。』

と、こゝろ付(づき)し故、其足にて、行(ゆき)たり。

 養丹といふ人は、大の酒好(さけずき)にて、いづかたにても、酒の有(ある)所へ、ひしと、入(いり)びたりて居(を)る人なりしが、此藥屋も、酒のみにて、日ごとの友なりしかば、例のごとく、酒をのみあひて後(のち)、

「我、我等(われら)屋敷の用人の所なる中元、此見世へ、粉藥を、かひに來りし事は、なきや。」

と聞(きき)しに、

「去年中、折々、來りし。」

といふ故、

「しからば、むつかしながら、其時のうり上帳を、少し、見たき事、有(あり)。」

と、いひしかば、

「やすきこと。」

とて取(とり)いだしみせしに、買藥(かひやく)のかなしさは、かくしとすれど[やぶちゃん注:ママ。「隱しとすれど」か。「隱(かく)さんとすれど」であろう。]、おのづから、分量、ありありと、しるし有(あり)し、とぞ。

 養丹、大きに、悅(よろこび)、うつしとりて、すぐすぐ、藥屋にて調合し、翌日、用人かたへ持參してのませしに、たちまち、こゝろよく成(なり)し故、大(おほ)ほこりせし、とぞ。

「是、『酒のみ養丹』が一生の出來(でき)なり。」

と聞(きき)し。

 藥種三味(さんみ)・龍膽(りんだう)二匁(もんめ)・細辛五匁・沈香(ぢんかう)壱匁。

 其中元、名、惣八といひし故、「惣八散」と名付しが、合(あはせ)て、八匁なれば、よしある名なるべし。

 さて、此病(やまひ)は、わかき人に、しばしば有(ある)ことなれど、病とはしらで、「縫物きらい[やぶちゃん注:ママ。]」と名付(なづく)る事なり。

 養丹は、はきはきとせず、ずるけものといふなり。五十ばかりに成(なり)て、ひさしく病(やまひ)せしに、氣(き)のごとく、はきともせず[やぶちゃん注:彼の性格と同じで、病態ははっきりと現れず。]、又、わるくもならず、其内、分(わけ)て、すぐれぬとき、日中、看病人など置(おき)し事有(あり)しに、夏の事なりし。

 長日[やぶちゃん注:夏のある日。]七ツ頃[やぶちゃん注:午後四時頃。]、床の上にうすねぶりて居(ゐ)しに、いづくより來りしや、薄鬢(うすびん)のふとりたる大男、枕上(まくらがみ)のかたに、座して有(あり)しが、其男の曰(いはく)、

「其方、病は、いかゞせられしや。我等も、昔、そのやうに、わづらひ、久しく難儀せしが、次郞坊樣の御弟子になつてから、すきと、よく成(なり)し。其方にも御弟子になる心は、ないか[やぶちゃん注:ママ。]。御弟子に成氣(なるき)なら、俺と、つれだちて、ござれ。」

と、いひし、とぞ。

 養丹は、うつうつとしながら、こたふるは、

「近頃、かたじけなきことなり。さりながら主人を持(もち)し身(み)故、いとまをもらはねば、身は、うごかしがたし。」

といふを、聞(きき)おわらぬうち[やぶちゃん注:ママ。]、かの大男、まなこをかへして、

「橫道(わうだう)ものめ。」[やぶちゃん注:「橫道」人間としての正しい道に外れていること。邪(よこし)ま。邪道。]

としかりし聲、耳にひゞきて、今ぞ誠に目はさめしが、其男は、たちてあゆむともなく、庭の角(すみ)なる八ツ手の下にて、消(きえ)うせたり。

 柿色の帷巾(かたびら)に、淺黃(あさぎ)のすゞしの羽織を着たりし、と、見うけし。[やぶちゃん注:「すゞし」「生絹」。まだ練らないままの絹糸。生糸 (きいと) 。この怪人の姿も、挙げた「次郞坊」という名も、全く以って天狗である。]

 看病人は、次に、ねむりて居(ゐ)しが、

「何か、うなさる[やぶちゃん注:ママ。]聲、する。」

とて、おどろきて[やぶちゃん注:目を覚まして。]、見に來りし、とぞ。

「是、世にいふ『神かくし』の成(なり)そこねならんか。」

と、いひあひし。

 大男の着たる物、極(ごく)むかしの服付(ふくつき)なり。

 ことばなども、今時(こんじ)、聞(きき)なれず、「橫道もの。」といひしも、中々、作りごとには、いでじ。

 養丹、元來、きつとせし心もなくて、表むき尤(もつとも)にて、口入(くちいれ)しがたき挨拶せし故、さやうに、いひしなるべし。

 それより、だんだん、快氣と成(なり)しも、不思議のことなりし。

只野真葛 むかしばなし (101)

 

一、女の惡念、むくひをなすも珍らしからず。是は、其人をしりし故、しるす。

 赤羽邊の十萬石餘の大名の家中、用人などつとめし人にや、娘、壱人(ひとり)持(もつ)て、むこ養子をせしに、よき息子をもらひあてゝ、諸藝も大(たち)ていに心得、男ぶりよく、當世風のきれゝもの、何にも、ぬけめなく、二親(ふたおや)に、よくつかへ、いひぶんもなかりしを、娘、大惡女(おほわるをんな)、心ざまも、荒々しく、

「一人娘。」

と、もてはやされし故、氣まゝにて、たをやかならざりしを、男は、若氣(わかげ)のいたり、信實(しんじつ)、『氣に、いらず。』おもひて有(あり)し、とぞ。

 すでに、日限(にちげん)をきわめて、婚禮、とゝのへんと云(いふ)時、むこは、里に歸りて、來らず、實(まこと)の兩親へ、願ふは、

「あの娘につれそふことなら、あの家は、つぎがたし。いかなる身に成(なる)とても、御免被ㇾ下ベし。」

と、いふ故、やみがたく仲人(なかうど)して、其ことを、養家へ、つげしかば、養父母、殊の外、なげきいたみ、

「わが子ながらも、娘が心は、よくもおもはれず、此養子をとりはづしなば、けして[やぶちゃん注:ママ。]、外(ほか)によき人、有(ある)べからず、もし、よき人をたづねとるとも、又、むすめを、きらはん、うたがひなし。いかにせん。娘をば、他へ緣付(えんづけ)て、此養子を、よびかへさん。」

とて、まづ、そのあらましを、娘に語りきかせしに、娘は、「よき男を持(もち)し。」とて、下悅(したよろこびし)て有(あり)しを、かく、「きらはれし。」と聞(きき)て、たけだけしき心に、いかゞおもひひけん、

「とても、そはれぬこと。」

と、いはれ、前後無言にて居《ゐ》たりしが、

「はて、殘念な。」

と、一聲、さけびし音、隣までもきこへて、

「おそろしき大音なりし。」

とぞ。

 其後(そののち)、無言・絕食にて、死せし、とぞ。

 食をたちしは、七日(なぬか)なり。

 末期(まつご)の樣子なども、おそろしきことなりし、とぞ。

 とりおきすみて後(のち)、養子は歸りしが、兩親[やぶちゃん注:聟養子となった亡き娘の両親。]の前、悔(くやみ)をいふも、すみ付(つき)あしく、おかしなものにて有(あり)しなり。

 二親、繁昌のうちは、遠慮して、妻も持ざりし、とぞ。

 其間(そのあひだ)に、娘がうらみのおもひにや、鼻の上に、はれ物、いでゝ、二、三年、なやみ、終(つひ)に直りたれども、はれは、ひかず、赤味も、一生、とれず、男ぶり、あしく成(なり)たり。つとめのさわり[やぶちゃん注:ママ。]には、ならず。

 二親、なくなりて後(のち)、妻をもとめしが、中(なか)むつまじく、子も、壱人、もちて、何事もなかりしに、夫婦とも、酒好(さけずき)にて、夏になれば、庭にすゞみ臺を置(おき)て、夫婦さかもり、下女は、ねかして、さしむかひ、さしつ、おさへつ、たのしみしに、かはりばんに[やぶちゃん注:かわりばんこに。]酒の燗(かん)をしに行(ゆく)さだめにて有(あり)しに、夫(をつと)の酒の燗をしに行(ゆき)し内(うち)、

「ワツ。」

と、一聲、たまぎる音(こゑ)せし故、おどろきて來り見れば、妻は、すゞみ臺より、おちて、氣絕して居(ゐ)たり。

「藥よ、針よ、」

と、さわぎしが、終(つひ)に本意(ほい)つかず、それが限りにて、有(あり)し、とぞ。

 其後(そののち)むかへし妻も、男子、壱人、持(もち)て、三年めの夏、

「行水(ぎやうずい)を、つかふ。」

とて、湯殿にて、一聲、さけびしが、それ切(きり)にて死し、三度めの妻も、やはり、子、一人有(あり)て、三年目におなじことにて、死(しし)たり。

 むかしの、日向《ひなた》とう庵は、病家のうへ、近所なれば、分(わけ)て懇意にて、つねに來て、日向の家に、はなし居(をり)し、とぞ。

 三度めの妻、絕入(たえいり)しときは、碁寄合(ごよりあひ)にて、日向に有(あり)しに、内のものあわたゞしくかけ付(つけ)、

「御新造樣が、氣絕被ㇾ成(なされ)ました。」

と、つげしかば、其人は、げうてんの色なく、

「はてこまつたものだ。また、いきまひ[やぶちゃん注:ママ。「生きまい」で「生きてはおられまい。」の意であろう。]。」

と、いひし、とぞ。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落している。]

 それより、無妻にて有(あり)しが、あるとし、日向の家内(いへうち)とつれ立(だち)、船遊山(ふなゆさん)にいでし時、ひとつに來りて有(あり)しが、十ばかりの男子をつれて來りし。

[やぶちゃん注:「ひとつに」ここは「夫婦連れで」の意であろう。以下のそれは、その女の年であろう。]

 五十ばかりの人なりし。

 子共あれば、跡はたへず、男ぶり、あしくても、武士のじやまにもならず。

 たゞ、當人に、手不自由をさせるやうな、祟りやうなり。

 

一、細川樣御家、中井上加左衞門といひし人も、むこ養子にきて、家娘をきらひし人、なり。是も、おなじやふなことにて引(ひき)とりて後(のち)、二親の氣に入(いり)ながら、妻になるべき女をきらひて、

「いかにも、夫婦と成(なり)がたき。」

よしを、兩親ヘ願(ねがへ)しゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、他へ緣付(えんづけ)るはづにて有(あり)しを、娘も、意地はりものにて、自由にならず、

「一生、御奉公せん。」

と、いひて、其御殿へ上りしを、家娘故、加左衞門、姊分にしてうやまへたりしに、ねだりごとや、氣まゝは、いひ次第にて、其妻女となれば、いぢめ、いぢめして、氣恨(きこん)つゞかず、病死すること、三人。

 加左衞門は、ちと、ひんしやんとした人物にて、みなりをはじめ、萬事、りつは好(すき)[やぶちゃん注:「立派好(りつぱず)き」。]、きれ口をきゝて[やぶちゃん注:啖呵(たんか)を切ること。威勢のよい放言をすること。]、身つまりと成(なり)、自殺して、はてたり。家娘を養子のきらふは、よろしからぬ事か。

只野真葛 むかしばなし (100) 影の病い――芥川龍之介が自身の怪談集に採録したもの

 

一、北勇治といひし人、外より歸り、わが居間の戶を明(あけ)て見れば、机にかゝりて、人、有(あり)。と

『あやしや。誰ならん。』

と、よく見れば、髮の結處・衣類・帶にいたるまで、我(わが)常に着ものにて、

『我(わが)うしろすがたを見しことは、なけれども、寸分、たがわ[やぶちゃん注:ママ。]じ。』

と、おもわれ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

 餘り、

『ふしぎ。』

に思(おもは)るゝ故、しばし、立(たち)て見居《みをり》たりしが、とてものことに、

『おもてを、見ん。』

と、つかつかと、あゆみよりしに、あなたを、むきたるまゝにて、緣先に、はしり出(いで)しが、いづちへ行(ゆき)しや、見うしない[やぶちゃん注:ママ。]たり。

 家内(いへうち)に、其由を、かたりしかば、母は、物をも、いはず、何か【祖父や父の、病(やまひ)にて、死せし事を。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、

「ひそひそ。」

として、有(あり)し、とぞ。

 それより、病付(やみつき)て、其年の中(うち)に、死(しし)たり。是まで、三代、其身の形(かたち)を見て、病付死たり、とぞ。

 これや、いはゆる、「影の病(やまひ)」なるべし。

 若《もし》、母や、家來は、しるといへども、あまり忌々(ゆゆ)しきこと故、主(あるじ)には、かたらで有(あり)し故、しらざりしなり。

[やぶちゃん注:「奥州ばなし 影の病」で既出。そちらで、リキを入れた注を附してある。そちらでも記したが、この話、芥川龍之介が、大正元(一九一二)年前後を始まりとして、終生、蒐集と分類がなされたと推測される怪奇談集を集成したノート「椒圖志異」(サイト版)の中にも、「影の病」として採録している。芥川龍之介は、自身、最晩年に、自分のドッペルゲンガーを見たと、座談会で証言している(精神科医の式場隆三郎に『ドッペル・ゲンゲルの經驗がおありですか。』と問われた際、『芥川 あります。私の二重人格は一度は帝劇に、一度は銀座に現はれました。』とある。私の、『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』(ブログ版)を見られたい。ネット上では、「芥川龍之介は自分のドッペルゲンガーを見たから自殺した」という非科学的な、古びた似非心霊学者のような流言を流して、喜んでいる輩が、糞のようにいるので、注意されたい。

只野真葛 むかしばなし (99)

 

一、長庵、幼年の時に、守女(もりをんな)ども兩人、父樣、出前《しゆつまへ》に玄關口に駕(かご)の有(あり)しを、長庵を、のせて、かつぎあげしに、そのゆれる事、地震のごとし。

 あと棒の女、聲かけて、

「八助、こしを、すへろ、すへろ。」

と、いへば、先ぽうの女、きいたふりにて、

「ヲヽ、うちへ歸りて、すゑよう。」

と、灸(きう)の氣に成(なり)てこたへし故、大わらひと成(なり)し。

[やぶちゃん注:「長廬」真葛の弟で工藤平助の長男「長庵元保」。幼名は安太郎。家内のネーミングは「藤袴」。あや子より二歳下。二十二歳で早逝した。]

只野真葛 むかしばなし (98)

 

一、濱町に工藤家かり宅せし時の家主は、木村養春とて、二百俵の公義御醫師にて有(あり)しが、勝(すぐれ)たる小男なり。

 品川の「年明(ねんあけ)女郞」を後妻とせしが、此女も、

「坊主、大きらひ。小男も、きらひ。」

にて、いつも此二色(ふたいろ)の客をとれば、ふりつけて、あはざりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「ふりつけて」「振り付けて」で、「人を嫌って、はねつける。」の意。]

 其女のかたへ、なじみにてくる客、二人、有し時、壱人は有馬の家中とやらにて、殊の外、わる氣のまわる大ねぢ客なりし。

 此客、きたれば、粉(こ)になるおもひなりしに、二日、居(ゐ)つゞけせられ、やうやう、かへして、

『やれ、うれしや。橫にでもなつて、ちと、休(やすま)う。』

と、おもふ時、初會の客、有(あり)。

 みれば、小男・ぼうづなり。

 物をも、いはず、得手(えて)のごとく、ふりつけしを、少しも氣にかけしていもなく、居つゞけして、新造・かむろを相手にして、打(うち)はを、ふつて、居(をり)し、氣のかるさ。[やぶちゃん注:「打(うち)は」「団扇」か。]

「寢床の中にて、『是そこ[やぶちゃん注:ママ。「是(これ)こそ」の誤記。]、まことの『こなれ人(びと)』といふにやあらん。』と、おもひしより、打とけてなじみとなり、年明にて、身のかたづく時も、願(ねがひ)て、爰(ここ)へきたりしが、緣は、いなものなり。」

と、心やすき人に、かたりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「97」に続く「うかれめの、おもはぬ人にそふは、珍らしからず、といへども、まさしく見しこと」の第二話。]

只野真葛 むかしばなし (97)

 

一、うかれめの、おもはぬ人にそふは、珍らしからず、といへども、まさしく見しこと故(ゆゑ)、しるす。

 吉原に、「かなや」の内、「直衞(なほゑ)」といふ女、高井孫兵衞とて、わるしわく、理屈の外には、なしを、しらぬ人を客にとりて、ふつふつ、氣にいらず、

『いやよ、いやよ、』

と、おもふ故、いくら、ふりつけても、あきずにくる故、いつも、またせておく事なりしに、ある時、例のごとく、またせて置(おき)しに、かぶろ・新造も、あきて居(をら)ぬうち、いづくへ行(ゆき)しや、客、見へず成(なり)しこと有(あり)。

 直衞は、

「顏をださずば、なるまひ[やぶちゃん注:ママ。]。」と、いやいや、座敷をのぞひ[やぶちゃん注:ママ。]て見れば、客は、なし。

 内のものにきけど、誰(たれ)も、しる人、なし。

「大方、おかへり被ㇾ成ましたろう。」

と、みないふ故、その氣に成(なり)、

「ほんに、かへたか[やぶちゃん注:ママ。]。」

と聞(きき)ありくに、人々、

「歸りし。」

といふ故、大に悅(よろこび)、

「もし、誰(たれ)さんも、きなんしよ。うれしいことが有(ある)。いやな客人が歸つたとさ。」

とて、なかまをよび集(あつめ)、うまひものをとりよせて、おもひおもひ、食(くひ)ながら、其客のわるひ[やぶちゃん注:ママ。]ことを、くりかへし、思ひだし、思うひだし、語りて、胸をはらし居《を》る時、もはや、わるくち、いひつくせしを、聞(きき)すまし、後(うしろ)の戶棚を、

「さらり」

と明(あけ)て、孫兵衞、立(たち)いづれば、外(ほか)の女らは、にげて行(ゆき)、直衞は、赤面、消(きえ)いるおもひ、

『如何はせん。』

と無言にておると、孫兵衞は、大きに腹でも立(たち)そふ[やぶちゃん注:ママ。]な所を、さらにいかりの色、無(なく)、

「金にかはるゝつとめの身、わかい心に、すいた、しかぬは有(ある)うちのこと、一々、尤(もつとも)なり。我、仕かたのあしかりし。」

と、感心せしてい[やぶちゃん注:「體」。]にて、おとなしく歸りし、とぞ。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落。]

 直衞は、いよいよ、面目(めんぼ)くなく、

「いかに、つとめの身なればとて、あまりに、さがなき物いひを、きかれしこと。」

と、はぢ入(いり)て、

「とやせん、かくや、」

と、心も、すまず、案じわづらひ居《をり》たる所へ、孫兵衞は、仲人(なかうど)をこしらへて、いはするは、

「先刻は、段々、心中、のこらず聞(きき)とゞけたり。さほど、きらはるゝ孤身(ひとりみの)事、きれて、のぞみをかなへんことは、やすけれど、『客を、さがなくそしりしを聞付(ききつけ)られ、あいそつかして、來(こ)ぬ。』と評判せられては、外聞は、さておき、おや方(かた)の前へ、顏が、たつまじ。とにもかくにも、一度(ひとたび)なれそめしこと。是より、あらためて、しんみの客にして逢(あふ)心なら、聞(きき)しことは、他言せじ。」

と、いひやりしかば、

「わたりに、舟。」

と、よろこびて、其言(そのげん)にしたがひしより、實(まこと)に打(うち)とけし客と成(なり)て、終(つひ)にうけだされて、一生、つれそひ、數寄屋町居宅の河岸(かし)のかたに家居して有(あり)しが、工藤家へも、度々(たびたび)來り、あのかたへも、茶湯ふるまへ[やぶちゃん注:ママ。]に、度々、よびて有(あり)し。

 孫兵衞といふぢゞ、見たりしが、いかにも、女のきらひそふな[やぶちゃん注:ママ。]人なりし【「しつくこい[やぶちゃん注:ママ。]ものには、しめらるゝ。」といふは、是なるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

[やぶちゃん注:「しつくこいものには、しめらるゝ。」「しつこい者には、占められる。」か。]

只野真葛 むかしばなし (96)

 

一、工藤家數寄屋町のかり宅は、石崎九郞右衞門といへる町人のたてし家作なり。

 此人は、もと、駕《かご》のものの「口入(くちいれ)」をして、世をわたりし人なりしが、ふと、金をまふけて[やぶちゃん注:ママ。]大町人(だいちやうにん)の中間へ入(いり)しに、いつも出合(であふ)の時は、

「ものしらず。」

「不風雅。」

とて、なかまはづれにばかり成(なり)しを、無念に、おもひて居(をり)しに、辰ノ年の大火にて、江戶中、燒失、三嶋地面も、けむりと成て、借手(かりて)もなかりし時、九郞右衞門、

「此時ならん。」

と、工夫して、三嶋吉兵衞に相談して、地面をかりて、普請、其外、家びらきのせつ、「中間(なかま)ふるまひ」のことまで、萬事をまかせて賴(たのみ)しかば、三嶋は、もとより大風流の物しり人、

「落(おとし)わらふ人數(にんず)の、何ほどのことやしらん。其義ならば、よろしくぞ、はからふべし。」

とて【「故よきなぐさみ」と悅(よろこび)て、うけ合(あふ)。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、公家衆の家居(いへゐ)のごとくに、圖を引(ひき)て、普請をし、庭には「源氏籬(ませ)」をまわし、「見こしの赤松」・「軒端の紅梅」など、すべて、下人の目なれぬことばかりして、普請出來後(しゆつたいご)、「なかまふるまひ」の日は、上段の間に御簾《みす》を懸(かけ)て、上野(うえの)の樂人(がくじん)をたのみ、音樂を奏じて、饗應ごとせし故、かねて口きくなかまども、一言(いちごん)もなく、ほめることさへ、しらざりしは、心地よかりしことなりし。

[やぶちゃん注:「辰ノ年の大火」幼少の真葛のトラウマとなると同時に、彼女を成人後に「経世済民」の考え方に導いたとされる、明和九壬辰(みずのえたつ)年二月二十九日(一七七二年四月一日)に目黒行人坂(現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近:グーグル・マップ・データ)で発生した「明和の大火」。「3」を参照。

「三嶋」出火元から考えて、東京都品川区西五反田にある三島稲荷神社附近と思われる(グーグル・マップ・データ)。

「上野の樂人」上野東照宮の祭日で音曲を奏でる者。

「源氏籬(ませ)」数寄屋建築にある「源氏塀」(げんじべい)。グーグル画像検索「源氏塀」をリンクさせておく。]

 それからあとは、公家の氣取りにて、衣類を仕立(したて)、まことの公家は見しこともなき故、萬事、芝居のまねなりしとぞ。[やぶちゃん注:以下は、底本も改段落あり。]

 九郞右衞門、妻も、はやく世をさり、娘、壱人(ひとり)有(あり)しを、「お姬」とよび、祕藏せしが、普段着には、白無垢に緋鹿子(ひがのこ)ふりそで、淺黃(あさぎ)のしごきなりし、とぞ。

 片目、つぶれしに、入目(いれめ)して、婿ゑらみのうち、九郞右衞門も死し、後(のち)、桑原に居候(ゐさうらふ)にて有(あり)し「佐七」といふ男を、伯父樣、世話にて被ㇾ遣しが、手もなく、追出(おひだ)されたり。

「外(ほか)に、姬が氣に入(いり)し男、有(あり)し。」

との、ことなりし。

 其緣切(えんきり)のかけ合(あひ)に、桑原へおくりし文(ふみ)の上書(うはがき)は、

「隆朝(りゆうてう)樣 姬より」

と、かきてこしたりし、とぞ。

 娘ばかりにて、跡も、たへたる家とは成(なり)しなり。

[やぶちゃん注:「隆朝」真葛の母方の祖父で仙台藩医桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)の後を継いだ、真葛の母「お遊」の弟桑原隆朝純(じゅん)。「26」を参照されたい。]

只野真葛 むかしばなし (95)

 

一、九月廿日過(すぎ)、ひるより、

「雉子(きじ)を、うたん。」

とて、犬をつれて、山に入(いり)、とかくたづねれども、鳥も、なかりしに、やうやう七(ななつ)[やぶちゃん注:午後二時。]時分、一羽、見いだしたれど、それも、はでにして[やぶちゃん注:暴れて。]、河原(かはら)に、おちたり。

 犬は、つゞきて、崖を下りしが、人は、ゆかねば、まはりて行(ゆき)て見しに、鳥は見へず[やぶちゃん注:ママ。]。

「もし、河水にながれしや。」

と、とかく、もとむるとて、時刻うつり、木の根に腰かけ、やすらひ居(ゐ)たれば、かたはらにふしたる犬、空をあふぎて、しのび聲に、さけびたり【かならず、毛ものゝ、くる時、する事なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

「もし、いたちなどの、いづるや。」

と見めぐらしに[やぶちゃん注:ママ。]、河上(かはかみ)より、人のくる影、見ヘたり[やぶちゃん注:ママ。]。

 河柳(かはやなぎ)の間より見れば、女なり。

『此かはらは、山中にて、人のかよはぬ所なり。木こりなどは、まれにも、かよヘど、女のくべき所、ならず。まして、暮かゝるに、いづちへか行べき。』

と、其さまを、よくみれば、十三ばかりの人のおほきさにて、手は懷(ふところ)へ入(いれ)、兩手とも、入(いれ)しかたち【袖とおぼしきものも見へず。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、古手ぬぐひをかぶり、黑き布子をきて、茶色の帶を〆たり。柳や笹葉にさはりても、少しも、音もせず、足もうごかず、作付(つくりつけ)なる物を、おすやふ[やぶちゃん注:ママ。]なり。

 形は、人にて、人、ならず。

『まづ、ことばを、かけてみむ。』

と、おもひて、

「姊(あね)、どこひ[やぶちゃん注:ママ。]、行(ゆく)。」

と問へば、

「うふゝ。」

とかいふ樣に、こたへしが、かはづの聲に、似たり。

 しかも、

『七、八間わきの、やふなり。』[やぶちゃん注:「七、八間」十二・七三~十四・五四メートル。「やふ」はママ。或いは、「樣(やう)」ではなく、「藪」の濁点落ちかも知れない。]

と、おもひて、そのかたを見やれば、むかひの笹藪の中より、ちひさき狐、首(かうべ)をいだしてゐしが、其狐の、はたらくごとく、人形(ひとがた)も、はたらけば、

『扨は。是が、なすわざに、たがひなし。鐵砲をためてみんとも、見付(みつけ)やせん。』[やぶちゃん注:「ためて」片目を閉じて、狙いをつけて。]

と、あやぶまれて、やうやう外(そと)より、めぐらして、狐のかたへ、むけしに、むかふ見當は、はや、見へず。

『手とらば、いよいよ、くらくならん。』

と、おもひ、火ぶたをきれば、ひゞきと、ひとしく、狐も、人形も、なくなりたり。

 犬を、おこして、やりしに、一聲、鳴(なき)て、歸り來たりし。

 鼻面(はなづら)に、血、付たり。

『仕とめたる』

と、おもひて、笹を分(わけ)て見れば、年ふりし女狐(めぎつね)の、齒も、大方、かけて、二、三枚、有(ある)か、なし、とぞ。

「此あたりにて、人をばかすわるき狐、有(あり)しが、是より、人もばかされねば、是ならん。」

と所のもの、悅(よろこび)し、とぞ。

[やぶちゃん注:流れから、主人公は前に出た「八弥」である。それは、続く次の話で明らかに示される。]

 

 おなじ人、文化三年[やぶちゃん注:一八〇六年。]の秋、おぎしゝ打(うち)に出(いで)しに、

『人氣(ひとけ)なき山を、たづねん。』

と心ざせしに、道にて、「おぎ笛」をうしなひたり【「古事記」に、『天照大御神を、おぎ奉つる。』といふ事、有。「あらぬことを、おもしろげにかまへて、あざむく。」を、いふ。此笛も、ふるき名なるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

[やぶちゃん注:「おぎしゝ」。「只野真葛 むかしばなし (86)」、「おぎ笛」を「荻」の葉で作った「猪」寄せの笛ととったのだが、お恥ずかしいことに、六年前に自分が電子化注した「柴田宵曲 妖異博物館 化物の寄る笛」で、

   *

「おき笛」「日本国語大辞典」によれば、宮城県仙台の例が挙がる方言で(原典の筆者只野真葛は仙台藩医の娘)、猟師が鳥獣を呼び寄せるために吹く笛とある。但し、原典(後掲)では「おぎ笛」と濁り、しかも『「古事記」に、天照大御神をおぎ奉つるといふ事有。あらぬことをおもしろげにかまへて、あざむくをいふ。此笛もふるき名なるべし。』という全く別な名前由来が注されてある。しかし、この「あらぬことをおもしろげにかまへて、あざむく」意味の「おぐ」という動詞は私は知らない。或いは「招(を)く」で「招(まね)く」の謂いか。これなら、鷹匠言葉で「餌など鳥を招きよせる」という意味もあるから、最初の「おき笛」との酷似性が強まると言えるように私には思われる。さらにそれなら、今の「バード・ホイッスル」(鳥笛)との相似性も出てくる。

   *

と明らかに記していた。なお、以下に出る「鹿」も、私は総て、「しし」と読み、「猪」「鹿」を包括した意で採っておく。

 せん方なければ、かの養父忠太夫より、ゆづられし「ひめどう」を取いだし、ふきしに、澤底にて、女の、わらふ聲、はるかに聞えしを、

『「きのことり」に來りし女ならん。』

と、おもひて有(あり)しに、やうやう、ふきかけしを、鹿(しし)を、近づけんとて、吹(ふき)かけし笛をきゝてちかき澤にて、女の笑聲せしほどに、鹿は、おどろきて、にげさりたり。

[やぶちゃん注:「ひめどう」これも、今回、「宮古市北上山地民俗資料館」公式サイトのこちら(「山村生産用具コレクション」の「狩猟・漁労用具」)の「キジおぎ おぎ笛」で、『鹿の骨製の笛で、雄用が正方形に近く、雌用が長方形である』とあって、『資料番号:E-1-37』・『詳細図:e1-37f』・『作図者:安藤稀環子』とあるこの画像を見ることが出来た。これによって、前注と合わせると、「おぎ」は「招ぎ」の可能性が高く、「キジ」は鳥獣を代表する(里近くでも容易に捕獲出来る点ですこぶるポピュラーである)「雉」と考えてよいだろう。而して、想像していた可憐な形ではない、マタギ系を感じさせる道具であることも判明した。

『外(そと)に、よりくる鹿もや。』

と、しきりに笛をふけば、其たびたびに、わらふこと、しばしばなり。

 終(つひ)に、萱(かや)、かき分(わけ)て、

「さらさら」

と、のぼりくるもの、有(あり)。

『又、いにし年の狐のたぐひには、あらずや。』

と、よく見しに、さらに化(け)したる物ならず。

 「おぎ笛」を、よろこびたるさまにて、右の手を、いたゞきに、あげ、左の手を、むな前(まへ)に、つけて、こなたを、見やりて、こゝろよげに、わらへるつらつき、赤きこと、猩猩緋(しやうじやうひ)のごとく、かしらの髮は、つき毛馬(げうま)の尾のごとし。

[やぶちゃん注:「つき毛馬」葦毛(葦の芽生えの時の青白の色に因み言う馬の毛色名。栗毛・青毛・鹿毛(かげ)の原毛色に後天的に白色毛が発生してくるもの)で、やや赤みを帯びて見えるの馬。由来は鴾(つき:ペリカン目トキ科トキ亜科トキ属トキ Nipponia nippon の古くからの異名)の羽色を連想させるところから。]

 朝日に、うつりて、ひかりかゞやき、惣身(そうみ)の毛は、くちば色にて、豆(まめ)がらを付(つけ)たるごとく、ぬけいでゝ、さがれる物、ひまなく、付(つき)たり。

 見事なる奇獸なり【鐵砲をとりまわすとて、少し、かたちの見えしにや、毛物、おどろきて、】。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 落(おち)、さかさにかへりて、にげ行(ゆく)所を、背の四ツ合(あひ)を、ねらひ打(うち)し。

 鐵砲の音と、ひとしく、おめき、さけび、澤底(さわぞこ)に入(いり)しが、なく聲、小女(しやうじよ)に、たがふこと、なし。やゝひさしく、くるひて、聲もたへしが、其からは、故有(ゆえあり)て手に入るに、あまたの年は、へぬれども、名笛(めいてき)のしるし、有けるぞ、ふしぎなる。

[やぶちゃん注:この最後のシークエンス、私は、何だか、妙に心穏やかではいられない。ここにくるまで、八弥は一貫して、「女の」「笑」「ふ聲」とし、「狐のたぐひには、あらずや」と疑うも、「よく見しに、さらに化(け)したる物ならず」と否定して、人形(ひとがた)で少女の姿であることを言明している。顔や頭髪が強い赤い色を呈していること、「惣身」に朽葉色の毛に覆われて、ぼそぼそと抜けたそれを、「ひまなく」ぶら下げているというのは、「山姫」・「山女」のように特異的ではあるが、としても、これは、どうみても、ヒトの少女に違いない。ところが、それを、打ち殺す直前では「見事なる奇獸なり」「毛物」と言い変え、「にげ行所を、背の四ツ合を、ねらひ打」ったのである。ところが、「鐵砲の音と、ひとしく、おめき、さけび、澤底に」転落した後も、その「なく聲」は「小女に、たがふこと、なし」と言っているではないか? 何故、八弥は、その獲物=奇獣を回収しなかったのだ? それは、この子は、事実、山中に住んでいた少女であったからではなかったか? 口減らしや、何らかの身体的・精神的疾患を持った少女の捨て子、ペドフィリアにかどわかされたが、その男が死んだか、そこから逃げた、少女だったのではなかったか? 八弥は、姿こそ異様だが、人間の少女と実は認識したからこそ、「ヤバい」と感じ、放置して、逃げ帰ってきたのではないか? その後悔を、真葛に怪奇談の妖怪の山姫・山女の少女として語り変えることで、自身の道義的責任(殺人罪)を逃げているとしか、私には読めないのである。そうすると、「86」の最後に出る『「養子覺左衞門に、讓る。」とて、「此笛は、しかじかの事、有(あり)て、吹(ふけ)ば、化物の、よりくる笛なり。必ず、用(もちふ)べからず。」と、いひし、とぞ【後、覺左衞門ふきし時も、あやしき毛物、より來りし。】』とあるのも、何やらん、この後の少女殺人を回避する目的のみえみえの伏線のようにしか、私には思われない気もするのである。

2023/12/26

只野真葛 むかしばなし (94)

 

一、七月半頃、年魚《あゆ》、しきりにとれる時、夕方より雨ひまなくふりしに、

「こよひは川主(かはぬし)も漁には出(いで)じ。いざ徒ごとせん。」

とて、八弥、小性(こしやう)の梅津河右衞門をつれて、孫澤のかたへ、ぬすみ川つかひに行(ゆき)しに、狐火(きつねび)のおほきこと、左右の川ふちを、のぼり、くだり、數もしれざりし、とぞ。

『あの狐どもめが、魚を、くひたがりて。』

と、心中にくみながら、だんだん、河をのぼりて、魚をとることおびたゞしく、

「大ふごに、一ぱいとらば、やめん。」

と約束して、とりゐるうち、はるか河上(かはかみ)にて、大かがりをたく影、見えたり。

 ふと、みつけて、兩人とも、立(たち)よどみ、

「もしや、この雨にも、河主の、年魚とりに、いでしや。」

「何にもせよ、今、少しにて、一ぱいになれば、やめずに、とるべし。くらき夜なれば、よも見つけられじ。」

と、やはり、魚をとりゐたるに、かゞりの置(おき)所より、人、壱人(ひとり)、たひまち[やぶちゃん注:底本にママ注記あり。「たいまつ」(松明)。]を付(つけ)て、川に、をりき[やぶちゃん注:ママ。]たり、「夜ともし」をするていなり【「夜ともし」とは、よる、川中へ、かがりをふりて、魚をとることなり。]】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

『すわや[やぶちゃん注:ママ。「すはや」が正しい。]。』

と、心さわぎしかど、

『あなたは、壱人、こなたは、兩人なれば、見とがめらるゝとも、いかゞしてか、のがれん。』

と、心をしづめて見居(みゐ)たりしに、よく打(うち)まもりて、河右衞門が曰(いふ)、「あれは、人にたがはぬやうなれども、誠の人にては、あらじ。持(もち)たる火の、上にのみ、上りて、下に落(おつ)ることのなきは、まことの火に、あらず。」

といふ故、よく見るに、いかにも、あやしき火なり。

 兩人、川中に立(たち)て、おどろかで、有(あり)しかば、一間ばかり、ちかくへ、來りて立居(たちをり)しが、

『ばかしそこねし。』

とや、おもひけん、人の形は、

「はた」

と消(きえ)て、あかしばかり、中《ちう》をとびて、岡へ上りし、とぞ。

「まさしく、ちかく、狐のばけたるを見しこと、はじめてなり。」

と、八弥、はなしなり。

 河右衞門は、眞夜中に、河をつかひて、物におどろかぬ人なり。

 覺左衞門、はなし。

[やぶちゃん注:以上は、「奥州ばなし 狐火」と、ほぼ同内容である。そちらで、綿密に注を附してあるので、見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「白猿刀を奪う」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 白猿刀を奪う【はくえんかたなをうばう】 〔兎園小説第十一集 〕佐竹侯の領国羽州に山役所《やまやくしよ》といふ処あり。この役所を預りをる大山十郎といふ人、先祖より伝来する所の貞宗の刀を秘蔵して、毎年夏六月に至れば、これを取り出だして、風を入るゝ事あり。文政元六月例のごとく座敷へ出だし置きて、あるじもかたはら去らず、守り居けるに、いづこよりいつのまに来りけん、白き猿の三尺ばかりなるが一疋来りて、かの貞宗の刀を奪ひ立ち去り、ゆくりなき事にて、あるじもやゝといひつゝ、おつとり刀にて追ひかけ出づるを、何事やらんと従者共もあるじのあとにつきて、走り出でつゝ追ひゆく程に、猿はそのほとりの山中に入りてゆくへを知らず。あるじはいかにともせんすべなさに、途中より立ち帰り、この事従者等をはじめとして、親しき者にも告げ知らせ、翌日大勢手配りして、かの山にわけ入り、奥深くたづねけるに、とある芝原の広らかなる処に、大きなる猿二三十疋まとゐして、その中央にかの白猿は、藤の蔓を帯にして、きのふ奪ひし一腰を帯び、外の猿どもと何事やらん談じゐる体《てい》なり。これを見るより十郎はじめ、従者も刀をぬきつれ切り入りければ、狼ども驚き、ことごとく逃げ去りけれども、白猿ばかりは、かの貞宗を抜きはなし、人々と戦ひけるうち、五六人手負ひたり。白猿の身にいさゝかも疵つかず。度々《たびたび》切りつくるといへども、さらに身に通らず。鉄砲だに通らねば、人々あぐみはてゝ見えたるに、白猿は猶山ふかく逃げ去りけり。それより山猟師共を語らひけるに、この猿たまたま見あたる時も候へども、中々鉄砲も通らずといへり。この後《のち》いかになりけん。今に手に入らざるよし、その翌年、かの地の者来りて語りしを思ひ出でて、けふの兎園の一くさにもと、記し出だすになん。<『道聴塗説廿編』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 白猿賊をなす事』を参照されたい。なお、宵曲は「柴田宵曲 妖異博物館 猿の刀・狸の刀」でも採り上げているので、そちらも、どうぞ。そこで、最後の宵曲の附記の「道聴塗説」の当該話も電子化してある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「馬角」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 馬角【ばかく】 〔甲子夜話巻十一〕馬角のこと典故には聞けども、実《まこと》に見たると云ふを聞かず。近頃、弘前侯の領内、角ある馬を産すと聞く、その図并《ならび》記事如ㇾ左。

柏木組夕貌関村百姓長四郎立駒当三歳鹿毛《かげ》。

 

Bakaku

 

左の耳に長さ一寸丸九分位の角生じ、図の如く曲り、色黒くかたし。但本の方は和くして、また右の方にも生立ちし角見え申候。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷十一 12 馬角の圖」を注を附して公開しておいた。底本にも図があるが、宵曲が模写したもので、小さいので、そちらで掲げた『東洋文庫』版の図をトリミング補正したものを、再度、掲げておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷十一 12 馬角の圖

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナの読みは静山自身が附したもので、珍しく多く振っている。図は底本の『東洋文庫』版の図をトリミング補正して用いた。]

 

11―12 馬角(ばかく)の圖

 馬角のこと、典故には聞けども、實(まこと)に見たると云ふを、聞(きか)ず。

 近頃、

「弘前侯の領内、角(つの)ある馬を、產す。」

と聞く。其圖、幷、(ならびに)、記事、如ㇾ左。

 

Bakaku

 

柏木組(かしはぎぐみ)夕貌關村(ゆふがほせきむら)百姓、長四郞、立駒(たちごま)、當三歲、鹿毛(かげ)。

左の耳に、長さ一寸、丸(まるさ)九分位(ぐらゐ)の角、生じ、圖の如く曲り、色黑く、かたし。但(ただし)、本(もと)の方は和(やはら)くして、又、右の方(かた)にも生立(おいだ)ちし角(つの)、見え申候。

■やぶちゃんの呟き

「馬角」「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 馬角」に図入りで出る。馬の頭部に生えた角状の角質の腫瘍(概ね良性のものが多いようである)。ヒトにも稀れに見られる。

「弘前侯」「兎園小説」でよく知っているが、弘前氏は、代々、大の馬好きである。

「柏木組夕貌關村」現在の青森県北津軽郡板柳町(いたやなぎまち)夕顔関(ゆうがおせき:グーグル・マップ・データ)。「柏木組」同村は西に牡丹森村を挟んで柏木村があったから、これは複数の村を合わせた上位の村落集団を言ったものである。

「立駒」よく判らないが、現行では一般的に、馬は四歳までを未成熟とし、五歳を成人として、それ以降は毎年二・五歳をとるものとしている。それに当て嵌めるならば、当時は数えであるから、立って普通にふらつかずに歩けるようになった個体を指していると読んでおく。

「鹿毛」は、狭義には、体は鹿に似た褐色で、鬣・尾・足の下部などが黒いものを指すが、普通、我々が「馬」と言われて想起する色、則ち、一般的に見られる茶褐色の馬のことを指すと言ってもよい。

「丸」角状の根もとの円周を言うか。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「墓石磨き」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 墓石磨き【はかみがき】 〔甲子夜話続篇巻五十〕また鼎<朝川鼎>が門人に関宿《せきやど》<千葉県野田市>の辺の人あり。彼《かの》地に往《ゆ》[やぶちゃん注:底本も『ちくま文芸文庫』版も『住』とするが、「東洋文庫」の原本で確認したところ、『往』で、誤植であることが判ったので、特異的に訂した。]きたる時、正しく聞見して語れるとて、鼎がまた語れるは、かの石塔を磨く事、始めは古河<茨城県古河市>あたりよりして関宿・野火留の辺、所々至らざる無し、大凡《おほよそ》一夜に磨くこと二百塔に及ぶと。且つ塔の文字に朱を入れたるは、新たに朱をさし、金をいれたるは、古きは新たに山梔(くちなし)を入れて黄色をなす、されど雨を蒙れば色消《け》すと。この如くなれば、この妖を憂ふる者は、石塔を家に持ち帰ればその夜これをも洗磨《あらひみがき/せんま》す。とかく奇怪なれば、その領主より妖物《えうぶつ》を捕へんため、足軽輩数人《すにん》を出《いだ》し窺ひ、要するに見えず。女の音声騒々《そうそう》として三四十人も集り居《を》ると聞ゆ。されども姿は見ゆること無し。鼎曰く、この怪解し難き事千万なり、予<松浦静山>曰ふ、いかなる妖か。<『甲子夜話続篇巻十五』『きゝのまにまに』天保元年の条にもこの事がある>

[やぶちゃん注:まず、言っておくと、最後の宵曲の附記の内、「甲子夜話続篇巻十五」とあるのは、「甲子夜話続篇巻五十五」の誤りである。『ちくま文芸文庫』版も誤ったままである。ちょっと調べれば、おかしいことが判るのに、筑摩書房の編集者も落ちたもんだ。以上の本文は、事前に「フライング単発 甲子夜話續篇卷五十 5 石塔磨の怪事」で、電子化しておいた。さらに、「甲子夜話続篇巻五十五」についても、先ほど、「フライング単発 甲子夜話續篇卷五十五 1 墓磨(ハカミガキ)の怪事 / 同卷 2 墓磨の再話(注にて「甲子夜話續篇卷之二十八 20 焚死の靈の爲に塔を建つ」も電子化した)」で図入りで公開してあるので、是非、見られたい。

「きゝのまにまに」「聞きの間に間に」の意で、風俗百科事典とも言うべき「嬉遊笑覧」で知られる喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の雑記随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十一(三田村鳶魚・校訂/随筆同好会編/昭和三(一九二八)年米山堂刊)のこちらで正字で視認出来る(左ページ五行目から)が、僅か五行で、甚だ短い。]

フライング単発 甲子夜話續篇卷五十五 1 墓磨(ハカミガキ)の怪事 / 同卷 2 墓磨の再話(注にて「甲子夜話續篇卷之二十八 20 焚死の靈の爲に塔を建つ」も電子化した)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、続き物で連続なので、カップリングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナの読みは静山自身が附したもので、珍しく多く振っている。]

 

55―1 墓磨(ハカミガキ)の妖事

 或人の文通に、此節、處々、寺院の暮石を磨くこと、種々(しゆじゆ)、雜說、多し。是も、追々、聞き給ふならん。「夜話」に書き入らるべきのこと也。

 一昨年、西國風變、大阪邪宗門、越後地震。去年、江戶大火。今年は京都地震。數般(すはん)の異事を唱ふること、引(ひき)もきらず。

 是等、既に册中に戴られたり。かゝる種々の異、竝び至るは、拙夫、この老年まで、一度も遇はざることなり。

 又頃日(このごろ)、紀海(きのうみ)に、潮(うしほ)さしたるのみにて、引くこと、無し、と云(いふ)。

 阿波の國民(くにたみ)、一男を產せしが、生れながらにして、能く言語し、けしからぬことを云ひて死したり抔(など)、其外、世間の風聞、數般、囂(かまびす)しきことども也。

 江都(えど)築地門跡には、蕎麥、一本、生じて、其尺(タケ)、一丈を超したりしに、友人、その枝を見たりしが、凡(およそ)、四尺を越(こし)しとぞ。

 又、墓磨は、虛事(そらごと)にあらず。

 予が莊(さう)の北東なる、近所、福嚴寺の墓も、昨夜、磨きたりと、聞くゆゑ、人を遣はし、視(み)せしむるに、返(かへり)て、曰(い)ふ。

「その磨きし痕は、砥石などにてすりたるにもなく、さゝら抔にて、磨きたる體(てい)なり。

 銘に朱を入れたりと云(いふ)も、紅がらの如き赤き物を施せり。其寺に土牆(つちかべ)を門の如く高く築揚(つきあ)げ、その上に藥師の石像を安置せし、その面(おもて)をも、洗ひたり、と覺(おぼ)しく、磨(みがき)て見へ[やぶちゃん注:ママ。]、口には、赤色を塗りたり。

 この門牆(もんかべ)、容易に人の上り難きに、いかさま、妖物(えうぶつ)の所爲か、又は惡少(ワルモノ)等(など)が爲す所か。

 人にもせよ、化物にもせよ、何れか爲(ス)るならん。

 群墓の中(うち)、向(むかひ)の墓を磨かんとて、爲(セ)しなるべく、その前の墓を推朴(おしたふ)して、又、大なる墓石に觸(ふる)れば、大なる方、二つに割損(われそん)じて有りし、と。

 是等は、遣したる者の目擊語(がたり)。

 又、或人、曰(いはく)、

「何れの寺か、某侯の墓、在(あり)しを、これも、その面を磨き、遂に、兆域(ハカマハリ)の石籬(ヰガキ)を引壞(ヒキクズシ)したり。」

と。

 又、十月八日に、東漸院にて聞(きき)しは、

「上野の山内(さんない)にも、此事ありて、護國院の墓所も磨きたり。因(よつ)て、寺社奉行より、嚴しく、申付ありて、以來、『このこと、有らば、卽時に申達(まうしたつ)すべし。』との令(れい)なり。」

と。

 又、或者、云(いふ)。

「この近鄕にて、墓磨を心づけゐしに、或夜、白衣(びやくえ)僧形(そうぎやう)なる男女(なんによ)二人、來(きた)り、磨くゆゑ、捕へんと爲(せ)しが、顧(かへりみ)て、疾視(ニラミ)たる眼(まなこ)、懼(おそろ)しかりければ、其人、退(しりぞ)きたる間に、彼(かの)二人を、見失(みうしなひ)し。」

と。

 附會の說か、否(いな)。

■やぶちゃんの呟き

「一昨年、西國風變、大阪邪宗門、越後地震。去年、江戶大火。今年は京都地震」「西國風變、大阪邪宗門、越後地震」の「西國風變」文政一一(一八二八)年八月に、主に西国で広範囲に発生した台風と、それに伴う洪水災害を指す私の。『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「文政十一年戊子の秋、西國大風洪水幷に越後大地震の風說」』を見られたい。「大阪邪宗門」は文政十年に京坂で切支丹を信仰する人々の存在が発覚、追々、詮議が行われれ、結果、文政十二年十二月に処罰された事件の展開のピークを言う。「越後地震」は三条地震」或いは「越後三条地震」「文政三条地震」とも呼ぶ。文政十一年十一月十二日(一八二八年十二月十八日)、現在の新潟県三条市芹山附近を震央とし、マグニチュードは六・九と推定されている(同前リンク先参照のこと)。「江戶大火」は「文政の大火」(神田佐久間町の火事)のこと。文政十二年三月二十一日(一八二九年四月二十四日)発生。死者約二千八百名。焼失家屋三十七万戸。「京都地震」は文政十三年七月二日(一八三〇年八月十九日に発生した直下型地震で、京都市街を中心に大きな被害を出した。マグニチュード六・五前後とされ、町方だけで負傷者千三百人、即死二百八十人とされる(御所・武士のデータは不明)。私の『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「文政十三年庚寅秋七月二日京都地震之事」』等を参照されたい。

「東漸院」寛永寺の子院。現在はここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「護國院」同前。ここ

 

55―2 墓磨の再話

 後(のち)、十月十日、增上寺に詣(まゐり)たれば、宿坊雲晴院にして、

「御寺にも、此こと、ありや。」

と問ふに、住持、答ふ。

「未だ無けれども、近頃、何院にか有りし迚(とて)、人、群集せしが、是は、檀家より磨き來れる墓を、取違(とりちが)へたり、と。されども、寺社奉行よりは、『若(も)し、密かに磨く者あらば、指置(さしお)かず、召捕(めしとら)ふべし。』との嚴令なり。」

 住持、又、曰、

「聞く、このこと、豫州より初(はじま)りて、東海道を經(へ)たるが、田舍のことゆゑ、さ程にも有らざりしに、武・常・總・野州のあたりより、沙汰、廣くなりて、遂に御府内(みふない)には、入(はい)りたり。」

と【されば、「『御蔭參り』は、阿州より起れり。」と聞けば、是等のこと、皆、四國よりぞ、基(もと)ひ[やぶちゃん注:ママ。]せし。】。

 又、曰。

「某佛師、來りて云(いふ)には、

『新堀(にいほり)なる某社(ぼうやしろ)の祠前(ほこらのまへ)に置(おき)たる兩狐の石像を、これも、磨きたり。されば、墓石にも限らず。』

と。又、何れよりか聞(きき)たる、侍婢(じひ)等が話(はなさ)れるは、

『或所にて、夫婦連(づれ)にて墓參せしに、一夫(いつぷ)の、前立(さきだ)つて、其人の先墓(せんぼ)を磨く、あり。夫婦、「これは、我等が方(はう)の墓なり。磨くに及ばず。」と云(いひ)たれば、其人、顧(かへりみ)て、「我(われ)、磨く、奚(なん)ぞ、汝等(なんぢら)が構(かま)ひ有らん。」と答(こたへ)たるゆゑ、夫婦も恚(いかり)て、又々、咎めたれば、其まゝ、其夫(ふ)の姿、消(きえ)うせたり。夫婦、驚き、急ぎ、我家に歸りたるに、あとに居(をり)し七歲なる女子(をんなご)の、成婦(せいふ)の如く、眉を剃り、齒を染(そめ)てありたるゆゑ、又、驚(おどろき)て、その齒を磨き、おとせども、白からず。されば、「彼(か)の妖物の愈(たちまち)、この如き返報や、せし。」と、愈々、恐怖して、爲(せ)ん方を知らざりし。』

と。」

 是等は、人の附言せし者乎。

 前に記せし「石狐」のことは、聞(きき)誤りか。鼎(けい)が話せしは、新堀の寺に、祠にか、屋上の四隅に、置(おき)し狐形(きつねがた)を、三疋は洗磨(あらひみがき)せしが、何にしたるや、一疋は故(もと)のまゝなるに、その左眼には、丹(に)をいれ、右には金(きん)をいれし。」

と。

「急(いそぎ)て、過(あやまち)たるか。」

と、人、皆、笑ひし。

 人の話には、推量、又は、相違も多けれど、目(ま)の當りなるは、予が醫師嵐山某と云(いふ)が寺は、法音寺橋の邊(ほと)り、永隆寺【法華。】と云(いふ)なるが、此一族の墓、在(あ)るを、皆、磨きたり。其中(そのなか)、某(なにがし)が幼女、近頃、沒せしが墓あるは、新墓のことゆゑ、銘には、墨を濃(コク)いれたりしを、是等は素(シロ)く、石色(いしいろ)のまゝに、驚くばかりに磨きなしたり、と。

 さすれば、是は直語(なほきこと)、正(マサ)しきこと也。

 又、鼎が云ふ。

「我が門人に某と云(いふ)は、御代官の「手付(てつき)」、「八州廻(はつしうマハリ)」と云(いふ)勤(つとめ)にて、この役は、近鄕の「盜賊あらため」也。因(よつ)て、此度(このたび)は、この墓磨の穿鑿を云付(いひつけ)られて、心をつけたるが、曾て、手がゝり、無し。夫(それ)故に、何れにて磨きたりと聞きては、輙(すなはち)こゝに赴(おもむ)けども、每(つね)に、その、後(あと)のみ、なり。されども、其ありさまは、必ず、妖怪とも思はれぬは、井(イド[やぶちゃん注:ママ。])ある所は、この水を以て、洗磨(あらひとぎ)せしと覺しく、井どより、墓所まで、行々(ユクユク)、水のこぼれたる、痕、あり。又、洗(あらひ)たる墓には、水つきたる足跡あるを見れば、常人の足痕(あしあと)なり。又、或所にては、磨たる墓石に、「依心願磨之」[やぶちゃん注:「しんぐわんによりてこれをみがく」。]の字を、黑く書(かき)たるあり。甚(はなはだ)拙筆なり。是等は、人の戲(たはむれ)に書たる者か、若(もし)くは、實(まこと)に心願にて、墓を磨く者か。是れ、彼(かの)門人が話なり。」

と。

 鼎、又、話す。

「囘向院は、その宅の近くなれば、『彼(か)の寺内の墓を、磨きたる。』と聞(きき)しゆゑ、往(ゆき)て見たるに、成(なる)ほど、洗磨せしに違(ちがひ)なし。其寺の構へも、あらはならず。然(しか)るに、何(いか)にして入りたる者か、何(いづ)れ、夜分のことなるべし。且(かつ)、門内にある大塔【この塔は、續篇二十八卷に記せし、大火の後、燒死を吊(とむらひ)せし塔にして、高(たかさ)二間なり。古塔と合せて、三基あり。】、三つなるを、二つは、磨きて、一つは舊(もと)の如し。長(た)け高き塔なるが、何(い)かにして磨きたるや、上方(うへかた)なる寶珠形(はうじゆがた)は殘して、下は、皆、磨きたり。『足次(アシツギ)にても、無くば。』と思はる。

 予、幸(さいはひ)に、翌日、彼(かの)寺の門前を過(よぎ)ることあれば、轎中(かごうち)より見しに、鼎が言の如く、二つは、よく磨き、新碑の如く、一つは、古色存(そん)せし。殆ど不思議と、云べし。

 又、或人、云ふ。

「上野山下の某寺にては、番人を付け置(おき)てかの妖を禁ぜしが、或夜、墓間(はかのあひだ)に人あるを知(しり)て、守(まもる)者、打(うち)より、捕へたるに、一人にあらず、男女(なんによ)なり。

『怪物か。』

とたゞすに、婬會(いんくわい)の者なりし。人皆(ひとみな)、笑散(わらひちら)せし。」

と。

 北山(ほくざん)が子、綠陰が、鼎に咄したるは、

「湯嶋天神下に宅(たく)する奥醫片山與庵、先祖の墓は、五輪塔にして、古塔ゆゑ、殊に大(おほ)ひ[やぶちゃん注:ママ。]なるが、いつか、傾(かたぶ)き倒れて、年を歷(へ)たるを、修建(しゆけん)には、數金(すきん)の費(つひへ)、かゝれば、意外に舍寘(ステおき)たるに、この度(た)び、かの妖磨(えうま)が、いつか、磨きたるうへ、倒れたる大塔を、故(もと)の如く建たり。」

と。

 是等、所謂、「鬼に瘤(こぶ)を取られし者」か【鬼瘤の事、「宇治拾遺」に見ゆ。】。

■やぶちゃんの呟き

「雲晴院」浄土宗。現在の港区芝公園のここに現存する。この寺は静山の先祖の松浦肥前守室(雲晴院尼)が檀主となり、寛永一〇(一六三三)年建立されたものである。

「『御蔭參り』は、阿州より起れり。」伊勢神宮のそれは、私のブログ・カテゴリ「兎園小説」の、曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「松坂友人書中御陰參りの事」以下の連続する五篇の記事が、「御蔭參り」についての私の注では、最も完備しているので、見られたい。

「新堀」現在の東京都江戸川区新堀(にいほり)であろう。拡大すると、ここに「稲荷八坂神社」の祠ある。

「鼎」朝川鼎。私の「フライング単発 甲子夜話卷之十 37 くだ狐の事」で注済み。読みは調べ得なかったが、彼は儒学者であるから、「けい」と音読みしていると私は思うので、今回は入れた。

「新堀の寺」現行では、新堀地区では、真言宗勝曼寺が確認出来る。江戸時代からあった寺である。

「法音寺橋」これは東京都墨田区太平にある大横川親水公園に架かる「法恩寺橋」の誤記と思われる。その地図の東北に「法恩寺」(日蓮宗)があり、同寺の広大な墓地も確認出来る。

「永隆寺【法華。】」これは、寺としては見当たらないが、それは平凡社「日本歴史地名大系」で解消された。その「本所永隆寺門前」に、『東京都墨田区』の『旧本所区地区本所永隆寺門前』があったが、その『現在地名』は『墨田区太平』『一丁目』であり、『南本所出村』『町御用屋敷の法恩』『寺表門前続き分の西にあり、西は南本所出村町、北は法恩寺。永隆寺境内北側に立てられた門前町屋』であった。『永隆寺は』、『初め』、『谷中』『で地所を拝領しており、その当時から門前町屋があったが、元禄四』(一六九一)年、『寛永寺境内に囲い込まれて上地』(あげち)『となり、同年』、『本所法恩寺前続きに代地を与えられた。門前町屋も拝領地に含まれて移り、本所永隆寺門前と称した。延享二』(一七四五)年には、『町奉行支配となった』とあったからである。思うに、永隆寺は一応、そこで、寺として存在したが、恐らくは、法恩寺の附属寺院となっていたものと推定される。

『御代官の「手付(てつき)」、「八州廻(はつしうマハリ)」』関東取締役出役(でやく)。江戸幕府の職名の一つで、文化二(一八〇五)年、関八州(武蔵・相模・上野・下野・上総・下総・安房・常陸。幕府は将軍の御膝元という理由などで、その取締りには特に意を注いだ)の悪党・無宿・博徒の取締り・逮捕を目的に設けられた。関東代官四役所から、手付・手代二人ずつを選任し、勘定奉行の直轄とし、関八州の御料・私領・寺社領の別なく、巡回させた。逮捕者は勘定奉行に差し出した。俗に「八州廻(回)り」「八州様」とも称し、単に「関東取締役」とも呼んだ。

「あらはならず」いい加減ではない。境内の周辺を厳重に作り構えてあることを言う。

「門内にある大塔【この塔は、續篇二十八卷に記せし、大火の後、燒死を吊(とむらひ)せし塔にして、高(たかさ)二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]なり。古塔と合せて、三基あり。】」この「續篇二十八卷」は、前の項で示した「文政の大火」の惨事を、丸々、二十八条もの膨大な記事として一巻としたもので、当初は、電子化をしないつもりであったが、どうも、今までのフライングの経験上、座り心地が悪いので、当該条のみを、以下に電子化することにした。まさにこの慰霊の塔の図が含まれているからである。最後に図を底本の「東洋文庫」版からOCRで読み込み、トリミング補正したものを掲げておく。

   *

 

甲子夜話續篇卷之二十八 20 焚死の靈の爲に塔を建つ

 

28-20

 前に、築地の海邊にて、夜陰に、幽靈、叫喚することを云(いひ)き。

 頃(このご)ろ、彼(かの)地に住(すめ)る某(なにがし)話しは、叫喚の聲は、

「たすけてくれ、たすけてくれ、」

と、呼ぶ。又は、數人聲(すにんのこゑ)にて、

「わあ、わあ、」

とばかり、云(いふ)とぞ。

一、石匠(いしく)道榮坊曰(いはく)、

「一日(あるひ)、士、二人、來り、

『燒亡者の墓石。』

とて、命ず。一人の墓石とも覺へ[やぶちゃん注:ママ。]ず。又、主人の名をも、云はず。福井侯の婢女(はしため)、多く燒亡すれば、若(もし)や、この侯の士か。又、先頃、何(イヅレ)かの家賴(けらい)、かねて識らざる者、來り、

『此度(このたび)の災(わざはひ)にて、死亡者、多し。菩提のため、囘向院に塔を建つべし。』

迚(とて)、その注文を、與(あた)へ、還る。

『何方(いづかた)の屋鋪。』

と問(とへ)ども、答(こたへ)ずして、去る。又、道榮が本宅のあたりに、御納屋勤(おんなんやづとめ)の者あり。その娘、仙臺の後宮小姓勤(おくむきこしやうづとめ)に出(いで)たり。或日、下宿して人に語るは、

『我が屋鋪より、此度(このたび)、囘向院に塔石を建給ふ。』

と。されば、彼(か)の大塔は、仙臺侯より、建(たつ)るか。この度の火、侯邸に及ばず。道榮、察するに、彼侯、近頃、代々、世を蚤(はや)ふし給ふ。因(よつ)て、非命を吊(とふらひ)て、冥福を求めらるゝ歟。

と。


左   聞所說、莫シ觀喜。諸天人民

法本

    蠕動之類、皆蒙慈恩ヲ、解脫憂苦


 論云。讚スルニ諸功德、無コト分別心

 能滿功德大寶海


後 字行は三行に長書す

 今季文政十二己丑三月廿一日、府内大火、罹

 於玆禍命亦夥矣。于玆有噠嚫主、竊愍

 其亡靈、從五月二十一日市設五箇連日之別

 時念佛大施餓鬼、及滿辰放生會慈濟之法要

 以造立此石碑、被福無怙無恃之幽魂

 也。維時文政十二己丑秋七月佛歡喜日。當院

 十六主名譽代。


[やぶちゃん注:以上の碑文は底本では全体が一字下げであり、「右」と「後」はポイント落ちだが、「左」に合わせて、同ポイントとした。難しくないので、訓読は示さない。語注をしておくと、「噠嚫主」は「たつしんしゆ(たっしんしゅ)」で、ここは単に「施主」を指す。「無怙無恃」の「怙」「恃」は、ともに「頼む」の意。]

右の碑文に據れば、「仙侯」と云はんも、其由(そのよし)、あり。若(もし)くは、亦、「福侯」か。當院名譽は、先年、都下(とか)に喧呼せし德本行者の高弟にして、「晝夜不臥の行者。」と聞く。

 

Tousekinozu

 

   *

「足次(アシツギ)」慰霊塔の高さから見て、単なる「梯子」のことであろう。

「北山が子、綠陰」儒者山本緑陰 (安永六(一七七七)年~天保八(一八三七)年)。江戸生まれ。儒者山本北山の子。名は信謹。詩集「臭蘭稿」を著わし、大窪詩仏と「宋三大家絶句箋解」を編集した。

「片山與庵」恐らくは与安法印とも称して、徳川家に仕えた江戸前期の医師片山宗哲(天正元(1573)年~元和八(一六二二)年)の後裔であろう。

先祖の墓は、五輪塔にして、古塔ゆゑ、殊に大(おほ)ひ[やぶちゃん注:ママ。]なるが、いつか、傾(かたぶ)き倒れて、年を歷(へ)たるを、修建(しゆけん)には、數金(すきん)の費(つひへ)、かゝれば、意外に舍寘(ステおき)たるに、この度(た)び、かの妖磨(えうま)が、いつか、磨きたるうへ、倒れたる大塔を、故(もと)の如く建たり。」

『鬼瘤の事、「宇治拾遺」に見ゆ』私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「難病治癒」(その2)』の私の注で電子化してあるので、見られたい。

2023/12/25

フライング単発 甲子夜話續篇卷五十 5 石塔磨の怪事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。書き付けの部分は標題を含めて、前後を一行空けた。カタカナの読みは静山自身が附したもの。]

 

50―5 石塔磨(せきたうみがき)の怪事

 是も亦、檉宇(ていう)が示(しめし)しなり。

 この怪事、已に或人より聞(きき)て、

『疑がはし。』

と思(おもひ)ゐしを、此書寫を見て、復(また)、半(なかば)、信(しん)を生(しやう)ぜり。其文(そのふみ)。

 

   申利より差越候儘寫置候書付

石川中務少輔樣【石川氏居城、常州下館。】[やぶちゃん注:底本に『欄外注記』とする編者注がある。]御領分、當八月朔日夜より、御領分之寺々、石塔磨候もの有ㇾ之、何者之仕業とも相知不ㇾ申、二日、三日あたりは晝も磨候由。一晝夜には、何ケ寺と申事も無ㇾ之、數(す)百本之石塔、一度に磨申侯。其音がりがりと聞え候得(さふらえ)ども、人目に見え不ㇾ申候。石塔は奇麗に相成(あひなり)候上は、朱墨等、入替(いれかへ)候抔(など)も有ㇾ之、其邊に足跡も無ㇾ之、扨々、怪敷(あやしき)事共に御坐候。相違(さうい)も無ㇾ之義に付、御上(おんうへ)え[やぶちゃん注:ママ。]も伺候處、觀音寺・極樂寺には、御石碑も有ㇾ之候間、召捕(めしとり)として、御中小性(おんちゆうこしやう)、其外、廻り方(かた)、加役(かやく)詰切御番(きりつめごばん)被仰付候。右磨候石塔見物之老若男女、群集をなし申候。結城・小山・關宿(せきやど)之方(かた)、段々廻り、下舘え[やぶちゃん注:ママ]此節(せつ)參り磨候由。關宿に而は磨居(みがきを)るを見付(みつけ)、追缺(おひかけ)候處、女之姿之由。其足、早き事に而(て)、姿を見失ひ、追かけ候もの五人之内、いつの間やら、髮を被ㇾ切、三人、ざん切に被ㇾ致候よし。右餘り珍敷(めづらしき)義に付申上候。

   八月

 

 又、鼎が門人に關宿の邊の人あり、彼(かの)地に往(ゆ)きたる時、正しく聞見して語れるとて、鼎が、又、語れるは、

「かの石塔を磨く事、始めは古河(こが)あたりよりして、關宿・野火留の邊、所々、至らざる無し。大凡(おほよそ)、一夜に磨くこと、二百塔に及ぶ、と。且(かつ)、塔の文字に朱(しゆ)を入れたるは、新(あらた)に朱をさし、金をいれたるは、古きは、新たに山梔子(クチナシ)を入れて黃色をなす。されども、雨を蒙れば、色、消(け)す、と。この如くなれば、この妖(えう)を憂ふる者は、石塔を、家に持(もち)歸れば、其夜(そのよ)、これをも、洗磨(あらひみがき/せんま)す。とかく奇怪なれば、其領主より、妖物(えうぶつ)を捕へんため、足輕輩(あしがるはい)數人(すにん)を出(いだ)し、窺ひ、要するに、見へず[やぶちゃん注:ママ。]。女(をんな)の音聲(おんじやう)、騷々(そうそう)として、三、四十人も集り居(を)ると、聞ゆ。されども、姿は見ゆること、無し。」

 鼎曰く、

「この怪、解(かい)し難き事、千萬なり。」

 予、云ふ、

「いかなる妖か。」

■やぶちゃんの呟き

「檉宇」林檉宇(はやしていう 寛政五(一七九三)年~弘化三(一八四七)年)は儒学者。幕府に仕えた儒官の家として、代々、大学頭(だいがくのかみ)を称した林家の当主で、お馴染みの静山の親友林述斎の三男。当該ウィキによれば、『佐藤一斎や松崎慊堂に学び、天保』九(一八三八)年に、『父祖同様、幕府儒官として大学頭を称して侍講に進んだ』。『著作に』「澡泉録」『などがあり、能書家としても知られる』とあった。

「八月」少し後に、西丸大手門で発生した刃傷事件記事から(興味のある方は私の『曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「山形番士騷動聞書幷狂詩」』を見られたい。但し、かなり長いので、御覚悟あれ)、これは文政一三(一八三〇)年八月を指すことが判った。静山七十一歳。

「鼎」朝川鼎。私の「フライング単発 甲子夜話卷之十 37 くだ狐の事」で注済み。読みは調べ得なかったが、彼は儒学者であるから、「けい」と音読みしていると私は思う。

「關宿」現在の千葉県野田市関宿町(せきやどまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)があるが、この地区には、現行では寺がなく、また、周囲に「関宿」を冠する地名が複数あるので、そこまで範囲を広げておいた方がよいだろう。因みに、ここは利根川から江戸川が分岐する場所である。

「古河」茨城県古河市。ここ

「野火留」不詳。「ひなたGPS」の戦前の地図で、関宿より南の地区を探したが、見当たらない。埼玉に野火止用水で知られる埼玉県新座市野火止や、東京都東久留米市野火止があるが、あまりにも南西に離れ過ぎているので、違うだろう。而して、「のびどめ」と読むことにも、躊躇するのである。しかし「のびる」という地名も見当たらないのである。万事窮す。識者の御教授を乞うものである。

「塔の文字に朱をいれたる」生前に仏門に入って戒名を持っている場合、生きている間は朱(赤)を入れておく。

「金をいれたる」これは、結構、見かける。所謂、位牌の戒名が金色で書かれることが殆んどだからである。

「山梔子(クチナシ)」リンドウ目アカネ科サンタンカ(山丹花)亜科クチナシ連クチナシ属クチナシGardenia jasminoides 。乾燥させた果実は、古くから、黄色の染料・着色料として用いられてきた。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「生(はえ)ぬきの地蔵」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

    

 

 生ぬきの地蔵【はえぬきのじぞう】 〔北国奇談巡杖記巻三〕越後のくに柏崎<新潟県柏崎市>といへる駅の径路に、生ぬき地蔵とて、一丁ばかり隔て二尊まします。一ツは立像、二ツは座像にして、大石にきざめるが、半《なかば》は土中に埋みたまふ。いつの頃かとか里人等掘出《いだ》さんと、石を蹷(うごかし)みるに容易(たやす)からず。地中数《す》十丈穿《うが》てども、その際限をえずして止みにき。その尊容、古代の作にして尊敬に任せ、利益《りやく》一かたならず、石老《お》いくろぐろと苔むし立たせ玉ふ。またいにしへ、柏崎殿と申して領したまふありしが、遁世し給ふにより、その室、夫のわかれを悲しみ、物狂はしく転出《ころびいで》けるとぞ。今に狂出《くるひいで》の橋とて存せり。この館《たち》あとは一宇の禅刹となりて、柏崎殿累代の霊位を奠(まつ)れり。

[やぶちゃん注:「北国奇談巡杖記」加賀の俳人鳥翠台北茎(ちょうすいだい ほっけい)著になる越前から越後を対象とした紀行見聞集。かの伴蒿蹊が序と校閲も担当しており、文化三(一八〇六)年十一月の書肆の跋がある(刊行は翌年)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第九巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字活字で読める。『卷之三』の『越後國之部』の冒頭。標題は『○生ぬきの地藏』。次のコマに挿絵がある。底本には絵はない。吉川弘文館『随筆大成』版のものをOCRでトリミング補正して以下に添えておく。この絵は、まさに地蔵に見えるが、これ、恐らく、京都の絵師で村上茂篤(天保一二(一八四一)年没・享年六十六)、号を松堂なる人物の絵になるものらしいだが、以下の注で判るが、実は、これ、地蔵ではない。推定するに、松堂は作者の言うままに、モロに地蔵の像を想像で描いてしまったのに違いない(因みに、路傍の石仏の地蔵菩薩像に脇侍が配されることはそれほど多くはないが、通常は掌善童子と掌悪童子の二体ではある)。

 

Haenukijizou

 

この地蔵、調べてみたところ、「生ぬき地蔵」とは記していないが、柏崎市立図書館作成になるサイト「陽だまりホームページ」の「柏崎市の文化財一覧表」にある「ねまり地蔵と立地蔵」の「立地蔵 一体」にある「立地蔵」の方の写真が、挿絵のものとかなり似ているので、これであろう。実際には、以下に見る通り、地蔵ではなく、薬師如来である。そこには、『通称「立地蔵」と呼ばれ、大町(現在の西本町二丁目)』(ここ。グーグル・マップ・データ。サイド・パネルのこの写真がよく判る)『の東端街道の中央に立って、人々に親しまれ』、『信仰を集めていたものである』。『天保』一二(一八四一)年七月二十二日、『埋没部分の発掘によって型式は薬師三尊像、脇侍(わきじ)に日光(にっこう)・月光(がっこう)菩薩(ぼさつ)像の存することが判明した。堅くて細工のしにくい巨岩に、薬師如来(やくしにょらい)像は厚さ』四十四『センチメートルの浮き彫りとされ、高さは』一・六二『半丈六仏の作りである』。『三尊が一石に彫られた薬師は類がなく、作風も古様である』。明治一一(一八七八)年九月、『明治天皇の北陸御巡幸の際に現在地に遷座(せんざ)した』とあった。同サイド・パネルのこちらの標柱にも『舊迹 立藥師如来』と彫られてある。私もかなりの仏像を見てきたが、この三尊を彫ったというのは、見たことがない。

「柏崎殿と申して領したまふありしが、遁世し給ふにより、その室、夫のわかれを悲しみ、物狂はしく転出けるとぞ。今に狂出の橋とて存せり。この館《たち》あとは一宇の禅刹となりて、柏崎殿累代の霊位を奠(まつ)れり」この話、能の狂女物「柏崎」(榎並左衛門五郎原作・世阿弥元清改作)をもとにしたものであろう。実際に、「狂出の橋」や「この館あと」の「柏崎殿累代の霊位を奠(まつ)」った「一宇の禅刹」なるものが、調べた限りでは見当たらない。能「柏崎」の内容は小原隆夫氏のサイト内のこちらが詳しい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「野衾」 / 「の」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 因みに、本篇を以って「の」の部は終わっている。]

 

 野衾【のぶすま】 〔梅翁随筆巻四〕午四月鎌倉河岸辺<東京都千代田区内神田>へ怪しきもの出るよしいひけるが、打殺すものもなくありし。松下町の薪河岸《まきがし》にて、猫をとり血を吸ふ所を、鳶の者に伊兵衛といふが走り寄り、打殺したるによりて、人々集まりてみるに、面体《めんてい》鼬(いたち)のごとく、つまりしやくみ、眼《まなこ》は兎のごとく、左右翅《はね》のごとくにして羽にあらず。その先に爪あり。手の指四本、足の指五本、竪横壱尺二三寸、尻尾その外毛色香《にほ》ひとも、栗色のごとくなり。町内にてしるものなければ、手習ひ素読謡《うたひ》等をも少々をしふる浪人に尋ねければ、大いに驚きたる体《てい》なりしが、しばらく見ていふやう、このもの深山にありては珍らしとするにたらず、いはゆる野ぶすまこれなり、しかれども深山幽谷に住むべきものの、今繁華の地に生ずる事、これ気候の変のなす所にして、世の給息にあづかれり、政事《まつりごと》を執る人のもつとも心を用ふべき所なり、早々訴へ出《いづ》る方《はう》宜《よろ》しかるべしと申しける。その子細は知らねども、手習師匠のかく申す事ゆゑ、則ち西御番所へ申出ける。村上肥後守勤役《つとめやく》の時なり。江戸には珍らしきものなりとて、取置きて人々にも見せたり。後に聞けば今度《このたび》日光御修営に付き参りし者の内に、とらへて帰府せしが、そのうち取《とり》にがしたり。餌《ゑ》にうゑてこの辺に出《いで》けるとなり。<『半日閑話巻二十五』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○野衾をとらへし事』。

「野衾」「野ぶすま」「後に聞けば」、「今度」、「日光御修営に付き参りし者の内に、とらへて帰府せしが、そのうち」、「取にがしたり。餌にうゑて」、「この辺に出けるとなり」と正体と出所が明らかにされてある。結論を言うと、これは、

哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista(全八種で東アジア・南アジア・東南アジアに分布)で、本邦に棲息するのは、日本産固有種ホオジロムササビ Petaurista leucogenys

或いは、同一種と誤解している方も多い(江戸時代まで区別されていなかった)と思うのだが、別種で形態は似ているが、遙かに小さい、

リス亜科モモンガ族モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momonga

である。博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか) (ムササビ・モモンガ)」を参照されたいが、「古今百物語評判卷之四 第三 野衾の事」で江戸時代に妖獣とされていたことが判り、しかも著者の山岡元隣は正体を正しく記している。また、『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙』でも、「ノブスマ」として挙げて(私の電子化注では、分割して電子化しており、当該部はここ)、

   *

ノブスマ 土佐の幡多《はた》郡でいふ。前面に壁のやうに立塞《たちふさ》がり、上下左右ともに果《はて》が無い。腰を下して煙草をのんで居ると消えるといふ(民俗學三卷五號)。東京などでいふ野衾《のぶすま》は鼠(むささび)か蝙蝠《かうもり》のやうなもので、ふわりと來て人の目口を覆ふやうにいふが、これは一種の節約であつた。佐渡ではこれを單にフスマといひ、夜中後《うしろ》からとも無く前からとも無く、大きな風呂敷のやうなものが來て頭を包んでしまふ。如何なる名刀で切つても切れぬが、一度でも鐵漿《かね》を染めたことある齒で嚙切《かみき》ればたやすく切れる。それ故に昔は男でも鐵漿をつけて居たものだといひ、現に近年まで島では男の齒黑《はぐろ》めが見られた(佐渡の昔話)。用心深い話である。

   *

とある。また、「生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (一)逃げること~(1)」でも、モモンガが絵入りで語られてあるので、参照されたい(二〇一二年の古い電子化で正字不全があるが、そこは許されたい)。

「午四月」前記本の前方の記事を確認したところ、これは寛政十年戊午と確認出来た。グレゴリオ暦では旧暦四月一日は五月十六日である。

「鎌倉河岸辺」「東京都千代田区内神田」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。この河岸名は江戸幕府開府の頃、江戸城を普請するために、鎌倉から来た材木商らが、ここで築城に使う木材を仕切っていたことから名付けられたと伝わっている。

「松下町の薪河岸」現在の東京都千代田区外神田の神田川のここの左岸附近。ここは旧神田松住町内で、当時、やはり材木を扱う商人が集まっていたことから「材木町」という通称があり、さらに、この町の南を流れる神田川の川辺周辺には、薪(まき)を売る商人が集中していたことから、「薪河岸(まきがし)」という異名もあったとされる(「千代田区」公式サイト内の「町名由来板:神田松住町(かんだまつずみちょう)」を参照した)。

「給息」底本にはなにも記していないが、意味が判らぬ。前記活字本を見ると、ママ注記がある。本文の謂いから見て、凶兆で、世の「終焉」の意か。

「村上肥後守」旗本で江戸南町奉行となった村上義礼(よしあや 延享四(一七四七)年~寛政十年十月二十二日(一七九八年十一月三十日)。従五位下肥後守。当該ウィキによれば、寛政四(一七九二)年十一月、『西ノ丸目付』であった『時、通商を求めたロシアの使節ラクスマンと交渉する宣諭使』『に目付石川忠房とともに選ばれ、蝦夷地松前に派遣され』、『翌年』の六月二十七日の『会見で、通商交渉のための長崎入港を許可する信牌を与えた』人物としても知られ、彼は寛政八年九月に『江戸南町奉行とな』り、まさに、この事件から七ケ月ほど後に、『在任中』のまま、『没した』とある。村上個人にとっては、「終焉」の凶兆だったのかもと、言えなくもない。

「『半日閑話巻二十五』に同様の文がある」「半日閑話」は「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここにある(右ページ二行目)、これは標題が『○怪異三種』の二条目であるが、「同様」とは言えない。但し、前の記載から、同じ寛政十年で、出現地は比較的近いから、別ソースの同じ実際にあった「野衾事件」の別話(本篇か、これの孰れかが、流言)ではあるとは言える。短いので、電子化しておく。一部に読点を追加し、推定で歴史的仮名遣で読みを添えた。

   *

一車力《しやりき》のもの【此車力は盜人なりしとぞ。此十二月初《はじめ》に刑せらる。】、石町河岸《こくちやうがし》にて、野衾、猫を、まきて居しを、朝、みつけ、棒を持て、打しゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、野衾は死し、猫は足を損じたる、と云。この野衾は町奉行により、上覽に入しといふ。

   *

頭の「一」は条数字。「石町河岸」は現在の中央区日本橋本石町四丁目で、ここ。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「野尻湖の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 野尻湖の怪【のじりこのかい】 〔四不語録巻四〕寛文年中の比(ころ)、越後村上<新潟県村上市>の城主松平大和守直矩の御家礼(けらい)に、藍沢徳右衛門と云ふ侍あり。或時武州江戸より村上に帰りしに、信濃国野尻<長野県上水内郡《かみみのちぐん》内>の駅に一宿すべしとて、荷物従者どもは先へ遣はし、その身は若党一人、草履取一人、鑓持(やりもち)一人、挟箱持一人召連れ、駅馬に乗りて野尻の池の辺を行きしに、俄かに大風吹き出で、黒雲まひさがり、暴雨車軸を流す。何《いづ》れも頭痛して歩む事もならず。徳右衛門乗りし駅馬もすくみて歩まず。徳右衛門馬より下りて挟箱に腰を懸け、しばらく休み居《ゐ》たるに、池の面《おもて》俄かに洪波(こうは)立さわぐ。いかなる事と見る内に波しづまり、その儘池の面紅《くれなゐ》に変じ、その中より四尺四方の顔の、目の大さ二尺ほどにして、その色朱《しゆ》の如く、その長(たけ)二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]ばかりの物出づ。頭《かしら》の髪は瑠璃(るり)色にして下に垂れたり。これを見る者、何れも打伏して前後を忘(ぼう)ず。その凄(すさま)しさいはん方なけれども、藍沢も名ある武士なれば少しも臆せず、刀に手を掛け睨み付けて居たり。従者どもは打伏したるに、草履取は気を取失はず。かの物しばらく四方を見廻して波の底に引入ければ、また池の面紅になり、その跡に波風立噪(さわ)ぎ、しばらくあつて静まりぬ。何れも人心地付きて野尻の駅に著く。駅よりも迎ひに人を出《いだ》せり。徳右衛門宿《やど》に著きて、所の者を呼び寄せて、今日《けふ》の怪異を見たるかと尋ねしに、見たる者三人ありしに、その物語り少しも異なる事なし。昔よりもかゝる事ありやと問へば、年寄りたる者云へるは、この六十年ばかり以前に、私二十(はたち)ばかりになりし時、まさしく見申候、その時のやうすも今日御覧の御咄に少しもかはり申さず候、先年見候も私ともに三人、その中《うち》二人は死去いたし、私一人残り居候。徳右衛門この老人の口上書と、今日見たる三人の者口上書いたさせ、右の趣《おもむき》大和守殿へ申上るとぞ。この徳右衛門故《ゆゑ》あつて村上を立退《たちしりぞ》き、加州へ来りしばらく滞留す。その物語りを聞きし者、予<浅香山井>に語りしまゝ爰に記す。或識者この物語りを聞きて、これ魍魎(もうりやう)と云ふ物ならん、山に住むを魑魅(ちみ)と云ひ、水に住むを魍魎と云ふなり、その形きはまりたる物にあらず、時によりて様々《さまざま》の形あるとぞ、されども魍魎はその色青き物なりとぞ、彼《かの》物出《いづ》る時に池の面紅に染《そまり》しは、両眼《りやうまなこ》の光りのうつりしなるべしと弁ぜられたり。

[やぶちゃん注:「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。

「寛文年中」万治四年四月二十五日(グレゴリオ暦一六六一年五月二十三日)に改元、寛文十三年九月二十一日(一六七三年十月三十日)、「延宝」に改元。

「越後村上」「新潟県村上市」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「松平大和守直矩」(なおのり 寛永一九(一六四二)年~元禄八(一六九五)年)は江戸前期の大名。結城秀康の五男松平直基の長男。慶安元(一六四八)年、七歳で播磨姫路藩主。翌慶安二(一六四九)年六月九日に越後村上に移封となったが、寛文七(一六六七)年八月十九日には、再び、姫路に戻った。しかし、宗家の「越後騒動」に関係して閉門となり、元和(げんな)二年、七万石に減ぜられて、豊後日田(ひた)に移された。後、出羽山形藩を経て、元禄五(一六九二)年、十五万石で、陸奥白河藩藩主松平越前家初代となった。歌舞伎を愛し、「松平大和守日記」がある。従って、本話の時制は、「寛文年中」と言いながら、実際には、寛文元年から寛文七年八月中旬の閉区間となる。

「藍沢徳右衛門」不詳。

「信濃国野尻」「長野県上水内郡《かみみのちぐん》内」「の駅」長野県上水内郡信濃町野尻のここで、野尻湖の北西岸の直近(後者は拡大)。

「魍魎(もうりやう)と云ふ物ならん、山に住むを魑魅(ちみ)と云ひ、水に住むを魍魎と云ふなり」私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類  寺島良安」(最近、リニューアルした)の「魍魎(もうりやう) みつは」を見られたいが、その冒頭の注で、私は以下のように記した。

   *

「廣漢和辭典」によれば、「魍魎」の「魍」も「魎」も、『すだま』・『もののけ』とする。そもそも、「魑魅魍魎」は「山川の精霊(すだま)」、物の怪のオール・スターを総称する語であるが、特に「魑」が「山の獣に似たモンスター」という具体的形象を、「魅」が「劫を経た結果として怪異を成すようになったもの」という具体的属性を附与するに止まり、「魍」「魎」は、専ら、単漢字ではなく、「魍魎」で語られることが多い。「廣漢和辭典」によれば、「魍魎」は『山水木石の精気から出る怪物。三歳ぐらいの幼児に似て、赤黒色で、耳が長く目が赤くて、よく人の声をまねてだますといわれる。』と本文と同様に記してある。また、参考欄には、『国語のこだま・やまびこは、もと木の精、山の精の意で魍魎と同義であったが、その声の意から、今では山谷などにおける反響の意に転じて用いる。』と次の項「彭侯(こだま)」の補注のような解説が附いている。ウィキの「魍魎」には、「本草綱目」に記されている亡者の肝を食べるという属性から、本邦にあっては、「死体を奪い去る妖怪・怪事」として「火車」(かしゃ)と同一視されて、「火車」に類した話が、「魍魎」の名で語られた事例がある由、記載がある。本文が記載する「春秋左氏傳」や「日本書紀」の引用を見ても、「魑魅」を「山」の、「魍魎」を「水」の、神や鬼とする二分法が、日中、何れに於いても、非常に古くから行われていたことが見てとれる。「魍魎」は「罔兩」と同義で、「影の外側に見える薄い影」の意、及び、本義の比喩転義であろう「悪者」の意もある。別名「方良」であるが、これは「もうりょう」と発音してもよい。何故なら、「方」には、正にこの「魍魎」を指すための「魍」=「マウ(モウ)」との同音の、“wăng”「マウ(モウ)」という音、及び、中国音が存在し、「良」の方も中国音でも、「良」“liáng”と「魎」“liăng”で、近似した音である。特に「方」「良」の漢字の意味は意識されていないと思われる(というか、邪悪なものを、邪悪でない目出度い字に書き換える意図があったものと私は推測する)。なお、私が全巻の翻刻訳注を終えた根岸鎭衞の「耳囊」の「卷之四」に「鬼僕の事」という一章があるので読まれたい。

   *

因みに、「鬼僕の事」には、リニューアル前のものだが、上記が転写してあるので、携帯などでサイト版が見られない方は、そちらを見られるとよいだろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「濃州仙女」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

    

 

 濃州仙女【のうしゅうせんじよ】 〔兎園小説第十集〕大垣領にや、北美濃越前境にもや、根尾野山中に仙女住居申候。初めには斎藤道三の女子なりと申し伝へ候所、さにはあらで越前の朝倉が臣の妻、懐妊の身にて朝倉没落の時、山中へのがれ、女子を出産せし。その女子幽穴中にて成長し、今年は二百六十歳計り、顔色は四十歳の人と相見え申候。髪はシユロの毛の如しと申候。写真も不ㇾ遠来り可ㇾ申存候。詳《つまびらか》なる事は未だ所々水災にて、誰も誰も途中の決口を恐れ得往観不レ申候なり。奇な事に候。

  九月四日

 右尾張公儒官秦鼎手簡なり。〈『道聴塗説十編』に同様の事がある〉

[やぶちゃん注:私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 濃州仙女』を参照されたい。書簡の枕部分が、全部、カットされてしまっている。これはいかんでしょう! 以下に示す。

   *

今年は、雨、多にて、濃州も前月十四日夜、水災、長良川、殊に溢決いたし、尾州領も、堤三千間も溢決申し候。溺死も今日にて百人計も相分候へども、いづれも二百人からの儀と相聞候。總ては八百人とも千人とも申候。可憐事ども、いはん樣も無之候。

   *

なお、発表者「輪池」は、馬琴と非常に親しかった幕府御家人で右筆にして国学者であった屋代弘賢(やしろひろかた)の号。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「煉酒」 / 「ね」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 煉酒【ねりざけ】 〔黒甜瑣語巻一〕林大仏が年々湊《みなと》へ著岸《ちやくがん》の摂州神戸<神戸港>の船長《せんどう》甚左なる者あり。彼が物語りに、一年海上に見知らぬ黒船に遇ひけり。人の云ふなる、かゝる船には海賊外法(げほふ)[やぶちゃん注:異教徒。魔術師・妖術師の意も含む。但し、後に示す活字本では『げはう』とルビする。個人的には悩ましい。何故かというと、歴史的仮名遣では一般名詞の「法」は「はふ」だが、仏教用語では「ほふ」が正しいからである。しかし、仏教の「法(ほふ)」から「外」れる異教であるわけだから、私は「げほふ」に軍配を挙げる。]の者を載すると聞きたり。その難を避けんとて、桐葉金一方を紙にひねり、かの船に投ぜしに、その時かの黒船より恠(あや)しき人出《いで》て、莞爾々々(にこ《にこ》)笑ひて一《ひとつ》の瓶《かめ》を贈れり。甚左受け得て瓶の口を開くに、膏薬のかたまりしやうの物にて、酒気鼻を撲(う)つ。伝へ聞きし煉酒てふものならんと、少しく沸湯(にえゆ)を用ひ、一碗《かなまり》の中へ漬《ひた》すに、名も知らぬ醇醪(よいにごりざけ)なり。異船は何国の者か知りがたしと語りし。煉酒の法を聞くに、今や本邦にも広まり、粗(ほぼ)これを製するに黒丸子《こくぐわんし》の大なるを常に薬籠(やくろう)に入れて、要する時盃水《さかづきみづ》へ二三粒を浮ぶと云ふ。

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。標題は「目次」では『煉酒(ねりさけ)』。これは「練り酒」とも書き、本邦産のものは、白酒(しろざけ)に似て、濃く粘りけのある酒で、通常は普通の清酒に混ぜて飲む。蒸した糯米(もちごめ)を酒とまぜ、石臼で挽いて漉して製した。「練り貫き酒」「練貫」「練り」とも言った。博多産の物が有名で、現在も「博多練酒」として販売されているものがあるが、固形物ではなく、ヨーグルトのような濁り酒である。ここに登場する粒状のものは、恐らく麹のような、乾燥発酵させた固形の酒と思われる。「月桂冠」公式サイト内の「東アジアの酒 風土と文化により育まれた、各地域固有の発酵文化」に、『最近の調査研究の結果、稲の原産地は中国の雲南省からインドのアッサムに及ぶ照葉樹林帯であるとされています。この地域でつくられている酒は、ヒエ、アワ、ムギ、米などの穀粒を、茹でたり、蒸したりした後、竹むしろの上でさまし、白い麹を加え、水は全く加えず、竹駕籠やカメなどに入れてそのまま発酵させます。「チャン」とか「トンパ」と呼ばれるパサパサした固体の酒です』(☜)。『雲南省のアシ族は、この酒をそのまま箸でつまんで食べヒマラヤ地帯の人々はこれを「ピトム」と呼ぶ太い竹筒の中につめ、熱湯を注ぎ溶け出した液体を細い竹のストローで飲みます。この原始的な醸造法こそ、東アジアの酒の源流で』、紀元前二~三『世紀、稲作複合文化の一つとして、日本へも伝播したと考えられています。最近の遺伝子による調査から、長江下流を稲作起源地とする説もあります』。ここに出るのは、この「チャン」・「トンパ」に近いものであろう。リンク先に中国の豆腐型の固形麹の画像があるが、外側は黝ずんでいる。

「林大仏」不詳。

「黒船」二ヶ所ともそうなっているが、前記の活字本では、『異船』となっている。昭和四三(一九六八)年刊の「人見蕉雨集 第一冊」(『秋田さきがけ叢書』一)も当該部を確認したが、やはり『異船』であった。宵曲の底本は『単行』とあるのみで、書誌が不明である。私は「異船」の方が正しい気がする

「桐葉金一方」前掲活字本では、右に『桐葉』に『とうよう』、『方』に『ほう』と振り、左に『葉』に『きん』、『一方』に『いちぶ』とルビを振る。しかし、後者の「きん」は「金」の字の左に附すのを、植字工が誤植したものと思われる。「桐葉金」は江戸時代を通じて流通した(但し、後記は等価の一部銀の流通で激減した)一分金。一両の四分の一。長方形で、小さい。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されてある。「方」は一分金の形の「四角」を以ってそれを指すに代えたのであろう。

「醇醪」前記活字本では、『しゆんりやう』と振る。この底本のルビ、『よい』が気になる。著者が振るなら「よき」であろう。この訓読み、宵曲が勝手に附したものと推定する。

2023/12/24

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鼠の宿替」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鼠の宿替【ねずみのやどかえ】 〔四不語録巻五〕右に記す<元禄三年三月十六日>金沢大火事の節、村越何某と云ふ人あり。その弟松浦氏の宅は新竪町《しんたてまち》の火本よりはほど近し。村越の宅は遙かにへだたりしゆゑに、家来をあまた松浦方へ遣はし、火を防がせければ、火災はのがれたり。何《いづ》れも働きて疲れたるらんとて、村越方にて食物《しよくもつ》を調へ、松浦方へ持たせつかはす。村越某その食物の試みせんとて、三の間へ出て奴婢(めしつかひ)を以て給仕させて食事をいたしけるに、奴婢次の間へ立ちし跡に、納戸のより鼠あまたつれ立ち出《いで》て、三の間の縁《えん》の方へ行く。何某こは珍らしき事なりとながめ居《を》る所へ、奴婢かへりてこれを見付け、逐《お》ひ打たんとす。何某これを制して、いかゞなり行く、これを見はたすべきとて、戸外《こがい》へ出《いで》てこれを見るに、隣さかひの塀を踰(こ)えて、後(うしろ)の町屋へ行く。その数二三百もあらんと見ゆ。しばらく連立《つれだ》ち行きてやみぬ。いといぶかしき事と思ふ所に、十七日の朝の火事に村越宅も残らず焼失しぬ。かの鼠の行きし後《うしろ》の町屋は焼けざるなり。これ予(あらかじ)め火災を知りて、鼠の宿を替へしならん。

[やぶちゃん注:「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。

「元禄三年三月十六日」同月「十七日の朝の火事」資料によれば、元禄三年三月十六日と三月十七日(グレゴリオ暦一六九〇年四月二十四日と二十五日)に、金沢では、別に二度、続いて、大火が起こっている。前者は九百軒、後者は六千六百三十九軒と大量の家屋が焼失している。金沢では旧暦の三月から四月にかけて大火が多かったが、これは、北陸地方特有の、所謂「フェーン現象」に起因するものである。

「新竪町」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鼠の刑罰」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鼠の刑罰【ねずみのけいばつ】 〔蕉斎筆記〕当年大坂にて公儀の御普請所有りけるが、大工ども𨻶《すきま》に暮し、慰みもなきゆゑにや、鼠を捕へ木にて馬を拵へ、のぼり立てさせ、錐または釘の類にて刑罪の道具を拵へ、その場所にて引廻し磔《はりつけ》にかけて遊びたるよし、御上《おかみ》に聞え、小事の罪なれども、仮初(かりそめ)ながら上《かみ》の法を学び真似しけること不届なりとて、頭取《とうどり》両人遠嶋仰せ付けられるとなり。珍しき遊びにてありしが、遂には報い有りけりとなりと、諸人評判せしよし、定めて弁当などを鼠に食はれけるより、憎み引《ひつ》とらへ、はり附けにかけたるなるべし。

[やぶちゃん注:儒者で安芸広島藩重臣に仕えた小川白山(平賀蕉斎)の随筆。寛政一一(一七九九)年。国立国会図書館デジタルコレクションの「百家隨筆」第三(大正六(一九一七)国書刊行会刊)のこちら(右ページ下段)で視認出来る。なお、この『三』はパート標題が『寬政七乙卯年拔書』であるから、「当年」はグレゴリオ暦一七九五年である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鼠の薬」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鼠の薬【ねずみのくすり】 〔退閑雑記後編巻四〕ある商人《あきんど》ありけり。楽しみあそぶ事もなく、たゞあまた鼠をあつめて愛しけり。ある日その鼠あるじの手をかみたるが、毒気支体《したい》にめぐりて発熱甚しく、紫色の斑文《はんもん》体《からだ》をめぐりたり。そのあるじ鼠に向ひて、予、汝を愛す、汝、予をかみてかくの如く悩めども、予、汝を憎まず、汝、何ゆゑにわれをかみて、かく悩ましても癒さんともせず、くゆる気色《けしく》もせず、いかなる心ばへにや、浅ましと、誠に人にいふ如くうち向かひて言ひたれば、鼠うち聞きたるさまして、それよりいづくへか行きけん見えず。あるじはその悩みにて、枕によりてねぶれるに、その疵に、何か冷かなるものおしあつるやう覚えて目醒めたれば、かの鼠、草の葉くはへてその疵におしあつるなり。されば、この草よく毒を解《かい》すためと思ひて、その草汁を疵につけ、草もてその疵をおほひ、その草をせんじてのみたれば、毒気忽ち解して愈えぬ。その草は紀の国より蜜柑の実に交《まぢ》へ来たる、石菖《せきしやう》てふ草に似たるものなりとぞ。この事つくり物語のやうなれども、さにはあらず。近き頃の事にて、その商人物語りありて、その人にねもごろなるもの、名さへいひて語りしといふを聞きしなり。

[やぶちゃん注:松平定信の随筆。全十三巻。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十四巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)で正規表現の当該部がここ視認出来る。

「ある日その鼠あるじの手をかみたるが、毒気支体にめぐりて発熱甚しく、紫色の斑文体をめぐりたり」所謂、「鼠咬症」である。異なる二種の原因菌により発症する、別の感染症の総称であり、人獣共通感染症の一つ。「鼠咬熱」とも呼ぶ。「鼠咬症スピロヘータ感染症」及び「モニリホルム連鎖桿菌感染症」である。「鼠咬症スピロヘータ感染症」の原因菌はグラム陰性非芽胞形成微好気性螺旋菌、真正細菌プロテオバクテリア門βプロテオバクテリア綱Beta Proteobacteriaニトロソモナス目Nitrosomonadalesスピリルム科スピリルム属スピリルム・ミヌスSpirillum minus であり、「モニリホルム連鎖桿菌感染症」の原因菌は、真正細菌フソバクテリウム綱フソバクテリウム目レプトトリキア科ストレプトバチルス属ストレプトバチルス・モニリホルム Streptobacillus moniliformis である。当該ウィキによれば、『前者では感染』一~二『週間後に発熱、咬傷部の潰瘍、局所リンパ節の腫脹。後者では感染』十『日以内に発熱、頭痛、多発性関節炎、局所リンパ節の腫脹。両者とも』、『心内膜炎、肺炎、肝炎などを発症することもある。両者とも一般にネズミに対しては無症状』であるとある。私は、大学生の時、汚い食堂で、夕食を食いながら、そこにあった漫画雑誌(私は六十六になる現在まで、一度も漫画雑誌を買ったことがない。但し、好きな作家はいる。手塚治虫先生と、諸星大二郎・星野之宣で、彼らの単行本はだいたい買ってきた)で、さいとうたかを作の「サバイバル」の一場面を見て知った。

「石菖」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus 学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。当該ウィキによれば、『根茎や葉は薬草として用いられ、神経痛や痛風の治療に使用されている。例えば』、『蒸し風呂(湿式サウナ)で用いられる時には、セキショウの葉を床に敷いて』、『高温で蒸す状態にして、鎮痛効果があるテルペン』(terpene)『を成分とする芳香を放出させ』、『膚や呼吸器から体内に吸収するようにして利用する』とある。なお、本文の、このシーンの解説部分は極めて鋭い。私の「譚海 卷之一 紀州蜜柑幷熊野浦の事」を見られたい。紀州蜜柑の輸送の際の緩衝材に石菖が用いられたのだ。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鼠の怪異」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鼠の怪異【ねずみのかいい】 〔兎園小説第九集〕今玆《こんじ》(文政乙酉)四月、奥州伊達郡保原《ほばら》<福島県伊達市保原町>といふ所の大経師松声堂(俗称福井重吉、俳名万年)の物語に、おのれ事は南部の産にて、この春、親族の方より消息して、世にめづらしき事をしらせ起したり。そは南部盛岡<盛岡市>より凡そ二十里許りおくに、福岡といふ所にて、そこに青木平助といふ旧家あり。その家作のふるき事、五六百年前に造りなしたるが、そのまゝにて住居来《すまゐきたり》れり。げにその家、今やうの造りざまにあらず、いかにも由あるものの末ならんと思はるになり。しかるにこの春二月の比、あるじ兵助の夢に、棟の上に一塊のほのほ炎炎《えんえん》ともゆと見て、驚きさめてふと仰ぎ見れば、こはそもいかにぞや。夢に見たるにつゆ違《やが》はず。おのれが寐《ね》たる上の棟に、火燃えゐたりければ、あわてふためき起き上り、手早くはしごをものして、手ごろなる器に水を入れ、水をそゝぎかけなどしければ、忽ちに火はきえてさせる事なし。あるじとゞろく胸はやゝ静まりしかども、いかなることにて、この怪しみのありけるにやと思へば、さらに心安からねど、かゝる事を家の内のものに告げしらさば、さこそ物の化《ばけ》たゝりならんと云ひのゝしりてうるさかるべし。何《なん》にまれ、今少し試みばやと、ひとりむねにをさむるものから、その暁までいもねられであかしゝとぞ。かくてあけの朝起き出でて、例のごとくうからうちよりて、朝いひたふべんとする折、かの宵にことありし棟とおぼしき処より、物のはたと落ちたり。思ひもかけぬ事なれば、女わらべなどは、あれとさわぎて飛びのきつ。あるじは心にかゝ心ふしもあれば、さてこそとて、きとそのものを見とむるに、いと年ふりて大きなる鼠のおなじ程なるが、その数九つ、尻と尻とつき合せて、わらふだの如くまろくなりつゝかたみに手あしをもがきて、かけり逃《のが》れんとするなりけり。しかるにその鼠、いかにもがきても、尻と尻つながりて離れず、只ひたすらにかけ出でんとするのみにて、くるくるおなじ所をめぐるのみなれば、人みな恐れ驚ろく中にも、亦興ある事におぼえて、こはけしからぬ物なり。いかにしてかくまで、同じ鼠の九つよくも揃ひけん。それすらあるに、尻と尻の離れぬは、いかなる故ぞとのゝしりつゝ、とり離してやらんか、うちも殺さんやなどいひよどみて、割木やうのものを持《も》て[やぶちゃん注:後掲する私の本文に従った。]、両三人左右より引きわけんとするに得《え》[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」に当て字したもの。]はなれず。こはおかしき物なりとて、つよく引きたて見れば、怪しむべし、この鼠の尾と尾のからみあひたる事、あじろをくみたらんが如くにて、つよく物《もの》せば、しり尾も抜けんずらんなどいふ人もあれば、そがまゝに置きたるを、近きわたりの人々、聞き伝へ集《つど》ひきて、扨も珍らしきものを見つるかな、吾れらに得させ給へとて、竹の先に引きかけて処々もち歩きて、なほ人に見せたる果《はて》は、川へや流しけん、土中にや埋《うづ》みけん、そのよりにまた怪しきことの聞えなば、なほまた告げまゐらせんなどいひおこしたりと語りしより、友人の伝聞にまかして、けふの兎園の数に入れ侍るになん。

[やぶちゃん注:私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 鼠の怪異」』を見られたい。発表者は「文寶堂」で本名は「龜屋久右衞門」、本姓実名はともに不詳。飯田町に住みて薬種屋を商っていた。後に二代目「蜀山人」の名を継いだ人物でもある。それにしても、前の火の怪異と、後の鼠の怪異との連関が語られず、結末も尻切れトンボで、消化不良を起こす、上手くない怪奇談である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫物を言う」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猫物を言う【ねこものをいう】 〔耳囊巻四〕寛政七年の春、牛込山臥町<東京都新宿区山伏町>の、何とか言へる寺院、秘蔵して猫を飼ひけるが、庭に下りし鳩の、快よく遊ぶを覗ひける様子故、和尚声を懸け、鳩を追ひ逃しけるに、右猫、残念なりと物言ひしを、和尚大きに驚き、右猫勝手の方へ逃げしを押へて、小束(こづか)を持ち、汝畜類として物を言ふ事奇怪なり、全《まつたく》化《ばけ》候《さふらふ》て人をたぶらかしなん、一旦人語をなすうへは、真直《しんちよく》に尚又可ㇾ申、若《も》しいなみ候においては、我殺生戒を破りて、汝を殺さんと憤りければ、彼《か》の猫申けるは、猫の物を言ふ事、我等に不ㇾ限、拾年余も生き候得ば、都(すべ)てものは申ものにて、夫《それ》より拾四五年も過ぎ候得《さふらえ》ば、神変を得候事なり、併《しか》し右の年数、命を保ち候猫無ㇾ之由を申けるゆゑ、しからば汝物云ふもわかりぬれど、未だ拾年の齢ひに非ずと尋ね問ひしに、狐と交りて生れし猫は、その年功《ねんこう》なくとも、物言ふ事なりとぞ、答へけるゆゑ、然《しか》らば今日物言ひしを、外《ほか》に聞ける者なし、我暫くも飼置きたるうへは、何か苦しからん、これまでの通り可罷在と、和尚申ければ、和尚へ対し三拝をなして出行《いでゆ》きしが、その後いづちへ行きし見えざりしと、彼《か》の最寄《もより》に住める人の語り侍る。<『耳囊巻五』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之四 猫物をいふ事」である。これは、最も人口に膾炙した猫の怪である。最後の宵曲の附記のそれは、底本違いで、私のものは、「耳嚢 巻之六 猫の怪異の事」である。但し、『同様』というより、「同様に近い別話」とすべきものである。なお、無論、宵曲は、「妖異博物館 ものいふ猫」でも採用している。そこでは、本邦のこれらのルーツの一つと考えてよい、中国の志怪小説も挙げてあるので、是非、読まれたい。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫の報恩」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猫の報恩【ねこのほうおん】 〔閑窻瑣談巻一〕遠江国蓁原郡御前崎<静岡県榛原《はいばら》郡御前崎町>といふ所に[やぶちゃん注:「         蓁」は「榛」の異体字。]、高野山の出張にて西林院といふ一寺あり。この寺に猫の墓、鼠の猫といふ石碑二ツ有り。そもそも此所は伊豆の国石室崎<静岡県賀茂郡南伊豆町>、志摩国鳥羽の湊<三重県鳥羽市>と同じ出崎《でさき》にて、沖よりの目当《めあて》に、高燈籠《たかどうろう》を常燈としてあり。されば西林院の境内にある猫塚の由来を聞くに、或年の難風《なんぷう》に、沖の方《かた》より船の敷板(いたご)に子猫の乗りたるが、波にゆられて流れ行くを、西林寺の住職は丘の上より見下《みおろ》して、不便(ふびん)の事に思はれ、舟人《ふなびと》を急ぎ雇ひて小舟を走らせ、既に危き敷板の子猫を救ひ取り、やがて寺中《ぢちゆう》に養はれけるが、畜類といへども、必死を救はれし大恩を深く尊《たっと》み思ひけん。住職に馴れて、その詞《ことば》をよく聞きわけ、片時《へんじ》も傍《かたはら》を放れず。かゝる山寺にはなかなかよき伽《とぎ》を得たるこゝちにて寵愛せられしが、年をかさねて彼《かの》猫のはやくも十年を過《すご》し、遖《あつぱ》れ[やぶちゃん注:実は底本も『ちくま文芸文庫』版も『遖(あは)れ』とルビするのだが、従えないので、特異的に後に示す活字本に従った。]逸物《いちもつ》の大猫《おほねこ》となり、寺中には鼠の音も聞く事なかりし。さて或時寺の勝手を勤める男が、縁の端に転寐《まろびね》して居《ゐ》たりしに、彼《かの》猫も傍《かたはら》に居《ゐ》て庭をながめありし所へ、寺の隣なる家の飼猫が来りて、寺の猫に向ひ、日和《ひよい》も宜《よろ》しければ伊勢ヘ参詣(まゐら)ぬかといへば、寺の猫が云ふ。我も行きたけれど、この節は和尚の身の上に危き事あれば、他《た》へ出で難しといふを聞《きき》て、隣家《りんか》の猫は寺の猫の側《そば》近くすゝみ寄り、何やら咡(ささや)き合ひて後《のち》に別れ行きしが、寺男は夢現(ゆめうつつ)のさかひを覚えず。首《くび》をあげて奇異の思ひをなしけるが、その夜《よ》本堂の天井にて、いと怖ろしき物音し、雷《らい》の轟《とどろ》くにことならず。この節《せつ》寺中には、住職と下男ばかり住みて、雲水の旅僧《たびそう》一人《ひとり》止宿(とまり)て四五日を過《すご》し居《ゐ》たるが、この騒ぎに起きも出でず。住持と下男は燈火《ともしび》を照らして、かれこれと騒ぎけれども、夜中《よなか》といひ、高き天井の上なれば、詮方なく夜《よ》を明《あか》しけるが、夜明《よあけ》て見れば、本堂の天井の上より生血《なまち》のしたゝりて落ちけるゆゑ、捨ておかれず、近き傍《あたり》の人を雇ひ、寺男と俱(とも)に天井の上を見せたれば、彼《かの》飼猫は赤(あけ)に染《そ》みて死し、またその傍《かたはら》に隣家《となり》の猫も疵を蒙りて、半ば死したるが如し。それより三四尺を隔りて、丈《た》け二尺ばかりの古鼠《ふるねづみ》の、毛は針《はり》をうゑたるが如きが生じたる、怖ろしげなるが血に染《そま》りて倒《たふ》れ、いまだ少しは息のかよふ様《やう》なりければ、棒にて敲き殺し、やうやうに下へおろし、猫をばさまざま介抱しけれども、二疋ながら助命(たすから)ず。かの鼠はあやしいかな、旅僧の著《き》て居《ゐ》たる衣《ころも》を身にまとひ居《ゐ》たり。彼れこれと考へ察すれば、旧鼠(ふるねづみ)が旅の僧に化けて来り、住職を喰《く》はんとせしを、飼猫が旧恩の為に、命を捨てて住職の災ひを除きしならんと、人々も感じ入り、頓(やが)て二匹の猫の塚を立て回向《ゑかう》をし、鼠もいと怖ろしき変化(へんげ)なれば捨ておかれずと、住持は慈悲の心より、猫と同じ様に鼠の塚を立て法事をせられしが、今猶伝へてこの辺を往来《ゆきき》の人の噂に残り、塚は両墓《ふたつ》ともものさびて寺中に在り。(予が友人伝菴桂山《でんあんけいざん》遊歴の節《とき》に、彼《かの》寺にいたりて書《かき》とゞめしをこれに出《いだ》せり)

[やぶちゃん注:「閑窻瑣談」江戸後期に活躍した戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~ 天保一四(一八四四)年)の随筆。怪談・奇談及び、日本各地からさまざまな逸話。民俗を集めたもの。浮世絵師歌川国直が挿絵を描いている。吉川弘文館『随筆大成』版で所持するが、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第九巻(国民図書株式会社編・昭和三(一九二八)年同刊)のこちらから、で正字で視認出来る。挿絵(次のコマ)もある。通しで『第七』話目の『猫(ねこ)の忠義(ちうぎ)』である。総ルビに近いので、読みは、積極的にそれを参考にした(但し、歴史的仮名遣の誤りや、奇体な読みのものは無視した)。なお、この話は、既に二度、電子化してある。最初のものは、「谷の響 一の卷 十六 猫の怪 並 猫恩を報ふ」の私の注で、そこに示した挿絵(吉川弘文館『随筆大成』版からOCRで読み取り、トリミング補正したもの)を参考図として、この注に後に添えておくこととする。今一つは、「柴田宵曲 妖異博物館 猫と鼠」である。孰れも注を施してあるので(特に前者で詳しい)参照されたい。

 

Sairinjijyusyoku

 

「静岡県榛原郡御前崎町」現在は静岡県御前崎市(グーグル・マップ・データ)。]

〔耳囊巻二〕安永・天明の頃なる由、大阪農人橋《のうにんばし》に河内屋惣兵衛と云へる町人ありしが、壱人の娘容儀も宜く、父母の寵愛大方ならず。然るに惣兵衛方に年久しく飼ひ置ける猫あり。ぶち猫の由、彼娘も寵愛はなしぬれど、右の娘につきまとひ、片時も立離れず。定住座臥、厠の行来等も附まとふ故、後々は彼娘は猫見入りけるなりと、近辺にも申し成し、縁組等世話いたし候ても、猫の見人りし娘なりと、断るも多かりければ、両親も物憂き事に思ひ、暫く放れ候場所へ追放しても、間もなく立帰りけるゆゑ、猫は恐ろしきものなり、殊に親代より数年《すねん》飼ひ置けるものなれど、打殺し捨るにしかじと、内談極めければ、かの猫行衛なくなりしゆゑ、さればこそと、皆家祈禱その外魔よけ札等を貰ひ、いと慎みけるに、或夜惣兵衛の夢に、彼猫枕元に来りてうづくまり居けるゆゑ、爾(なんぢ)はなにゆゑ身を退《しりぞ》き、また来りけるやと尋ねければ、猫のいはく、我等娘子を見入りたるとて殺されんと有る事ゆゑ、身を隠し候、よく考へても見給へ、我等この家先代より養はれて、凡そ四拾年程厚恩を蒙りたるに、何ぞ主人のためあしき事をなすべきや、我《われ》娘子の側を放れざるはこの家に年を経《へ》し妖鼠《ようそ》あり、彼《かの》娘子を見入りて近付かんとする故、我等防ぎのために聊かも放れず、附《つき》守るなり、勿論鼠を制すべきは、猫の当前ながら、中々右鼠、我壱人《ひとり》の制に及びがたし、通途《つうと》の猫は二三疋にても制する事なりがたし、爰に一つの法あり、嶋の内口河内屋市兵衛方に、虎猫壱疋有り、これを借りて我と俱(とも)に制せば、事なるべしと申して行方知らずなりぬ。妻なる者も同じ夢見しと、夫婦かたり合ひて驚きけれども、夢も強《しひ》て用ふべきにもあらずとて、その日は暮れぬるに、その夜又々かの猫来りて、疑ひ給ふ事なかれ、かの猫さへかり給はば、災のぞくべしと語ると見しゆゑ、かの嶋の内へ至り、料理茶屋躰《てい》の市兵衛方へ立寄り見しに、庭の辺《へん》縁頰《えんばな》に抜群の虎猫ありけるゆゑ、亭主に逢ひて、密かに口留めして、右の事物語りければ、右猫は年久しく飼ひしが、一物(いちもつ)なるや、その事は知らず。せちに需(もと)めければ、承知にて貸しけるゆゑ、あけの日右猫をとりに遣しけるが、彼れもぶち猫より通じありしや、いなまずして来りければ、色々馳走などなしけるに、かのぶち猫もいづちよりか帰りて、虎猫と寄合ひたる様子、人間の友達咄し合ふがごとし。扨(さて)その夜、またまた亭主夫婦が夢に、彼ぶち猫来り申しけるは、明後日彼鼠を制すべし、日暮れは我等と虎猫を二階へ上げ給へと約しけるゆゑ、その意に任せ、翌々日は両猫《ふたつねこ》に馳走の食を与へ、さて夜に入り二階へ上げ置きしに、夜四つ<午後十時>頃にも有ㇾ之べくや。二階の騒動すさまじく、暫しが間は震動などする如くなりしが、九つ<夜半十二時>にも至るころ、少し静まりけるゆゑ、誰彼(たれか)れと論じて、亭主先に立ちあがりしに、猫にもまさる大鼠ののどぶえへ、ぶち猫喰ひ付きたりしが、鼠に脳をかき破られ、鼠と俱に死しぬ。かの嶋の内のとら猫も、鼠の脊にまさりけるが、気力つかれたるや、応(まさ)に死に至らんとせしを、色々療治して、虎猫は助かりけるゆゑ、厚く礼を述べて、市兵衛方に帰しぬ。ぶち猫はその忠心を感じて、厚く葬りて、一基の主《あるじ》となしぬと、在番中聞きしと、大御番勤めし某物語りぬ。

[やぶちゃん注:本篇は、私のでは底本違いで、「耳嚢 巻之九 猫忠死の事」である。「耳囊」にはほぼ相同の内容を持ったものが、私のでは、「耳嚢 巻之七 猫忠臣の事」があるので比較されたい(後者は伏字があったりして、私は好きくない)。また、これ、大坂が舞台で、私は大阪弁に冥いため、関西出身の私の若い教え子に、上前記の私の拙訳を見て貰い、正しい大阪弁版現代語訳に校訂して貰ったものを、原文本文附きで、後に「耳嚢 巻之九 猫忠死の事 ――真正現代語大阪弁訳版!―」として公開してある。合せて、お楽しみあれ! また、「柴田宵曲 妖異博物館 猫と鼠」でも採用している。

 なお、以下は、上記本文の最後に一字空けで繋がっているが、特異的に前に合わせて、改行した。

〔宮川舎漫筆巻四〕文化十三年子年の春、世に専ら噂ありし、猫恩を報はんとしてうち殺されしを、本所回向院<東京都江東区内>へ埋め碑を建て、法名は徳善畜男《とくぜんちくなん》と号す。三月十一日とあり。右由来の儀は、両替町《りやうがへちやう》時田喜三郎が飼猫なるが、平日出入の肴屋《さかなや》某が、日々魚を売るごとに魚肉をかの猫に与へける程に、いつとても渠《かれ》が来れる時には、猫先づ出《いで》て魚肉をねだる事なり。さて右の肴屋病気にて長煩ひしたりし時、銭一向無ㇾ之難儀なりし時、何人《なんぴと》ともしらず金二両あたへ、その後《のち》快気して商売のもとでを借《か》らんとて、時田がもとに至りける時、いつもの猫出《いで》ざるにつき、猫はと問ひければ、この程打殺し捨てたりしと。その訳は先達《せんだつ》て金子二両なくなり、その後《のち》も金を両度まで喰(くは)へて迯出(にげ《い》)でたり、併《しか》し両度ともに取戻しけるが、然《しか》らばさきの紛失したりし金も、この猫の所為《しよゐ》ならんとて、猫をば家内寄り集りて殺したりといふ。肴屋泪《なみだ》を流して、その金子はケ様々々の事にて、我等方にて不思議に得たりと、その包紙を出し見せけるに、この家の主が手跡なり。しからばその後《のち》金をくはへたるも、肴の基手《もとで》にやらんとの猫が志《こころざし》にて、日頃魚肉を与へし報恩ならん。扨々知らぬ事とて、不便《ふびん》の事をなしたりとの事なり。後にくはへ去らんとしたる金子をも、肴屋に猫の志を継ぎて与へける。肴やもかの猫の死骸をもらひ、回向院に葬りしたる事とぞ。凡そ恩をしらざるものは猫をたとへにひけど、又かゝる珍らしき猫もありとて、皆人《みなひと》感じける。

[やぶちゃん注:「宮川舎漫筆」宮川舎政運(みやがわのやまさやす)の著になる文久二(一八六二)年刊の随筆。筆者は、かの知られた儒者志賀理斎(宝暦一二(一七六二)年~天保一一(一八四〇)年:文政の頃には江戸城奥詰となり、後には金(かね)奉行を務めた)の三男。谷中の芋坂下に住み、儒学を教授したとあるが、詳細は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで、正字表現で視認出来る。標題は『猫(ねこ)恩(おん)を報(むくふ)』。子の墓は「鼠小僧供養碑(鼠小僧の墓)」の脇に、「猫塚」(グーグル・マップ・データ)として現存する。いろいろ調べたが、法名の「德善畜男」は見当たらない。

「文化十三年子年」一八一六年。

「両替町」現在の中央区日本橋本石町二丁目(「日本銀行」本店)、及び、日本橋室町二丁目(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫の声」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猫の声【ねこのこえ】 〔窓のすさみ〕小野浅之丞とて、半之丞の甥なりしとぞ。十七八歳ばかりのころ、隣の家より猫の来りて、飼鳥《かひどり》を取る事度々なりしかば、憎きものかな、射殺しなんと思ひ居けるをり、向うの築山《つきやま》の陰に猫の戯れ遊ぶを見附けて、あはやそれぞと神頭(じんどう)の矢をつがひ、秘かにねらひよりてこれを射る。あやまたず当りて、その儘たふれぬ。立寄りて見れば、日頃のにはあらず外《ほか》のなり。あなあさまし、憎しと思へばこそ射つれ、これには罪もなきものを、と後悔すれどもかひなし。日暮れしまゝ一間《ひとま》なる所にありしに、ひるまの猫の事心にかゝり、さるにてもよしなきことして、思ひがけぬあやまちをしつ、心よく遊び居《ゐ》しを射たる聊爾(れうじ)さ[やぶちゃん注:迂闊さ。]よ、とくれぐれと思ひながら、夜も少しふくるころふしどに入りけれど、とくも寝《ね》られざりければ、衾《ふすま》をかづきてつくづくと思ひ続けて居《ゐ》しほどに、ほのかに猫のなく声すれば、不思議やひるまのなき声にも似たる哉《かな》と思ひ、枕をあげて聞くに、ひた啼きに啼く。はては床(ゆか)の下に声のするやうなれば、不思議さよと怪しく心をつけて聞けば、更《ふ》くるにつけてしきりに啼く。いかゞしてかゝるぞと、障子の外に出《いで》て聞けば、えんの下になく。おり立ちて逐ひぬればやみぬ。さてはなかりしなど思ひつゝ立入りてうち臥せば、また枕の下に声す。夜一夜《よひとよ》いもねず、明ければ止みぬ。さしも怪しかりつるかなと思ヘど、人に語るべくもあらねば、心一つに思ふやう、夜にならばまたや声すべき、若しも生き還りたるにやと、何となく築山の辺《あたり》を尋ね見、床の下の塵はらへとて、人を入れて、何事もあらずや、と問へば、蜘《くも》の網ならではなし、と答ふ。とかくして夜《よ》になりて臥しければ、前の如くひた啼きに啼きしかば、目もあはずして明《あか》しぬ。昼ほどになれどもおきやらで、引きかづき有りけるを、人々心もとながりて問ひつらねしほどに、やうやう日たけておきいでたれば、今日は昼になりても止まず。亭に出《いで》ても、おやの前に有りても、我《わが》居《ゐ》る床の下に声たえず、暮れかゝる比(ころ)よりは我腹《わがはら》の中に啼く。いよいようるさし。とやせんかくやと思へば、猶うちしきり啼く。これよりしておのづから病人となりて、物喰ふ事も得《え》[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」に当て字したもの。]せざりしかば、日に日にかたちも衰ろヘゆき、人心地《ひとごごち》もなく、一間に閉ぢこもり、腹をおさへてうづくまりてのみありける。こゝに伯父の何某《なにがし》、聞ゆる勇士にて知謀ありしが来りて云ひけるは、汝不慮の病《やまひ》をうけて、その儘ならば命終《をは》らん事、程あらじ、然れども少年なりとも士たるものゝ獣の類ひに犯されて病み死なんは、世の聞く所、先祖の名をも汚さんことも口惜しからずや、とても永かるまじき身をもつて、いさぎよくして憤りを忘れざる事を世にしらせば、少しは恥を雪(そそ)ぎなん、自《みづか》らはかり見よかし、とありしかば、浅之丞うちうなづき、仰せまでもなく始めより口借しく、いかにもなりなんと存ずれど、親達の歎き給はんが心ぐるしくて、今までのび候なり、この上はいよいよ思ひきはめ候、と云ひければ、いしくも[やぶちゃん注:「美しくも」。殊勝にも。よくも。]心得たり、親達にもかくと告げ知らせて、明日《あす》の夜《よ》来りて介錯《かいしやく》しなん、おもひ残す事なき様《やう》、よくしたゝめ置かれよ、と約して帰りぬ。その夜になりしかば、宵過ぐるころ伯父来り、湯あみさせ、衣服を改め、父母《ふぼ》に見(まみ)えて暇乞《いとまこ》はせける。親の心量り知るべし。子一《ねひとつ》[やぶちゃん注:午後十一時。]ばかりになりしかば、いざ時も至りぬ、只今思ひきはめよ、といひしかば、心得候ひぬ、御《おん》はからひにて恥辱を雪ぎなん事、いみじう悦《うれ》しくこそ、この上跡《あと》の苦しからぬ様《やう》に頼み奉る、と式礼《しきれ》して、白く清げなる肌をぬぎ、刀《かたな》を取《とつ》てすでにおしたてんとする時に、伯父の云ふやう、今しばらく待てよ、汝今死ぬるは、猫の腹に入《い》つて声するが為にわづらはされて、恥かしさにの事にあらずや、今はの時に、それぞともきかずして終らんは詮《せん》なし、今一度《いまひとたび》まさしく聞き定めて、その声にしたがひて刀をおし立てよ、と有りければ、刀を持ちながら聞くに声せず。いかゞし候やらん、宵までありつるが聞えず候は、と云ひければ、それは死に臨みて心おくれて聞えぬなり、心を静めてよく聞け、とうちしきり問へども、聞え申さず、といふ。さらば今しばし待て、そのわかちもなくて急ぎなんは、誠《まこと》に犬死ぞかし、夜更《よふ》くるとも聞き定めての事よとて、一夜附き居《ゐ》て、しばしば問ひしかども、終《つひ》に声のせぬよしなりければ、さらばとゞまれ、とうち笑ひてやみぬ。これよりして後《のち》、絶えて心にかゝる事もなかりけり。かしこかりける謀計《はかりごと》かなと、時の人申せしとて、大津にある医師の語りき。

[やぶちゃん注:「窓のすさみ」松崎尭臣(ぎょうしん 天和(てんな)二(一六八二)年~宝暦三(一七五三)年:江戸中期の儒者。丹波篠山(ささやま)藩家老。中野撝謙(ぎけん)・伊藤東涯に学び、荻生徂徠門の太宰春台らと親交があった。別号に白圭(はっけい)・観瀾)の随筆(伝本によって巻冊数は異なる)。国立国会図書館デジタルコレクションの「有朋堂文庫」(大正四(一九一五)年刊)の当該本文で正規表現で視認出来る。同書の「目錄」によれば、標題は『小野淺之丞猫に惱む』。かなり丁寧にルビがあるのを積極的に参考にした。

「神頭(じんどう)の矢」的矢の鏃(やじり)の一種。鏑矢(かぶらや)に似て、先を平らに切って鈍体にしたもので、的や激しくは傷つけないようにしたもの。長さ五~六センチメートルで、多くは木製で、黒漆塗り。「磁頭」とも言う。鉄製のものを「金神頭」(かなじんどう)という。庭の中であり、猫との距離が近く、さらに金神頭を用いていれば、射た猫の部位が悪ければ(主人公「小野淺之丞」は自分の腹部から猫の声が聴こえるとあるから、柔らかい腹部を狙った可能性が高い)、猫がショック死することもあろう。

 さても。この「小野淺之丞」の病態は、PTSDPost Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)の変形した一例で、幻聴を聴いているに過ぎず、自刃を決したところで、覚悟した意識がそちらに集中したことによって、幻聴が止んだものと読め、幸いにも一過性で全快した擬似怪談である。事実としてあった実話であろう。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫の踊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猫の踊【ねこのおどり】 〔甲子夜話巻二〕先年角筈《つのはず》村<東京都新宿区内>に住《すみ》給へる伯母夫人に仕《つかへ》る医高木伯仙と云へるが話は、我《わが》生国《しやうごく》は下総《しもふさ》の佐倉<千葉県佐倉市>にて、亡父或夜睡後に枕頭に音あり。寤(さめ)て見るに、久しく畜《か》ひし猫の首に手巾《てふき》を被《かぶ》りて立ち、手をあげて招くが如く、そのさま小児の跳舞《とびまふ》が如し。父即ち枕刀《ちんとう》を取《とり》て斬《き》らんとす。猫駭《おどろ》き走りて行く所を知らず、それより家に帰らずと。然《しか》れば世に猫の踊《をどり》と謂ふこと妄言にあらず。〔同巻七〕猫のをどりのこと前に云へり。また聞く、光照夫人(予が伯母、稲垣侯の奥方)の角筈村に住み玉ひしとき、仕へし婦の、今は鳥越邸に仕ふるが語りしは、夫人の飼ひ玉ひし黒毛の老猫《らうびやう》、或夜かの婦の枕頭に於てをどるまゝ、衾《ふすま》引《ひき》かつぎて臥したるに、後足にて立《たち》てをどる足音よく聞えしとなり。またこの猫常に障子のたぐひは自ら能く開きぬ。これ諸人の所ㇾ知なれども、如何にして開きしと云ふこと、知るものなしとなり。

[やぶちゃん注:私のもので、前者は「甲子夜話卷之二 34 猫の踊の話」、後者は「甲子夜話卷之七 24 猫の踊り」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫と蛞蝓」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猫と蛞蝓【ねことなめくじ】 〔寛政紀聞〕この節<寛政十年>小普請阿部大学支配何某、庭中の植込みの中に接骨木(にはとこ)有りしに、如何なる子細にや、いつの頃よりともなしに猫集り来り、日々に数《かず》殖え、後には数万《すまん》とも申すべき程に相成り、彼《か》の木に登り、或ひはその下に臥し、己が様々戯れ遊び、追へどもうてども退《の》かざりければ、主人も為んかたなく、右の接骨木を切り倒されしに、この木みな空洞にて、その中より五六寸ツヽ[やぶちゃん注:ママ。]のなめくじ、殊の外夥しく溢れ出《いで》しに、猫はその有様を見るや否《いな》、いづくともなく散々に迯失《にげう》せしとぞ。誠に怪異の事なりと、世間の噂まちまちなり。

[やぶちゃん注:「寛政紀聞」「天明紀聞寬政紀聞」が正題。天明元年から寛政十一年までの聴書異聞を集録する。筆者不詳だが、幕府の御徒士(おかち)であった推定されている。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第四(三田村鳶魚校訂・ 随筆同好会編・昭和二(一九二七)年米山堂刊)のこちらで当該話を視認出来る(右ページ最終行九字目以降)。本書は概ね編年体を採っており、この記事は前に別な短い記事が載り、それによって、寛政十年の『九月中旬』の出来事であることが判る。

「接骨木(にはとこ)」「庭常」とも書く。双子葉植物綱マツムシソウ目ガマズミ科ニワトコ属亜種ニワトコ Sambucus racemosa subsp. sieboldiana 当該ウィキによれば、『日本の漢字表記である「接骨木」(ニワトコ/せっこつぼく)は、枝や幹を煎じて水あめ状になったものを、骨折の治療の際の湿布剤に用いたためといわれる。中国植物名は、「無梗接骨木(むこうせっこつぼく)」といい、ニワトコは中国で薬用に使われる接骨木の仲間であ』るとあって、『若葉を山菜にして食用としたり、その葉と若い茎を利尿剤に用いたり、また』、『材を細工物にするなど、多くの効用があるため、昔から庭の周辺にも植えられた』。『魔除けにするところも多く、日本でも小正月の飾りや、アイヌのイナウ(御幣)などの材料にされた』。『樹皮や木部を風呂に入れ、入浴剤にしたり、花を黒焼にしたものや、全草を煎じて飲む伝統風習が日本や世界各地にある』。『若葉は山菜として有名で、天ぷらにして食べられる』。但し、『ニワトコの若葉の天ぷらは「おいしい」と評されるが』、『青酸配糖体を含むため』、『多食は危険で』、『体質や摂取量によっては下痢や嘔吐を起こす中毒例が報告されている』とあった。『果実は焼酎に漬け、果実酒の材料にされる』とある。私は、若葉の「天ぷら」を食べたことがある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫と狐」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猫と狐【ねこときつね】 〔筱舎漫筆第七〕高橋司の物語に、天保七年申の七月十四日の夜のことなり。富野の宅のまへに荒れたる畠あり。厠にゆきて窓より外の方をみやりたりしが、猫ひとつふらふらと出来《いできた》る。やがて狐ひとつ来《きた》る。かの猫とならびゐけるが、狐まづ手をあげ、乳のあたりとおぼしき所におれ、すこし背をのし、小足にてあゆみ出す。猫またその定にして、あとより歩む。六七間もある畠をま直《すぐ》にゆく。帰りには常のあしにて、ふらりふらりともとの所へゆく。かくすること五六十度にもおよびぬ。そのはせゆく所は、月かげにて垣のくま糸はへたるごとくにあり。その筋をゆくなりとぞ。そのうち司しはぶきしたれば、驚ろきて二疋ともに飛びさりぬとなり。またまた狐に教へられて歩くことの稽古なるべし。このわざ数度におよびてなん、種々の伝授をば受くなるべし。 〔譚海巻五〕深川小奈木沢<東京都江東区内>近き川辺に、或人先祖より久しく住居《すみゐ》て有る宅あり。自《おのづか》ら田畑近く人気《ひとけ》すくなき所なりしに、ある夕暮、あるじ庭を見てゐたれば、縁の下より小《ちさ》き狐壱ツはひ出てうづくまり居《ゐ》しを、家に飼ひ置ける猫見附けて怪しめる様《やう》なるが、頓(やが)ておづおづ近寄り、狐の匂ひを嗅ぎて、うたがはずなれ貌《がほ》に寄添《よりそ》ひ、後々《あとあと》は時として伴なひ歩《あり》きなどして友達になりけるが、終《つひ》に行方《ゆくへ》なくかい失せぬるとぞ。元来同じ陰獣なれば、同気《どうき》相和《あひわ》して怪しまず、かく有りけるにやとその人の語りぬ。すべて猫は狸奴《りど》と号して、狐狸の為《ため》つかはるゝ物なれば、誘引せらるゝ時は、共に化けてをどり歩《ある》く事なり。狐狸のつどふ所には猫必ず交《まぢは》る事あり。或人越ケ谷<埼玉県越ケ谷市>に知音有りて、行きて両三日宿りたるに、毎夜座敷の方に、人の立居《たちゐ》る如く、ひそかに手を打《うち》てをどる声聞ゆる故、わびしく寝られぬまゝ亭主にかくと語りければ、さもあれ心得ざる事とて、亭主伺ひ行きければ、驚《おどろき》て窻《まど》のれんじより飛出《とびいづ》る物あり。つゞきて飛出る物をはゝきにて打ちたれば、あやまたず打ち落しぬ。火をともして見れば、家に久しくある猫、この客人の皮足袋《かはたび》をかしらにまとひて死《しし》て有り。かゝれば狐などをどりさわぐは、猫なども交りてかく有りける事と、その人帰り物語りぬ。

[やぶちゃん注:「筱舎漫筆」(ささのやまんぴつ)は「牛と女」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第二巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字で当該部が視認出来る。標題は『○猫狐あやしきわざ』である。後者は、私の「譚海 卷之五 狐猫同類たる事 附武州越ケ谷にて猫おどる事」を見られたい。

「高橋司」不詳。名は「つかさ」と訓じておく。

「天保七年申の七月十四日」グレゴリオ暦一八三六年八月二十五日。

「富野」不詳。

「六七間」十一~十二・七二メートル。

「深川小奈木沢」上記リンク先で注したが、転写すると、これは「深川小名木川(ふかがはおなきがは)」の誤りであろう。ここに現在もある(グーグル・マップ・データ)。「三井住友トラスト不動産」公式サイト内の「このまちアーカイブズ」の「東京都 深川・城東」に「江戸切絵図」から諸画像・近現代の写真と、当該地区の歴史的解説も豊富に書かれてあるので、是非、見られたい。]

2023/12/23

只野真葛 むかしばなし (93)

 

一、今田善作といひし人、在合[やぶちゃん注:底本に「合」を当て字として、『(郷)』と本文割注をしてある。]にて野良狐(のらぎつね)をならして、日ごとに食をあたへしかば、終(つひ)に、緣先に晝寢して居《ゐ》るほどになれしに、そのはじめよりは、三年ばかりも、かいて、有(あり)し、とぞ。

 善作、机にかゝりておるかたわらの緣の上に、狐、居て、細目に明(あけ)て、善作が顏を、まもり、物いひたげなるていなりしに、善作、ことばをかけ、

「是、きつね。そちを扶持(ふち)せしも、はや、三年なり。少しは禮を仕(し)そふ[やぶちゃん注:ママ。]なこと。いかに野良狐だとて、あまり陰(かげ)[やぶちゃん注:「お蔭」。謝意。]のなきことなり。鳥の一羽も、才覺は、ならぬか。」

と、いひおはるやいなや、とび下(お)りて、いづくともなく行(ゆき)しに、

「さて、聞分(ききわけ)しやうな、ていなり。いかゞしつる。」

と、家内と物がたりして、日をくらせしに、よく朝、ひしくひ一羽、こつぜんと、枕上(まくらがみ)に有(あり)。されば、

「狐の、きゝ分(わけ)て持(もち)きしならん。」

と、料理して見しに、一向、身のなき、やせ鳥なりし、とぞ。

 後(のち)にきけば、其あたりにかひて有(あり)し「おとり雁(がん)」をとりて、あたへし、とぞ。

 食(くひ)ては、うまくなし。とられしかたには、大迷惑せしなり。

 野良狐の心、いきなるべし【「おとり」とは、かひおきたる鳥を野場につなぎて、鳥をよびて、打(うつ)なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

[やぶちゃん注:「ひしくひ」カモ目カモ亜目カモ科マガン属ヒシクイ Anser fabalis serrirostris 。本邦に渡り鳥として南下してくるのは他に、オオヒシクイ Anser fabalis middendorffii がいる。詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴻(ひしくひ)〔ヒシクイ・サカツラガン〕」を参照されたい。]

只野真葛 むかしばなし (92)

 

一、正左衞門、龍が崎の御役人をつとめし頃、少々、御用金を廻し行(ゆく)に、いつも東通りの道中、すきにて有(あり)し故、その通りにかゝるに、折ふし、道中、物さはがしきこと有しかば、

「いよいよ、荷物、大切にし、少しも、はやく、其宿を通りぬけん。」

と、夜どほふし[やぶちゃん注:ママ。「夜通し」。]仕(し)て[やぶちゃん注:後で出るが、荷を運ぶために馬子を使っているので「仕」なのである。]行(ゆく)に、四ツ倉に着(つき)たりしが、其身は駕(かご)にて先へ行(ゆき)、八弥(はちや)[やぶちゃん注:前に出た正左衛門の養子。]を荷廻しにして、あとにのこせしに、人步(にんぷ)、滯(とどこほり)て、いでず、日も暮(くれ)、夜も五ツになれども、出ず。

「ぜひ、ぜひ。」

と催促すれども、宿(しゆく)にては、

「今晚は、何卒、御とまり被ㇾ下。」

と、いへども、其荷つゞらは、御用金、入(いる)を、わざと、粗末にとりあつかひて、心を付(つけ)てまわし行(ゆく)ことなれば、養父は、先へ行しに、あとには、いかにも、とゞまりがたく、

「たとへ、夜が明(あくる)るまでも、人足を、まちて、立(たて)。」

とて、荷物に、こしかけ、催促しきりにせしかば、四ツ頃に、漸(やうやう)出(いで)しは、十二、三の小女、兩人なり。[やぶちゃん注:宿次ぎの付き添いの雇い人が少女二人というのは、八弥ならずとも、空いた口が塞がらぬわ!]

 八彌は、そのとし、十八才なり。

『まさかの時は、足手まとひよ。』

と、おもふには、なきよりも、心ぼそし。

 せんかたなければ、引(ひつ)たて行(ゆく)に、その物さはがしきといふは、

今、行(ゆく)海邊、

「人家なき所の眞中頃(まんなかごろ)の岩穴に、ぬす人、兩三人、かくれすんで、晝も、壱人(ひとり)行(ゆく)人をば、とらへ、衣類を、はぎて、からをば、海にいれる。」

ことのよし、馬子共(まごども)のかたるを聞き、

『絕體絕命。』

と、心も、こゝろならぬに、浪の打(うつ)にまかせて、まか[やぶちゃん注:底本に右にママ注記し、本文直後に『(はるか)』と補注する。]うみ中(なか)に、さしわたし、壱尺餘りなる火の玉のごとき光、あらはれて、くらき夜なるに、足もとの小貝まで、あらわに見へたり。

「はつ」

と、おどろき、

「あれは、何(な)ぞ。」

と、馬子に、とへば、

「此所は龍燈(りゆうとう)の上(のぼ)る所と申(まふし)ますから、大かた龍燈でござりませう。」

と、いひしが、誠にふしぎの光なりし、とぞ。

「ぬす人のすむ岩屋の前へきたら、しらせろ。」

と、いひおきしが、

『「爰(ここ)ぞ、其所(そこ)。」と聞(きき)し時は、何ものにもあれ、出(いで)きたらば、只、一打(ひとうち)にきりたほさん。』

と、鍔元《つばもと》を、くつろげて、心をくばり行過(ゆきすぎ)しが、ぬす人の運や、つよかりけん、音もせざりし、とぞ。

「其ひかりは、三度《みたび》まで、見たりし。」

とぞ。

 いたく、夜ふけて、先(さき)の宿(しゆく)にいたりしかば、正左衞門は、寢(いね)もやられず、門に立(たち)て待居(まちをり)たりしが、遠く來(きた)る音を聞(きき)て、

「やれ、八弥、無難にて、きたりしや。よしなき夜通ふし仕(つかへ)て、大勞をも、ふけしぞや。」

とて、悅(よろこび)しとぞ。

 海漁(うみりやう)をするもののはなしに、

「世に『龍燈』といひふらすもの、實(じつ)は火にあらず、至(いたつ)て、こまかなる羽蟲(はむし)の身に螢などのごとく、光(ひかり)有(ある)一種なり。餘り、ちひさくて壱など有(あり)ては、光も見へ[やぶちゃん注:ママ。]ねど、おほくよれば、おのづから白く見ゆるものなり。つよく雨のふる夜、風の吹(ふく)時などは、ちりて、まとまらず。夏の末より秋にかゝりて、おほく、水上(すいじやう)に生(うま)る蟲にて、あつまりしを遠く見れば、火のごとく、見ゆるものなり。高き木末、堂の軒ばなどにかゝるは、みな此蟲のまとまりたるにて、奇とするに、たらず。沖に舟をかけて、音もせで、をれば、まぢかくもあつまりくるを、少しにても、息、ふきかくれば、たちまち、ちりて、見へず成(なる)。」

と、いふを、此夜、見たりしは、それとはことなり、いづれ、あやしき光なりし。

[やぶちゃん注:この話は、「奥州ばなし」にも、「四倉龍燈 / 龍燈のこと(二篇)」で載る。この発光生物については、そちらの私の注で考証してあるので、参照されたい。また、本格的「龍燈」考証は、私の『南方熊楠「龍燈に就て」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・2.9MB・51頁)』をどうぞ。

只野真葛 むかしばなし (91)

 

[やぶちゃん注:本篇の主人公は既に「88」に出た馴染みの人物。この話、実は私がブログで電子化するのは、実に三度目である。「奥州ばなし 狐つかひ」を見られたい。

一、淸安寺といふ寺の和尙は、「狐つかひ」にて有(あり)し、とぞ。

 橋本正左衞門、ふと、懇意に成(なり)て、折々、夜ばなしに行(ゆき)しに、あるよ、和尙の曰く、

「おなぐさみに、芝居を御目にかくべし。」

といふより、たちまち、座敷、芝居のていとなり、色々の役者ども、いでゝ、はたらき、道具だての仕かけ、鳴物の拍子、少しも正眞の通(とほり)、たがふことなく、おもしろく、居合(ゐあは)せし人々も、感じ入(いり)て有(あり)し、とぞ。

 正左衞門は、不思議をこのむもの故、分(わけ)て、悅(よろこび)、それより、又、ならひたしと思(おもふ)心、いでゝ、しきりに行(ゆき)しを、和尙、さとりて、

「そなたには、飯綱《いづな》の法、ならいたくねがはるゝや。さあらば、まづ、試(こころみ)に三ばん【三度なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。「三晩」ではなく、「三番」であることを真葛は示唆したかったのだろう。]ためし申(まふす)べし。是を、こらゆることのならば、おしへ[やぶちゃん注:ママ。]申さん。」

と、いひし、とぞ。

 正左衞門は、かぎりなく悅(よろこび)、

「いかなることをも、たへ[やぶちゃん注:ママ。]しのぎて、いで、そのいづな習はんものを。」

と、いさみて來りしを、一間に、壱人(ひとり)おきて、

「この攻めにたえかねたる時は、聲を、あげられよ。さすれば、皆、きへうせるなり。」

と、いひきかせて、和尙、入(いり)しあとに、

「つらつら」

と、鼠のいでゝ、膝にあがり、袖に入(いり)、襟(えり)をわたりなどする事、めいわくなりといへども、誠のものにあらずとおもふ故、

『よし。食(くひ)つかれても、きずは、つくまじ。』

と、心をすゑて[やぶちゃん注:ママ。]、こらへし程に、やゝしばらくせめて、いづくともなく無成(なくなり)たり。

 和尙、出合(いであひ)、

「御氣丈なることなり。」

と、あいさつして、

「明晚、しらで。」[やぶちゃん注:『日本庶民生活史料集成』版は『しらて』で右にママ注記を打つ。「奥州ばなし 狐つかひ」では、『「明晚、來られよ。」』で躓かない。しかし誤る前の表現が、まるで推定出来ないのは、狐に騙されたようだ。]

といふ故、またゆきしに、前夜のごとく、壱人、をると、此度(このたび)は、蛇のせめなり。

 いくらともなく、大小の蛇、はひいでゝ、袖に入(いり)、襟(えり)にまとひ、わるくさき事、たへがたかりしを、

『是も誠のものならず。』

と、こらへとほふ[やぶちゃん注:ママ。]して有し、とぞ。

 さて、明晚が過(すぐ)れば、ならふことゝ、心、悅(よろこび)て、翌晚、行(ゆき)しに、壱人有(あり)ても、何も出(いで)こず、やゝまち遠(どほ)におもふ折(をり)しも、こはいかに、早く、わかれし實母の、末期(まつご)に着たりし衣類のまゝ、まなこ、引付(ひつつき)、小鼻、おち、口びる、かわき、ちゞみはてゝ、よわりはてたる顏色・容貌、髮の亂(みだれ)そゝけたるまで、落命の時と、身にしみて、今も、わすれがたきに、少しも、たがわぬさまして、

「ふわふわ」

と、あゆみ出(いで)、たゞ、むかひて、座したるは、鼠・蛇に百倍して、心中のうれい[やぶちゃん注:ママ。]、かなしみ、たとへがたく、すでに、言葉を、かはさんとするてい、身にしみじみと、心わるく、こらへかねて、

「眞平御免被ㇾ下ベし。」

と、聲を上(あげ)しかば、母と見得しは、和尙にて、笑(ゑみ)、座(ざ)して有(あり)し、とぞ。

 それより、ふたゝび、ゆかず成(なり)しとぞ。

 正左衞門、繼母は、上遠野伊豆(かどのいづ)が家より、いでし人なり。此人のはなしに、

「伊豆は、狐をつかひし。」

と、いひしとぞ。八弥も、養子と成(なり)て有し故、伊豆にちかしくして、手離劍[やぶちゃん注:「手裏劍」の当て字。]打(うち)やふ[やぶちゃん注:]なども、ならひたりしなり。

[やぶちゃん注:最終段落の「上遠野伊豆」や「養子」「八弥」、及び、手裏剣(上遠野伊豆が達人であった)のことは、先の「87」で書かれてある。

 なお、「奥州ばなし 狐つかひ」の冒頭注で、私は、『これは恐らく正左衛門の作話で(実録奇譚である本書の性質から、私は真葛の創作とは全く思わない)、その元は、かの唐代伝奇の名作、中唐の文人李復言の撰になる「杜子春傳」であろう。リンク先は私の作成した原文で、「杜子春傳」やぶちゃん版訓読「杜子春傳」やぶちゃん版語註「杜子春傳」やぶちゃん訳、及び、私の芥川龍之介「杜子春」へのリンクも完備させてある。但し、柴田はそれ以外に、『「宇治拾遺物語」にある瀧口道則が、信濃の郡司から異術を習ふ話に似てゐる』とも記す。その「瀧口道則習術事」(瀧口道則(たきぐちのみちのり)、術を習ふ事)も「柴田宵曲 妖異博物館 飯綱の法」の注で電子化しておいたので、比較されたい。実際には、私の電子テクストには、この「飯綱の法」に纏わる怪奇談や民俗学上の言及が十件以上ある。「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始めて聞く飯綱の法」や、「老媼茶話卷之六 飯綱(イヅナ)の法」も読まれたい』と記した。それを変更する気は、全くない。

只野真葛 むかしばなし (90) / 最終巻「六」~始動

 

むかしばなし 六

 

一、此御家中とら岩《いは》道齋《だうさい》といひし外療(ぐわいれう)[やぶちゃん注:外科医。]、大力(だいりき)の大男にて、しごく、元氣ものなりしが、長袖(ちやうしう)[やぶちゃん注:袖ぐくりをして、鎧(よろい)を着る武士に対し、長袖の衣服を着ているところから、「公卿・僧・神官・医師・学者」等を指す語。]のこと故、武藝は、まねば[やぶちゃん注:ママ。]ざりしが、甥の若生(わかおひ)、すぐれたる小男なりしが、時ならず、麻上下(あさがみしも)を着て、見廻(みまわり)し故、

「何のための、禮服ぞ。」

と、とがめしかば、

「今日、劍術の傳授をとりし、歸りがけなり。」

と、こたへしを、

「其方ごとき、非力小兵(こ《ひやう》)にて、劍術は、おぼつかなし。我(われ)、何の手もしらねども、立合(たちあひ)たら、ひしぐに、心、やすからん。」

と、あざわらひて居《をり》たりし、とぞ。

 甥も、傳授をとりし身の、さやうにいわれて[やぶちゃん注:ママ。]、

『立(たち)がたし。』

とや、おもひけん、

「さあらば、立合て、ごらんあれ。私(わたくし)かたより、そなたへは、棒を、あて申まず[やぶちゃん注:ママ。「申(まうす)まじ」。『日本庶民生活史料集成』版も『まじ』となっている。]。私を、一打(ひとうち)、うつて、御覽あれ。」

と、いひしを、

「いざ、おもしろし。」

と、庭に、とびおり、棒をふつて、かゝるに、さすが、傳授を得しほど有(あり)て、「うけ巧者(かうしや)」にて、いかにうてども、身にあたらず、まつかふ[やぶちゃん注:ママ。「まつかう」。額の正面。]みぢんと、打(うち)つくる棒を、隨分、よく、うけとめたれども、うけたるまゝ、かさにかゝつて、おしつけしかば、こらへかねて、ひしげし、とぞ。

 道齋、悅(よろこび)、

「さぞあらんと、おもひし。」

とて、上(あが)りし、とぞ。

只野真葛 むかしばなし (89) / 「むかしばなし」五~了

 

一、たわけなる事も、言(いひ)つのれば、事六ケ(ことむつか)しく成(なる)こと有(あり)。

 御國(みくに)にて、あるねぢけぢゝ[やぶちゃん注:「爺」。]、見世先(みせさき)にmあぐらかきてゐしが、金玉(きんたま)、あらはに見えしを、道行人(みちゆくひと)、みせの物に、直(あたい)を付(つく)る序(ついで)に、

「その金玉も、うり物か。」

と、をどけて[やぶちゃん注:ママ。]聞(きき)しを、

「左樣でござる。」

と答へし故、

「いくらだ。」

と、いへば、

「三兩でござります。」

「三兩、金を出したら、賣(うる)か。」

「隨分、うります。」

と云(いひ)し故、

「おもしろし。」

と、明日(みやうにち)、金三兩、持(もつ)て、

「きのふの金玉、かいにきた。」

と、いひし時、こなたには、死人(しびと)の金玉を切(きり)ておきて、いだしたり。

「是では、ない。」

と、いへば、

「きのふのは、看板で、うられぬ。」

と、いふを、

「それは、ならぬ。」

と、いひつのり、大喧嘩となり、中々、たがひに、きかず、うつたへに成(なり)しぞ。

 まがまがしき事かな。

[やぶちゃん注:巻掉尾に女の真葛が掲げるには、ちと、下ネタに落ち過ぎるが、これこそ、当時の稀なる才媛の作家としての面目とも言えなくもない。]

只野真葛 むかしばなし (88)

 

[やぶちゃん注:以下は前の「87」に、ちらりと出た「八弥」の養父である橋本正左衛門の若き日の話。彼は、『日本庶民生活史料集成』版の中山栄子氏の注に『竜ケ崎の伊達陣屋に勤務した藩士で』、『不思議を好む性のため、狐にばかされた事のある人』とある。同内容の「奥州ばなし めいしん」の本文と私の注を参照されたい。「弥」を正字化しなかったのも、それに準じたものである。

一、「名人」といふ一法あり。出家の災難に逢し時、身を遁(のが)るゝ爲の心がけに行ふ法なり。一世一度の難と思ふ時、實(まこと)に、其身にとりて、一度ならでは、きかぬことの、よし。

 ある和尙、此法をおこなふといふ事を、八弥養父、正左衞門、聞付(ききつけ)て、此人、わかき時は、奇なる事をこのみし故、頻りに習得(ならひえ)たくおもゑて[やぶちゃん注:ママ。]、和尙に親(し)たしくして、常に寢とまりして、其法をならわん事を願(ねがひ)しに、

「今、少し、心、定まらず。」

と、いひて敎(をしへ)ざりし、とぞ。

 其寺に、幼年よりつとめし小性(こしやう)[やぶちゃん注:「小姓」はこうも書いた。]有(あり)しが、是も、しきりに、

「その法を、ならひたし。」

と願しとぞ。

 あまり他事(たじ)なく願(ねがふ)ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、和尙、曰(いふ)は、

「さほど、しんせつに願ふ事、つたへるは、やすけれど、正左衞門も、あの如く習わん[やぶちゃん注:ママ。]と願(ねがふ)を、そこにばかり、をしへたりと聞(きか)ば、うらむべし。必ず、習(ならひ)しとは、他言すべからず。」

とて、傳へたりし、とぞ。

 正左衞門は、例の如く、執心の餘り、夜咄(よばなし)の後(のち)、とまりて有しが、十月末の事なり、音もなく、雪のふりて、よほど、つもりたりしを、誰(たれ)もしらで、寢たりしに、夜中比(ごろ)、

「ばつたり」

と、おほきなる音、したりし故、和尙は勿論、正左衞門も、とびおきて見しに、和尙の肌付衣(はだづきぎぬ)を、晝、洗(あらひ)て、棹に掛(かけ)て、干(ほし)たりしを、宵には、雪の降(ふら)ざりし故、とりも入(いれ)ざりしに、おほく、雪のかゝりたりしを、彼(かの)小性、目(め)も、ろくに醒(さめ)ずに、小用しにおきて、ふと、見つけ、

『大入道の立(たつ)て有(ある)は、是ぞ、一世一度の難ならん。』

と、此程、習ひし法をかけしに、新しき木綿肌着、さけたりし音にて有し、とぞ。

 小性は、面目なくて、たゞ、ひれ伏して、

「眞平御免被ㇾ下。」

と、わび居《ゐ》たり。

 和尙は、大きに立腹して、

「それ見よ。『心、定(さだま)らぬ内(うち)、ゆるしがたし。』と云(いひ)しは、是ぞ。にくき奴め哉《や》。多年、目、掛(かけ)てつかひしも、是切(これきり)ぞ。明朝、早々、立(たち)され。」

と暇(いとま)申渡し、正左衞門に向ひ、

「其許(そこもと)には、只、『愚僧が、法を、をしむ。』とのみ、思はるべし。あれぞ、手本なる。心の定まらぬ人にゆるすと、かくの如くの、けが出來(いでく)る故、ゆるし申さぬなり。必ず、うらみ給ふべからず。是は幼年よりめしつかひし者の、他事なく、ねがふ故、心もとなく思ひながら、ゆるせし事なり。我さへ、是にこりて、ゆるし難し。」

と、いひし、とぞ。

 其小性は、二度(ふたたび)行ひても、しるしなき法をかけて、早々、追い[やぶちゃん注:ママ。]だされしなり。

 正左衞門も、

『實(まこと)に、おそろし。』

と、おもゑし[やぶちゃん注:ママ。]、とぞ。

法といふものは、不思議のものなり。たゞ、となへ事したりばかりにて、棹と、單(ひと)への衣(ころも)、さけたるは、かへすがへす、あやしきこと。」

と、同人(どうにん)、度々、語(かたり)し、とぞ。

只野真葛 むかしばなし (87)

 

一、上遠野伊豆(かどのいづ)といひし人は【祿八百石。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、武藝に達し、分(わけ)て、工夫の手裏劍、奇妙なりし、とぞ。

 針を、二本、人差指の兩わきに、はさみて、なげ出(いだ)すに、其當り、心にしたがはずといふ事、なし。

「元來、此針の劍(けん)の工夫は、敵に出逢(であひ)し時、兩眼を、つぶしてかゝれば、如何なる大敵なりとも、恐るゝにたらずと、思ひつきし事。」

とぞ。

 常に、針を、兩の鬢(びん)に四本ヅヽ八本、隱しさして置(おき)し、とぞ。

 徹山樣、御このみにて、御杉戶の、陰に櫻の下に駒(こま)の立(たち)たるを[やぶちゃん注:老婆心乍ら、これは、杉板の扉に描かれた「絵」である。]、

「四ツ足の爪を、うて。」

と被ㇾ仰付(おほせつけらるる)に、二度に打しがヽ少しも違わずさりし[やぶちゃん注:総てママ。『日本庶民生活史料集成』版では、同じだが、『さりし』の「り」の右に『(し)』と傍注する。]、とぞ。芝御殿、御燒失前は、其跡は、きと[やぶちゃん注:鮮やかにはっきりと。]、有(あり)しとぞ。

[やぶちゃん注:「徹山樣」平助が藩医を務めた仙台藩の第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)のこと。彼の戒名は「叡明院殿徹山玄機大居士」。当該ウィキはこちら。]

 昔、富士のまき狩に、仁田四郞、猪に乘りしとゆふ[やぶちゃん注:ママ。]傳の有(ある)を羨みて、御山(おんやま)おひの度每(たびごと)に、

「猪に、いつも、のりし。」

とぞ。

「手負猪(ておひしし)ならでは、のられず。はしり行(ゆく)猪を追かけては、乘る事、能わず[やぶちゃん注:ママ。]。手負になれば、『人を、すくわん[やぶちゃん注:ママ。]。』と迎ひ來(きたつ)て、少し、ためろふ[やぶちゃん注:ママ。]時、後ろむきに、とびのりて、しり尾に、とり付(つい)て、只、落(おち)ぬ樣にばかりして、しばらく、猪の行まゝに成(なり)て、狂わすれば[やぶちゃん注:ママ。]、いつかは、よわるなり[やぶちゃん注:ママ。]。其時、足場よろしき所を見て、差通(さしとほ)せば、仕留(しとむ)るなり。猪は、肩の骨、廣く、尻ぼそなる物(もの)故、いかなる『ばら藪(やぶ)』をくゞるとても、能(よく)取付(とりつき)て居(を)れば、さはらぬもの。」

と、父樣、委細の事を、御とひ被ㇾ成し時、じきに語(かたり)しを聞(きき)て、御(おん)はなしなり。

 手裏劍を習わん[やぶちゃん注:ママ。]と云(いふ)人あれば、

「我(われ)、元より、人に敎(をしへ)られしにあらず。只、しんしの暇(いとま)にも、心、はなさず、二本の針を、手に付(つけ)て打(うち)しに、年を經て、おのづから、心にしたがふ如く成(なり)しなり。外(ほか)に傳ふべき事、なし。」

と、いひし、とぞ。

[やぶちゃん注:「しんし」「參差」であろう。「一定しない不揃いの時間の」空きの折りであっても、の意で採る。]

 八弥(はちや)は、よしありて、したしくせし程に、若年の比(ころ)、少し、まねびて有(あり)しが、

「いかにも、晝夜、かんだんなくすれば、三十日をへれば、三尺ほど向ふへ、まなばしの如く立(たつ)事を得し。」

とぞ。

「三年、たゆみなくすれば、心にしたがふ。」

といヘど、氣根たへがたくて、學び得し人、なし。

 御本丸のがけは、屛風をたてたる如くにて、數《す》十丈あるを、

「馬にて落(おと)さるゝ、いかに。」[やぶちゃん注:騎馬の状態で下りきることが出来るか?]

と、徹山樣、御たづね被ㇾ遊しに、

「隨分おとし申べし。去(さり)ながら、馬は微塵に成(なる)べし。其故は、下へおちつく、二、三間ほどに成し時、とびおりれば、人は、三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]の所を、とびしに成(なる)故、けが、なし。馬は數十丈を落(おち)し故、粉(こな)になり申(まふす)べし。」

と申上(まふしあげ)しかば、

「無益に馬を殺すべからず。」

とて、やめられし、とぞ。

 此人、實(じつ)は、狐を、つかひし、とぞ。

 さる故(ゆゑ)に、なし難きことも、成る・成らぬといふことを、能(よく)悟りてせし故、けがなかりし、とぞ。さも、有(ある)事ならんかし。

[やぶちゃん注:本篇も「奥州ばなし 上遠野伊豆」に載る。そちらで詳細注を附してあるので参照されたい。]

只野真葛 むかしばなし (86)

 

一、福原縫殿といひし人、忠太夫が弟子にて、是も上手なり。

 縫殿が家來に細工すぐれたる者有しが、おぎ笛をくらせしが[やぶちゃん注:ママ。『日本庶民生活史料集成』版では『つくらせしが』とある。]、奇妙なる笛にて、是をふけば、化物までも、より來りしとぞ。

 或時、縫殿、

「猪を待(まつ)。」

とて、山に宿りて居(をり)しに、夜明がたに、とやの戸口に、妻女の、寢卷のまゝにて、立ゐたりしが、いかに見ても人に違(たがひ)なし。去(さり)ながら、

『女などの、只、壱人(ひとり)、しかも、寢卷のまゝにて來(きた)るべきやう、なし。變化《へんげ》の物に違(ちが)ひなし。』

と、おもゑ[やぶちゃん注:ママ。]すまして、鐵砲にて打止(うちとめ)たりしが、いつまで見ても、妻の形なりしかば、壱人、里に歸りて見しに、妻は、かはる事なくて出迎(でむかへ)し、とぞ。

 さすが、顏色の惡(あし)かりし故、【ぬひが顏色のわるきなり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

「病にや。」

と尋(たづね)しとぞ。

 何事も語らず、家來を呼(よび)て、

「今朝(けさ)、あやしき物を打(うち)とめたり。いそぎ、行(ゆき)て、見て參れ。」

と云付(いひつけ)やりしとぞ。

「行て見たれば、古むじなの打(うた)れて有(あり)し。」

とて、持(も)て來たりしを見て、始めて、事を、かたりし、とぞ。

 又、或時、獵に出(いで)しに、十匁(じふもんめ)の玉を二ツ玉に籠(こめ)て待居《まちをり》し時、七間ばかり向《むかふ》へ、大うわばみ[やぶちゃん注:ママ。]、口を明(あけ)て一吞にせんとしたりし時、其鐵砲にて、口中(くちなか)を打(うち)しかば、何かはもつてたまるべき、谷底へ轉び落(おち)しとぞ。去(さり)ながら、空、曇り、大風、起(おこり)て、山鳴(やまなり)・震動(しんどう)夥しく、おそろしかりし事なりし、とぞ。

 うわばみは、三日、谷中(たになか)に、くるひて、死(しし)たり。

 長、十三間、有(あり)し、とぞ。

 後のかたり草にとて、背の骨を、一車(くるま)、とりて、庭に置(おき)しが、わたり七寸ばかりありし、とぞ。

 是、皆、おぎ笛によりて、來りしとなり。

 それより、「ひめどう」と名付(なづけ)て、祕藏せられし、とぞ。

 然るを、忠太夫、其笛二有し内一をもらいて[やぶちゃん注:ママ。]、寶物(はうもつ)として置(おき)しを、病死の時、

「養子覺左衞門に、讓る。」

とて、

「此笛は、しかじかの事、有(あり)て、吹(ふけ)ば、化物の、よりくる笛なり。必ず、用(もちふ)べからず。」

と、いひし、とぞ【後、覺左衞門ふきし時も、あやしき毛物、より來りし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

[やぶちゃん注:この話、実は、「柴田宵曲 妖異博物館 化物の寄る笛」の私の注で、全文を電子化している(但し、読みを附していない底本のベタ版である)ので、見られたい。注もしてある。【追記】この最後の記事は、後の「95」によって、ある種の殺人隠蔽の疑いがある。]

只野真葛 むかしばなし (85) 馬鹿力の面々

 

一、徹山樣御代に、勝れたる力持(ちからもち)といはれし人、多き中に、砂金三十郞は、男振(をとこぶり)よく、大力にて、度々、江戸詰をせしが、智惠、うすく、みづから、力に、ほこり、大徒人(おほかちびと)なり。酒に醉(ゑひ)て歸る時は、辻番所を引(ひき)かへすが癖なり。寺のつき鐘を、はづして、困せたる事も有し、とぞ。

[やぶちゃん注:「徹山樣」平助が藩医を務めた仙台藩の第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)のこと。彼の戒名は「叡明院殿徹山玄機大居士」。当該ウィキはこちら

「砂金三十郞」以下の話は「奥州ばなし」にも「砂三十郞」として、だいたい同内容の話が載るが、そちらでは「砂三十郞」(いさごさんじふらう)である。「金」は衍字のようにも思われるが、『日本庶民生活史料集成』でも『砂金』である。]

 いづくにや、

「細橫町に、化物、出(いづ)る。」

と云(いふ)評判なりしに、三十郞、

「行(ゆき)て、試見(こころみ)ん。」

とて、ゆきしが、餘り歸りおそき故、ある人、ゆきて、見たれば、塀《へい》かさの上に、またがりて居(をり)しとぞ。

「何故、そこには登りし。」

と、聲かけしかば、

「いや、此馬の口のこわさ、中々、自由、きかぬ。」

と、いひて有(あり)し、とぞ。

 いつか、ばかされたりしを、笑(わらは)られて、心付(こころづく)と、なり。

[やぶちゃん注:「細橫町に、化物、出(いづ)る。」『日本庶民生活史料集成』の中山栄子氏の注に、『仙台細横町とて』、『今も名が残っているが』、『昔』、『化物が出たという伝えがある』とあった。位置は、「あきあかね」氏のブログ「from仙台」の「細横丁の不思議(3)」が歴史的に追跡されて、地図も豊富であるので、是非、読まれたい。因みに「(1)」と、「(2)」もリンクしておく。なお、同氏のブログには『「化物横丁」の話』もあるが、そこは別な場所である。]

 其比、淸水左覺と云(いひ)し人も、大男にて、大力なりしが、おとなしき人なりし。

 されど、三十郞と、常に力を爭(あらそひ)て、たのしみとせし、とぞ。

 左覺、三十郞に向ひ、

「その方、力自慢せらるゝが、尻の力は、我に、まさらじ。先(まづ)、試(こころみ)られよ。」

とて、尻のわれめに、小石を、はさみ、三十郞に拔(ぬか)せしに、ぬき兼(かね)て有し、とぞ。

 左覺は、我(わが)思ふ所ヘ、一身の力をあつむる事、得手(えて)なりし。

 三十郞は、色々、惡じきをせしとぞ。何にても、食(くひ)たる物を吐(はか)んと思ひば[やぶちゃん注:ママ。]、心に隨(したがひ)て、はかれし、とぞ。昨日、くひたるこんにやくの刺身を、味噌と、こんにやくと、別々に、はきて、みせし、とぞ。

 或時、

「うなぎを、生(いき)ながら、食(くは)ん。」

とて、口中へ入(いれ)しに、手をくゞりて、一さんに腹中に入(いり)たりし。

 其(その)くるしき事、鎗にて、つかるゝ思ひ。さすがの我張(がはり)も、大きに、こまり、座中に有合(ありあふ)烟草盆のはいふきを、二ッすゝりしが、死(しな)ず、鹽一升なめてみても、死ず、濁酒(にごりざけ)を二升のみしかば、是にて、うなぎも、しづまりし、とぞ。

 さりながら、此あくじきにて、四、五日、腹を、わづらいし[やぶちゃん注:ママ。]、となり。

 左覺、

『又、三十郞を、なぶらん。』

と思(おもひ)て、

「貴樣、いろいろの惡じきをせらるゝが、犬の糞を、くふ氣は、ないか。」

 三十郞、

「いや。是は、くわれぬ。」

 左覺、

「それなら、おれが、食(くふ)てみせやふ[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、連立(つれだつ)て出(いで)、うす月夜(づきよ)の事なりしが、兼(かね)て、「むぎこがし」を、ねりて、きれいな石へ、糞の如く、つきかけて置(おき)しを、

「むさ」

と、つかみて、くひしかば、三十郞、大あやまりにて有(あり)し、とぞ。

 三十郞、娘、兩人有(あり)しが、いづれも大力にてありし。姊娘七ッばかりの比(ころ)、

「大根の香の物、漬(つけ)るに、おもはしき『おし石』、なし。」

とて、人の尋ぬるを見て、壱人(ひとり)、河原へはしり行(ゆき)て、よほど大きな石を持(もち)て來(きた)り、

「此石が、よかろふ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と云(いふ)を見て、何(いづれ)も膽(きも)を潰し、

「そんな大きな石を、子共は、持(もた)ぬもの。」

と、しかりしかば、ほめられんとおもひし心、たがひて、いそぎ、手をはなせし時、足の指の上におとして、二本、ひしげて、なくし、一生、かたわと成(なり)し、とぞ。

 其石を、かたづけるに、男二人にて、やうやう、持(もち)し、とぞ。

 外へ緣付(えんづけ)ても、力をば、隱して出(だ)さゞりしが、ある年の暮、年始酒を大桶に作(つく)て置(おき)しが、置所(おきどころ)のあしかりしを、置なほすには、外(ほか)へとり分(わけ)て、外(ほか)は動し難かりしを、兎角、人の噪(さはぐ)を、

「先(まづ)、まて。おれが、其まゝにて、置(おき)かへん。」

とて、やうやう、手の廻る程の桶に、酒の入(いり)たるを、輕々と外(ほか)の所へ持行(もちゆき)て、すゑたりし、とぞ。

「其外に、力わざせし事を見し事、なし。」

と、なん。

 次の娘は、幼少より江戶の奧に勤め、後(のち)、芳賀皆人(はがみなひと)妻に被ㇾ下て有(あり)し。是も、力有(ある)事を、誰もしらざりしが、勤中、御風入(おんかざいれ)有しに、俄(にはか)に夕立せし時、長持を、かた手打(てうち)に、

「ばらばら」

と御座敷へ、なげ入(いれ)し故、

「力持。」

と、人は、しりたり。

 父三十郞、江戶づめ中(ちゆう)、新橋の酒屋へ入(いり)て、酒をのみ居《ゐ》たりし内、はき物を、取られたり。

『歸らん。』

と思ひて、見るに、なし。

 亭主を呼(よび)て、

「おれがはき物が、なくなりしが、なぜ、始末をせぬ。」

と、いへば、

「おはき物の事は、私どもは、ぞんじませぬ。」

と云(いふ)を、ほろ醉(ゑひ)きげんのあばれ草(ぐさ)に、大きに怒り、

「此店に有(ある)うちは『且那』なり。「『だんな』のはき物しらぬ。」と、いはゞ、よし。其過代(あやまちだい)に、酒代は、はらはじ。」

と、いへば、

「それは、ちか比、御(ご)むりなり。」

と、いふ時、

「さあらば、吐(はき)て、かへすぞ。」

といひしま[やぶちゃん注:ママ。『日本庶民生活史料集成』版では]『といひさま』。「と言ひ樣」で躓かない。]、彼(かの)得手物(えてもの)の「わけ吐(はき)」に、酒は、ちろりへ、さしみは、皿へ、味噌は猪口(ちよこ)へと、其(その)入(いり)たりし、うつわ、うつわへ、吐(はき)ちらすを見て、

『あばれ者。』

と思ひ、さやうの時、取沈(とりしづめ)る爲(ため)、兼(かね)て賴みのわかい者、五六人、連來(つれきた)り、かゝらせしに、片手に攫(つか)みて、ひとつぶてに、なげのけ、なげのけ、御上屋敷(おんかみやしき)へ戾る道筋、

「やれ、あばれ者、あばれ者。」

と聲かくる故、何かはしらず、棒を持(もつ)て、人が、でれば、取返して、なぐり、梯子(はしご)をもつて、出(で)れば、それを取(とつ)て、先(さき)をなぐり、木戶を打(うて)ば、押破(おしやぶ)り、平地(ひらち)の如く、大わらはに成(なり)、白晝に、はだしにて、御門へ入りしかば、早々、仙臺へ下(くだ)され、其後(そののち)、のぼらず。あばれながらも、氣味よき事なりし。

一、覺左衞門養父、澤口忠太夫と云(いひ)し人も、勝(すぐれ)たる「氣丈もの」なりし。十の年[やぶちゃん注:本書の執筆年代以前で元号が「十」の「亥」年というのは、見当たらない。真葛の誤記であろう。]、かの細橫丁の化物を、しきりにゆかしがりて、

『いつぞ、行(ゆき)て、ためさん。』

と願(ねがひ)て有しが、冬の夜、やゝ更けて、外より歸るに、雪後、うす月の影すこしみゆるに、其橫丁を見通す所に至り、連(つれ)も、三、四人ありしを、つれの人にむかい[やぶちゃん注:ママ。]、

「扨。私も多[やぶちゃん注:当て字。底本では『(他)』と補っている。]、日比(ひごろ)、」『細橫町の、化物、出る。』といふを、行てためし見たく思(おもひ)しが、今夜、願(ねがひ)に叶ひし夜なり。何卒、一人(ひとり)行て見たし。失禮ながら、皆樣は、是より御歸り被ㇾ下ベし。打連行(うちつれゆけ)ば、化物も、おそるべし。」

と、云しとぞ。

 望(のぞみ)にまかせて、壱人、やりしが、連の人もゆかしければ、其所(そこ)をさらで、忠太夫が後ろ姿を守り居《をり》し、とぞ。

『中比《なかごろ》にも行きらん。』

と、おもふに、下に居(ゐ)て、少し、隙(ひま)どり、又、あゆみしが、又、下にゐて、何か隙どり、二、三間も行(ゆき)しとおもふと、又、下に居しが、月影に、

「ひらり」

と、刀の光、見えたり。

「たしかに、刀を拔しに、たがはず。いざ、行て、容子を問(とは)ん。」

と、足を、はやめて、何(いづ)れも來りし、とぞ。

「いかゞ仕(つかまつ)たる。」

と故(ゆゑ)をといば、

「扨、今夜のやうな、けちな目に逢(あひ)し事、なし。今朝(けさ)、おろしたる、がんぢき【「がんぢき」は、はき物の名なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]の尾[やぶちゃん注:当て字。「緖」。]が、かたしづゝ、二度にきれしを、やうやう繕ひてはきしに、爰にて兩方一度に、又、きれし故、つくろわん[やぶちゃん注:ママ。]と思ひてゐし内、肩に掛りて、おすもの、有(あり)しを、引(ひき)はづして、なげ切(ぎり)にしたりしが、そこの土橋の下へ入(いり)し、と、見たり。尋ねて吳(く)れ。」

と、いひし故、人々、行て見たれば、小犬ほどの大猫(おほねこ)の、腹より咽(のんど)まで切れて有しが、息はたえざりしを、引出(ひきいだ)したり。

 忠太夫、かしらを、おさへて、

「誰ぞ、とゞめを、さしてくれ。」

と云しを、うろたへて、忠太夫が手を、したゝか、さしたり、とぞ。

 其(その)さゝれたる跡は、後(のち)までも有し、とぞ。

 取返して、忠太夫、とゞめ、さしたり。

 薦(こも)にくるみて、持歸りしが、首と尾は、垂(たれ)て出(で)たりし、とぞ。

 忠太夫は、鐵砲の上手なりし【猫の、勝(すぐれ)て大きなるは、いづくにて聞し咄しも、敷物などにくるめば、首と尾の後(うしろ)、先より出るほどか、狐か、ときこえたり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

[やぶちゃん注:以上の話も「奥州ばなし 澤口忠大夫」に出ている。]

只野真葛 むかしばなし (84)

 

一、松平越中守樣、御補佐仰蒙らせられし時、父樣、鳥渡《ちよつと》はなしを御作(おつくり)被ㇾ成し。

 九鬼樣と白河樣は、御手廻りも、御箱の御紋も、大かた似たる事にて、ふと、人の見まがふやうなりしを、御補佐被仰付御下(おささが)りがけ、俄事(にわかごと)にて見付(みつけ)の者、うろつき、下座をするや、せぬやしれぬ故、聲かけて、

「九鬼か。」

「イヽヤ松平越中守だアほさ。」

[やぶちゃん注:「松平越中守樣」「白河樣」松平定信。

「九鬼樣」摂津三田藩第九代藩主で九鬼氏第二十一代当主九鬼隆張(たかはる 延享四(一七四七)年~文政四(一八二一)年)か。

九鬼氏の家紋は「七曜」(しちよう)で、松平定信のそれは「星梅鉢」(ほしうめばち)で、似ている(リンク先はサイト「家紋のいろは」のそれら)。]

只野真葛 むかしばなし (83)

 

[やぶちゃん注:本篇は前の「81」「82」の続きのコーダである。]

 此殿、御一生、世を嘲弄被ㇾ遊て、御たのしみにのみ、過(すご)させ給ひし。御隱居後、

「人の墓所(《はか》しよ)は、いくら、結構をつくされても、見ぬ事にて、おもしろからず。」

とて、御存生中(ごぞんしやうちゆう)に、穴の中の石だゝみ・御石碑まで御好(おすき)にて御しつらひ、御㚑屋《みたまや》[やぶちゃん注:「㚑」は「靈」の異体字。]の中の戶扉に十六羅漢の高彫(たかぼり)あり。下繪は狩野榮川(かのうえいせん)に被仰付しに、書(かき)て奉らぬうちは、日々、御本(ごほん)供(とも)にて、御自身、せつき[やぶちゃん注:「節季」。]にいらせられし故、迷惑がりて、忽(たちまち)、認(したた)め、差上し、とぞ。

 御墓所(おんぼしよ)、出來《でき》しより、年每の花盛(はなざかり)には、其穴の中へ被ㇾ爲ㇾ入(いらせられ)て、御覽被ㇾ遊、後(うしろ)の、ぬけ道を、かまへて、御殿山にて、賑々(にぎにぎ)しく御酒盛被ㇾ遊し、とぞ【御酒(ごしゆ)も、おほくは、めし上らず、人に飮せて、たのしませられし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

[やぶちゃん注:「狩野榮川」狩野典信(みちのぶ 享保一五(一七三〇)年~寛政二(一七九〇)年)。江戸中期の竹川町家、後に木挽町家狩野派第六代目の絵師。詳しい事績は当該ウィキを見られたい。

「御本供にて」よく判らないが、「この秋本殿が手本として、かの絵師から渡されていた下絵をともに持って」の意か。]

只野真葛 むかしばなし (82)

 

○又、或町醫、御出入を望(のぞみ)し人ありしが、度々、御長屋まで來りて願(ねがひ)しを、御取上もなきやいなや、たえて御沙汰もなかりし、とぞ。

 ある日、夕方より、嵐して、風、强く、雨ふる夜、出羽樣より、

「急病用。」

とて、四枚がたの駕(かご)、迎(むかへに來りしかば、願所(ねがふところ)と悅(よろこび)て、取物も、とりあいず[やぶちゃん注:ママ。]、いそぎ、駕に乘りて出(いで)しに、どこへ行(ゆく)ことか、やたらに、かつぎ行く。

 果《はて》、

『もふ[やぶちゃん注:ママ。]、行付(ゆきつき)そふ[やぶちゃん注:ママ。]なもの。』

と思ふと、坂を登り、山の上から、かごを、下へ、おろしたり。

 何かは、しらず、

『合點、ゆかず。』

と思ひ居《を》ると、寂しい道中にて、駕をおろして、手廻共、

「そこへ、でろ、でろ。」

と聲々に呼立(よびたて)る。

 中に、ふるへてゐるを、手を取(とり)て引出(ひきいだ)し、衣類、殘らず、はぎ取(とり)、藥箱とも、駕に入て、一さんに、かつぎ行(ゆく)。

 醫師は、松の木へ、しばり付られて、まぢまぢしてゐると、雨もやみて、おぽろに月も出(いで)たり。

 むかふより、灯燈(ちやうちん)の火、みゆる。

「やれ、うれしや。」

と待間(まつま)ほどなく、前を過行(すぎゆ)けば、

「モシモシ。」

と、聲、かけ、

「かやうかやうの難に逢候間、何卒お慈悲にお助被ㇾ下。」

と、淚ながら語れば、

「やれやれ、それは、さぞ、御難儀ならん。しかし、身に怪我なくて仕合(しあはせ)なり。」

とて、繩を解(とき)、

「是より、此道を、すぐにゆけば、あかりが見えべし。其所(そこ)の主(あるじ)は慈悲ふかき人故、行(ゆき)て賴まれよ。」

と、をしへて、行過(ゆきすぎ)たり。

「有難し。」

と、一禮、のべ、敎(をしへ)の如く行てみれば、すかし垣(がき)に、しおり戸有(あり)て、風雅のすまゐと見えたり。

 立よりて、あなひ[やぶちゃん注:ママ。]を、こひ、ありし事共を語れば、

「それは、さてさて、あぶなき事。幸(さいはひ)、ふろの立(たて)てあれば、先(まづ)、いられよ。」

とて、すぐに、湯殿へ伴なへ[やぶちゃん注:ママ。]行(ゆく)。

 其湯どのの結構、申(まふす)ばかりなし。

 竿(さほ)に懸(かけ)たるゆとりをきて、出)いで)んとする時、

「是にても、召されよ。」

と、何か一重(ひとがさ)ねの衣類を取いでゝ、着せる。

「かさねがさねの御情(おなさけ)、いつの世にか忘るベき。」

と、禮を述(のぶ)れば、

「是を御緣に、御心やすく御出入被ㇾ下たし。承れば、御醫師の由。幸、娘、少々、病氣なれば、容子御覽被ㇾ下よ。」

と賴み、

「まづ、御空腹ならん。」

と奇麗の茶漬めしを出(いだ)し、其後(そののち)、娘らしき女、出て、容子(ようす)みてもらひ、

「お藥箱有合(ありあはせ)の品、是にても御用被ㇾ下。」

と出せしは、先に取(とら)れし我(わが)藥箱故、心付(こころづき)、衣類を見るに、それも、はぎ取れしに違(たがひ)なし。ふしぎ晴(はれ)ねど、粗忽(そこつ)にも、とわれず多[やぶちゃん注:ママ。]、ためろふ[やぶちゃん注:ママ。]内、しづしづと、人を拂ふ音して、

「殿樣の御入成(おいりなり)。」

と、ひしめき、すらすらと、あゆみいでゝ、座に着せられしを見れば、繩をといてくれし飛脚ていのものと、おもえし人なり。

 是、御目通(おめどほり)のはじめなりし、とぞ。

 ちらもなく、廻り道をして、御庭口より通りて、御やしきへ入(いり)しを知らざりしなり。

 枝折戶(しをりど)の家は、御茶屋にて有(あり)し、とぞ。

 此咄しは、江戶中、ぱつと、評判にて、芝居・草ぞうし・讀本類に迄(まで)いでゝ、人のはなしも百色(ももいろ)ばかりなれば、いづれ、實說といふ事、たしかにしり難し。其ひとつをとりて、しるす。

[やぶちゃん注:この事件の張本人は、前の「81」で奇体な茶席をやらかした『秋本樣』で、恐らく、出羽山形藩第二代藩主で館林藩秋元家第八代の秋元永朝(つねとも)かと思われる。]

只野真葛 むかしばなし (81) 徹頭徹尾奇体な茶席

 

 秋本樣は、多年、御懇意にて有(あり)しが、

「茶の湯は、むつかしきもの。」

とて、好ませられざりしを、少し御嘲弄の心や有けん、無理に御勸め、茶の御ふる舞、有し。

[やぶちゃん注:「(45)」に出た出羽山形藩第二代藩主で館林藩秋元家第八代の秋元永朝(つねとも)のことか。]

 御正客介添(ごしやうきやくかひぞへ)、公儀御茶道一人、御脇は父樣、善助おぢ樣、誹諧師の柏塘(はくたう)御詰なりしとぞ。

[やぶちゃん注:「御正客介添」茶会での城跡の客に付き添って世話をする役の人を指す。]

 御客、被ㇾ爲ㇾ入(いれなさられる)と、駒次郞【駒次郞樣は出羽樣の御末子、一生むそくにて、をはらせられし人なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、御先立にてしばらく御いで、箱の樣なる大廊下へかゝり、早足に御あゆみ被ㇾ成しが、ふと、姿を見失ふと、跡も先も、戸口

「ぴん、ぴん。」

と、錠(かぎ)のおりる音して、一向、行(ゆく)端(はな)なし。

「是は、是は、」

と、其廊下に、しばらく、まごつきて有しが、やゝありて、何方(いづかた)よりか、駒樣、御いで有(あり)、

「こなたへ。」

と被ㇾ仰るを、

「それ、此度(このたび)は見失ふな。」

と、帶にすがらぬばかりにして、從ひ行(ゆく)に、圍(まはり)と云(いふ)は、極(ごく)下人の番部屋と見えて、疊ばかり新しく、柱・天上の煤けた事、幾年へたりとも、しられず。

 生花(いけばな)には、六月の大柳、柱ほどのふとさの木を、橫だをし[やぶちゃん注:ママ。]にしたる物にて、座中、一ぱいにひろがり、

「蟲など、落(おち)やせん。」

と、むさ苦しき事、いわんかたなし。

 御亭主は、はだか身へ、其比(そのころ)、中村のしほが、舞臺へ着て出(いで)し袖なし羽織に、袴を、めされ、紫ぼうしを、おきて、のしほが聲色(こはいろ)なり。【路考、早く死せし後、のしほを、かはりに召(めさ)れし。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]

[やぶちゃん注:「中村のしほ」歌舞伎役者の名跡中村野塩。屋号は天王寺屋。恐らくは、二代目中村野塩(宝暦九(一七五九)年~寛政一二(一八〇〇)年)で、二代目生島十四郎の門弟、初代中村富十郎の娘婿で養子。

「路考」「80」に出た二代目瀬川菊之丞の俳号。彼は三十四歳で亡くなっている。]

 焚物(たきもの)には、薰陸(くんろく)・硫黃を夥(おびただし)くくべて、こまらせ、茶釜へは、きのふあたりから、煮つめておきしと覺しき番茶を入(いれ)て、眞黑にせんじ、大兜鉢(おほかぶとばち)に、一ぱい、汲(くみ)て出(いだ)されしは、一口も吞(のま)れず。

[やぶちゃん注:「薰陸」二種あるが、ここは「出羽」から、松・杉の樹脂が地中に埋もれ固まって生じた化石で、琥珀に似るが、琥珀酸を含まない。粉末にして薫香とする。岩手県久慈市に産するそれであろう。]

 御料理も、大方、わすれたれど、「菓子わん小塚原」とて、かまぼこにて、人の腕を少さく拵(こしら)ひたる、すましなり。

 猪口(ちよく)に、なますが、てうど、灰吹(はひふき)の形したるうつわへ、ひどり昆布を、ふきがらの如く、まろめて、此わたにてあへたるが、味はよくて、むさくろし[やぶちゃん注:ママ。]。

 給仕人は「ヲランダ」と「黑ぼう」なり。瘦(やせ)て背の高き人を「かびたん」に拵(こしら)ひ、八ツばかりなる兒を、墨にて眞黑に塗(ぬり)て、まるはだか、ちんぼう、だして、立(たち)ながら、正客の前へ行(ゆき)、

「汁を、かへろ。」

と、早言にいふ、にくさ、限(かぎり)なし。

[やぶちゃん注:「灰吹」煙草の吸殻を吹き落としたり、叩き入れたりする筒。多くは竹を節を底にして上を伐った円筒形で煙草盆に附属してある。

「ひどり昆布」「日取り昆布」で天日干しのコンブのことであろう。

「ふきがら」「吹き殼」で煙草の吸殻。

「此わた」「海鼠腸」(このわた)。ナマコの腸で作る塩辛。古代より能登の名産として知られた珍味。]

 腹あしきながら、膳、をはりて、待合へ行(ゆく)所、是も、變なる古藏(ふるぐら)の、きたなき所なり。中へいれて、外より

「ぴん。」

と、錠をおろす音。

「なむさんぽう。」

と、皆、顏見合はせて居ると、腰掛に烟草盆はあれども、火は、炭を丹(に)にて塗(ぬり)たる拵ひ物、「きせる」は、節をぬかぬ、長(なが)らうにて、つんぼのごとし。

[やぶちゃん注:「長らう」長い羅宇(らう)。「らう」は煙管(きせる)の火皿と吸口の間を繋ぐ竹の管(くだ)で、インドシナ半島のラオス産の黒斑竹を用いたのが、この名の起こりという。江戸時代に喫煙が流行するとともに、三都などで、「らう」のすげかえを行う「羅宇屋」が生まれた。]

 小便所ばかり、[やぶちゃん注:以下は底本よりOCRで読み込み、トリミング補正した。]

Syoubensuruna

の形を上に書(かき)たる札、たてゝ、

「此所 小便可ㇾ被ㇾ成候」

と書付あり。

 暮(くれ)かゝれば、蚊の多き事、ふりかゝるが如し。

 正客は、はじめから、殊の外、御迷惑のてい。中にも、此待合、あく藏(ぐら)にて、誰もケ樣の所に入(いる)事、なし。茶道(ちやだう)こそめいわく、正客にいく度も、

「是が、茶の湯に有事(あること)か、有事か。」

と、いわれ、

「いや。かつて、ござりませぬ事。」

といふ。

[やぶちゃん注:「あく藏」長く使用していない空き蔵のことであろう。]

 御答も、百度、千度、いゝつくし、せんかた、つくれば、正客はくよくよと、

「おれも十萬石の家に生れ、夏は『かやりよ、蚊拂(かばらひ)よ。』と、分相應に不自由なるめも見ざりしを、かやうの責(せめ)に逢(あふ)事は、何のむくひ・たゝりならん。」

と、淚ぐみての、よまい事、只、

「御尤(ごもつとも)。」

と申(まふす)より、外に事なし。

 其近き塀(へい)、ひとへ内の座敷にては、おもしろそふに[やぶちゃん注:ママ。]酒盛の音、三味線、取々、けん酒(しゆ)なり。咽草が吞(のみ)たくてならぬ、同腹《どうぶく》らへ、色々のたばこの榮耀《えよう[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「ええう」が正しい。]》ばなししながら吞逢(のみあふ)てい。

 何も、愁歎する外(ほか)なし。

「是は、手を打(うつ)がよかろふ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と、人々、手を打(うて)ども、一向、しらぬ顏なり。

 やうやう、人の來る音して、藏の戶を開き、駒次郞樣、御いで、

「今日は、色々、不禮・御氣つめ・御大屈、申上べき樣(やう)なし。さあ、さあ、こなたへ。」

とて、好(よき)御座敷へ、いれ、燭臺、あまた、ともし、女藝者三人、其外、色々、御もてなし有(あり)、終日の恨(うらみ)、はるゝばかりの御饗應なりし、とぞ。

 いづれも、やうやう生(いき)たる心(ここち)して、快よく食(くひ)て、明がた近く、御立成(おたちなり)し、とぞ。

 此時の難義、御正客は、勿論の事、父樣・おぢ樣・茶道・はいかい師に至るまで、一生におぼえぬことなりし、とぞ。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫と老媼」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猫と老媼【ねことおうな】 〔北国奇談巡杖記巻三〕同国<越後>弥彦<新潟県西蒲原郡弥彦村>のやしろの末社に、猫多羅天女(めうたらてんによ)の禿(ほこら)とてあり。このはじめを尋ぬるに、佐渡国雑太《さはた》郡小沢といへる所に、一人の老婆ありけるが、折ふし夏の夕つかた、上の山に登りて涼み居けるに、ひとつの老猫きたりて、ともに遊びけるが、砂上に臥しまろびて、さまぐと怪しき戯れをなせり。老婆も浮かれて、かの猫の戯れにひとしく、砂上に臥転《ふしまろ》びてこれを学びしに、何とやらん総身涼しく、快よきほどに、また翌晩もいでてこの業《わざ》をなしてけるに、また化猫来りて狂ひ、ともにたはむれつつ、斯のごとく数日《すじつ》におよぶに、おのづから総身軽く、飛行自在《ひぎやうじざい》になりて化通《けつう》を得て、天に洄溯し地をはしり、倐(たちま)ちに隅目(ますみだ)ち、頇(はげかしら)[やぶちゃん注:底本では「頇」が、(つくり)が「チ」のようになっているが、後に示す活字本に従った。]となり、毛を生じ、形勢すさまじく、見る人肝を消して噩(おどろ)くに絶えたり。かくて終に発屋(いへをはばき)て虚空にさる。岌面(まのあたり)鳴雷して山河も崩るゝごとく、越後の弥彦山にとゞまり、数日《すじつ》霊威をふるひ、雨を降らしぬ。里人時に丁(あた)つて難渋するにより、これを鎮めて猫多羅天女と崇《あが》む。これよりとしごとに一度づつ佐州に渡るに、この日極めて雷鳴し、国中を脅かすこと情つたなき還迹(ありさま)なり。

[やぶちゃん注:「北国奇談巡杖記」加賀の俳人鳥翠台北茎(ちょうすいだい ほっけい)著になる越前から越後を対象とした紀行見聞集。かの伴蒿蹊が序と校閲も担当しており、文化三(一八〇六)年十一月の書肆の跋がある(刊行は翌年)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第九巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字活字で読める。『卷之二』の『越後國之部』の内。標題は『猫多羅天女』。この一篇、異様に奇体な熟語と読みが多い。

「弥彦」「新潟県西蒲原郡弥彦村」「のやしろの末社に、猫多羅天女(めうたらてんによ)の禿(ほこら)とてあり」現在は「彌彦神社」(現在の「彌彦」は「やひこ」であるが、古くは「いやひこ」と読んでいたので、ここもその読みである可能性がある)の北東直近にある真言宗紫雲山龍池寺宝光院の阿弥陀堂に、この「妙多羅天女像」は安置されている。弥彦観光協会・弥彦観光案内所のサイト「やひ恋」の「弥彦の昔話」の「妙多羅天女と婆々杉」によれば、

   《引用開始》

妙多羅天女は彌彦神社鍛匠(たんしょう)―鍛冶職の家柄―であった黒津弥三郎の祖母(一説に母)でした。黒津家は彌彦の大神の来臨に随従して、紀州熊野からこの地に移り、代々鍛匠として神社に奉仕した古い家柄でした。

 白河院の御代、承暦3年(1079)彌彦神社造営の際、上棟式奉仕の日取りの前後について鍛匠と工匠(大工棟梁家)との争いとなり、結局、弥彦庄司吉川宗方の裁きで、工匠は第1日、鍛匠は第2日に奉仕すべしと決定されました。

 これを知った祖母は無念やるかたなく、怨みの念が高じて悪鬼に化け、庄司吉川宗方や工匠にたたり、さらに方々を飛び歩いて悪行を重ねました。

 ついには弥三郎の狩りの帰路を待ちうけ、獲物を奪おうとして右腕を切り落とされました。さらに、家へ戻って弥三郎の5歳ばかりになった長男弥次郎をさらって逃げようとしたところを弥三郎に見つけられ失敗しました。家から姿を消した祖母は、ものすごい鬼の姿となり、雲を呼び風を起こして天高く飛び去ってしまいました。

 それより後は、佐渡の金北山・蒲原の古津・加賀の白山・越中の立山・信州の浅間山と諸国を自由に飛行して、悪行の限りを尽くし、「弥彦の鬼婆」と恐れられました。

 それから80年の歳月を経た保元元年(1156)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が、ある日、山のふもとの大杉の根方に横になっている一人の老婆を見つけ、その異様な形態にただならぬ怪しさを感じて話したところ、これぞ弥三郎の祖母であることがわかりました。

 驚いた典海大僧正は、老婆に説教し、本来の善心に立ち返らせるべく秘密の印璽を授けられ、「妙多羅天女」の称号をいただきました。

 高僧のありがたいお説教に目覚めた老婆は、

 「今からは神仏の道を護る天女となり、これより後は世の悪人を戒め、善人を守り、とりわけ幼い子らを守り育てることに力を尽くす。」

 と大誓願を立て、神通力を発揮して誓願のために働きだしました。

 その後は、この大杉の根元に居を定め、悪人と称された人が死ぬと、死体や衣類を奪って弥彦の大杉の枝にかけて世人のみせしめにしたといわれ、後にこの大杉を人々は「婆々杉」と呼ぶようになったといいます。

 婆々杉は宝光院の裏山のふもとにあって、樹齢一千年を数えるといい、昭和27年、県の天然記念物に指定されました。

 弥彦山の頂上近く、婆の仮住居の跡といわれる婆々欅(ばばけやき)、世を去った土地といわれる宮多羅(みやたら)の地名もあります。この欅は農民が雨乞い祈願に弥彦山へ登山するとき、必ず鉈目を入れたといわれている大欅です。

   《引用終了》

とある。私には既に、二〇一七年に公開した「北越奇談 巻之六 人物 其二(酒呑童子・鬼女「ヤサブロウバサ」)」があるが、そこでも紹介した、高橋郁子氏の「ヤサブロバサをめぐる一考察」という優れたページが存在する。是非、読まれたい。サイト「福娘童話集」の「鬼女になった、弥三郎の母」は、この妖怪が佐渡にまで渡った話となっており、やはり読まれんことをお薦めする。なお、個人サイト「山は猫」の「宝光院の妙多羅天女像御開帳(新潟県弥彦村)」で、実見された現在の天女像について、『阿弥陀堂に入った。中央に阿弥陀如来像、左側に「妙多羅天」の額があり、立派な飾り厨子の扉が開いていた』。『妙多羅天女像は、黒っぽく変色していて相当古そうだ。奪衣婆像によく見られる綿帽子をまとうように被り、何かにつかみかかるようなお姿だった。かつてこの真綿は、子どもの首に巻くと百日咳が治る「妙多羅天御衣」として参拝者の信仰を集めたという』。『三体ある妙多羅天の残り二体は、阿弥陀如来像の左右に安置されている。このうち左側の像が写真でよく紹介されているものだった。片膝を立てた姿は奪衣婆像そのもの』であった、とある。「ZIPANG-5 TOKIO 2020 全国の姥神像行脚(その25)妙多羅天女は、古代ペルシアの「ミトラ」神信仰が元⁉【寄稿文】廣谷知行」で、後者の二像の写真があるが、これは明らかに「奪衣婆」であり、前掲した「婆々杉」も強い親和性がある。鬼子母神と同様で、忌まわしい鬼女が改心して仏の眷属となるという説話は、却って民衆に受け入れられ易いのである。

「佐渡国雑太郡小沢」郡名は現代仮名遣では「さわた」。現行の地名に「小沢」はない。但し、旧雑太郡内の佐渡市窪田に「小沢窯跡(こざわがまあと)」がある(グーグル・マップ・データ)。この窯跡は、「佐渡市」公式サイト内の「佐渡の文化財」の「佐渡市指定 記念物:小沢窯跡」には、『この場所は「焼場跡」とも呼ばれ、窯の起源は不明であるものの、『佐渡四民風俗』に、文化年間』(一八〇四年〜一八一七年)『中期か後期頃の成立であろうと記されている』とあるだけで、地名とも判然とはしない。

「還迹(ありさま)」『ちくま文芸文庫』も同じだが、前掲の正字版では、『𨗈迹(ありさま)』となっている。「𨗈」は「行跡・行い」の意であるから、しっくりくる。この「還」の字は宵曲の誤記か、誤植である。]

2023/12/22

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猫絵画き」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

       

 

 猫絵画き【ねこえかき】 〔一話一言巻十六〕近頃(天明・寛政の頃なり)白仙といへるもの、年六十にちかき坊主なりき。出羽秋田に猫の宮あり。願ひの事ありて、猫と虎とを画《ゑが》きて、社に一枚ヅツ奉納すと云ふ。自ら猫画《ねこゑか》きと称して、猫と虎とを画く。筆をもちて都下を浮かれ歩行《ありき》、猫書《ねこかき》かうかうといひしなり。呼びいれて画かしむれば、わづかの価《あたひ》をとりて画く。その猫は鼠を避けしといふ。上野山下<東京都台東区内>の茶屋の壁に虎を画きしより人もよく知れり。近頃はみえず。 〔黒甜瑣語三編ノ二〕雲洞山人は秋田比内の産にて、これも三ケ津をわたり、今は近き国々をめぐるに、一人の子を背負ひ、街頭を高らに、画《ゑ》を書かう、画はいらぬか、猫の画を書かうと、横柄に徇(ふ)れあるくに、山形辺にて人の云へる、渠《かれ》が猫の画の精妙は鼠が怖れて来らずと云ひはやせしに、蚕(こがひ)する家々にて画一枚を桐葉二方(きんにぶ)までにこぎり書《かか》せしとなん。

[やぶちゃん注:「一話一言」は複数回既出既注。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いた大田南畝著の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻四(明治四〇(一九〇七)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は『𤲿猫虎人』で、読みは「ねこ、とらを、ゑがくひと」であろう。

「天明・寛政」安永十年四月二日(グレゴリオ暦一七八一年四月二十五日)に「天明」改元し、天明は天明九年一月二十五日(グレゴリオ暦一七八九年二月十九日)に「寛政」に改元、寛政十三年二月五日(グレゴリオ暦一八〇一年三月十九日)に「享和」に改元している。その閉区間。

「出羽秋田に猫の宮あり」「猫の宮」(グーグル・マップ・データ)は山形県東置賜(ひがしおきたま)郡高畠町(たかはたまち)高安(こうやす)に現存する神社。拡大すると、対になる形で「犬の宮」もあり、日本でも非常に珍しい犬と猫とを祀る神社である。それぞれのサイド・パネルの写真の中に、前者の「猫の宮由来記」、及び、「犬の宮由来記」の説明板が視認出来る。孰れもしっかりした伝承で、感動した。是非、読まれたい。

「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『秋田さきがけ叢書』の「人見蕉雨集」第一冊(一九六八年秋田魁新報社刊)のここで、新字旧仮名でならば、視認出来る。標題は『○雲洞山人』。

「雲洞山人」この名の絵師は実在するが、如何にも好き者の号であるから、特定は出来ない。

「秋田比内」この附近の広域(グーグル・マップ・データ)。

「三ケ津」不詳。識者の御教授を乞う。

「桐葉二方(きんにぶ)」江戸時代に流通した金貨の一種である「一分(歩)判」(いちぶきん)二枚の意。ウィキの「一分金」によれば、『金座などで用いられた公式の名称は一分判(いちぶばん)であ』るが、「三貨図彙」には『一歩判と記載されている。「判」は』、『金貨特有の呼称・美称であり、品位・量目を保証するための極印と同様の意味を持つ』。『一方』、「金銀図録」及び「大日本貨幣史」等の『古銭書には』「一分判金」「壹分判金」(いちぶばんきん)という『名称で収録されており、貨幣収集界では「一分判金」の名称が広く用いられる』。『「一分金」の名称は、一分銀と区別するために普及するようになったのであり、幕末の』天保八(一八三七)年『以降のことである』とある。『形状は長方形』で、『表面には、上部に』、『扇枠に五三の桐紋』(☜)、『中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋』(☜)『中が刻印されている。一方、裏面には「光次」の署名と』、『花押が刻印されている』。『これは鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である。なお、鋳造年代・種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている』とあった。

「こぎり」「それで、おしまい。」「それで、全部。」の意の「こっきり」であろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「盗人の沈酔」 / この一篇のみを収載する「ぬ」の部

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「盗人の沈酔」 / この一篇のみを収載する「ぬ」の部

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 特異点だが、「に」の部は、この一篇のみである。「沼の怪」でも、幾らもあろうに……。

 

    

 

 盗人の沈酔【ぬすびとのちんすい】 〔耳囊巻六〕番町<東京都千代田区内>辺御旗本の由、常に酒を好み、酒友の方にて沈酔の上、帰宅のうへ、手水所にて、手水など遣ひしに、蔵の脇あやしき物音いたし、立帰り候節も、何か心に掛り候事有りし故、枕脇差《かむらわきざし》を差而《さして》、蔵の脇へ至り見しに、見知らざる男、沈酔の体《てい》にて臥《ふせ》り居《をり》候故、家内僕《しもべ》などを起し候処、右盗賊も酔さめ候や、眼をさまし候間、何故武家屋敷へ這入臥《はひいりふせ》り候哉《や》、尋ね問ひけるに、一言《ひとこと》の申訳なく、盗に入り候へ共、沈酔故、見合せ候内、不ㇾ思臥《ふせ》り候由、申けるとなり。その後《のち》如何なりしや、近頃の事と聞きしが、名は洩しぬ。

[やぶちゃん注:私のは、底本違いで、「耳嚢 巻之十 盜人醉ふて被捕醉ふて盜人を捕へし事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「木偶目瞬(にんぎょうのまたたき)」 / 「に」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って、「に」の部は終わっている。]

 

 木偶目瞬【にんぎょうのまたたき】 〔奇遊談巻三ノ下〕宝暦十二三年の頃にやありけん、予<川口好和>が幼かりしとき、東山極楽寺真如堂の長押《なげし》のうへに彫りたる仙人の中に、正面よりは北の間《ま》、蝦蟇仙《がません》の人形の眼光、いつとなく光りかゞやき、下より望みみるに、左右上下へ瞳《ひとみ》うごき、いかさまにも天にやのぼらん、地にや立たんとみえける。初めは六十六部といふもの見出しけるとぞ。幼きときなりしかど、多く人のむらがり集《つど》ひけることは忘れず。さて日頃へて、あまりの群集《ぐんじゆ》ゆゑに、かねて堂中《だうちゆう》に住みなれし鳩鳥《はと[やぶちゃん注:後掲する活字本で二字へルビする。]》ども驚ろきさわぎ飛び違ひけるに、この仙人の頭面(かしら)にあたりければ、なにか小さき瞳のごときもの落ちたり。これを堂司《だうす》のやせ法師拾ひ見れば、表は黒く裏は白き大指《おほゆび》の頭《かしら》ほどなるものなり。さて上《うへ》なる仙人を見あぐれば、今まで動きし眼《まなこ》はたとやみてけり。さてはと寺僧どもかけはしして[やぶちゃん注:梯子を掛けて。]、恐れつゝも登りて見れば、この長押の人形ども、眼目《がんもく》いづれも玉眼《ぎよくがん》にてありしが、このがま仙人の眉毛の所は、高くけづりあげて、上の布《ぬの》をはりて蛤粉(ごふん)にてぬりしが、年へてかの布むくりあがりて落つべきに、わづかなる布の糸に、かのかけたる眉毛かゝりて、わざと下げしやうになりたるが、きらきらと動くに、黒きかたうつれば左を見、白きかたうつれば右を見るごとくうつれるなり。さても怪しきことは世になきことなりとぞ思はれぬ。

[やぶちゃん注:「奇遊談」川口好和著が山城国の珍奇の見聞を集めた随筆。全三巻四冊。寛政一一(一七九九)年京で板行された。旅行好きだった以外の事績は未詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十一(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊のここで当該部が視認出来る(よくルビが振られてあるので一部を参考にした)。標題は『○木偶(にんぎやう)仙人(せんにんの)目瞬(めまじき)』(「めまじき」は瞬きをすることを指す)。

「宝暦十二三年」一七六二年一月二十五日から一七六四年二月一日まで。

「東山極楽寺真如堂」現在の京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗鈴聲山(れいしょうざん)真正極楽寺(しんしょうごくらくじ:グーグル・マップ・データ)。「真如堂」はこの寺全体の通称であるが、ここは、その本堂であろう。サイド・パネルのこの画像などを見ると、確かにそれらしいものがありそうだが、拡大しても判らない。残念だ。この本堂は重要文化財で、享保二(一七一七)年に再建されているから、著者が見たのは、その後のことである。

「蝦蟇仙」中国の仙人の一人としてよく知られる蝦蟇仙人。青蛙神(せいあしん:三本足の蟾蜍(ヒキガエル)の霊獣とされ、三本の足は、前足が二本、後足が一本で、後足は「蝌蚪」(オタマジャクシ)の尾のように中央に付いている。天災を予知する力を持つ霊獣若しくは神で、非常に縁起の良い「福の神」とされ、「青蛙将軍」「金華将軍」などとも呼ばれる。道教教徒の間で特に信仰されていた)を従えて妖術を使うとされる。当該ウィキによれば、『左慈』(さじ:後漢末期の方士。字は元放。揚州廬江郡の人。「後漢書」に記載があり、後の小説「三国志演義」にも登場する)『に仙術を教わった三国時代の呉の葛玄、もしくは呂洞賓』(りょ どうひん 七九六年~?:唐末宋初の道士。中国の代表的な仙人である「八仙」の一人)『に仙術を教わった五代十国時代後梁の劉海蟾』(りゅう かいせん)『をモデルにしているとされる。特に後者は日本でも画題として有名であり、顔輝』の「蝦蟇鉄拐図」(がまてっかいず)の『影響で』、『李鉄拐(鉄拐仙人)と対』(つい)『の形で描かれる事が多い。しかし、両者を一緒に描く典拠は明らかでなく、李鉄拐は八仙に選ばれているが、蝦蟇仙人は八仙に選ばれておらず、中国ではマイナーな仙人である。一方、日本において』は、『蝦蟇仙人は仙人の中でも特に人気があり、絵画、装飾品、歌舞伎・浄瑠璃など様々な形で多くの人々に描かれている』とある。鉄拐は私の好きな仙人だが、実際には、中国の仙画の中には、実在していた劉海蟾=蝦蟇仙人=鉄拐仙人とする絵も残っている。

「玉眼」私はよく知っているが、小学館「日本大百科全書」をから引いておく。『仏像の眼部に水晶をはめ込んで、実際の人間の眼(め)に近い輝きを持たせたもの。彫像の頭部を、像自体の矧(は)ぎ目とは別に、面部を割り離し、面部の内側を刳(く)って眼に穴を開け、レンズ状に磨いた水晶の薄片を当てて、内側に瞳(ひとみ)を描いた絹や紙を宛がって、綿で押さえ、さらに木片で押さえる。この当て木は周囲から竹針で止めるが、漆で接着した例もある。玉眼は』鎌倉時代の『運慶の創案ともいうが、それ以前』の仁平元(一一五一)年の『奈良・長岳寺阿弥陀(あみだ)三尊にすでに使用されている。俗説としてガラスを使ったともいうが、ガラスを使用した例は』、『近世のごくわずかな例を除いては』、『ない』とある。しかし、精巧なそれを作るためには、頭部を刳り抜くか、「寄せ木造り」にする必要があり、分解される「寄せ木造り」によって、部分の仏師の分業(工房化)が細部まで精緻になるのは、鎌倉時代以降のことである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「人形の魂」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 人形の魂【にんぎょうのたましい】 〔宮川舎漫筆巻四〕諺に仏造りて魂を入れずとは、物の成就せざる譬《たとへ》なり。扨(さて)魂の入《いれ》ると入れざるとは、細工人の精心にあり。都(すべ)て仏師なり、画工なり、一心に精心を込むれば、その霊をあらはす事、挙げて算《かぞ》ふべからず。既に上野鐘楼堂<東京都台東区内>の彫物《ほりもの》の竜は、夜な夜な出《いで》て池水を飲む、浅草の絵馬出て田畝《たんぼ》の草を喰ふといふ事、むかし語《がた》りなれども、偽りにてはよもあるべからず。予<宮川政運>愚息の友なる下河辺《しもかうべ》氏、ある人形遣ひの人形を一箱預り置きし処、その夜人静まりし頃、その箱の内冷(すさま)じくなりしかば[やぶちゃん注:中から物凄い音が聴こえてきたので。]、鼠にても入りしなるべしとて、燈火《ともしび》を点じ改め見しところ、ねずみのいりし様子もなき故、臥床《ふしど》に戻りいねんとせしに、またまた箱の中《うち》にて打合《うちあ》ふ音など再々《さいさい》ありしかば、その事を持主《もちぬし》にはなせし処、それは遣ひ人《て》の精心籠りし人形ゆゑ、いつとてもさの如く珍しからず。右ゆゑ若し敵役《かたきやく》の人形と実役《じつやく》の人形をひとつに入れ置く時は、その人形喰合うて[やぶちゃん注:後に示す活字本では正しく『喰合(くひあ)ふて』となっている。]微塵になるといへり。実に精心のこもりし処なるべし。されば人は万物《ばんもつ》の霊なれば、何事の精心の入らざることなし。その訳《わけ》は仏師有《あつ》て子安《こやす》の観音を彫刻せば、子育(こそだて)を守るに験(しるし)あり。また雷除《らいよけ》の観音を彫刻せば、雷落ちざる守(まもり)の験あり。これ観音は一躰《いつたい》なれども、その守る処は別にして、ともに利益《りやく》験然《げんぜん》[やぶちゃん注:活字本では『顯然(げんぜん)』とする。]たるを見るべし。その利益は仏師の精心の凝《こ》る処にして、観世音も利益を授け給ふなるべし。<中畧[やぶちゃん注:「畧」の字はママ。]>我《われ》昔《むかし》彫物師《ほりものし》埋忠《うめたゞ》嘉次右衛門が噺を聞きし事あり。埋忠が云ふ。当時は人間の性《せい》日々わるがしこくなりし故、何職《なにしよく》も細工の早上《はやあが》りのみ工夫なせば、むかしの細工のかたは少しもなき故、いかなるものも皆《みな》死物《しぶつ》のみ多し。昔の細工は金銭にかゝはらず、おのれがちから一ぱいに彫りし故、霊もあり妙も有りといへり。埋忠《うめただ》持伝《もちつた》への品《しな》に、むかし笄《かうがい》あり。至つて麁末《そまつ》なれども、細工は妙なり。その彫《ほり》は編笠被りし人物なりしが、年代ものゆゑ自然《しぜん》と編笠すれし処、下に顔あり、眼《め》口あざやかに彫りありしといふ。中々当時なぞは見えもせぬ処なれば、誰々《たれだれ》も彫らず。これ魂入らぬ処なりといへり。[やぶちゃん注:以下は、底本では終りまで全体が一字下げで記されてあり、字間も通常より半角ほど広い。]

因《ちなみ》にいふ。一昨年中、浅草奥山《おくやま》<都内台東区浅草>にて生人形《いいきにんぎやう》といへる見世物あり。評判高きゆゑ、老弱男女(らうにやく《なんによ》)[やぶちゃん注:活字本では正しく『老若男女(らうにやくなんによ)』となっているが、これは編者が訂した可能性が高い。]この見世物見ざれば恥のごとく思ひなし、日々群集《ぐんじゆ》なす事《こと》実《じつ》に珍らし。この作人《さくにん》は肥後の生れにして、喜三郎といへり。その生質《せいしつ》朴《ぼく》、至《いたつ》て孝心厚きもののよし噂なり。この者の細工自然と妙を得《え》る[やぶちゃん注:活字本に従った。]事、既に大坂にて薪《たきぎ》を荷《にな》ひし人形口を利きて、アヽ重いといひし由、予も見し処、いづれも今にも言葉をいださん有様《ありさま》、感ずるに余りあり。ある人、この者人形拵へ居《ゐ》しを見しに、その念の入りし事は、人形にほりものある人形は残りなくほりあげ、その上へ衣服を著せしよし、これ外《ほか》へは見えぬ処なれば、余り念《ねん》過ぎたりと笑ひし者あれども、これ前にしるせし編笠の下に顔を彫りし細工と同日にして、実《じつ》に感ずべき事なり。されば口利きしといふももつともなるべしとは思はれける。

[やぶちゃん注:「宮川舎漫筆」宮川舎政運(みやがわのやまさやす)の著になる文久二(一八六二)年刊の随筆。筆者は、かの知られた儒者志賀理斎(宝暦一二(一七六二)年~天保一一(一八四〇)年:文政の頃には江戸城奥詰となり、後には金(かね)奉行を務めた)の三男。谷中の芋坂下に住み、儒学を教授したとあるが、詳細は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで、正字表現で視認出来る。標題は『精心込(こむ)れば魂(たましい[やぶちゃん注:ママ。])入(いる)』。儒者にしては、文章が杜撰で、歴史的仮名遣の誤りも散見される。但し、読みが多く振られていたので、それを大いに参考にした。

「上野鐘楼堂の彫物」上野寛永寺に鐘楼堂を建立するに当たって、家光から四方の欄間に龍を彫れという命が下り、全国から四人の名工が選ばれ、その中にかの左甚五郎がおり、彼が彫ったその龍は、毎夜、抜け出して、不忍池を呑みに行ったという伝承が残る。現在の鐘楼堂は後のもので、旧のそれは、現在の上野公園の小松宮彰仁親王銅像(グーグル・マップ・データ)が建つ附近にあったようである。なお、東照宮では上野東照宮の唐門にある左甚五郎の竜の彫刻が、その「水呑み龍」だと伝えているらしい。「龍楽者」氏のサイト「龍と龍水」の「龍の謂れとかたち 上野東照宮の唐門にある左甚五郎の龍の彫刻2014」で画像を見ることが出来る。

「埋忠嘉次右衛門」不詳。慶長の頃の山城国の刀工・刀剣金工に埋忠明寿(うめただみょうじゅ 永禄元(一五五八)年~寛永八(一六三一)年)がいるが、この末裔を名乗る者か。

「浅草奥山」浅草寺の裏一帯を指す旧地名。江戸の代表的な盛り場で、見世物小屋が並ぶとともに、香具師(やし)の拠点となり、軽業や、居合抜きなど、特異な芸を見せつつ、物を売った場所であった。明治になり、その見世物小屋の多くは六区に移転した。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「喜三郎」「生人形」これは私もよく知っている人形師松本喜三郎(文政八(一八二五)年~ 明治二四(一八九一)年)。彼の作品が初めて「生人形」と称されたものである。当該ウィキによれば、『肥後国(現・熊本県)の商家に生まれる。早くから様々な職人技を覚え、日用雑貨を用いて人物などを仕立てる「造りもの」を手がけた』。二十『歳の頃』、『生きた人と見まごう等身大の人形を作ったので「生人形」と呼ばれた。そのまるで生きてるようなリアリズムは、幼き日の高村光雲』(詩人で美術家であった高村光太郎の実父で、仏師・彫刻家)『にも強い感動を与えた』。『やがて数十体の人形にテーマ性を持たせて製作し展示するようにな』り、『幕末の』嘉永七(一八五四)年『以降、大坂(現在の大阪)難波新地に於いて「鎮西八郎島廻り」、江戸(現在の東京)にて「浮世見立四十八癖」他を見世物にし興行し』、『維新後の』明治四(一八七一)年から八年には、『「西国三十三所観音霊験記」を浅草の奥山で興行を行った』。『この作品は西日本の各地を巡回し、後に』、「お里沢市」で『有名な人形浄瑠璃「三拾三所花野山」(「壺坂」)の祖形となった。そのうちの「活人形谷汲観音像」が熊本市の浄国寺に安置されて』おり、『熊本県熊本市来迎院に』は『「活人形聖観音菩薩立像」が安置されている(有形文化財)』。『このほか』、『桐生八木節まつりの山車に用いられた「桐生祇園祭「四丁目鉾」生人形素盞嗚尊」(桐生市本町四丁目自治会蔵)、絶作の「本朝孝子伝」などがある』とある。グーグル画像検索「松本喜三郎 生人形」をリンクさせておく。特に、「ピグマリオン人形教室のスタッフブログ」by pygmaliondollの「松本喜三郎」がよい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「人魚」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 人魚【にんぎょ】 〔甲子夜話巻二十〕人魚のこと大槻玄沢が『六物新志』に詳かなり。且つ附考の中、吾国所見を載す。予<松浦静山>が所ㇾ聞は延享の始め、伯父伯母二君(本覚君光照夫人)平戸<長崎県平戸>より江都《えど》に赴き給ひ、船玄海を渡るとき、天気晴朗なりければ、従行の者ども船櫓に上りて眺臨せしに、舳の方十余間の海中に物出たり。全く人体《じんてい》にて腹下は見ざれども、女容《ぢよよう》にして色青白く、髪薄赤色にて長かりしとぞ。人々怪しみて、かゝる洋中に蜑(あま)の出没すること有るべからずなど云ふ中《うち》に、船を望み微笑して海に没す。尋《つ》いで魚身現れぬ。没して魚尾出たり。この時人始めて人魚ならんと云へり。今『新志』に載する形状を照すに能く合ふ。漢蛮共に東海に有りと云へば、吾国内にては東西二方も見ること有る歟。〔斉諧俗談巻五〕相伝へて云ふ。推古天皇の二十七年に、摂津国堀江に物ありて網に入る。そのかたち、児《ちご》のごとく魚にあらず、人にあらず、名付くる事を知らずと云ふ。また云ふ、西国大洋の中に間《まま》にありとぞ。その頭《かしら》、婦女に似て、その外は全く魚の身なり。色は浅黒く鯉に類せり。尾に岐(また)ありて、両の鰭に蹼(みづかき)ありて手のごとく、脚はなし。俄かに風雨せんとする時あらはると。漁人、網に入るといへども、奇(あやし)みてこれを捕らずと云ふ。『本草綱目』に『稽神録』を引きて云ふ。謝中王と云ふ人あり。或時、水辺を通りしに、一人の婦人、水中に出没するを見る。腰より以下は皆魚なりと云ふ。また査道《さだう》といふ人、高麗へ使す。時に海沙の中に、一人の婦人を見る。肘の後に紅の鬘ありと。右の二物ともに、これ魚人なりと云ふ。〔諸国里人談巻一〕若狭国大飯郡御浅嶽<福井県大飯郡内>は魔所にて、山八分より上に登らず。御浅明神の仕者は人魚なりといひ伝へたり。宝永年中乙見村の猟師、池に出けるに、岩の上に臥したる体《てい》にして居るものを見れば、頭は人間にして、襟に鶏冠のごとくひらひらと赤きものまとひ、それより下は魚なり。何心なく持ちたる櫂(かい)を以て打ちければ則ち死せり。海へ投入れて帰りけるに、それより大風起つて海鳴る事一七日《ひとなぬか》止まず。三十日ばかり過ぎて大地震し、御浅嶽の麓より海辺まで地裂けて、乙見村一郷堕入《おちい》りたり。これ明神の祟りといへり。

[やぶちゃん注:第一話は、事前に「フライング単発 甲子夜話卷二十 26 玄海にて人魚を見る事」を公開しておいた。第二話の「斉諧俗談」は「一目連」で既出だが、再掲すると、大朏東華(おおひ(或いは「おおで」)とうか)の随筆で、何時、刊行されたか不明だが、後編は宝暦八(一七五八)刊とするから、それ以前の出版ではある。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここで当該部を正字で視認出来る。標題は『○人魚』。なお、そこで『査道(さどう)』とルビするのは誤りである。なお、私の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」(先日、全体を大改訂した)の「人魚」の項を見られたいが、この話は、それの順序を変えただけの、引用に過ぎない。この著者は、あたかも自分が書いたように示すことが多く、甚だ不愉快極まりない。だから、上記リンク先の私の注でこと足りるので、注する必要もないのである。そちらで、ジュゴン以外の候補海獣類も残らず掲げてある。第三話は私の「諸國里人談卷之一 人魚」を見られたい。]

フライング単発 甲子夜話卷二十 26 玄海にて人魚を見る事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナの読みは総て静山自身のルビである。珍しくかなり打たれてある。]

 

20―26

 人魚のこと、大槻玄澤が「六物新志」に詳(つまびらか)なり。且つ、附考の中(うち)、吾國、所見を載す。

 予が所聞(きくところ)は、延享の始め、伯父母(おぢ・おば)二君【本覺君。光照夫人。】)平戶より、江都(えど)に赴(おもむき)給ひ、船、玄海を渡るとき、天氣晴朗なりければ、從行(じゆうかう)の者ども、船櫓(ふなやぐら)に上(のぼ)りて眺臨(ちやうりん)せしに、舳(へさき)の方(かた)、十餘間の海中に、物、出(いで)たり。

 全く、人體(じんてい)にて、腹下は見へ[やぶちゃん注:ママ。]ざれども、女容(ぢよよう)にして、色、靑白く、髮は、薄赤色(うすあかいろ)にて、長かりし、とぞ。

 人々、怪しみて、

「かゝる洋中(なだなか)に、蜑(あま)の出沒すること、有(ある)べからず。」

抔(など)、云ふ中(うち)に、船を望み、微笑して、海に沒す。

 尋(つい)で、魚身、現れ、又、沒して、魚尾(ぎよび)、出(いで)たり。

 この時、人、始めて、

「人魚ならん。」

と云へり。

 今、「新志」に載(の)る形狀を照(てら)すに、能(よく)合ふ。

 漢・蠻、共に、

「東海に有り。」

と云へば、吾國内にては、東西二方も見ること有る歟(か)。

■やぶちゃんの呟き

「人魚」海域にやや問題があるが、漂流個体は九州・本州・四国でも目撃されているから、私は、まず、哺乳綱カイギュウ目ジュゴン科ジュゴン Dugong dugon としてよいように思われる。アシカやオットセイよりも、遙かに♀の「人魚」に誤認されやすいからである。

『大槻玄澤が「六物新志」仙台藩江戸定詰藩医で蘭医の大槻玄沢(宝暦七(一七五七)年~文政一〇(一八二七)年:陸奥生まれ。名は茂質(しげたか)。号は磐水。杉田玄白・前野良沢について学んだ。学塾「芝蘭堂」(しらんどう)を江戸に開き、また、蘭書翻訳に従事した)の「六物新志」は天明元(一七八一)年序で、同六(一七八六)年刊。私のものでは、『毛利梅園「梅園魚譜」 人魚』が最も適切であろう。同書の人魚の画像も挙げてある。

「延享の始め」延享は五年までで、一七四四年から一七四八年まで。徳川吉宗は延享二年十一月に家重に将軍職を譲っている。静山は宝暦十年一月二十日(一七六〇年三月七日)生まれで、未だ生れていない。

「伯父母(おぢ・おば)二君【本覺君。光照夫人。】この「光照夫人」から解読すると、志摩国鳥羽藩二代藩主(鳥羽藩稲垣家六代)稲垣昭央(てるなか 享保一六(一七三一)年~寛政二(一七九〇)年)の正室は松浦誠信(さねのぶ)の娘で、院号を光照院という。誠信は、長男の邦(くにし)の死後、後継者を三男政信と定めていたが、その政信は明和八(一七七一)年に、やはり、父に先立って死去したため、嫡孫である政信の子の清(静山)を後継者として定めたので、事実上は大伯母であるが、実質的な家督嗣子の関係からは「伯父」「伯母」と称して問題ない。

「十餘間」十間は約十八メートル、十一間でほぼ二十メートルだから、十九メートルほどであろう。

「髮」ジュゴンの好物は海底の砂地に植生する単子葉植物綱オモダカ目トチカガミ科ウミヒルモ属 Halophila等の「海草」であるが、「薄赤色(うすあかいろ)にて、長かりし」とあり、沿岸ではなく、沖での目撃であるから、千切れて海面を漂流することがよく見られる、褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属 Sargassum 等の「海藻」が頭部に引っ掛かっていたものとすれば、問題ない。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「新田神霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 新田神霊【にったしんれい】 〔思出草紙巻一〕武州荏原郡矢口村<現在の東京都大田区矢口町か>に鎮座ある新田《につた》大明神は、義興の霊社にして、霊験いちじるし。新田義興(よしおき)は新田左中将義貞の嫡男にて、幼名を徳寿丸といふ。吉野の帝よりその名を下し玉はつてより、左兵衛義興と名乗り給ひて、武蔵野の合戦に度々勝利あるに依て、足利家の武士畠山道哲、江戸遠江守、竹沢右京亮と偽り欺き、奸謀を以て延元三年十月十日に、矢口の渡しにて忿死有りて、その霊崇り有るがゆゑ、一社の神と祭れり。(この事は『太平記』にこれあり)それより以来今四百有余歳のほどふるといへども、かの三士の末孫《ばつそん》に祟り有りけるが、取分け高家たるかの畠山氏は、前々より参詣なす事度々なりといへども、その途中にて落馬なし、あるひは帯剣さやはしりて、怪我なす事もあるに依て、先祖の非を悔い、その罪を謝し、永代御殿の建立鳥居など、その家のあらん限り、寄進なすべきよし祈念したるに依て、元より正直を心にめづる神霊なれば、その忿(いか)りも散じたるにや。それより災ひなきにより、今は畠山家より毎月十日には代参を立《たて》て、長く拝殿鳥居等建立なりとかや。享保十三申年[やぶちゃん注:一七二八年。]三月、将軍家矢口付辺へ御遊猟有りし節、新田の社へ御参詣有るべきよしにて、御供揃ひある所に、この日一天に雲なくのどかなる空、忽ち俄かにかき曇り、風強く吹落ちて物すごし。雨は車軸を流すがごとく降りしかば、将軍上意有りけるは、供の者共の中に、もし畠山・江戸・竹沢が末孫はなきか、吟味せよとの事に付て、向々(むき《むき》)に糺明なせし所に、小十人勤仕《こじふにんごんし》の内に、本姓竹沢にて、今に小野と名乗りけるもの御供に候と、爰に於て早速かの者、御場先《おんばさき》の御暇《おんいとま》を仰付けられて、右の小野帰宅したりしに、不思議なるかな、風雨するどなる物すごき気色も、空晴れて雨やみ、強風もおさまり、誠にうらゝかなる天気快然として、今までの風情、何地《いづち》に行きけん。まづ別世界の如しとかや。この事跡は村翁の言ひ伝へぬ。また近年、熊本の藩中の侍三人参詣して、下向の節わらんぢの紐とけぬるをしめ直さんと、拝殿の石段に足ふみ掛けしを、片はらより非礼なりと咎めしに、かの男あざ笑ひ、何の事か有らんと悪口《あくこう》して、鳥居の前に至れるに、この侍俄かに気絶して倒れたり。連れの面々驚き、漸《やうや》く呼び生《いか》し、大いに恐れ、別当を頼み祈念なして、その非礼を謝したるにぞ、事なく帰宅せしとなり。また寛政十二申年[やぶちゃん注:一八〇〇年。]の正月、別当の台所にあるいろりの火、畳に移り、既に火災となるべき、誰とは知らず、眠れる枕をゆり動かす者あり。大いに驚き目覚《めざ》めて、その火の光りを見つけ、早速その火を消し止めたり。あとにて思へば、誰も臥所《ふしどころ》に来て起しけるものなしとかや。その神霊あふぎても余りあり。その外に奇々妙々たる霊験を蒙むるもの少なからず。また頓《とみ》に爵をうくるもの多しとかや。

[やぶちゃん注:「思出草紙」「古今雜談思出草紙」が正式名で、牛込に住む栗原東随舎(詳細事績不詳)の古今の諸国奇談珍説を記したもの。『○新田神靈ある事』がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここで正規表現で視認出来る。

「新田」「義興」は「耳嚢 巻之四 神祟なきとも難申し事」の私の注を参照されたい。

「武州荏原郡矢口村」「現在の東京都大田区矢口町か」現在は「東京都大田区矢口」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で「町」はつかない。旧「矢口の渡し」で知られるが、ここで問題になっているのは、同地区にある「新田神社」である。現在も、同神社の境内の西部分は「御塚」(おつか)と称し、禁足地として、人は立ち入り禁止である。

「別当」神仏習合時代の新田大明神の別当寺(現存しない)の僧。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「贋幽霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 贋幽霊【にせゆうれい】 〔甲子夜話続篇巻四十一〕高橋作左衛門が子両人、八丈遠嶋になりしとき、十四人とか一同に出船せし中に、五十五歳なる婦もその中なりし。その婦のゆゑを聞くに、去年三月築地<東京都中央区内>辺大火の後、幽霊と偽り人を欺き盗をせし者とぞ。その幽霊の仕方は身に白き衣(きもの)を著《き》、衣の腰より下を黒く染め、脊に黒き版(いた)の幅広なるを負ひ、ちらりちらりと人前に出《いで》、また迯去《にげさ》らんとするときは、負ひたる板黒きゆゑ、人目には消失《きえう》せたるが如し。斯くして多く人を欺き、人の迯行きしあとにて家財を奪ひ去りしとなり。実に新しき仕方なりと人々云ひしが、文化年中深川永代橋墜ちしとき、既に斯《かくの》事ありて、夜話前編第二巻に載せたり。さればその故智《ふるぢゑ》を仮りたるなり。 〔甲子夜話巻二〕この時<文化四年八月永代落橋の際>一両日を経てその辺の家夜幽霊出づ。白衣披髪して来るゆゑ、家人は溺死の亡魂ならんと駭き恐れて皆迯げ去る。この如きこと度々なれば、人々心づきその家財を省みるに、失亡多かりける。奸盗(かんとう)の人を欺きし詭術(きじゆつ)にてぞ有りける。またこの時堂兄稲垣氏、祭礼を見に往き楼上に居《をり》たるが、何か騒動せし物音なりしが、やがて満身水に濡れたる衣服きし男女の、その下を通りたる体《てい》を疑ひ見ゐたる中に、一人の銀鼈甲(《ぎん》べつこう)の櫛簪(くしかんざし)を手にあまる程、一束に握り走り行くを、跡より一人追かけ行きける。これはまさしく盗み取りたる物と覚えしと。かゝる騒擾危難の中にも盗賊は亦この如く有りける。 〔文化秘筆巻二〕当三月<文化十五年>のころの由、松平肥後守様御国、奥州若松<福島県会津若松市>にて右御家来軽き人の由、女房病死の所、右女房を不便(ふびん)に存じ、明暮その事のみ申し、右亭主病気付き候由、それより右女房毎夜八ツ時<午前二時>のころ参りて、伏り居り候枕元に参り候て、私は存命の内持居り候諸品、心にかかりうかみ申さず候に付、何とぞ何とぞ私の望みの品々、私に下され候様に申す。亭主臆病者にて夜著を引かぶり伏り、何のかんざしを下され候様に申せば、押入の櫛筥《くしばこ》の内に有ㇾ之候間、持參候様申せば、幽霊自分にて持参り候。右の通り、毎晩八ツ時分に戸をたたき、枕元に参りすわり、色々の物を持ち、著用まで持参り、亭主は弥〻《いよいよ》病気重くなり候所、近辺の心易き友、右亭主に何故に右の通りの病気出で候哉《や》と相尋ね候へば、貴様故に申す、私の亡妻毎晩参りて私の枕元に参り、著用等よこし候様申して持帰り候、この事甚だ心にかかり、かくの次第と申す。右心安き友、左候はゞ今晩も参るべき間、手前かげにかくれ居り、見糺(ただ)し申すべく候旨申し、何時比哉《なんどきごろや》と相尋ね候へば八ツ時分に参り、戸をたたき候、それより明け候へば内に入り、御咄し申候次第と申す。左候はゞ今晩参りて戸をたたき候はゞ、明け候て物かげより見申すべき旨、約束にて帰り、九ツ時分<夜半十二時>のころ、右の心易き友参りて蔭にかくれ居り候へば、程なく八ツ時に相成《あひなる》の比、例の通り幽霊白支度《しろじたく》にて参り、右友蔭より承り居り候へば、例の通り品物を取りに参り候。右かくれ居り候友、幽霊の後ろより抱き留め、燈をよくてらし見候へば、白き物を著、青ざめたる顔色にて、ちと不審の心うかみ、流に連れ参りて顔を見候へば右亡妻の病中より死後迄、頼み置き候心易き人の女房、幽霊となり毎夜参り、色々の品盗み取り候由、その事あらはれ召捕られ、程々の咎仰付けられ候由、恩田半五左衛門殿実母、肥後守様御国に逗留に参りて承られ候由、半五左衛門咄にて承る。

[やぶちゃん注:「甲子夜話続篇巻四十一」は事前に「フライング単発 甲子夜話續篇卷四十一 9 幽靈の似(ニセ)を爲し老婦人八丈嶋遠島の事」として、正字表現で電子化注しておいた。宵曲は冒頭の枕をカットしている。

「甲子夜話巻二」のそれは、「甲子夜話卷之二 45 深川八幡宮祭禮のとき永代橋陷る事」で既にルーティンで電子化注済み。

「文化秘筆」「文化秘筆巻一」作者不詳。文化より文政(一八〇四年~一八三〇年)の内の十年ばかりの見聞を集録した随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第八(三田村鳶魚校訂・随筆同好会編・昭和2(一九二七)年米山堂刊)のここで正字表現で視認出来るのが、それである(右ページ八行目以降)が、類話というより、同話である。]

フライング単発 甲子夜話續篇卷四十一 9 幽靈の似(ニセ)を爲し老婦人八丈嶋遠島の事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナの読みは総て静山自身のルビである。珍しくかなり打たれてある。]

 

41―9

 此頃、人の物語りしことどもを、聞(きく)まゝに記(し)する。[やぶちゃん注:ここは底本でも改行している。但し、字下げはない。]

 高橋作左衞門が子、兩人、八丈遠嶋になりしとき、十四人とか、一同に出船せし中に、五十五歲なる婦も、その中なりし。

 その婦のゆゑを聞くに、去年三月、築地邊、大火の後、幽靈と僞り、人を欺き、盜(ぬすみ)をせし者、とぞ。

 その幽靈の仕方は、身に白き衣(キモノ)を着(き)、衣の腰より下を、黑く、染め、脊に、黑き版(イタ)の、巾廣(はばびろ)なるを負(お)ひ、

「ちらりちらり」

と、人前に出(イデ)、又、逃去(にげさら)んとするときは、負(おひ)たる板、黑きゆゑ、人目には消失(キヘウセ[やぶちゃん注:ママ。])たるが如し。斯(かく)して、多く、人を欺き、人の逃行(にげゆき)しあとにて、家財を奪去(うばひさ)りし、となり。

「實(まこと)に、新しき仕方なり。」

と、人々、云(いひ)しが、文化年中、深川永代橋、墜ちしときも、既に斯(かくの)事ありて、「夜話」前篇第二卷に載(のせ)たり。されば、その故智(ふるぢゑ)を假(か)りたるなり。

■やぶちゃんの呟き

「高橋作左衞門が子、兩人、八丈遠嶋になりしとき」「シーボルト事件」捕縛されて老死した天文方高橋作左衞門景保(かげやす 天明五(一七八五)年~文政一二(一八二九)年)。天文暦学者。天文方高橋至時(よしとき)の長男として大坂に生まれた。「Globius」という号もある。幼時より才気に富み、暦学を父に学んで通暁し、オランダ語にも通じた。二十歳で父の後を継いで天文方となり、間重富(はざましげとみ)の助力を受けて浅草の天文台を統率し、優れた才能と学識で、その地位を全うした。伊能忠敬が彼の手附手伝(てつきてつだい)を命ぜられると、忠敬の測量事業を監督し、幕府当局との交渉及び事務方につき、力を尽くし、その事業遂行に専心させた。文化四(一八〇七)年に万国地図製作の幕命を受け、三年後に「新訂万国全図」を刊行した。翌年には暦局内に「蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)」を設けることに成功し、蘭書の翻訳事業を主宰した。満州語についての学識をも有し、「増訂満文輯韻(まんぶんしゅういん)」ほか、満州語に関する多くの著述がある。景保は学者でもあったが、寧ろ優れた政治的手腕の持ち主で、「此(この)人学才は乏しけれども世事に長じて俗吏とよく相接し敏達の人を手に属して公用を弁ぜしが故に此学の大功あるに似たり」と、大槻玄幹(おおつきげんかん)は評している。この政治的手腕がかえって災いしたものか、文政一一(一八二八)年の「シーボルト事件」の主犯者として逮捕され、翌年、四十五歳の若さで牢死した。存命ならば死罪となるところであった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。私の「反古のうらがき 卷之四 雲湖居士」を参照。そこに『其子御赦にて歸嶋(きたう)せしが、直(ぢき)に天文方手傳(てつだいひ)とて、十人扶持被ㇾ下(くだされ)、御用、相勤(あひつとめ)、程なく、十人扶持本高に被下置(くだされおき)、以(もつて)上席へ御召出しに成(なり)たる例あれば、孫助をも還俗させて、出役(しゆつやく)ある場所[やぶちゃん注:臨時役職。]へ差出し申度(まうしたき)旨(むね)、いゝたる。』とある。景保には五人の子どもがいたが、その内、高橋小太郎、同作次郎の二人は、父の罪に連座され、遠島の処分を受けていることがネットで確認出来た。

「去年三月、築地邊、大火」前注の処罰は文政一三(一八三〇)年であるから、この「大火」は「文政の大火」である。文政十二年三月二十一日(一八二九年四月二十四日)に江戸で発生した大火で、当該ウィキによれば、『神田佐久間町から出火し、北西風により』、『延焼した。「己丑火事」「神田大火」「佐久間町火事」などとも呼ばれる』。『焼失家屋は』三十七『万、死者は』二千八百『人余りに達した。神田佐久間町は幾度も大火の火元となったため、口さがない江戸っ子はこれを「悪魔(アクマ)町」と呼ぶほどであった。火災の原因は、タバコの不始末であったという』とある。神田佐久間町はここ(グーグル・マップ・データ)で、築地は、そのほぼ南に当たるので(前の地図下方参照)、延焼に問題はないように思われる。なお、「国立公文書館」公式サイト内の「天下大変」の「32. 文政回禄記」(写本)に、この「文政の大火」の解説記事があるが、そこに、『この火事では、多数の焼死者が出たせいか、怪談がいくつも生まれました。本書にも、「御救小屋」(焼け出された人々のための仮設住居)に全身火傷の首なし人間が迷い出た話や、びしょ濡れで青ざめた女の幽霊がさめざめと泣いていた話などが載っています』とあり、まさに、この女の幽霊こそが、贋幽霊であったとも読めなくはない。

『「夜話」前篇第二卷に載たり』私の「甲子夜話卷之二 45 深川八幡宮祭禮のとき永代橋陷る事」を参照されたい。注は、そちらに譲る。

2023/12/21

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「贋天狗」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 贋天狗【にせてんぐ】 〔梅翁随筆巻五〕加州金沢<石川県金沢市>の城下に、堺屋長兵衛というて数代《すだい》の豪家あり。弥生半ばの頃、まだ見ぬかたのはなを尋ねんとて、手代小者めしつれて、かなたこなたと眺めけるに、ある社《やしろ》の松の森の方より羽音高く聞えける故、あふぎ見れば天狗なり。あな恐ろしやとおもふ間もなく、この者の居たる所へ飛び来《きた》るにぞ、今ひき裂かるゝやらんと、生きたる心地もなくひれふしけるに、天狗のいはく、その方にたのみたき子細あり、別儀に非ず、今度京都より仲間(なかま)下向に付き、饗応の入用多き所、折ふしくり合せ悪しくさしつかへたり、明後日昼過までに金子三千両、此所へ持参して用立つべしといふ。長兵衛いなといはゞいかなるうきめにや逢はんと思ひて、かしこまり候よし答へければ、早速承知過分なり、しからばいよいよ明後日此処にて相待つべし、もし約束違《たが》ふことあらば、その方は申すに及ばず、一家のものども八ツ裂きにして、家蔵《いへくら》ともに焼きはらふべし、覚悟いたして取計ふべしといひ捨て、社壇のかたへ行きにける。長兵衛命をひろひし心地して、早々我家に帰り、手代どもへこの由を話しけるに、或ひは申すに任すべしといふもあり。又は大金を出す事しかるべからずといふもありて、評議まちまちなりけるに、重手代(おもてだい)のいはく、たとひ三千両出《いだ》したりとも、身《しん》だいの障《さは》りになるほどの事にあらず、もし約束を違ヘて家蔵を焼きはらはれては、もの入りも莫大ならん、その上一家のめんめんの身の上に障る事あらば、金銀に替ふべきにあらず、三千両にて災《わざはひ》を転じて、永く商売繁昌の守護とせんかたしかるべしと申しけるゆゑ、亭主元来その心なれば、大いに安堵し、この相談に一決したり。さればこの沙汰奉行所へ聞えて、その天狗といふものこそ怪しけれ、やうす見届けからめ取るべしと用意有りける。さてその日になりければ、長兵衛は麻上下《あさかみしも》を著し、三千金を下人に荷《にな》はせ、社前につみ置き、はるか下《さが》つて待ちければ、忽然と羽音高くして、天狗六人舞ひさがり、善哉《ぜんざい》々々、なんぢ約束のごとく持参の段満足せり、金子は追々返済すべし、この返礼には商ひ繁昌、寿命長久うたがふ事なかれと、高らかに申し聞かせ、かの金を一箱づつ二人持(ふたりもち)して、社のうしろのかたへ入りければ、長兵衛は安堵して、早々我家へ帰りける。かくて奉行所より遣し置きたる捕手《とりて》のものども、物蔭にこの体《てい》をみて、奇異の思ひをなしけるが、天狗の行方《ゆくへ》を見るに、谷のかたへ持行《もちゆ》きける。爰にて考へみるに、まことの天狗ならば、三千両や五千両くらゐの金は、引つかんで飛び去るべきに、一箱を二人持して、谷のかたへ持ち行く事こそこゝろえね、この上は天狗を生捕りにせんとて、兼ねての相図なれば、螺貝(ほら《がひ》)を吹き立つると等しく、四方より大勢寄り集まり、谷のかたへ探し入り、五人ながら天狗を鳥《とり》の如く生捕りにして、奉行所ヘ引き来《きた》れり。吟味するに鳥の羽、獣の皮にて身をつゝみこしらへたるものにて、実《っまこと》の天狗にてはあらず。されば飛び下ることは、傘を持て下るなれば自由なれども、飛び上る事とては曾てならずとなり。さてこれをば加賀国にて天狗を生捕りたる話は末代、紙代《しだい》は四文《しもん》、評判々々と午《うま》の八月江戸中売り歩行(あるき)しは、この事をいふなるべし。<『蕉斎筆記四』『寛政紀聞』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○加賀にて天狗を捕へし事』。

「蕉斎筆記」儒者で安芸広島藩重臣に仕えた小川白山(平賀蕉斎)の随筆。寛政一一(一七九九)年。国立国会図書館デジタルコレクションの「百家隨筆」第三(大正六(一九一七)国書刊行会刊)のこちら(右ページ上段から)で視認出来る。枕が異なり、事件の現場を『金澤の近方』の『至て高き山ありて魔所なりける』とし、しかも、偽天狗の親玉らしい正体を、その近所の『異人五兵衞』なる『常に人にも交はらず、至て異風なる男』が示唆してあり(但し、この名は結末には出ない)、さても連中を召し捕ったところが、『何れも家中歷々の息子ども』であることがわかり、『深くしらべ候へば、段々不首尾なるものも有、また當り障りもあるゆゑ、悉く仕置被仰付、その建札に』は、『天狗五疋死罪に行者也』(おこなふものなり)『と書きたるよし、此ころきゝしと皆川文藏咄し也』とあって、こっちに方が、結末はリアルで面白い。なお、この記事はパート標題『寬政十一年己未年記』であり、当該本文では、時制を『或時』としつつも、最後に話し手の名も明記されそこで「此ころ」とあるから、寛政十一年の直近の出来事であったことが推定されるのである(次の注も参照のこと)。

「寛政紀聞」「天明紀聞寬政紀聞」が正題。天明元年から寛政十一年までの聴書異聞を集録する。筆者不詳だが、幕府の御徒士(おかち)であった推定されている。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第四(三田村鳶魚校訂・ 随筆同好会編・昭和二(一九二七)年米山堂刊)のこちらで当該話を視認出来る。本書は概ね編年体を採っており、この記事は寛政十年の『九月上旬』の出来事とするから、これで、寛政十年で決まりである。ロケーションもはっきりしており、『金澤城下より五里程山奥にて天狗森と云所』で、その奥にある観音堂へ参詣に向かった町人『八兵衞』が被害者である。後半の捕縛に至るシークエンスが三種の内、もっとも詳しくリアルである(但し、処罰はあっさりと『重罪ニ仕置相成しとぞ』である)。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「二条城の不明蔵」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 二条城の不明蔵【にじょうじょうのあかずのま】 〔耳嚢巻五〕二条御城内に、久しく封を切らざる御蔵ありて、いつの頃何ものか申出しけん、この蔵を開くものは乱心なすとて、弥〻《いよいよ》恐れをののきて、数年打過ぎしが、浚明院様<徳川家治>御賀の時、先格《せんかく》の日記、御城内にあるべきとて、番頭《ばんがしら》より糺し有りし故、普く捜し求むれども、その旧記さらになし。せん方なければ、その訳《わけ》申答《まふしこた》へんと評議ありしに、石川左近将監、大番士たりし時、彼《かの》平日不明《あけざる》御蔵をも改めずしては、決して無ㇾ之とも申し難しと言ひしを、誰《たれ》ありて申伝ヘの偶言に怖れて、明べきといふものなし。されど右を捜し残して、なきとも申し難ければ、衆評の上、戸前《とまへ》を明け、燈《おもしび》など入れて捜しけれど何もなし。二階を見るべしとて、湿りも籠りたる処ゆゑ、提灯など入れしに、両度迄消えければ、弥〻湿気の籠れるを悟りて、弥〻燈火を増して、消えざるに至りて、上りて見しに、御長持二棹《さほ》並べありし故、右御長持を開き改めしに、御代々の御賀の記、顕然ありしかば、やがてその御用を弁ぜりと、左近将監かたりぬ。

[やぶちゃん注:私のは、底本違いで、「耳嚢 巻之六 物を尋るに心を盡すべき事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「二十年経て帰宅」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 二十年経て帰宅【にじゅうねんへてきたく】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕江州八幡<滋賀県八幡市>は彼国にては繁花なる場所の由。寛延・宝暦の頃、右町に松前屋市兵衛といへる有徳《うとく》なる者、妻を迎へて暫く過ぎしが、いづち行きけんその行方なし。家内上下大に歎き悲しみ、金銀惜しまず所々尋ねけれど、曾てその行方知れざりし故、外に相続の者もなく、かの妻も元一族の内より呼び迎へたるものなれば、外より入夫して跡を立て、行衛なく失ひし日を命日として訪《と》ひ弔《とむら》ひしける。かの失ひし初めは、夜に入り用場へ至り候とて下女を召連れ、厠の外に下女は燈火を持ち待居りしに、いつ迄待てども出《いで》ず。妻は右下女に夫の心ありやと疑ひて、かの厠に至りしに、下女は戸の外に居りし故、何故用場の永き事と、表より尋ね問ひしに一向答へなければ、戸を明け見しに、いづち行きけん行方なし。かゝる事ゆゑ、その砌《みぎり》は右の下女など難儀せしとなり。然るに二十年程過ぎて、或日かの厠にて人を呼び候声聞えし故、至りて見れば右市兵衛、行方なくなりし時の衣服等、少しも違ひなく坐し居りし故、人々大いに驚き、しかじかの事なりと申しければ、しかと答へもなく、空腹の由にて食を好み、早速食事など進めけるに、暫くありて著《ちやく》し居り候衣類も、ほこりの如くなりて散り失せて裸になりし故、早速衣類等を与へ薬など与へしが、何か古への事覚えたる様子にもこれなく、病気或は痛所などの呪《まじな》ひなどなしける由。予<根岸鎮衛>が許へ来《きた》る眼科の、まのあたり八幡の者にて見及び候由咄しけるが、妻も後夫《うはを》もをかしき突合《つきあひ》ならんと一笑なしぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之五 貮拾年を經て歸りし者の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「廿騎町の怪異」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 廿騎町の怪異【にじっきまちのかい】 〔反古のうらがき巻一〕余<鈴木桃野>が祖母常に語りしは、加賀屋敷・御旗本屋敷なき以前は、みな原なり。久貝《くがひ》・久志本・服部・巨勢《こせ》・三枝《さへぐさ》・長谷川、これ程の野原にて、組屋敷うち常に怪異あり。或時は鉦太鼓面白くはやしなどするに、西かと思ヘば東なり。誰《たれ》ありて見届けたる人なし。山崎といへる家にては、夜な夜な猫をどり、縁頰《えんづら》にて足音す。明《あく》る日見るに、矢をふく手拭をかぶりたる様子なり。また或時は誰ともなく、障子をさらさらとすりて縁頰を行きかよふ。明《あ》けて見るに人なし。また深夜にしほしほと呼び売る声ありて、誰見当りしことなし。或時余が曾祖父内海彦右衛門、対門《むかふやしき》なる山崎に行きて、夜更けて帰らんとて立出《たちいづ》るに、門の扉に大の眼《まなこ》三つあり。光輝《ひかりかがやき》人を射る様《さま》、明星の如く、大胆なる人なれば、こは珍らし、独りみんも本意《ほい》なしとて家に帰り、予が大叔父内海五郎左衛門を呼び、面白き者なり、行きてみるべしとて誘ひて行きけるに、最早一つ消えて二つ残れり。さては消ゆる者とみえたり、皆消ゆる迄見果てんとて、父子まばたきもせずにらみ居《をり》たりしに、漸《やうや》く光り薄くなりて又一つ消えたり。父子笑ひて、初めよりかくあらんと思ひしと帰りしと、祖母善種院語らる。今の人よりは、皆心《こころ》剛《かう》にありけるといましめられしなり。

[やぶちゃん注:私の「反古のうらがき 卷之一 廿騎町の恠異」で、かなり子細に注を施してあるので、見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「二恨坊の火」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 二恨坊の火【にこんぼうのひ】 〔諸国里人談巻三〕摂津国高槻庄《たかつきのしやう》二階堂村<大阪府茨木市二階堂>に火あり。三月の頃より六七月までいづる。大きさ一尺ばかり、家の棟、或ひは諸木の枝梢《えだ・こづゑ》にとゞまる。近く見れば眼耳鼻口のかたちありて、さながら人の面《おもて》のごとし。讎(あだ)をなす事あらねば、人民さしておそれず。むかし此所《ここ》に日光坊といふ山伏あり。修法《しふほふ》、他にこえたり。村長(むらをさ)が妻、病《やまひ》に臥す。日光坊に加持をさせけるが、閨《ねや》に入て一七日《ひとなぬか》祈るに、則ち病癒えたり。後に山伏と女密通なりといふによつて、山伏を殺してけり。病平癒の恩も謝せず。そのうへ殺害す。この恨《うらみ》、妄火《ばうくわ》となりて、かの家の棟に毎夜飛び来《きたつ》て、長《をさ》をとり殺しけるなり。日光坊の火といふを、二恨坊の火といふなり。

[やぶちゃん注:「諸國里人談卷之三 二恨坊火」及び私の注を参照されたい。この怪火、特に知られた怨念火として知られるものである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「濁り川・年取らず川」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 濁り川・年取らず川【にごりがわ・としとらずがわ】 〔梅翁随筆巻六〕木曾路塩多奈宿のこなた塚原といふところの往来に、三四尺計りの溝川あり。これを濁り川といふ。川の源は浅間山よりながるゝとぞ。この川月の初め十五日は水すみ、下十五日は濁りて、毎月違《たが》ふ事なしといへり。[やぶちゃん注:以下、改行段落成形はママ。後に示す活字本では、改行はなく、ベタで続いている。]

 また武蔵国入間郡藤沢村<現在の埼玉県入間市内>四谷海道中野より八里ばかり先に、年とらず川といふあり。青梅の近きあたり、川幅凡そ二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]ばかり、清水常にみなぎり流るゝなり。この土地高くして、井戸を掘る事たやすからねば、この川水をくみとりて、村中遣ひ水とせり。しかるに除夜には極めて水かれて川原となれり。誠に水一滴もなし。この日朝より水次第々々にへりて、暮がたはから堀のごとくかるゝ事、年々かはる事なし。立春の日より水次第に流れ出《いで》て元のごとし。それゆゑにこの川を年とらず川とはいへり。

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」作者不詳の寛政年間を中心とした見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(左ページの「『○信州にごり川の事附』(つけたり)『武州都市とらず川の事』で正規表現版が視認出来る。

「塩多奈宿」「中山道六十九次」の内、江戸から数えて二十三番目の宿場である「塩名田宿」(しおなだしゅく)のこと。当該ウィキによれば、『現在の長野県佐久市塩名田。暴れ川であった千曲川の東岸にあり、旅籠が』十『軒以下の小さな宿場にも拘らず、本陣と脇本陣が合わせて』三『あった。橋も掛けられたが』、『洪水の度に流失し、船や徒歩で渡るのが専らであった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「年とらず川」現在、「不老川」(としとらずがわ/ふろうがわ)として現存する。当該ウィキによれば、『東京都及び埼玉県の』、『主に武蔵野台地上を流れる一級河川で』、『荒川水系新河岸川の支流である』とあり、『東京都西多摩郡瑞穂町の狭山池の伏流水が水源とされる。瑞穂町二本木の国道』十六『号付近に水路が見られる。そこから北東へ向かって流れ、埼玉県入間市宮寺と藤沢、所沢市林、狭山市入曽(不老川が北入曽と南入曽の境界になっている)と堀兼、川越市今福などを流れ、林川、今福川、久保川などを合わせ、川越市岸町と川越市砂の境界で新河岸川に合流する。流域には河岸段丘が形成されている。高低差があるため、ところどころに落差工がある』。『霞川、柳瀬川、黒目川、白子川、石神井川などと並び、かつての古多摩川の名残の一つとされている』。『周囲は武蔵野台地に位置し、地下水も低く、水に恵まれないため』、『畑作(狭山茶など)が行われていた。貴重な河川であったことから親しみを込めて「大川」(おおかわ)と呼ばれることもあった。大雨の際には』、『水が』、『すべて』、『不老川に集まるため、しばしば氾濫を起こし』、二〇〇〇『年代以降にも河道の拡張工事が行われている』。一九八三年から三年『連続で「日本一汚い川」になるという不名誉な記録を作った時期もあったが、現在ではその汚名を返上して』おり、『市民団体や行政により』、『浄化の取り組みが続いており、小魚や水生昆虫、カルガモなどが生息する程度まで回復している。狭山市の流域においてはしばしば鯉が泳ぐ姿も確認されている。週末になると釣り人も多い。一方、近隣河川や池沼同様に特定外来生物であるウシガエルの生息・繁殖も確認されるようになり、回復しつつある生態系を保全するためこれを駆除するとともに、オタマジャクシや卵の除去作業も続けられている』。『元々の読みは「としとらずがわ」であり、江戸時代に編纂された』「新編武蔵風土記稿」では『「年不取川」の表記を用いている』。『近代以降』、『「不老川」の表記となったことから』、『音読みの「ふろうがわ」という読みが広まり、現在、一般化している。この川を示す看板には「ふろうがわ」「FURO RIVER」という読み仮名がふられているものもある』。『「としとらず」の由来』の項。『雨が少ない冬になると』、『干上がってしまい、太陰暦における年のはじめ(旧正月・春節)には水が流れなくなる。このため』、『旧暦正月に全員が』一『歳ずつ年齢を重ねる数え年の習慣における加齢の際に』、『その姿を現さない』ことから、『「年とらず川」あるいは「年とらずの川」と呼び習わされている』。『また、干上がった川の橋の下で一晩を過ごすと、歳をとらないといわれる伝承があり、そのことから、「としとらず」川といわれるようになったともされる』。『生活雑排水が流れ込むようになると』、『水量が増え干上がることはなくなっていたが、生活雑排水が流れ込まなくなってからは水量が減り、現在』、『一部流域では水が干上がることがある』とある。『年不取(としとらず)川を詠んだ歌』の項には、『江戸期の随筆』に載る「詠み人知らず」で、

 武藏野や年とらず川に若水を

    汲(くむ)程もなく春は來にけり

 昔し誰(たれ)わたり初(そめ)けん武藏野の

            若むらさきの年とらず川

の二首が掲げられてある。「渇水により干上がった不老川」の画像もある。サイト「川の名前を調べる地図」のこちらで、流域が判る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「肉芝」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

   

 

 肉芝【にくし】 〔嘉良喜随筆巻一〕延宝五年八月廿五日ノ夜、霊山権阿弥《りやうぜんごんあみ》ガ庭ニ丸ク白クシテ大ナル菌《きのこ》出ヅ。二三日ノ間ニ成リテ、白犬《しろいぬ》ノ蹲踞《そんきよ》ノ体《てい》に似タリ。タヽケバコンコント云フ。肉芝ノ類《るゐ》トミユ。

[やぶちゃん注::「嘉良喜随筆」は前項「南都の怪」で既出。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十一(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで(左ページ四行目から)視認出来る。

「延宝五年八月廿五日」グレゴリオ暦一六七七年九月二十一日。

「霊山権阿弥」これは、現在の時宗霊山正法寺(りょうぜんしょうぼうじ:グーグル・マップ・データ)の旧塔頭の東光寺(権阿弥:この寺の塔頭にはそれぞれ「阿弥号」があった)を指す(東光寺は現存しない)。幕末、ここは本願寺の住職の別荘「翠紅館」となった。京都が一望出来る。京都観光オフィシャルサイト「京都観光Navi」の「翠紅館跡」に地図がある。

「肉芝」菌界担子菌門ハラタケ綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科 Ganodermataceae に属するキノコ。薬用として知られたマンネンタケ属レイシ(霊芝)Ganoderma lucidum が含まれる。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「南都の怪」 / 「な」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 なお、本篇を以って、「な」の部は終わっている。]

 

 南都の怪【なんとのかい】 〔嘉良喜随筆巻四〕寛文十二年九月初メ、南都<奈良>今厨子ト云フ所、夜々《よよ》光ル。ソノ光ヲモトメテ地ヲ四尺程掘レバ、髑髏(ドクロ)ノ大《おほき》サノ少シ平(ヒラ)キ物アリ。中々臭気深クテ何トモナラズ。即チ捨《すつ》ルト光モナシ。マタ春日ノ一鳥井《いちのとりゐ》ノ辺《あたり》ニ、夜ニ入レバ七尺バカリノ人ノ如クナ[やぶちゃん注:ママ。]者、髪ヲ長クシテ人ヲカイテ[やぶちゃん注:「搔いて」か。「舁いて」ではおかしい。]追ヘバニゲル。コレハ野馬ノタケテ[やぶちゃん注:年を経て。]居《を》ルニテ有ルベシトナリ。希有ノ事ナリ。

[やぶちゃん注:「嘉良喜随筆」(からきずゐひつ)は垂加流神道家の山口幸充(こうじゅう 生没年未詳:日向生まれ)の随筆(全五巻)であるが、諸家の雑録・随筆からの抄録が多い。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十一(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで(左ページ八行目から)視認出来る。

「寛文十二年九月初メ」同九月一日はグレゴリオ暦で一六七二年十月二十一日。

「今厨子」現在の奈良県奈良市今辻子町(いまづしちょう)であろう(グーグル・マップ・データ)。

「春日ノ一鳥井」春日大社のそれはここ(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「南禅寺天狗」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 南禅寺天狗【なんぜんじてんぐ】 〔甲子夜話巻九〕寛政の末、誠拙和尚南禅寺の夏結制<夏籠り>に招かれて到りたるとき、かの後山の上にて、衆人の舞ひ歌ふごとき声頻りに聞ゆ。一山《いつさん》の人皆聞けり。因て云ふ。これは誠拙の来たるを天狗の悦びて此《かく》の如しと。また同じ時、誠拙厠《かはや》にゆくとき草履を厠外に脱ぎ置くに、出《いで》て見ればいつも正しく双《なら》べあるゆゑ、不審に思ひ侍者に問ひたるに皆知らず。これも天狗の所為《しよゐ》なりと言ひき。また一日鉄鉢《てつぱつ》に飯を盛りて本堂の仏前に供し、大衆《だいしゆ》勤行に及ばんとするに及んで鉄鉢なし。誠拙恚(いか)り一僧に命じて鎮守祠《ちんじゆのほこら》の前に焚香《たきかう》し、守護の疎《おろそか》なるを告げしむ。その日誠拙が宿院の庭籬《にはまがき》にかの鉢を載せて、その辺に血痕斑斑《はんぱん》たり。これ天狗の護神の譴(せめ)をうけしと云ふ。この事吾雄香寺の耕道和尚、その頃侍者にて目撃せしよし、印宗和尚語れり。印宗も誠拙に常に随従せし弟子なり。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷之九 25 誠拙和尙、南禪寺にて天狗を戒むる事」を公開しておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷九 25 誠拙和尙、南禪寺にて天狗を戒むる事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

9-25

 寬政の末、誠拙和尙、南禪寺の夏結制(げけつせい)に招かれて到(いたり)たるとき、かの後山(こうざん)の上にて、衆人の舞ひ歌ふごとき聲、頻(しきり)に聞ゆ。一山(いつさん)の人、皆、聞けり。

 因(よつ)て云ふ。

「これは、誠拙の來たるを、天狗の悅びて、如ㇾ此(かくのごとし)。」

と。

 又、同(おなじ)時、誠拙、厠(かはや)にゆくとき、草履を厠外に脫置(ぬぎおく)に、出(いで)て見れば、いつも、正しく雙(なら)べあるゆゑ、不審に思ひ、侍者に問(とひ)たるに、皆、知らず。これも、

「天狗の所爲(しよゐ)なり。」

と、人、言ひき。

 又、一日、鐵鉢(てつぱつ)に飯を盛りて、本堂の佛前に供し、大衆(だいしゆ)、勤行(ごんぎやう)に及ばんと爲(す)るに及(およん)で、鐵鉢、なし。

 誠拙、恚(いか)り、一僧に命じて、鎭守祠(ちんじゆのほこら)の前に焚香(たきかう)し、守護の疎(おろそか)なるを、告(つげ)しむ。

 其日、誠拙が宿院の庭籬(にはまがき)に、かの鉢を載せて、その邊(あたり)に、血痕、殷殷(いんいん)たり。

「これ、天狗の、護神の譴(せめ)をうけし。」

と云ふ。

 此事、吾(われ)、雄香寺(ゆうかうじ)の耕道和尙、その頃、侍者にて目擊せしよし、印宗和尙、語れり。印宗も誠拙に常に隨從せし弟子なり。

■やぶちゃんの呟き

 この話は、最初の部分が酷似した話が、同じ「甲子夜話」の「卷之六十四」の三条目、「南禪寺守護神」として出る。そこの注で私が電子化したものを示すと、

   *

享保辛酉の夏、鎌倉圓覺寺の誠拙和尙、京都南禪寺の招に依て上京淹留す。このとき寓居の院は、南禪の山中嶮峰の下に在り。然るに和尙淹留中、晴天月夜などには、時々深更に及び峰頂にして數人笛を吹き、鼓を鳴し、歌舞遊樂の聲頻なること數刻。この峰頂は尋常人の至る處にあらず。因て初は從徒もあやしみ驚きたるが、山中の古老曰ふには、この山中、古代より吉事ある時は、必ず峰頂に於て歌舞音曲の聲あり。これ守護神の歡喜する也と。守護神は天狗なりと言傳ふ【印宗和尙話】。

   *

そこで注したが、享保年間に「辛酉」(かのととり)の年はない。私はそこで、『享保二(一七一七)年丁酉(きのととり)或いは享保六(一七二一)年辛丑(かのとうし)の誤りであろう』としたのだが、干支を誤るのは、史料では最も資料としての価値が失われるため、最も忌避されるものである。而して、この酷似した内容から、私は、以上の静山が語った二つの話柄に限って言うならば、寛政十三年辛酉の出来事であったとするのが正しいと感じた。さらに、本篇の後の二話も宵曲が、『鎌倉圓覺寺の誠拙和尙が、南禪寺の招きによつて上京し、暫く逗留して居つたが』と枕するところから、この年の体験であったと断ずるものである。何故なら、以下の注を見ると判る通り、誠拙が円覚寺前堂首座になったのは天明三(一七八三)年であり、わざわざ、禅宗の頂点にある名刹南禅寺が、まだ、形式上、修行僧でしかなかった彼を、享保年間に招くことは考え難いと判断したからである。

「寬政の末」寛政十三年二月五日(グレゴリオ暦一八〇一年三月十九日)に「享和」に改元している。

「誠拙和尙」誠拙周樗(せいせつしゅうちょ 延享二(一七四五)年~文政三(一八二〇)年)は伊予生まれの傑出した臨済僧で歌人としても知られた。円覚寺の仏日庵の東山周朝に師事し、その法を継ぎ、天明三(一七八三)年に円覚寺前堂首座に就任した。書画・詩偈も能くし、茶事にも通じ、出雲松江藩第七代藩主で茶人としても知られた松平不昧治郷とも親交があった。香川景樹に学び、歌集に「誠拙禅師集」がある。文政二(一八一九)年に相国寺大智院に師家として赴任したが翌年、七十六で示寂した。(以上は思文閣の「美術人名事典」及びウィキの「誠拙周樗」に拠った)。松浦静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)より十五年上になるが、同時代人である。

「南禪寺」京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派大本山瑞龍山南禅寺。「京都五山」及び「鎌倉五山」の上に置かれる別格扱いの寺院で、本邦の全ての禅寺の中で最も高い格式を持つ寺である。

「夏結制」狭義には「夏安居」(げあんご:仏教の本元であったインドで、天候の悪い雨季の時期の、相応の配慮をした、その期間の修行を指した。多くの仏教国では、陰暦の四月十五日から七月十五日までの九十日を「一夏九旬」(いちげくじゅん)・「一夏」、或いは、「夏安居」と称し、各教団や大寺院で、種々の安居行事(修行)がある。本邦では、暑さを考えたものとして行われた夏季の一所に留まった修行を指す)の初日で、陰暦四月十五日。「結夏」(けつげ)とも言い、終了は「解夏(げげ)」と呼ぶ。

「殷殷」物音が盛んに轟渡るさま。

「雄香寺」長崎県平戸市にある臨済宗妙心寺派俊林山(しゅんりんさん)雄香寺(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、元禄八(一六九五)年に『当時の』第五代『平戸藩主松浦棟』(たかし:第九代藩主静山の曽祖父の長兄)『により』、『的山大島の江月庵を移し』、『現在地に建立された。開山は棟が師事していた禅僧の盤珪永啄。棟以降』、『歴代平戸藩主の菩提寺となった』とある。無論、静山の墓もここにある。

「耕道和尙」詳細事績不詳。

「印宗和尙」不詳。明山印宗という法力抜群の禅僧がいるが、誠拙周樗より前の人物であるから、違う。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「南海侯の化物振舞」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 南海侯の化物振舞【なんかいこうのばけものぶるまい】 〔甲子夜話巻五十一〕予<松浦静山>少年の頃久昌夫人の御側にて聞きたりしを、よく記億してあれば玆(ここ)に書《かき》つく。芝高輪の片町<東京都港区内>に貧窶《ひんる》の医住めり。誰問ふ人もなく、夫婦と薬箱のみ在《あり》て、僕《しもべ》とてもなき程なり。然るに一日訪問者有り。妻乃《すなは》ち出《いで》たるに、家内に病者あり、来診せらるべしと曰ふ。妻不審に思ひて見るに、身ぎれいなる人の帯刀して武家と見ゆ。因《よつ》て夫に告ぐ。医出て、某《それがし》固《もと》より医業と雖ども、洽療のほど覚束なし、他に求められよと辞す。士曰く、然らず、必ず来らるべしと。医固辞すれども聴かず。乃ち麁服《そふく》のまゝ随はんとす。見るに駕《かご》を率《ひき》ゐ、僕従数人《すにん》あり。妻愈〻(いよ《いよ》)疑ひて、薬箱を携ふる人なしと、以ㇾ実《じつを》て辞す。士曰くさらば従者に持たしめんとて、薬箱を持して医を駕に乗せ行く。妻更に疑はしく跡より見ゐたるに、行くこと半町もや有りけんと覚しき頃、駕の上より縄をかけ、蛛手《くもで》十文字にからげたり。妻思ふに極めて盗賊ならん、されども身に一銭の貯ヘなく、弊衣竹刀《しなひ》何をか為(な)すらんと思へども、女一人のことなれば、為すべきやうもなく、唯悲しみ憂へて独り音づれを待暮しぬ。医者は側らより駕の牗(まど)を堅く塞ぎて、内より窺ふこと能はざれば、何づくへ往くも知らざれど、高下迂曲《かうげうきよく》せるほど凡そ十余町も有るらんと覚しく、何方につれ行くかと案じ悶えたるが、ほどなく駕を止めたると覚しきに、傍人曰く、爰にて候出たまへとて戸を開きたるゆゑ、見たるに大造《たいさう》なる家作の玄関に駕を横たへたり。医案外なれば還《かへつ》て驚きたれど、為方《せんかた》なく出たるに、その左右より内の方にも数人並居《なみゐ》て、案内の人と行くほどに、幾間も通りて、書院と覚しき処にて、爰に待居《まちを》られよと、その人は退入《のきい》りたり。夫より孤坐して居るに、良久(ややひさしく)ありても人来らず。如何にと思ふに人声も聞こえざる処ゆゑ、若しや如何なる憂きめにや遇ふらんと思ふに、向うより七八歳も有らんと覚しき小児、茶台を捧げて来る。近寄りて見れば、未だ坊主あたまなるに、額に眼一つあり。医胸とゞろき、果して此所は化物屋鋪ならんと思ふ中《うち》、この怪も入りて、また長《た》け七八尺も有らん、大の総角(あげまき)の美服なる羽織袴を著、烟草盆(たばこ《ぼん》)を目八分《はちぶ》ンに持来《もちきた》る。医愈〻怖れ、怪窟はや脱する所あらじ、逃出《にげいで》んとするも行く先を知らず、兎やせん、角やせんと思ひ廻らすに、遙かに向うを見れば、容顔端麗なる婦の神仙と覚しく、十二単衣(ひとへ)に緋袴《ひばかま》きて、すらりすらりと過ぐる体《てい》、医心にこれこの家の妖王《やうわう》ならん、然れどもかれ近寄らざれば一時の難は免れたりと思ふ間《あひだ》に、程なくして一人継上下《つぎかみしも》を著たる人出で来て、御待遠なるべし、いざ案内申すべしと云ふ。医こはごは従ひ行くに、また間かずありて襖を隔て人声喧《かまびす》し。人云ふ、これ病者の臥所《ふしどころ》なりとて襖を開きたれば、その内には酒宴の体《てい》にて、諸客群飲して献酬頻りなり。医こゝに到ると一客曰く、初見の人いざ一盃を呈せんとて医にさす。医も仰天して固辞するを、また余人寄て強勧《きやうくわん》す。医辞すること能はず、乃ち酒盃受く。時に妓《ぎ》楽座《がくざ》に満ちて絃歌涌くが如く、俳優周旋して舞曲眼《まなこ》に遮《さへぎ》る。医生も岩木《いはき》に非ざれば稍〻《やや》歓情を生じ、相俱(《あひ》とも)に傾承《けいしよう》時を移し、遂に酩酊沈酔して坐に臥す。それより医の宅には、夫の事を思へども甲斐なければ、寡坐《ひとりざ》して夜闌《たけなは》に到れども消息なし。定めし賊害に遭ひたらんと寐《ね》もやらで居《をり》たるに、鶏声狗吠《けいせいくはい》暁を報ずる頃、戸を敲く者あり。妻怪しみて立出たるに、赤鬼青鬼と駕を舁《かき》て立てり。妻大いに駭き、即ち魂《たま》も消えんとせしが、命は惜しければ内に逃入りたり。されども流石《さすが》夫の事の捨てがたく、暫して戸𨻶《とのすき》より覘(うかが)ひたるに、鬼ははや亡去(にげ《さ》)りて駕のみ在り。また先の薬箱も故(もと)の如く屋中《やうち》に入れ置きたり。夜もはや東方《とうはう》白《びやく》に及べば、立寄りて駕を開きたるに、夫は丸裸にて身には褌《ふんどし》あるのみ。妻死せりと伺ふに、熟睡して鼾息《いびき》雷《かみなり》の如し。妻はあきれて曰く、地獄に墜ちたるかと為《す》れば左もなく、盗難に遭ひたるかと為れば酒気甚し。狐狸に欺かれたるかと為れば、傍《かたはら》に大なる包《つつみ》あり。発《ひら》きて見れば、始め著ゐたりし弊衣の外に、新衣をうち襲《かさ》ねて襦袢紙入れ等迄、皆具して有りたり。然れども夫の酔覚めざれば姑《しばら》く扶《たす》けいれ、明朝やゝ醒めたるゆゑ、妻事の次第を問ふに、有りし如く語れり。妻も亦その後《のち》のことを語り合ひて、相互《あひたがひ》に不審晴れず。この事遂に近辺の伝話《つたへばなし》となり、誰《たれ》知らざる者も無きほどなりしが、誰云ふともなく、これは松平南海の徒然《つれづれ》を慰めらるゝ戯《たはむれ》にして、斯くぞ為《せ》られしとなん。この時彼《か》の老侯の居《を》られし荘《さう》は、大崎とか云ふて高輪(たかなわ)遠からざる所なる故《ゆゑ》なり。また一目童子《ひとつめのどうじ》は、その頃封邑《ふういふ》雲州にて産せし片わなる小児なりしと。八尺の総角は世に伝へたる釈迦獄《しやかがたけ》と云ひし角力人(すまふ《にん》)にて、亦領邑より出し力士なり。また神仙と覚しき婦は瀬川菊乃丞と呼びし俳優にして、その頃侯の目をかけられし者なりしとぞ。<『落栗物語』後編に同様の文がある>

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷卷五十一 13 貧醫思はず侯第に招かる事」を細かな注を附して公開しておいた。そこの冒頭注で述べた通り、この話、実は、柴田宵曲の「妖異博物館」の巻頭第一話「化物振舞」の私の注で、一度、『東洋文庫』版の体裁のままにベタで全篇通し一段で、恣意的正字表現で電子化している。但し、注は附していない。今回は完全にブラッシュ・アップしたので、最初のリンク先が決定版となる。

「落栗物語」は豊臣時代から江戸後期にかけての見聞・逸話を集めた大炊御門家の家士侍松井成教(?~天明六(一七八六)年)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『百家隨筆』第一 (大正六(一九一七)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が正字表現で視認出来る(右ページ下段後ろから二行目以降)が、実は、これも柴田宵曲の「妖異博物館」の巻頭第一話「化物振舞」の私の注で、一度、『東洋文庫』版の体裁のままにベタで全篇通し一段で、恣意的正字表現で電子化した。今回、上記の『百家隨筆』版を底本にし、そちらの本文を校訂しておいたので、そちらを見られたい。なお、こちらは、注は不要と断じた。

フライング単発 甲子夜話卷卷五十一 13 貧醫思はず侯第に招かる事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。

 但し、この話、実は、柴田宵曲の「妖異博物館」の巻頭第一話「化物振舞」の私の注で、一度、『東洋文庫』版の体裁のままにベタで全篇通し一段で、恣意的正字表現で電子化している。但し、注は附していない。

 本篇は、比較的長く、展開が甚だ面白いので、完全に零から仕切り直し、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えて読み易くし、さらに、可能な限り、注を、文中、或いは、段落末に附した。

 

51―13 貧醫(ひんい)思はず侯第(こうだい)に招かる事

 予、少年の頃、久昌(きうしやう)夫人の御側(おそば)にて聞(きき)たりしを、よく記憶してあれば、玆(ここ)に書(かき)つく。

[やぶちゃん注:「久昌(きうしやう)夫人」静山の祖母で養母に当たる静山の祖父松浦誠信(まつらさねのぶ 正徳二(一七一二)年~安永八(一七七九)年)の正室となった「宮川とめ」、後に「久昌院」を名乗った人物である。静山の実父松浦政信は清(静山)が生まれた宝暦一〇(一七六〇)年から十一年後の明和八(一七七一)年八月、家督を継がずに早逝したため、長男ではあったが、側室の子であった清は(正室には子がなかった)、それまで「松浦」姓を名乗れずに「松山」姓を称していたものを、同年十月二十七日に祖父誠信の命で養嗣子となったのであった。四年後の安永四(一七七五)年二月十六日、祖父(養父)の隠居により、家督を相続、肥前国平戸藩第九代藩主となった。]

 芝高輪の片町に、貧窶(ひんる)の醫、住めり。誰(たれ)問ふ人もなく、夫婦と藥箱(くすりばこ)のみ在(あり)て、僕(しもべ)とても無きほどなり。

[やぶちゃん注:「貧窶」非常に貧しいこと。「ひんく・ひんろう」とも読む。]

 然(しか)るに、一日、訪者あり。

 妻、乃(すなはち)、出(いで)たるに、

「家内に病者あり。來診せらるべし。」

と曰ふ。

 妻。不審に思(おもひ)て見るに、身ぎれいなる人の、帶刀して、武家と見ゆ。因(よつ)て、夫に告ぐ。

 醫、出て、

「某(それがし)、固(もと)より醫業と雖ども、治療のほど、覺束(おぼつか)なし。他(ほか)に求められよ。」

と辭す。

 士、曰(いはく)、

「然らず。必ず、來らるべし、」

と。

 醫、固辭すれども、聽かず。

 乃(すなはち)、麁服(そふく)のまゝ隨はんとす。

[やぶちゃん注:「麁服」粗末な服。]

 見るに、駕(かご)を率(したが)へ、僕從、數人(すにん)あり。

 妻、愈々、疑(うたがひ)て、

「藥箱を攜(たづさへ)る人、なし。」

と、以ㇾ實(じつをもつて)て、辭す。

 士、曰、

「さらば、從者に持(もた)しめん。」

迚(とて)、藥箱を持して、醫を駕に乘せ行く。

 妻、更に疑はしく、跡より見ゐたるに、行(ゆく)こと半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]もや有(あら)んと覺しき頃、駕の上より、繩を、かけ、蛛手(くもで)・十文字に、からげたり。

 妻、思(おもふ)に、

『極(きはめ)て、盜賊ならん。去れども、身に一錢の貯(たくはへ)なく、弊衣・竹刀(しなひ)、何をか爲(な)すらん。』

と思へども、女一人のことなれば、爲(なす)べきやうもなく、 唯、かなしみ憂(うれへ)て、獨り、音づれを待暮(まちくら)しぬ。

 醫者は、側(かたは)らより、駕の牖(まど)[やぶちゃん注:連子(れんじ)窓。格子窓。]を、堅く、塞(ふさぎ)て、内より窺ふこと、能はざれば、何づくへ往(ゆく)とも知らざれど、高下迂曲(かうげうきよく)[やぶちゃん注:上下にわざと揺らして遠回りすること。]せるほど、凡(およそ)十餘町も有るらんと覺しく、

『何方(いづかた)につれ行くか。』

と、案じ悶(もだへ)たるが、程なく、駕を止めたると覺しきに、傍人、曰く、

「爰(ここ)にて候。出(いで)たまへ。」

迚(とて)、戶を開きたるゆゑ、見たるに、大造(たいさう)なる家作の玄關に、駕を橫たへたり。

 醫、案外なれば、還(かへつ)て駭(おどろ)きたれども、爲方(せんかた)なく出たるに、その左右より、内の方にも、數人(すにん)幷居(ならびゐ)て、案内(あない)の人と行(ゆく)ほどに、幾間(いくま)も通りて、書院と覺しき處にて、

「爰に待(まち)ゐられよ。」

と、その人は、退入(のきいり)たり。

 夫(それ)より、孤坐(こざ)してゐるに、良(やや)久(ひさしく)ありても、人、來らず。

『何(い)かに。』

と思ふに、人聲(ひとごゑ)も聞こへざる處ゆゑ、

『若(もし)や、何(いか)なる憂きめにや、遇ふらん。』

と思ふに、向(むかふ)より、七、八歲も有らんと覺しき小兒(しやうに)、茶臺を捧(ささげ)て來(きた)る。

 近寄りて見れば、未だ坊主あたまなるに、額に、眼(まなこ)、一つ、あり。

 醫、胸、とゞろき、

『果して、此所は化物屋鋪(やしき)ならん。』

と思ふ中(うち)、この怪も入りて、また長(た)け、七、八尺も有らん大(だい)の總角(あげまき)の、美服なる羽織・袴を着、烟草盂(たばこぼん)を目八分(ぶ)んに持來(もちきた)る。

[やぶちゃん注:「目八分」物を差し出す際、両手で目の高さより少し低くして捧げ持つこと。ここでは大男だから、物理的にはそうなるのであるが、この言いは、通常、「傲慢な態度で人に接する・ 人を見下す」の意が含まれ、ここもそれを狙っている。]

 醫、愈々、怖れ、

『怪窟(くわいくつ)、はや、脫する所あらじ。逃出(にげいで)んとするも、行く先を知らず。兎(と)や爲(せ)ん、角(かく)やせん、』

と、思𢌞(おもひめぐ)らすに、遙(はるか)に向(むかふ)を見れば、容顏端麗なる婦(ふ)の、神仙と覺しく、十二ひとへに緋袴(ひばかま)きて、

「すらりすらり」

と過(すぐ)る體(てい)、醫、心に、

『是れ、此家の妖王(えうわう)ならん。然れども、かれ、近依らざれば、一時の難は免れたり。』

と思ふ間(あひだ)に、程なくして、一人、繼上下(つぎかみしも)を着たる人、出來て、

「御待遠(おまちどほ)なるべし、いざ、案内申すべし。」

と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「繼上下」肩衣と袴を、それぞれ、別の生地で仕立てた江戸時代の武士の略儀の公服。元文(一七三六年~一七四一年)末頃から平日の登城にも着用した(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 醫、こはごは、從行(したがひゆく)に、又、間(ま)かずありて、襖を障(へだ)て、人聲、喧(かまびす)し。

 人、云(いはく)、

「これ、病者の臥所(ふしど)なり。」

とて、襖を開きたれば、その内には、酒宴の體(てい)にて、諸客群飮して、獻酬、頻(しきり)なり。

 醫、こゝに到ると、一客の曰、

「初見の人、いざ、一盃を呈せん。」

迚(とて)、醫に、さす。

 醫も仰天して固辭するを、又、餘人、寄(より)て强勸(がうくわん)す。

 醫、辭すること能はず、乃(すなはち)、酒盃を受く。

 時に妓樂(ぎがく)、坐に滿(みち)て、弦歌、涌(わく)が如く、俳優、周旋して、舞曲、眼(まなこ)に遮る。

 醫生も、岩木(いはき)に非ざれば、稍(やや)、歡情を生じ、相俱(あひとも)に傾承(かたむけうけ)、時を移し、遂に、酩酊沈睡して坐に臥す。

 夫(それ)より、醫の宅には、夫(をつと)のことを思へども、甲斐なければ、寡坐(かざ)して夜闌(よふけ)に到れども、消息、なし。

『定(さだめ)し、賊害に遭(あひ)たらん。』

と、寐(いね)もやらで居(をり)たるに、鷄聲狗吠(けいせいくはい)、曉を報ずる頃、戶を敲く者、あり。

 妻、あやしみて、立出たるに、赤鬼・靑鬼と、駕を舁(かい)て立てり。

 妻、大(おほき)に駭(おどろ)き、卽(すなはち)、魂(たま)も消(きえ)んとせしが、命は惜)をし)ければ、内に逃入(にげい)りたり。

 されども、流石(さすが)、夫のことの捨(すて)がたく、暫しして、戶隙(とすき)より覘(うかがひ)たるに、鬼はゝや亡去(うせさり)て、駕のみ、在り。

 又、先の藥箱も、故(もと)の如く、屋中(をくうち)に入れ置(おき)たり。

 夜もはや、東方(とうはう)白(びやく)に及べば、立寄(たちより)て、駕を開(あけ)たるに、夫は丸裸にて、身には褌(ふんどし)あるのみ。

 妻、

『死せり。』

と伺ふに、熟睡して、鼾息(いびき)、雷(かみなり)の如し。

 妻は、あきれて、曰、

「『地獄に墜(おち)たるか』と爲(な)れば、左(さ)もなく、『盜難に遭(あひ)たるか』と爲れば、醺氣(くんき)、甚し。『狐狸に欺れたるか』と爲れば、傍(かたはら)に大なる包(つつみ)あり。」

 發(ひらき)て見れば、始め、着ゐたりし弊衣の外に、新衣をうち襲(かさね)て、襦袢・紙入れ等迄、皆、具して有りたり。

 然れども、夫の醉(ゑひ)、覺(さめ)ざれば、姑(しばら)く扶(たすけ)いれ、明朝、やゝ醒(さめ)たるゆゑ、妻、事の次第を問(とふ)に、有(あり)し如く語れり。

 妻も亦、その後(あと)のことを語り合(あひ)て、相互に不審、晴れず。

 この事、遂に、近邊の傳話(つたへばなし)となり、誰(たれ)知らざる者も無きほどなりしが、誰(たれ)云(いふ)ともなく、

「是は、松平南海の徒然(つれづれ)を慰めらるゝの戲(たはむれ)にして、斯(かく)ぞ爲(せ)られし。」

と、なん。

 この時、彼(かの)老侯の居られし莊(さう)は、大崎とか云(いひ)て、高輪(たかなは)、遠からざる所なる故(ゆゑ)なり。

 又、一目の童子は、その頃、彼(か)の封邑(ふういふ)雲州にて產せし片(かた)わなる小兒なりし、と。

 又、八尺の總角は、世に傳へたる「釋迦ヶ嶽」と云(いひ)し角力人(すまふにん)にて、亦、領邑(りやういふ)に出(いで)し力士なり。

 又、神仙と覺しき婦は、「瀨川菊之丞」と呼(よび)し俳優にして、その頃、侯の目をかけられし者なりし、とぞ。

[やぶちゃん注:「松平南海」出雲国松江藩六代藩主松平宗衍(むねのぶ 享保一四(一七二九)年~天明二(一七八二)年)が隠居(明和四(一七六七)年十一月に財政窮乏の責任を取って、次男治郷(不昧)に家督を譲った。隠居時は四十三歳)後、十年程して名乗った法号。当該ウィキによれば、『隠居してからの宗衍は奇行を繰り返したため、以下のように奇行にまつわる逸話が多い』とし、『家臣に命じて』、『色白の美しい肌の女を連れて来させては、その女性の背中に花模様の刺青を彫らせて薄い白色の着物を着せた。着物からうっすらと透けて浮き上がってくる背中の刺青を見て喜んだといわれる。刺青を入れられた女性は「文身(いれずみ)侍女」と呼ばれて江戸の評判になったが、年をとって肌が弛んでくると宗衍は興味を失い、この侍女を家臣に与えようとした。しかし誰も応じず、仕方なく』一千『両を与えるからと』命じても、『誰も応じなかったという』。『江戸の赤坂にある藩邸の一室に、天井から襖まで』、『妖怪や』、『お化けの絵を描いた化け物部屋を造り、暑い夏の日は一日中そこにいた。見聞集』「江戸塵拾」や「当代江戸百化物」でも、奇癖の持ち主として『「雲州松江の藩主松平出羽守」の名前が挙がっている』。『参会者が全員、裸で茶を飲む裸茶会を開催している』。「赤蝦夷風説考」『などの著書で知られる医師』で『経世家(経済学者)であ』った『工藤平助』(私の好きな只野真葛の父)『との交流の話が残る』とあり、無論、本篇も、『松平南海が退屈を紛らわすために長身力士の釋迦ヶ嶽雲右エ門を化物に扮装させて、芝高輪(現・高輪)の貧乏医者をからかった旨の記述がある』と記す。

「彼老侯の居られし莊は、大崎とか云て、高輪、遠からざる所なる故なり」サイト「江戸マップ」の「江戸切絵図」の「芝高輪辺絵図」を見られたい。左端の方に「大崎村」の表示があり、そのすぐ下方に「松平出羽守」とあるのが、それ。ここの北は現在の品川区立御殿山小学校の一部で、その東北直近が現在の高輪であるから、南海の屋敷から最大でも三キロと離れていないものと思われる。というか、「高下迂曲」という表現から見ると、この医師の家は、案外、ごく近くだったのではないかと私は考えている。

「一目の童子は、その頃、彼の封邑雲州にて產せし片わなる小兒なりし」サイクロプス症候群(単眼症)の子どもであるが、同症候群は、脳の形成異常を伴う重症の奇形で、殆んどが死産、若しくは、出生直後に死亡し、長くても一年以内に死亡するようである。手塚治虫の「ブラック・ジャック」の「魔女裁判」で単眼症の少年が登場するが、ああいうことは一寸考え難い気がする。

『「釋迦ヶ嶽」と云し角力人にて、亦、領邑に出し力士なり』釋迦が嶽雲右衞門(寛延二(一七四九)年~安永四(一七七五)年)は出雲国能義郡(現在の島根県安来市)生まれ。当該ウィキによれば、身長二メートル二十六センチメートル、体重百七十二キログラムで、『江戸相撲では並外れた超大型の力士で』、『実力も高いことで知られている。しかし従来から病人であるためか』、『顔色が悪く、眼の中が澱んでいたという』。現役中の二十七歳で若死にしているが、『釈迦の命日と同じであり、四股名と併せて奇妙な巡り合わせと評判になった』。なお、安永二(一七七三)年には、『後桜町天皇から召されて関白殿上人らの居並ぶ中で拝謁して土俵入りを披露し、褒美として天皇の冠に附ける緒』二『本が与えられた。それは聞いた主君の出羽守(松平治郷)』(松平不昧。第十代松江藩主)『から召されて』、二『本の緒を目にした出羽守は驚きつつ喜び、側近に申し付けて小さな神棚を設けて緒を祀った。釋迦ヶ嶽が死去した時、神棚が激しい音を立てて揺れたため、出羽守は気味悪く思って出雲大社に奉納したと伝わっている』とある。

「瀨川菊之丞」三代目瀬川菊之丞(宝暦元(一七五一)年~文化七(一八一〇)年)化政期に活躍した女形の歌舞伎役者。瀬川富三郎として安永三(一七七四)年春の市村座での「二代目菊之丞一周忌追善」として「百千鳥娘道成寺」(ももちどりむすめどうじょうじ)を踊り、大評判となり、同年十一月の市村座の顔見世で三代目瀬川菊之丞を襲名している。「釋迦ヶ嶽」と「瀨川菊之丞」は、私の「只野真葛 むかしばなし (80)」でも記されてある。]

2023/12/20

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「縄池」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 縄池【なはいけ】 〔北国奇談巡杖記巻二〕越中国蓑谷山の絶頂にあり。その広さ三百七十間四方にして、漫水藍のごとく湛へたり。この池に神蛇住んで、毎年七月十五日の夜、容顔美麗の女体《によたい》とあらはれ、池上に一夜遊楽するとて、人を制して登山を禁ず。またこの池に不思議のことあり。むかしこの里の土民、豊作のねぎごと[やぶちゃん注:「祈(ね)ぎ事」。神仏に祈り願うこと。]ありて、村長《むらをさ》および古き老友など饗応せんとおもへども、家貧にして宴《うたげ》をなすべき器《うつは》もなく、ある日この池のほとりに彳(たたず)みて、ひとりごとしてつぶやきゐけるに、俄かに池波《いけなみ》動揺して、池上《ちじやう》に朱椀朱膳十人前浮き出たり。このものおもへらく、これこそ池主の感愍《かんびん》ありて、我に借《かし》たまへりと、厚く礼拝して、明後日まで貸したまはれ、この方《はう》の用事済み次第、返し奉るべしといひて、家路に荷ひこみて、その饗応をとゝのひ、かくてその約日に謝し返しけるに、ずるずると沈み失せたり。その後このこと村中に流布し、人々奇特に信をのべて、用要の時はこの池辺にその前日まうでて、明日は何人前貸したまはれと秘かに祈り、明《あく》る暁に行きてみるに、何ほどにても願ひ入れし数ほど、かならず浮出《うきいで》ありとなり。よて[やぶちゃん注:後掲する活字本もママ。「よりて・よつて」。]里人等、呼びて家具貸《かぐかし》の池とぞ号《なづ》けける。そののちひとりの朽尼《きうに》有りて、三人前かり入れ、十日ばかりも返さず。終《つっひ》に中椀《ちゆうわん》二ツを損ひて、不足のまゝに戻せしが、池浪《いけなみ》頻りに荒鳴《かうめい》し、大雨をふらし洪水を出《いだ》し、老婆[やぶちゃん注:「老尼」を指す。]が屋敷逆溢《げきいつ》に流れ、命もとられけるとぞ。そののち家具ををしみ、祈れどもたのめども出さずとなり。只をしむらくはこれ瑞品《ずいひん》なりけらし。今は蕀々《きよくきよく》と生茂《しやうも》して物すごく、深さは千尋《ちひろ》に及び、常に日影も至らず、梟《ふくろふ》松桂《まつかつら》の枝にかくれ、狐狼の臥戸(ふしど)となりて寂寞のところなり。

[やぶちゃん注:「北国奇談巡杖記」加賀の俳人鳥翠台北茎(ちょうすいだい ほっけい)著になる越前から越後を対象とした紀行見聞集。かの伴蒿蹊が序と校閲も担当しており、文化三(一八〇六)年十一月の書肆の跋がある(刊行は翌年)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第九巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字活字で読める。『卷之二』の『越中國之部』の内。標題は『○繩池』。後半部は柳田國男が好きな「椀貸伝説」の典型的例である(例えば、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一』以下を見られたい)。

「縄池」南砺市北野にある「縄ヶ池」(「ひなたGPS」)。私は高校一年の春、一度だけ、所属していた「生物部」の採集を兼ねたハイキングで訪れたことがある。この池は、「縄ヶ池の龍神伝説」で知られる。サイト「いこまいけ南砺」の「縄が池姫神社」に、『約』千二百『年前に鎮守府将軍をしていた藤原秀郷(俵藤太)が近江国で』、「大むかで」を『退治したお礼に龍神から龍の子(姫)をもらいました。そして、この地に小さな池を』掘り、『龍神の子を放し、しめ縄を広く張り巡らしたところ、一夜にして大きな池となったと伝えられています』。『その時の龍の子が縄ヶ池の守り神になっと言われ、湖畔に小さな石の祠が建てられています。縄ヶ池は龍神の住む池のため、池に石を投げると祟りがあるといわれています』とある。ここは特にミズバショウの自生地としても有名である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鳴門の太鼓」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鳴門の太鼓【なるとのたいこ】 〔斉諧俗談巻三〕阿波国鳴門は、海上一の難所なり。相伝へて云ふ。後光厳院の御宇、康安元年の夏秋の間大地震して、七月廿四日に俄かに潮《うしほ》かわきて陸となる。このとき、鳴門の岩の上に周(まはり)二十尋ばかりの太皷《たいこ》見たり。※(どう)[やぶちゃん注:「※」=(へん:「鼓」-「支」)+(つくり:「桑」)。「どう」の読みは、底本ではカスレで判読出来ない。後に示す活字本と『ちくま文芸文庫』を採用した。太鼓の「胴」である。]は石にして、面《めん》は水牛の皮、巴《ともゑ》の紋を画《ゑが》き、銀の泡頭(びやう)をうつ。これを見る人、大きに怪しみおどろく。曾て試みにこれを打つに、大なる鐘本(しゆもく)を用《もつ》て、鐘を撞《つ》くがごとくす。しかるにその音、天にひゞき、山崩れ潮湧き出《いで》て、人民迯去《にげさ》りて、かの太鼓の行方を知らずと云ふ。また或書に云ふ。いつの頃にか有りけん。鳴門つよく鳴りて、近国その響音《きやうおん》雷《かみなり》のごとし。因《よつ》て都にて諸卿評議ありて、小野小町に勅諚《ちよくぢやう》ありて小町、淡路に下向して、鳴門に行きて一首の和歌を詠ず。[やぶちゃん注:以下の和歌は二字下げベタ二行だが、上・下句で分離し、字下げを施した。]

 ゑのこ穂がおのれと種を蒔置きて

      粟のなるとは誰か云ふらん

と読みければ、たちまち鳴動やみけるとなん。淡路国の行者《ぎやうじや》が嶽《たけ》の下なる所の海端《うみはた》に、小町岩と云ひて、岩の上に少し平《たひら》なる岩、海上へ望みてあり。この岩の上にて、小町哥を詠じて、水神を祭りし所と云へり。

[やぶちゃん注:「斉諧俗談」は「一目連」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(同書『目錄』の標題は『○鳴門太皷(なるとのたいこ)』)で当該部を正字で視認出来る。

「後光厳院の御宇」南北朝の北朝第四代天皇後光厳天皇(在位:観応三(一三五二)年~応安四(一三七一)年)。

「康安元年の夏秋の間大地震して、七月廿四日に俄かに潮かわきて陸となる」南海トラフ沿いの巨大地震と推定されている「正平地震」(しょうへいじしん)の一三六一年に発生した大地震。当該ウィキによれば、『この地震名の「正平」は南朝の元号から取ったものであり、北朝の元号である康安から取って康安地震(こうあんじしん)とも呼称され、多くの史料が北朝の年号で書かれているため』、『現在の日本史学の慣習に従って「康安地震」と称した方が良いとする意見がある』とある。正平一六/康安元年六月二十四日寅刻(ユリウス暦一三六一年七月二十六日午前四時頃、グレゴリオ暦換算同年八月三日)に、『畿内・熊野などで被害記録が残るような大地震が発生した』とあり、「太平記」巻第三十六の記事を引いて、『二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。』とあり、例によって引用元は、この「太平記」であることがバレバレである。『鳴戸では三四日前に海が干上がり、地震前後に数時間に亘って地鳴りが響き渡り、地震による地殻変動と思われる現象で再び没して海に戻った様子が比喩的に表現されている』とあることで、太鼓は「狂言回し」であることが判る。後半の小町のそれは、出所を調べる気にもならぬ。悪しからず。

「周(まはり)二十尋」一尋を五尺(一・五二メートル)とすると、胴回り三十・四メートルで、直径は約四十八センチメートルとなる。

「淡路国の行者が嶽」淡路島の南西端(兵庫県南あわじ市福良丙(ふくらへい))に、「行者ヶ嶽砲台」跡がある。

「小町岩」この海岸線のどこかか(グーグル・マップ・データ航空写真)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「中山家怪異」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 中山家怪異【なかやまけかいい】 〔閑窻自語〕延享二年、中山故大納言栄親《ひでちか》卿いしやの家にて、人の恠異《かいい》とて、朝よりゆふべまで調度の類《るゐ》うごき、また陶器などは、おのづから飛びて割れぬ。夜にいれば、怪しき事さらになし。かの祈禱などさせけれども、さらにしるしなし。その秋、栄親卿の室、俄かにうせられぬ。そのさとし[やぶちゃん注:「諭し」神託。]にやと、人いひあへり。およそ一月あまりまで、この怪しみありて、その後はかの怪異、鳥丸中立売《からすまなかだちうり》の毘沙門堂の里坊に移りしとぞ。そのあくるとし、中御門院皇女籌宮《かづのみや》、かの里坊にしばらくおはしませしに、弥生<三月>ばかりなりけるに、雛のあそびの人形とりならべてありけるに、そのひなども人のごとく笑ひけるにおどろかせ給ひて、院御所へ内々わたらせ給ひしと、或人の語りし。

[やぶちゃん注:「閑窻自語」(かんさうじご)は公卿柳原紀光(やなぎわらもとみつ 延享三(一七四六)年~寛政一二(一八〇〇)年)の随筆。権大納言光綱の子。初名は光房、出家して「暁寂」と号した。宝暦六(一七五六)年元服し、累進して安永四(一七七五)年、権大納言。順調な昇進を遂げたが、安永七年六月、事により、解官勅勘を被った。翌々月には許されたが、自ら官途を絶って、出仕することなく、亡父の遺志を継いで国史の編纂に力を尽くし、寛政一〇(一七九八)年まで前後二十二年間を要して「続史愚抄」禅全八十一冊を著した。国立国会図書館デジタルコレクションの『隨筆三十種』第五集(今泉定介・畠山健校訂編纂/明三〇(一八九七)年青山堂刊)で、ここから次のコマで視認出来る。

「中山故大納言栄親」中山栄親(宝永六(一七〇九)年~明和八(一七七一)年)は江戸中期の公卿。中山兼親の子。正二位・権大納言。享保一七(一七三二)年には、参議に任じられている。正室は勧修寺(かじゅうじ)高顕の娘。

「鳥丸中立売の毘沙門堂の里坊」とあるので、ここの西の大宮通から東にあったものであろうが、現存しないようである。

「中御門院皇女籌宮」中御門天皇の第五皇女成子内親王(籌宮 享保一四(一七二九)年~明和八(一七七一)年)で、閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひとしんのう 享保一八(一七三三)年~寛政六 (一七九四)年)の妃となった。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「中万字屋の幽霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 中万字屋の幽霊【なかまんじやのゆうれい[やぶちゃん注:底本では、「なかまんしや」っであるが、『ちくま文芸文庫』で濁音を採用した。]】 〔半日閑話巻十〕文化七庚午年旦畝(タンホ)中万字屋妓を葬る。[やぶちゃん注:改行は底本のママ。]

 十月末の事なり。この妓病気にて引込み居《ゐ》たりしを、遣り手[やぶちゃん注:遊里で遊女の監督・采配などをする年配の女。]仮初《かりそめ》なり[やぶちゃん注:実際の病気ではなく、いい加減な仮病だと断じたのである。]とて、折檻を加へしに、ある日小鍋に食を入れて煮て喰はんとせしを見咎め、その鍋を首にかけさせ、柱に縛り付けて置きしかば、終《つひ》に死《し》しけり。その幽霊首に小鍋をかけて廊下に出るよし、沙汰あり。

[やぶちゃん注:「半日閑話」「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題は『○中萬字屋の幽靈』である。

「文化七庚午年旦畝(タンホ)」一八一〇年。干支は正しいが、「旦畝(タンホ)」が判らない。「旦」は正月のことだろう。「畝」が判らない。「卯」は実は、上記活字本では、『印』となっているのだが、まあ「卯」であろう。同年一月の「卯」の日は一月十二日・二十四日の二日だけである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「中橋稲荷の霊験」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

       

 

 中橋稲荷の霊験【なかのばしいなりのれいげん】 〔思出草紙巻六〕享保十二丁未年四月、江戸小石川<東京都文京区内>石野何某が妻怪《くわい》有《ある》の事あり。その妻が里は官医阿部の娘にて、石野は再縁にして、今年の春に婚姻なしたり。その節より彼《かの》妻、自然に鬼女の形なるものあらはれて、かたはらを離るゝ事なし。依《よつ》て恐ろしともいふ計《ばか》りなし。召仕ひぬる女どもの目にも、鬼の形ちをりふし見えければ、暇《いとま》をこひて出《いづ》るもの多し。後には昼夜のへだてなく、異形《いぎやう》のもの、妻のかたはらを離るゝ事なし。この事を人に語り聞かすれども、誰々も誠の事とは思ひよらざりき。この前《さき》の妻も、かゝる異形のもの、常々附添ひたることつのりて、世をさりたるなるべしと恐ろしく、親里へ帰りて逗留の中、曾てこの事なく、小石川へ帰れば、また元のごとく異形のもの前にあつて、甚だ怒れる形総[やぶちゃん注:ママ。後に示す活字本でも同じ。「形相(ぎやうさう)」の誤記か。]、うるさくも恐ろしき事いふばかりなし。後々は妻も心地なやましくなつて、既に妖怪の為に命もたえだえにして、いかゞせんと思案なしたりしが、流石(さすが)に武士の家に居《をり》て、後《おく》れたるやうに恐れ迷はん事も賤《いや》しかるべし。如《し》かじ自害して、この苦しみをさらんにはとて覚悟を極め、あるとき納戸に閉ぢこもりて、守り刀を抜き持ちて、既に自害せんとせるを、乳《め》の女《をんな》その外四五人縫ひものして居たるに、その中に独りの女、針を捨て急に馳せ行き、納戸の襖蹴放《けはな》し、取付き留めて大いにさけびけるにぞ、残りたる女も大いにおどろき、はしり来り取留めたり。女が声《こゑ》気色《けしき》、常の風情にあらずして申しけるは、扨々あやふきかな、我今少しおそかりせば、大切のこの子に怪我あるべしと、言ふとそのまゝ引倒れ、正体なく寝入りたり。それより石野が妻に乗移り、気色かはりて見えければ、石野も大いにおどろき、先づ里ヘこの段言ひ遣はしたるに、舅の阿部来りて、いかゞせんと取かこみたり。阿部、娘に問うて曰く、汝いかなるものの取付けるぞ、この程《ほど》鬼形《きぎやう》の者ありて、目にさへぎりしと聞きしは、扨は汝が所為なるか、具さに申すべし。石野が妻答へて曰く、思ひ寄らざる御尋ねなり、夢々左様のものにあらず、我は代々の御屋敷中橋の鎮守たるおまん稲荷の神霊《しんれい》なり、かの鬼形のものは、石野家代々の霊気《れいき》なり、今にて妻たる人三人ほろびて、この息女四人目なり、いづれもその霊のなす業《わざ》なり、既に先刻あやふき所を、我れいたましく思うて、はしり来り救ひたり、この分にては霊気立《たち》さる事かたかるべし、我かくしてある内はおかす事叶ふべからず、然れどもこれにては本心にあらず、所詮この霊気の為に法華一七日《ひとなぬか》読誦あるべし、さあらば霊気も退散あらん。座中この事を聞きこれにしたがひ、丸山本妙寺の住僧を頼みて転読するに、石野の妻も衆僧と一同に経をよむ事流るゝ如し。さて一七日満《みつ》る日、妻の曰く、この功力《くりき》に依て悪霊も退散せり、我も放《はな》るにも別事あるべからず、最早帰るべし。石野おどろいて曰く、この程より取紛れて問ひ聞く事あたはず、今しばらく逗留あるべし、この礼も申したくと押とどめければ、妻の曰く、我は殊の外いそがし、先々(まづ《まづ》)立帰るべし、来ル五月十五日は王子稲荷<北区内>に参る間、その序《ついで》に立寄るべしとて、妻は玄関まで立出《たちいで》て打倒《うちたふ》れ、正体も無く寝入りけるが、暫くあつて目ざめて正気元のごとく、日頃に替る事なし。よつてみなみなこのほどの事尋ねるに、妻の曰く、曾て覚えなし、されども経の声などは、かすかに聞えたることあり。然るに物の気付《きづ》きたる日より、天女の形ちの神人《しんじん》、ならびに神童壱人衣冠して剣を帯して、一七日の中ありありと眼前に居まして宣ひけるは、我かくてある内は気遣はしき事なかれとの時に、鬼形はいづくともなく逃げ去りて、その形ちも見えず。依てかの神体有難く覚えて、毎度拝礼す。その衣冠の糸《いと》紋《もん》綾《あや》まで確かに覚えたりとの事ゆゑ、則ち狩野休真隆信を招きよせて、妻の直談に、かの趣を語りて、これを画像に書かせしなり。小松万亀といふもの、隆信の宅にてその下画《したゑ》を見たるに、吉祥天の如くにして、頂きに法華経の八之巻を戴き、法剣を帯したり。さてまたその後《のち》石野が妻事、何の悩みもなく、霊気も失せて、平生のごとく、翌月十五日、妻は総官《そうくわん》[やぶちゃん注:先の稲荷神であろう。]ありとて衣類などあらため著《ちやう》し居《をり》しに、昼になりて夢中のごとくなり、稲荷乗移りて見えければ、石野忽ち渇仰(かつごう)[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「かつがう」が正しい。]して、問《とひ》をなす事さまざまなりしが、妻は一々家来などの旧悪を演説して答へければ、奇異いふばかりなし。石野が曰く、家の宝につかまつるまゝ、何ぞ認《したた》めあたへよと所望なせしかば、紅《べに》を出《いだ》さしめて、常の筆の小《ちい》さきを点じて、妙法の二字を大字に書して、居(すゑいん[やぶちゃん注:ママ。])印と覚しきものあり。さながらはね題目[やぶちゃん注:日蓮宗の髭文字の「南無妙法蓮華經」のそれ。]の判に似たり。暫くあつて妻が曰く、最早われ立帰るべしとて相倒《あひたふ》れけるが[やぶちゃん注:この「相」は接頭語で、動詞に付いて、単に語勢や語調を整えるためのもの。妻と憑依した狐などと勘繰る必要はない。]、一寝入《ひとねいり》して本性になれり。その外奇特余多(あまた)ありとぞ。古来より神前に紅を捧ぐる事あるが故、紅にて書きし事なるべし。世に京橋中橋<中央区内>のおまん稲荷といふこれなり。阿部氏の町屋敷の鎮守たり。その頃は地面の奥にありしが、近年は表の木戸の際に鎮座なり。その横手の向うにおまん鮨《すし》といふ名物も、この名をかりけるなり。この談は飯田町中坂<千代田区内>の小松屋三右衛門といへる薬種商人《やくしゆあきんど》あり。その老父隠居して百鬼と号して、健やかの老人ありしが見聞せしとて物語りぬ。この百鬼は今はこの世の中になき人となれり。

[やぶちゃん注:「思出草紙」全十巻の奇談随筆。自序に『牛門西偶東隨舍誌』とあるが江戸牛込に住む以外の事績は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本随筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらから正字で視認出来る。標題は『○中橋稻荷靈驗の事』である。

「享保十二丁未年四月」この年は閏一月があったため、旧暦四月一日でグレゴリオ暦一七二七年五月二十一日相当である。

「中橋の鎮守たるおまん稲荷」本篇を抄録現代語で記したウィキの「おまん稲荷」によれば、現存しない。「中橋」も不詳。しかし、東京駅八重洲口側のここ(東京都中央区日本橋)に「於満稲荷神社」がある。本篇では、それが、「中橋稲荷」の後裔としているのだが、こちらの「於満」は実在する人物で、家康の側室で十男の初代紀州藩主徳川頼宣と、十一男の水戸初代藩主徳川頼房を生んだ家康の側室「お万の方」を祀っている神社である。ところが、「中央区観光協会特派員ブログ」の「於満稲荷」の解説板を見ると、『寛延年間(一七四八~五一)には於満稲荷ゆかりの「於満すし」が江戸中の名物にな』ったとあるし、宵曲は、この「於満稲荷」を確信犯で同一であるとしていることが判る。

「丸山本妙寺」現在は東京都豊島区巣鴨に移転している法華宗陣門流東京別院徳栄山総持院本妙寺(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、建立以降、いろいろと移転しているが、元和二(一六一六)年に『小石川(現在東京都文京区)へ移し、本堂、客殿、鐘楼を建立した』が、寛永一三(一六三六)年、『小石川の堂塔伽藍が全焼し』、『この時』、『幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷』五『丁目)へ移り』、『客殿、庫裡を建立した。立地条件も良く』、『明治の終わりまでの約』二百七十『年間はこの地をはなれなかったので』、『異称を「丸山様」といわれるようになった』。『本妙寺に行くに』『本妙寺坂を下って』行った『突き当りに総門があ』り、『寺の敷地は拝領地が』四千九百十坪』、『無年貢の』境内地が二百四十七『坪半』『と広く』、『この中に九間四面の本堂、客殿、書院、庫裡、鐘楼、塔頭の十二ヶ寺があった』。しかし、明暦三(一六五七)年一月十八日から二十日に発生した「明暦の大火」(振袖火事)で全焼した(『火元は本妙寺とされているが、様々な説があり』、『実際の火元は不明』である)。『これだけの大火の火元であるならば』、『当然』、『厳罰に処されるものと思われるが、本妙寺に対して一切お咎』(とがめ)『がなかったとされている』。さらに『大火後』、『多くの寺社が移転させられているにもかかわらず、本妙寺は移転されることもなく』、『数年後には元の場所で復興し、さらには「触頭」』(ふれがしら)『へと異例の昇格をしている。なぜお咎がなかったということに関しては』、『本妙寺火元引き受け説がでるものの、あくまでも推測の域を出ない』とあった。明治四一(一九〇八)年から三年がかりで』、『丸山本郷の地を去り、現在の豊島区巣鴨』『の地へ移転した』とある。また、『現在も本郷』四『丁目付近に「本妙寺坂」なる地名が残されている』とあった。ここ(グーグル・マップ・データ)である。

「王子稲荷」「北区内」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「狩野休真隆信」不詳。ウィキの「狩野派」の中にも、この名はない。

「小松万亀」不詳。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鳥の地獄」 / 「と」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

なお、本篇を以って、「と」の部は終わっている。]

 

 鳥の地獄【とりのじごく】 〔北国奇談巡杖記巻二〕同郡<越中国礪波郡>五箇《ごか》の庄《しやう》、林道といへる所に、聳峯《しようほう》あり、そくばね山といふ。この半腹に泉沢といへる池あり。常に酒の香ありて、落水清らに見ゆれども、毒泉にして空をかける翼、地をはしる蟲、生を失ふこと一日に幾千万に及べり。諸鳥上がうへにかさなり死して、臭気充満せり。故に鳥の地獄と呼ぶとぞ。たまたま木樵(きこり)などこの気にあたるもの、三時《みとき》[やぶちゃん注:六時間。]をまたず死すといへり。かゝるためしは、下野国那須の原<栃木県那須郡内>の殺生石のほとりにも有ることなれど、此所にはしかず。仮初にもあやまち山にのぼり玉ふなと、里人の語るを聞くも、身の毛のいよだちて恐ろし。また林道の跳松(はいまつ)[やぶちゃん注:「跳」はママ。以下に示す活字本でも同じ。]とて、数樹夜毎に生《しやう》を変へて、音頭囃子《おんどはやし》の声ありとぞ。加賀の麦水《ばくすい》老人もこの所に一夜あかして、この松声《しやうせい》を聞き侍ると、予<烏翠堂北坙>に語られける。

[やぶちゃん注:「北国奇談巡杖記」加賀の俳人鳥翠台北茎(ちょうすいだい ほっけい)著になる越前から越後を対象とした紀行見聞集。かの伴蒿蹊が序と校閲も担当しており、文化三(一八〇六)年十一月の書肆の跋がある(刊行は翌年)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第九巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字活字で読める。『卷之二』の『越中國之部』の巻頭から第四話目。標題は『○鳥の地獄』。なお、宵曲の最後の注では『烏翠堂北坙』とあるが、ネットで調べてみると、このようにも書いたようである。

「林道」富山県南砺市林道(りんどう:グーグル・マップ・データ)。現在の「五箇山」から北へ約六キロメートルの位置にある、れっきとした地名である。

「そくばね山」「つくばね山」のこと(「ひなたGPS」の右手の「国土地理院図」参照)。標高七百四十七メートル。

「泉沢」現在の南砺市城端の平野の中に「泉沢」(いずみざわ)の地名を見出せる。グーグル・マップ・データで同地区内に池らしきものを見出せるが、この中央のそれか(今一つの東北のそれは、ストリートビューで見たところ、池ではなく、田圃であった)。しかし、現在は、ストリートビューで見ると、コンクリートで固められた農業用の「ため池」である。だが、本文では、「そくばね山」の「半腹に泉沢といへる池あり」とあって、この記載が正しいとすれば、ここではない。地図を見直してみると、眼に入る池は、「つくばね山」の東にある南砺市北野の「縄ヶ池」(「ひなたGPS」)である。私は高校一年の春、一度だけ、所属していた「生物部」の生物採集を兼ねたハイキングで訪れたことがある。この池は、「縄ヶ池の龍神伝説」で知られる。サイト「いこまいけ南砺」の「縄が池姫神社」に、『約』千二百『年前に鎮守府将軍をしていた藤原秀郷(俵藤太)が近江国で』、「大むかで」を『退治したお礼に龍神から龍の子(姫)をもらいました。そして、この地に小さな池を』掘り、『龍神の子を放し、しめ縄を広く張り巡らしたところ、一夜にして大きな池となったと伝えられています』。『その時の龍の子が縄ヶ池の守り神になっと言われ、湖畔に小さな石の祠が建てられています。縄ヶ池は龍神の住む池のため、池に石を投げると祟りがあるといわれています』とある。ここは特にミズバショウの自生地としても有名である。取り敢えず、ここを候補としておこうと思ったのだが、実は、底本のこの後に、「縄池」(なわいけ)が出、それは、同じ「北国奇談巡杖記」からの引用であるから、原著者が間違える可能性は零と考えてよく、そちらは明らかに「縄ヶ池」あるから、以上の私の説は無効となった。そこで、仕切り直して、「ひなたGPS」を、再度、見直してみると、林道の山入りする附近に、「♨」マークが戦前の地図に二ヶ所、現在の国土地理院図でも一ヶ所見出すことが出来ることに気づいた。仮に、ここが硫黄泉であるとするなら、「鳥の地獄」のニュアンスが現実味を持ってくると期待したが、残念乍ら、遊離二酸化炭素、及び、単純二酸化炭素冷鉱泉であった。これでは、鳥は死なない。やっぱり、ダメだった。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「富札一枚」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 富札一枚【とみふだいちまい】 けころは賤妓〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻二〕これは近き頃の事なり。下谷広小路<東京都台東区内>辺に茶屋を出し、情を商ふかのけころ家(や)へ、加賀の足軽体《てい》の男来りて、けころを買ひ遊び帰りけるが、鼻紙差《はなかみさし》[やぶちゃん注:鼻紙入れであるが、財布と兼用した。]を落し置きぬ。追駈けて見しに、最早影見えねば、またこそ来り給はんとて、中を改め見れば何もなく、谷中<台東区内>感応寺の富札一枚有りければ、親方へ預け置きけるが、その後足軽来らず。尋ぬべきにも名を知らねば詮方なく、右富札は捨置くも如何なり、富の定日には感応寺へ至りみんとて、その日かの富札を持ちて谷中へ至りけるに、不思議にも右札一の富に当りて、金子百両程受取りぬ。さるにても右足軽を尋ねみんと、加賀の屋敷、分家出雲守・備後守屋敷などをもよりもより聞き侍れど、元より空《くう》をつかむ事なれば、知るべきやうもなく、誠に感応寺の仏の加護ならんと、右門前へかの金子を元手として酒廓《さかみせ》を出し、未だ妻やなかりけん、右のけころを妻として、今は相応に暮しけると、感応寺の院代を勤めぬる谷中大念寺といへる僧の語りぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之二 賤妓家福を得し事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「飛物」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 飛物【とびもの】 〔反古のうらがき巻一〕四ツ谷裏町<東京都新宿区内>の与力某打寄りて、棊《ご》を打ちけるが、夜深けて各〻家に帰るとて立出しに、一声がんといひて光り物飛び出で、連立ちし某《なにがし》がながしもとあたりと思ふ所へ落ちたり[やぶちゃん注:「と云ふ」が欲しい。]。直《ただち》に打運れて其所に至り、挑燈振りてらして尋ねけるに、何もなし。明《あく》る朝主人立出て見るに、流し元のうごもてる土の内に、ひもの付きたる真鍮の大鈴一ツ打込みてあり。神前などにかけたる物と覚えて、ふるびも付きたり。かゝる物の此所に打捨て有るべき道理もなければ、定めて夜前の光り物はこれなるべしと云へり。この大鈴何故光りを放して飛び来けるや、その訳解しがたし。天保初年の事なり。この二十年ばかり前、十月の頃、八ツ時<午後二時>頃なるに、晴天に少し薄雲ありて、余<鈴木桃野>が家より少々西によりて、南より北に向ひて、遠雷の声鳴渡りけり。時ならぬこととばかり思ひて止みぬ。一二日ありて聞くに、早稲田と榎町<共に新宿区内>との間、とゞめきといふ所に町医師ありて、その玄関前に二尺に一尺ばかりの玄蕃石の如き切り石落ちて二つに割れたり。焼石と見えて余程あたゝかなり。其所にては響《ひびき》も厲《はげ》しかりしよし。浅尾大嶽その頃そのわたりに住居して、親しく見たりとて余に語る。これも何の故といふことをしる者なかりし。後に考ふるに、南の遠国にて山焼《やけ》ありて吹上げたる者なるべし。切石といふも方直に切りたる石にてはなく、へげたる物なるべし。

[やぶちゃん注:私の二〇一八年の「反古のうらがき 卷之一 飛物」を参照されたい。また、今年の三月、『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その8)』の「トビモノ」の私の注で、何を思ったものか、この「飛物」と、後に出る「白昼の飛び物」をピック・アップして電子化している。本「随筆辞典 奇談異聞篇」の電子化注は二〇二三年八月十日始動であり、当時は、この全電子化注をする気は、さらさら無かった。というより、この本をその時、眼につく箇所に置いたのが、五ヶ月後の契機となったような記憶はある。]

2023/12/19

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鳶と蛇」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鳶と蛇【とびとへび】 〔甲子夜話巻廿一〕当三月のこととぞ。大城大手の石垣にて、蛇の石垣の間より出たるを、鳶挈(とら)んとす[やぶちゃん注:「挈」は「ひっ提げる」の意。]。蛇は鳶を吞《の》まんとす。鳶飛べば蛇逐ふこと能はず、蛇石間《いしのあひだ》に入れば鳶取ること能はず。かくすること良《やや》久《ひさしく》なりしを、如何かにしてか、鳶遂に蛇にとられて石間に引入れらる。立《たつ》てこれを見るもの殊に多し。然るにやゝ引込《ひきこ》んで後は、その体《たい》纔《わづか》ばかりになりたり。人愈〻見居《みゐ》たる中《うち》にその身を没しぬ。この時衆人同音にやあゝと云ひたり。その声下御勘定所に聞えて、皆々驚き、何の声なるやとて出《いで》て、この事を聞き知りぬと云ふ。予<松浦静山>嘗て登城せしとき、鍮鉐御門(ちゆうじやく《ごもん》)を入らんとするに、数人立停り仰ぎ見る体《てい》ゆゑ、予も見たれば、石垣の間より蛇出《いで》ゐたり。その腹の回り九寸余とも覚《おぼ》しかりし。されども高き所を遠目に見れば、実はいまだ大きく有りけん。且つその首尾《しゆび》は石間に入りて見えず。卑賤の諸人は止りて見ゐたれど、予は立留るべくもあらざれば、看過《みすぎ》て行きぬ。大手の蛇もこの類《るゐ》なるべし。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷二十一 10 大城の大手にて、蛇、鳶をとる事」を注を附して公開しておいたので、必ず、参照されたい。宵曲の引用は微妙に異同があるからである。

フライング単発 甲子夜話卷二十一 10 大城の大手にて、蛇、鳶をとる事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。「東洋文庫版」では、標題を『大城(だいじやう)の大手にて蛇、鳶をとる事』となっているが、以上のように蛇の前に読点を追加した。]

 

21―10 大城(だいじやう)の大手にて、蛇、鳶をとる事

 當三月のこと、とぞ。

 大城[やぶちゃん注:江戸城。]大手(おほて)の石垣にて、蛇の石垣の間(あひだ)より出(いで)たるを、鳶、挈(とら)んとす[やぶちゃん注:「挈」は「ひっ提げる」の意。]。

 蛇は鳶を吞(の)まんとす。

 鳶、飛べば、蛇、逐ふこと能はず。

 蛇、石間(いしのあひだ)に入れば、鳶、取ること、能はず。

 かくすること、良(やや)久(ひさしく)なりしを、何(い)かにしてか、鳶、遂に蛇にとられて、石間に引入れらる。

 立(たつ)て、これを見るもの、殊に多し。

 然るに、やゝ引込(ひきこま)れて後(のち)は、その體(たい)、纔(わづか)ばかりになりたり。

 人、愈(いよいよ)見ゐたる中(うち)に、その身を、沒しぬ。

 このとき、衆人、同音に、

「やあゝ。」

と云(いひ)たり。

 その聲、下御勘定所(しもごかんぢやうしよ)に聞えて、皆々、驚き、

「何の聲なるや。」

とて、出(いで)て、この事を聞知(ききし)りぬ、と云ふ。

 予、嘗て登城せしとき、鍮鉐御門(あかがねごもん)を入らんとするに、數人(すにん)、立停(たちどま)り、仰ぎ見る體(てい)ゆゑ、予も見たれば、石垣の間より、蛇、出(いで)ゐたり。

 その腹の囘(まは)り、九寸餘とも覺(おぼ)しかりし。

 されども、高き所を遠目(とほめ)に見れば、實(じつ)は、いまだ、大(ほき)く有(あり)けん。

 且(かつ)、その首尾(しゆび)は石間に入りて、見へず[やぶちゃん注:ママ。]。卑賤の諸人は、止りて見ゐたれど、予は、立留(たちどま)るべくもあらざれば、看過(かんか)して行きぬ。

 大手の蛇も、此(この)類(るゐ)なるべし。

■やぶちゃんの呟き

「當三月」前後の話柄を見ても、時制を確定出来ない。

「下御勘定所」 江戸幕府勝手方勘定奉行の執務する勘定所は、城内と、大手門番所裏の二ヶ所にあって、前者を「御殿勘定所」、後者を「下勘定所」、または「御番役御勘定所」と呼んだ。「大手門」(グーグル・マップ・データ)の入った番所のとっつきの西に面してあったようである。

「鍮鉐御門(あかがねごもん)」の読みは、底本である「東洋文庫」版の編者は振ったルビを参考にした。但し、柴田宵曲の「随筆辞典 奇談異聞篇」では、「鍮鉐」に『ちゆうじやく』と振る。さて、この門はどこか? これは、syusai123氏のブログの「御朱印帳アートお城編 江戸城」を見られたい。復元された江戸城の美しいイラストが示されてある。それによれば、「大手門」を入り、「三の丸」を通り抜けると、「二の丸下乗門(三之門)」という複雑な門を抜け、次いで「中ノ門」となり、ここからは大名のみが入ることを許されるとある。その「中ノ門」を入り、左手の坂を登ると、本丸正門に「本丸御書院門」、別名を「中雀門」(ちゅうじゃくもん)というのだそうである。これが、静山の記した「鍮鉐御門」である。syusai123氏によれば、『桝形に二重櫓門を二つ持つ、最高格式の門でした』とあり、『本丸御殿への坂道途中にある』ため、『桝形内にも雁木が設けられ、門扉には真鍮が貼られ』てあり、そこから、『鍮石門と呼ばれ、黄金色に輝いていました。通常の城門は防御力増加のため、門扉に鉄板を貼』『った鉄門(くろがねもん)か、鉄板を筋状に貼った筋鉄門としていますが、最高格式のこの門は、黄金色の真鍮貼りとしていました。鍮石(ちゅうじゃく)の当て字として、「中雀」を使用されることも有りました。徳川の城では、格式有る建物の瓦』『に』は、『銅瓦が使用されることが有り(江戸城寛永天守・駿府城・名古屋城・二条城など)、文献には無いのですが、敢えて銅瓦で復元しました』とあって、『この門の向こうに見えているのが、本丸御殿です。玄関側から「表」「中奥」「大奥」と別れ、その向こうは北桔橋(はねばし)門、大奥の左に天守が有りました』とあった。静山がどう呼んでいたかは、最早、今では判らない。

「その腹の囘り、九寸餘とも覺しかりし」円周が二十七センチメートル超なると、体を伸ばせば、四メートルにもなんなんとする驚くべき大蛇である。遠見でのそれであるから、まず、三メートル程度に割り引いてよいだろう。而して、本邦で三メートル超えの蛇は、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナミヘビ亜科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora 以外には考えられない。当該ウィキによれば、アオダイショウは『樹上に上るときには』、『枝や幹に巻きついて登っていくのではなく、腹板の両端には強い側稜(キール)があり、これを幹や枝に引っかけることでそのまま垂直に登ることができ、樹上を移動する』。『壁をよじ登ることもでき、その習性が他のヘビがいなくなった都市部でも、本種が生息できる原動力となっている』。『食性は肉食で、主に鳥類や』、『その卵、哺乳類を食べる』。『噛み付いて捕らえた獲物に身体を巻き付けて、ゆっくり締め付ける』とあった。但し、逆にアオダイショウの『天敵はイヌワシ』(☜)、『タヌキ、キツネ、イノシシなどで、幼蛇は』、『ノネコやカラス』(☜)、『シマヘビなども天敵となる』ともある。而して、:   鳥綱タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans も、当該ウィキを見ると、捕食対象に蛇が挙がっている。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「飛嶋」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 飛嶋【とびしま】 〔黒甜瑣語二編ノ四〕予<人見寧>幼年の頃、先人と土崎《つちざき》の奉書倉に遊びしに、土人の云へる、十年ばかり前の事なりしが、海面雨気《うき》を醸《かも》せし日、里余の水面に見知らぬ嶋を浮出《うきいだ》せり、寺観《じくわん》楼台《らうだい》、画図に見るに異ならず、往来の人影七八寸、衣服みなこの土《ど》の風《ふう》なり、湊(つど)ひ見る者、蟻の聚《あつま》るがごとし。暫時にして海風に消され、鳥有(ういう)となれり。翌年庄内の飛嶋へ至りしに、市街のもやう、海上に見たりし嶋によく似たり、寺観と見えしも鐘楼屋閣《しようらうおくかく》にてはべりと語りき。予ある時これを友人関氏に語るに、関氏の家翁《かをう》も北郭八幡阪の上にて、夏天快晴の時、かゝる事を百三段の海上に見し事あり。蜃気の結びなすごとく、これも海上一里は過ぎじと思ひしと。造化のなす所は論じがたし。都率宮《とそつぐう》・達婆城《だつばじやう》かの類《るゐ》に似たり。

[やぶちゃん注:黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。

「土崎」秋田県秋田市の秋田港の旧称(グーグル・マップ・データ)。

「庄内の飛嶋」現在の山形県酒田市に属する酒田市の沖合にある飛島(グーグル・マップ・データ)。山形県北西方、酒田港より北西約三十九キロメートルにある日本海海上にある島。隆起海食台地で、南北約三キロメートル・周囲約十キロ・面積約二・五平方キロメートル。最高点の標高は六十九メートル。対馬海流の影響で、冬季も温暖で、タブノキの群落や、ムベ・モチノキなど暖地性常緑広葉樹が多い。居住の歴史は古く、縄文時代の居住遺跡がある。近世には庄内藩に属し、飛島港は西廻り海運が盛んなころは西風に強い避難港・風待港・中継港として利用され、問屋も置かれた(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「奉書蔵」久保田藩の上げ米の貯蔵蔵。その跡は現在の秋田市土崎港南(つちざきみなとみなみ)一丁目内に残る。

「都率宮」仏教で言う「都率天」は「内院」と「外院」とに分かれ、「内院」に「都率宮」があって、五十六億七千万年後に地上に来迎して衆生を救うための修行をしている弥勒菩薩が、その中にましますとされる。

「乾闥婆城」(けんだつばじょう)のこと。仏教の守護神八部衆の一人である乾闥婆神(インド神話から仏教に取り入れられた神で、帝釈天に仕え、香を食べ、楽を奏する。胎児・小児を守護し、悪魔を祓う神とされる)の幻術によって空中に化現(けげん)した楼城。蜃気楼を指すとされる。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「土中の亡魂」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 土中の亡魂【どちゅうのぼうこん】 〔思出草紙巻六〕延宝の頃、彦根<滋賀県彦根市>の太守屋敷にあやしき事あり。国元より勤番の家士山中関之進といふ侍ありしが、江戸著《ちやく》の砌《みぎり》、交代の事ゆゑ、小屋段々請取る中に、関之進が長屋は、日向よくして少々空地あり。大木の榎、枝をたれて、芝生ひ青々として造り庭のごとし。関之進斜めならず悦び、長屋多き中にも、かゝる所を請取りしこそ仕合せなりとて、国元より召連れたる下部壱人遣ひて、当番の節上屋敷に通ひて勤めける。かくてその年も秋の初めになつて、いまだ残暑つよく、蚊の声もかまびすしく寝られぬまゝに、暫く月を詠めんとて、南向の竹縁のきはへ出《いで》て、日頃好める小づゝみ打《うち》て、柏崎の謡《うたひ》中音にうたうて、思はず夜を更《ふか》したり。殊にその夜は月さえ渡り、いとゞ興をそへたるに、俄かに月の雲にかくれて、ともし火もまたかすかなり。荻の上かぜ身にしみて、いと物さびしき折からに、向うの榎の元より、白きけむりの如くなるもの三筋立ち昇りたり。関之進これを見て側《そば》なる刀《かたな》引《ひき》よせ、脇目もふらずにらみ付けて、よく見れば人の姿なり。段々ゆるぎ出て、関之進が居たる所へあゆみ来りて、竹縁に上りたり。その姿年の頃四十歳ばかりとも見えたる顔色青ざめたる男と、女房らしき女なるが、七ツばかりの女子《をなご》を前におき、三人ながら、かのおどろ<雑草>を乱したる如く髪をさばき、かの女房と見えたる女、口は耳まで切れたるが、何かものいふやうなれど、蚊のなくごとく分ち知れず。大丈夫たる関之進少しも驚かず、大音にて申しけるは、察する所おのれらは、狐狸の化けたるならん、今一刀に打放《うちはな》さん、覚悟せよとて柄《つか》に手をかけ詰めよるに、かの男落涙して云ひけるは、我くは全く以て化生《けしやう》の類ひにあらず、只今申上る事を御聞きあれ、只今より三代跡の君《くん》に御奉公いたしたる、料理人親子のものどもにて候が、世にありし節《せつ》は、某《それがし》差上げたる召上り物は、いつにても御意にかなひ、度々御褒美など頂戴つかまつり候て相勤めたる所に、傍輩の讒《ざん》によりて、私さし上候御檜の皿の中に砂を入れてさし上げしを、もとより御短慮の君に渡らせ給ふ故、御怒りつよく直《ただち》に入牢いたし、毎日毎日食事とては砂ばかり与へられて、おめき死に相果て候ぞや、また妻もこの事を伝へ聞き、情けなき御仕置と、女心の跡先知らず、君をうらみ、その役人をのゝしりかこちけるを、曲事《くせごと》なりとて、御覧のごとく口を引割(《ひき》さ)かれ、娘も打殺さ《うちころ》れ、三人ともに情けなき死をなしたるなり、それさへあるに、死骸ひとつ長持に打込まれ、はきだめの下へうづめて、跡弔ふ事もあらざれば、年月ふるといへども、魂《たましひ》天に帰らずして、今《いま》中有《ちゆうう》にまよひぬる間、何卒爰の家に御住みの方へ、この段を願ひ候て仏事をなし、三人を別々に御葬り下さるやう、具さに御物語り申度《まうしたく》、出でたる事も度々なれども、異形《いぎやう》のこの姿を見給ふ方々、ふるひ驚ろきおそれまどひ、再び此所に住居《すまひ》の人もなく、年久しくまよひのものとなりし所に、今宵計らずもその元の如き勇気の勝《すぐ》れたる方にまみえ、委しく物語り申《まうす》事の嬉しさよ、この上の御慈悲に役人中《うち》までこの段披露願ひ奉るとて、大いに嘆きふししづみ、くれぐれ頼みけるにぞ、関之進が曰く、委細は聞届けたり、心易く思ふべし、扨々不便(ふびん)の事どもなり、早々役人中へ申達《まうしたつ》し、君《くん》へ言上《ごんじやう》し仏事をなして遣はすべし、その埋められし場所は、いづちの辺《あたり》なるぞ、その跡定かにしるべきか。男はいはく、御もつともの御尋ねなり、数年《すねん》立ち候事ゆゑ、むかしのはきだめは長屋となり、長屋はまた明地となりしゆゑ、今は御家中多しといへども、この事を知りたる人さへなし、然《さ》りといへども、返す返《がへ》すこれより我々仏果《ぶつくわ》にいたらん事、ひとへにその元《もと》[やぶちゃん注の影:「そこもとさまの御蔭」。]によれりとて、三人ながら拝礼して、初めのごとくあゆみ行き、榎の下にて煙りとなりて消失《きえう》せけり。その翌日山中関之進、目付中《うち》まで書付を以て、この始末を届けしかば、家老より太守へ達したる上にて、代々の留帳《とめちやう》[やぶちゃん注:控え帳。備忘録。]を改め、日記をくり見るに、果して右の仕置ありけるなり。さるにても渠等《かれら》が死骸を埋《うづ》めし所は、定かに分りかねしかども、山中まみえしをり出入《でいり》なしたる榎の本《もと》こそ、いぶかしとて、その木の本を六七尺ばかりほり見るに、果して古長持とも覚しきくち崩れたる板ども出《いで》し中《なか》に、三人のしやれ頭(かう)べ骨など有りしまゝ、それを分ちて棺に入れ、菩提所へ送り遣はして、一七日《ひとなぬか》の大施餓鬼を修行《しゆぎやう》有りて、厚く法事ありけるとぞ。その頃はこの館《たち》に勤め居《をり》たる婦人、奥向部屋々々《へやべや》まで毎夜々々申付けられて、念仏百万べんをくりたるよし、その時勤めし女の年寄りし後《のち》に、物語りたるよしを聞伝へぬ。

[やぶちゃん注:「思出草紙」「古今雜談思出草紙」が正式名で、牛込に住む栗原東随舎(詳細事績不詳)の古今の諸国奇談珍説を記したもの。『○土中より亡魂出』(いづ)『る事』がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここから正規表現で視認出来る。

「延宝」寛文十三年九月二十一日(グレゴリオ暦一六七三年十月三十日)から延宝九年九月二十九日(グレゴリオ暦一六八一年十一月九日)に「天和」に改元した。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「土中の古箱」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 土中の古箱【どちゅうのふるばこ】 〔譚海巻四〕武州玉川の辺、府中<東京都府中市>に何がしと云ふもの有り。この百姓平生才智にて、さまざま奇特なる事多き中に、一とせ玉川の辺を通行せしに、百姓大勢集りて、畑の土中より大なる箱の、深さ広さ二間四方もあるべき物を、六つ掘出して騒ぎ合ひたる所へ行きかかり、これは何をする事ぞと尋ねければ、この箱年来《としごろ》土中に埋りて、いつの代よりあるといふ事も知りがたき程の久しきものなり、年々畑作の妨げになるゆゑ、この度掘出せしと云ふ。掘出して何やうの事にするぞと尋ねければ、何の用にたてんとも存ぜず。売払ひてなりとも片付くべしと云ふ時、いかほどに売払ふにやと問ひければ、鳥目五六十疋ならば売払ふべしといふ。さらば我は八十疋にて買取るべしと約して、則ち価《あたい》を遣はし、跡より取りにこすべしとて帰りしが、その後《のち》一年にも取りに来ることなし。二三年過ぎ又右の所を通りけるとき、百姓見受けて、この箱はいかゞいたさるゝや、かく三年に及ぶまで取りにもこされず、連々《うれづれ》かたの如く朽損し侍るといふ。この男聞きて、苦しからず、朽ちたらば朽次第にしておかれよといひて、その後又一年余をへてこの男来り候時、百姓また見かけて、もはや朽ち過ぎていかにもすべき様なし、殊に所せきものにて、畑作の進退にも妨げになり侍るまゝ、ひらに引取り申されよと云ふ。いやいや人を遣ひ引取らんとするにも、人歩(にんぷ)かゝりて詮方《せんかた》なし、この上は所せく思はれなば、焼きすててなりとも仕廻《しま》はれよといひければ、百姓ら価を出し買け取りしものをかくいふは、いぶかしくは思ひながら、余りもち扱かひたる事なれば、さらば買とられぬしの左様申さるゝうへは、焼きすて侍るべしとて、終《つひ》に火かけて焼きすてたり。この男やきすてたるを見置きて、一日へて人を二三人つれ参り、この箱の焼けたる跡の釘鉄物を、残りなく拾ひて帰り売払ひたるに、鉄ものの価三貫八百銭になりぬるとぞ。かゝる物をこしらへたるは、普通の鉄物にはあらじと思ひて、さて買ひ置きて年月打捨て置きたる事なりと、後に聞きあざみて称与しける。釘・かすがひなど、殊に丁寧にせしものなりと。天明改元のとしの事なり。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之四 武州玉川百姓某才智の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「土中の鳥」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 土中の鳥 〔塩尻巻四十〕去庚寅<宝永七年>熱田神宮寺の阿伽井《あかゐ》を浚《さら》へ侍りしに、井戸掘水を汲み尽して後《のち》土《つち》を掘りしに、砂俄かにうごめきて、土中より鳥の大きさして黒き鳥羽《はば》たゝき出《いで》て、終《つひ》に井より羽《はね》うちあがりて、空に翔《かけ》り行衛なく飛び行き侍りぬ。見し人一二にあらず。いと希有の事なり。然るに医王院の院主その後《のち》寂せり。如何なる故にか侍りけん。

[やぶちゃん注:「塩尻」「鼬の火柱」で既出既注国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」下巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(左ページ上段後ろから七行目)で正字で視認出来る。「目次」では『熱田の阿伽井より出し鳥』である。

「熱田神宮寺の阿伽井」当時は神仏習合で別当寺が近くにあったので、その仏に備える水=「閼伽(あか)」を汲む井戸のこと。

「医王院」当該ウィキによれば、現在は愛知県名古屋市昭和区御器所(ごきそ:私の連れ合いの母方の実家がある。義理の祖父は腕のいい指物師だった)にある真言宗豊山派『医王山(正式表記は醫王山)』『神宮寺』である。ここ(グーグル・マップ・データ)。『本尊は薬師如来(薬師瑠璃光如来)。仁明天皇の勅願寺とされ、また御器所最古の寺である』。『秘仏である薬師如来は毎年』十一月八日に『開帳され、多くの参拝者で賑わう。またその日に供えられた餅(やっこ餅)を食べると』、『病気患いがないと信仰されている』。『寺伝によれば、医王山神宮寺は弘仁』四(八一三)年)に『嵯峨天皇により、現在の名古屋市熱田区神宮付近に創建が計画されたといわれる。しかし、嵯峨天皇は崩御し、遺志は第二皇子である仁明天皇へ引き継がれたとされる』。承和二(八三五)年、『仁明天皇の勅願により』、嘉祥三(八五〇)年、『神宮付近に熱田神宮別当補佐職の任を受けた高野山の僧・成惠僧都により、熱田宮鬼門除け鎮護修法所として、常磐山神護寺の名で創建されたとされ、当時は嵯峨天皇の勅筆の仁王護国般若経、勅額などが納められていたとされる』。嘉元二(一三〇四)年に『雷火により』、『堂や文庫・庫裡・経蔵等が焼失したため、現在の名古屋市昭和区御器所(ごきそ)移り、草堂を建立した。その際に、熱田宮奥ノ院木木津山神宮寺にならい、神護寺より』、『現在の呼称である医王山神宮寺へ改称したとされる。また、開山より無本寺であったが、高野山金剛峯寺の末寺とな』っている。嘉吉元(一四四一)年十二月十六日に『神宮寺境内奥山に、御器所城主佐久間美作守家勝の勧進により、旧御器所村の氏神である八幡大菩薩(現在の御器所八幡宮)を迎える。当寺が禰宜兼ねることになる』。慶安三(一六五〇)年には、『京都密蔵院の大僧都有海が、当時の住職となるが、再び』、『雷火にみまわれる。住職亮海僧都の尽力と、村中を勤財し』、慶安五(一六五二)年二月十六日に『宮大工大島雲八によって』、『本堂を再建』、『後に、神宮寺学頭十五世大阿闍梨法印金憧阿闍梨と引き継がれ』、『廣澤観光とつづくが』、その後は『無僧荒廃を辿』った。『明治に入ると、神仏分離令により』、『御器所八幡宮と分離され』、『明治』二〇(一八八七)年一月、高野山より拝命された中興桑原實定法尼により復興』した。昭和二〇(一九四五)年、「太平洋戦争」により、『諸堂が』、『皆』、『焼失』したが、『現住職貞純に至り』、『昭和四六(一九七一)年』、『有志の助力にて本堂が再建』、昭和六一(一九八六)年、『観音堂が落慶され』ている。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「土中の鯉」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 土中の鯉【どちゅうのこい】 〔耳嚢巻六〕御絵師に、板屋敬意といへるあり。外より梅の鉢うゑをもらひ、両三年も所持せしが、右梅を地へ移し、外の品植ゑかへ候と、右をあけけるに、黒く墨のごとくなるもの、右土のかたまりの中より出けるが、少し動きける故、暫く置きけるに、眼口やうのもの出来《いでき》て、魚にてもあるべしと思ふに任せ、なほ一間なる所へ入れ置きしに、全くの鯉魚となり、尾鰭も動きければ、水へ入れ置くに、飛び踊り常の鯉魚なり。右は潜竜の類ひにも有るべし。海川へ放し遣はし然《しか》るべくと、老分など申す故、桜田辺の御堀内へ放しけるとなり。これも文化十酉年度の事なりき。<『我衣十九巻本巻八』『文化秘筆巻一』『半日閑話巻九』『真佐喜のかつら四』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:私のものは、底本違いで、「耳嚢 巻之十 土中より鯉を掘出せし事」である。そちらの注で私が拘って事実性を考証してあるので、是非、見られたい。

「我衣」「杣小屋怪事」で述べた通りで、原本に当たれない。

「文化秘筆巻一」作者不詳。文化より文政(一八〇四年~一八三〇年)の内の十年ばかりの見聞を集録した随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第八(三田村鳶魚校訂・随筆同好会編・昭和2(一九二七)年米山堂刊)のここで正字表現で視認出来るのが、類似話である(右ページ五行目以降)。こちらは挿絵もあり、是非、視認されんことをお勧めする。話自身には興味がないので、電子化はしない(以下同じ)。

「半日閑話巻九」「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題は『○移ㇾ梅得ㇾ鯉』である。全漢文。二行で、頗る短い。

「真佐喜のかつら四」「大坂城中の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここから(「四」の巻頭)正規表現で視認出来る。但し、そこでは、主人公を『御倭繪師板谷桂意』としてあり、植え替える木を『松』とし、根の部分の土中から出たのは、『金魚のごとく色あかく、かたち鮒に似たる魚飛出す』とあって、水の中に放しておいたところ、『やゝ兩三日の内に四寸程になりければ、おもしろき事におもひ、外よりハ聞およびて見に越せるひとも多かりしが、程なく斃たり、まつの根土より小魚の出るといふもめづらし』と終わっている。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「土佐の竜」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 土佐の竜【とさのりゅう】 〔譚海巻十〕四国の内、土佐は第一の暖国なり。これに続きては伊予なれども、土佐程にはあらず。この二国は南海にむかひ、阿波・讃岐は内海に向ひ、北に向けたれば、さむき事格別異なり。土佐は土用過初秋にいたりて、毎年極りて人家を吹きたふす如きの南風、一両度おこる。この風吹かんとするときは、四五日以前より海の鳴る音、日夜夥だしきゆゑ、人々かねて風の来らん用心をするなり。また夏月は時々竜出る事あり。竜のとほりたる道筋、左右へ二間ほどの間は、一物も残らずかなぐりすてて、赤地《せきち》[やぶちゃん注:草木の全くない荒地。赤土(せきど)。]となる事たえず。それゆゑ竜の出るをみては、人々競ひ集りて鳴物を打ちたゝき竜を逐ふなり。かくすれば竜逐はれて人家によりつかず、遠くさけてしりぞくといふ。また夏月は夜々電光の照らす事、暗夜は海面に映じて、その光りはなはだいやなる気味なり。これがために、夏は夜漁すれども魚を得る事少なしといへり。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷十 土州暖國幷夏月龍を逐事(フライング公開)」を公開しておいた。]

譚海 卷之十 土州暖國幷夏月龍を逐事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。標題の「逐事」は「おうこと」。]

 四國の内、土佐は第一の暖國なり。是につゞきては伊豫なれども、土佐程にはあらず。この二國は南海にむかひ、阿波・讚岐は内海に向ひ、北にそむけたれば、さむき事、格別、異(こと)なり。

 土佐は、土用過(すぎ)初秋にいたりて、每年、極(きまり)て、人家を吹(ふき)たふす如きの南風、一兩度、おこる。

 此風、吹(ふか)んとするときは、四、五日以前より、海の鳴(なる)音、日夜、おびたゞしきゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、人々、かねて風の來らん用心をするなり。

 又、夏月は、時々、龍、出(いづ)る事あり。

 龍のとほりたる道筋、左右へ、二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル。]ほどの間は、一物(いちもつ)も、殘らず、かなぐりすてて、赤地(せきち)[やぶちゃん注:草木の全くない荒地。赤土(せきど)。]と成(なる)事、たえず。

 それゆゑ、龍の出るをみては、人々、競集(きそひあつま)りて、鳴物(なりもの)を打ち、たゝき、龍を逐(おふ)なり。

 かくすれば、龍、逐れて、人家によりつかず、遠くさけて、しりぞく、といふ。

 又、夏月は、夜々、電光の照らす事、暗夜(やみよ)は、海面に映じて、その光り、はなはだ、いやなる氣味なり。是がために、夏は、夜、漁(すなどり)すれども、魚を得る事、少なしと、いへり。

[やぶちゃん注:「龍」竜巻。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「土佐の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 土佐の怪【とさのかい】 〔喪志編〕土佐の国三谷と云ふ処に、谷あひより火起りて、升降《しやうはう》すること数度にして遠く飛去る。釣などしてをるものの舟のへ先などにおちて、人をば害せず。その火をみればやはり燈火の如し。また同国に夜行《やぎやう》と云ふ事ありて、折節あふものあり。深山などヘゆくと、にはかに風すさまじく吹てくるゆゑ、これは夜行ならんと思ひ、地に面をつけてをれば、大勢人のとほるおとして、轡のおとなどして行列のとほる如し。

[やぶちゃん注:「喪志編」国学者で歌人の楫取魚彦(かとりなひこ 享保八(一七二三)年~天明二(一七八二)年:本姓は伊能。号は青藍。下総国佐原の人。賀茂真淵に古学、和歌を、建部綾足に画を学んだ。著書歴史的仮名遣の研究書「古言梯」・「続冠辞考」、歌集に「楫取魚彦家集」などがある)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『百家隨筆』第三 (大正七(一九一八)年国書刊行会刊)のこちらで、正字表現で視認出来る。

「夜行」当該ウィキ「夜行(やぎょう)さん」があるが、「火」の怪異は語られていない。以下、全文を引く。『大晦日、節分、庚申の日、夜行日(陰陽道による忌み日。正月・2月子日、3月・4月午日、5月・6月巳日、7月・8月戌日、9月・10月未日、11月・12月辰日)に現れ、首切れ馬(首のない馬の妖怪)に乗って徘徊する鬼』。『遭遇してしまった人は投げ飛ばされたり、馬の足で蹴り飛ばされたりしてしまう。そのためかつては、人々は前述の出現日の夜の外出を控えるよう戒められていた。運悪く遭遇してしまった場合は、草履を頭に載せて地面に伏せていると、夜行さんは通り過ぎて行くので、この難から逃れることができるという』。『三好郡山城谷村政友(現・三好市)では髭の生えた片目の鬼であり、家の中でその日の食事のおかずのことを話していると、夜行さんが毛の生えた手を差し出すという』。『また』、(☞)『高知県高岡郡越知町野老山(ところやま)付近では夜行さんをヤギョーといい、錫杖を鳴らしながら夜の山道を通るというが、姿形は伝えられていない』。『前述のように、一般には夜行さんは首切れ馬に乗っているものといわれるが、夜行さんと首切れ馬は必ずしも対になっているわけではなく、むしろ』、『首切れ馬単独での伝承の方が多い。特に吉野川下流から香川県東部の地域においては、首切れ馬に乗ったこの鬼ではなく、首切れ馬そのもののことを夜行さんと呼び、節分の夜に現れるといわれる』。『また』、『徳島県では大晦日、節分の夜、庚申の夜、夜行日などは魑魅魍魎が活動する日とされ、夜歩きを戒める日とされた。元来、夜行日とは祭礼の際に御神体をよそへ移すことをいい、神事に関わらない人は家にこもり物忌みをした。その戒めを破り』、『神事を汚したものへの祟りを妖怪・夜行と呼ぶようになったとの説もある』。『東京都八王子市では、夜行さんは首なし馬に姫君が乗る姿で現れる。八王子の昔話によれば、昔、八王子の滝山丘陵にあった高月城が敵軍の襲撃を受けたおりに、城の姫が馬に乗って逃亡するが、馬は敵兵に発見されて首をはねられ、首のないままで疾走し、そのまま天へと昇った。それ以来』、『姫と首なし馬は満月の夜に八王子を徘徊し、その姿を見たものは必ず不幸になるのだという』。『近年でも八王子で目撃され』、『深夜に人気のない通りを後ろから「カポカポ」と蹄がアスファルトを叩く音が背後でするが、振り返るが』、『姿は何も見えないという。また四つ角で、上半身が女、下半身が馬のケンタウロスのような怪物が、右から左へ猛スピードで走り横切るのを見た目撃談が伝えられている』。但し、『この八王子の夜行さんは、徳島の伝承の夜行さんとはまったくの別種で、おしら様に類するものとの説もある』とある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「髑髏の謡」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 髑髏の謡【どくろのうたい】 〔黒甜瑣語二編ノ五〕秋風の吹くにつけてもあなめあなめ、むかし出羽・奥陸の境、南部の山嶺《やまね》に続きし森の館(たて)といふを知りしは、斯波詮森(のりもり)(九戸《くのへ》氏の糊口人にてありし斯波尾州直持の苗裔、この時落魂して九戸に依る)の一家斯波信濃となん云ひし。この家に森山大蔵といふ歩士あり。或時幹事(ようじ)ありて、二戸(にのへ)の阪本と云ふ処に往きしが、白嶺(しらね)の山道を夜ふけて通りしに、木立のあなたに人ありと覚えて、濁(だみ)たる声をはり上げ「ほに出る枯尾花、訪《おとな》ひ来しなうき寐《ね》の夢、さむればみねの松風」とくり返しくり返し凄々(せいせい)とこそ諷(うた)ひけり。森山立ちよりて見てやれば、朽ち残りたる髑髏(どころ)に尾花生ひ茂りてあれど、上下の歯は今に落ちず、その口より諷ひ声の出づる、木の間洩る月かげにありありとうつり見えけり。森山を見て云へるは、我が頭顱(とうろ)に茂りし草を芟(か)りてたべ[やぶちゃん注:「給べ」。]よと云ふに、森山不敵の老人、いと安く承引(うけひき)、かの尾花を手にからませ抜きすてしに、髑髏は世にもうれしげに、これにて我苦しみも解けたり、あら有がたの武士(もののふ)の情《なさけ》やとて、その後は再び物言はず。森山奇異の思ひをなしながら帰りて、明日の晨(あさ)その主人の前にてこの物語りをなしけるに、主人をはじめいづれも大に嘲《あざけ》り笑ひ、何条《なんでふ》さやうの事の有るべき、異《い》なる偽りは雄夫の云はぬ事なり、よし有るにても狐狸の魅(ばか)すなるべしと、誰《たれ》聞き入るべき躰《てい》もなきに、森山大いに面目を失ひ、よしなき物語りして人中に恥を得しぞ安からぬ事なれども、全く偽りの事にあらずと云ふより、みなみな云ひつのり、さらば取り来れよ、その物云ふを見んものを云ふに、森山この事に偽りあらば、賭(のりもの)[やぶちゃん注:勝負事に賭ける物。]には武士の命にかへてんものをと言ひ放ちて立退き、頓(やが)てかの山中に立入り、よべの所を伺ふに、髑髏は猶ありて物云ふべき面《おも》ざし、その姓名をも問はまほしきほどなれば、森山が云く、むかしはいかなる人とも知らざれど、我が心賭して来れり、夜前の苦しみを救ひし礼(ゐや)[やぶちゃん注:敬意。]に、その者どもの前にて物云ひて給べよといへば、この髑髏心よく諾《うべ》なひ答ふるに、森山歓び、静かに油簞裒(ゆたんづづみ[やぶちゃん注:ママ。『ちくま文芸文庫』では『ゆたんづつみ』とする。また「裒」には「つつみ」の意はないので、恐らく「褁」の誤記であろう。「油單包み」で単衣(ひとえ)の布や紙に油を沁み込ませたもの。湿気や汚れを防ぐため、調度や器物の覆い、又は、敷物・風呂敷などに用いた。])になして負ひ帰り、主人の前にて言葉荒涼に罵り、裒《つつみ》をほどき取り出し、さよ諷へよ、さよ語れよと云ふに、少しの譍(いらへ)さヘなければ、森山大いに赤面し、さア諷へ、さア語れと云ふに、髑髏は猶依然たり。その時主人をはじめ、いづれも大いに勃恚《ぼつき》[やぶちゃん注:激しく怒りだし。]し、よくも根もなき空言《そらごと》を云ひつのる偽り武士とて、終《つひ》に賭のごとく、主人の前にて頭を刎ねられけり。その時この髑髏がややと笑ひ出し、「今こそ我願ひ叶ひ、多年の本懐をとげて、恨《うらみ》もはる月の上ればみねの松風」と諷ひ出してやみしぞ怪かりし。これ森山先生聊かの事より、一人の家隷(けらい)を無実の罪におとしいれ、手討《てうち》にせし事あり。その厲(たたり)この髑髏に残り住(とどま)り、多年の恨みをこの時洩せしとなん。

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで正規表現で視認出来る。標題は『髑髏の謠』。それにしても、かなり漢字の読みが難しい。一部はそちらの読みに従った。

「あなめあなめ」連語。小野小町の髑髏の目に薄が生え、「あなめあなめ」と言ったという伝説から、「ああ、目が痛い。」「ああたえがたい。」「あやにくじゃ」の意。]

2023/12/18

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「毒鳥・毒虫」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 毒鳥・毒虫【どくちょう・どくむし[やぶちゃん注:「・」はないが、挿入した。]】 〔黒甜瑣語三編ノ二〕或人の物がたりに、伊達の掛田と云ふ所に古池あり。或時この池に浮びし赤き鳥あり。大きさ山鳩ほどなるが、これに照らされて、四面の樹影水色まで火のごとく紅《くれなゐ》なり。一士人あり、弓にて射とらんと箭(や)を放ちしに、たゞ中へ中(あた)りけり。早速とらんと水中へ這入《はひい》りしに、いかゞはしけん即死して、屍《かばね》は水上に浮めり。その死骸をかつぎ上らんと、後《あと》より入りしもの三人まで死し、箭に中りしと見えし鳥は飛び去れり。人の云へるには斑猫喰(はんめうくひ)<斑猫虫>[やぶちゃん注:この注は「斑猫」の後に附すべきものである。]とやらん云ふ鳥なるべし。鴆《ちん》<毒鳥の一種>と云ふに種類多しといへば、若しやこの類《るゐ》にや。諺に蓼喰ふ蟲もおのが嗜嗜(すきすき)、この斑猫をさへ食ふ鳥あり。又この蟲の毒の甚だしきは世にも伝へしが、<人目寧>が知りし所を云はゞ石川去舟なる誹諧者流あり。或時友人の園亭にて終日《ひねもす》この戯《たはむれ》をなし、午後竹縁に沈唫(しづかに)、丁半(ほほづえ[やぶちゃん注:ママ。以下に示す活字本は『ほうつえ』とするが、「ほほづゑ」が正しい。])せし処ヘ一《ひとつ》の蟲飛び来り、鼻辺を遮らんとせしゆゑ、持ちし扇《あふぎ》にて打ち払ひければ、かの蟲傍《かたはら》に積みかさねし懐紙の草稿、十冊ばかりありし上へ礑(はた)とあたりて虚空《こくう》に飛び去れり。時にこの懐紙の上に一点の油のごときものを滴《したた》り残せしが、その毒暫時に広ごり、百枚余りの綴紙(とぢかみ)半ば過るまで染透(しみとほ)しけり。去舟も眼くらみ、その座より立帰り、半月ばかり泥(なづ)みしとなん。これかの斑猫にて、扇に払はましかば、無残の死をもすべき事に思へり。これを葛上亭長《かつじやうていちやう》よく客を悩まし、不留行王常に人を殺すなども云へり。医家の内藤某にこの森を貯ふ。常に土中に痤(うづ)め置きしに、夏天《かてん》曬(さら)さざれば、この毒にさへ小蟲のすだくありと云ふ。

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。

「伊達の掛田と云ふ所に古池あり」現在の福島県伊達市霊山町(りょうぜんまち)掛田(かけだ)か(グーグル・マップ・データ)。複数の池沼を確認出来る。

「斑猫喰(はんめうくひ)」「斑猫」は私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 斑猫」を参照されたい。全く異なった昆虫に、この名が与えられており、猛毒性・強毒性から発泡を起させる中・弱毒性を持つものまで広くおり、そちらの私の注で、それらについて注を附してある。猛毒・強毒性の種は本邦には棲息しない「斑猫喰」という毒鳥は存在しない想像上の妖毒鳥である。

「鴆」やはり、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴆(ちん) (本当にいないと思いますか? フフフ……)」の私の注を参照されたい。大多数の読者は、存在しない猛毒鳥と思っておられるだろうが、題名の通り、現在、羽根一枚でヒトを殺す猛毒を持つ鳥が、世界には実在するのである。

「石川去舟」不詳。

「沈唫(しづかに)」「唫」(音「ギン・ゴン・ キン」)には「口を閉じる」の意がある。

「葛上亭長」ツチハンミョウ科ツチハンミョウ亜科マメハンミョウ族マメハンミョウ属Epicauta の「中華芫菁」Epicauta chinensis(華北に棲息する知られたダイズの有害虫)及び「黑芫菁」Epicauta megalocephala(内蒙古に棲息するホウンレンソウ・テンサイ・ダイズ・ジャガイモ等の食害虫)の異名。孰れも全虫体に人の皮膚に発泡を起こす毒成分カンタリジンを含む。やはり、私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 芫青蟲 / 葛上亭長 / 地膽」の「葛上亭長」の項を見られたい。

「不留行王」不詳。この文字列ではネット検索に掛かってこない。一つ、ナデシコ目ナデシコ科ドウカンソウ属ドウカンソウ Vaccaria hispanica の中医学の生薬名に「王不留行」(オウフルギョウ)があるが、妊婦には禁忌とあるものの、有意な毒性は認められない。しかし、文字列が酷似するので、著者は何か前注のリンク先で示した毒虫の名と勘違いしているように思われる。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「徳七天狗談」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 徳七天狗談【とくしちてんぐだん】 〔中陵漫録巻二〕信州に徳七なる者あり。馬を引き戸隠山<長野県長野市内>の辺に行き草を苅る。その時、山伏二人来る。一人は十七八歳にして、綿布を著し短刀を佩(おび)て、甚だ美しき容(すがた)にて、徳七を呼びて云く、山中道を失ふ、街道に出るは何の道にてよきや。徳七対《こた》へて云く、その路よりこの道を過ぎて行くべしとて教へて行かしむ。即ち青茅《かりやす》の上にて滑り倒る。その足を見るに人の足に異りて、墨にて塗りたるが如く真黒なり。徳七、これを見て始めて人にあらざる事を知つて大いに驚き、茅を馬に附けて帰らんとするに、凡そ半里ばかりの処、人の登り至る事ならぬ岸上に、二人共に立つて徳七を見る様子あり。徳七、これを見て益な驚き恐れて、茅《かりやす》を打捨て馬に鞭(むちう)つて走り帰る。これより病める事数日《すじつ》にして漸《やうや》く平癒に至ると、親しく予<>佐藤成裕にこの話を為す。これ天狗なるべし。

[やぶちゃん注:「中陵漫録」「会津の老猿」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(『日本隨筆大成』第三期第二巻昭和四(一九二九)年刊)当該部が正字で視認出来る。

「青茅」単子葉植物綱イネ目イネ科ススキ属カリヤス Miscanthus tinctorius 。本邦の近畿地方北部から東北地方南部に植生する。山地から亜高山帯の日当たりの良い草地に生え、高さは六十センチメートルから一メートルで、八月から十月頃、茎の頂きから花序を直立して出し、三~十個の総をつけ。小穂の基部には短い毛があり、芒がないのを特徴とする。古くから染料として用いられ、天平時代には庶民の衣服の染色として一般的だった。]

2023/12/17

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「毒殺の夢」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 毒殺の夢【どくさつのゆめ】 〔半日閑話巻十六〕八月中旬<文政二年>の頃、下谷<東京都台東区内>辺の陸尺(ろくしやく)[やぶちゃん注:身分の高い人を乗せる駕籠(かご)の駕籠舁(か)き。]ふと夢を見し処、団子《だんご》に当り即《そく》死致《しち》する夢を見しゆゑ、奇妙の事と存じ候処、其翌日ふと諸用にて浅草辺へ参りし処、途中にて大騒ぎ致し、あれへ走りこれへ走り、あちらへいつたのこちらへいつたのと、若き男血まなこに相成《あひなり》、何やら騒がしく歩む体《てい》なるゆゑ、往来の者大勢にてなんだなんだと申す処、その者申すは、唯今私見世《わたくしみせ》へ木綿の大形の広袖を著《き》候《さふらふ》でつち[やぶちゃん注:「丁稚」。]やうの者参り、ちん毒を売りくれ候やう申候ゆゑ、ふと売り候処、右毒薬は先方《せんぱう》の名所《などころ》を承り糺《ただ》し申さず候ては、売り申さゞる法(はふ)の処、何となく売り遣はし、甚だ当惑仕り候と、溜息つき木薬屋《きぐすりや》[やぶちゃん注:本来は、手を加えていない生薬(しょうやく)を扱う店を指すが、ここは、転じて、薬を調剤し販売する商家を指す。「生藥屋」。]へ立帰る。かの陸尺これを承り、さてさて奇妙の事哉《かな》とぞんじ、宿へ帰り候処、女房団子を拵へ候由、持ち出であがり申すべき段申候処、昨夜の夢といひ、今日の毒薬と云ひ、これはめつたに給(たべ)る事にあらずと存じ、先づ今は少少用事有ㇾ之由申し、何か用事有る体《てい》に致し居り候処、強ひて給べ申すべき段女房申すゆゑ、猶々あやしく相成、女房の居《をり》申さゞるを見合せ、女を呼び申し聞け候は、この間《あひだ》此方《このはう》に大形の木綿の広袖を著致《きいたし》候者は無ㇾ之哉《や》と尋ね申候へば、小女申すは、この間中内《なかうち》の下男、右の衣類著居《きをり》候旨申すゆゑ、猶更存じ当り、早々手紙を認《したた》め女房に申すは、少々の間《あひだ》その方《はう》用事有ㇾ之、この手紙を持参致すべき旨[やぶちゃん注:「里方へ」とないと、話しが不全である。]申候ゆゑ、毎度持参致し、その上僅か一町たらずの所ゆゑ、何とも心付き無ㇾ之、右の手紙を持参致し候処、女房の親右の手紙を披き見る処、少々存じ寄り有ㇾ之間、女房を預け度手紙故、親甚だ驚き、右の趣陸尺の女房に咄し候て、何ぞ故有るやと問ひけれども、何も障り無ㇾ之段陳《ちん》ぜしゆゑ、已前の仲人《なかうど》を呼び寄せ、右の趣申し達し、何れにも参り候て存じ寄りを承りくれ候様申候ゆゑ、仲人も驚き早速陸尺方へ参り、右の段咄し候処、陸尺何の訳も無ㇾ之候へども、委細はこの団子にて分り申すべき間、この団子を持ち参られ、女房ヘ見せ候て、これを給べ候はゞそれにて相知れ申すべき段申すゆゑ、仲人さては気がふれ候やと存じ候へども、強て申す事ゆゑ持ち帰り、女房へ見せ申すべくと存じ、右団子を待ち帰り、又々右の趣を里の親へ咄しければ、これは奇妙の事とぞんじ、早速娘を呼出し、右の趣申し候へば、これにて娘泣出し候故、これは子細有ると段々尋ねければ、彼《かの》男と密通致し、毒薬にて亭主を失ひ申すべき手段の趣、白状に及びしゆゑ、親も胆(きも)を潰し、早々娘を戒め置き、陸尺の方《かた》へは仲人を以て、如何様《いかやう》とも思召《おぼしめし》次第に任せ申す段申遣はし候処、陸尺申すは、外に何にも子細無ㇾ之義故、女房は里へ引取り申すべく、それにて宜しきよし申候ゆゑ、仲人も甚だ歓び、親も甚だ歓びしとなり。下男は右を聞《きき》て直《ただち》に出奔致とかや。誠に男気《をとこぎ》なる陸尺にて、不思議の利生《りしゃう》なりと皆《みな》沙汰す。<『耳袋巻五』に「奸婦其悪を遂げざる事」という話がある。全然この話と同一ではないが、大体の筋は畧〻[やぶちゃん注:「畧」の字体はママ。]《ほぼ》同一と思われる。『事々録』には本郷に住む町人の話として出ている〉

[やぶちゃん注:「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題は『○陸尺奇夢』である。最後に宵曲の示す「耳囊」は、私のそれは底本違いで、「耳嚢 巻之五 奸婦其惡を不遂事」のことである。是非、比較されたい(本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とあることによる)。 ]

)。「事々録」は「異人異術」に既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第六(三田村鳶魚校訂・随筆同好会編・昭和二(一九二七)年米山堂刊)のここ(左ページ後ろから三行目以降)。こちらは、確かに展開が全く同じで、しかも毒を盛ったのも『團子』であって、明らかに同一ソースであることが判る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「戸隠明神」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 戸隠明神【とがくしみょうじん】 〔譚海巻二〕信州戸隠明神<長野県長野市戸隠内>の奥の院は、大蛇にてましますよし。歯を煩ふ者、三年梨をくふ事を断ちて立願《りふぐわん》すれば、歯のいたみ立処に治するなり。三年の後、梨の実ををしき[やぶちゃん注:「折敷」。]にのせ、川中へ流し賽礼をなす事なり。また立願の人戶隠へ参詣すれば、梨を献ずるなり。神主を頼みて奉納するに、神主梨を折敷にのせ、うしろ手に捧げ、跡しざりの様にして奥の院の岩窟の前にさし置き帰る。うしろをかへりみず。神主岩窟を十間さらざるに、まさしく梨の実を喫《きつ》する音聞ゆと云ふ。恐ろしき事なり。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之二 信州戶隱明神奧院の事」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「通り悪魔」(例外的に注で正規表現本文を電子化した)

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 通り悪魔【とおりあくま】 〔思出草紙巻五〕およそ世の中に乱心なすものを見るに、心せまくして無益の事に胸中を苦しめ、千辛万苦一日も安からず。終《つゐ》には窮迫して肺肝《はいかん》[やぶちゃん注:心。]を破り、魂(たまし)ひ乱れて元へ帰りがたし。婦人のこゝろひろからで、苦に苦を重ねて、血の道の狂ひ逆上なし、こゝろの乱心もあり。また何事もなき乱心して、人を害し、自害などをなす事、常々心のとりさめ宜《よろ》しからずして、自ら破れを取るにいたる。よつて養生は業《なりはひ》によらず、常々の身持、こゝろの中にあるべき事なり。取分《とりわ》けふと乱心なすは、まづあらぬ怪しきものの目にさへぎる時、おどろき騒ぎ動く時は、忽ち乱心なして、最早直り難し。これを通り悪魔にあふと俗に云へり。則ち不祥の邪気にあふなるべし。心得あるべき事なり。既に川井越前守、いまだ次郎兵衛というて、御勘定吟味役を勤めたりし節、ある時御城より退出帰宅なし、自分の居間に至り、上下《かみしも》衣類を著かへ、坐して庭前を見れば、手水鉢《ちやうづばち》の水落(おち)ぎはに植ゑ茂りたる葉蘭《はらん》の中より、ほのほ焰々《えんえん》としてもえ上る事三尺ばかり、煙り盛んに立登る。帯刀を次に取のけさせ、我不快なれば、汝等来《きた》る事無用なりとて、人を払ひ蒲団を取寄せて打かぶり、心気をしづめ、暫くあつて顔を出《いだ》し庭前を見れば、最前の炎益〻盛んに燃え上るに、向うの隣家の境の板塀なりしが、此塀よりひらりと飛びくだるものを見れば、髪ふり乱して虎髯《とらひげ》さか様に立上りたる大の男、白襦袢を著て、穂先きらめく鎗《やり》を振廻し、すつくと立て礑(はた)とにらむ眼《まなこ》の光り尋常ならざるが、川井は猶も心を臍下《せいか》にをさめ、両眼をとぢて黙然たる事、やゝ半時ばかり過ぎて、またまた庭上を見れば、葉蘭より燃えたる火もしづまり、鑓《やり》引提げたる異形の者も居《をら》ず。常に替らざる庭の面なりければ、川井も茶なぞ乞ひて、心気をしづめ居る折から、隣の家、大きに騒動すること夥《おびた》だし。川井おどろき、何事なるぞと聞きけるに、隣の主(あるじ)乱心して、刃物を抜き持ちてあれ狂ひしを、漸々《やうやう》に取しづめぬれど、狂乱なして大音《だいおん》にあらぬ事のみ呼《よば》はり叫ぶ事しきりにて候なり。川井次郎兵衛これを聞きて、扨(さて)こそ物語りして、我等心の取納めよからずして、怪しき事と顚倒せば、忽ち乱心すべきに、兼ねてより我聞き置けることの心に浮《うか》みしまゝ、心気をしづめ居《をり》たるに依《よつ》て、その災ひを遁《のが》れたり。右の邪気、隣家の主その心得なく、大いに怪しみおどろき恐れし心より、その邪気に破られたるべし。これいはゆる俗語に、通り悪魔といへるものなるべしと申されけるとなり。また先年、加賀の家中、国元より勤番の歩士あり。夕方に髪剃《かみそり》を研がんとし何心なく向うの板塀を見れば、思ひ寄らざる甲冑を著したるもの、いろいろのさしものなしたるが、鑓《やり》長刀《なぎなた》引提げて凡そ三十余騎、駒のかしらを並べ、塀の笠木の上に居ならんで、此方《こなた》を礑《はた》と白眼《にらめ》つめたる風情は、怪しくも不思議に見えたるに、この侍かねかね心掛よきものなれば、手に持ちし刃物を急ぎ投捨て、直《ただち》に平伏し眼をとぢ、心気を臍下に納め、やゝ暫く有《あり》ておき上り見るに、塀上に並びし武士、いづ地へ行きけん、消えて跡なし。然るにこの塀向うの小家《しやうか》に乱心なしたる者有りて、傍輩に手を負はせ、その身自害して大いに騒動なせしとかや。これも則ち川井が見たる魔怪と同日の談なり。予<栗原東随舎>が祖母にておはせし人、享保元年[やぶちゃん注:一七一六年。]の頃、火災の為に類焼して、未だ普請も成就せず、焼残りたる長屋に仮住居(《かり》ずまひ)なして居《をり》たる所に、頃しも初秋にて、祖父は当番の留守なり。側に召仕ひぬる女ども、次の間に縫ひ物して居《ゐ》たり。祖母は縫ひ物に退屈なし、縁の側に出《いで》て、たばこのみながら向うを詠め居《をり》けるに、類焼後にて居所《きよしよ》の跡は、所々に礎(いしずゑ)のみ残りて、草深く生ひしげり、風そよぎざはざはと音して、尾花なみよる気色なり。その草の上を白髪の老人、腰は二重にかゞまりて、杖をたよりによろめきて、えもいはれざる顔して笑ひながら、此方《こなた》に向ひて來《きた》る体《てい》は、誠に怪しさいはん方なし。祖母兼ねて聞《きき》置きし事も有りぬるまゝ、さてこそ我乱心なすべき時なりとて、両眼をとぢ、法華経、普門品《ふもんぼん》[やぶちゃん注:「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」。単に「観音経」とも呼ぶ。]を唱へつゝ、心気をしづめ暫くあつて見るに、目にさへぎるものなしとかや。然るにその夕方に三四軒かたはらに医師の有りしが、その妻こそ乱心なしたり、これ則ち世にいふ彼《か》の通り悪魔なり。予が祖母は、かねて聞《きき》ける事を思ひ出し給ひしに依《よつ》て、この災ひを遁れたり。毎度予が幼《いと》けなき時分、物語りし給ひき。これ等留め置くべき事にこそ。<『閑窻瑣談後編』『世事百談巻四』『蕉斎筆記巻三』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:「思出草紙」全十巻の奇談随筆。自序に『牛門西偶東隨舍誌』とあるが江戸牛込に住む以外の事績は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本随筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらから正字で視認出来る。標題は「○通り惡魔の事」である。なお、最後に宵曲が挙げる三種のそれについては、既に「柴田宵曲 妖異博物館 異形の顏」(本篇も紹介している)の私の注で、三篇とも、正規表現のものを電子化してあるので、見られたい。さても、この「思出草紙」のみ、電子化していないので、甚だ不満足であるから、以下に前記国立国会図書館デジタルコレクションを用いて、正字表現で以下に示すことにする。以上と差別化するため、段落を成形し、読点も増やし、記号も挿入した。

   *

   〇通り惡魔の事

 およそ、世の中に亂心なすものを見るに、心せまくして、無益の事に胸中を苦しめ、千辛萬苦一日も安からず。終には窮迫して、肺肝を破り、魂しい[やぶちゃん注:ママ。]亂て、元へ歸りがたし。婦人のこゝろひろからで、苦に苦を重ねて、血の道の狂ひ、逆上なし、こゝろの亂心もあり。又、何事もなき亂心して、人を害し、自害などお[やぶちゃん注:ママ。「を」の誤植が疑われる。]成す事、常々、心のとりさめ、宜しからずして、自ら破れを取るにいたる。よつて養生は業によらず、常々の身持、こゝろの中にあるべき事なり。取分、ふと亂心なすは、まづあらぬ怪しきものゝ目にさへぎる時、おどろき騷ぎ動く時は、忽ち、亂心なして、最早、直り難し。是を「通り惡魔にあふ」と俗に云へり。則、不祥の邪氣にあふなるべし。心得あるべき事なり。

 既に川井越前守、いまだ次郞兵衞といふて、御勘定吟味役を勤めたりし節、ある時、御城より退出、歸宅なし、自分の居間に至り、上下、衣類を着かへ、坐して、庭前を見れば、手水鉢の水落(おち)ぎはに植ゑ茂(しげ)りたる葉蘭の中より、ほのほ、焰(えん)々として、もえ上る事、三尺許り、煙り、盛んに立登る。

 帶刀を次に取のけさせ、

「我、不快なれば、汝等、來る事、無用なり。」

とて、人を拂ひ、蒲團を取寄せて打かぶり、心氣を、しづめ、暫くあつて、顏を出し、庭前を見れば、最前の炎、益、盛んに燃え上るに、向ふの隣家の境の板塀なりしが、此塀より、

「ひらり」

と、飛びくだるものを見れば、髮、ふり亂して、虎ひげ、さか樣に立上りたる大の男、白じゆばんを着て、穗先きらめく鎗を振廻し、

「すつく」

と、立て、

「礑(はた)」

と、にらむ眼の光り、尋常ならざるが、川井は、猶も、心を臍下におさめ[やぶちゃん注:ママ。]、兩眼をとぢて默然たる事、良、半時計、過て、又々、庭上を見れば、葉蘭より燃たる火も、しづまり、鑓、引提たる異形の者も居ず。常に替らざる庭の面なりければ、川井も、茶なぞ、乞ひて、心氣を、しづめ居る折から、隣りの家、大きに騷動すること、おびたゞし。

 川井、おどろき、

「何事なるぞ。」

と聞けるに、答へけるは、

「隣りの主、亂心して、刄ものを拔持て、あれ狂ひしを、漸々に取しづめぬれど、狂亂なして、大音に、あらぬ事のみ、呼わり[やぶちゃん注:ママ。]、叫ぶ事、しきりにて候なり。」

 川井次郞兵衞、是を聞て、

「扨こそ。物語りして、我等、心の取納め能からずして、怪き事と顚倒せば、忽ち、亂心すべきに、兼てより、我、聞置けることの心に浮みしまゝ、心氣をしづめ居たるに依て、其災ひを遁れたり。右の邪氣、隣家の主、其心得なく、大いに怪しみ、おどろき、恐れし心より、其邪氣に破られたるべし。是、いはゆる俗語に、『通り惡魔』と、いへるものなるべし。」

と申されけるとなり。

 又、先年、加賀の家中、國元より勤番の武士あり。

 夕方に、

「髮剃を硏ん。」

とて椽先の障子引明て、砥石に髮剃を當て、

「とがん。」

として、何心なく、向ふの板塀を見れば、思ひ寄らざる甲冑を着したるもの、いろいろのさしものなしたるが、鑓・長刀、引提げて、凡そ三十餘騎、駒のかしらを並べ、塀の笠木の上に居ならんで、此方を

「礑」

と白眼つめたる風情は、怪しくも不思議に見えたるに、この侍、兼々、心掛、能ものなれば、手に持し刄物を、急ぎ、投捨、直に平伏し、眼をとぢ、心氣を臍下に納め、良、暫らく有て、おき上り見るに、塀上に並びし武士、いづ地へ行けん、消えて跡なし。

 然るに、此塀向ふの小家に、亂心なしたる者、有りて、傍輩に手を負せ、その身、自害して、大ひに[やぶちゃん注:ママ。]騷動なせし、とかや。

 是も、則ち、川井が見たる「魔怪」と同日の談なり。

 又、予が祖母にておはせし人、享保元年の頃、火災の爲に類燒して、未だ普請も成就せず、燒殘りたる長屋に假住居なして居たる所に、頃しも、初秋にて、祖父は、當番の留守なり。側に召仕ひぬる女ども、次の間に、縫ひ物して居たり。

 祖母は、ぬひ物に退屈なし、椽の端に出て、たばこのみながら、向ふを詠め居けるに、類燒後にて、居所の跡は、所々に礎のみ殘りて、草、深く生ひしげり、風、そよぎ、ざはざはと音して、尾花、なみよる、氣色なり。

 其草の上を、白髮の老人、腰は、二重にかゞまりて、杖をたよりに、よろめきて、ゑ[やぶちゃん注:ママ。]もいはれざる顏して、笑ひながら、此方に向ひて來る體は、誠に、怪しさ、いわん[やぶちゃん注:ママ。]方なし。

 祖母、兼て、聞置きし事も有りぬるまゝ、

『扨こそ、我、亂心なすべき時なり。』

とて、兩眼をとぢ、「法華經」・「普門品」を唱へつゝ、心氣を、しづめ、暫くあつて、見るに、目にさへぎるものなし、とかや。

 然るに、其夕方に、三、四軒かたはらに、醫師の有しが、其妻こそ、亂心なしたり。

 是、則ち、世にいふ彼の「通り惡魔」なり。

 予が祖母は、かねて聞ける事を思ひ出し給ひしに依て、此災ひを遁れたり。

 每度、予が幼けなき時分、物語りし給ひき。是等、留置くべき事にこそ。

   *

よく見ると、第二話のパートに宵曲の引用とは、有意に異なる箇所がある。同一の底本であるから、宵曲が意図的に怪奇と関係がないと判断してカットしたものと思われるが、よろしくないね。

「川井越前守」川井久敬(ひさたか 享保一〇(一七二五)年~ 安永四(一七七五)年)は幕臣。通称は次郎兵衛。当該ウィキによれば、『従五位下越前守。低禄から勘定奉行に立身出世した』。『小普請組頭より勘定吟味役となり、明和』八(一七七一)年、『勘定奉行に就任した。田沼意次の貨幣政策の実現に向けて、明和五匁銀および南鐐二朱銀の鋳造を言上した。安永』四(一七七五)年には『田安家家老を兼任するが、同年』五十一『歳で没した』(死因不詳)。『同年』一『月に嫡男の川井久道が没していたため、孫で和算家の川井久徳が家督を継いだ』。『死後に「兼役(倹約)は、身を絶やす(田安)べき前表(千俵)か、四十九(始終苦)にして死ぬは川井(可愛)や」という落書があったとされる』とある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「道竜権現の鼻」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 道竜権現の鼻【どうりゅうごんげんのはな】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕永平寺の台所の大黒柱には、道竜権現を勧請(くわんじやう)<移し迎える>して、大造(たいさう)なる宮居有りし由。或年鐘撞《かねつき》の坊主、後夜《ごや》の鐘を撞き仕舞ひしが、鐘楼の屋根にて何か物語る様子故、心を澄まして聞けば、この度はこの地を清めずばなるまじといふものあり。かたかたより何とぞこの事思ひ留り給へと、再応押へるものあれど、この度は思ひ留り難しといふ故、鐘楼を立出で屋根を顧みれど何の事もなし。かの僧早速方丈に至りて、上達の出家を起して、方丈に対面を願ひけれど、深夜の事なれば明日申すべき間、先づ我等に申すべき事は申せと言ひけれど、急なる事にて是非方丈へ申したし、余人へは申し難きと言ひける故、詮方なく方丈を起しければ、早速方丈起き出《いで》て尋ねける故、しかしかの事なりと語りけるを聞きて、さる事もあるべし、思ひ当りし事ありと、早速寺中の者を起して、今夜より薪にて食湯(めしゆ)を拵へまじく、燈火も数を極め、たばこなど禁制すべしと、その道具取上げ、門前寺領へも厳しく触れ出しけるに、一両日過ぎて一人の行脚の僧来りて、旅に疲れたればとて食事を乞ひける故、安き事なれど、湯茶もぬるく冷飯の段答へければ、苦しからずとて右食を乞ひし上、たばこを一服たべたしと言ひしが、たばこは訳有りて禁ずる由答へければ、是非なしと礼言ひて立出でぬ。また暫く有りて、一人の山伏来りて湯茶を乞ひし故、同様挨拶なして茶をふるまひしに、たばこを飲まんことを乞ふ故、これはなり難き事と告げしかば、不思議なる事かな、この辺《あたり》すべてたばこを禁ずるは如何なる事やと言ひし故、方丈よりの厳制にて寺内寺領とも禁ずる由を言ひしかば、かの山伏大いに怒りたる躰《てい》にて、俄かに一丈ばかりの形となり、この道竜の告げたるなるべしとて、鼻をねぢりてかき消えて失せぬとなり。今に永平寺の道竜権は鼻曲りて有りしと人の語りぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之五 永平寺道龍權現の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「盗賊の刀」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 盗賊の刀【とうぞくのかたな】 〔耳囊巻五〕享保の頃の事とや。本多庚之助家中に、名字を聞きもらしぬ、恵兵衛と云へる、剛勇の男ありしが、或時夜に入り、程遠き在辺へ至り、帰りの節、稲村の内より、六尺有余の男出て、酒手《さかて》をこひし故、持合せ無ㇾ之由、断るを聞かず、大脇差を抜きて切懸けし故、抜打に切付けしに、塩梅よく一刀に切倒し候ゆゑ、早く刀を拭ひ納めて立帰りしが、右の袖手共にのり流れける故、さては手を負ひしと思ひ、月明りにて改め見しに、疵請けし事もなし。よくよくみれば、刀の束をこみともに、一寸計り切り落し有ㇾ之故、驚きて適(あつぱ)れの切れものと、不敵にも右の処へ立戻り、その辺を見しに、こみとも切れ候所も、その場所に落ちてありし故、ひろひとり、さるにても盗賊の所持せし刀、適れの名刀なりと、猶死骸を見しに、彼《かの》刀持ち居り候間、取納めて宿元へ立帰りしが、かゝる切《きれ》もの、いよいよためし見度《みたし》とて、主人屋敷にてためしものありし節、持参して試し給はるやう望みければ、則ちためさんと、彼刀を抜払ひ、つくつくと見て、さて珍しき刀かな、久しぶりにて見候なり、これは名刀なり、試すに及ばずと、彼ためしする者、殊の外賞美して、手に入りし訳尋ねける故、今は何をか隠さん、かくかくの事にて手に入りしと語りて、右刀には別にせんずわりといふ切名(きりめい)あるべしと、改めしに、果してその銘あり。これは切支丹御征罰の時、夥しく切りしに、中にもすぐれて、切身よかりしを、右の切銘を入れしとなり。かの殺されし盗賊は、権房五左衛門とて、北国に名ある強盗の由、久田若年の節、父のもの語りなりと咄しぬ。

[やぶちゃん注:私のものでは、底本違いで、「耳嚢 巻之六 得奇刄事」である。見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「投石二件」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 投石二件【とうせきにけん】 〔真佐喜のかつら〕嘉永七寅年六月上旬、麹町<東京都千代田区内>平川天神裏門前に玉子商ふ家有り。この家の上へ小石或ひは瓦の砕《くだ》けを投る事、昼夜夥だしく、されど何方《いすかた》より投《なげ》るとも知れず。その所に心いさめる者ありて、家根《やね》へのぼりみるに、後《うしろ》のかたより投る。その方へ向へば、また後より投る。されど決して身の内へ疵付《きずつ》く事なし。いとふしぎなる事とて、御奉行所へ御訴へ申候処、いつとなくその事やみぬ。我幼年の頃、深川<江東区内>永代寺門前へ、昼夜となく小石瓦の砕けを投る事降るが如し。これもいづれより投ると言ふ事を知らず。その辺り皆難渋しけるが、或人教へにまかせ、寺院より古き塔婆を集め焚きければ、忽ち止みたり。

[やぶちゃん注:「真佐喜のかつら」「大坂城中の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここで正規表現で視認出来る。

「嘉永七寅年六月上旬」一八五四年なお、嘉永七年十一月二十七日(グレゴリオ暦一八五五年一月十五日)に安政に改元している。先行する「天狗礫」で注した通り、擬似怪談である。さらに、この時期、江戸も末期で、人心に不安な変化が生じた時期であり、後の慶応三(一八六七)年八月から十二月にかけて発生した「ええじゃないか」(リンク先は当該ウィキ)と同じく、そうした人心不安による集団ヒステリーの影響もあろうかと思われる。

「麹町」「東京都千代田区内」「平川天神」現在の平河天満宮(グーグル・マップ・データ)。江戸城の西直近、国立劇場の裏手に当たる。

「永代寺」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

2023/12/16

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「湯治場の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 湯治場の怪【とうじばのかい】 〔窓のすさみ〕厩橋君未だ姫路に移られざりしうち、その臣下に浅井亦六《またろく》と云ふ士、草津<群馬県吾妻郡草津町>に湯治《たうぢ》しけるに、綺麗なる家ありしかば、こゝに泊らんとて、その価《あたひ》を問ひしかば、亭主の云ふ、先づ御泊りありて、価は御心次第に給はるべしと答へしかば、それは性しき答へなり、始めに定めずしては泊りがたしと有りしに、さればこの屋は、止宿する人三日と逗留する事なく候ゆゑ、おのづから家居《いへゐ》も損せずして、他より綺麗なるやうに候、先づ御泊り候へ、いよいよ御泊り候はゞ竝《なみ》もあり候ほどに、その時申すべしといふ。亦六聞きて、それは何故《なにゆゑ》人の泊らざるにや、そのよしを聞かんと云ふ。亭主答へて、さればこの屋には、夜中怪しきものの出でて、人をたぶらかしぬるとて、客一二夜を過さずして立去り申すなり、我等が居申す所には異《ことな》る事もなく候へども、亭には右の如くといふ。亦六それこそわが好む所あり、旅中の慰みにせんとて、主従二人宿し、夜に入りければ、怪しき事のあるにやと、夜もすがら寝ねずして待ちしかども、何のよしもなし。明日《あす》亭主を呼びてその由をかたるに、それは君の勇気に恐れて出でざるにこそ、猶御ためしあれといふ。かくて昼は湯に入り、夜になれば座を構へ、今や今やと待ち明かし、居眠《ゐねむ》りしける時に、小児《せうに》と見えたるもの来りて、燈《ともしび》を消しけるを、抜打に切りければ、手ごたへしけるほどに、人を呼びて燈をともさせ見れば、何の形もなし。斯の如くなりし事二夜にして、三夜におよび、今までは脇指(わきざし)を用ひしゆゑ、短くして届かぬ事もやと思ひ、今夜は刀《かたな》を横たへ待ち居《ゐ》けるが、三四日が間《あひだ》昼は入湯し、夜は終夜《よもすがら》いねざるゆゑか、坐しながら宵より熟睡(うまい[やぶちゃん注:ママ。「うまゐ」が正しい。])しけるに、暁近きころ、何やらん燈を消して、膝よりはひかゝりて、額《ひたひ》の上にそよと当りけるに、目《め》覚《さま》ましながら横なぐり打ちければ、強く手ごたへして去りぬる程に、火を燈させて見れば、例の如く何の形もなかりしが、血やゝこぼれてありしほどに、夜明けて亭主を呼びて、これを見せ、血筋を尋ね見させけるに、庭にも血の跡よほどありしかば、所のもの三四人して、その筋を求め行きけるに、一里ばかり先の山の麗に小さき穴ありて、血《のり》を引きたれば、うがちて見るに、古き狸の横に切られて死《しし》て有りけり。それよりかの宿の怪は止みけり。この亦六は武術に達し、殊に居合すぐれて、ぜにを高く擲《はふ》らせ、落つる処を二刀づつ切り離しけるとぞ。

[やぶちゃん注:「窓のすさみ」松崎尭臣(ぎょうしん 天和(てんな)二(一六八二)年~宝暦三(一七五三)年:江戸中期の儒者。丹波篠山(ささやま)藩家老。中野撝謙(ぎけん)・伊藤東涯に学び、荻生徂徠門の太宰春台らと親交があった。別号に白圭(はっけい)・観瀾)の随筆(伝本によって巻冊数は異なる)。国立国会図書館デジタルコレクションの「有朋堂文庫」(大正四(一九一五)年刊)の当該本文で正規表現で視認出来る。同書の「目錄」によれば、標題は『草津の化物宿屋』。幾つか、ルビがあるのを参考にした。この話、宵曲は「妖異博物館 消える灯」でも紹介している。

「厩橋君」播磨姫路藩初代藩主酒井忠恭(ただずみ 宝永七(一七一〇)年~安永元(一七七二)年)のことであろう。老中首座。上野(こうづけ)前橋藩第九代藩主であったが、後の寛延二(一七四九)年一月、遠国である播磨国姫路への転封とともに老中を辞任している。前橋藩は始めは「厩橋藩」と称した。

「二刀づつ」ちょっと意味が判らない。「ふたがたな」では如何にもおかしいし、「ふたみ」(二身)としても、「づつ」が、ややおかしいが、まあ、許せる。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「東極の地」(附・杜甫「戲題王宰畫山水圖歌」)

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 東極の地【とうきょくのち】 〔輶軒小録〕享保某年、江西の中小松・鵜川等の村、地界を争ひて、訟獄《しようごく》[やぶちゃん注:「訴訟」に同じ。]に及びて、その中《うち》流刑に処せられ、三宅嶋に放《はな》たる。その後、年歴て赦免を蒙り、帰郷を免《ゆる》さるゝものあり。折節極月<十二月>のことなるに、二艘連れ立ち、嶋を出づるに、一艘は先へ出で、恙なく江戸に帰る。跡の一艘は、ふと大西風に合ひ、限りもなく、東へ行くこと、幾百里と云ふことなし。大様《おほやう》[やぶちゃん注:おおよそ。]日積りを以て、海上の路程を量るに、日本より東へ七百里も行きぬべしと思へり。某処にて朝方《あさがた》の様子を見れば、夜の明けんとする時は、紺碧の層雲、海の東より立てり。やがて太陽海より升(のぼ)り出づ。その大《おほきさ》二十丈ばかりに見え、大白星[やぶちゃん注:惑星の金星。]いまだ残れり。それ大傘の如し。日昇ること究めて早し。その熱きこと盛夏の如し。人々衣を脱して、頭上に物を置きて、暑を防ぐばかりなり。暫くありて日上《のぼ》れば、次第に冷気になりて、時節相応の寒気なり。暫く有りて風変り、東になれば、幸《さひはひ》と思ひ帆を上げ、そろそろと西に帰る。始終廿日程歴て、臘月<十二月>廿七日に江戸に著く。小松の一僧、かの流人に檀越《だんおつ》[やぶちゃん注:檀家。]の好み有る故、京都の政府へ願ひて、江戸より迎へ帰る。予<伊藤東涯>が所識大森杖信老人、かの僧と相識《さうしき》なる故、始末を詳《つまびらか》に物語れり。この様子を察するに、天地の間、東極《とうきよく》の地なり。李白が詩に、巴陵洞庭日本東と云ふはさらなり。

[やぶちゃん注:「輶軒小録」「ゆうけんしょうろく」(現代仮名遣)は古義学派の儒者伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年:仁斎の長男。名は長胤(ながつぐ)。父の説を継承・発展させ、また、考証に長じて、現代でも有益な語学・制度関係の著書を残している。堀川の家塾で門弟を教授した。著作に「古学指要」・「弁疑録」・「制度通」・「名物六帖」などがある)の随筆で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで写本が視認出来る。当該部はPDF一括版の14コマ目から。

「享保」は一七一六年から一七三六年までであるが、話柄から、元年と末年享保二十一年(享保二十一年四月二十八日(グレゴリオ暦一七三六年六月七日)に元文に改元)は含まれないと考えてよいから、グレゴリオ暦では一七一七年二月十一日から一七三六年二月十二日の閉区間としてよかろう。

「李白が詩に、巴陵洞庭日本東と云ふ」これは「李白」作ではなく、「杜甫」の誤りである。以下に原文と訓読を示す。所持する岩波文庫「杜詩」(鈴木虎雄・黒川洋一訳注)を参考にした。

   *

   戲題王宰畫山水圖歌  杜甫

十日畫一水

五日畫一石

能事不受相促迫

王宰始肯留眞跡

壯哉崑崙方壺圖

挂君高堂之素壁

巴陵洞庭日本東

赤岸水與銀河通

中有雲氣隨飛龍

舟人漁子入浦溆

山木盡亞洪濤風

尤工遠勢古莫比

咫尺應須論萬里

焉得幷州快剪刀

翦取吳松半江水

 

   王宰(わうさい)が畫(ゑが)ける

   山水の圖に戲れに題する歌

                   杜甫

十日(じふじつ)に一水(いつすい)を畫(ゑが)き

五日(ごじつ)に一石を畫く

能事(のうじ) 相ひ促迫(そくはく)するを受けず

王宰 始めて 肯(あへ)て眞跡を留(とど)む

壯(さか)んなるかな 崑崙(こんろん) 方壺(はうこ)の圖(づ)

君(きみ)が高堂(かうだう)の素壁(そへき)に挂(か)く

巴陵(はりよう) 洞庭(どうてい) 日本(にほん)の東(ひがし)

赤岸(せきがん)の水は 銀河と通(つう)ず

中(なかごろ) 雲氣(うんき)の飛龍(ひりよう)に隨ふ有り

舟人(ふなびと) 漁子(りやうし) 浦溆(ほじよ)に入(い)る

山木(さんぼく) 盡(ことごと)く亞(つ)ぐ 洪濤(こうとう)の風(かぜ)に

尤も遠勢(ゑんせい)に工(たく)みなり 古(いにし)へに比(ひ)する莫(な)し

咫尺(しせき) 應(まさ)に須(すべか)らく萬里(ばんり)を論ずべし

焉(いづく)んぞ幷州(へいしう)の快剪刀(かいせんたう)を得て

翦取(せんしゆ)せん 吳松(ごしやう)半江(はんこう)の水(みづ)を

   *

語注をする。先に挙げた岩波文庫の語注を主に用いた。

・「王宰」蜀の人で、蜀の山々を描くことをよくしたという。「能事」能力を発揮することを指し、ここは山水画を描くそれを言う。

・「促迫」絵の依頼者の完成の日限を限って催促すること。「崑崙」ここは仙山。「方壺」渤海の海中に聳えているとされた伝説上の三つの神山――「蓬萊」(ほうらい)・「瀛洲」(えいしゅう)・「方丈」(「方壺」とも言う)――の最後のそれ指す。この三山には仙人・仙女が棲み、不老不死の薬があるとされた。孰れも「壺」の形をしているとされたので、「三壺山」とも称される。

・「巴陵」西晋時代の、現在の湖南省岳陽市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)一帯の古称。

・「洞庭」洞庭湖。旧巴陵の西から南にかけてある。

・「日本の東」東海の海上にある日本の意。

・「赤岸」山岳名。揚子江南部の秦嶺山脈にある。ブログ「李漢書」の「秦嶺山脈における季漢の勢力圏について」の最後にある地図を確認されたい。

・「中(なかごろ)」描かれた絵の中央の意。

・「浦溆」「溆」は「水域の畔(ほとり)」で、この場合は「浦」と同義。前で「雲氣の飛龍に隨ふ」ために、その絵の水域には激しい波が起こっているため、水主(かこ)や漁師は、皆、浦・入江の奥に避難しているのである。

・「山木(さんぼく) 盡(ことごと)く亞(つ)ぐ 洪濤(こうとう)の風(かぜ)に」岩波文庫では、この「山木」以下は前の部分と倒叙法で書かれているとし、訳は、『また、山の樹木は下方にあってその上方にすばらしく風立ったおおなみがえがかれ、』とした後に、舟人や漁師の避難が訳されてある。

・「遠勢」遠くを眺めた透(とお)し図法。

・「古(いにし)へ」古人の絵師たち。

・「比(ひ)する莫(な)し」匹敵する古人の絵師は、存在しない。

・「咫尺(しせき)」ここは限られた図絵の幅を指す。

・「應(まさ)に須(すべか)らく萬里(ばんり)を論ずべし」「その物理的に狭い画幅の中に、万里の人事と自然とを、いかに天馬空を飛ぶが如く、描き切っているかどうかをこそ評価すべきである。」の意。

・「幷州(へいしう)」岩波の注に、『今の山西省の地、切れもののでるところ。』とある。これは即物的な謂いで、例えば、山西省の省都太原は現代でも刃物が名産として知られる。

・「翦取(せんしゆ)せん 吳松(ごしやう)半江(はんこう)の水(みづ)を」岩波の訳は、『君の』絵『はあまりにうまいから、自分はどうかして幷州(へいしゅう)のよくきれるたちものがたな』(截ち物刀)『で松江(しょうこう)の水に似たところの半分ほどをきり取ってしまいたいとおもうが、どうだ。』とある。「吳松」岩波注に、『呉地の松江、松江は禹貢』(うこう:「書経」の一篇で、中国古代の地理の書として後世に尊重された)『の三江の一つ、松江府の南四十五里』(中国の一里は五百メートル)『にある、作者が嘗て呉に遊び其の地の風景を思って忘れなかったので』、『この言を発した』とある。現在の上海市松江区は南で黄浦江が貫流するが、その黄浦江の主要な支流が「呉淞江」(ごしょうこう)で、この川は「蘇州河」とも称し、古くは「松陵江」とも呼んだ。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「唐館の幽霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

     

 

 唐館の幽霊【とうかんのゆうれい】 〔甲子夜話巻十七〕長崎の唐館には人死するごとに幽霊出ること恆《つね》となりたりと。唐商これを患ふれども止まず。唐商のあげ置きたる娼婦の部屋に、常に来る商友あり。因て娼も懇なりしが、唐客死したるとき、二三日目の夜にその娼少婦[やぶちゃん注:『東洋文庫』版原本では『少婢』とあり、その方が躓かない。]と並び寝居たれば、楼下より梯子を上る履音のしたれば、怪しみ見たるに、かの新死の唐人なり。娼大いに恐れ、衾《ふすま》をかぶりて臥しゐたるが、その辺を立廻りて、しばしして立去りぬ。故に館中新死のものありて、陰々と履声あれば、処々のもの起騒ぐと云ふ。狐狸の霊供物食ふ為めに人を欺(あざむ)くか。さにも非るは、彼の館内の商の部屋に空屋一所あり。兎角幽霊この内に出るゆゑ空処(あきや)となれりと。幽霊もその存在のとき、貨物を多く持たる者の霊度々現るとなり。また交代寄合生駒氏の領邑は羽州矢嶋<秋田県由利本荘市内>なり。此処にても新死のもの幽霊となり出ること常なり。若し出ざるものは、彼者は生平情薄き故出ずなど人々罵る。また当主大内蔵と云へるも、領地にて幽霊を見しと。伝へ聞く、その側勤めのものなりしが、その容は没前に少しも違はざれども、ただ顔色黯然《あんぜん》[やぶちゃん注:悲しみや絶望などで心が塞ぐさま。激しく気落ちするさま。また、「黒いさま」の意もある。ハイブリッドに採ってよかろう。]くしやくしやとして、生人面の如くならず。総じて人の見る所の幽霊みな如ㇾ此と云ふ。

〔同上〕長崎唐館中幽霊の事は既に記したり。然るにまたこの頃長崎より来《きた》る者に、人をして聞かしむるに曰く、館内に幽霊堂と云ひて一宇あり。この堂そのために設け置きて、新死の者は必ずこの堂に霊出ることにて、履音ごとごととして絶えずと。然らば清の本国も如ㇾ此やと問たればこれに同じと答へたり。<この事『かしのしつ枝下巻』『譚海巻五』にもある>

[やぶちゃん注:事前に正字表現で「フライング単発 甲子夜話卷十七 2 和漢とも今幽靈出る實話 / 16 今長崎の唐館、常に幽靈出る事」を公開しておいた。

「譚海巻五」はルーティンで、既に「譚海 卷之五 肥前長崎唐人屋敷幽靈の事」として公開している。]

フライング単発 甲子夜話卷十七 2 和漢とも今幽靈出る實話 / 16 今長崎の唐館、常に幽靈出る事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。二話は同巻の中で、分離して載るが、続きの形を採っているので、カップリングした。17-2は、後半に違う場所の霊譚が載るので、「*」を挿入した。]

 

17―2 和漢とも今幽靈出(いづ)る實話

 長崎の唐館(とうかん)には、人、死するごとに、幽靈、出ること、恆(つね)となりたり、と。

 唐商、これを患(うれ)ふれども、止まず。

 唐商のあげ置きたる娼婦の部屋に、常に來(きた)る商友あり。因(よつ)て、娼(しやう)も懇(ねんごろ)なりしが、唐客、死したるとき、二、三日目の夜に、その娼、少婢(しやうひ)と並び寢居(ねゐ)たれば、樓下(らうか)より、梯子(はしご)を上(のぼ)る履音(くつおと)のしたれば、怪しみ見たるに、かの新死(しんし)の唐人なり。

 娼、大(おほい)に恐れ、衾(ふすま)をかぶりて臥(ふせ)ゐたるが、その邊(あたり)を立𢌞りて、しばしして立去りぬ。

 故に、館中、新死のものありて、陰々と履聲(くつごゑ)あれば、處々のもの、起騷(おきさは)ぐ、と云ふ。

 狐狸の、靈供物(れいくもつ)、食ふ爲めに、人を欺(あざむ)くか。

 さにも非(あらざ)るは、彼(か)の館内の商(しやう)の部屋に、空屋(あきや)、一所(いつしよ)あり。兎角、幽靈、この内に出(いづ)るゆゑ、空處(あきや)となれり、と。

幽靈も、その存在のとき、貨物を多く持(もち)たる者の靈、度々(たびたび)現(あらは)る、となり。

   *

又、交代寄合(かうたいよりあひ)生駒氏の領邑(れういふ)は、羽州矢嶋なり。

 此處にても、新死のもの、幽靈となり出(いづ)ること、常なり。

 若(も)し出ざるものは、

「彼(かの)者は、生平(せいへい)、情(なさけ)薄き故、出(いで)ず。」

など、人々、罵(ののし)る。

 又、當主大内藏(おほくら)と云へるも、

「領地にて、幽靈を見し。」

と。

 傳へ聞く。

「その側勤(そばづと)めのものなりしが、その容(かたち)は、沒前に、少しも違(たが)はざれども、ただ、顏色、黯然(あんぜん)[やぶちゃん注:悲しみや絕望などで心が塞ぐさま。激しく氣落ちするさま。また、「黑いさま」の意もある。ハイブリッドに採ってよかろう。]、くしや〻〻[やぶちゃん注:ママ。「しや」を一字として採った踊り字であろう。]として、生人面(せいじんづら)の如くならず。總じて、人の見る所の幽靈、みな、如ㇾ此(かくのごとし)。」

と云(いふ)。

■やぶちゃんの呟き

「交代寄合」。旗本でありながら、領地に居住し、参勤交代を義務付けられた三十余家の旗本を指す。当該ウィキによれば、『交代寄合は領地に陣屋を構えて居住し、家老や代官を通じて領地を支配し、江戸には家老や留守居役以下江戸詰めの家臣を常駐させ、当主は参勤交代を行うという小規模ながら大名家と似た体制をとっていた』。『一般旗本が江戸在府であり』、『若年寄支配であるのに対し、交代寄合は領地に在住し』、『老中支配に属する。また江戸城における詰所も帝鑑間』(ていかんのま)『か柳間という大名級待遇だった』。『交代寄合が出来た理由について、小川恭一は「交代寄合が領地を賜っている時期は大坂の陣前後が多く、陣屋を構えている地域は交通の要衝であり、陣屋を構えるに当たっては寛政譜では、特に四衆には「山賊やキリシタンに備えよ」などの幕府からの指示が書かれていることが多い。つまり、交通の要衝に大身旗本と陣屋を配置して大坂方への備えとしたのであろう」と述べている』とあり、『交代寄合の禄高は最大で』八千『石(本堂家と生駒家)』(☜)『から』百二十『石(岩松家)、無高(米良家)まで様々であったが、全体的には』三千『石以上が大半を占め、外様大名の一族が多かった』とし、「表向御礼衆」に、『表向御礼衆は大名と同じ扱いを受け、登城の際は表御殿でそれぞれの間に詰める大名嫡子の後に将軍と拝謁した』とあって、そのリストに「生駒家」があり、『出羽由利郡矢島領』八千『石』とあって、伺候席を柳の間とし、「備考」には、『元高松藩藩主。維新後に石高直しを行い』、『再立藩し、矢島藩主を経て男爵』となったと注記する。

「羽州矢嶋」現在の秋田県由利本荘市矢島町(やしままち:国土地理院図。かなり広域である。中には「矢島町矢島町(やしままちやしままち)」(同前)も存在する)。

「當主大内藏」恐らくは旗本生駒親孝(いこまちかのり 寛政二(一七九〇)年~天保七(一八三六)年)と推定される。初名は丹羽貴邁。通称に「修蔵」「大内蔵」がある。

 

17―16 今長崎の唐館、常に幽靈出(いづ)る事

 長崎唐館中(ちゆう)幽靈の事は、既に記したり。

 然(しかる)に、又、頃(このご)ろ、長崎より來(きた)る者に、人をして聞かしむるに、曰(いはく)、

「館内に『幽靈堂』と云ひて、一宇、あり。此(この)堂、其ために設(まうけ)置(おき)て、新死の者は、必(かならず)、此堂に、靈、出(いづ)ることにて、履音、ごと〻〻として、絕えず。」

と。

「然らば、淸の本國も、如ㇾ此(かくのごとき)や。」

と、問(とひ)たれば、

「これに、同じ。」

と答(こたへ)たり。

■やぶちゃんの呟き

「幽靈堂」『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「清人の幽霊」』(「かしのしづ枝」からの引用)にも出ている。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天より降った男」 / 「て」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 因みに、本篇を以って、「て」の部は終わっている。

 

 天より降った男【てんよりふったおとこ】 〔兎園小説第十集〕文化七年庚午の七月廿日の夜、浅草南馬道《うまみち》<東京都台東区浅草内>竹門《たけもん》のほとりへ、天上より廿五六歳の男、下帯せず赤裸にて降り来りてたゝずみゐたり。町内の若きもの、銭湯よりかへるさ、これを見ていたく驚き、立ち去らんとせし程に、かの降りたる男は、その儘そこへ倒れけり。かくて件《くだん》のありさまを町役人等に告げしらせしかば、皆いそがはしく来て見るに、そのものは死せるがごとし。やがて番屋へ舁《か》き入れて介抱しつゝ、くすし<医者>を招きて見せけるに、脉《みやく》は異なることもあらねど、いたく疲れたりと見ゆるに、しばらくやすらはせおくこそよいらめといへば、みなうち守りてをる程に、しばしありて、件の男は醒めて、かうべを擡《もた》げにければ、人みなかたへにうち集《つど》ひて、ことのやうを尋ぬるに、答へていはく、某《それがし》は京都油小路二条上る町にて、安井御門跡の家来伊藤内膳が倅《せがれ》に安次郎といふものなり、先づこゝはいづくぞと問ふ。こゝは江戸にて、浅草といふ処ぞと答ふるに、うち驚きて頻りに涙を流しけり。かくてなほつぶさに尋ぬるに、当月十八日の朝四つ時<午前十時>ごろ、嘉右衛門といふものと同じく、家僕庄兵衛といふものをぐして、愛宕山へ参脂しけるに、いたく暑き日なりければ、衣を脱ぎて涼みたり。その時のきるものは、花色染の四つ花菱の紋つけたる帷子に、黒き絹の羽織、大小の刀を帯びたりき。しかるにその時、一人の老僧わがほとりへいで来て、面白きもの見せんに、とく来よかしといはれしかば、随ひゆきぬとおぼえしのみ。その後の事をしらずといふ。いともあやしき事なれば、そのもののはきたる足袋《たび》(白木綿の足袋なり)を、あたり近き足袋あき人《びと》等《ら》に見せて、こは京の足袋なりやとたづねしに、京都の仕入に違ひなしといへり。その足袋にすこしも泥土のつかでありけるもまたいぶかしきことなりき。江戸にてはかゝる事あれば、官府へ訴へ奉るが町法《ちやうはふ》なれば、何と御沙汰あるべきか、その事も計りがたし。江戸に知音《ちいん》のものなどのありもやするとたづねしに、しる人とては絶えてなし、ともかくも掟《おきて》のまにまにはからひ給はれといふにより、町役人等談合して、身の皮を拵へつかはし、官府へ訴へまうしゝかば、当時御吟味の中、浅草溜《あさくさだめ》へ御預けになりしとぞ。その後の事をしらず。いかがなりけんかし。<『道聴塗説十編』に同様の文あり>

[やぶちゃん注:私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 人のあまくだりしといふ話』を見られたい。

「道聴塗説」(だいちやう(別に「だいてい」とも読む)とせつ)一般名詞では「道聴途説」とも書く。「論語」の「陽貨」篇の「子曰、道聽而塗說、德之棄也。」(子曰はく、「道に聽きて塗(みち)に說(と)くは、德を之れ棄つるなり。」と。)による語で、路上で他人から聞いたことを、すぐにその道でまた第三者に話す意で、「他人からよい話を聞いても、それを心にとどめて、しっかりと自分のものとせぬままに、すぐ、他に受けうりすること」で、転じて、「いいかげんな世間のうわさばなし・ききかじりの話」を指す。この書は、越前鯖江藩士で儒者であった大郷信斎(おおごうしんさい 明和九(一七七二)年~天保一五(一八四四)年:当初は芥川思堂に、後、昌平黌で林述斎に学んだ。述斎が麻布に創った学問所「城南読書楼」の教授となった。文化一〇(一八一三)年には、藩が江戸に創設した「稽古所」(後に「惜陰堂」と名のった)でも教えた。名は良則。著作に「心学臆見論」などがある。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第二(大正五(一九一六)年国書刊行会)のこちらで正規表現で視認出来る(「第十編」の冒頭)。標題は『天狗句-引人』(「天狗、人を句引(こういん)す。」であろう「句引」は「拘引」の意)。細部の表記が異なるものの、同一の内容である。但し、どちらかが真似したのではなく、同一のかなり詳しいソースを聴いて、共時的に書かれたものと好意的にとっておきたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天与の鰻」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天与の鰻【てんよのうなぎ】 〔二川随筆巻上〕至りて孝心なれば、天これを感応ある事定《さだま》れる理《ことわり》なり往昔郭巨が金の釜を掘出し、孟宗が雪中の筍《たけのこ》を得たる類ひ、世に多き内、眼前に見たる事ありとて、並河五市郎と云ひし人の噺なり。そのゆゑいかんとなれば、南都より大坂へ越《こえ》る道に、竹の打越と云ふ峠あり。この峠に竹の内村とて人里あり。この里の百姓貧家の子に、十六歳になる娘と十歳になる男子あり。この父或時、疫痢を煩《わづら》ひけるが、鰻(うなぎ)を食ひたき由をいふ。娘聞《きき》てこれを求めんとすれども、元より貧なればその価《あたひ》なし。娘これを悲しみ、親しき人に頼めども、取りてくれ候者なし。然るに或時、前なる川へ水を汲みに行きしに、いかゞしたりけん、鰻水桶の内にあり。娘驚き、天のあたへと悦び取《とり》て帰り、これを焼《やき》て父にあたふ。父悦んで食するに、これより痢病日々に程よく本復に及べり。それよりこの娘水を汲みに出《いづ》る毎《ごと》に、鰻桶の内に入り来《きた》る事たえず。元より疫痢の事なれば、この村の男女疫痢を受けて、死生のさかひに臥す者多し。時にこの事を聞て、こは希代の事どもかなとて、かの娘に鰻をもらひ食するに、皆々病《やまひ》平癒せり。尤(もつと)も不思議なる事どもなり。これ孝心深きゆゑ、天の感応に預り有難き事にあらずや。

[やぶちゃん注:(にせんずいひつ:現代仮名遣)は成趣軒(細川宗春:生没年未詳。詳細事績不明)著、山川素石(馬場信意:のぶおき/のぶのり 寛文九(一六六九)年~享保一三(一七二八)年:江戸中期の小説家。日本を題材にした軍書の制作を中心に書き、近世に於ける最大の軍書制作者とされる)訂考になる随筆で、織田信長時代以降の雑事を漫録したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第五巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(右ページ二行目から)。なお、そちらの活字本では、「鰻」は『鱣』の字を用いている。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天王寺坂妖怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天王寺坂妖怪【てんのうじざかようかい】 〔思出草紙巻三〕享保初年の頃に、江戸大久保<東京都新宿区内>に勝間郡蔵といふ一刀流の剱術の指南なす浪士あり。その芸は未熟たりといへども、不思議に高運にして門弟多く、諸所に出張の稽古所ありて、月毎に行き通ひて、その最寄最寄の社中に指南なしぬ。かの郡蔵、その道に高慢つよく、只利運なる事[やぶちゃん注:優越した立場を誇って、言いたい放題すること。]のみ広言なし、かりそめにも謙退の心なし。然るに昨年の暮にて、青山辺の道場稽古おさめとて、近辺の門弟両人同道にてその席に至り、酒宴の興、時を移して雑談かまびすしく、夜の更くるを知らず。夜半の鐘に驚き、暇を告げて立戻れる道に、灯《あか》りなく闇夜なり。両門弟が曰く、提灯用意なくては用心よからず、立戻りて提灯借り来《きた》るべし。勝間郡蔵が曰く、いやいや燈《とも》し火あらば却つて用心悪しきなり、只足元のみ知れて前後わからず、かやうの時にこそ心掛のある事なりとて、例の広言はいて、既に四つ谷<新宿区内>に至り、南伝馬町<同上>と言へる所の横の小道をたどり、名にたかき天王の社前にさしかゝるに、道ひろく老松古松枝をかはし立込《たちこめ》て、森々《しんしん》として物すごし。連れたる両人、臆《おく》したる体《てい》を見て、郡蔵が曰く、都(すべ)て世の中に恐ろしき事あらざるものなり、怪しきといふも、多くは狐狸の類《たぐひ》、臆したる根性を見きはめて、附込《つけこ》みおどろかしむ、人は万物の霊なり、まして武士たるもの、臆したる心あるまじ、その為などの劔術稽古、恐るゝ事有るべからずとて、つぶやきつゝ小坂を下るに、左りの方に寺あり。この表門の冠木《かぶき》に竜の彫ものあり。この前を通りかゝれば、不思議やこの冠木を放《はな》れ、両眼の光り赫々《しやくしやく》として、角をふり立て、紅《くれなゐ》の舌くわゑん[やぶちゃん注:「火炎」。]の如く、郡蔵が目先にくるくると廻る事、車りんの如し。連れの両門弟は大きに驚き恐れて、あつと一声さけんで逃げ走れば、郡蔵は刀の鯉口くつろげてはつたと白眼(にらみ)、おのれ古狐、われを容易の者と思ふか、憎きやつめと呼《よば》はり、眼《ま》たゝきもせず詠(なが)めつめたるに、暫くしてかの竜は元の冠木に止りぬ。郡蔵は、さればこそと打笑ひ、逃げ出したる両人の門弟を呼び止め、臆病なり、戻り給へと言ひつゝ、この寺の門前を通る。折ふし霜どけのぬかる道なれば、まばらなる杉垣のきはを透し詠めて、道のよき場所をえらみ通れる。垣根の間《あいだ》より氷の如くいとつめたき手を出し、勝間が耳をつまみ引きけるに、勝間驚き振返りて見る鼻の先へ、かね黒々とほそ眉の色白なる女の[やぶちゃん注:ここには読点が必要。]顔さし出《いだし》し、莞爾(につこ)と笑ひ、えも言はれざる恐ろしき風情にて、摺付《すりつ》くばかりに目の先に見えしにぞ、流石の郡蔵不意を打たれ、一声さけんで気絶なし、片はらに倒れのたり伏す。さるにても、先に逃げ出したる両人の門弟は、勝間が来らざるはいぶかしとて、知るべのかたに立寄り、提灯を用意し、立戻りつゝ気を失ひし師匠を呼び生《いか》し、早々に立戻りけるとなり。それよりして勝間が評、殊の外よからず。次第に門弟も減少なして、後には稽古に出る人もなく、外聞を失ひ、何地《いづち》へか立退《たちの》きしとかや。古語に知る者は言はず、言ふ者はしらずといへり。これ末代迄の格言にして、その術に慢《まん》じて高言《かうげん》いふばかりなき勝間、日頃の言葉に引きかへて、臆病の振舞、大いに笑ひの種となれり。

[やぶちゃん注:「思出草紙」「古今雜談思出草紙」が正式名で、牛込に住む栗原東随舎(詳細事績不詳)の古今の諸国奇談珍説を記したもの。『○天王寺坂妖怪の事』がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここから正規表現で視認出来る。

「天王寺坂」「名にたかき天王の社前」「天王寺坂」は現在の東京都新宿区若葉にある「東福院坂」の別称(後述。ここの坂下のポイントでは、はっきり「東福院坂(天王坂)」とある)。ここ(孰れもグーグル・マップ・データ)で、東北方向が上で、かなりの傾斜がある。その坂の下の、十字路を経てさらに南西に下ると、「須賀神社男坂」とあるが、ここは「東福院坂(天王寺坂)」とは逆傾斜地で、少なくとも現在は階段(ストリートビュー)であるが、その画像右に「須賀神社」の門柱が確認でき、この「名にたかき天王の社」というのは「天王寺坂」を下って、この「須賀神社男坂」を登ったところから右(地図上では西北西)に折れたところにある須賀神社(東京都新宿区須賀町内。グーグル・マップ・データ)のことである。この神社は旧社格は郷社で、四谷十八ヶ町の総鎮守であり、当該ウィキによれば、『江戸時代には四谷総鎮守の天王様として信仰を集めた。主祭神は須佐之男命(須賀大神)、宇迦能御魂命(稲荷大神)。主祭神の左右には五男神(天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、熊野樟日命、活津彦根命)、宗像三女神(多紀理姫命、市杵島姫命、多岐都姫命)が祀られている』が、『須賀神社の始まりは寛永』一一(一六三四)年、『赤坂一ツ木村(一ツ木)の清水谷にあった稲荷神社』(☜)『を江戸城外堀普請のため』、『四谷に遷座したことであるとされる。別当寺は稲荷山福田寺宝蔵院。寛永』一四(一六三七)年に『日本橋大伝馬町の鎮守として神田明神摂社(天王二ノ宮)に祀られていた牛頭天王を合祀したことにより』、『江戸時代には「稲荷山宝蔵院天王社」「稲荷天王合社」「四谷牛頭天王社」と称されていた』。「江戸名所図会」・「御府内備考続編」に『拠れば』、『主祭神(牛頭天王および稲荷大明神)の本地仏として』、『薬師如来像および十一面観音像が安置され、境内には不動明王(宝蔵院本尊)、春日明神、八幡神、金毘羅権現、秋葉権現、妙義権現、愛宕権現、石尊権現、庚申、天神、山神、水神、歳徳神、疱瘡神などが祀られた堂宇や社祠が存在していたことが確認できる。また、墓蹟研究家の磯ヶ谷紫江に拠れば、榧寺の銅造観音菩薩坐像や江島神社の青銅鳥居などを手掛けた鋳物師、粉川市正作の銅燈籠があり、かつては祭礼の際に「祇園牛頭天王」と書かれた「五段の幟」と呼ばれる長さ五反ほどの大幟を立てることが名物になっていたという』とある。この神社、元が稲荷とあれば、この勝間を脅した妖怪の正体は、案外、ここの妖狐であったのかも知れない。

「左りの方に寺あり」坂の途中の左に「東福院 四谷納骨堂」(グーグル・マップ・データ)とあるが、ここ(ストリートビュー)はれっきとした「寶珠山東福院」という真言宗の寺院である。こちらの公式サイト内に、『当寺院は人皇第』百六『代正親町天皇の天正』三(一五七五)年、『今から』四百四十『年前、開基 法印祐賢上人』、『外護者大沢孫右衛門尉(げごしゃ おおさわまごえもんのじょう)によって麹町』九『丁目に創建。寛永』一一(一六三四)年、『この地に移転し』たとある。

「垣根の間より氷の如くいとつめたき手を出し、勝間が耳をつまみ引きけるに、勝間驚き振返りて見る鼻の先へ、かね黒々とほそ眉の色白なる女の」、「顔さし出し、莞爾(につこ)と笑ひ、えも言はれざる恐ろしき風情にて、摺付くばかりに目の先に見えしにぞ、流石の郡蔵不意を打たれ、一声さけんで気絶なし、片はらに倒れのたり伏」した場所は、東福院の寺の脇であるから、この先辺りになろうか。或いは、当時の寺の冠木門はもっと下方にあったとすれば、この先と言うべきかも知れない(孰れもストリートビュー)。]

2023/12/15

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天女の接吻」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天女の接吻【てんにょのせっぷん】 〔半日閑話巻五〕松平陸奥守忠宗の家来番味《ばんみ》孫右衛門と云ふ者、おのれが宅にて、座席に昼寝して居る処へ、天女天降りて孫右衛門が口を吸ふと見て、その儘辺りを見れども、人気もなし。さりとては思ひもよらぬ夢を見る物哉と思ひ、人に語らんもいと恥かしくてぞ居けるが、その後よりして彼の孫右衛門が物をいふ度毎に、口中異香薫じける程に、側《そば》に居ける人々これを不審に思へり。その身も不思議に思ふ処に、心安き傍輩の申様《まうすやう》には、足下には怠らず深き嗜み哉、いつとても口中香《かぐは》しき事、唯々匂《ひほひ》の玉を含めるが如し、これ奇特千万なりといへば、その時孫右衛門さりし時の有増(あらまし)事《ごと》を語り、それよりして如ㇾ此といへば、彼《かの》友も奇異の思ひをなしけるとなん。さて孫右衛門美男といふにもあらず。または何のしをらしき事もなき男振《をとこぶり》なるに、いか成る思ひ人《びと》有《あり》てか、天女はかゝる情《なさけ》をかけつらん、その源《みなもと》計り難し。さればその香《かをり》一生身終る迄消えずして香りけるとなん。これ田村隠岐守宗良《むねよし》の家来佐藤助右衛門重友が語る処如ㇾ此。

[やぶちゃん注:「半日閑話」「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。但し、「巻五」は「巻六」の誤りである。標題は『○天女降て男に戯るゝ事』である。「降て」は「くだりて」と読みたい。なお、国立国会図書館デジタルコレクションのここで『「半日閑話」にみられる口中から芳香を出し続けた男の記述について』という学術論文がダウンロード出来る。鶴見大学歯学部の佐藤恭道・戸出一郎・雨宮義弘共著で、「日本歯科医史学会」の『日本歯科医史学会会誌』(第二十七巻・第三号・通巻百四号・二〇〇八年四月発行)その『解題・抄録』に、『口臭についての記述は古来『医心方』『病草紙』『今昔物語集』などの文献にも記載が見られる』。『特に江戸時代には様々な歯磨剤が売られ』、『歯口清掃が庶民の嗜みになっていた』。『今回我々は』、『大田南畝の随筆『半日閑話』に見られる』、『口中から芳香を出し続けた男の記述について検索した』。『大田南畝は』、『寛政から文化』・『文政年間にかけて戯作や随筆などを著し』、『当時の文壇に大きな勢力を持っていた文人である』。『『半日閑話』は』、『明和五年から文政五年の市井の雑事を記録した大田南畝の見聞録である』が、『口中から芳香を出し続けた男の話は『天女降て男に戯るゝ事』として「松平陸奥守忠宗の家来の番味孫右衛門が』、『天女に口を吸われた後』、『一生涯』、『口中から芳香を発し続けた』『」と記されている』。『この記述は』、『口中から芳香を発することへの憧れによって創作されたものではないかと考えられた』(☜)。『また』、『この記述は』、『当時の口臭に対する世相を反映した興味ある資料と考えられた』とある。歯科学者の方々による面白い論文である。是非、読まれたい。現代語訳なんぞより、ずっと価値があること、請け合う。

「松平陸奥守忠宗」かの伊達政宗の次男で、陸奥国仙台藩二代藩主。

「番味」姓として聴いたことがないが、取り敢えず、「ばんみ」と読んでおいた。

「田村隠岐守宗良」(寛永一四(一六三七)年~延宝六(一六七八)年)陸奥仙台藩第二代藩主伊達忠宗の三男で、仙台藩の支藩岩沼藩初代藩主。

「佐藤助右衛門重友」陸奥佐藤氏の佐藤易信流の佐藤新三郎重友(ウィキの「佐藤氏」に拠った)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天神の火」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天神の火【てんじんのひ】 〔譚海巻八〕勢州雲津川上に天神山といふあり。その山に火あり。里人天神の火といひならはしたり。夏秋のころ日暮るれば、天神の山のしげみにこの火見ゆるを、戯れに人呼ぶときは、その前に飛びいたる。里より山までは二里あまりを隔てたるところを、呼ぶ声につきてそのまゝ來《きた》る事、端的にして矢よりも早く飛び至る。この火傘の大きさほどありて、地上をはなれてありく事一二尺に過ぎず。火の中にうめく声のやうなるもの聞えて、人のありくに随つて追ひ来《きた》る。怪しき事なし。害をなす事もなき故、常に人見なれて、子供などは火の中に入りて、かぶりたはぶるゝ事をなす。熱気なくして、色は常の火のごとし。たゞ臭気ありて久しく褻(なれ)がたし。家へ帰り行くに、火も人に随ひ来りて、終夜戸外に有てうめく声有てさらず。里人例の戯れに火を呼びたるよとて、戸外に出《いで》て草の葉をひとつ摘みとり、額に戴く時は、この火たちまちに飛びさりてうするなり。地上にあるもの何にてもいたゞきて見する時は、火避けて飛びさる事すみやかなり。いかなる物といふ事を知らず。

[やぶちゃん注:これは事前に上げた「譚海 卷八 勢州雲津天神の火の事(フライング公開)」を見られたい。]

譚海 卷之八 勢州雲津天神の火の事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 勢州、雲津川上(くもづがはかみ)に天神山といふあり、その山に火あり、里人、「天神の火」と、いひならはしたり。

 夏・秋のころ、日くるれば、天神の山のしげみに、此火、見ゆるを、戲(たはむれ)に、人、呼ぶときは、その前に、飛(とび)いたる。

 里より、山までは、二里あまりを隔てたるところを、よぶ聲につきて、そのまゝ來(きた)る事、端的にして矢よりも早(はやく)飛至(とびいた)る。

 此火、傘の大きさほどありて、地上をはなれてありく事、一、二尺に過(すぎ)ず。

 火の中に、うめく聲のやう成(なる)もの、聞えて、人のありくに隨つて、追來(おひきた)る。

 怪しき事、なし。

 害をなす事もなき故、常に、人、見なれて、子供などは、火の中に入(いり)て、かぶり、たはぶるゝ事をなす。

 熱氣、なくして、色は、常の火のごとし。

 たゞ、臭氣ありて、久しく褻(なれ)がたし。

 家へ歸行(かへりゆく)に、火も、人に隨ひ來りて、終夜、戶外(こがい)に有(あり)て、うめく聲、有(あり)て、さらず。

 里人、

「例(れい)の、戲(たはむれ)に、火を呼(よび)たるよ。」[やぶちゃん注:ママ。私は「火を」は「火の」の誤記ではないかと疑っている。]

とて、戶外に出(いで)て、草の葉を、ひとつ、摘(つみ)とり、額(ひたひ)に戴(いただく)時は、この火、たちまちに、飛びさりて、うするなり。地上にあるもの何にてもいたゞきて見する時は、火、避けて、飛(とび)さる事、すみやかなり。

 いか成(なる)物といふ事を、知らず。

[やぶちゃん注:「雲津川」の「上」の「天神山」は「雲出川」(くもずがわ)のことで、三重県を流れる一級水系の本流。奈良県との県境に位置する三峰山に源を発し、伊勢湾に注いでいる。ここ(グーグル・マップ・データ)。底本の竹内利美氏の注には、確かに、『三重県河芸郡』(現在は、津市の一部・鈴鹿市の一部・亀山市の一部になって消滅している)『の雲津川上流の山』とあるのだが、そもそも「雲津川」がおかしいし、「ひなたGPS」の戦前の地図や国土地理院図等を、いくら探しても、この「雲出川」上流の「天神山」は見当たらない。識者の御教授を乞うものである。この怪火現象は科学的に説明のしようがないだけに、当該地を知りたいのである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天井の一包」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天井の一包【てんじょうのひとつつみ】 〔真佐喜のかつら[やぶちゃん注:左寄せはママ。]〕堀江町《ほりえちやう》に身もと豊かなる米商ひする人有り。手代奉公人も多く、ひとりの忰へ芝辺より娵(よめ)をもらひぬ。女《をんな》男と同じ年にて、久しく大諸侯の奥へ勤めしよし。ある夜男ふと目覚し見るに、妻の傍《かたはら》にたれやら添寝して居《を》る様にみゆ。不思議におもひ起出でみれば、誰もなし。恐ろしきまゝ妻をゆり起してその事を問ふ。妻も驚けるばかりにて、何にもこゝろえたる事なし。また次の夜に至り、今宵こそよく見留むべしと心を付けゐれば、さらに何事もなし。頓(やが)て眠《ねぶり》を催し、あり明《あけ》の灯《ともしび》幽かになりて目覚ければ、また怪しき姿あり。すはやと起出《おきいづ》るに、その姿けぶりの様に天井へ入りて失せにけり。その翌日母・女房、または手近く遣ふ女ども、みな芝居見物につかはし、年久しくつかふ手代を一間へ招き、ありし事ども物語り、両人にて天井板の張終《はりをはり》を押揚げ見るに、小さき風呂鋪包《ふろしきづつみ》あり。さてはと取出《とりいだ》し開き見るに、紫縮緬《むらさきちりめん》に包みたる一品あり。何なるべしと見るに、婦人の翫《もてあそ》ぶ水牛にて造れるはり形《がた》といふ具なり。をかしくも又何となく恐ろしく、申合せ元のごとくなし、老人持出《もちい》で、大川へ流しける。その夜よりして怪しき事なく、されば無精の物なれど、こゝろを入れ、久しく用ひし品にはかゝる事もあるにやと、かの老人後に予<青葱堂冬圃>が母にかたりぬ。

[やぶちゃん注:「真佐喜のかつら」「大坂城中の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここから正規表現で視認出来る。

「堀江町」江戸ならば、現在の中央区日本橋小舟町(にほんばしこぶなちょう)・日本橋小網町附近。

「無精」これは「むせい」と読みたい。そのような読みは一般にはないが、精神=心を持たない無生物の意で採っておく。にしても、この淫具張形(コケシ・ディルド)は誰のものか。まず、この妻、「大諸侯の奥へ勤め」たとあるから、その折りに、自慰行為に用いていたものを、こっそりとそこに隠しておいたものか。捨てずにいたのは、未練があったからか。その辺りが、明らかにされていないのは、この妻なる女性への作者の思いやりというべきか。よく判らぬ。私には、その辺りの方が、怪奇現象よりも、キビが悪いのだが……。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天井の艶書」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天井の艶書【てんじょうのえんしょ】 〔耳囊巻三〕祐天僧正は、その徳いちじるしき名僧なりし由、或日富家《ふか/ふうか》の娘身まかりしに、かの娘、折ふし一間なる座鋪の角(すみ)に、髣髴とたゝずみ居《を》る事、たびたびなり。両親或は家内の者の眼にも、さへぎりけること、父母も大いに驚き、孤狸のなす業や、または成仏得脱の身とならざるやと、歎き悲しみ、誦経読経なし、あるひは祈念祈禱をなしぬれども、その印なかりければ、祐天いまだ飯沼の弘経寺にありし頃、かの験僧を聞て請じけるに、祐天申しけるは、何方へ出候や、日々所をかへ候やと尋ねしに、日々同じ所に出る由を語りければ、我等早速退散させべしとて、右一間へ梯子をとり寄せ、火鉢に火をおこして、かの一室に入りて、誦経などなせしうへ、右亡霊の日々たゝずみけるといへる所へ、梯子をかけ、祐天自身と天井をはなし見しに、艶書夥しく有りしを、一つかねに取りて、直に火鉢のうちヘいれ、煽ぎ立てて煙となし、この後は必ず来《きた》る事あるまじと云ひしに、果してその後はかゝる怪しみなかりけるとなり。娘の語らふ男ありて、艶書ども右天井に隠し置きしに、心残りけると、はやくも心付きし明智の程、かゝる智者にあらば、祈禱も験奇《げんき》有るべき道理なり。

[やぶちゃん注:「耳嚢 巻之三 明德の祈禱其依る所ある事」を、必ず、参照されたい。損はしませぬぞ。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗六兵衛」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天狗六兵衛【てんぐろくべえ】 〔梅翁随筆巻七〕難波鳥屋町に河内屋六兵衛といふ鳥屋あり。とし若けれども、才発なる生質にて、しかも身持正しく、家業に精出し、中より上のくらしなり。十八九歳のころ行方しれずなりぬ。父母は先達《さきだつ》て死し、叔父一人別家いたし居《をり》けるが、大いに嘆き悲しみて、祈らぬ神仏もなし。年を経てもおこたりなきにやあらん。三年の後帰り来れり。また立出《たちいづ》る事もやと、側《そば》を放さず人を付け置きしが、消ゆるが如くまた逃出《にげいで》て、行方知れずなりにけり。叔父いよいよ愁ひなげきて、金毘羅をふかく信仰しけるゆゑにや、六年過ぎてたち戻りぬ。その時おそろしき羽おと聞えしが、出てみればへ六兵衛立ち居《をり》たるゆゑ、且つ悦び且つ驚き、またもや逃げんと守り居けるに、五六日が程は、只ものをもいはず寝通《ねどほ》して、いかに起しても正体なし。著せし衣類は六年已前のまゝにて、少し垢つきたるのみにて、破れ損ぜし所もなく、かくて六七日過ぐれば、以前にかはる事もなし。さればとて病気の体《てい》もさらになし。しかるに一家内の事、町内の事などにて、のがれがたき相談ある時は、この事末々かやうかやうなり行くべし、またその事はかくならんなどいふ事、極めて申通りになり行きける。それ故に町内にては、天狗六兵衛とあだ名しける。さて未前に事をしりて、手当する事多けれども、それを人に咄す事もなく、問ひ尋ぬれども知らずとのみ答へたり。しかるにこのもの女犯《によぼん》をつゝしみて妻を持たず。いかに進むれども承引せず。この体《てい》にては末々如何あらんと人々申しけるが、庚申の正月十七日に、年礼の残りを廻るとて宿を出しが、その後また行方しれずといへり。 [やぶちゃん注:一字空けはママ。]この六兵衛に似寄りし事有り。伊奈摂津守が家断絶して浪人せしものの忰《せがれ》に、野井新太郎とて、麹町<東京都千代田区内>貝坂塚田多門方に寄宿せし書生あり。久々煩ひて父かたにて養生し、少し快きゆゑ寄宿せんと宿を出しが、それより行がたしらず。されどもその事も知らず。多門かたに居るとのみ思ひける。四五日過ぎて塚田方にも居らぬよしを聞き、それより所々を尋ねける。その頃名高き易者、下谷<台東区内>広徳寺前の後左郡太かたへ参りて判断をたのみける所、葛西の辺を尋ぬべしとの事にて、彼地にて問ふに、昨日まではその形ちの人、このあたりにて度々見懸けしが、気違ひの如くなりといへども、人のさはりにもならねば、そのまゝに捨置きしが、そのものは立ちながら書をよみて歩行(あるき)しなりといふ。それよりいよいよこの辺を尋ねしかど、見当らずとなり。

[やぶちゃん注:やっと天狗の項がこれで終わる。

は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○天狗六兵衞の事』。にしても、この二種の奇談、「六年過ぎてたち戻りぬ。その時おそろしき羽おと聞えしが」という部分だけが怪異で、病的な放浪癖を持った男の話に過ぎず、読んでいて、たいして面白くない。

「庚申」前注から寛政一二(一八〇〇)年。

「後左郡太」「ごさぐんた」と読んでおくが、こんな姓は聴いたことがない。「左後」ならある。「さのち」「さご」と読むようである。

「広徳寺」台東区東上野にあった。いつもお世話になる日高慎也氏のサイト「猫の足あと」のこちらによれば、『廣徳禅寺遺趾は、台東区東上野にあり、国史跡に指定されています。廣徳禅寺遺趾は、昭和』四六(一九七一)『年まで当地にあった禅宗広徳寺の趾です。広徳寺は、早雲寺の子院として元亀・天正の頃』(一五七〇年~一五九二年)、『小田原に創建した寺院で、小田原城落城ののち、徳川家康が神田に再興、寛永』一二(一六三五)年に『当地に移転、江戸庶民からは「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれるほど広大な敷地を擁し、会津藩主松平氏、柏原藩織田氏、阿波藩蜂須賀氏等の菩提寺として、江戸屈指の禅林と仰がれていました。明治維新後は檀家としての諸大名がなくなり、さらに関東大震災により』、『堂宇を悉く焼失、荒廃してしまったといいます。台東区より広徳寺台東区役所敷地として懇望され、広徳寺は、塔頭円照院のあった練馬区へ移転したといいます』とあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗火」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天狗火【てんぐび】 〔耳囊巻二〕大御番の在番に、箱根宿に泊り、夏のことなれば、同勤の面々、旅宿に打寄りて、酒など給(た)べて、涼み居たりしに、向ふなる山より、壱つの火、丸く中(ちゆう)に上りけるを見付け、あれは何ならんと、人々不審しけるに、二つに分れ、また飛廻り、或は集り、または幾つにも分れぬるを興じけるに、やがてこの方《かた》へ来るやうなれば、人々驚きて、何ならんと高声(たかごゑ)に語り合ひけるに、旅宿の男聞付けて、早々座鋪へ出《いで》、疾々(とくとく)這入(はひいり)給ふべし、後には害もあるなりと、殊の外恐れ、早々に戸などたてける故、何れもなんとなく怖しくなりて、内に入りけるとぞ。天狗火などいふものならんと、石川翁語りぬ。 〔譚海巻二〕遠州海辺に天狗火と云ふものあり。土人これに逢ふ時は、甚だ恐怖、叩頭(こうとう)拝伏して、あへてみる事なし。遠方に現ずれども、人一度《ひとたび》呼ぶ時はたちまち眼前へ飛び来る。この火にあふもの、多く病悩すと云ふ。<『譚海巻九』にも同様の文がある>

[やぶちゃん注:前者は私のものでは、底本違いで、「耳嚢 巻之九 鬼火の事」である。後者は「譚海 卷之二 遠州海木幷天狗火の事」の前部分をチョイスしたもの。注のそれは、一応、「譚海 卷九 遠州海邊天狗火の事(フライング公開)」として公開しておいたが、以上の「卷之二」のそれの後半部と大体同じものに過ぎず、津村は忘れて、うっかり同じ内容(但し、こちらの方が少しだけ詳しい)を記してしまったものと推察する。]

譚海 卷之九 遠州海邊天狗火の事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

○遠州海邊(うみべ)には、天狗火といふもの有(あり)。

 夏月、海上邊(あたり)に火、有(あり)、燈(ともしび)のごとく見ゆ。

 夫(それ)を、海邊にありて、

「をい、をい、」

と、聲を、たてて呼(よぶ)ときは、其火、暫時に波をわたり、其人の前に飛來(とびきた)る。

 不思議成(なる)事なり。

 此火に逢ふ者は、多く、病惱(びやうなう)するゆゑ、土人、恐れて、あへて近付(ちかづか)ずといふ。

[やぶちゃん注:これ、一応、冒頭注の理由で、電子化したのだが、これは同じ「譚海」の「卷之二 遠州海木幷天狗火の事」の後半分と、あまり変わらない。この先行するもので書いたことを、津村は忘れて、うっかり同じ内容(但し、こちらの方が少しだけ詳しい)を記してしまったと言うべきであろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗の情郎」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天狗の情郎【てんぐのやろう】 〔黒甜瑣語巻三[やぶちゃん注:『ちくま文芸文庫』版では、『黒甜瑣語一編ノ三』に訂正されてある。]〕世の物語りに天狗の情郎《やらう》となん云ふ事ありて、爰かしこにて勾引(かどはさ)るゝあり[やぶちゃん注:拐(かどわか)されることがある。]。或ひは[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。後の活字本では『或は』。]妙義山に将《ゐ》られて[やぶちゃん注:連れて行かれ。]奴《やつこ》とせられ、或ひは讚岐の杉本坊の客となりしとも云ふ。我藩にもかゝる事あり。元禄の頃、仙北稲沢村<秋田県仙北郡協和村稲沢>の盲人が伝へし不思議物語にも多く見え、下賤の者には別して勾引るゝ多し。近くは石井某が下男《しもを》は四五度もさそはれけり。はじめは出奔せしと思ひしに、下男の諸器褞袍(おんぽう[やぶちゃん注:ママ。「うんぱう」(現代仮名遣「うんぽう」)が正しい。保温・防寒用として綿を入れた「どてら」のこと。丹前。綿入れ。])ものこりあれば、それとも云はれずと沙汰し物語りしが、一ト月ばかり過ぎて立帰れり。津軽を残らず一見して、委しき事云ふばかりなし。その後一年ほど過ぎて、此男の部屋何か騒がしく、允(ゆる)して給はれとさけぶ。人々出《いで》て見しに早くも影もなし。この度も半月ほど過ぎて越後より帰りしが、山の上にて越後城下の火災を見しと云ふ。諸人委しくその事を語らせんとすれども、遁辞《まぎらし》して云はず。もしも委曲を告ぐれば身の上にもかゝらんとのいましめを聞きしとなり。四五年も経て或人に従ひて江戸に登りしが、また道中にて行方なくなれり。この度は半年ほど経て大坂より下れりと。また一友人の物語りに、片岡某とかや云ふは仙北郡の代官たりしが、その下男《しもを》夕方酒沽(か)ひに行きし道にて、大山伏に遇ひけり。我に従ひて来れと云ふ。下男の云く、主人の酒とりにゆくなれば後にゆかんと云ふ。山伏聞入れず。その事は苦しからず、我に任《まか》すべしとて、無躰(むたい)に誘ひゆく。酒壜(とくり)はかの山伏引取りしが、いかゞしてや酒を盛りて某が縁畔(えんさき)にとゞけあり。それより刈和野《かりわの》村<秋田県仙北郡内>へ連れ行き、今此所大火なれば見物して遊ばんとて、樹上に坐して物語り兎(と)や角(か)うの中《うち》、村はづれより出火して、一宇も残らず焼けたり。暁方にまたこの方へ送り届けて山伏は行衛なし。翌朝片岡某下男をよび、昨夜より何方《いづかた》へ往きしやと尋ねけるに、右の事どもを物語る。某大いにいぶかり、刈和野村なれば我宰知(さいち)の所なり、左程の火災ならば定めて訴へもあるべしと物語りの折から、飛脚到来して夜べの状告げたり。かゝる事其佗(そのた)もあり。天狗は諸儒の論ありて、いろいろの説をなせども、誣(し)ふべからざる[やぶちゃん注:ありもしないことを事実のように言っているのではない。]事かくの如し、去る宝暦丁丑<七年>[やぶちゃん注:一七五七年。]の春、医家稲見氏広小路の上土橋(うはとばし)の辺《へん》を行きかゝりし時、人数多《あまた》集りて虚空を望(ながめ)居《をり》たり。何事ぞと問へば、あれ見給へ、空中を人が行くなりと云ふ。稲見氏仰ぎ見るに、年の齢《よはひ》は定かならねども、外套(はおり)大小して形付《かたつき》[やぶちゃん注:模様を染め出した。]の袴を著《き》、白き蹈皮(たび)を穿《は》きし男、飄々《へうへう》として風《かぜ》を御《ぎよ》して行くがごとく、暫時にして見えず。又まのあたり予<人見寧>が覚えしは、安永丁酉<六年>[やぶちゃん注:一七七七年。]の秋、初夜[やぶちゃん注:現在の午後八時から午後九時頃。]過《すぐ》る頃、空中に大勢の声して、それきれきれ討て討てとのゝめく[やぶちゃん注:「めく」は接尾語で「~のようになる」の意で、「罵(ののし)り騒ぐ・わいわい言う・声高(こわだか)に呼ぶ・喚(わめ)く」の意。]事頻りなり。初めは長野と聞え、長野辺にては山の手と聞え、楢山辺にては根小屋中城と聞きし者もあり。予が知る所の人、山の手より手形へゆく時聞きしは、如意山《によいさん》の阪《さか》の辺り喧嘩ありと覚えて、大勢の声にてひしめきしが、行きかゝり見れば、その声は自然に高く虚空に上るに、鎌おこせ鎌おこせと叫ぶをたしかに聞けりと。同じく天狗の所為ならんと語り合へり。

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで正規表現で視認出来る。標題は『天狗の情郞』。それにしても、かなり漢字の読みが難しい。一部はそちらの読みに従った。

「仙北稲沢村」「秋田県仙北郡」「協和村稲沢」現在は秋田県大仙市協和稲沢(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「刈和野村」「秋田県仙北郡内」現在は大仙市刈和野

「広小路の上土橋」久保田城大手門前にあった橋。当時は地図上の西にある大堀りが、大手門前を経て、東方向に続いており、そこにこの橋が架かっていた。

「長野」秋田県秋田市飯島長野か。久保田城の北西方向にある。

「山の手」秋田市山手台か。 久保田城の北西方向にある。

「楢山」秋田市楢山であろう。前の秋田市山手台に北西直近にある。

「根小屋中城」「根小屋」の地名は秋田県内に複数あるので、特定不能。城の名では探し得なかった。

「如意山の阪」不詳。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗の雇」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天狗の雇【てんぐのやとい】 〔諸国里人談巻二〕正徳のころ、江戸神田鍋町<東京都千代田区内>小間物商ふ家の十四五歳の調市(でつち)[やぶちゃん注:「丁稚・丁児」に同じ。商人又は職人の家に奉公して雑役・使い走りなどに使われた少年。小僧。]正月十五日の暮かた、銭湯へ行くとて手拭など持ち出でけり。少時《しばらく》して裏口に彳(たたず)む人あり。誰ならんととがむれば、かの調市なり。股引《ももひき》草鞋(わらぢ)の旅すがたにて、藁苞(わらづと)を杖にかけて内に入りけり。主人了(かしこ)き男にて、おどろく体《てい》なく、まづ草鞋を解き、足をすゝぐベしといへば、かしこまりて足をあらひ、台所の棚より盆を出し、苞(つと)をほぐせば野老(ところ)なり。これを積みて、土産《みやげ》なりとて出しぬ。主人の云ふ、今朝《けさ》はいづかたよりか来れる。秩父の山中を今朝出たり、永々の留主《るす》、御事《おんこと》かけにぞ侍らんといへり。いつ家を出《いで》たると問ふに、旧臘(きゆうろう[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「きうらう」が正しい。])<去年の暮>十三日煤《すす》をとりての夜、かの山に行きて昨日まで某所にあり。毎日の御客にて給仕し侍り。さまざまの珍物を給はる。客はみな御出家にて侍る。きのふ仰せつるは、明日は江戸へ帰すべし、家づとに野老を掘るべしとあるによつて、これを掘りけるなど語りぬ。その家にはこのもの、師走出たる事を曾てしらず。その代りとしていかなるものか化《け》してありけると、後にこそはしりぬ。その後《のち》何の事もなく、それきりにぞ済みける。

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之二 雇天狗」を見られたい。そこの注でも述べたが、この少年は芝居をして嘘を言っているのではなく、離性同一性障害(旧称「多重人格障害」)である可能性が高いように思われる。

「野老(ところ)」ここは広義の「山芋」のこと。狭義には、単子葉植物綱ユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の蔓性多年草の一群を指し、「~ドコロ」と呼ばれる多くの種があるが、特にオニドコロ Dioscorea tokoro を指すことがある。参照したウィキの「トコロ」によれば、食用のヤマノイモなどと同属だが、『食用に適さない。ただし、灰汁抜きをすれば食べられる。トゲドコロは広く熱帯地域で栽培され、主食となっている地域もある。日本でも江戸時代にはオニドコロ』又はヒメドコロ Dioscorea tenuipes の栽培品種であるエドドコロ(学名はヒメドコロに同じ)が栽培されていた、とある。芭蕉の名句の一つに「此の山のかなしさつげよ野老掘」がある。これは、貞享五年(九月三十日に元禄元年に改元)二月中旬、伊勢朝日山の西麓にあった菩提山神宮寺を訪れた際の吟。この寺は八世紀、聖武天皇の勅願によって行基が開山した古刹であったが、当時は既に荒廃していた(現存しない。個人サイト内の「伊勢への道」の「伊勢の寺」の中で、まさに「野老(ところ)掘」りに「かなしさ」を「つげよ」と声掛けしたくなる、「此の山の」現状が見られる)。この句の「野老」は決してトコロ類を指すのではなく、広義の「山芋」の意であると私は断言する。「万葉集」の時代にはヤマノイモ科 Dioscoreaceaeの種群を総称していたのである。芭蕉の心情は常に古代へと憧憬しているからである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗の飛行」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天狗の飛行【てんぐのひぎょう】 〔甲子夜話巻三十〕五六年前或る席上にて坊主衆某の語りしは、高松侯の世子貞五郎の語られしと云ふ。世子幼時、矢の倉の邸に住まれしをり、風鳶(たこ)をあげて楽《たのし》みゐられしに、遙かに空中を来《きた》るものあり。不審に見ゐたるが、近くなれば人倒(さかま[やぶちゃん注:ママ。『ちくま文芸文庫』及び東洋文庫「甲子夜話」でも編者は『さかさま』とルビするので、それで採る。])になりて、両足天を指し、首は下になり、衣服みなまくれ下りて、頭手《かしらで》に被《かぶ》り、明白には見えざれど、女と覚しく号叫《がうけう》する声よく聞えける。これや天狗の人を摑んで空中を行き、天狗は見えず人のみ見えしならんと云はれしとぞ。もつともその傍《かたはら》にありし家臣等も皆見たりと云ふ。これは別事ながら『池北偶談』にあるは「文登諸生畢夢求、九歳時、嬉於庭、時方午、天宇澄霽無ㇾ雲、見空中一婦人、乗白馬、華桂素帬、一小奴牽馬絡、自ㇾ北而南行、甚迂徐、漸遠乃不ㇾ見、予従姉居永清県、亦嘗於晴昼、仰見空中、一少女子美而艶粧、朱衣素帬、手揺団扇、自ㇾ南而北、久ㇾ之始没」これは仙の行為か。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷三十 23 空中に人行を見し話」を正字表現で公開しておいた。なお、最後の『行為』は「東洋文庫」版では『所為』である。]

フライング単発 甲子夜話卷三十 23 空中に人行を見し話

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

30―23 空中(くうちゆう/そらなか)に人行(ゆく)を見し話

 五、六年前、或る席上にて、坊主衆某の語りしは、

「高松侯の世子、貞五郞の語られし。」

と云ふ。

――世子、幼時、矢の倉の邸(やしき)に住(すま)れしをり、風鳶(たこ)をあげて、樂(たのし)みゐられしに、遙(はるか)に空中を來(きた)るものあり。不審に見ゐたるが、近くなれば、人、倒(さかさま)になりて、兩足、天を指し、首は下になり、衣服、みな、まくれ下(さが)りて、頭手(かしらで)に被(かぶ)り、明白には見えざれど、女と覺ぼしく號叫(がうけう)する聲、よく聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ける。

「これや、天狗の、人を摑(つまみ)て、空中を行き、天狗は見へ[やぶちゃん注:ママ。]ず、人のみ、見えしならん。」

と云はれし、とぞ。

 尤も、その傍(かたはら)にありし家臣等(ら)も、皆、見たり。――

と云ふ。

 これは、別事ながら、「池北偶談」にあるは、

『文登諸生畢夢求、九歲時、嬉於庭、時方午、天宇澄霽無ㇾ雲、見空中一婦人、乗白馬、華桂素帬、一小奴牽馬絡、自ㇾ北而南行、甚迂徐、漸遠乃不ㇾ見、予従姉居永清県、亦嘗於晴昼、仰見空中、一少女子美而艶粧、朱衣素帬、手揺団扇、自ㇾ南而北、久ㇾ之始没。』

 これは、仙の所爲か。

■やぶちゃんの呟き

「高松侯の世子、貞五郞」この名と、静山が没した翌年に第十代藩主となった(だから、ここでは『世子』とあるのである)松平頼胤(文化七(一八一一)年~明治一〇(一八七七)年)。静山より五十一年下である。

「矢の倉の邸」不詳。世子であるから、高松藩の江戸屋敷の一つとは思われる。

「池北偶談」清の詩人にして高級官僚であった王士禎(おう してい 一六三四年~一七一一年)の随筆。全二十六巻。「談故」・「談献」・「談芸」・「談異」の四項に分ける。当該話は「卷二十六」の「空中婦人」。「中國哲學書電子化計劃」のこちらから、影印本で視認出来る。訓読を試みる。

   *

 文登の諸生、畢夢求(ひつむきゆう)、九歲の時、庭に嬉(あそ)ぶ。時に方(まさ)に午(ひる)なり。天宇(てんう)、澄霽(ちやうせい)にして、雲、無し。空中を見るに、一婦人、白馬に乘り、華袿(くわけい)・素裙(そくん)にして、一小奴(しやうど)、馬絡(ばらく)を牽き、北よりして南す。行くこと甚だ徐(ゆる)し。漸(やうやう)遠(とほく)して、乃(すなは)ち、見えず。予が從姉(いとこ)の永淸縣に居(を)るも、亦、嘗(かつ)て晴(はれし)晝(ひる)に於いて、空中を仰見(あふぎみ)れば、一少女子の、美にして艷粧(えんさう)なる、朱衣(しゆい)素帬にして、手に團扇(うちは)を搖(ゆら)し、南よりして北す。之れ、久しくして、始めて沒す。

   *

「文登」地名か。現在の山東省威海市の市轄区文登区がある。「華袿」「袿」は漢語では「裾」・「袖」・「婦人の上衣」(本邦の平安貴族女性が一番上に着た「袿(うちかけ)」相当)・「長襦」(本邦の下着である「長襦袢」相当)の多様な意味がある。個人的には見上げているのだから、最後の「長襦」がいいと思ったが、それは、私のさもしい欲望故か。素直に華麗な上着としておく。しかも、「華」とあるのだから、非常に美しい色に染めたそれを連想してよかろう。「素帬」「帬」は「裙」に同じで、シンプルに白く美しいスカート状のもの。「馬絡」馬の手綱を頭部に繋げるための頭部の前後に装着するバンドの「頭絡」が原義であろうが、ここは「手綱」でよかろう。

 実は、この話、『柴田宵曲 續妖異博物館 「空を飛ぶ話」(4)』で紹介されており、そこでも私は既に訓読を行っているのだが、今回は、零から仕切り直しておいた。比較されたい。

2023/12/14

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗の銅印」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天狗の銅印【てんぐのどういん】 [三養雑記巻]下野国《しもつきのくに》宇都宮<栃木県宇都宮市>のほとりに、東盧山盛高寺《とうろざんしやうかうじ》といふ精舎《てら》あり。第四世《せ》を祥貞《しやうてい》和尚といひて、永平十一世の法裔《ほふえい》、文明・明応のころ、この寺に住職たり。永正八年遷化といへり。さてかの祥貞和尚の手かく技《わざ》に拙《つたな》からざりしが、ある時、天狗の来りていへるは、和尚の手をしばしがほど、借りうけ申《まうし》たきよし、達《たつ》て所望なりと云ふ。和尚こたへていふ、手をかさんことは、いと心やすき望《のぞみ》なれど、引《ひき》ぬきてもち行かれんことなどは諾《うべな》ひがたし、さる望みならば、許したまはれといひければ、天狗云ふ、さにはあらず、ただ借すとさへいはゞ、それにてこと足れりといへば、さらば借しまゐらすべしといへば、彼《かの》天狗謝してかへりぬ。それより後《のち》、和尚の手、いつとなく縮《しじ》まりてのびず。さればあたりの人々、和尚を手短《てみじか》の祥貞とあだなして呼びたりとかや。三十日ばかりすぎて、天狗再び来りて、さいつ頃、借《かり》申したる手を、返し申すよしいひて、火防《ひぶせ》の銅印《かないん》一枚を贈りて帰りしとぞ。その後《のち》、和尚の手、もとの如くにのびたりといへり。祥貞和尚の書も亦、火防になるよしいへり。この一条は、外岡北海《とのをかほつかい》、かの地に遊歴のをりから、聞《きき》たりとて話なり。且(かつ)火防の銅印の押したるも、そのころ贈られたり。

 

Tengunodouin

 

[やぶちゃん注:底本に印の図が有る。底本のものをOCRで読み込み、トリミング補正して最後に掲げておいた。印字は私には読解出来ない。読める識者の御教授を乞うものである。

「三養雑記」山崎美成の随筆。天保一一(一八四〇)年刊。「三養」は彼の号の一つである「三養居」をとったもの。当該話の標題は『天狗(てんぐ)の銅印(かないん)』で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらと、こちらで、後刷の画像で当該話を視認出来る。リンク先には、読みや、ここと違いひらがな書きの部分があるので、積極的にそれを参考にした。なお、この原文は、一度、「柴田宵曲 妖異博物館 手を貸す」で電子化している(但し、読みは附していないので、以上の本文と比較されると、よろしい)。ただ、宵曲が「銅印」を『どういん』と読んでいるのは、原本と異なり、不審である。

「東盧山盛高寺」ここ(グーグル・マップ・データ)に曹洞宗東盧山盛高寺(じょうこうじ)があるので、その誤記であることが判る。因みに、この寺の南西直近に宇都宮二荒山(ふたらさん)神社がある。これは日光山二荒山神社と並ぶ名社であり、これは、古くは日光に於ける男体山・女峰山を御神体とし、二山は修験道のメッカであって、天狗伝承も甚だ多い。されば、この神社に来た天狗が、近くの名筆で知られた祥貞和尚を訪ねたとするのが、自然な気がした。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗の爪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天狗の爪【てんぐのつめ】 〔一話一言巻十五〕能州石動(いするぎ)山<現在の富山県西砺波郡内か>ノ林中ニ天狗ノ爪ト云フ物アリ。色青黒ニシテ、長サ五分許リニシテ石ノ如ク、先尖ニ後広ク、獣ノ爪ニ似タリ。土人雷雨ノ後、林中ニ往キテコレヲ拾フ。瘧(オコリ)患フル者、水中ニ投ジテソノ水ヲ飲ムトキハ愈(イ)ユ。何物タルヤヲ知ラザルナリ。想フニ金石ノ類ニシテ、人誑(アザムイ)テ神物トスルカ。(民生切要録二)

[やぶちゃん注:「一話一言」は複数回既出既注。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いた大田南畝著の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻四(明治四〇(一九〇七)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は『○天狗爪』である。なお、これと全く同文のもの(同じ書からの引用だから当然)が「雪窓夜話抄」(上野忠親著。成立は延享三(一七四六)年~宝暦二(一七五二)年か。上野忠親は因幡鳥取藩藩主池田光仲の側室上野厚恩院の甥で、八歳の時、山城伏見から鳥取に来て、上野家を興し、禄高六百石を受け、七十二歳で没した。「勝見名跡誌」・「武士言草」・「木鼠翁随筆」・「陟語林」(ちょくごりん)等、多くの著書がある。「雪窓夜話」は、一旦、散失した後、滝勝胤によって再編されたと「鳥府志」に記される。昔話・怪談・世間の噂など、当時の幅広い職業・階層の聴書を記している点に特色がある。最古のものは写本で残る)に載ることを、柴田宵曲は「妖異博物館 天狗の爪」で指摘している。

「天狗の爪」は人為的に加工された捏造品ではなく、古代のサメの化石である。私も今住んでいる場所のすぐ近くの崖から年代的には比較的新しい、黒化していない大人の指の先程のそれを、小学生の時に発掘したことがある。サイト「奇石博物館」の「天狗の爪石」を見られたい。そこに、標本名を『カルカロドン・メガロドン(サメ)の歯化石』とし、アメリカの『サウスカロライナ州』『産』とし、『実はこれ、約』七百『万年前に生息していた全長』二十『メートルにも達したであろう大鮫の歯の化石である』。『この化石は、江戸時代中期に木内石亭が記した『雲根志』の中で『天狗の爪石』として紹介されている』。『天狗は日本古来の怪物。当時正体不明の鋭い鮫の歯化石を恐ろしい天狗様の爪に連想したわけである』。『日本では岩手県平泉の中尊寺、神奈川県藤沢の遊行寺等でこれを宝物とし、大切に保管している』。『ヨ-ロッパでも中世より鮫の歯の化石を『グロッソペトラ(石の舌)』と呼びお守りとしたと聞く』とあった。軟骨魚綱ネズミザメ目Otodontidae 科(或いはネズミザメ科 Lamnidae)オトドゥス Otodus 属或いはカルカロクレス又はホホジロザメ属 Carcharodon †ムカシオオホホジロザメ Otodus megalodon 或いは Carcharodon megalodon で、約二千三百万年前から三百六十万年前の前期中新世から鮮新世にかけて生息していた絶滅種のサメである。ウィキの「メガロドン」を見られたい。

「能州石動(いするぎ)山」「現在の富山県西砺波郡内か」『ちくま文芸文庫』版では『石川県中能登町内』に編者によって訂正されている。現在は「石動山(せきどうさん)」(グーグル・マップ・データ)を正式名とする。石川県鹿島郡中能登町・七尾市・富山県氷見市に跨る。標高五百六十四メートル。山頂は中能登町に位置し、中能登町の最高峰でもある。「いするぎやま」「ゆするぎやま」は古名とされるが、富山県高岡市伏木に六年いた私は、誰もが、「いするぎやま」と呼んでいた。宵曲のそれは、「倶梨伽羅合戦」で知られる、石動山からずっと南方にある倶梨伽羅山の東麓に富山県小矢部市石動町(いするぎまち)があるのを誤認した結果である。

「民生切要録」元禄五(一六九二)年成立で、恒亭主人守株子なる人物の纂輯になること以外は不明。妖怪関連の記載があるらしい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗の書」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天狗の書【てんぐのしょ】 〔反古のうらがき巻一 〕文政の季年、赤坂<東京都港区内>の酒店にて大だらひを失す。数日の後、自然と元のところに帰りてあり。書一通を添へたり。文に云ふ。

 鞍馬山大餅舂に付借用候処、最早御用済に付、
 返却する者也。一度御用相立候品、以来大切
 にいたすべし。家内繁昌疑なきもの也。仍如ㇾ
 件。

   月 日          鞍馬山執事

 その書美濃紙一枚に大書す。書法絶妙、米元章の風なり。諸芸高慢なる物、天狗になるといひ伝ふるによれば、これは書家天狗の書きたるなるべしといひて笑ひたりしが、かの狐狸に比すれば、書大によし。狐狸と天狗との別、これにて上下判然たりといひし。然れども此事信ずるに足らず。事は実なるべけれども、かの書を作りたる物は、近きわたりのいたづら者、遺恨にてもありしや。大だらひをかくし置き、その後程経て帰すに手持なく、また手風の人の見しりあらんを恐れ、出家などに頼みて書てもらひたる者なるべし。

[やぶちゃん注:私の「反古のうらがき 卷之一 狐狸字を知る」を参照されたい。その後半分だけを引用したものである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗礫」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天狗礫【てんぐつぶて】 〔笈埃随筆巻一〕佐伯玄仙といふ人、豊後杵築の産なり。今京に住めり。この人の云ふ。国に在りし時、雉子打たんがため夜込みに行きたりしが、友二三人銘々鳥銃《てつぱう》携へて行けり。とある山道へかゝり所に、左右より石を投げたり。既に中(あた)りつべく覚えて大いに驚きたる中に、よく心得たるものあり。押静め、先づ下に坐せよと云ひて、言を交へず黙して居《ゐ》るに、夥しき大石頭上に飛違ふ程なり。その響きおびただし。暫くして止みければ、立上つて行きける。心得たる友の云ふ様、これを天狗礫といふ、曾て中(あた)るものにあらず、若しあたりたらんものは必ず病むなり、またこの事に逢へばかならず猟なし、今宵帰るには道遠ければ、是非なく来《きた》るといふ。果してその朝ひとつも打得ずして帰りぬとなり。

[やぶちゃん注:これは先の「山神の怪異」に続く附記(但し、冒頭を一部カットしている)である。そこでも述べたが、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧二期卷六・日昭和三(一九二八)年日本隨筆大成刊行会刊)所収の同作の当該部の後方附記で正規表現で視認出来る。標題は『○山神の怪異』であるが、これは、「柴田宵曲 妖異博物館 そら礫」の私の注で完全版を正規表現で電子化してあるので見られたい。この天狗礫は、私の怪奇談集では常連で、枚挙に遑がない。当該ウィキもある、妖異のレギュラー・メンバーである。因みに、その事例にある錦絵新聞『東京絵入新聞』明治九(一八七六)年三月十四日の記事にあるとする、『屋外ではなく家の中に天狗礫が起きたという事例』があげられてあるが、これ、容易に止まず、『警察に届け、巡査が家を訪れたところ、巡査の目の前でも石の降る怪異は起きた。その内に噂が広まって見物人が押し寄せてきた。そんな中を小林長永という人力車夫が現れ、自分が狐狸を追い払う祈祷を行い、それで効果がなければ専門の先生を紹介すると申し出たので、繁次郎は喜んで同意した。この祈祷の効果については、『東京絵入新聞』には記載されていない』とあるのは、その引用元とは編著者が同じ湯本豪一で一九九九年柏書房刊の所持する「明治妖怪新聞」に載る(但し、全文が新字処理をされてある)。ここで、一つ、全文の漢字を恣意的に正字化して再現してみる。読みは総て採用した。なお、同底本にある挿絵もトリミング補正して、冒頭に配した。

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 是(これ)は不思議なお話しですが、元大工(もとだいく)町一番地中澤繁次郞(なかざはしげじらう)(道具屋)の居宅(うち)では去る十日の正午(まひる)頃から一時間ばかり何所(どこ)からともなく小石が家の中に降るから家内は駭(おどろ)いたが繁次郞の父中澤重經(なかざはしげつね)は二年越しの病氣ではありこんな變事(へんじ)は聞せたくもなし又世間へも知らせたくないと降た石を神棚(かみだな)に上げ神酒(みき)よお備(そな)へよと御馳走(ごちそう)をして何卒(どうぞ)降らないやうにと女房が祈ると降た石が自然となくなるかと思ふと又始めより烈しく降るゆゑ是は狸の所爲(わざ)であらう亭主が脇差(わきざし)を拔て振𢌞しても些(ちつ)とも利かず每日刻限を切て降るから去十二日其筯へ屆けたので巡査(おまはり)は一個(ひとり)づつ其道具屋に詰られても矢張刻限になると石が降るから近所は大評判になり門口(かどぐち)へは見物が黑山のやうに立てば内では狸を追出すとて蕃椒(たうがらし)を熏(いぶ)し立る大騷ぎの所へ風(ふ)と一個(ひとり)の人力車曳(じんりきしやひき)が來て「此身(わし)は淺草(あさくさ)北富坂(きたとみさか)町に小林長永(こばやしちやうえい)と言ふ者だが、今江戶橋(えどばし)で客待をして居て石の降る咄(はな)しを聞ましたが狐狸(こり)の所爲(わざ)に違ひないから祈禱をしえ進ぜやう。倘(なほ)此身(わたし[やぶちゃん注:前とルビが異なるのはママ。])で屆かずば淺草西鳥越(にしとりごえ)の御禊所(みそぎじよ)の先生を賴んで進(あげ)やう」と言(い)へば繁次郞は歡(よろこ)んで何分お願ひ申ますと答へたので今十四日から祈禱にかかるとやら言ふ事だが何だかはや新聞屋(しんぶんや)には解(げ)し兼(かね)る咄(はな)しであります。

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まず、この怪異というか事件は、「天狗礫」ではなく、「石打」であり、警察に訴え出て、巡査が張込みしたと記してあるからには、創作ではない事実である。而して、巡査が詰めても発生したからには、「石打」の真犯人は明らかに外部の人間ではなく、家内の者である。挿絵には、繁次郎と思われる人物が驚くさまの右手には、妙に着飾った、しかも簪はかなり豪華で、およそよほど若い女性でなくては、挿さないものが描かれている。左の人物が繁次郎とすれば、かなり若く、右手の女性が彼の若妻とするのは全く無理がない。この家には先代の重経が病床に臥している。この若妻らしき妻は、服装からして、およそ父の看護などしていないことは明白である。亭主繁次郎は道具屋であるから、介護をしているのは、雇われた未婚の未成人の若い下女であろう。その下女の鬱憤がこの「医打」の擬似怪談の真犯人であろうことは、最早、明白と言える。さらに言えば、それに乗じて、突如、やって来る浅草北冨坂町の人力車曳き風情が、「小林長永」と、えらくしっかりした祈禱師めいた元武家みたような姓名を名乗り、「祈禱をして進ぜよう」と進んで言い出すのは、如何にもおかしいではないか。或いは、この登場しない下女は、この富坂町から奉公しており、この「小林長永」のみならず、「淺草西鳥越の御禊所の先生」というのも、みんな、グルであって、介護を嫌ってやめたい下女が「石打」を始め(誰かの入れ知恵とも考えられる)、知り合いの人力曳きに頼み、一儲けしようとしているのは見え見えであると私は思う。前の「礫打つ小者」でちらと述べた(私のそれぞれの事件を記した記事へにリンク有り)、「池袋の女」や「池尻の女」の近世の同様の擬似怪談は、明治になっても、至極、健在だったのである(それは井上円了の著作等で確認出来る)。少し、脱線になってしまったが、この話、ウィキの「天狗礫」に入れるべきケースでは全くなく、しかも意識的詐欺、さらには、高い確率で、主体者である個人(下女)だけではなく、複数のその協力者を持った、最近流行りの詐欺グループまがいのそれというのが正しいと私は断ずるものである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗遊石」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天狗遊石【てんぐあそびいし】 〔諸国里人談巻二〕伊賀国岡山にむかしより天狗の道び石といひ伝へたる石あり。方八尺ばかりにして、上真平に切立てたるごとくなるが、山の崕岸にありて、突落さばおつべかりける場所なり。宝永のころ、大守廟所の礼許石に宜きとして、廻りの土を穿《うがち》て谷へつき落しければ、何の事なく落ちたり。大勢の人夫をして日毎にこれを引《ひき》て、上野城下の坂口まで、一里ばかりの所へ引付けたり。その日、俄かに大白雨して雷地を覆す。よつて人夫を引く。夜に入て益〻やまず。やうやう明方に静まりける。然るに件の石、夜中に元の山上へ引戻してあり。依てその事を休む。

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之二 天狗遊石」を見られたい。]

2023/12/13

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 因みに、流石にタイトルで想像出来るように、異様に長い特異点である(底本のここからで、三段組みで約七ページ弱もある)。実に八種の随筆から引用している。

 

 天狗【てんぐ】 〔閑田耕筆巻三〕本朝にていふ天狗は、唐土《もろこし》にて説なきことなれば、諸儒さまざま議論す。徂徠氏も天狗の説といふ著述あれども、決定《けちぢやう》の義なし。然るに先年『護法資治論』とて、水戸の儒士、義学を好める人の著せし書を見しに曰く、「世、天狗ナル者主ツカサドル災禍。是天狗星之類。地蔵経曰、天竜夜叉天狗土后等依レバ此排次、是一種鬼神也」[やぶちゃん注:訓点の送り仮名の一部が読みを含んでいるのはママ。]予<伴高蹊>この説によりて『地蔵経』を閲《けみ》せしにたがはず。畢竟(つまり)山鬼《さんき》の一種なり。天竺の言《げん》を伝へて、こなたにてもしかいふ成るべし。予相識る一老禅、少(わか)き時筑波山<茨城県筑波・真壁・新治《にひはり》にある山>に詣でんとて、同行《どうぎやう》共に三僧、椎尾(しひの)といふ山背より登りしに、半腹にて一道《いちだう》の暴風吹来り、これに競ひて谷を過《よぐ》る一僧、長(たけ)常に殊なるあり。緋衣を著たるが、袖は風に翩翻(ひるがへ)り、瞬目(つか)の間に吾来《きたり》しかたへ往《ゆ》きさりぬ。世に珍らしく足《あし》速(と)き人哉《かな》とばかり思ひて、あやしと迄は心つかざりしが、同行の僧一人、遅れしを待てども来らず。立帰りて見るに、巌《いはほ》の陰に打臥《うちふ》したり。これはいかにといへども、物に酔《ゑ》ひたるごとく真気《しんき》[やぶちゃん注:ここは「正気」(しょうき)に同じ。]なければ、せんかたなく両僧の肩に引かけて登り、本堂の前に至る時、堂守と思しき僧、これを見て、いとをしや、山人《さんじん》にあひ給へるやといひし時、始めて心つきて、先きに見しはこれ成るべし、吾は何とも心なくて過ぎしが、この僧は道に遅れたる間、この異形《いぎやう》に恐れけるならんとおぼえし。やうやうに助けて旅宿をもとめ休めけるが、明《あく》る日は事故なかりし。さて昨日の事は、いかにと問ひしかども、恐れしけ[やぶちゃん注:形容詞の名詞化したもの。或いは「恐れし気(け)」で「余りに恐ろしく感じた(こと)」の意であろう。]にや、つひにその由を語らで過ぎぬ。これ世にいふ天狗なるべし。堂守が僧の精心なきを見て、山人に逢ひ給へるならんといひしを思へば、この山にては常に有ることなるべしと語られし。また愛宕山、吉野山にても、人のとらるゝこと折々有り。引裂きて杉の枝にかけたるなども見し人あり。あるは数年《すねん》引つれられて後、故なく帰りたる話もあり。野狐にかどはかされしとは趣大いに異なり。不思議なるものなり。 〔同上〕淡海長命寺に普門坊といへる住侶《じゆうろ》[やぶちゃん注:住僧。]、その麓松が崎の巌上に百日荒行して、終《つひ》に生身《しやうしん》天狗に化《け》したりとて、その社即ち松が崎の上ミ本堂の裏面の山に有り。この僧の俗性は、この長命寺のむかひ牧といふ村にて、某氏忠兵衛といふ郷士の家より出《で》たりしが、化して後、一度《ひとたび》至り暇乞《いとまごひ》し、今よりは来らじと声ばかり聞えてされりとなん。今は百有余年前のことゝかや。今も年々某月日、この社の祭は彼《か》の忠兵衛の家より行ふとぞ。

[やぶちゃん注:「閑田耕筆」「青木明神奇話」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここから当該部が正字で視認出来る。〔同上〕とあるのは、前の話に直に続く(次のページ)改行して独立立項された内容である。

「徂徠氏」の「天狗の説といふ著述」「徂徠先生天狗說」。物茂卿の撰になり、徂徠没後六年後の享保一九(一七三四)年跋の版本が、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで視認出来る。長いものではないが、これ、陰刻版で、私はまるっきり読む気が失せた。

「護法資治論」森尚謙(承応二(一六五三)年~享保六(一七二一)年)は儒者で水戸藩士。森家は代々医学を生業としたが、彼は儒学を志し、黒川道祐・松永昌易に学び、後、水戸藩邸に召されて、かの「大日本史」の編纂した。

「義学」道義に関わる学問。

「天狗星」(てんぐぼし/てんぐせい)は流星(ながれぼし)の一種で、特に落下の際、音響を発し、明るい光を出す巨大な流星を指す。

「土后」不詳。「大蔵経データベース」で「地蔵経」を見たが、この文字列はない。「一切経音義」・「続一切経音義」・「倶舍論頌疏抄」にのみ出る。思うに、これは仏教ではなく、中国の道教の女神「后土」(こうど)のことではないか? 道教の最高位の全ての土地を主宰する地母神で、大地山川、及び、陰陽と生育を司る墓所の守り神である。中国では「女」や「死」は「陰」に相当するから、「墓所」の神は女神となったものである。後、中国の「城隍神」や、本邦の「鎮守神」とともに、墓所が拡大されて土地神の一種に位置づけられた存在であり、それが仏教に集合され、本来の道教の神と区別するために「土后」と引っ繰り返したものかも知れない。

「排次」順序立(だ)て。

「山鬼」中国で山中に住むと想像された、山の主(あるじ)とされる神や精霊。

「筑波山」「茨城県筑波・真壁・新治にある山」現在、主峰は茨城県つくば市内。

「椎尾(しひの)」現在の桜川市真壁町(まかべちょう)椎尾(しいお:グーグル・マップ・データ航空写真)。筑波山北西の登山口で裾野から主峰直下の山腹まで広がっている。]

 〔猿著聞集巻一〕長門国㶚城(はぎ)<山口県萩市か>の水井折兼《みづいをりかね》、いときなきときより猟することを好み、つねに野山に遊びけり。とし十二三のころ、はぎよりは十七里ばかりもへだちて、三位山《さんみやま》といふ高き山あり。彼いひ[やぶちゃん注:「飯(いひ)」。]たづさへて此山にのぼり行くに、山がら・めじろの小鳥をうること面白ければ、なほ奥深く入りなましなど、語らひつれて登りける。やうやく時うつるほどに、腹いみじくすきたり。こゝにてたづさへもたりし袋を見るに、中には物なし。こはいづちにか落しけん、たづね見よとて、かしここゝうち見れども、あるべくもおぼえず。道のほどにて落したらば、今はけものにぞはまれたらまし。たづねうべきことかはとて、人々頭《かしら》かいなでをり、山いと深くいりたれば、家さへ遠く、今はひたすら飢《うゑ》にせまり、目くらむばかりなれば、歩みもやらで岩にしりうちかけて、かたみに顔をぞ見あはせたる。とばかりありて、ひとりの山伏の僧出できて、汝が輩《やから》、みだりにこの山に来たりて、吾《わが》たうの遊戯をさまたぐ、此故にこそかゝるからきめ見せつるなれ、とく山を下るべし、さながら飢て歩みがたくば、これ食べてゆけとて出《いだ》したるをみれば、先に失せつるかれいひなりければ、人々をのゝき恐れ、こはこはいかにと色さへ真青《まさを》になりもてゆきつ。今は腹すきたることも忘れて、いちあしだして逃げ下りぬ。そもいかなるものにかありけん。いと怪しかりき。

[やぶちゃん注:「猿著聞集」は既出既注だが、再掲すると、「さるちょもんじゅう」(現代仮名遣)と読む。生没年不詳(没年は明治二(一八六九)年以降とされる)の江戸後期の浮世絵師で戯作者でもあった岳亭春信が、号の一つ八島定岡(ていこう)で、鎌倉時代、十三世紀前半の伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集「古今著聞集」を模して書いた随筆。文政一〇(一八二七)年自序。当該話は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字の本文が視認出来る。標題は『折兼、山に獵して天狗にあひし事」。

「水井折兼」不詳。

「三位山」不詳。ただ、山口県萩市萩市三見(グーグル・マップ・データ航空写真)があり、海岸沿いながら、かなりの山間部が内陸にある。ここか。]

〔耳嚢巻六〕□□[やぶちゃん注:岩波文庫のカリフォルニア大学バークレー校版では『享保の頃』と出る。西暦一七一六年から一七三六年。]の頃、信州松本之領主の藩中に、高弐百石とつて、物頭を勤めたりし、萱野五郎太夫と云ふ有りし。武芸も相応に心懸け、少しは和漢の書にもたづさはりて、万事物堅く、されど常に我を慢ずる心有りけり。或年の正月、何か大半切桶を新たにゆひ、幾日の昼頃に出来候様にと、厳しく僕に言ひ付けたり。何になる事にやといぶかりながら、調《ととのへ》出来たりとて、新しき筵《むしろ》拾枚を調へ、餅米四斗入三俵を赤飯にこしらひ、十枚の筵を座敷へ敷かせ、かの半切桶をすゑ、その中へ右の赤飯を盛り入れ、日の暮を待《まち》て、その身は泳浴して服を改め、麻上下を著、家内を退け、無刀にてかの一間にとぢ籠れり。家内にては、若し乱心にやと気遣ひけれど、余事は言行ともに、少しも違ひたる事もなく、殊更に無刀の事なれば言ふに任せたり。その夜半頃と覚しきに、何さま人数《にんず》三四十人も来りしけはひ足音なりしが、さらに物言ふ声は聞えず。暁頃にはひつそりとなりて音もせず。兎角する内、夜も明ければ、何の音もなく静まりかへりて有りける故、こはごはに襖を少し明けて覗き見るに、物かげもなく、赤飯は一粒もなし。剰(あまつさ)へ五郎太夫も見えざれば、爰(ここ)かしこさがせども、更に行方しらず。家内大きにおどろき、同藩中に久米兵太夫と云へるは、五郎太夫の従弟違ひにて有りけるを、早速呼び寄せ、彼れこれと評議するに、いかゞともせんすべなし。しからば席も此儘にて目付へ届け、見分致候方と評議して、大目付目付方へ届けければ、早速両役立越、見分すれど何といふわけもしれず。その段有りのまゝに、領主へ訴へけり。常々出精に勤め貞実の者、不埒にて出奔といふにもあらず。また主人に対し立退きたると云ふにもあらねども、故なく行衛しれざる上は、是非もなき事なり。依《よつ》て家名は断絶、さりながら代々の旧功により、倅儀新規に呼出し、元の如くの食禄にて召仕はれしとなり。翌年正月、床の間に誰置くともなき書状一通有り。取て見れば、五郎太夫の手跡にて、何事も書かず。我等事当時愛宕山に住みて、宍戸シセンと申すなり、左様に心得べしと有りて、尚々書に、廿四日は必ず必ず酒を飲むまじく候と書きて有りしが、その後は何の替りたる事もなかりしとなり。その年領主は故有《ゆゑあり》て家名断絶せしなり。かの久米兵太夫も、その時浪人となり、その子兵太夫、青山家に仕へたり。その子兵太夫なる者の物語りなり。シセンの文字忘れたりと言ひし。当時正月廿四日禁酒すれば、火災を除くと言ふ事有り。この頃より初まりし事にや如何。

[やぶちゃん注:私のものは底本違いで、「耳嚢 巻之十 天狗になりしといふ奇談の事」である。そちらを見られたい。]

 〔甲子夜話巻五十〕近頃予<松浦静山>が中《うち》に草庵と云ふ老医居《を》る。この七月十三日根岸<東京都台東区内>の方に往きて、上野の坊官吉川大蔵卿の母に値(あ)ひたるに、この人云ひしとて伝話《つたへばなし》す。その前日朝五時頃のことにて、御簞笥町《おたんすちやう》<東京都台東区内>と云ふ処、楽人東儀隼人佑《とうぎはやとのすけ》の隣に真言宗の千手院と云へる大なる寺あり。この地に大木の樅あるに、その樹杪《こずゑ》に人あり、枝間《しかん》に腰をかけ儼然たり。その体《てい》顔赤く鼻隆くして、世に天狗と謂ふ者の如し。視る人大いに驚きたりと。これ真《まこと》の天狗なるべし。視し人は鵜川内膳と云ふ人の婢僕始めて見出し、これより数人《すにん》見たりとぞ。〔同巻七十二〕我邸中の僕に、東上総泉郡(泉郡は夷隅郡の訛《なまり》)の農夫中崎村源左衛門、酉の五十三歳なるがあり。この男嘗(かつ)て天狗に連れ往《ゆ》かれたりと云ふ。その話せる大略は、七歳の時の祝ひに馬の模様染めたる著物《きもの》にて、氏神八幡宮に詣でたるに、その社の辺より山伏出で誘ひ去りぬ。行方知れざる故、八年を経て仏事せしに、往きさきにて前の山伏、汝の身は不浄になりたれば返すと云うて、相州大山にさし置きたり。それより里人見つけたるに腰の札あり。よく見れば国郡その名まで書きしるせり。因て宿送りにて帰家せり。然るに七歳のとき著たりし、馬[やぶちゃん注:馬の絵柄。]を染めたる著物少しも損ぜざりしと。これより三ケ年の間はその家に在りしが、十八歳のとき、嚮《さき》の山伏また来り云ふ。迎ひに来れり、伴ひ行くべしとて、背に負ひ目瞑(つむ)り居《ゐ》よとて、帯の如きものにて肩にかゝると覚えしが、風声の如く聞えて行きつゝ越中の立山に到れり。この処に大なる洞《ほら》ありて、加賀の白山に通ず。その中途に二十畳も鋪(し)きたらん居所《きよしよ》あり。こゝに僧山伏十一人連坐す。誘往《さそひゆ》きし山伏、名を権現と云ふ。またこの男を長福房と呼び、十一人の天狗、権現を上坐に置き、長福もその傍《かたはら》に坐せしむ。この時初めて乾菓子《ひがし》を食せりと。また十一人各〻口中に呪文を誦《じゆ》する体《てい》なりしが、頓《やが》て笙(しやう)篳篥(ひちりき)の声して皆々立更《かは》りて舞楽せり。

 かの権現の体は白髪にして、鬚長きこと膝に及ぶ。温和慈愛、天狗にてはなく僊人(せんにん)[やぶちゃん注:「仙人」に同じ。]なりと。かの男諸国を廻る中、奥の国は昔の大将の僊人となりし者多しと。また伴はれて鞍馬・貴船に往きしとき、千畳鋪に僧達多く坐し居たるに、参詣の諸人の志願を申すを、心中口内にあること、よく彼《か》の場には聞ゆ。因て天狗議す、某の願は事当れり、協(かな)へつかはすべし、某は笑ふべし、或ひは癡愚なりとて天狗大笑するもあり。また甚だ悲願なり、協ふべからずとて、何か口呪《こうじゆ》を誦すること有るもありと。また諸山に伴はれたるに、何方にても天狗出で来て、剱術を習ひ兵法を学ぶ。かの男も授習せしとぞ。また申楽《さるがく》・宴歌・酒客の席にも伴はれ往きしと。師天狗権現は、毎朝天下安全の禱(いの)りとて勤行せしと。また或時昔一谷の合戦の状《じやう》を見せんと云ふこと有りしときは、山頭《さんとう》に旌旗(はた[やぶちゃん注:二字へのルビ。])返翻(ひるがへ)し、人馬の群走鯨波の声、その場の体《てい》、今《いま》如何《いかが》にも譬へん方なしと。妖術なるべし。<中略>また世に木葉天狗《このはてんぐ》と云ふ者あり。彼《かの》境《きやう》にてはハクラウと呼ぶ。この者は狼の年歴《としへ》たるがこれになるとぞ。定めし白毛生ぜし老物《おひもの》なるべければ、ハクラウは白狼なるべし。また十九歳の年、人界へ還すとて、天狗の部類を去る証拠状と兵法の巻軸《くわんぢく》二つを与へ、脇指を帯《おび》させ、袈裟を掛けて帰せしとぞ。始め魔界に入りしとき著ゐたりし馬の著服《ちやくふく》、并(ならび)に兵法の巻軸と前の証状と三品は、上総の氏神に奉納し、授けられし脇指と袈裟は今に所持せりと。予未だ見ず。また或日奉納せし巻物を社司竊(ひそ)かに披(ひら)き見しに、眼くらみ視ること協《かな》はず。因てそのまゝ納め置きしと。巻物は梵字にて書せりと。

 また天狗何品《なんぴん》にても買ひ調ふる銭は、ハクラウども薪など採り売り代《しろ》なし、或ひは[やぶちゃん注:ママ。]人に肩をかしなどして、その賃を取聚《とりあつ》め、この銭を以て弁ずるとぞ。天狗は酒を嗜むとぞ。 [やぶちゃん注:一字分の空白はママ。東洋文庫版にはなく、『ちくま文芸文庫』版にもないので、誤植(誤った字空け)であろうが、ここで話柄に変化が起こっており、東洋文庫版で改行してあるので、宵曲がわざと空けた可能性が高い。]また南部におそれ山と云ふ高山あり。この奥十八里にして天狗の祠あり、ぐひん堂と称す。(ぐひん合類集曰狗賓。俚俗所ㇾ言天狗一称[やぶちゃん注:「狗賓は、俚俗、言ふ所。『天狗』の一称たり。」。])此所に毎月下旬信州より善光寺の如来を招じ、この利益を頼んでハクラウの輩《やから》の三熱の苦を免《まぬか》れんことを祈る。その時は師天狗権現其余皆出迎ふ。如来来向《らいがう》のとき、矩火(たいまつ)白昼の如しと。また源左この魔界にありし中《うち》、菓子を一度食して常に食ふことなし。因《よつ》て両便《りやうべん》の通《つう》じもなしと。以上の説彼僕《かのしもべ》の云ふ所と雖も、虚偽疑ひなきに非ず。然《しか》れども話す所曽《かつ》て妄《まう》ならず、如何にも天地間、この如き妖魔の一界あると覚ゆ。

[やぶちゃん注:以上は事前に「フライング単発 甲子夜話卷七十三 6 天狗界の噺」として、例外的に、かなりの注にリキを入れて公開しておいた。なお、宵曲が「<中略>」とする箇所には、略した部分は、ない。逆に冒頭の欄外注部分が、ない。

〔黒甜瑣語四編ノ三〕むかし秋田雄猿部(をさるべ)の深山に、星霜とし久しき櫪木(くすのき[やぶちゃん注:ママ。後に出す活字本もママ。しかし、この単漢字・熟語は「くぬぎ」である。])の梢に、農民作之丞が尸(しかばね)とて倒(さか)しまにかゝりある事、幾年と云ふ事を知らず。いつの程にや、天狗にさらはれし者と云ふ。絶壁高山の岨(そば)[やぶちゃん注:崖。]より万仭(まんじん)の谿(たに)へ垂下りし物なるか、木客《ぼくかく/ぼくきやく》[やぶちゃん注:以下の「山樵」と同じく「木こり」のこと。]山樵《やまがつ》といへども、麓へは至りがたく、只遙かに望めるのみにて、それやはあらぬ、確かに人とは見ゆれど、十年二十年の事にもあらず。年代を経て腐爛(ふらん)せざるは人とも思はれずとて、後日はいぶかる者もなく、只旅人の話柄とはなれる。作之丞は秋田比内《ひない》の農民にて、その家も残りしが、或時昔しの作之丞とてかの家に立帰れり。彼が物語りに、我《われ》四十に近かりし頃、山深く爪木《つまき》[やぶちゃん注:「爪先で折り採った木」の意。薪にするための小枝。薪(たきぎ)。]こりしが、一人の大漢(《おほ》をのこ)来りて、一つ二つ物がたりの中、己れ過去を見たきや、未来を見たきやと云ふゆゑ、過ぎし事は物語りにも聞けるが、行末の事は命なければ見られずと思へば、一《ひ》トしほなつかしきのみと答ふるに、さらば今己《おのれ》が命を縮めて、八十年ののち再生せしめ、また三十年の寿命を与ふべし、さすれば百年ののちを快く見るべしと云ふ。面目の恐ろしき云はん方なし。我《われ》魂《たま》を消し詫言すといへども、已(すで)に宿業《しゆくごふ》のつゝまり[やぶちゃん注:「約(つづま)り」。]し身なれば、その罪を購《あがな》はしめんものをと、即座に我を縊(くく)りてその後は知らざりしが、過ぎし日眠りのはじめて醒めしごとく眼《まなこ》を開けば、かの大漢我傍《かたはら》にありて我《われ》仰《あふ》がしめ、惣身《そうみ》を按摩し、己れ今こそは許して帰すなり、梢の上の苦しみ、さぞ苦しかりつらんとて、道の指教(しるべ)せしが、その山を出《いづ》れば雄猿部の頂きなり。山の木立、里の住居も程かはりしやうなれど、我住みし里に間違ふべくもあらずと語れり。家人等も大に訝(いぶか)り、何とも実(まこと)しからねども、むかし天狗にさらはれし物語り、近きむらむらの往事《わうじ》を語るに、歴々として皆《みな》徴すべし[やぶちゃん注:はっきりと符合するべき内容であった。]。さてしもかの山の頂きを望めば、その尸見えず。さればぞ家の先祖とてみなみな敬ひしも、堅固の田舎人の心なるべし、これより三十年を過ぎて、正徳の末までながらへ、病ふの床に死せりと聞えしは、怪しき談話ならずや。

[やぶちゃん注:「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。標題は『○雄猿部(をさるべ)の尸(しかばね)』。

「秋田雄猿部(をさるべ)」不詳。但し、これを川名ととるなら、小猿部川(おさるべがわ:グーグル・マップ・データ)がある。秋田県北部の竜ヶ森を源として、北秋田市七日市(なぬかいち)を貫流し、北秋田市市街で米代川に合流する一級河川である。

「櫪木」「くすのき」なら、クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora であるが、「くぬぎ」では、ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima で全然、樹種が異なる。巨木であるから、遙かに前者が相応しくはある。

「正徳の末」正徳六年六月二十二日(グレゴリオ暦一七一六年八月九日) に享保に改元している。後に「三十年を過ぎて」とあるから、作之丞の驚異の生還は貞享三(一六八六)年頃になる。]

〔譚海巻五 〕下野国日光山は、天狗常に住みて恐ろしき処なり。一年ある浪人、知音ありて山中の院に寄宿し居けるが、一夜院内の人々集りて碁を打ちたるに、この浪人しきりに勝ちほこりて、皆手に合ふものなかりしかば、浪人心おごりて、この院中に我にせんさせてうたんと云ふ人はあらじなど自讃しける時、かたへの僧、左様なる事ここにてはいはぬ事なり、鼻の高き人有りて、やゝもすればからきめ見する事多しと、制しける詞に合せて、明り障子を隔てて庭のかたにからびたる声して、ここに聞て居るぞといひつる声せしかば、浪人顔の色も菜のごとくになりて、ものいはず碁盤ごいしけかきはらひねて、翌日あくるを待ちあへずして、急ぎ下山して走り去りぬとぞ。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之五 下野日光山房にて碁を自慢せし人の事」を参照。]

 〔四不語録巻一〕元禄二年[やぶちゃん注:一六八九年。]の夏のころ、加州の住人井沢何某は主君藤村氏の供をして、武州江戸に相詰めけるが、或夜寅刻<午前四時>ばかりに、ふと起き出て明り障子を開き縁に出る。側《そば》に臥し居《をり》ける傍輩これを見て、けしからぬ出《で》やう哉《かな》、定めて大小の用事を調へて帰らんと相待つ処に、曙に及べども帰らざる故、さればこそ不審(いぶかしき)事と思ひて、戸の外へ出てこれを尋ぬれども見えず。いまだ門を開《ひら》かざる中《うち》なれば、他所《よそ》へは行くまじとて、その屋敷の中、残る隈なく捜し求むれども居らず。それより十八日を過ぎて、夜半にあらけなく門を扣《たた》く。誰なるらんと開けば、かの井沢氏なり。杖をつきて痛く羸(つか)れたる体《てい》なり。人々驚き先づ内へ呼び入れ、このほどのありさまを問ふに物を云はず。忙然とあきれ居《ゐ》たり。やうやく粥などすゝめて二三日を経たれば、人心地付きて物語りせしは、去《いん》ぬる夜《よ》戸を開けて出《いで》たれば、その形山伏の如くなる者来て、いざこの方へと倡(いざ)なひしほどに、我にもあらず打つれ行くに、空をかけるともなく地を走るともおぼえず。或時は富士・浅間の嶽に登り、或は葛城・高天(たかま)の山を越え、その外日本中の高山魔所、残る方なく打廻り、下野《しもつけ》宇津宮<栃木県宇都宮市>に来り暫く休むと思ひしに、かの山伏行方なく失せぬ。これまではうかうかと馳行(あせあり)きて、われかの気色(けしき)にもあらざりしが、心地付きたるやうにて、そのわたりし爰《ここ》かしこ見廻す処に、修行者一人来れり。彼に向ひこゝは何処《いづこ》なると問へば、下野宇津宮と答ふ。そこにて右のありさまを語りて、江戸への郷導(みちしるべ)を教へたまへといへば、これより江戸へは遙々《はるばる》なり、我幸ひ江戸へ趣くほどに相伴《あひともな》ひ申さん、いかく[やぶちゃん注:ママ。『ちくま文芸文庫』もそのままだが、原本を確認出来ないので何とも言えないが、これ、「いたく」の底本の誤記か誤植ではあるまいか?]困《こう》じたる体《てい》なり、この杖を突くべしとて、七角の杖を渡す。これをつきてより草臥(くたびれ)も直る心地して、程なく江戸に著く。この屋敷の辺り迄送り届けしと見えしが、その僧かきけちて失せぬ。それより後は覚えずと云ふ。いと妖しき事なり。定めて天狗の業《わざ》ならん。かの修行者もまた天狗なるべし。その七角の杖を予も目のあたり見しが、手ぎはなる細工、凡夫の作とは見えず。世には四角六角八角なるはこれ多し。七角なるも珍しき事なり。その頃瘧疾(おこり)<わらわやみ>[やぶちゃん注:マラリア。]有る者、この杖をいたゞけば大形(おほかた)治せずと云ふことなし。さて翌年の夏、同じ藤村氏の臣に米田何某は、年久しく耳病を煩ひて、この節《せつ》ひしと聾(みみしひ)たり。或日頻(しき)りに睡りを催しける故、少しまどろみける夢に、死して年久しき亡父来りて、汝が聾たる事、草葉の陰にても我《わが》苦しみとなれり、この度これを井沢氏にまじなはせ、まじなふ時に小刀を持《もち》て向ふべし、少しも危ぶみ疑ふべからずと、告げて去るとおもへば驚きぬ[やぶちゃん注:目が覚めた。]。あらたなる夢想とはおもへど、井沢氏がまじなひをすると云ふ事もいまだしらず。その上聾て年久しき耳なれば、今更癒ゆべきかと疑ひて打過ぎぬるに、その夜もまた亡父告げて、必ず平治すべし、夢[やぶちゃん注:副詞「努・勤」で「決して」の意の「ゆめ」の当て字。]うたがふ事なかれと云ふ。両度の夢想黙止《もだし》がたくて、夜《よ》の明くるを待ちて急ぎ井沢氏所へ行き、耳のことを語りて、如何治すべき歟と云へば、井沢厭当(まじなひ)して治(ぢ)すべしとて座を立ち、次の間ヘ行き、小刀を持ち出《いで》つ。米田氏これを見て、少しも夢の事を語らざるに、小刀を持ち出しこと、夢想と符節を合せたるがごとくなれば、いよいよ憑(たのも)しく思ひて、これにまじなはするに、何やらん耳に向つて呪《じゆ》を唱へ、文字を書くと思ヘば、一身を空へ引《ひつ》たてるやうに覚えしが、その儘《まま》雞《とり》の鳴声耳に入りし故、若し鳥の雛《ひな》やあると尋ねしに、側に居たる者、いかにも次の間に雛を籠に入れて置きしが、只今啼きつるに、さては御耳の通じたるか、まことにまじなひの験《しるし》有る事、奇代の事哉《かな》と云ひしに、その詞も残りなく聞えければ、米田氏大きに悦びて家に帰りしなり。つぶれて数年《すねん》経たるに一時に痊(いえ)し事、諸人これを驚嘆して、その頃世間の一つ咄となれり。

[やぶちゃん注:「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。にしても、大いに不審なのは、後半の「さて翌年の夏、同じ藤村氏の臣に米田何某は、年久しく耳病を煩ひて、この節《せつ》ひしと聾(みみしひ)たり。……」以下の話柄、宵曲さんよ! これ、どこが天狗と関係があるんや? ないやんけ! ええ加減に引くな! 阿呆たれガ!

〔卯花園漫録巻二〕天狗と云ふ者は□[やぶちゃん注:欠字だが、後注で示す活字本では、『星』とある。既に以前に述べたが、強く輝く流れ星を「天狗星」と呼ぶ。]の名にあり。また獾《くわん》と云ふ獣の異名を天狗と号(なづ)く。日本にて云ふ所の天狗といふ者は格別なり。然れども唐土《もろこし》にも、日本に云ふ天狗に似たる事あり。李綽《りしやく》が『尚書故実』にいふ。蜀の国にてある寺に法事ありしに、男女群集せしに、何国《いづく》より来りけん、鵰鶚(ちようがく)<くまたか>のごとくなる者飛び来りて、十歳ばかりなる小児を摑み飛び去りぬ。人々周章《しうしやう》すれども為(な)すべきやうなく、両親の歎き何に喩へんものなし。然るに其後十日程経て、かのとられたる小児、その寺の高塔の上に来り居れり。人々歓びて梯(はしご)をかけ卸《おろ》しけるに、魂《たましひ》抜けたるやうにて正気なし。二三日過ぎて漸《やうや》う人心地付きたり。その時人々何国へ行きたりやと問ふに、小児の曰く、かの法事の砌《みぎり》、忽ち飛天夜叉《ひてんやしや》のごとくなる者来りて、我に面白きもの見すべしとて誘ひて、毎日吾を連れて歩行(あるく)に、その面白き事云はん方なし。また種々の珍味を与へ、諸国山川の景色、一々に数千里をあるき見し事、誠に面白かりしと語りしとなん。これ日本の天狗と云ふ者に似たり。『述異記』に見えし山都《さんと》、また『幽明録』に云ふ木容[やぶちゃん注:後注を参照されたいが、これは引用原本の「木客(もつかく)」の誤記と断ずるものである。]などいふもの、その形も言語もまつたく人のごとく、手足の爪《つめ》鳥のごとし。常に山深く巌《いはほ》けはしき所などに住み、よく変化《へんげ》してその形を見る事希なり。これ等世に云ふ天狗に似たり。日本にても栄術太郎《えいじゆつたらう》、金毘羅妙儀《こんぴらみやうぎ》などを天狗なりといふ。中華にも紫虚・碧霞・真武帝などいひて、その山々の神霊《しんれい》の名とする類ひにて、人に害をなす天狗とは別なるべし。

[やぶちゃん注:「卯花園漫録」読みは現代仮名遣で「うのはなぞのまんろく」或いは「ぼうかえんまんろく」。作者は江戸の故実家であった石上宣続(いそのかみのぶつぐ)で文化文政期の人(詳細事績不詳)。同書は史伝・故実・言語その他の起源・沿革を記した随筆で、『文政六年』(一八二三年)『夏日』と記す序がある。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。

「鵰鶚」「くまたか」底本では「鶚」は「グリフウィキ」のこれだが、これは「鶚」の異体字で、『ちくま文芸文庫』では『鶚』とあるので、それで示した。

「獾と云ふ獣の異名を天狗と号(なづ)く」食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属アジアアナグマ Meles leucurus(ユーラシア大陸中部(中央部を除く)に広く分布)の異名。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獾(くわん) (同じくアナグマ)」を参照されたい。

「李綽が『尚書故実』」唐代の李綽(?~八六二年:詳細事績不詳)が書いたもの。「唐書」の「芸文志」では、史部雑伝記類に入れ、「直齋書録解題」や「郡齋読書志」では小説家類に分類されており、芸術についての話柄などに興味深い記事が見られる。別名を「尚書談録」とも言う。

「鵰鶚(ちようがく)」「くまたか」タカ目タカ科クマタカ属クマタカ亜種クマタカ Nisaetus nipalensis orientalis 。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 角鷹(くまたか) (クマタカ)」を参照。

「飛天夜叉」サイト「妖怪条件検索」(このサイトは、ものによっては、水木しげる氏の著作本文を、私の認識では、引用許容を越えて電子化しておられ、時に水木氏の画像も取り込んであって、著作権に触れてしまうのではないかと私は危ぶんでいるのだが、公開されてかなり経つが、今も公開されてある)の「飛天夜叉」のページには、水木氏の本篇の訳文と解説があり、そこに『一説によると、〈飛天夜叉〉というのは、形はこうもりに似て、頭は驢馬、翼はムシロを広げたように大きいという』。『ある男が、この〈飛天夜叉〉が瓜畑で瓜に食らいついているのを目撃したことがあったが、その余りにも恐ろしい形相に恐怖感を覚え、腰を抜かさんばかりに逃げ帰ったという』。『ふつう〈夜叉〉というと、里に現れる鬼のような妖怪だが、この〈夜叉〉は翼をもち、飛べることから《飛天》という言葉がついたのであろう』(以上は「水木しげるの中国妖怪事典」のものの本篇の訳文の前文部分を私がカットしたもの)。『中国で〈夜叉〉といえば、凶悪で獰猛にして疾風迅雷、鋭い牙や爪をもって人を食い殺す恐ろしい悪鬼である。この〈夜叉〉がさらに能力を増し、空を自在に飛行するようになったものが〈飛天夜叉〉とよばれる。〈飛天夜叉〉はその長けた能力から、悪鬼の頂点に位置するものとも考えられた。〈僵尸(きょうし)〉なども、長い時を経ると〈飛天夜叉〉に変じ、雷以外では倒せなくなるといわれている』(「僵尸」は、一時、香港映画で流行った「キョンシー」のことである。リンク先は当該ウィキ)。『もっとも、〈夜叉〉は悪鬼の類の総称として使われることも多く、人々は、空を飛ぶ悪鬼がいれば「あれは〈飛天夜叉〉だ。」と、ある意味で勝手に決めつけてきたようである』。澤田瑞穂著の「中国の伝承と説話」(著者は私の偏愛する中国文学者である)『によれば』、「水木しげるの中国妖怪事典」の話は「太平広記」巻第三百五十六の「章仇兼瓊」を「尚書故実」から『引用して紹介しているもののようである』。『また、瓜畑でこうもりに似た〈飛天夜叉〉を見たという話は、宋代の』「夷堅志」の「甲志巻十九」の『「飛天夜叉」にある。時の丞相の夫人である郭氏の甥、郭大という者が真夏の月夜に見たもので、彼が後日に神祠に入ると、このときの〈飛天夜叉〉の壁画があったという』。『明代の』「獪園」にも『「飛天女夜叉」の条があり、ここでは一陣の怪風とともに〈女夜叉〉が輿入れ途上にあった花嫁をさらい、代わりに自分が輿に乗り込んでいる。そのことに誰も気づかずに婚礼が行われ、初夜が明けるが昼になっても新郎新婦が起きてこないので中を覗くと、そこにはざんばら髪に裸の化け物が血塗れになりながら骨をかじっているのが見えた。新郎の体は、すでに足先を残すのみである。一家のものが驚き騒ぐと、ふたたび一陣の旋風が吹き、化け物は異形に変じて跳び出していった。花嫁は山中の洞穴から救出されたが、やはり茫然とした様子で、さらわれて以降のことは覚えていなかったという』とある。

「述異記」南朝梁の官吏で文人の任昉(じんぼう)が撰したとされている山川等の地理に関する異聞や、珍しい動植物に関する話などを多く集めた小説集だが、偽書説もある。全二巻。

「山都」元来、「山都」は直ぐ後に出る「手足の爪鳥のごとし。常に山深く巌けはしき所などに住み、よく変化してその形を見る事希なり」とある「木容」(「木客」(もっかく)の誤記である)等と同じく、中国の奥地の異民族・少数民族を指していた語であるが、中華思想の中で、彼らが、皆、モンスターとして妖怪化されてしまったものと思しい。詳しくは、私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」(最近、再改訂した)の「山都」・「木客」の項を参照されたい。]

「幽明録」「世説新語」の撰者として知られる劉義慶(四〇三年~四四四年:南朝宋の皇族で臨川康王。武帝劉裕は彼の伯父)の志怪小説集。散逸したが、後代のかなりの諸本の採録によって残った。

「栄術太郎」サイト「ピクシブ百科事典」の「愛宕太郎坊」(あたごたろうぼう)に、『日本八天狗の一。愛宕山太郎坊、栄術太郎とも。単に「太郎坊」と呼ばれることも多い。日本全国の天狗を取りまとめる惣領ともされる。愛宕山を拠点とする大天狗であり、ここに由来する愛宕権現信仰に絡む形で信仰の対象となっている』。「天狗経」に『説かれる四十八天狗の一人でもある。ちなみに、同じく四十八天狗の一人である富士山陀羅尼坊は「富士山太郎坊(冨士太郎)」という別名もある』。『現在の京都の愛宕山では「愛宕太郎坊」表記の看板が立てられている』。『猪に騎乗し、錫杖を持つ鳥面の天狗として描写される。この姿は愛宕権現の本地である勝軍地蔵にも似ている』。『愛宕権現は勝軍地蔵と同じ姿でも描写され、白馬のほかに猪に騎乗する例がある』。『愛宕権現(勝軍地蔵)には翼がなく、人間の顔をしており、愛宕太郎坊天狗との区別は容易である』。「今昔物語集」では、『天竺(インド)の天狗の代表である日羅、中国の天狗の代表である是界と共に役小角の前に現れている』、『愛宕神社の奥の院にあたる「若宮」に祀られ、若宮太郎坊権現とも呼ばれた。愛宕権現を伊弉冊と同体とする説をとなえる「愛宕山両社 太々百味略縁起」では太郎坊は軻遇突智と同体とされ、本地仏は阿弥陀如来としている』とある。

「金毘羅妙儀」「金毘羅」と「妙儀」であろう。「金毘羅」はサンスクリット語の「クンビーラ」の音漢訳。「宮毘羅」(くびら)とも書き、「威如王」「蛟龍」(こうりょう)と漢訳される。薬師如来の神力を持ち、衆生を守護する十二神将の一つで、また般若守護十六善神の随一ともされる。香川県琴平町の象頭山(ぞうずさん)の金刀比羅宮(ことひらぐう)に勧請され、海上の安全を守る海神として祭られている。元来の祭神である大物主神は、その垂迹として「金毘羅大権現」と称され。多くの信仰を集めて金毘羅参詣も盛んに行われた。「妙儀」は、妙義大権現のことで、群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に位置する「日本三大奇景」の一つとされる、私の好きな妙義山は、古代から続く山岳信仰の対象であり、その中腹に鎮座する妙義神社は妙義山東側の白雲山を神体とする。

「紫虚」紫虚上人は「三国志演義」に登場する架空の人物。当該ウィキによれば、『益州の錦屏山に住み、人の生死や貴賎を見通すことが出来ると言われていた』。同作の第六十二回で、『劉備が益州に侵攻した際、それに応戦するため劉璋配下の劉璝(りゅうかい)や張任らは』五『万の兵を率いて雒城に向かったが、その途中に紫虚上人の下を訪れ占いを請うた』。『上人は「左龍と右鳳、飛んで西川に入る。雛鳳」(すうほう)『地に墜ち、臥龍天にのぼる。一得一失、天数まさに然るべし(左龍右鳳飛入西川 雛鳳墜地臥龍升天 一得一失天數當然 見機而作勿喪九泉)」と述べ、龐統』(すうとう)『の死と、諸葛亮の益州平定を予言したという。当惑した劉璝達は自分達の命運についての占いを求めたが、「定まった命運を聞いても仕方があるまい」と上人は応じず、彼等にとって満足のいく回答はついに得られなかった』とあり、見るからに、山中の神通力を持った天狗様(よう)の異人である。

「碧霞」中国に於ける山岳崇拝の一中心地である、山東省泰山で祀られた女神。宋の皇帝真宗が泰山で封禅(ほうぜん)の儀を挙行した折り、山頂の池で手を洗うと、池の中から女神の石像が浮かび上がったので、これを「碧霞宮」とし、泰山の絶頂に祀ったという。その出自については諸説が伝えられ、泰山の主神「泰山府君」の娘、或いは、孫であるとか、黄帝が泰山に派遣した七名の仙女のうちの一人であるなどとされる。また、「碧霞元君」は子授けの霊験あらたかな女神として知られ、子のない婦人は争そって泰山に参詣したが、その人気は、主神「泰山府君」を凌駕したとされている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「真武帝」所謂、北の星宿の神格化した玄武の名。「玄天上帝」とも称する。宋代には避諱のため、「真武」と改名されている。清代には北極佑聖真君に封じられている。当該ウィキによれば、『亀蛇合体像の形をとる。脚の長い亀に蛇が巻き付いた形で描かれたり、尾が蛇となっている場合などもある。ただし玄天上帝としては黒服の男性に描かれる』。『古代中国において、亀は「長寿と不死」の象徴、蛇は「生殖と繁殖」の象徴で、後漢末の魏伯陽は「周易参同契」で、玄武の亀と蛇の合わさった姿を、「玄武は亀蛇、共に寄り添い、もって牡牝となし、後につがいとなる」と、陰陽が合わさる様子に例えている』。『「玄武」の本来の表記は(発音は同じ)「玄冥」(「冥」は「陰」を意味し、玄武は「太陰神」とされた)であり、(北方の神である)玄武は、(北にある)冥界と現世を往来して、冥界にて(亀卜=亀甲占いの)神託を受け、現世にその答えを持ち帰ることが出来ると信じられた。玄武は、暗闇を司』る。『「玄武」の「武」は、玄武の「武神」としての神性に由来し、後漢の蔡邕は「北方の玄武、甲殻類の長である」と述べ、北宋の洪興祖は「武という亀蛇は、北方にいる。故に玄と言う。身体には鱗と甲羅があり故に武という」と述べた。玄武の武神としての神性は、信仰を得られず、唐宋以降には伝わらなかった』。『中国天文学では、周天を天の赤道帯に沿って』四『分割した』一『つで、北方七宿の総称。北方七宿の形をつなげて蛇のからみついた亀の姿に象った』。『中国神話』では、『白虎、青竜、朱雀とともに四神という形で一組にされ、西を白虎、東を青龍、南を朱雀と、それぞれが各一方を分担して守護するものされる。玄武は北方の守護を司』『るが、玄武と北方との結び付きは、五行説が中央に黄色、北方に黒、東方に青、西方に白、南方に赤と五色を割り当てたことに由来しており、四神の信仰は五行説の影響を受けながら』、『戦国時代ごろに成立したと考えられている。その後、四神の信仰は中国の中のみならず、古代の朝鮮や日本にも伝わった』とある。あんまり、天狗とは似ていないがなぁ。]

フライング単発 甲子夜話卷七十三 6 天狗界の噺

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

72―6

 我邸中の僕《しもべ》に、東上總《ひがしかづさ》泉郡《いづみのこほり》(「泉郡」「和名鈔」上總ノ國夷𤅬イシミ郡。𤅬「說文」『水出巴宕郡渠、西南シテ入ㇾ江。』○中崎村は、同書、同郡長狹ナカサ。蓋此處[やぶちゃん注:ここに「東洋文庫」編者により『――欄外注』とある。なお、カタカナの訓点は総てママ。])の農夫中崎村源左衞門、酉の五十三歲なるが在り。

 この男、

「嘗(かつて)、天狗に連往(つれゆ)かれたり。」

と云ふ。

 その話せる大略は、

――七歲の時の祝(いはひ)に、馬の模樣染(そめ)たる着物にて、氏神八幡宮に詣(まうで)たるに、その社(やしろ)の邊より、山伏、出で、誘ひ去りぬ。

 行方知れざるゆゑ、八年を經て佛事せしに、往(ゆき)ざきにて、前の山伏、

「汝の身は不淨になりたれば、返す。」

と云(いひ)て、相州大山に、さし置(おき)たり。

 夫(それ)より、里人、見つけたるに、腰に札あり。

 能く見れば、國・郡・其名まで、書(かき)しるせり。

 因(よつ)て、宿送(しゆくおく)りにて、歸家せり。

 然(しか)るに、七歲のとき、著たりし馬を染(そめ)たる着物、少しも損ぜざりし、と。

 これより、三ケ年の間は、その家に在(あり)しが、十八歲のとき、嚮(さき)の山伏、又、來り云ふ。

「迎(むかひ)に來れり。伴ひ行(ゆく)べし。」

とて、背に負ひ、

「目瞑(つむ)りゐよ。」

とて、帶の如きものにて肩にかくると覺へ[やぶちゃん注:ママ。]しが、風聲の如く聞へ[やぶちゃん注:ママ。]て行きつゝ、越中の立山に到れり。

 この處に、大(おほい)なる洞(ほら)ありて、加賀の白山に通ず。

 その中途に、二十疊も鋪(しきた)らん居所(きよしよ)あり。

 ここに、僧・山伏、十一人、連坐す。

 誘往(さそひゆき)し山伏、名を「權現」と云ふ。

 又、かの男を「長福房」と呼び、十一人の天狗、「權現」を上坐に置き、「長福」も、その傍(かたはら)に坐せしむ。

「此とき、初(はじめ)て、乾菓子(ひがし)を食せり。」

と。

 又、十一人、各(おのおの)、口中(こうちゆう)に呪文を誦(じゆ)する體(てい)なりしが、頓(やが)て、笙(しやう)・篳篥(ひちりき)の聲(こゑ)して、皆々、立更(たちかは)りて舞樂せり。[やぶちゃん注:ここは底本の『東洋文庫』版も同じく改行をしてある(但し、頭の字下げは、ない)。]

 かの權現の體《てい》は、

「白髮にして、鬚、長きこと、膝に及ぶ。溫和、慈愛、天狗にてはなく、僊人(せんにん)[やぶちゃん注:「仙人」に同じ。]なり。」

と。

 かの男、

「諸國を𢌞る中(うち)、奧の國は、昔の大將の僊人となりし者、多し。」

と。

 又、伴はれて鞍間[やぶちゃん注:ママ。鞍馬。]、貴船に往(ゆき)しとき、千疊鋪(せんじやうじき)に、僧達、多く坐(ざ)しゐたるに、參詣の諸人、種々(しゆじゆ)の志願を申すを、心中・口内(くちうち)にあること、能く彼(か)の場には聞ふ[やぶちゃん注:ママ。「きこゆ」。]。因(よつ)て、天狗、議す。

「某(なにがし)の願(ぐわん)は、事、當れり。協(かな)へつかはすべし。」

「某は、咲(わら)ふべし。」

或は、

「癡愚(ちぐ)なり。」

とて、天狗、大笑するも、あり。また、

「甚(はなはだ)、非願なり。協ふべからず。」

とて、何か口呪(こうじゆ)を誦すること有るもありと。[やぶちゃん注:ここは底本も改行している(一字下げは、なし)。]

 又、諸山に伴はれたるに、何方(いづかた)にても、天狗、出來(いでき)て、劍術を習ひ、兵法を學ぶ。かの男も授習せしとぞ。

 又、申樂(さるがく)・宴歌・酒客の席にも伴なはれ往きし、と。

 師天狗「權現」は、每朝、「天下安全の禱(いの)り」とて、勤行せし、と。[やぶちゃん注:ここは底本も改行している(一字下げは、なし)。]

 又、或時、

「昔、『一谷の合戰』の狀(じやう)を見せん。」

と、云ふこと有りしときは、山頭(さんとう)に、旌旗(せいき)、返翻(へんぽん)し、人馬の群走、鯨波の聲、その場の體(てい)、今(いま)、如何(いか)にも譬(たと)へん方、なし、と。

 妖術なるべし。

 又、世に「木葉天狗(このはてんぐ)」と云(いふ)者あり。彼(かの)境(きやう)にては「ハクラウ」と呼ぶ。この者は、狼(おほかみ)の年歷(としへ)たるが、これに成る、とぞ。定めし、白毛(はくもう)生(しやう)ぜし老物(おひもの)なるべければ、「ハクラウ」は「白狼」なるべし。[やぶちゃん注:ここは底本も改行している(一字下げは、なし)。]

 又、十九歲の年、

「人界へ、還す。」

とて、天狗の部類を去る證狀と、兵法の卷軸(くわんぢく)、二つを與へ、脇指を帶(おび)させ、袈裟を掛けて、歸せしとぞ。[やぶちゃん注:ここは底本も改行している(一字下げは、なし)。]

 始め、魔界に入(いり)しとき、着ゐたりし馬の着服(ちやくふく)、幷(ならび)に、兵法の卷軸と、前の證狀と、三品は、上總の氏神に奉納し、授けられし脇指と袈裟は、今に所持せり、と。

 予[やぶちゃん注:松浦静山。]、未ㇾ見(いまだみず)。

 又、或日、奉納せし卷物を、社司、竊(ひそか)に披(ひら)き見しに、眼(まなこ)、くらみ、視ること、協(かな)はず。因(よつ)て、そのまゝ納め置きし、と。卷物は、梵字にて書せり、と。[やぶちゃん注:ここは底本も改行している(一字下げは、なし)。]

 又、天狗、何品(なんぴん)にても買調(かひととのふ)る錢は、「ハクラウ」ども、薪(たきぎ)など、採り、賣代(うりしろ)なし、或は、人に肩をかし[やぶちゃん注:人間の手伝いをし。]抔して、その賃を取聚(とりあつ)め、この錢を以て、辨ずる、とぞ。

 天狗は酒を嗜むと云(いふ)。[やぶちゃん注:ここは底本も改行している(一字下げは、なし)。]

 又、南部に「おそれ山(ざん)」と云ふ高山あり。この奧十八里にして、天狗の祠(ほこら)あり、「ぐひん堂」と稱す。【「ぐひん」、「合類集(がふるいゐしふ)」云(いはく)、『狗賓、俚俗所ㇾ言。「天狗」一稱[やぶちゃん注:「狗賓は、俚俗、言ふ所。『天狗』の一稱たり。」。]】この所に、每月下旬、信州より、善光寺の如來を招じ、この利益(りやく)を賴んで、「ハクラウ」の輩(やから)の三熱の苦を免(まぬか)れんことを祈る。その時は、師天狗「權現」、其餘、皆、出迎ふ。如來來向(らいがう)のときは、矩火(たいまつ)、白晝の如し、と。[やぶちゃん注:ここは底本も改行している(一字下げは、なし)。]

 又、源左この魔界にありし中(うち)、菓子を、一度(ひとたび)、食して、常に食ふこと、なし。因(よつ)て、

「兩便(りやうべん)の通(つう)じもなし。」

と。

 以上の說、彼僕(かのしもべ)の所ㇾ云と雖も、虛僞、疑ひなきに非ず。然(しか)れども、話す所、曾(かつ)て妄(まう)ならず。「如何にも、天地間(てんちかん)、この如き妖魔の一界、ある。」と覺ゆ。

■やぶちゃんの呟き

「(「泉郡」「和名鈔」上總ノ國夷𤅬イシミ郡。𤅬「說文」『水出巴宕郡渠、西南シテ入ㇾ江。』○中崎村は、同書、同郡長狹ナカサ。蓋此處)」この割注は本文内で注した通り、静山による「欄外注」であるが、ちと、読み取りし難い。まず「和名類聚鈔」を見ると、二十巻本の「卷六」の「國郡部第十二上總國第八十五」「夷灊郡」で、国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板行版の当該部を見ると(《 》は私が附した推定読み)、

   *

夷灊郡(イシミノ《コホリ》)

 雨霑 蘆道 荒田(アラタ) 長狹(ノカサ) 白羽(シラハ) 餘戸

   *

古い地名で読みが判り難いが、「雨霑」は「うるうごう」(歴史的仮名遣は「うるふ」か)、「蘆道」(この「蘆」は底本では異体字のこれ(グリフウィキ)の「土」の三角目を下の「田」に貫いて続く字体)は「いおち」(歴史的仮名遣は「いほち」らしい)。また、「長狹」のルビの「ノ」は「ナ」の誤刻と思われ、読みは濁音カットで「ながさ」であろう。「餘戸」は律令制に置かれていた地方行政組織のそれに従うなら、「あまるべ」「あまりべ」であろう。ウィキの「夷隅郡」の「古代」によれば、「雨霑」は『未詳。天羽郡』(上総国)『に同名郷があり』、『混同された可能性もある』とし、「蘆道」は『イホチと読み、伊保田村(現大多喜町)』、或いは、『中魚落村(現いすみ市)を遺称地とする説がある』とあり、「荒田(アラタ)」は『新田野村(現いすみ市)を遺称地とする意見がある』とし、「長狹(ノカサ)」は『長志村(現いすみ市)を遺称地とし、布施村(現いすみ市・御宿町)にかけてに比定されている』とあった。以下の「白羽(シラハ)」と「餘戸」は孰れも『未詳』とする。本話の主人公の出身地は、現在の千葉県いすみ市、或いは、千葉県夷隅郡御宿町ということになる(グーグル・マップ・データ)。なお、「說文」(「說文解字」(せつもんかいじ)略称。中国最古の部首別漢字字典。後漢の許慎の作。和帝の永元一二(一〇〇)年に成立し、建光元(一二一)年に許慎の子の許沖が安帝に奉じた)の「巴宕郡」は「とうきょぐん」(現代仮名遣)と読み、当該ウィキによれば、『後漢末から隋代にかけて、現在の四川省北東部に設置された』とあり、二一八年に『劉備により』、『巴郡の宕渠』(とうきょ:☜)『・宣漢・漢昌の』『県が分割されて、宕渠郡が立てられた』(以下、くだくだしいので中略するが、見られると判るが、その後の郡・州の名の中には何度も「渠」の字が復活している)。五八三年に『隋が郡制を廃すると、境陽郡は廃止されて、渠州』(☜)『に編入され』、六〇七年に『州が廃止されて郡が置かれると、渠州が宕渠郡と改称された。宕渠郡は流江・賨城・宕渠・咸安・隣水・墊江の』六『県を管轄した』。六一八年には、『唐により』、『宕渠郡は渠州と改められた』とあることから、「渠」という広域地名は同じ「巴」とともに「說文解字」が書かれるずっと以前、古代からの地名であることが判る。現在の四川省成都の東北の巴中市を中心とする広域(グーグル・マップ・データ)と考えてよいだろう。

「八幡宮」先の同二地区を調べた(グーグル・マップ・データ)が、有に十二社を数え、限定同定は出来ない。

「宿送り」宿駅から宿駅へと宿駅の責任者が確かな認(したた)め状を作り、順々に人や生物や物品を管理をしっかりして送ることを指す。「宿継ぎ」とも言う。私の知っている変わったケースでは、「伊勢参り」の「犬」や「豚」を送った事実がある

「千疊鋪」貴船はおろか、鞍馬寺にも、少なくとも現在は千畳敷の間はないから、これは、天狗界の彼らの山中の世界にあるそれであろう。

「非願」私はこれは「悲願」の誤記ではないと採る。則ち、当人の諸条件を鑑みるに、この「願」は、望みとして許されるものではない、則ち、「非(あら)ざる願」であると採る。さすれば、後の「協ふべからず」は「決して成就させてはならない部類の、とんでもないものだ!」という強い全否定である。だからこそ、その願いが、余りにも不埒なありうべきでない、ゆゆしきものであったからこそ、天狗は口の中で、その悪しき「願」が神仏鬼神の怒りを受けぬように、封じるため、直後に「口呪」しているのだと採る。

「合類集」『合類節用集」のこと。これは恐らく延宝八(一六八〇)年刊「合類節用集」であろう。一般名詞では、主に江戸時代に流布した分類体の実用辞書類を指す。

「狗賓」(ぐひん)は天狗の一種。狼の姿をしており、犬の口を持つとされる、天狗の眷属。当該ウィキによれば、『著名な霊山を拠点とする大天狗や小天狗に対し、狗賓は日本全国各地の名もない山奥に棲むといわれる。また』、『大天狗や烏天狗が修験道や密教などの仏教的な性格を持つのに対し、狗賓は山岳信仰の土俗的な神に近い。天狗としての地位は最下位だが、それだけに人間の生活にとって身近な存在であり、特に山仕事をする人々は、山で木を切ったりするために狗賓と密接に交流し、狗賓の信頼を受けることが最も重要とされていた』。『狗賓は山の神の使者とも』され、『人間に山への畏怖を与えることが第一の仕事とも考えられている。山の中で木の切り倒される音が響く怪異』である「天狗倒し」は「狗賓倒し」とも『呼ばれるほか』「天狗笑い」・「天狗礫(つぶて)」・「天狗火(び)」等も『狗賓の仕業といわれる。このように、山仕事をする人々の身近な存在のはずの狗賓が怪異を起こすのは、人々が自然との共存と山の神との信頼関係を続けるようにとの一種の警告といわれているが、あくまで警告のみであるため、狗賓が人間に直接的な危害を加える話は少なく、人間を地獄へ落とすような強い力も狗賓にはない』。『しかし』、『人間にとって身近といっても、異質な存在であることは変わりなく、度が過ぎた自然破壊などで狗賓の怒りを買うと』、『人間たちに災いが振りかかる結果になると信じられており、そうした怒りを鎮めるための祭りを日本各地で見ることができる(岐阜県や長野県において山の神に狗賓餅を供える習慣など)』。『また、愛知県、岡山県、香川県琴平地方では、一般的な天狗の呼称として狗賓の名が用いられている』。因みに、『広島県西部では、他の土地での低級な扱いと異なり、狗賓は天狗の中で最も位の高い存在として人々から畏怖されていた。広島市の元宇品に伝わる伝説では、狗賓は宮島の弥山に三鬼さんの眷属として住んでいると言われ、狗賓がよく遊びに来るという元宇品の山林には、枯れた木以外は枝一本、葉っぱ一枚も取ってはならない掟があったという』とある。

「三熱の苦」「ハクラウ」は本来の姿はニホンオオカミで、「畜生」である。「三熱」は、仏教で、「畜生道」にある畜類(亡魂)が絶え間なく受ける三つの激しい苦しみを指す。「熱風や熱砂で皮肉や骨髄を焼かれること」・「悪風が吹き起こって棲みかや体を覆うものなどを失うこと」・「金翅鳥(こんじちょう:ガルーダ。一種の巨大な鳥型の幻獣。両翼を開くと、三百三十六万里あり、金色で、口から火を吐き、龍をさえ獲って食うとされる)に子を食われること」の三つ。

『話す所、曾て妄ならず。「如何にも、天地間、この如き妖魔の一界、ある。」と覺ゆ。』私は松浦静山は、かなり現実的な近代人と認識しているが、ここでは、この作話症患者(但し、閉鎖系の中で矛盾が生じない点で、この農夫の話者「源左衞門」の知能は、相当に高いと考える。平田篤胤の「仙境異聞」(文政五(一八二二)年刊:神仙界を訪れ、呪術を身につけたとする寅吉なる若者の実際の聴取(篤胤はそのために数年間、自邸に住まわせた)になるもの)の主人公なんぞは、私が最も評価しない意識的詐欺、或いは、精神病質(高機能型粘着質或いは偏執質)者(都合の悪い所では、篤胤の質問に不機嫌になり、答えなかったするシーンがあり、多分に寅吉のそれは自身を売り出したいために意識的に仙界を、無理矢理)拡大したに過ぎないと考えている。彼のその後は、よく知らないが、出家したとか、湯屋(ゆうや)の主人になったとか言われているようだ)であるのに比して、こちらは静山の書き方が飾りがなく、話しそのもののリアルさ(中身ではない)が素直に幻想譚として楽しめるものに仕上がっていると言える。

2023/12/12

フライング単発 甲子夜話卷五十 8 千手院の妖

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

50-8 千手院(せんじゆゐん)の妖(えう)

 近頃、予が中(うち)に「草菴(さうあん)」と云ふ老醫、居(を)る。

「この七月十三日、根岸の方に往きて、上野の坊官吉川大藏卿《きやう》の母に値(あ)ひたるに、この人、云ひし。」

とて、傳話(つたへばなし)す。

「その前日、朝五時(あさいつつどき)頃のことにて、御簞笥町(おたんすちやう)と云ふ處、樂人(がくじん)東儀隼人佑(とうぎはやとのすけ)の隣(となり)に、眞言宗の「千手院」と云へる大(おほき)なる寺あり。この地に大木の樅(もみ)あるに、その樹杪(こずゑ)に、人、あり。枝間(しかん)に腰をかけ、儼然(げんぜん)たり。その體(てい)、顏、赤く、鼻、隆(たか)くして、世に「天狗」と謂ふ者の如し。視る人、大(おほい)に驚きたり。」

と。

 これ、眞(まこと)の「天狗」なるべし。

「視し人は、鵜川内膳と云(いふ)人の婢僕(ひぼく)、始めて見出し、これより、數人(すにん)見たり。」

とぞ。

■やぶちゃんの呟き

「吉川大藏」調べりゃ、判りそうな気もしたが、主役でないので、ヤメた。悪しからず。

「朝五時頃」不定時法で午前七時半前後。

「御簞笥町」文京区小石川五丁目(グーグル・マップ・データ)の内。なお、以下の段落成形はママ。後でリンクで示す東洋文庫版(恣意的正字化版)でも同じく改行をしてある(頭の字下げは、ない)。

「東儀隼人佑」東儀隼人佑季蕃(信頼出来る論文に見出した。名の読みは不詳)。「東儀家」は奈良時代から現在まで、実に千三百年の間、雅楽を世襲してきた楽家。

「千手院」不詳。現存する同名の真言宗の寺は、台東区根岸にあるが(グーグル・マップ・データ)、この寺は過去に別な場所にあったが、それは神田小柳町であり、前の「御簞笥町」とは一致しない。

「儼然」「厳然」に同じ。

「婢僕」下女。

ブログ2050000アクセス突破記念「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「にんじんのアルバム」+訳者岸田國士氏の「譯稿を終へて」(挾込)+本書書誌及び限定出版の記載+奥附 / 同前新ブログ版~完遂

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、本文を含め、拗音・促音は、一切、使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」(所謂、「トロン・ポワン」の真似だが、現在の我々から見ると、激しい違和感がある)であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 なお、本最終章は全三十章から成り、各章は、各左右ページの孰れかの初めから仕切り直しているため、各章の行空けが不規則にある。ここでは、意味がないので、二行空けとした。また、私の注は、アルバムを汚さないように、各章の後注とした。

 なお、これは、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、私のブログ「Blog鬼火~日々の迷走」が、本日、二十分程前、2,050,000アクセスを突破した記念として公開することとした。【二〇二三年十二月十六日午後十二時四十八分 藪野直史】]

 

Ninjinnoarubamu

 

     にんじんのアルバム

 

 

      

 

 たまたま何處かの人が、ルピツク一家の寫眞帖をめくつてみると、きまつて意外な顏をする。姉のエルネステイヌと兄貴のフエリツクスは、立つたり、腰かけたり、他處行きの着物を着たり、半分裸だつたり、笑つたり、額に八の字を寄せたり、種々樣々な姿で、立派な背景の中に納まつてゐる。

 「で、にんじんは――」

 「これのはね、極く小さな時のがあつたんですけれど・・・」と、ルピツク夫人は答へるのである――「それや可愛く撮(と)れてるもんですから、みんな持つてかれてしまつたんですよ。だから、一つも手許には殘つてないんです」

 ほんとのところは、未だ嘗て、にんじんのは撮つた例しがないのだ。

 

[やぶちゃん注:「撮つた」原本では“La vérité c’est qu’on ne fait jamais tirer Poil de Carotte.”で、この“ tirer ”という単語は「引き伸ばす」を筆頭に、多様な意味を持つが、「写真を撮る」の意味がある。しかも、原本では御覧の通り、この単語のみが斜体になっている。臨川書店『全集』の佃氏の訳では、正しく『にんじんをけっして「撮ら」せたりしないのだ。』と訳しておられる。この強調指示は、やはり訳でもほしいところである。]

 

 

      

 

  彼はにんじんで通つてゐるが、その通り方は、ひと通りではない。家のものが彼のほんとの名を云はうとしても、すぐにはちよつと浮かんで來ないのである。

 「どうしてにんじんなんてお呼びになるんです? 髮の毛が黃色いからですか」

 「性根(しようね)ときたら、もつと黃色いですよ」

と、ルピツク夫人は云ふ。

 

[やぶちゃん注:「性根(しようね)」のルビ「しようね」はママ。]

 

 

      

 

 その他の特徵を擧げれば――

 にんじんの面相は、まづまづ、人に好感をもたせるやうに出來てゐない。

 にんじんの鼻は、土龍の塚のやうに掘れてゐる。

 にんじんは、いくら掃除をしてやつても、耳の孔に、しよつちゆうパン屑を溜めてゐる。

 にんじんは、舌の上へ雪をのせ、乳を吸ふやうにそれを吸つて、溶かしてしまふ。

 にんじんは燵(ひうち)をおもちやにする。そして、步き方が下手で、佝僂かしらと思ふくらゐだ。

 にんじんの頸は、靑い垢で染まり、まるでカラアを着けてゐるうあうだ。

 要するに、にんじんの好みは一風變つてゐる。しかも、彼自身、麝香の香ひはしないのである。

 

[やぶちゃん注:「燧」火打石のこと。石英の一種。火打ち金と打ち合わせて火を起こすのに用いた。ここは一種「火遊び」の好きな惡ガキのニュアンスであろうか。火遊びの好きな子は、にんじんのようにお漏らしをする、といふことは、私の小さな頃にも、よく言つたものである。

「要するに、にんじんの好みは一風變つてゐる。しかも、彼自身、麝香の香ひはしないのである。」この部分、やや不審。原文は“Enfin Poil de Carotte a un drôle de goût et ne sent pas le muse.”であるが、この“et”に挟まれた両分は、有機的に結びついていると思われる。だから、“drôle de goût”は「変わった嗜好や趣味」ではなくて、「奇妙な風味や匂い」といふことであろう。即ち、「そうした『にんじん』という、この子の体(からだ)は、結局のところ、独特の、実に風変わりな、何とも言い難い、奇妙な匂いがするのである。いやいや! それは麝香なんて言うようなかぐわしい香りなんねてもんじゃあ、これ、ない。』といふ感じではなかろうか。

「麝香」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」の私の注を参照されたい。]

 

 

      

 

 彼は一番に起きる。女中と同時だ。で、冬の朝など、日が出る前に寢臺から飛び降り、手で時間を見る。指の先を時計の針に觸れてみるのである。

 珈琲とコヽアの用意ができる。すると、彼は、何の一片(きれ)でもかまはない、大急ぎでつめ込んでしまふ。

 

 

      

 

 誰かに彼を紹介すると、彼は顏を反向(そむ)け、手を後ろから差し伸べ、だんだん縮こまり、脚をくねらせ、そして、壁を引つ搔く。

 そこで、人が彼に、

 「接吻(キス)してくれないのかい、にんじん」

と、賴みでもすると、彼は答へる――

 「なに、それにや及ばないよ」

 

 

      

 

ルピツク夫人――にんじん、返事をおし、人が話しかけた時には・・・。

にんじん――アギア、ゴコン。

ルピツク夫人――ほらね、さう云つてあるだらう、子供はなんか頰ばつたまゝ、物を言ふんぢやないつて・・・。

 

[やぶちゃん注:「アギア、ゴゴン。」これでは分からない。私は中学二年生の時、倉田氏の訳で読んだときには、「にんじん」が習いたてのラテン語で答えたのかと思つたほどだ。これは原作は“Boui, banban.”とある。これは、食事中の「にんじん」が食い物を「頰(ばつ)たまゝ」、しかし、答えなければいけないと思い、“Oui,maman.”と言ったつもりのくぐもった声を、音訳したものであろう。]

 

 

      

 

 彼は、どうしても、ポケツトへ手をつつこまずにはいられない。ルピツク夫人がそばへ來ると、急いで引き出すのだが、いくら早くやつたつもりでも、遲すぎるのである。彼女はとうとうポケツトを縫(ぬ)いつけてしまつた――兩手をつつこんだまま。

 

 

      

 

 

 「たとへ、どんな目に遭はうと、噓を吐くのはよくない」と、懇ろに、名づけ親のピエエル爺さんはいふ――「こいつは卑しい缺點だ。それに、なんの役にも立たんだらう。だつて、どんなこつても、ひとりでに知れるもんだ」

 「さうさ」と、にんじんは答へる――「たゞ、時間が儲からあ」

 

[やぶちゃん注:「噓を吐く」戦後版で『嘘を吐(つ)く』とルビする。それを採る。]

 

 

      

 

 怠け者の兄貴、フエリツクスは、辛うじて學校を卒業した。

 彼は、のうのうとし、ほつとする。

 「お前の趣味は、一體なんだ」と、ルピツク氏は尋ねる――「もうそろそろ食つて行く道を決めにやならん年だ、お前も・・・。なにをやるつもりだい?」

 「えつ! まだやるのかい?」

と、彼は云ふ。

 

[やぶちゃん注:この全体は兄フェリックスのカリカチャアである。ルナールの実兄モーリス・ルナール(Maurice Renard)がモデル。成人して土木監督官となった。]

 

 

      

 

 みんなで罪のない遊戲をしてゐる。

 ベルト孃が、いろんなことを訊ねる番に當たつてゐた。

 にんじんが答へる――

 「それや、ベルトさんの眼は空色だから・・・」

 みんなが叫んだ――

 「素敵! 優しい詩人だわ」

 「うゝん、僕あ、眼なんか見ないで云つたんだよ」と、にんじんは云ふ――「なんていふことなしに云つてみたまでさ。今のは、慣用句だよ。修辭學の例にあるんだよ」

 

[やぶちゃん注:「ベルト孃」この少女は今までの本作中には出てこない。なお、最後の鼻につく言い振りから、既に寄宿学院「サン・マルク寮」に入って中学校へ通うようになってからの、帰郷の際のシークエンスととれる。]

 

      十一

 

 雪合戰すると、にんじんはたつた一人で一方の陣を承はる。彼は猛烈だ。で、その評判は遠くまで及んでゐるが、それは彼が雪の中へ石ころを入れるからである。

 彼は、頭を狙ふ。これなら、勝負は早い。

 氷が張つて、ほかのものが氷滑りをしてゐると、彼は彼れで、氷の張つてない草の上へ、別に小さな滑り場をこしらへる。

 天狗跳びをすると、彼は、徹頭徹尾、臺になつてゐる方がいゝと云ふ。

 人取りの時は、自由などに未練はなく、いくらでも捕まへさせる。

 そして、隱れんぼでは、あんまり巧(うま)く隱れて、みんなが彼のことを忘れてしまふ。

 

[やぶちゃん注:「彼れで」はママ。

「氷滑り」これの前者は原文を見るに、スケートではなく、斜面に出来た多くの者が楽しむ大きな自然の氷の「滑り台」のことと読める。

「天狗跳び」「馬跳び」のやうな遊びであろう。

「人捕り」「はないちもんめ」に類似した遊びか。]

 

 

      十二

 

 子供たちは丈(せい)くらべをしてゐる。

 一と目見たゞけで、兄貴のフエリツクスが、文句なしに、首から上他のものより大きい。しかし、にんじんと姉のエルネステイヌとは、一方がたかの知れた女の子だのに、これは肩と肩とを並べてみないとわからない。そこで、姉のエルネステイヌは、爪先で背伸びをする。ところが、にんじんは、狡いことをやる。誰にも逆ふまいとして、輕く腰をかゞめるのである。これで、心もち高低のあるところへ、ちよつぴり、差が加はるのである。

 

 

      十三

 

 にんじんは、女中のアガアトに、次のやうに忠告をする――

 「奧さんとうまく調子を合はせようと思ふなら、僕の惡口(わるぐち)を云つてやり給へ」

 これにも限度がある。

 といふのは、ルピツク夫人は、自分以外の女が、にんじんに手を觸れようものなら、承知しないのである。

 近所の女が、たまたま、彼を打(ぶ)つと云つて脅(おどか)したことがある。ルピツク夫人が駈けつける。えらい權幕だ。息子は、恩を感じ、もう、顏を輝やかしてゐる。やつと連れ戾される。

 「さあ、今度は、母さんと二人きりだよ」

と、彼女は云ふ。

 

 

      十四

 

 「猫撫聲! それや、どんな聲を云ふんだい?」

 にんじんは小さなピエエルに訊ねる。このピエエルは、おつ母さんに甘やかされてゐるのである。

 おほよそ合點が行つたところで、彼は叫ぶ――

 「僕あ、そんなことより、一度でいゝから、馬鈴薯の揚げたのを、皿から、手づかみで食つてみたい。それから、桃を半分、種のある方だぜ、あいつをしやぶつてみたいよ」

 彼は考へる――

 「若し母さんが、僕を可愛くつて可愛くつて食べちまふつていふんだつたら、きつと眞つ先に、鼻つ柱へ嚙りつくだらう」

 

[やぶちゃん注:「ピエエル」この少年は今までの本作中には出てこない。]

 

 

      十五

 

 時々は、姉のエルネスチイヌも兄貴のフエリツクスも、遊び倦きると、自分たちの玩具を氣前よくにんじんに貸してやる。にんじんはかうして、めいめいの幸福を一部分づゝ取つて、愼ましく自分の幸福を組み立てるのである。

 で、彼は、決して、餘り面白く遊んでゐるやうな風は見せない。玩具を取返されるのが怖いからだ。

 

[やぶちゃん注:「玩具」戦後版のルビを参考にするなら、「おもちや」である。]

 

 

      十六

 

にんじん――ぢや、僕の耳、そんなに長すぎるなんて思はない?

マチルド――變な恰好だと思うふわ。どら、貸してごらんなさい。こんなかへ泥を入れで、お菓子を作りたくなるわ。

にんじん――母(かあ)さんがこいつを引つ張つて、熱くしときさへすれや、ちやんとお菓子が燒けるよ。

 

 

      十七

 

 

 「文句を云ふのはおよし! 何時までもうるさいね。ぢや、お前は、あたしより父さんの方が好きなんだね」

と、ルピツク夫人は、折にふれ、云ふのである。

 「僕は現在のまゝさ。なんにも云はないよ。たゞ、どつちがどつちより好きだなんてことは、絕對にない」

と、にんじんの心の聲が應へる。

 

[やぶちゃん注:最後の心内語は二重鍵括弧が普通だが、最後の一行で読者を裏切る効果が抜群で、このままでよい。]

 

 

      十八

 

ルピツク夫人――なにしてるんだい、にんじん?

にんじん――なにつて、知らないよ。

ルピツク夫人――さういふのは、つまり、また、ろくでもないことをしてるつていふこつた。お前は、一體、何時でも、知つてゝするのかい、そんなことを?

にんじん――かうしてないと、なんだか淋しいんだもの。

 

[やぶちゃん注:不思議なシークエンスである。最後の「にんじん」の台詞は、「僕は、何時でも、自分でも判らないろくでもないことをしていないと、「なんだか淋しいんだもの。」と応じているのである。こういう認識は通常の見当識が僅かに欠けている境界例的な発達障害の可能性を「にんじん」に私は感じているのである。]

 

 

      十九

 

 母親が自分のほうを向いて笑つてゐると思ひ、にんじんは、うれしくなり、こつちからも笑つてみせる。

 が、ルピツク夫人は、漠然と、自分自身に笑ひかけてゐたのだ。それで、急に、彼女の顏は、黑すぐりの眼を並べた暗い林になる。

 にんじんは、どぎまぎして、隱れる場所さへわからずにゐる。

 

[やぶちゃん注:「黑すぐり」「木の葉の嵐」の私の同注を參照。「クロスグリの実のような恐ろしい闇に似た濃い紫色の」眼の色の謂い。海外版の心霊映像見たようにキビが悪い。]

 

 

      二十

 

 「にんじん、笑ふ時には、行儀よく、音を立てないで笑つておくれ」

 と、ルピツク夫人は云ふ。

 「泣くなら泣くで、どうしてだか、それが云へないつて法はない」

 と、彼女は云ふ。

 彼女は、また、かうも云ふ――

 「あたしの身にもなつて下さいよ。あの子と來たら、ひつぱたいたつて、もうきゆうとも泣きやしませんよ」

 

 

      二十一

 

 なほ、彼女はかう云ふのである――

 ――空に汚點(しみ)ができたり、道の上に糞(ふん)でも落ちてると、あの子は、これや自分のものだと思つてるんです。

 ――あの子は、頭の中で何か考へてると、お尻の方は、お留守ですよ。

 ――高慢なことゝ云つたら、人が面白いつて云つてくれゝば、自殺でもし兼ねませんからね。

 

 

      二十二

 

 事實、にんじんは、水を容れたバケツで自殺を企てる。彼は、勇敢に、鼻と口とを、その中へぢつと突つ込んでゐるのである。その時、ぴしやりと、何處からか手が飛んで來て、バケツが靴の上へひつくり返る。それで、にんじんは、命を取り止めた。

 

[やぶちゃん注:「水を入れたバケツで自殺を企てる」これは「自分の意見」の「庭の井戶」同樣(同章の注を參照されたい)、そうして、本作最後のルナールの父の自殺と、母の井戸へ落下して溺死する、不吉な「自死」「死」への偶然の凶兆的伏線である。]

 

 

      二十三

 

 時として、ルピツク夫人は、にんじんのことを、かういふ風に云ふ――

 「あれや、あたしそつくりでね、毒はないんですよ。意地が惡いつていふよりや、氣が利かないつて方ですし、それに、大事(おほごと)を仕でかさうつたつて、あゝ尻が重くつちや」

 時として、彼女は、あつさり承認する――

 若し彼に、けちな蟲さへつかなければ、やがては、羽振りを利かす人間になるだらうと。

 

[やぶちゃん注:「けちな蟲さへつかなければ」この部分は、私は「あばずれ女に骨の髄まで吸われちまうことさえなけりゃ」といふ意味と採る。そして、そこでオーヴァーラップしてくるのが、ルナールの「にんじん」の執筆動機となった、ルナールの妻への強い敵意である。本作冒頭の「鷄」の「ルピツク夫人」の私の注を参照されたい。

 

 

      二十四

 

 「若し、何時か、兄貴のフエリツクスみたいに、誰かゞお年玉に木馬を吳れたら、おれは、それへ飛び乘つて、さつさと逃げちまふ」

 これが、にんじんの空想である。

 

 

      二十五

 

 彼にとつて一切が屁の河童だといふことを示すために、にんじんは、外へ出ると口笛を吹く。が、後をつけて來たルピツク夫人の姿が、ちらりと見える。口笛は、ぱつたり止まる。恰も彼女が、一錢の竹笛を齒で嚙み破つたかの如く、そいつは痛ましい。

 それはさうと、嚏(くさめ)が出る時、彼女がひよつこり現はれたゞけで、それが止つてしまふことも事實だ。

 

 

      二十六

 

 彼は、父親と母親の間で、橋渡しを勤める。

 ルピツク氏は云ふ――

 「にんじん、このシャツ、釦が一つ脫(と)れてる」

 にんじんは、そのシヤツをルピツク夫人のところへ持つて行く。すると、彼女は云ふ――

 「お前から、指圖なんかされなくつたつていゝよ」

 しかし、彼女は、針箱を引寄せ、釦を縫ひつける。

 

 

      二十七

 

 「これで、父さんがゐなかつたら、とつくの昔、お前は、母さんをひどい目に遭はしてるとこだ。この小刀を心臟へ突き刺して、藁の上へ轉がしといたにきまつてる」

と、ルピツク夫人は叫ぶ。

 

 

      二十八

 

 「洟をかみなさい!」

 ルピツク夫人は、ひつきりなしに云ふ。

 にんじんは、根氣よく、ハンケチの表側へかみ出す。間違つて裏側へやると、そこをなんとか誤魔化す。

 なるほど、彼が風邪を引くと、ルピツク夫人は、彼の顏へ蠟燭の脂を塗り、姉のエルネスチイヌや兄貴のフエリツクスが、しまいに妬けるほど、べたべたな顏にしてしまふ。それでも、母親は、にんじんのために、特にはう附け加へる――

 「これや、どつちかつて云へば、惡いことぢやなくつて、善いことなんだよ。頭ん中の腦が淸(せい)々するからね」

 

[やぶちゃん注:「洟」「はな」。]

 

 

      二十九

 

 ルピツク氏が、今朝から彼を揶揄ひ通しなので、つい、にんじんは、どえらいことを云つてしまつた。

 「もう、うるさいツたら、馬鹿野郞!」

 遽かに、周圍の空氣が凍りつき、眼の中に、火の塊ができたやうに思はれる。

 彼は口の中でぶつぶつ云ふ。危(あぶ)ないと見たら、地べたへ潜り込む用意をしてゐる。

 が、ルピツク氏は、何時までも、何時までも、彼を見据えてゐる。しかも、危(あぶ)ない氣配は見えない。

 

[やぶちゃん注:「遽かに」「にはかに」。

「周圍」戦後版は『まわり』とルビする。それを採る。]

 

 

      三十

 

 姉のエルネステイヌは、間もなくお嫁に行くのである。で、ルピツク夫人は、彼女に、許婚と散步することを許す。但し、にんじんの監視の下にである。

 「先へ行きなさいよ。駈け出したつていゝわ」

 彼女は、かう云ふ。

 にんじんは先へ步く。一所懸命に駈け出しては見る。犬がよくやるあの走り方だ。がうつかり、速度を緩めやうものなら、彼の耳に慌たゞしい接吻(キス)の音が聞こえて來るのである。

 彼は咳拂ひをする。

 神經が高ぶつて來る。丁度、村の十字架像の前で、彼は帽子を脫いだ序に、そいつを地べたに叩きつけ、足で踏み躪り、そして叫ぶ――

 「おれなんか、絕對に、誰も愛してくれやしない!」

 それと同時に、ルピツク夫人が、しかもあの素捷(すばや)い耳で、唇のへんに微笑を浮べながら、塀(へい)の後(うし)ろから、物凄い顏を出した。

 すると、にんじんは、無我夢中で附け足す――

 「それや、母さんは別さ」

 

[やぶちゃん注:「許婚」「いひなづけ」。この姉「エルネステイヌ」のモデルであるアメリー・ルナール(Amélie Renard:ジュールより五歳年上)は一八八三年七月(当時のジュールは満十九歳)に、フランスの中南東部のロワール県県庁所在地であるサン=テティエンヌ(Saint-Étienne)のリボン卸売り商人であったアルベール・ミランと結婚している。なお、この年の九月以降には、ジュールは本格的な執筆活動をし始めてもいる。さても――水を差すようだが――この前年としても、既に十八歳で、この最後を括る小話にしては、自身がモデルとしては、あまりに大人になっちまった「にんじん」に過ぎ、創作性が強いことが推察されるのである。

「監視の下に」戦後版を見るに、「かんしのもとに」である。

「がうつかり」ママ。戦後版は『が、うっかり』となっているから、誤植(脱記号(読点))の可能性が高いか。

   *

 本章全体の原本は、ここから。

 なお、原文の最後の“FIN”と猫の挿絵は、戦後版にはなく、昭和四五(一九七〇)年明治図書刊の『明治図書中学生文庫14』の倉田清訳にもないもので、「Internet archive」の原本(但し、一九〇二年版)の本文パートの最後(ここ)にあるものを用いた(後者の猫の画像はscreen shot で読み込んだものをトリミングし、ぼやけているのを、かなりの回数、補正したものである)。

 

 

 

 

    L’Album de Poil de Carotte

 

    I

 

   Si un étranger feuillette l’album de photographies des Lepic, il ne manque pas de s’étonner. Il voit sœur Ernestine et grand frère Félix sous divers aspects, debout, assis, bien habillés ou demi-vêtus, gais ou renfrognés, au milieu de riches décors.

   – Et Poil de Carotte ?

   – J’avais des photographies de lui tout petit, répond madame Lepic, mais il était si beau qu’on me l’arrachait, et je n’ai pu en garder une seule.

   La vérité c’est qu’on ne fait jamais tirer Poil de Carotte.

 

    II

 

   Il s’appelle Poil de Carotte au point que la famille hésite avant de retrouver son vrai nom de baptême.

   – Pourquoi l’appelez-vous Poil de Carotte ? À cause de ses cheveux jaunes ?

   – Son âme est encore plus jaune, dit madame Lepic.

 

    III

 

   Autres signes particuliers :

   La figure de Poil de Carotte ne prévient guère en sa faveur.

   Poil de Carotte a le nez creusé en taupinière.

   Poil de Carotte a toujours, quoi qu’on en ôte, des croûtes de pain dans les oreilles.

   Poil de Carotte tète et fait fondre de la neige sur sa langue.

   Poil de Carotte bat le briquet et marche si mal qu’on le croirait bossu.

   Le cou de Poil de Carotte se teinte d’une crasse bleue comme s’il portait un collier.

   Enfin Poil de Carotte a un drôle de goût et ne sent pas le musc.

 

    IV

 

   Il se lève le premier, en même temps que la bonne. Et les matins d’hiver, il saute du lit avant le jour, et regarde l’heure avec ses mains, en tâtant les aiguilles du bout du doigt.

   Quand le café et le chocolat sont prêts, il mange un morceau de n’importe quoi sur le pouce.

 

    V

 

   Quand on le présente à quelqu’un, il tourne la tête, tend la main par-derrière, se rase, les jambes ployées, et il égratigne le mur.

   Et si on lui demande :

   – Veux-tu m’embrasser, Poil de Carotte ?

   Il répond :

   – Oh ! ce n’est pas la peine !

 

    VI

 

     MADAME LEPIC

   Poil de Carotte, réponds donc, quand on te parle.

     POIL DE CAROTTE

   Boui, banban.

     MADAME LEPIC

   Il me semble t’avoir déjà dit que les enfants ne doivent jamais parler la bouche pleine.

 

    VII

 

Il ne peut s’empêcher de mettre ses mains dans ses poches. Et si vite qu’il les retire, à l’approche de madame Lepic, il les

retire trop tard. Elle finit par coudre un jour les poches, avec les mains.

 

    VIII

 

   – Quoi qu’on te fasse, lui dit amicalement parrain, tu as tort de mentir. C’est un vilain défaut, et c’est inutile, car toujours tout se sait.

   – Oui, répond Poil de Carotte, mais on gagne du temps.

 

    IX

 

   Le paresseux grand frère Félix vient de terminer péniblement ses études.

   Il s’étire et soupire d’aise.

   – Quels sont tes goûts ? lui demande M. Lepic. Tu es à l’âge qui décide de la vie. Que vas-tu faire ?

   – Comment ! Encore ! dit grand frère Félix.

 

    X

 

   On joue aux jeux innocents.

   Mlle Berthe est sur la sellette :

      – Parce qu’elle a des yeux bleus, dit Poil de Carotte.

   On se récrie :

   – Très joli ! Quel galant poète !

   – Oh ! répond Poil de Carotte, je ne les ai pas regardés. Je dis cela comme je dirais autre chose. C’est une formule de convention, une figure de rhétorique.

 

    XI

 

   Dans les batailles à coups de boules de neige, Poil de Carotte forme à lui seul un camp. Il est redoutable, et sa réputation s’étend au loin parce qu’il met des pierres dans les boules.

   Il vise à la tête : c’est plus court.

   Quand il gèle et que les autres glissent, il s’organise une petite glissoire, à part, à côté de la glace, sur l’herbe.

   À saut de mouton, il préfère rester dessous, une fois pour toutes.

   Aux barres, il se laisse prendre tant qu’on veut, insoucieux de sa liberté.

   Et à cache-cache, il se cache si bien qu’on l’oublie.

 

    XII

 

   Les enfants se mesurent leur taille.

   À vue d’œil, grand frère Félix, hors concours, dépasse les autres de la tête. Mais Poil de Carotte et s œur Ernestine, qui pourtant n’est qu’une fille, doivent se mettre l’un à côté de l’autre. Et tandis que sœur Ernestine se hausse sur la pointe du pied, Poil de Carotte, désireux de ne contrarier personne, triche et se baisse légèrement, pour ajouter un rien à la petite idée de différence.

 

    XIII

   Poil de Carotte donne ce conseil à la servante Agathe :

   – Pour vous mettre bien avec madame Lepic, dites-lui du mal de moi.

   Il y a une limite.

   Ainsi madame Lepic ne supporte pas qu’une autre qu’elle touche à Poil de Carotte.

   Une voisine se permettant de le menacer, madame Lepic accourt, se fâche et délivre son fils qui rayonne déjà de gratitude.

   – Et maintenant, à nous deux ! lui dit-elle.

 

    XIV

 

   – Faire câlin ! Qu’est-ce que ça veut dire ? demande Poil de Carotte au petit Pierre que sa maman gâte.

   Et renseigné à peu près, il s’écrie :

   – Moi, ce que je voudrais, c’est picoter une fois des pommes frites, dans le plat, avec mes doigts, et sucer la moitié de la pêche où se trouve le noyau.

   Il réfléchit :

   – Si madame Lepic me mangeait de caresses, elle commencerait par le nez.

 

    XV

 

   Quelquefois, fatigués de jouer, sœur Ernestine et grand frère Félix prêtent volontiers leurs joujoux à Poil de Carotte qui, prenant ainsi une petite part du bonheur de chacun, se compose modestement la sienne.

   Et il n’a jamais trop l’air de s’amuser, par crainte qu’on ne les lui redemande.

 

    XVI

 

     POIL DE CAROTTE

   Alors, tu ne trouves pas mes oreilles trop longues ?

     MATHILDE

   Je les trouve drôles. Prête-les-moi ? J’ai envie d’y mettre du sable pour faire des pâtés.

     POIL DE CAROTTE

   Ils y cuiraient, si maman les avait d’abord allumées.

 

    XVII

 

   – Veux-tu t’arrêter ! Que je t’entende encore ! Alors tu aimes mieux ton père que moi ? dit, çà et là, madame Lepic.

   – Je reste sur place, je ne dis rien, et je te jure que je ne vous aime pas mieux l’un que l’autre, répond Poil de Carotte de sa voix intérieure.

 

    XVIII

 

     MADAME LEPIC

   Qu’est-ce que tu fais, Poil de Carotte ?

     POIL DE CAROTTE

   Je ne sais pas, maman.

     MADAME LEPIC

   Cela veut dire que tu fais encore une bêtise. Tu le fais donc toujours exprès ?

     POIL DE CAROTTE

   Il ne manquerait plus que cela.

 

    XIX

 

   Croyant que sa mère lui sourit, Poil de Carotte, flatté, sourit aussi.

   Mais madame Lepic qui ne souriait qu’à elle-même, dans le vague, fait subitement sa tête de bois noir aux yeux de cassis.

   Et Poil de Carotte, décontenancé, ne sait où disparaître.

 

    XX

 

   – Poil de Carotte, veux-tu rire poliment, sans bruit ? dit madame Lepic.

   – Quand on pleure, il faut savoir pourquoi, dit-elle.

   Elle dit encore :

   – Qu’est-ce que vous voulez que je devienne ? Il ne pleure même plus une goutte quand on le gifle.

 

    XXI

 

   Elle dit encore :

   – S’il y a une tache dans l’air, une crotte sur la route, elle est pour lui.

   – Quand il a une idée dans la tête, il ne l’a pas dans le derrière.

   –Il est si orgueilleux qu’il se suiciderait pour se rendre intéressant.

 

    XXII

 

   En effet Poil de Carotte tente de se suicider dans un seau d’eau fraîche, où il maintient héroïquement son nez et sa bouche, quand une calotte renverse le seau d’eau sur ses bottines et ramène Poil de Carotte à la vie.

 

    XXIII

 

   Tantôt madame Lepic dit de Poil de Carotte :

   – Il est comme moi, sans malice, plus bête que méchant et trop cul de plomb pour inventer la poudre.

   Tantôt elle se plaît à reconnaître que, si les petits cochons ne le mangent pas, il fera, plus tard, un gars huppé.

 

    XXIV

 

   – Si jamais, rêve Poil de Carotte, on me donne, comme à grand frère Félix, un cheval de bois pour mes étrennes, je saute dessus et je file.

 

    XXV

 

   Dehors, afin de se prouver qu’il se fiche de tout, Poil de Carotte siffle. Mais la vue de madame Lepic qui le suivait, lui coupe le sifflet. Et c’est douloureux comme si elle lui cassait, entre les dents, un petit sifflet d’un sou.

   Toutefois, il faut convenir que dès qu’il a le hoquet, rien qu’en surgissant, elle le lui fait passer.

 

    XXVI

 

   Il sert de trait d’union entre son père et sa mère. M. Lepic dit :

   – Poil de Carotte, il manque un bouton à cette chemise.

   Poil de Carotte porte la chemise à madame Lepic, qui dit :

   – Est-ce que j’ai besoin de tes ordres, pierrot ?

   mais elle prend sa corbeille à ouvrage et coud le bouton.

 

    XXVII

 

   – Si ton père n’était plus là, s’écrie madame Lepic, il y a longtemps que tu m’aurais donné un mauvais coup, plongé ce couteau dans le cœur, et mise sur la paille !

 

    XXVIII

 

   – Mouche donc ton nez, dit madame Lepic à chaque instant.

   Poil de Carotte se mouche, inlassable, du côté de l’ourlet. Et s’il se trompe, il rarrange.

   Certes, quand il s’enrhume, madame Lepic le graisse de chandelle, le barbouille à rendre jaloux sœur Ernestine et grand frère Félix. Mais elle ajoute exprès pour lui :

   – C’est plutôt un bien qu’un mal. Ça dégage le cerveau de la tête.

 

    XXIX

 

   Comme M. Lepic le taquine depuis ce matin, cette énormité échappe à Poil de Carotte :

   – Laisse-moi donc tranquille, imbécile !

   Il lui semble aussitôt que l’air gèle autour de lui, et qu’il a deux sources brûlantes dans les yeux.

   Il balbutie, prêt à rentrer dans la terre, sur un signe.

   Mais M. Lepic le regarde longuement, longuement, et ne fait pas le signe.

 

    XXX

   Sœur Ernestine va bientôt se marier. Et madame Lepic permet qu’elle se promène avec son fiancé, sous la surveillance de Poil de Carotte.

   – Passe devant, dit-elle, et gambade !

   Poil de Carotte passe devant. Il s’efforce de gambader, fait des lieues de chien, et s’il s’oublie à ralentir, il entend, malgré lui, des baisers furtifs.

   Il tousse.

   Cela l’énerve, et soudain, comme il se découvre devant la croix du village, il jette sa casquette par terre, l’écrase sous son pied et s’écrie :

   – Personne ne m’aimera jamais, moi !

   Au même instant, madame Lepic, qui n’est pas sourde, se dresse derrière le mur, un sourire aux lèvres, terrible.

   Et Poil de Carotte ajoute, éperdu :

   – Excepté maman.

 

 

                                 FIN

 

 

Chat

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、底本の表紙の次の見返しに貼り付けにされてあるもの。ここと、ここ。]

 

   譯 稿 を 終 へ て

 

     (此の一文は考ふるところあつて特に挾込となす)          

 

 この飜譯は全く自分の道樂にやつた仕事だと云つていゝ。初めはのろのろ、しまい[やぶちゃん注:ママ。]には大速力で、足かけ五年かゝつた。創作月刊、文藝春秋、作品、新科學的文藝、詩・現實、新靑年、改造等の諸雜誌に少しづゝ發表した。

 最初に斷つておきたいことは、この小說を作者自身が脚色して同じ題の戲曲にした、それを、畏友山田珠樹君がもう七八年前、「赤毛」といふ題で飜譯をし、これが相當評判になつて、今日ルナアルの「ポアル・ド・キヤロツト」は「赤毛」といふ譯名で通つてゐるかも知れないことだ。僕は、「赤毛」といふ題も結構であると思ふが、元來譯しにくい原名であるから、山田君の「赤毛」は山田君の專賣にしておいた方がよいと思ひ、湯ら異を樹てる[やぶちゃん注:「たてる」。]意味でなく、自分は自分の流儀に譯してみたまでゞある。原名を直譯すれば「人參色の毛」である。

 初版の刊行は千八百九十四年、作者三十一歲の時である。

 この小說を書き出したのは千八百九十年で、一章づゝ次ぎ次ぎに雜誌や新聞へのせた。また、ある部分は、他の形式で本にしたこともある。初版には「壺」「パンのかけら」「髮の毛」「自分の意見」「書簡」等の項目はまだ加はつてゐない。從つて、千八百九十七年版以後のものが、現在の完成した形である。

 戲曲としては、千九百年三月、アントワアヌ座でこれを上演した。

 映畫になつたのは無論ずつと後のことだが、最近デュヴイヴイエの監督で發聲映畫になり、この秋日本でも封切される筈だ。

 「にんじん」は作者自身の肖像であることは、作者の日記を見ればわかる。

 日記の中で、彼は、この作品に少しばかり顰め面を見せていゐる。ルピツク婦人の老い朽ちる有樣を眼のあたりに見る「にんじん」四十歲の心境であらう。

 ルナアルは、この書を、その二人の子供、息子フアンテツクと娘バイイ(共に愛稱)とに獻げてゐる譯者も亦、この譯書を自分の二人の娘に贈りたく思ふ。

 

  昭和八年七月

 

[やぶちゃん注:思うに、戦後版が有意にルビが増え、漢字だったものがひらがなに多く書き代えられているのは、恐らく、岸田氏の二人の娘さんが、「読めない字が多いわ。」と不平したことからの仕切り直しのように私は感じた。なお、戦後版(リンクは私のサイト版一括HTML版)の最後の岸田国士氏の解説『「にんじん」とルナアルについて』を未読の方は、是非、読まれたい。

「山田珠樹君がもう七八年前、「赤毛」といふ題で飜譯をし」国立国会図書館デジタルコレクションの「赤毛」(『フランス文學の叢書 劇の部』第九篇(ルナアル 著・山田珠樹訳・一五(一九二六)年春陽刊)がそれ。岸田氏の本書「にんじん」が出た翌昭和九(一九三四)年にも改訳版があり、そちらも同デジタルコレクションで視認出来る(白水社刊「商船テナシチー」と「赤毛―戯曲にんじん―」のカップリング版)。山田珠樹(明治二六(一八九三)年~昭和一八(一九四三)年)はフランス文学者で、東京帝国大学助教授及び司書官を務めた。フランス文学者として辰野隆・鈴木信太郎らと東大仏文科を興し、また、司書官としては関東大震災後の東大図書館復興に力を尽くした。死の主因は肺結核のようである。この作品も電子化したい気持ちに駆られてきた。]

 

[やぶちゃん注:以下は、本文最後の左ページにある本書書誌(使用された紙の仕様を含む)を含む、限定出版の記載。下方の限定番号のアラビア数字はナンバリングによる手押し。]

 

 

ジユウル ルナアル作岸田

國士譯「にんじん」は越前國

今立郡岡本村 杉原半四郞

鼈漉「程村」鳥の子刷を貳拾

五部(第一刷より第貳拾五     122 

册)極上質紙刷を壹千部(1

より1000)他に非賣本各若

干部を刊行し玻璃版刷原作

者肖像壹葉を各册に附錄す

 

 

[やぶちゃん注:以下、奥附。上部に「岸田」の朱印。下方に以下。なるべく、実際の字配に似せて電子化した。]

 

 

發  行   福   岡    淸

印  刷   岩 本  米 次 郞

        森  田     巖

製  本   中  野  和  一

        麻  生  勇 助

譯   者 岸  田  國  士

 

東京都神田區小川町三丁目八番地

發行所    白    水    社

 

東京都赤坂區靑山南町二丁目十六番地

印刷所    愛    光    堂

 

昭和八年七月二十五日印刷同年八月

八日發行    頒價參圓五拾錢

 

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「手を借る」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 手を借る【てをかる】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻一〕小日向辺に住みける水野家祖父の代、祐筆しける家来、或日門前に居《をり》けるに、一人の出家通りけるが、右祐筆に向ひ、今日拠《よんどこ》ろなく書の会に出侍る、その許の手を貸し給はるべしと言ひける故、手を貸し候とて如何様に致し候事やと尋ねければ、只両三日貸し候と申す儀、承知賜はり候へば宜しき由申しける故、怪しき事とは思ひながら、承知の由答へけるが、程なく主人の用事有りて筆を取りけるが、誠に一字を引き候事もならざれ大きに驚き、主人よりも尋ねける故、しかじかの事有りしと申しけるが、両三日過ぎてかの奇僧来りて、扨(さて)々御影《おかげ》にて事を遂げ忝《かたじけな》き由、何も礼の品もなき由にて、懐中より何か紙に認(したた)め候ものを出し、これは若(も)し近隣火災の節、この品を床などに掛け置き候はば、火災を遁(のが)るべしと言ひて立去りぬ。主人へかうかうの訳を告げて、右認めしものは主人表具して所持致しける。その後は右祐筆も元の通り手跡も出来ける由。その後近隣度(たび)々火災有りしが、その度々右掛物を掛け置きしに、水野家は遁れけるが、或時蔵へ仕舞ひ置き、掛け候間《あひだ》もなかりければ、家居《いへゐ》は残らず焼けて、怪《あや》しの蔵なれども残りけるとかや。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 怪僧墨蹟の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「出羽の影波」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 出羽の影波【でわのかげなみ】 〔梅翁随筆巻四〕武蔵野に有りといふ迯水《にげみづ》の事は、『夫木集』に俊頼のうたあり。世の普くしる事にして珍らしからず。陸奥出羽の辺りにても、春夏晴天のころ、野中に行く人をはるかに見れば、大なる波おこり水玉を飛ばすが如し。大海を越ゆるにさも似たり。近くよりて見れば、ただ白砂の道にて、いさゝか水の気《け》なし。所の人はこれを影波と申しならはしけり。これもにげ水の類ひなるべし。

[やぶちゃん注:はい。その通り。当該ウィキを引いておく(注記号は除去した)。『逃げ水(にげみず、英語:inferior mirageroad mirage)とは、風がなく晴れた暑い日に、アスファルトの道路などで、遠くに水があるように見える現象。「地鏡」ともいう。夏の風物詩の』一『つ』。『下位蜃気楼の一種で、実際の位置より下にものがあるように見える。条件として、地表面に近いほど』、『屈折率が低くなるような空気の層が形成されることが必要である。光は屈折率の大きい冷たい空気の方向へ曲がる性質を持っており、対象物体を出た光は』、『下へカーブを描いて視界に入るため、実像の下に像が映って地面が濡れている様に見える』。『近づくと遠のき、まるで水が逃げていくように見えることから、逃げ水の名が付いた』。「散木奇歌集」(大治三(一一二八)年頃成立。本文に出た源俊頼の晩年の自詠を集大成したもので、というより、本文で「夫木和歌抄」所収の一首というのも以下の一首のことである)に、

 東路に有といふなる逃げ水の

   逃げのがれても世を過ぐすかな

『とあるほか、俳句の春の季語として用いられる』とある。

「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらと、次のコマで正字表現のものが見られる。標題は『○出羽の影波』。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鉄砲自殺」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鉄砲自殺【てっぽうじさつ】 〔一話一言巻四十五〕ちかき頃にや、秩父辺《へん》の百姓みづから鉄砲をもて、己が胸をうちて死す。その書置に云く、うき世にあき果申候。

[やぶちゃん注:「一話一言」は複数回既出既注。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いた大田南畝著の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻五(明治四一(一九〇八)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの総標題は『○一言奇談』で、本短篇はその冒頭に配されてある。則ち、この箇所は本篇を含めて全三十条からなる、文字通り、ごく短い寸話型奇談で、総てではないが、時に南畝の寸評が後に附されてある。条々字体には関連性はない、謂わば、「ショート・ショート」系奇談のアンソロジー・パートである。本条では、それがカットされている。「奇談異聞」を蒐集するとする本書で、しばしば行っている恣意的な排除であるが、私はこれは作者にとって失礼であり、たった一行を省略することの意味が判らない点で、甚だ不快である。敢えて、ここで、上記リンク先を元にこの一条だけの全文を正規表現で示すこととする。

   *

  ○一言奇談

○ちかき頃にや、秩父邊の百姓みづから鉄砲をもて己が胸をうちて死す、その書置に云く、うき世にあき果申候

  匹夫不可奪志咄々西行長明一農父ニ愧ベシ

   *

漢文脈の南畝の添え辞は公案の答えに似せた感慨。訓読すると、

  匹夫 志(こころざし)を奪ふべからず

  咄咄(とつとつ) 西行・長明 一農夫(いちのうふ)に愧(は)づべし

   *

「咄咄」は驚いたり、悔しがったりするさま。また、そのために舌打ちをしたり、声を発したりするさま。ここは、後者で、

   *

 匹夫たる彼は

 下らぬ浮き世を あっさりと捨て

 あざやかに死に赴いたのだ

 その志(こころざし)を

 あれこれ 批評・批判し

 退(しりぞ)け否定することなどは

 これ 出来ぬ

 

 いや 寧ろ

 西行よ 長明よ

 この一農夫に愧(は)じねばならぬ

    *

といったニュアンスであろう。]

2023/12/11

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「手児崎大明神」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 手児崎大明神【てごさきだいみょうじんのまつ】 〔閑窻瑣談巻四〕下総国《しもふさのくに》庄佐郡《しやうさごほり》飯岡村《いをかむら》に手児崎《てこさき》大明神といふ社《やしろ》あり。この社地の竹木を切る事を、昔より禁じありけるが、社に近き所に大木《たいぼく》の松ありて、社の屋上《やね》[やぶちゃん注:国立国会図書館版では表記を『屋根』とするが、吉川弘文館『随筆大成』版は同じく『屋上』とし、しかも『やね』と訓じてある。]に蓋《おほ》ひかゝり、落葉《おちば》のつもりて屋上《やね》を腐らす故に、杣男(そまを)[やぶちゃん注:国立国会図書館本も吉弘版も読みは『そまをとこ』とする。]等《ら》もこれを知るをもて、社家《しやけ》に乞うて、その松を切倒《きりたふ》し、価《あたひ》にせんとはかり、或日の朝より夕《ゆふべ》にいたり切倒しけるが、土地広ければ、梢の枝も払はで其儘に倒し置き、翌日《あす》こそ材木に造らんと、その夜《よ》は捨てて帰り、翌朝《よくてう》に成り行き看れば、這《こ》は如何に、切りたる松の見えざれば、杣人《そまひと》は大いに驚き、四辺《あたり》を見れども更に蔭もなし。然《さ》ればとて切口のさし渡し三尺余《さんしやくよ》の大木なれば、五人七人の所為《わざ》にて動かす事なるべきにあらずと、種々《いろいろ》に思案し、其由を社家にも告げて尋ねしに、不思議なるかな、彼《かの》松は社の後《うしろ》なりける楠《くすのき》の、根より三四尺上《あが》りし幹の横の所に付きて、自然《じねん》に生ひたる如く、松の葉は青々《せいせい》として変る事なく、楠へ松を継木な《つぎき》なせし形なれど、松の幹の切口楠より大《おほ》いなれば、楠の幹の両傍《りやうはう[やぶちゃん注:吉弘版は『りやうほう』。歴史的仮名遣として従えない。]》へ余りぬとぞ。最もあやしき事なれど、人力《じんりよく》の及ぶ所為《わざ》にあらねば、全く神霊《しんれい》のなさせ玉ふものなるべし、と人々恐れ敬ひけり。

[やぶちゃん注:「閑窻瑣談」江戸後期に活躍した戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~ 天保一四(一八四四)年)の随筆。怪談・奇談及び、日本各地からさまざまな逸話。民俗を集めたもの。浮世絵師歌川国直が挿絵を描いている。吉川弘文館『随筆大成』版で所持するが、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第九巻(国民図書株式会社編・昭和三(一九二八)年同刊)のこちらから、挿絵(次のコマ)で正字で視認出来る。『卷之四』の巻頭で、通しで『第四十四』話目の『奇名木(めづらしきめいぼく)』である。総ルビに近いので、読みは、積極的にそれを参考にした。挿絵を吉川弘文館『随筆大成』版から読み込んで、参考図として、この後に添えておくこととする。

Tobimatu

「手児崎大明神」「下総国庄佐郡飯岡村」現在の千葉県旭市飯岡にある玉﨑(たまさき)神社の御神木(グーグル・マップ・データ)が、ここに出る「松+楠」である(主祭神は玉依姫)。同神社公式サイト内のこちらに、『夫婦木』(「めおとぎ」であろう)『と称し、楠の大樹に松の木がくっついた御神木』と境内の中の「平田篤胤歌碑」の解説の中にある。江戸期の社殿図があり、「玉嵜明神」本殿の背後に接合した異なった二種の木が描かれて「トビ※」(とびまつ:「※」=(上)「木」+(下)「公」)とある(「手児崎」の名と不一致な理由は不明)。]

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「終局の言葉」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 なお、本章は二章から成るが、「二」は、改ページで右ページで配されてあるため、「二」の終りは、ここに見る通り、八行(「一」の後の七行分+「二」の前の一行分)行空けが施されている。ここでは、意味がないので、二行空けとした。]

 

Syuukyokunokotoba

 

     終局の言葉

 

 

 夕方、食事が濟む。ルピツク夫人は、病氣で寢てゐるので、一向姿を見せない。みんな默りこくつてゐる。習慣からでもあり、また、遠慮からでもある。ルピツク氏は、ナフキンを結び、そいつを食卓の上へ投げ出し、そして云ふ――

 「舊道の羊飼場まで散步に行くが、一緖に來ないか、誰も?」

 にんじんは、ルピツク氏がかういふ方法で彼を誘ひ出すのだと氣がつく。彼は同じく起ち上り、椅子を何時もの通り壁の方へ運び、おとなしく父親の後に從ふ。

 初めのうち、彼等は默つて步く。訊問はすぐには開かれない。たゞ、避けることは不可能だ。にんじんは、頭の中で、凡その見當をつけてみる。そして、返答のしかたを稽古してみる。用意ができた。激しくゆすぶられた揚句の彼は、いま聊かも後悔するところはない。晝間あれほどの大事件にぶつかつたのだ。それ以上の何を怖れるものか。ところで、ルピツク氏は、決心をする。その聲がまた、にんじんを安堵させた。

 

ルピツク氏――何を待つてるんだ? 今日、お前がやつたことは、どういふんだ、あれや? わけを云つてみろ。母さんはあんなに口惜しがつてるぢやないか。[やぶちゃん注:「口惜しがつてる」戦後版では、『口惜(くや)しがってる』。それに従い、「くやしがつてる」と読んでおく。]

にんじん――父さん、僕、今迄永い間、云ひだせずにゐたの。だけど、好い加減に形(かた)をつけちやはう。僕、ほんとを云ふと、もう、母さんが嫌ひになつたよ。

ルピツク氏――ふむ。どういふところが? 何時から?

にんじん――どういふところつて、どこもかしこも・・・。母さんの顏を覺えてからだよ。

ルピツク氏――ふむ。そいつは嘆かはしいこつた。せめて、母さんがお前にどんなことをしたか、話してごらん。

にんじん――長くなるよ、そいつは。それに、父さん、氣がつかない、なんにも?

ルピツク氏――つかんことはない。お前がよく膨れつ面をしてるのを見たよ。

にんじん――僕、膨れるつて云はれると、なほ癪に障るんだ。それやむろん、にんじんは、眞劍に人を恨むなんてこと、できないんだよ。奴さん、膨れつ面をするだらう。ほつとけばいゝのさ。するだけしたら、落ちつくんだ。機嫌を直して、隅つこから出て來るよ。殊に、奴さんにかまつてる風をしちやいけない。どうせ、大したことぢやないんだから。御免よ、父さん。大したことぢやないつていふのは、父さんや母さんや、それから、ほかのものにとつてはさ。僕あ、時々膨れつ面をするよ。それやそれに違ひないけど、たゞ形の上さ。しかし、どうかすると、まつたくの話、心の底から、何をツていふ風に、腹を立てることもあるの。で、その侮辱は、もう、どうしたつて忘れやしないさ。[やぶちゃん注:「奴さん」「やつこさん」誤読のしようはないが、老婆心乍ら、「にんじん」自身が、自分をルピック夫人に成り代わって、三人称で指しているのである。]

ルピツク氏――まあ、まあ、さう云はずに、忘れちまへ。揶揄(からか)はれて怒る奴があるか。

にんじん――うゝん、うゝん、あうぢやないよ。父さんはすつかり知らないからさ。家にゐることは、さうないんだもの。

ルピツク氏――出步かにやならんのだ。しやうがない。

にんじん(我が意を得たりといふ風に)――仕事は仕事だよ、父さん。父さんは、いろんなことに頭を使つてるから、それで氣が紛れるんだけど、母さんと來たら、今だから云ふけど、僕をひつぱたくより外に、憂さばらしのしやうがないんだよ。それが、父さんの責任だとは云はないぜ。なに、僕がそつと云ひ吩けれやよかつたのさ。父さんは、僕の味方になつてくれたんだ。これから、ぼつぼつ、もう以前(せん)からのこと話してみるよ。僕の云ふことが大袈裟かどうか、僕の記憶がどんなもんだか、みんなわかるさ。だけどね、父さん、早速、相談したいことがあるの。[やぶちゃん注:「云ひ吩けれや」「いひつけれや」。]

僕、母さんと別れちやいたいんだけど・・・。

どう、父さんの考へで、一番簡單な方法は?

ルピツク氏――一年に二た月、休暇に會ふだけぢやないか?

にんじん――その休暇中も、寮に殘つてちやいけない? さうすれや、勉强の方も進むだらう?

ルピツク氏――さういふ特典があるのは、貧乏な生徒だけだ。そんなことでもしてみろ、世間ぢいや、わしがお前を捨てたんだつて云はあ。それに第一、自分のことばかり考へちやいかんよ。わしにしてみてからが、お前と一緖にをられんやうになるぢやないか。

にんじん――面會に來てくれゝばいゝんだよ、父さん。

ルピツク氏――慰みの旅行は、高くつかあ、にんじん。

にんじん――是非つていふ旅行を利用したら・・・? ちよつと廻り路をしてさ。

ルピツク氏――いや、わしは、今迄、お前を兄貴や姉さんとおんなじに取扱つて來た。誰を特別にどうするつていふことは、決してしなかつた。そいつは變へるわけにいかん。

にんじん――ぢや、學校の方を止そう。寮を出しておくれよ。お金がかゝりすぎるとでも云つてさ。さうすれや、僕、何か職業を撰ぶよ。

ルピツク氏――どんな? 早い話が、靴屋へでも丁稚奉公にやつて欲しいつていふのか?

にんじん――さうでもいゝし、何處だつていゝよ。僕、自分の食べるだけ稼ぐんだ、さうすれや、自由だもの。

ルピツク氏――もう遲い、にんじん。靴の底へ釘を打つために、わしはお前の敎育に大きな犧牲を拂つたんぢやない。

にんじん――そんなら、若し僕が、自殺しようとしたことがあるつて云つたら、どうなの?

ルピツク氏――おどかすな、やい。

にんじん――噓ぢやないよ。父さん、昨日だつて、また、僕あ、首を吊らうと思つたんだぜ。

ルピツク氏――ところで、お前はそこにゐるぢやないか。だから、まあまあ、そんなことはしたくなかつたんだ。しかも、お前は、自殺を仕損つたといふ話をしながら、得意さうに、頤を突き出してゐる。今迄に、死にたいと思つたのは、お前だけのやうに考へてゐるんだ。やい、にんじん、我身勝手の末は恐ろしいぞ。お前はそつちへ布團をみんな引つ張つて行くんだ。世の中は自分一人のもんだと思つてる。

にんじん――父さん、だけど、僕の兄貴は幸福だぜ。姉さんも幸福だぜ。それから若し母さんが、父さんの云ふやうに、僕を揶揄つて、それがちつとも樂しみぢやないつて云ふんなら、僕あ、なにがなんだかわからないよ。その次ぎは、父さんさ。父さんは威張つてる。みんな怖わがつて[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]ゐるよ。母さんだつて怖わがつてるさ。母さんは、父さんの幸福に對して、どうすることもできないんだ。これはつまり、人類の中に、幸福なものもゐるつていふ證據ぢやないか。

ルピツク氏――融通の利かない小つぽけな人類だよ、お前は。その理窟は、屁みたいだ、それや。人の心が、いちいち奧底まで、お前にはつきり見えるかい?

ありとあらゆることが、もう、ちやんとわかるのか、お前に・・・?

にんじん――僕だけのことならだよ、あゝ、わかるよ、父さん。少なくとも、わからうと努めてるよ。

ルピツク氏――そんならだ。いゝか、にんじん、幸福なんていふもんは思ひ切れ! ちやんと云つといてやる。お前は、今より幸福になることなんぞ、決してありやせん。決して、決して、ありやせんぞ。

にんじん――いやに請合ふんだなあ。

ルピツク氏――諦めろ。鎧兜(よろひかぶと)で身を固めろ。それも、年なら二十(はたち)になるまでだ。自分で自分のことができるやうになれば、お前は自由になるんだ。性質や氣分は變らんでも、家は變へられる。われわれ親同胞(きようだい[やぶちゃん注:ママ。])と緣を切ることもできるんだ。それまでは、上から下を見おろす氣でゐろ。神經を殺せ。そして、他(ほか)の者を觀察しろ。お前の一番近くにゐる者たちも同樣にだ。こいつは面白いぞ。わしは保證しとく、お前の氣安めになるやうな、意外千萬なことが目につくから。

にんじん――それやさうさ。他の者は他の者で苦勞はあるだらうさ。でも、僕あ、明日、さういふ人間に同情してやるよ。今日は、僕自身のために正義を叫ぶんだ。どんな運命でも、僕のよりやましだよ。僕には、一人の母親がある。この母親が僕を愛してくれないんだ。そして、僕がまたその母親を愛してゐないんぢやないか。[やぶちゃん注:「明日」戦後版では「明日」『あした』とルビする。それを採る。]

 

 「そんなら、わしが、そいつを愛してると思ふのか」

 我慢ができす、ルピツク氏は、ぶつけるやうに云つた。

 これを聞いて、にんじんは、父親の方に眼をあげる。彼は、しばらく、その六ケ敷い顏を見つめる。濃い髭がある。あまり喋り過ぎたことを恥ぢるやうに、口がその中へ隱れてしまつてゐる。深い襞のある額、眼尻の皺、それから、伏せた瞼・・・步きながら眠つてゐる恰好だ。

 一つ時、にんじんは、口を利くことができない。この祕かな悅び、握つてゐるこの手、殆んど力まかせに縋つてゐるこの手、それがすべて何處かへ飛んで行つてしまふやうな氣がするのだ。

 やがて、彼は、拳を握り固め、闇の彼方に、うとうとゝ眠りかけた村の方へ、それを振つてみせる。そして、大袈裟な調子で叫ぶ――

 「やい、因業婆(いんごうばゝあ)! いよいよ、これで申分なしだ! おれはお前が大嫌ひなんだ!」

 「こら、止せ! なには兎もあれ、お前の母さんだ」

と、ルピツク氏は云ふ。

 「あゝ」と、にんじんは、再び、單純でしかも用心深い子供になり――「僕の母さんだと思つてかう云ふんぢやないんだよ」

 

[やぶちゃん注:「にんじん――僕、膨れるつて云はれると、なほ癪に障るんだ。それやむろん、にんじんは、眞劍に人を恨むなんてこと、できないんだよ。」この直接話法で、「にんじん」は、自身のことを“Poil de Carotte”と呼んでいる。これは本作の中で特異なことであると思われる。「にんじん」の“Poil de Carotte”といふ存在としての現存在としての自覚、その自己同一性が、この自己人称表現に於いて、逆に、正しく主体的自立的な「にんじん」の厳しく真面目な自己認識の印象を読者の与えるように私には思われる。

「ぼつぼつ、以前のことを話してみるよ」これは、読者を無意識的に作品の最初にフィードバツクさせ、そして、そのリピートするカット・バックが、更に効果的に新鮮なものとして読者に与えるものが、本書の掉尾の次章「にんじんのアルバム」なのである。この作品の構成は実に美事である。本作はコーダで幕が落ちる戯曲的なものではなく、すこぶる映像的なエンディングを持つのである。

「死にたいと思つたのは、お前だけのやうに考へてゐるんだ」これは「自分の意見」の「庭の井戶」同樣(同章の私の注を参照されたい)、甚だ偶然なるが故に、身震いさせる不吉な予兆的伏線となってしまうである。

「ルピツク氏――融通の利かない小つぽけな人類だよ、お前は。その理窟は、屁みたいだ、それや。人の心が、いちいち奧底まで、お前にはつきり見えるかい?」「ありとあらゆることが、もう、ちやんとわかるのか、お前に・・・?」この部分、「ありとあらゆることが、もう、ちやんとわかるのか、お前に・・・?」だけが、前から連続するルピック氏の臺詞でありながら、改行されている。岸田氏は、ここに僅かな間を置いて、ルピツク氏の、この一言を特に強調したかったものと思われる。原文のこの部分には、特にそのような操作は、なされてはいない。

「この祕かな悅び、握つてゐるこの手、殆んど力まかせに縋つてゐるこの手、それがすべて何處かへ飛んで行つてしまふやうな氣がするのだ。」先の「死にたいと思つたのは、お前だけのやうに考へてゐるんだ」に続く、本作最後の、近未来のカタストロフを後に予兆させてしまう結果としての、ルナールの父がショットガンで胸を撃ち抜いて自殺することになる、恐ろしい「死」の伏線である。

「やい、因業婆(いんごうばゝあ)! いよいよ、これで申分なしだ! おれはお前が大嫌ひなんだ!」原文は“Tais-toi, dit M. Lepic, c'est ta mère après tout.”で、この“mère”は、ここではフラットな「母」の意ではなく、俗語で、「年を取つた庶民の妻」、所謂、「小母さん」や「婆さん」の類いであり、“après tout”は、「つまり・結局」の意であるから、「默れ! ルピツク氏の女と呼ばれる者よ! おまえさんは、トドのつまり、『いけ好かねえ婆あ』に過ぎねえんだッツ!」といつた感じだろう。]

 

 

 

 

    Le Mot de la Fin

 

   Le soir, après le dîner où madame Lepic, malade et couchée, n’a point paru, où chacun s’est tu, non seulement par habitude, mais encore par gêne, M. Lepic noue sa serviette qu’il jette sur la table et dit :

   Personne ne vient se promener avec moi jusqu’au biquignon, sur la vieille route ?

   Poil de Carotte comprend que M. Lepic a choisi cette manière de l’inviter. Il se lève aussi, porte sa chaise vers le mur, comme toujours, et il suit docilement son père.

   D’abord ils marchent silencieux. La question inévitable ne vient pas tout de suite. Poil de Carotte, en son esprit, s’exerce à la deviner et à lui répondre. Il est prêt. Fortement ébranlé, il ne regrette rien. Il a eu dans sa journée une telle émotion qu’il n’en craint pas de plus forte. Et le son de voix même de M. Lepic qui se décide, le rassure.

     MONSIEUR LEPIC

   Qu’est-ce que tu attends pour m’expliquer ta dernière conduite qui chagrine ta mère ?

     POIL DE CAROTTE

   Mon cher papa, j’ai longtemps hésité, mais il faut en finir. Je l’avoue : je n’aime plus maman.

     MONSIEUR LEPIC

   Ah ! À cause de quoi ? Depuis quand ?

        POIL DE CAROTTE

   À cause de tout. Depuis que je la connais.

     MONSIEUR LEPIC

   Ah ! c’est malheureux, mon garçon ! Au moins, raconte-moi ce qu’elle t’a fait.

     POIL DE CAROTTE

Ce serait long. D’ailleurs, ne t’aperçois-tu de rien ?

     MONSIEUR LEPIC

Si. J’ai remarqué que tu boudais souvent.

     POIL DE CAROTTE

   Ça m’exaspère qu’on dise que je boude. Naturellement, Poil de Carotte ne peut garder une rancune sérieuse. Il boude. Laissez-le. Quand il aura fini, il sortira de son coin, calmé, déridé. Surtout n’ayez pas l’air de vous occuper de lui. C’est sans importance.

   Je te demande pardon, mon papa, ce n’est sans importance que pour les père et mère et les étrangers. Je boude quelquefois, j’en conviens, pour la forme, mais il arrive aussi, je t’assure, que je rage énergiquement de tout mon coeur, et je n’oublie plus l’offense.

     MONSIEUR LEPIC

   Mais si, mais si, tu oublieras ces taquineries.

     POIL DE CAROTTE

   Mais non, mais non. Tu ne sais pas tout, toi, tu restes si peu à la maison.

     MONSIEUR LEPIC

   Je suis obligé de voyager.

     POIL DE CAROTTE, avec suffisance.

   Les affaires sont les affaires, mon papa. Tes soucis t’absorbent, tandis que maman, c’est le cas de le dire, n’a pas d’autre chien que moi à fouetter. Je me garde de m’en prendre à toi. Certainement je n’aurais qu’à moucharder, tu me protégerais. Peu à peu, puisque tu l’exiges, je te mettrai au courant du passé. Tu verras si j’exagère et si j’ai de la mémoire. Mais déjà, mon papa, je te prie de me conseiller.

   Je voudrais me séparer de ma mère.

   Quel serait, à ton avis, le moyen le plus simple ?

     MONSIEUR LEPIC

   Tu ne la vois que deux mois par an, aux vacances.

     POIL DE CAROTTE

   Tu devrais me permettre de les passer à la pension. J’y progresserais.

     MONSIEUR LEPIC

   C’est une faveur réservée aux élèves pauvres. Le monde croirait que je t’abandonne. D’ailleurs, ne pense pas qu’à toi. En ce qui me concerne, ta société me manquerait.

     POIL DE CAROTTE

   Tu viendrais me voir, papa.

     MONSIEUR LEPIC

   Les promenades pour le plaisir coûtent cher, Poil de Carotte.

     POIL DE CAROTTE

   Tu profiterais de tes voyages forcés. Tu ferais un petit détour.

     MONSIEUR LEPIC

   Non. Je t’ai traité jusqu’ici comme ton frère et ta soeur, avec le soin de ne privilégier personne. Je continuerai.

     POIL DE CAROTTE

   Alors, laissons mes études. Retire-moi de la pension, sous prétexte que j’y vole ton argent, et je choisirai un métier.

     MONSIEUR LEPIC

   Lequel ? Veux-tu que je te place comme apprenti chez un cordonnier, par exemple ?

     POIL DE CAROTTE

   Là ou ailleurs. Je gagnerais ma vie et je serais libre.

     MONSIEUR LEPIC

   Trop tard, mon pauvre Poil de Carotte. Me suis-je imposé pour ton instruction de grands sacrifices, afin que tu cloues des semelles ?

     POIL DE CAROTTE

   Si pourtant je te disais, papa, que j’ai essayé de me tuer.

     MONSIEUR LEPIC

   Tu charges ! Poil de Carotte.

     POIL DE CAROTTE

   Je te jure que pas plus tard qu’hier, je voulais encore me pendre.

     MONSIEUR LEPIC

   Et te voilà. Donc tu n’en avais guère envie. Mais au souvenir de ton suicide manqué, tu dresses fièrement la tête. Tu t’imagines que la mort n’a tenté que toi. Poil de Carotte, l’égoïsme te perdra. Tu tires toute la couverture. Tu te crois seul dans l’univers.

     POIL DE CAROTTE

   Papa, mon frère est heureux, ma soeur est heureuse, et si maman n’éprouve aucun plaisir à me taquiner, comme tu dis, je donne ma langue au chat. Enfin, pour ta part, tu domines et on te redoute, même ma mère. Elle ne peut rien contre ton bonheur. Ce qui prouve qu’il y a des gens heureux parmi l’espèce humaine.

     MONSIEUR LEPIC

   Petite espèce humaine à tête carrée, tu raisonnes pantoufle. Vois-tu clair au fond des coeurs ? Comprends-tu déjà toutes les choses ?

     POIL DE CAROTTE

   Mes choses à moi, oui, papa ; du moins je tâche.

     MONSIEUR LEPIC

   Alors, Poil de Carotte, mon ami, renonce au bonheur. Je te préviens, tu ne seras jamais plus heureux que maintenant, jamais, jamais.

     POIL DE CAROTTE

   Ça promet.

     MONSIEUR LEPIC

   Résigne-toi, blinde-toi, jusqu’à ce que majeur et ton maître, tu puisses t’affranchir, nous renier et changer de famille, sinon de caractère et d’humeur. D’ici là, essaie de prendre le dessus, étouffe ta sensibilité et observe les autres, ceux même qui vivent le plus près de toi ; tu t’amuseras ; je te garantis des surprises consolantes.

     POIL DE CAROTTE

   Sans doute, les autres ont leurs peines. Mais je les plaindrai demain. Je réclame aujourd’hui la justice pour mon compte. Quel sort ne serait préférable au mien ? J’ai une mère. Cette mère ne m’aime pas et je ne l’aime pas.

   Et moi, crois-tu donc que je l’aime ? dit avec brusquerie M. Lepic impatienté.

   À ces mots, Poil de Carotte lève les yeux vers son père. Il regarde longuement son visage dur, sa barbe épaisse où la bouche est rentrée comme honteuse d’avoir trop parlé, son front plissé, ses pattes-d’oie et ses paupières baissées qui lui donnent l’air de dormir en marche.

   Un instant Poil de Carotte s’empêche de parler. Il a peur que sa joie secrète et cette main qu’il saisit et qu’il garde presque de force, tout ne s’envole.

   Puis il ferme le poing, menace le village qui s’assoupit là-bas dans les ténèbres, et il lui crie avec emphase :

   Mauvaise femme ! te voilà complète. Je te déteste.

   Tais-toi, dit M. Lepic, c’est ta mère, après tout.

   Oh ! répond Poil de Carotte, redevenu simple et prudent, je ne dis pas ça parce que c’est ma mère.

 

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「叛旗」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 なお、本章は二章から成るが、「二」は、改ページで右ページで配されてあるため、「二」の終りは、ここに見る通り、八行(「一」の後の七行分+「二」の前の一行分)行空けが施されている。ここでは、意味がないので、二行空けとした。]

 

Hanki

 

     叛  旗

 

 

   

 

ルピツク夫人――にんじんや、あのね、好い子だから水車へ行つて、牛酪(バタ)を一斤貰つて來ておくれな。大急ぎだよ。お前が歸るまで、食事をはじめずに待つてゞあげるからね。[やぶちゃん注:「好い子」戦後版は『いい子』。それに従って読む。「一斤」原文は“livre”(リーヴル)で重量単位。歴史的には実重量にかなりの変化があるが、この当時は公用の慣用規定値として五百グラムとなっていた。]

にんじん――いやだよ。

ルピツク夫人――「いや」つていふ返事はどういふの? さ、待つてゝあげるから・・・。

にんじん――いやだよ。僕は、水車へなんか行かないよ。

ルピツク夫人――なんだつて? 水車へなんか行かない? なにを云ふの、お前は? 誰なのさ、用を賴んでるのは? ・・・なんの夢を見てるんだい?[やぶちゃん注:「なにを云ふの、お前は?」さて、本書の初回で述べた通り、全体を通じて、『(発言者名)――』型の台詞である対話方式の直接話法では、その台詞が二行に互る際、一字下げとなっているが、私のこの電子化ではブログのブラウザの不具合が起きるので、詰めてある。而して、ここは底本では、ここの三行目「なにを云ふの、お前は?」は台詞一行目の行末で、二行目は底本の形式通り、一字下げで始まっている。これは版組み上、空白を行頭に配すると、見た目に違和感が生ずるための、禁則処理であることが判る(その証拠に二行目のこの後の「用を賴んでるのは? ・・・なんの夢を見てるんだい?」では字空けを施している個人的にはこちらの字空けはなくても違和感はないくらいだが。しかし、この三行目では植字工は相当に別な意味で苦心しているのだ。三行目の上と中「?」二ヶ所の後の空白が半角にに組み直してある。これは問題の「お前は?」の「?」だけが、そのままでは行頭に来てしまう方の禁則処理を行うためのものなのである)。そこで、こちらでは特異的に一字空けを施した。言うまでもなく、戦後版はこの台詞が現われるページの版組みが異なる(ヴァロトンの絵が上半分に挿入されているため)ことから、普通に一字分、空いている。]

にんじん――いやだよ。

ルピツク夫人――これこれ、にんじん、どうしたといふのさ、一體? 水車へ行つて、牛酪を一斤貰つておいでつて、母さんの云ひつけだよ。

にんじん――聞こえたよ。僕は行かないよ。

ルピツク夫人――母さんが、夢でも見てるのか知ら・・・? 何事だらう、これや・・・? お前は、生れて初めて、母さんの云ふことを聽かないつもりだね?

にんじん――さうだよ。

ルピツク夫人――母さんのいふことを聽かないつもりなんだね?

にんじん――母さんのね、さうだよ。

ルピツク夫人――そいつは面白い。どら、ほんとかどうか、・・・走つて行つて來るかい?

にんじん――いやだよ。

ルピツク夫人――お默り! さうして行つといで!

にんじん――默るよ。あうして行かないよ。

ルピツク夫人――さ、このお皿を持つて駈け出しなさい!

 

 

   

 

 にんじんは默る。そして、動かない。

 「さあ、革命だ」

と、ルピツク夫人は、踏段の上で、兩腕を擧げて叫んだ。

 なるほど、にんじんが彼女に向かつて「いやだ」と云つたのは、これが初めてだ。これが若し、何かの邪魔でもされたとか、また、遊んでゐる最中でゞもあつたのならまだしもだ。ところが、今、彼は、地べたに坐り、鼻を風に曝(さら)し、二本の親指をあつちへ向けこつちへ向け、そして、眼をつぶり、眼が冷えないやうにしてゐたのだ。が、いよいよ、彼は、昂然として、母親の顏を直視する。母親はなにがなんだかわからない。彼女は、救ひを求めるやうに、人を呼ぶ――

 「エルネステイヌ、フエリツクス、面白いことがあるよ。父さんも一緖に來てごらんつて・・・。アガアトもだよ。さあ、誰でも見たいものは、來た、來た!」

 そこで、通りを偶に通る人々でも、立ち止つて見られるわけだ。[やぶちゃん注:「偶に」「たまに」。]

 にんじんは中庭の眞ん中に、距りを取つて、ぢつとしてゐる。危險に面して、自分ながら泰然自若たることに感心し、またそれ以上、ルピツク夫人が打(ぶ)つことを忘れてゐるのは不思議でならぬ。この一瞬は、それほど由々しき一瞬であり、彼女はために策の施しやうがないのだ。平生用ゐる脅しの手眞似さへ、赤い切先(きつさき)のやうに鋭く燃えるあの眼附に遇つては、もう役に立ちさうもない。とは云へ、如何に努めても、内心の憤りは、忽ち唇を押し開け、笛のやうな息と共に外に溢れ出た。[やぶちゃん注:「距り」「へだたり」。「脅し」「おどし」。]

「みんな、いゝかね、あたしや、丁寧に賴んだんだ、にんじんにさ、ちよつとした用事だよ、散步がてら、水車まで行きやいゝんだ。ところが、どんな返事をした。訊いてみておくんなさい。あたしが好い加減なことを云ふみたいだから・・・」

 めいめい、察しがついた。彼の樣子を見たゞけで、訊くまでもないと思ふ。

 優しいエルネスチイヌは、側へ寄つて、耳のところでそつと云ふ――[やぶちゃん注:「側」戦後版は『そば』とルビする。それを採る。]

 「氣をつけなさい。ひどい目に遭ふわよ。あんたを可愛がつてる姉さんの云ふことだから聽きなさい。『はい』つて云ふもんよ」

 兄貴のフエリツクスは、見物席に納まつてゐる。誰が來たつて席は讓るまい。若し、にんじんがこれから走り使ひをしなくなると、その一部が當然自分のところへまわつて來るのだといふことまでは考へていない。彼は弟を聲援したいくらゐだ。昨日までは輕蔑してゐた。濡れた牝鷄程度に扱つてゐた。今日は、對等だ。見上げたもんだ。彼は雀躍りする。なかなか面白くなつて來た。[やぶちゃん注:「雀躍り」戦後版は『雀躍(こおど)り』とルビする。それを参考とし、歴史的仮名遣で「こをどり」と読む。]

 「世の中がひつくり返つた。世の終りだ。さあ、あたしや、もう知らない」と、へこたれて、ルピツク夫人は云つた――「あたしや、引上げるよ。誰か口を利いてみるさ。そして、あの猛獸を手馴ずけて貰ひませう。息子と父親と對ひ合つて、あたしのゐないところで、なんとか話をつけてごらん」

 「父さん」と、にんじんは、こみあげてくる感情の發作のなかで、締めつけられるやうな聲を出した。物を言ふのにまだ調子が出ないのである――「若し、父さんが、水車へ牛酪(バタ)を取りに行けつていふんなら、僕、父さんのためなら・・・父さんだけのためなら、僕、行くよ。母さんのためなら、僕、絕對、行くのいやだ」[やぶちゃん注:「牛酪(バタ)」は実はルビを『バん』と誤植している。誤植なので、特異的に訂した。]

 ルピツク氏は、この選り好みで、氣をよくするどころか、寧ろ、當惑の態である。たかがバタの一斤ぐらいで、そばから家じゆうのものにけしかけられ、そのため自分の威光にものをいわせるといふのは、なんとしても具合が惡いのだ。[やぶちゃん注:「選り好み」戦後版では、『選(よ)り好み』と振る。それを採る。「よりごのみ」。「當惑の態」戦後版では『当惑の体(てい)』である。成語から考えて、ここも「たいわくのてい」の読みで採る。]

 そこで彼は、ぎごちなく、草の中を二三步步いて、肩をぴくんとあげ、くるりと背を向けて、家の中にはひつてしまふ。[やぶちゃん注:「家」前例通り、「うち」。戦後版ではそのルビがある。]

 當分、事件は、そのまゝといふわけだ。

 

[やぶちゃん注:原本では、ここから。

「水車」原文は“moulin”。これは「水車(或いは風車)小屋・製粉機・製粉所・工場」である。戦後の倉田氏や佃氏は孰れも『水車小屋』とし、佃氏は後注して、『戯曲の『にんじん』の方では農場に生クリームを貰いにゆく話になっているが』(全十一場の第五場)、『ここで水車小屋にバターを買いに行くのも、おそらく農場などで所有している水車小屋なのであろう』と注されておられる。戦後版もただ『水車』だが、ちょっと躓く気味がある。

「眼が冷えないやうにしてゐた」眼がしばれるのを防ぐ以外に、この動作には何らかの民間傳承や風習が係わっているのだろうか? 識者の御意見を俟つ。

「濡れた牝鷄」原文は確かに“poule mouillée”で、文字通りだが、これは隱語・俗語の類いで、男に対して「弱蟲」「臆病者」「意気地なし」と罵倒する時に用いる語である(なお、他に「愛人」・「売春婦」・「警官」のスラングでもある)。]

 

 

 

 

    La Révolte

 

     I

 

     MADAME LEPIC

   Mon petit Poil de Carotte chéri, je t’en prie, tu serais bien mignon d’aller me chercher une livre de beurre au moulin. Cours vite. On t’attendra pour se mettre à table.

     POIL DE CAROTTE

   Non, maman.

     MADAME LEPIC

   Pourquoi réponds-tu : non, maman ? Si, nous t’attendrons.

     POIL DE CAROTTE

   Non, maman, je n’irai pas au moulin.

     MADAME LEPIC

   Comment ! tu n’iras pas au moulin ? Que dis-tu ? Qui te demande ?… Est-ce que tu rêves ?

     POIL DE CAROTTE

   Non, maman.

     MADAME LEPIC

   Voyons, Poil de Carotte, je n’y suis plus. Je t’ordonne d’aller tout de suite chercher une livre de beurre au moulin.

     POIL DE CAROTTE

   J’ai entendu. Je n’irai pas.

     MADAME LEPIC

   C’est donc moi qui rêve ? Que se passe-t-il ? Pour la première fois de ta vie, tu refuses de m’obéir.

     POIL DE CAROTTE

   Oui, maman.

     MADAME LEPIC

   Tu refuses d’obéir à ta mère.

     POIL DE CAROTTE

   À ma mère, oui, maman.

     MADAME LEPIC

   Par exemple, je voudrais voir ça. Fileras-tu ?

     POIL DE CAROTTE

   Non, maman.

     MADAME LEPIC

   Veux-tu te taire et filer ?

     POIL DE CAROTTE

   Je me tairai, sans filer.

     MADAME LEPIC

   Veux-tu te sauver avec cette assiette ?

 

     II

 

   Poil de Carotte se tait, et il ne bouge pas.

   Voilà une révolution ! s’écrie madame Lepic sur l’escalier, levant les bras.

   C’est, en effet, la première fois que Poil de Carotte lui dit non. Si encore elle le dérangeait ! S’il avait été en train de jouer ! Mais, assis par terre, il tournait ses pouces, le nez au vent, et il fermait les yeux pour les tenir au chaud. Et maintenant il la dévisage, tête haute. Elle n’y comprend rien. Elle appelle du monde, comme au secours.

   Ernestine, Félix, il y a du neuf ! Venez voir avec votre père et Agathe aussi. Personne ne sera de trop.

   Et même, les rares passants de la rue peuvent s’arrêter.

   Poil de Carotte se tient au milieu de la cour, à distance, surpris de s’affermir en face du danger, et plus étonné que madame Lepic oublie de le battre. L’instant est si grave qu’elle perd ses moyens. Elle renonce à ses gestes habituels d’intimidation, au regard aigu et brûlant comme une pointe rouge. Toutefois, malgré ses efforts, les lèvres se décollent à la pression d’une rage intérieure qui s’échappe avec un sifflement.

   Mes amis, dit-elle, je priais poliment Poil de Carotte de me rendre un léger service, de pousser, en se promenant, jusqu’au moulin. Devinez ce qu’il m’a répondu ; interrogez-le, vous croiriez que j’invente.

   Chacun devine et son attitude dispense Poil de Carotte de répéter.

   La tendre Ernestine s’approche et lui dit bas à l’oreille :

   Prends garde, il t’arrivera malheur. Obéis, écoute ta soeur qui t’aime.

   Grand frère Félix se croit au spectacle. Il ne céderait sa place à personne. Il ne réfléchit point que si Poil de Carotte se dérobe désormais, une part des commissions reviendra de droit au frère aîné ; il l’encouragerait plutôt. Hier, il le méprisait, le traitait de poule mouillée. Aujourd’hui il l’observe en égal et le considère. Il gambade et s’amuse beaucoup.

   Puisque c’est la fin du monde renversé, dit madame Lepic atterrée, je ne m’en mêle plus. Je me retire. Qu’un autre prenne la parole et se charge de dompter la bête féroce. Je laisse en présence le fils et le père. Qu’ils se débrouillent.

   Papa, dit Poil de Carotte, en pleine crise et d’une voix étranglée, car il manque encore d’habitude, si tu exiges que j’aille chercher cette livre de beurre au moulin, j’irai pour toi, pour toi seulement. Je refuse d’y aller pour ma mère.

   Il semble que M. Lepic soit plus ennuyé que flatté de cette préférence. Ça le gêne d’exercer ainsi son autorité, parce qu’une galerie l’y invite, à propos d’une livre de beurre.

   Mal à l’aise, il fait quelques pas dans l’herbe, hausse les épaules, tourne le dos et rentre à la maison.

   Provisoirement l’affaire en reste là.

 

2023/12/10

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「木の葉の嵐」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 なお、このヴァロトンの挿絵は、先行する「喇叭」とともに、特異点の絵である――二枚とも人物が描かれていないという点で――である。

 

Konohanoarasi

 

     木の葉の嵐

 

 もう餘程前から、にんじんは、ぼんやり、大きな白揚樹(ポプラ)の、一番てつぺんを見つめてゐる。[やぶちゃん注:「白揚樹(ポプラ)」の「揚」の字はママ。正しくは「白楊樹」である。恐らくは植字工のミスであろう。校正係も、最終校正をした岸田氏も見落としたものと思われる。ルビを附してあることで、逆に錯覚して見落とすことが、しばしばある。これもその哀しい集団感染の一例である。その証拠に、後文でも同じ誤植をしているのである。三者は皆が皆、気づかなかったのである。]

 彼は、空(うつ)ろな考へを追ふ。そして、その葉の搖れるのを待つ。

 その葉は、樹から離れ、それだけで、軸もなく、のんびりと、別個の生活をしてゐるやうに見える。

 每日、その葉は、太陽の初めと終りの光線を浴び、黃金色に輝く。

 正午からこつち、死んだやうに動かない。葉といふよりも點だ。にんじんは我慢がしきれなくなる。落ちついてゐられない。すると、やうやく、その葉が合圖をする。

 その下の、すぐ側(そば)の葉が一つ、同じ合圖をする。ほかの葉が、また、それを繰り返し、隣近所の葉に傳へる。それが、急いで、次へ送る。

 そして、これが、危急を告げる合圖なのである。なぜなら、地平線の上には、褐色の球帽が、その繍緣(ぬひぶち)を現はしてゐるからだ。[やぶちゃん注:「褐色の球帽」「球帽」は「きゆうぼう」。原文は“calotte”(カロット)。聖職者の被る黒いお椀形・半球状をした帽子のことを言う。「法帽」とも。以下、本章の最後のネタバレになるので、初読の方は、以下の太字部分は読まないでスルーされたい。本章では、強い風を惹起しながら、太陽の余光をじわじわと侵食してくる「夜(だから――黒い――のであって、とんでもない暴風雨を齎すところの本物の黒雲ではないのである)の浮き雲の塊り」を、これ以下、この――“calotte”――で示す続ける。しかし、それは、まさに――“Carotte”――主人公「にんじん」――の心の中で、いやさわに、膨れ上がつてゆくところの恐るべき――“calotte”――なのである……

 白揚樹(ポプラ)は、もう、顫(ふる)え[やぶちゃん注:ママ。]てゐるのだ――彼は動かうとする。邪魔になる重い空氣の層を押し退けようとする。[やぶちゃん注:「退け」戦後版では、『退(のけ)』とルビする。]

 彼の不安は、山毛欅(ぶな)へ、柏へ、マロニエヘと移つて行き、やがて、庭ぢうの樹といふ樹が、互に、手眞似身振りで囁き合ふ。空には例の球帽が、みるみるうちに擴がり、そのくつきりと暗い緣飾を、前へぐんぐん押し出してゐることを報らせ合ふのである。[やぶちゃん注:「庭ぢう」「庭中(にはぢゆう)」であるが、近代以前よりかなり遡っても「ちう」「ぢう」は慣用的によく使用される。]

 最初、彼等は、細い枝を震はせて、鳥どものお喋りを止めさせるのである。生豌豆を一つ抛(はふ)るやうに、氣紛れにぽいと啼いていた鶫(つぐみ)、ペンキ塗りの喉から、やたらにごろごろといふ聲を絞り出すところを、にんじんもさつきから見てゐた雉鳩、それから例の鵲(かささぎ)の尾の、それだけで、なんとも困りものゝ鵲・・・。[やぶちゃん注:「生豌豆」「なまゑんどう」。「雉鳩」戦後版では、『山鳩』としておられるが、これはハト目ハト科キジバト属キジバト Streptopelia orientalis の別名なので、全く問題はない。実は底本では、この部分に、利用者が「雉鳩」をおかしい(或いは「雉」・「鳩」と二種で読んだか)と思ったらしく、鉛筆でぐちゃぐちゃと多量に右に傍線を引いてあったことから、老婆心乍ら、注したものである。]

 その次に、彼等は、敵を威嚇するために、その太い觸角を振り廻しはじめる。[やぶちゃん注:「彼等」老婆心乍ら、白楊樹(ポプラ)の樹群を指す。]

 鉛色の球帽は、徐々に侵略を續けてゐる。

 次第に天を覆ふ。靑空を押し退け、空氣の拔け孔を塞ぎ、にんじんの呼吸(いき)をつまらせにかゝる。時として、それは、自分の重みのために力が弱り、村の上へ墜ちて來るかと思はれることがある。しかし、鐘樓の尖端で、ぴたりと止る、こゝで破られてはならぬといふ風に。

 愈〻すぐそこへ來た。ほかゝら挑みかける必要はない。恐慌が始まる。ざわめきが起る。[やぶちゃん注:「起る」戦後版は『起こる』。それで採る。]

 總ての樹木は、荒れ狂ひ、取り亂した圖體を折り重ねる。その奧には、つぶらな眼と、白い嘴に滿たされた幾多の巢があるであらうと、にんじんは想像する。梢が沈む。と、急に眼を覺ましたやうに、起き上る。葉の茂みが、組を作つて駈け出す。が、間もなく、怖わ怖わ、素直に、戾つて來る。そして、一生懸命に縋りつく。あかしやの葉は、華車で、溜息をつく。皮を剝がれた白樺の葉は、哀れつぽい聲を出し、マロニエの葉は口笛を吹く。そして、蔓のある馬兜鈴(うまのすゞぐさ)は、壁の上へ重り合つて 波のやうな音をたててゐる。[やぶちゃん注:「圖體」「づうたい」(現代仮名遣「ずうたい」)。「華車」「きやしや」。「華奢」(きゃしゃ)の別表記。「重り合つて」の後の空白はママ。誤植とも思われるが、或いは、岸田氏はここに読点を打っていた可能性があるので、敢えて空けておいた。なお、戦後版では、読点はなく、普通に続いている。]

 下の方では、ずんぐりむつくり、林檎の木が、枝の林檎をゆすぶり、鈍い力で地べたを叩く。

 その下では、すぐりの木が赤い滴を、黑すぐりがインク色の滴を垂らしてゐる。[やぶちゃん注:「滴」戦後版では、前者の『しずく』とルビするから、「しづく」と訓じておく。]

 更に下の方では、醉つ拂つたキヤベツが、驢馬の耳を打ち振り、上氣せた葱が、互に鉢合せをして、種で膨らんだ丸い實(み)を碎く。[やぶちゃん注:「上氣せた」「のぼせた」。「葱」原文は“oignons”で、これは玉葱(単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ亜科ネギ属タマネギ Allium cepa )を指し、本邦の「葱」(ネギ属ネギ Allium fistulosum var. giganteum )ではない。しかし、この訳は、私は絶妙な意味に於いて、これでよいと思うのである。何故なら、現在の一般的な日本人は、畑でタマネギの薹(とう)が立った実を容易に想起出来るような環境にはあまりいないからである。ここは、寧ろ、まだ「葱坊主」で古くから親しんでいるそれをイメージしてこそ躓かずに読めるからである。]

 どうしてだ? 何事だ、これは? そして、一體、どんなわけがあるのだ? 雷が鳴るのでもない。雹が降るわけでもない。稻光りひとつせず、雨一滴落ちて來ず・・・。とは云へ、あの混沌たる天上の闇、晝の日なかに忍び寄るこの眞夜中が、彼等を逆上させ、にんじんを縮み上らせたのだ。

 今や、件の球帽は、覆面した太陽の眞下で、擴がれるだけ擴がつた。[やぶちゃん注:「件」「くだん」。]

 動いてゐる。にんじんはちやんと知つてゐる。滑つて行く。正體はばらばらの浮雲だ。さあもうおしまひだ。お日樣が見られるわけである。だが、そのうちに、空いつぱいに天井を張つてしまつても、にんじんの頭は、却つてそのために締めつけられ、額のへんへ喰ひ込むやうに思はれる。彼は眼をつぶる。すると、例の球帽は、情容赦もなく、瞼の上へ眼かくしをしてしまふ。

 彼は彼で、兩方の耳へ指を突つ込む。ところが、嵐は、叫びと旋風に乘つて、外から、家の中へ侵入する。

 そして、街で紙片(かみぎれ)を拾ふやうに、彼の心臟をつかむ。

 揉む。皺くちやにする。丸める。握り潰す。

 やがて、にんじんは、これが自分の心臟かと思ふ。僅かに、飴玉の大きさだ。

 

[やぶちゃん注:原本は、ここから。

「白揚」(割注で示したように正しくは「楊」)「樹(ポプラ)」原文は“peuplier”。この語は広く、キントラノオヤナギ科ヤマナラシ属 Populus を指す語であるが、これ、ゴッホの絵によく描かれてあることで有名な、空をつんざくように真っ直ぐ直立して伸びるヤマナラシ属ヨーロッパクロヤマナラシ変種セイヨウハコヤナギ Populus nigra var. italica の印象ではない。特にヴァロトンの挿絵のそれは、直立した灌木ではなく、枝を相応に広げてこんもりとしたものとして描かれている(但し、この樹種が、本文の後に出る樹種(例えば「林檎」)の絵でないという保証はないのだが、本篇の樹木の主人公はあくまで白楊樹(ポプラ)であるからして、ヴァロトンが他の脇役の樹種なんぞを挿絵には逆立ちしても描かないと私は信ずる)。さすれば、私はこれはヨーロッパ原産だが、本邦には明治中期に移入され、特に北海道に多く植えられたことで我々に馴染み深いヨーロッパクロヤマナラシ Populus nigra ではないかと考えている。フランス語の当該種のウィキによれば、フランス語では“Peuplier noir”(黒いポプラ)で、ルナールの故郷シトリー村も地理的分布図に含まれている。また、本種の枝は不規則で重く、老樹の大きな枝はアーチ形を成している、とある辺りは、ヴァロトンの絵にマッチするように思われるのである。因みに、ウィキの「ポプラ」によれば、『外来』種群である『ポプラの和名は』、『現在まで整理がなされていないため、同一種でも別名や別表記が多く、学術論文ですら』、『混乱しており、植物園などの表記にも不統一なものが多い』とし、そこで挙げた主な種の『名称も統一名称ではない』とある。何れにせよ、私達が「ポプラ」としてイメージするものと甚だ近いものだろうと考えてよいように思われはするのである。

「柏」これはフランスであるから、双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ族 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata とすることは出来ない。本邦のお馴染みの「カシワ(柏・槲・檞)」は日本・朝鮮半島・中国の東アジア地域にのみ植生するからである。原文では“chêne”で、これはカシ・カシワ・ナラなどのブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称である。則ち、「オーク」と訳すのが、最も無難であり、特にその代表種である模式種ヨーロッパナラ(ヨーロッパオーク・イングリッシュオーク・コモンオーク・英名は common oak Quercus robur を挙げてもよいだろう。

「山毛欅(ぶな)」原文は“hêtre”。双子葉植物綱ブナ目ブナ科ブナ属 Fagus 。さらに狭めるならヨーロッパブナ Fagus sylvatica でよかろうか。因みに、以下、話しが完全に脱線するが、「山毛欅」の「欅」は「けやき」と読み、バラ目ニレ科ケヤキ Zelkova serrata を指すのだが、本邦に植生するブナFagus crenata (ヨーロッパには植生しない)とは、これ、全く異なつた種であることに注意しなくてはならない。ところが、この縁遠い二種は、観察すると、特に葉が両者が良く似ているのである。ブナの若葉には細かな産「毛」(うぶげ)が生えていること、ケヤキの方は里に近く、ブナは「山」間部に多いことからの命名とされる。

「あかしや」候補として、マメ目マメ科ネムノキ亜科アカシア属フサアカシア Acacia dealbata を挙げておく。フランス語の同種のウィキによれば、オーストラリアから人為的に移入された本種は、その後、栽培地から播種され、フランスでは、地中海と大西洋の海岸で野生で見られ、そこでは、帰化しているとある。分布域が不審だが、栽培されて根付いたとすれば、まあ、問題ないだろう。

「マロニエ」双子葉植物綱ムクロジ目トチノキ科トチノキ属 Aesculusのヨーロツパ種であるセイヨウトチノキ Aesculus hippocastanum のこと。フランス語名が“marronnier”(マロニエ)。フランスの街路樹の代表種である。

「鶫」原文は“grives”で、スズメ目スズメ亜目スズメ小目ヒタキ上科ツグミ科ツグミ属 Turdus だが、異様に種が多いので、絞り込めない。

「鵲」二つ前の章「銀貨」の「遙か上の、木の枝か、その邊の古巢の奧か?」の注を参照されたい。

「馬兜鈴(うまのすゞぐさ)」本邦で知られるのは、双子葉植物綱ウマノスズクサ目ウマノスズクサ科ウマノスズクサAristolochia debilis 。楽器のサックスのようなU字形状をした壺状の花をつけるものが多い(それが、「馬の首に懸ける鈴」に似ることからの命名らしい)。ショウジョウバエ等によって受粉する蝿(じょう)媒花である。但し、残念ながら、この種は、本邦の本州の東北南部以西の四国・九州・奄美大島、及び、中国中部から南部にしか植生しないので、違う。そこで、フランス語のウマノスズクサ属のウィキを見たところ、 フランス本土では、Aristolochia clematitisAristolochia rotundaAristolochia pistolochiaAristolochia pallidaAristolochia paucinervisAristolochia sempervirensAristolochia clusii 種がリストされている、とあったので、この中の孰れかである。

「すぐり」原文は“groseilliers”。双子葉植物綱バラ目スグリ科スグリ属 Ribes の、こちらは恐らくセイヨウスグリ(フサスグリ)Ribes rubrumの、果實が赤色系を呈するもの(アカスグリ)、或いは、白色系に近いのもの(シロスグリ)を指していると思われる。

「黑すぐり」原文は“cassis”。こちらは前注と同じスグリ属 Ribes の、クロスグリ Ribes nigrum を指してゐる。食用飲料材料など、多岐に用いられる本種の実は、黒に見える濃い紫色を呈している。]

 

 

 

 

    La Tempête de Feuilles

 

   Il y a longtemps que Poil de Carotte, rêveur, observe la plus haute feuille du grand peuplier.

   Il songe creux et attend qu’elle remue.

   Elle semble détachée de l’arbre, vivre à part, seule, sans queue, libre.

   Chaque jour, elle se dore au premier et au dernier rayon du soleil.

   Depuis midi, elle garde une immobilité de morte, plutôt tache que feuille, et Poil de Carotte perd patience, mal à son aise, lorsque enfin elle fait signe.

   Au-dessous d’elle, une feuille proche fait le même signe. D’autres feuilles le répètent, le communiquent aux feuilles voisines qui le passent rapidement.

   Et c’est un signe d’alarme, car, à l’horizon, paraît l’ourlet d’une calotte brune.

   Le peuplier déjà frissonne ! Il tente de se mouvoir, de déplacer les pesantes couches d’air qui le gênent.

   Son inquiétude gagne le hêtre, un chêne, des marronniers, et tous les arbres du jardin s’avertissent, par gestes, qu’au ciel la calotte s’élargit, pousse en avant sa bordure nette et sombre.

   D’abord, ils excitent leurs branches minces et font taire les oiseaux, le merle qui lançait une note au hasard, comme un pois cru, la tourterelle que Poil de Carotte voyait tout à l’heure verser, par saccades, les roucoulements de sa gorge peinte, et la pie insupportable avec sa queue de pie.

   Puis ils mettent leurs grosses tentacules en branle pour effrayer l’ennemi.

   La calotte livide continue son invasion lente.

   Elle voûte peu à peu le ciel. Elle refoule l’azur, bouche les trous qui laisseraient pénétrer l’air, prépare l’étouffement de Poil de Carotte. Parfois, on dirait qu’elle faiblit sous son propre poids et va tomber sur le village ; mais elle s’arrête à la pointe du clocher, dans la crainte de s’y déchirer.

   La voilà si près que, sans autre provocation, la panique commence, les clameurs s’élèvent.

   Les arbres mêlent leurs masses confuses et courroucées au fond desquelles Poil de Carotte imagine des nids pleins d’yeux ronds et de becs blancs. Les cimes plongent et se redressent comme des têtes brusquement réveillées. Les feuilles s’envolent par bandes, reviennent aussitôt, peureuses, apprivoisées, et tâchent de se raccrocher. Celles de l’acacia, fines, soupirent ; celles du bouleau écorché se plaignent ; celles du marronnier sifflent, et les aristoloches grimpantes clapotent en se poursuivant sur le mur.

   Plus bas, les pommiers trapus secouent leurs pommes, frappant le sol de coups sourds.

   Plus bas, les groseilliers saignent des gouttes rouges, et les cassis des gouttes d’encre.

   Et plus bas, les choux ivres agitent leurs oreilles d’âne et les oignons montés se cognent entre eux, cassent leurs boules gonflées de graines.

   Pourquoi ? Qu’ont-ils donc ? Et qu’est-ce que cela veut dire ? Il ne tonne pas. Il ne grêle pas. Ni un éclair, ni une goutte de pluie. Mais c’est le noir orageux d’en haut, cette nuit silencieuse au milieu du jour qui les affole, qui épouvante Poil de Carotte.

   Maintenant, la calotte s’est toute déployée sous le soleil masqué.

   Elle bouge, Poil de Carotte le sait ; elle glisse et, faite de nuages mobiles, elle fuira : il reverra le soleil. Pourtant, bien qu’elle plafonne le ciel entier, elle lui serre la tête, au front. Il ferme les yeux et elle lui bande douloureusement les paupières.

   Il fourre aussi ses doigts dans ses oreilles. Mais la tempête entre chez lui, du dehors, avec ses cris, son tourbillon.

   Elle ramasse son coeur comme un papier de rue.

   Elle le froisse, le chiffonne, le roule, le réduit.

   Et Poil de Carotte n’a bientôt plus qu’une boulette de coeur.

 

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「的人」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 的人【てきじん】 〔雲萍雑志巻四〕難波《なには》の野外に、的人といふ野業仕(やげふし)[やぶちゃん注:大道芸人の類いであろう。]あり。裸にて腹をさし出し、この処をねらひ打てと、自らわが腹を指さし詈《ののし》り、丸《たま》を込みたる鉄砲をうたせて、黄金《こがね》をもてかけろく[やぶちゃん注:「賭祿」。物を賭けて勝負をすること。ここはその際の「賭け物」を指す。]としつるに、衆人なぐさみにこれを打てども、飛鳥《ひてう》の如く身をかはし丸を避くるに、あたるもの絶えてなかりしかば、そのころ世上に噂いと高かり。さて砲術の師範する翁何某(おきななにがし)といふあり。その術のすぐれたるをもて、門弟百有余人あり。ある日、門人来り集りて、何くれと物がたりのちなみに、的人が術を感じ、かゝる怪しきものを打ち得ざるは、我らが芸の瑕瑾(かきん)[やぶちゃん注:恥。名折れ。]なりとて、師に請ひて、かれをうちて給はれといふに師はこの事を聞くよりも、頭《かしら》をふりて云ひけるは、正統《しやうとう》の火術《くわじゆつ》を伝へ教ゆるものの、さやうの野業仕を打ち殺すなどと云ふことは、予が教導の法《はふ》[やぶちゃん注:一言言っておくと、「法」は一般の用語としての「法」はこの歴史的仮名遣「はふ」で正しい。但し、仏教用語の場合は「ほふ」と読むことになっていることは知っておかれるとよい。]にそむけり、無益の殺生なれば捨ておくべしとて、門人を諭《さと》せども、おのおの聊かもうけ引かず。いかに師の仰せらるゝこととても、世にもしさる業《わざ》を為す輩《やから》多くあらば、火術は学びてせんなし、今より師弟の約を辞し、しりぞき申すべしと、詞《ことば》をそろへて述べければ、師も業《げふ》にさゝはり[やぶちゃん注:「さ障(さはり)」で名詞。「さ」は接頭語で語調を整えるもの。「さしさわりになること・さまたげとなること・不具合・邪魔」の意。]あれば、是非におよばず。さらば的人を打つべしとて、そのことを庁《ちやう》[やぶちゃん注:公儀の役所。]に訴へ出《いで》て、見使《けんし》[やぶちゃん注:奉行の認定した公けの立会人。]を請ひて、門人あまた引つれ、野外に至りて、的人を打たんといふに、的人をどり出て、こゝをこそ打ち給へと敲《たた》くに、師は鉄砲に玉をこめ、火ぶたを切《きり》て衣類を打てば、的人煙《けむ》りの中《なか》に斃(たふ)れたり。門弟驚き平伏[やぶちゃん注:後掲する活字本では、『屈伏(くつぷく)』である。]して、師が砲術の妙を得たるを貴《たつと》び[やぶちゃん注:活字本に拠った。私は、この字は「たふとび」と読むべきとする人種である。]、いかなる法にて打ち止められしにか、奥儀《おくぎ》[やぶちゃん注:活字本では、ここでは『奥義(おくぎ)』である。但し、師の台詞中のそれは、『奥儀』となっている。]を許し給はれかしと、皆々しひて乞ひぬる時、この術、なんぞ奥儀あるべき、かの的人は狐《きつね》を役《えき》するなり、野干(やかん)、食《しよく》の為にかれに随ひ、身をその衣服の中に遁れて、形容《かたち》を迷惑の人に現はす、的人を打つものは虚空を打つなり、予はその遁れし衣服を打てば、野干の死骸もあるべきなりといはれたりしが、その翌日、はたして人の噂に、老狐の丸(たま)に当りて死(し)したるが、難波の里にありけるとぞ。師は能く道をおこなはれて、邪魔《じやま》のありかを知れる達人といふべし。

[やぶちゃん注:「鬼の面」で既出既注。文雅人柳沢淇園(きえん:好んだ唐風名は柳里恭(りゅうりきょう))の随筆とされるも、作者に疑問があり、偽作の可能性が強い。そのために宵曲の割注の頭に「伝」と附されてあるのである。国立国会図書館デジタルコレクションの「名家漫筆集」 『帝國文庫』第二十三篇(長谷川天渓校訂・昭和四(一九二九)年博文館刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る(右ページ終りから二行目以降)。読みは、積極的にそれに拠った。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「手形傘」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

        

 

 手形傘【てがたがあ】 〔裏見寒話巻二〕常の長柄の傘なり。中古徳行いみじき勇猛剛強なる住僧ありしとかや。国中その力を賞して朝比奈和尚と云ふ。或る時当寺へ亡者来れり。既に葬礼を行ひ、和尚引導に立つ時、雷鳴烈しくして疾風暴雨、衆僧も施主も大いに恐れ怖(をのの)く所に、黒雲、堂中に舞下り、電光眼《まなこ》を突く。和尚も龕(がん)<寺の塔>の上に登りて、読経して居られしに、忽然として一声の迅雷、龕の上へ落掛ると見えしが、雲の中より大手を出して、和尚を摑み除かんとす。和尚も腕を伸《のば》し怪物の腕をつかみ、暫く争ふと見えしが、雲中より怪異の獣《けだもの》を引下《ひきおろ》し、和尚膝の下に敷き、怪物刎(はね)返らんとすれども、猛力に挫《くじ》かれて働き得ず。その内に雲晴渡りて、雨止み風静まり、怪獣登らんとするに雲気なく、色々悲しみて命を乞ふ。住侶《ぢゆうりよ》[やぶちゃん注:住僧に同じ。]怒て曰く、□□□[やぶちゃん注:底本の当該部(最上段後ろから六行目)は、二字半から三字分程の長方形の欠字表記となっている。しかし、後に掲げる活字本では、別底本で、欠字はなく、前の部分や後の部分が、かなり異なり、『……雲氣なく、頻りに悲しみ“て命の助からん事を乞。和尙怒て此事を聞入され共、衆僧命丈は助け遣さん事を願ふ。然らば事故以後、我同宗の亡者を妨げ、……』となっている。是非、正字表現のそちらを読まれたい。]悲しむ事甚し。衆僧も彼が為に一命を助けん事を願ふ。和尚曰く、自今我同宗の亡者を妨げ、または時宗の人たらば、在俗の家たりといふとも、雷落《おつ》る事有るべからず。怪物悦んで肯(うけが)ふ。和尚の云ふ。然らばこの約束相違有るべからず、証文を書けと云ふ。怪物曰く、臣《しん》[やぶちゃん注:和尚に対して遜った自称。]は深山の怪獣、字を学びし事なし、願くば[やぶちゃん注:活字本は『願くは』と清音。私はその方が好きだ。]その証文を免(ゆる)せ。和尚云ふ。然《しか》らば己れが掌《てのひら》に墨を付け、この傘に手形を押すべしとて、即ちその通りになす。今に於いてこの長柄傘を葬送の時は必ずさすと云ふ。六月蟲干の時、諸人に見す。其手の跡、貓(ねこ)の類《たぐひ》にもあらんか、猫より至極大いなりといふ。[やぶちゃん注:逆に活字本では、この最後の一文がない。

[やぶちゃん注:この怪物、雷鳴とともに現われ、お和尚に引き落とされているところからは、まさに怪奇談に出現する「雷獸(らいじう)」とすべきところなのに(おまけに人語まで操っているのは、私の知るそれでは珍しい部類である)、そう書いていないのは不審である。「雷獸」は、私のものでは、「耳嚢 巻之六 市中へ出し奇獸の事」(挿絵有り)、

「谷の響 五の卷 五 怪獸」、また、『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「十四」』(私の注に挿絵有り)がよかろう。手っ取り早く、総覧的に読むなら、ウィキの「雷獣」がある。

「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここで正字表現で視認出来るが、本文注で書いた通り、かなりの異同がある別底本である。

「貓(ねこ)の類にもあらんか、猫より至極大いなりといふ。」の「貓」と「猫」の違いはママ。意味は同じくネコを指し、異なった意味は基本的には、ない(熟語になると、別種となることはある)。「拝島大師」「本覚院」の公式サイト内の「【漢字講座】猫・貓(ねこ)」によれば(ちょっと叙述に不全があるので、私が少し補填しておいた)、『実は猫という漢字は「ねこ」に相応しくないのです。猫の偏は獣偏(けだもの偏)』[やぶちゃん注:ママ。通常は「けものへん」。]『ですが、犬偏という言い方もあります。犬の偏に苗と書いて猫になるのでは、犬と猫が同類になってしまう。ねこは猫という漢字ではイヤだというでしょう。ねこは貓が正字です。豸偏』(通常は「むじな」「むじなへん」と読む)『なのです。豸は獣が背を長くし、飛び上がって獲物に襲いかかろうとする様を表わします。ねこの漢字にぴったりです。貓も猫も右のつくりには苗があります。その音は』『びょう』、『現在の中国語では』『みゃお』『(miao)ですが、猫・貓の啼き声「にゃおにゃお」を現在の中国人は「みゃおみゃお」、昔の中国人は「びょうびょう」と聞こえたのです。猫・貓のつくりの苗の意味は田圃の「なえ」ですが』、『何の関係もありません。ただ猫・貓の音を苗の音に借りたのです。要するに「にゃおにゃお」「みゃおみゃお」と啼く獣が貓・猫なのです。豸偏の獣には豹(ひょう)・豺(やまいぬ)・貂(てん)・貉(むじな)・貍(たぬき)・貘(獏、ばく)などが有ります。豹は虎に似ているので彪という漢字もあります。容貌の貌も豸偏ですが、顔を言います。かたちの意味です』。『中国では猫の熟語はなく、貓の熟語ばかりです。ただ日本では貓をねこの漢字に使うことが少ないので、逆に猫の熟語ばかりです。まず、』貓『・猫共通の熟語を挙げますと、猫の額(ひたい)、猫額大』(びょうがくだい:猫の額ほどの大きさ。「非常に狭いこと」を指す熟語。)『があります。猫はひたいがせまいので猫の額の土地という言い方があります』。『猫目、貓目はきらきら輝く目ですが、猫目珠、貓目珠、猫目石、貓目石』(総て「ねこめいし」と訓じてよい)『という宝石があります。猫足、貓足は香炉などの足で装飾的な卓台、テ―ブル、膳の足に使われますが、猫脚、貓脚とも言います』。『猫・貓が犬と根本的に異なる動物だと日本人が考えたのは、猫は化けることがあるということです。化け猫ですが、中国でも貓鬼、貓王という怪物が居ます。貓股は日本でも猫股、能く化けて人を害すと言われました。日本の佐賀鍋島の化け猫は有名な話です』とあった。]

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「自分の意見」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Jibunnoiken

 

     自分の意見

 

 

 ルピツク氏、兄貴のフエリツクス、姉のエルネスチイヌ、それと、にんじん、この四人は、根のついた切珠が燃えてゐる暖爐の傍らで、寢るまでの時間を過す。四つの椅子が、それぞれ前脚を中心にして前後に搖れる。議論をしてゐるのだ。で、にんじんは、ルピツク夫人がそこにいない間に、自分一個の意見を陳べるのである。

 「僕としちやあ、家族つていふ名義は、凡そ意味のないもんだと思ふんだ。だからさ、父さん、僕は、父さんを愛してるね。ところが、父さんを愛してるつていふのは、僕の父さんだからといふわけぢやないんだ。僕の友だちだからさ。實際、父さんにや、父親としての資格なんか、まるでないんだもの。しかし、僕あ、父さんの友情を、深い恩惠として眺めてゐる。それは決して報酬といふやうなもんぢやない。しかも、寬大にそれを與へ得るんだ」

 「ふむ」

と、ルピツク氏は應(こた)える。

 「おれはどうだい?」

 「あたしは?」

と、兄貴のフエリツクスに、姉のエルネスチイヌである。

 「おんなじことさ」と、にんじんは云ふ――「偶然が、たゞ君達を、僕の兄、僕の姉と決めたゞけだ。それを僕が君達に感謝するわけはないだらう。僕たち三人が同時にルピツクの姓を名乘つてるからつて、それは誰の罪だ? 君たちは、それを拒むことはできなかつたんだ。望んでもゐない血緣に繫がれることが、君たち、滿足かどうか、僕あ、それを知る必要もない。たゞ、兄さん、僕あ、君の庇護に對して、それから、姉さん、君の手厚い心盡しに對して、僕あお禮を云ふよ」

 「甚だ行き屆きません」[やぶちゃん注:原文は“À ton service”で、「御遠慮なく」「どういたしまして」であるが、謙遜めいたおちゃらかしに過ぎない。]

と、兄貴のフエリツクスは云ふ。

 「何處から考へついたの、そんな夢みたいなこと?」

 姉のエルネステイヌはいふ。

 「それに、僕の云つてることは・・・」と、にんじんは附け加へる――「一般的には、たしかにさう云へるんだ。個人的の問題は避けよう。だから、母さんが若し此處にゐれば、母さんの前で、僕あ、おんなじことを云ふよ」

 「二度は云へないだらう」

 と、兄貴のフエリツクスが云ふ。

 「僕の話の、どういふところが惡いの?」と、にんじんは答へる――「僕の考へを變に取らないでおくれよ。僕に愛情が缺けてゐると思つたら間違ひだ。僕あ、これで、見かけよりや、兄さんを愛してゐるんだぜ。しかし、この愛情たるや、月並な、本能的な、紋切型のやうなもんぢやない。意志が働いてゐる。理性に導かれてゐる。云はゞ論理的なものだ。さうだ、論理的、僕の探してゐた言葉はこれだ」

 「おいおい、その癖は何時やめるんだい、自分で意味のわからんやうな言葉をやたら使ふ癖は・・・?」

 ルピツク氏は、さういつて起ち上つた。寢に行くのである。が、彼はなほ言葉をついだ――

 「殊に、そいつを、お前の年で、ほかのものに言つて聞かせるなんて・・・。若し亡くなつたお前のお祖父さんに、そんな輕口をわしがこれつばかりでも言つてみろ。早速、蹴つ飛ばされるか、ひつぱたかれるかして、わしがどこまでもお祖父さんの息子だつてことを知らされるだけだ」

 「暇つぶしに話してるんだからいゝぢやないの」

と、にんじんは、そろそろ不安である。

 「默つてる方がなほいゝ」

 ルピツク氏は、蠟燭を取り上げた。

 父親の姿は消える。兄貴のフエリツクスが、その後にくつついて行く。

 「ぢや、失敬、昔のお灸友達!」

と、彼はにんじんに云ふ。

 それから、姉のエルネステイヌが座を起つ。そして、嚴かに――

 「おやすみなさい」

と、云つた。

 にんじんは、ひとり取り殘されて、途方に暮れる。

 昨日、ルピツク氏は、物の考へ方について、もつと修行をしろと、彼に注意したのである――

 「我々つて、いつたいなんだ? 我々なんて、ありやせん。總ての人つていふのは、誰でもないんだ。お前は、聞いてきたことをぺらぺら言ひすぎる。ちつとは自分で考へるやうにしろ。自分一個の意見を云へ。初めは、一つきりでもかまはん」

 最初に試みたその意見が、さんざんなあしらひを受けたので、にんじんは、煖爐の火に灰をかぶせ、椅子を壁に沿つて並べ、柱時計にお辭儀ぎをして、部屋へ引き退る。その部屋といふのは、穴倉へ降りる階段に通じてゐて、みなが穴倉の間と呼んでゐるのである。夏は凉しくて氣持のいゝ部屋だ。獵の獲物は、そこへ置くと裕に一週間はもつのである。最近殺した兎が、皿の中で鼻から血を出してゐる。幾つもの籠は、牝鷄にやる粒餌でいつぱいだ。にんじんは、兩腕をまくり上げ、臂まで突つ込んで、そいつを搔き廻す。何時までやつても飽きない。

 平生なら、外套掛けに引つ掛けてある家中のものゝ着物が、彼の眼を惹くのである。それはまるで、めいめいの長靴を、きちんと上の棚にのせておいて、さて悠々と首を縊つた自殺者のやうだ。[やぶちゃん注:戦後版では『家じゅう』。は前例に徴して「うちぢゆう」と訓じておく。]

 しかし、今夜は、にんじんは怖くないのである。寢臺の下を覗(のぞ)いて見ることもしない。月の光も、木の影も、庭の井戶さへも、氣味が惡くない。井戶と云へば、こいつは、窓から飛び込みたいもののために、わざわざ堀[やぶちゃん注:ママ。近世はおろか、戦前の作家でもこの字を「掘」に代用する。]つてあるやうに見えるのだ。

 怖いと思えば怖いのだらう。が、彼は、もう怖いなんていふことは考へない。シヤツ一枚で、赤い敷石の上を、なるたけ冷たくないやうに踵だけで步くことも忘れてゐる。

 それから、寢床へはひり、濕つた漆喰(しつくひ)の處どころにできた水脹(みづぶく)れを見つめながら、彼は、自分の意見を推し進める。なるほど、自分のために納(しま)つておかねばならぬから、これを自分の意見といふのであらう。

 

[やぶちゃん注:原本は、ここから。

「お灸友達」原文は“vieux camarade à la grillade”。“vieux camarade”は「昔馴染みの友」で、“grillade”は「グリルすること・炙った鉄や鉄製の網による焼肉料理」という意味である。昭和四五(一九七〇)年明治図書刊の『明治図書中学生文庫』14の倉田清氏訳の「にんじん」でも、倉田氏は同じく「お灸友だち」と訳し、以下のやうな注を附しておられる。『幼い頃、いたずらをしたこらしめのために、いっしょに母からお灸をすえられた友だち、つまり』(互いに悪戯好きだった)『兄弟という意味』とあるのだが、私は不学ながら、「お灸友だち」といふ語を聞いたことがない。解説されている意味は、(そうした「厳しい折檻」を「グリルすること」に喩えているという点では)なるほど分からないではないが、それにしても、やっぱり聞きなれない妙な訳語と言う奇異な印象が残る。一九九五年臨川書店刊の佃裕文氏訳の『ジュール・ルナール全集』第三巻では、あっさりと「いとしの友!」と訳しておられる。私は、寧ろ、これでいいと思う。注なしでは分からない訳語は私には良訳とは思われないし、私は中学二年生の時にここを読んだ際、『本当に日本人の大人は(フランス人ではない)、こんな「お灸友だち」といふ言葉を使うんだ!』と、大阿呆に感心してしまったからである。なお、医療としての「灸」は古くに中国・日本からヨーロッパに齎されて、医学療法としては知られてはいた。しかし、折檻としての「お灸をすえる」という表現に相当する逐語的な言葉はないように私は感じる。

「庭の井戶」:この「井戸」は「不吉な井戸」である。それは、戦後版(リンクは私のサイト版一括HTML版)の最後の岸田国士氏の解説『「にんじん」とルナアルについて』の中の一節でも明らかに示されてある。

   *

 さて、彼の死後十数年の後発表された「日記」を読むとわかるのだが、「にんじん」の父親ルピック氏は、ある日、なんの前ぶれもなく、寝室に閉じこもったまま、猟銃で見事に自殺した、という記録があり、それから、母親ルピック夫人も、これはずっと後のことであるが、「にんじん」と縁故のある井戸の中に落ちて死んでいるのを、人々が発見したことが、はっきり誌されてある。故意か、過失か、それはわからない。この二つの陰惨な事件は、作品「にんじん」のなかに取り扱われていないのは年代からいっても当然のことであるが、この種のドラマを予想させるような険悪な雰囲気はただ一か所を除いてまったくないといってよい。少なくとも、「にんじん」という作品の印象は、そういう面を強く出すか出さないかで、全然違ってくる。作者ルナアルが、小説「にんじん」に織り込もうとした主題の精神は、彼の真実を愛し、執拗(しつよう)なまでに事物の核心に迫ろうとする態度ゆえに、さらに、なにものかを附け加えることによって、一個の美しい物語を貫き、支える精神となっていることがわかる。彼は写実主要たるべく、あまりに詩人であった。

   *

なお、この不幸な父と母の死の事件については、以上の岸田氏の解説中の『「にんじん」の父親ルピック氏は、ある日、なんの前ぶれもなく、寝室に閉じこもったまま、猟銃で見事に自殺した、という記録があり、それから、母親ルピック夫人も、これはずっと後のことであるが、「にんじん」と縁故のある井戸の中に落ちて死んでいるのを、人々が発見したことが、はっきり誌されてある。』という箇所に対して、私は、以下のように注した。

   *

私はここにこの注を附す事を幾分かためらっていたが、それはルナールを愛する人にとって、やはり大切な事実と考え、ここに附記することとする。1999年臨川書店刊の佃裕文の「ジュール・ルナール全集16」の年譜によれば、ジュール・ルナールの父、フランソワ・ルナール(François Renard)氏は1897年6月19日、不治の病に冒されていることを知り、心臓に銃を発射して自殺している(この「不治の病」の病名は年譜上では明確に示されてはいない。直前の同年年譜には肺鬱血とあり、重篤な左心不全の心臓病等が想定される)。ジュール33歳、「にんじん」出版の二年後のことであった。その後、ジュールは亡父の後を慕うように狩猟に夢中になり、その年の11月迄、創作活動から離れていることが年譜から窺われる。そして、ジュールの母、アンヌ=ローザ、ルナール(AnneRosa Renard)夫人は1909年8月5日、家の井戸で溺死した。『事故かあるいは自殺。――ルナールは書いている《…事故だと私は思う》(八月十日、エドモン・エセー宛て書簡)』(上記年譜より引用)。ジュール45歳、これに先立つ1907年のカルマン・レヴィ社から刊行された「にんじん」はジュール自身の書簡によれば1908年7月6日現在で8万部を売っていた――ジュール・ルナールは母の亡くなった翌年、1910年5月22日、亡くなった。彼は、母の亡くなった直後、「あの」思い出の両親の家を改装し、そこに住むことを心待ちにしていた、が、それは遂に叶わなかったのである――

   *]

 

 

 

 

     Les Idées personnelles

 

  1. Lepic, grand frère Félix, soeur Ernestine et Poil de Carotte veillent près de la cheminée où brûle une souche avec ses racines, et les quatre chaises se balancent sur leurs pieds de devant. On discute et Poil de Carotte, pendant que madame Lepic n’est pas là, développe ses idées personnelles.

   Pour moi, dit-il, les titres de famille ne signifient rien. Ainsi, papa, tu sais comme je t’aime ! or, je t’aime, non parce que tu es mon père ; je t’aime, parce que tu es mon ami. En effet, tu n’as aucun mérite à être mon père, mais je regarde ton amitié comme une haute faveur que tu ne me dois pas et que tu m’accordes généreusement.

   Ah ! répond M. Lepic.

   Et moi, et moi ? demandent grand frère Félix et soeur Ernestine.

   C’est la même chose, dit Poil de Carotte. Le hasard vous a faits mon frère et ma soeur. Pourquoi vous en serais-je reconnaissant ? À qui la faute, si nous sommes tous trois des Lepic ? Vous ne pouviez l’empêcher. Inutile que je vous sache gré d’une parenté involontaire. Je vous remercie seulement, toi, frère, de ta protection, et toi, soeur, de tes soins efficaces.

   À ton service, dit grand frère Félix.

   Où va-t-il chercher ces réflexions de l’autre monde ? dit soeur Ernestine.

   Et ce que je dis, ajoute Poil de Carotte, je l’affirme d’une manière générale, j’évite les personnalités, et si maman était là, je le répéterais en sa présence.

   Tu ne le répéterais pas deux fois, dit grand frère Félix.

   Quel mal vois-tu à mes propos ? répond Poil de Carotte. Gardez-vous de dénaturer ma pensée ! Loin de manquer de coeur, je vous aime plus que je n’en ai l’air. Mais cette affection, au lieu d’être banale, d’instinct et de routine, est voulue, raisonnée, logique. Logique, voilà le terme que je cherchais.

   Quand perdras-tu la manie d’user de mots dont tu ne connais pas le sens, dit M. Lepic qui se lève pour aller se coucher, et de vouloir, à ton âge, en remontrer aux autres ? Si défunt votre grand-père m’avait entendu débiter le quart de tes balivernes, il m’aurait vite prouvé par un coup de pied et une claque que je n’étais toujours que son garçon.

   Il faut bien causer pour passer le temps, dit Poil de Carotte déjà inquiet.

   Il vaut encore mieux te taire, dit M. Lepic, une bougie à la main.

   Et il disparaît. Grand frère Félix le suit.

   Au plaisir, vieux camarade à la grillade ! dit-il à Poil de Carotte.

   Puis soeur Ernestine se dresse et grave :

   Bonsoir, cher ami ! dit-elle.

   Poil de Carotte reste seul, dérouté.

   Hier, M. Lepic lui conseillait d’apprendre à réfléchir :

   Qui ça, on ? lui disait-il. On n’existe pas. Tout le monde, ce n’est personne. Tu récites trop ce que tu écoutes. Tâche de penser un peu par toi-même. Exprime des idées personnelles, n’en aurais-tu qu’une pour commencer.

   La première qu’il risque étant mal accueillie, Poil de Carotte couvre le feu, range les chaises le long du mur, salue l’horloge et se retire dans la chambre où donne l’escalier d’une cave et qu’on appelle la chambre de la cave. C’est une chambre fraîche et agréable en été. Le gibier s’y conserve facilement une semaine. Le dernier lièvre tué saigne du nez dans une assiette. Il y a des corbeilles pleines de grain pour les poules et Poil de Carotte ne se lasse jamais de le remuer avec ses bras nus qu’il plonge jusqu’au coude.

   D’ordinaire les habits de toute la famille accrochés au portemanteau l’impressionnent. On dirait des suicidés qui viennent de se pendre après avoir eu la précaution de poser leurs bottines, en ordre, là-haut, sur la planche.

   Mais, ce soir, Poil de Carotte n’a pas peur. Il ne glisse pas un coup d’oeil sous le lit. Ni la lune ni les ombres ne l’effraient, ni le puits du jardin comme creusé là exprès pour qui voudrait s’y jeter par la fenêtre.

   Il aurait peur, s’il pensait à avoir peur, mais il n’y pense plus. En chemise, il oublie de ne marcher que sur les talons afin de moins sentir le froid du carreau rouge.

   Et dans le lit, les yeux aux ampoules du plâtre humide, il continue de développer ses idées personnelles, ainsi nommées parce qu’il faut les garder pour soi.

 

2023/12/09

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鶴の上の仙人」 / 「つ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 なお、本篇を以って、「つ」の部は終わっている。]

 

 鶴の上の仙人【つるのうえのせんにん】 〔奇異珍事録〕延享二年丑八月頃にも有りし。牛奥忠左衛門娘一歳の時、大村兵部方へ、近所の事、殊に友達なれば、その日も行きて物見に遊び居たり。(兵部屋敷は築戸下《つくどした》、忠左衛門はその小日向《こびなた》住)早《はや》七ツ過<午後四時>の頃ほひ、西より東をさして鶴一羽飛び行けり。その鶴の上に小さき仙人乗り、巻物を見ながら、飛行《ひぎやう》せしを見たり。右の兵部も見たりとなり。忽ち向ふ屋鋪落合五左衛門長屋に被ㇾ隔《へだてられ》て見えず。鶴は鳶《とび》程と覚えしよし。

[やぶちゃん注:「奇異珍事録」は既出既注だが、再掲すると、幕臣で戯作者にして俳人・狂歌師でもあった木室卯雲(きむろぼううん 正徳四(一七一四)年~天明三(一七八三)年:彼の狂歌一首が幕府高官の目にとまった縁で御広敷番頭(おひろしきばんがしら)に昇進したとされる。四方赤良らの天明狂歌に参加した。噺本「鹿(か)の子餅」は江戸小咄流行の濫觴となった)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第一(大正五(一九一六)年国書刊行会刊)のこちら(「二の卷」の掉尾『○仙人』)で視認出来る。

「延享二年丑八月頃」同旧暦八月一日は、グレゴリオ暦で一七四五年八月二十七日。

「牛奥忠左衛門」「寛政重脩諸家譜」巻百七十八に牛奥(神尾)忠左衛門昌房とあり、没年は天明二(一七八二)年五月二十三日没とある。

「築戸下」「築戸」は現在の東京都新宿区津久戸町(つくどちょう)附近であろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「小日向」東京都文京区小日向。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鶴昇天」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鶴昇天【つるしょうてん】 〔北窻瑣談後編巻一〕甲斐国鶴の郡《こほり》に、二千余年の鶴有り。従来三羽有りけるが、元禄年間その一羽死せり。二羽のみ残りありけるに、寛政五年何方《いづかた》へ去りけるや見えず。土俗の説には、昇天し去れりと云ふ。この鶴の郡は、富士山の麓にて湖水も多く、衆山《しゆざん》連(つらな)り聳え、奇妙の僻地《へきち》なりとぞ。鶴の郡と名付けし事も、この鶴居《を》る故なり。鶴の関などいふ所もありて、その山より外へは鶴出《いづ》ることなし。官にも聞えたる事にて、先年鶴の死せし時にも、役人下向有りて仔細を改め、羽毛は悉く官へ納《い》れりとぞ。上俗の云伝《いひつた》へには、秦《しん》の徐福《ぢよふく》、富士山に来り、仙薬を求めけるが、遂に秦に帰らず、此所《ここ》に住《ぢゆう》して、後に鶴に化《か》しけるなりとぞ。この事、甲斐国轟(とどろき)村<山梨県甲州市勝沼町等々力>の僧闡因師(ぜんいんし)物語りなりき。

[やぶちゃん注:「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで当該箇所が視認出来る(左ページ三行目から)。

「甲斐国鶴の郡」旧都留郡。古いそれは当該ウィキを参照されたい。

「元禄年間」一六八八年から一七〇四年まで。徳川綱吉の治世。

「二千余年の鶴有り」んな、わけ、ない。野生では凡そ二十年から三十年、動物園などで飼育されている場合は、もう少し長くなることもあるが、それでも人間よりは短く、五十年前後だそうである。

「鶴の関」甲州街道十二関の一つであった鶴瀬関所跡(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)であろう。

「秦の徐福」当該ウィキをどうぞ。

「鶴に化《か》しけるなり」本邦の徐福伝承の一つ。現在、山梨県富士吉田市下吉田のここにある福源寺に「鶴塚(徐福の墓所)」と伝えるものがある。同寺のサイド・パネルのこの画像がそれ。

「甲斐国轟(とどろき)村」山梨県甲州市勝沼町(かつぬまちょう)等々力(とどろき)

「僧闡因師(ぜんいんし)」詳細事績不詳。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「釣狐類話」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 釣狐類話【つりぎつねるいわ】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻三〕遠州の辺にて狐を釣りてすぎはひをなせし者有りしが、明和の頃、御中陰の事有りて鳴物停止なりしに、商売の事なれば、彼者狐を釣りゐけるに、一人の役人来りて以ての外に憤り、公儀御禁じの折から、かゝる業《わざ》なせる事の不届なりとて厳しく叱り、右わなをも取上げける間、彼者大いに恐れ、品々詫言《わびごと》せしが、何分合点せざる故、酒代とて銭二百文差出し、歎き詑びける故、彼者得心して帰りしが、猟師つくづく思ひけるは、この辺へ来《きた》るべき役人とも思はれず、酒代など取りて帰りし始末怪しく思ひて、彼者が行衛見えざる頃に至りて、又々罠をしかけ、その身は遙かに脇なる所に忍びて伺ひしに、夜明《よあけ》に至りて果して狐を一つ釣り獲《とり》しに、縄にて帯をして、宵に与えし銭を右帯に挾み居りしと、遠州にて専ら咄す由、地改《ぢあらた》めにて遣《つかは》しける御普請役の帰りて咄しける。鷺・大蔵が家の釣狐に似寄りし物語、証となしがたけれど、聞きし儘を爰に記し置きぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之三 狐獵師を欺し事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「礫打つ小者」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 礫打つ小者【つぶてうつこもの】 〔続蓬窻夜話〕京四条の坊門西の洞院辺に鱗形屋作十郎と云ふ染物屋あり。或る時此家の座鋪へ、いづくともなく礫を五ツ六ツ打ちければ、童《わらんべ》の業ならんと思ひ、走り出て見るに子共もなし。何者の打ちけんと怪しみながら内へ入りけるに、また頻りに打ちけるほどに、こはいかにと家内驚き騒ぎ、近所を尋ね捜せども、更に人の打つ影も見えず。暫く鎮まりてはまた打ちまた打ちしけるほどに、危なき事限りなし。されどもその礫人には中(あた)らず、只四方の戸障子・壁・唐紙などにあたる音強くして、肝をつぶす事止む時なし。斯くて三四日も昼夜絶えず打ちければ、これ只事に非ずとて、俄かに祈禱を頼み、札を張りなどしけれども、更に止まず。後には打ちたる礫をまた拾ひ取りて打ちけるほどに、折節は向ひの家の格子にも当り、隣の家の内にも落ちければ、作十郎もせんかたなく、せめて若し止まんかとて、打ちたる礫を拾ひ取りて、石の表ヘ一つ一つ不動明王・愛染明王・毘沙門天王・摩利支天などと、仏名《ぶつみやう》を書《かき》て置きけれども、直ぐにその不動をも愛染をもまた取りて打ち出しければ、今は何とせんかたなく、あきれはてて居《をり》たる処に、美濃屋久兵衛といへる手間取《てまどり》[やぶちゃん注:手間賃を払って雇われている下男。]のいひけるは、我れこの礫を打つ者を確かに見たり、外《そと》の者には非ず、則ち家内に召し仕ひ玉へる小者なり、急ぎ此者に暇《いとま》を出し玉へと云ふ。この小者は先月より召し抱へたる小者にて、山崎辺の者なり。礫を打ちける音を殊に恐ろしがりて、家内の女童《めのわらは》と同じやうに驚きて隠れ屈(かが)む者の、何しに彼が打つべきと思ひけれども、人の言ふ事なれば、若しさもやと思ひ、先づ小者を呼び付け、汝何とてこの家へ此の如く礫をば打つぞといへば、小者大きに驚き、我れ全く礫は打ち申さず、余りの恐ろしさに、此家に最早奉公はなるまじ、弥〻(いよいよ)礫も静まらずば暇を申さんと存ずるほど恐ろしく候者の、何しに我等が礫を打ち申すべきと、涙を流していひければ、げにもその風情、打つべき気色にもあらねば、如何はせんと思ひけれども、久兵衛是非に暇を出し玉へ、彼は己れが礫を打つ事を己れは知らず、然れども打つ者は彼に極まりたり、我れ確かに見たりと云ひければ、作十郎重ねて小者を呼び、汝が見る如く様々祈禱をして札をも張れども、兎角礫をば打ち止まず、その方は殊に恐ろしく思ふと見えたれば、先づ礫を打止むまで在所へ帰りて休息すべし、打ち止みたらばまた呼び上《あげ》すべしと言ひければ、小者大きに喜び、取る物とりあへず、その日の昼時《ひるどき》に在所へ帰りけるが、この小者帰りて後、寔(まこと)に礫をば打ち止みけり。亭主大きに喜びて久兵衛に向ひ、汝は何としてこの小者が打ちたるを見たるぞと問へば、久兵衛答へて、我れ先日厠に居ながら、戸の𨻶よりのぞき居《ゐ》たれば、この小者石二ツ三ツ拾う[やぶちゃん注:ママ。]て打ち上げたり、偖(さて)は彼が打つよと思ひて、それより心を付けて見たるに、三四度も打ちたるを見付けぬ、されどもかの小者も己れが打つと云ふ事を、己れは夢にも知らぬと見えたり、いかにと云ふに、その打つ時の有様を窺ひ見るに、その気《き》有頂天(うちやうてん)になりて、手の舞ひ足の蹈む事をも覚えざる風情なりし、我れつくづく思ふに、狐狸などの小者が心を奪ひ、その手を借りて打たする者ならんと言ひければ、作十郎肝をつぶし、かかる者は召し抱へても詮なしとて、永く暇を出しける。不思議なりし事どもなり。

[やぶちゃん注:「続蓬窻夜話」「蟒」で既出既注だが、本書の「引用書目一覽表」のこちらによれば、作者は「矼(こう)某」で、享保十一年跋。写本しかないようである。原本に当たれない。さても、この「礫の怪」は、珍しく、「池袋の女」「池尻の女」などのような(ご存知ない方は、私の「耳嚢 巻之二 池尻村の女召使ふ間敷事」や、「北越奇談 巻之四 怪談 其三(少女絡みのポルターガイスト二例)」、また、『柳田國男「池袋の石打と飛驒の牛蒡種」』、及び、『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「南方雜記」パート 池袋の石打』等を先に読まれたい)未成年の少女が隠れて成しているのが真相である擬似怪談ではなく、恐らくは、成人の大人であり、しかも自身が、その行為を成していることを全く認識していないという点から見て、解離性障害(多重人格症)を持った精神病者のように思われる。但し、彼は、女童たちよりも、激しい恐怖を感じているところから見ると、別に性同一性障害も持っている可能性があり、そうすると、前に掲げたケースと、精神医学上では、類似するものなのかも知れない。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「礫打つ怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 礫打つ怪【つぶてうつかい】 〔四不語録巻六〕吉村何某は能州羽喰<石川県羽咋市>辺に居住す。或日同国一の宮は大社なる程に、参詣せんと只一人詣で、神前を拝し後の山へ行かんとす。神主これをとめて、みだりに行かざる所なり、いらざるものなりと云ふ。何某これを聞きて、神主も行くこと能はざるかと問ふ。みだりには行かず、神事に用ある時は身を潔めて行くと答ふ。何某云ふやう、さあらば我も行かむ、今日これへ参詣するにより、身を潔めて来れり、いさゝかも穢(けが)れたる事なしとて強ひて行く。神主再三とむれども、これを用ひず。さて何某が羽喰の宅へ、何処ともなく礫(つぶて)を打つこと頻りなり。妻子驚き噪(さわ)ぎ、急ぎ一の宮へ人を遣はし、何某に告ぐ。何某宅に帰り、定めてこのあたりの童部どもの所為ならむと、立腹して村中を相尋ぬるに、一人も礫打つ者これなく、弥増(いやまし)に打ちけり。その礫は砂まじりの小石なり。これ一の宮の坂に有る砂石なり。偖(さて)は一の宮にて、みだりに行くまじき所へ推《お》して行きつる故に、神のとがめ給ヘるならんと、妻子家僕は弥〻《いよいよ》恐懼れ(おぢおそ)れけれども、何某は少しも恐れず。憎き事かな、定めて狐狸の所作ならむと云ふ。二三夜も打ち止まず。或夜鶴の足を二つからげたるを打ちけり。何某もこれを見てかゝる鶴の足、この辺にあるべき物にあらず、我薬喰《くすりぐひ》のために去《さる》冬《ふゆ》鶴を料理す、その足を正しくくゝりて屋の裏に挾み置きしなり、定めてこれを打ちたるならむと、有りし所に行きて見ればこれなし。また暫く有て、味噌を一塊(ひとかたま)り炉火(ゐろり)の中へ打込む。これもまた我貯へ置きし味噌ならんと見せにつかはせば、案の如く味噌桶の中、拯(すく)ひ取りし跡有り。何某云ふやう、さてはこの味噌焼て肴とし、酒を呑めとの事ならんと、急ぎ酒を買ひ求め、かの味噌を肴として酒をよゝと己れも呑み、従者どもにも強ひてこれ飲ましむる処に、其後は礫打つことやみてけり。寛文年中の事なりとぞ。予<浅香山井>が知人吉村氏の物語りを直《ぢき》に聞きつると語る。

[やぶちゃん注:「天狗の礫」などと称し、私の怪奇談集にも枚挙に遑がないが、本篇は、後半部分にオリジナリティがあり、なかなか、いい。ただ、後半部にある〈鶴の脚〉や、〈味噌〉の話は、典型的な真相に迫っている。則ち、この礫の犯行者は、吉村何某の家に、一年以上前から入った未成年の下女が正体である可能性が極めて高い擬似怪談(超心理学で言うところの「意識的詐欺」)であると私は睨んでいる。この女は当然、そうした家内のこまごました事柄を知ることができ、さらに、吉村が無謀にも大社の「入らずの森」に行くことも知り得るからである。さればこそ、これは確かに起こった「事件」ではあるのである。ここで私が言っていることがよく判らない方は、次の「礫打つ小者」の私の注の冒頭に配した、私の過去の複数のリンク先を読まれんことを強く勧めるものである。

「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。

「同国一の宮は大社」現在の羽咋市寺家町(じけまち)にある能登國一宮氣多(けた)大社(グーグル・マップ・データ航空写真)。私は富山県高岡市伏木に六年住んだので、四度ほど行ったことがある。後背地の森は同神社公式サイトのこちらの『氣多大社社叢(入らずの森)』によれば、現在も、『気多神社の社叢は、神域「入らずの森」として神聖視され、神官も、年』一『回、社叢内の奥宮の神事を勤めるために目かくしをして通行するのみといわれる』とあった。

「寛文年中」一六六一年から一六七三年まで。徳川家綱の治世。]

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「銀貨」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 なお、本篇は三章からなるが、「一」と「二」の間は、ページ冒頭に各章を配した関係から、「一」の後に三行、「二」の前に二行分の行空けがあるが、ここでは、一律、総て二行空けにした。]

 

Ginka

 

     銀  貨

 

 

       

 

ルピツク夫人――お前、なんにも失(な)くしたもんはないかい、にんじん?

にんじん――ないよ。

ルピツク夫人――すぐに「ない」なんて、どうして云ふのさ、知りもしないくせに。まづカクシをひつくり返してごらん。[やぶちゃん注:「カクシ」ポケット。]

にんじん――(カクシの裏を引き出し、驢馬の耳みたいに垂れた袋を見つめてゐる)――あゝ、さうか。返してよ、母さん。

ルピツク夫人――返すつて、何をさ? 失くなつたもんがあるのかい。母さんは、いゝ加減に訊いて見たんだ。さうしたら、やつぱりさうだ。何を失くしたのさ。

にんじん――知らない。

ルピツク夫人――そらそら! 噓を吐こうと思つて、もう、うろうろしてるぢやないか、あわ喰つた[やぶちゃん注:ママ。]鮒(ふな)みたいに・・・。ゆつくり返事をおし。何を失くした? 獨樂かい?[やぶちゃん注:「吐こう」「つこう」。「獨樂」「こま」。]

にんじん――さうさう、うつかりしてた。獨樂だつた。さうだよ、母さん。

ルピツク夫人――そうぢやないよ、母さん。獨樂なもんか。こまは先週、あたしが取上げたんだ。[やぶちゃん注:確かに、原文は“Non, maman. Ce n’est pas ta toupie. Je te l’ai confisquée la semaine dernière.”で« »等で囲まれておらず、逐語的にはこうなるが、これは日本語としては達意の訳になっていない。臨川書店『全集』の佃氏の、『「『いいや、ママ』だろ。独楽じゃないよ。それは先週、母さんが取り上げたろう」』がよい。]

にんじん――そいぢや、小刀だ。[やぶちゃん注:「小刀」戦後版では、『こがたな』のっルビがある。それを採る。]

ルピツク夫人――どの小刀? 誰だい、小刀をくれたのは?

にんじん――だれでもない。

ルピツク夫人――情けない子だよ、お前は・・・。こんなこと云つてたら、きりがありやしない。まるで、母さんの前ぢや口が利けないみたいぢやないか。だけどね、今は二人つきりだ。母さんは優しく訊いてるんだよ。母親を愛してる息子は、なんでも母親にほんとのことを云はなけれや。どうだらう、母さんは、お前が、お金を失くしたんだと思ふがね。銀貨さ。母さんはなんにも知らないよ。でも、ちやんと見當がつくんだ。そうぢやないとは云はせないよ。そら、鼻が動いてゐる。

にんじん――母さん、そのお金は僕んでした。小父さんが、日曜にくれたんです。そいつを失くしちやつたんだ。僕が損しただけさ。惜しいけど、僕、諦めるよ。それに、そんなもん、大して欲しかないんだもの。銀貨の一つやそこら、あつたつて無くつたつて![やぶちゃん注:「小父さん」先の「名づけ親」「泉」「李(すもゝ)」に登場した名づけ親の、最終章の「にんじんのアルバム」の「八」で『名づけ親のピエエル爺さん』と、その名が明らかにされる人物。]

ルピツク夫人――それだ。減らず口は好い加減におし。それをまた、あたしが聽いてるからだ、お人好しみたいに。ぢや、なにかい、小父さんの志を無にしようつて云ふんだね。そんなにお前を甘やかしてくれるのに・・・。どんなに怒ることか。

にんじん――だつて、若しか僕が、そのお金を好きなことに使つたとしたらどうなの? それでも、一生そのお金の見張りをしてなけやいけないか知ら?

ルピツク夫人――うるさいツ! 偉(え)らさうに! このお金はね、失くしてもいけないし、ことわらない前(さき)に使つてもいけません。これやもうお前に渡さないよ。代りがあるなら持つといで。探しといで。造れるなら造つてごらん。まあ、そこはいゝやうにするさ。あつちへおいで。つべこべ云はずに!

にんじん――はあ。[やぶちゃん注:原文は“oui, maman”で、「はい、母さん」。決して、ここで現今の高校生の人を小ばかにしたやうな、「ハア?」をやつてゐる訳ではない。念のため。]

ルピツク夫人――その「はあ」は、これからやめて貰はうかね。一風變つたつもりか知らないけど・・・。それから、すぐに鼻唄を歌つたり、齒と齒の間で口笛を吹いたり、氣樂な馬方の眞似をしたら、今度は承知しないよ。母さんにや、そんなことしたつて、なんにもなりやしないんだ。

 

 

       

 

 にんじんは、小刻(こきざ)みに、裏庭の小徑を往きつ戾りつしてゐる。彼は呻き聲を立てる。少し探しては、時々鼻を啜る。母親が觀てゐるやうな氣がする時は、動かずにゐる。さもなければ、蹲んで、酸模(すかんぽ)を、また細かな砂を指の先でほじくつてゐる。ルピツク夫人の姿が見えないと思ふと、もう探すのを止(よ)して、頤を前に突き出し、しやなりしやなりと步き續ける。[やぶちゃん注:「呻き聲」「うめきごゑ」。「蹲んで」「しやがんで」。]

 一體全體、例の銀貨は何處に落ちてるんだらう? 遙か上の、木の枝か、その邊の古巢の奧か?

 時として、何も探してゐない、何も考へてゐない人達が、金貨を拾ふといふこともある。現にあつたことなのだ。しかし、にんじんは、地べたを逼ひ廻り、膝と爪とを擦り切らし、しかも、留針(ピン)一本拾はずにしまふだらう。[やぶちゃん注:「逼ひ」の漢字はママ。複数回、既出既注。岸田氏の「這」の意の思い込み誤用。]

 彷徨(さまよ)ふ疲れ、當てのない望みに疲れ、にんじんは、とても駄目だと諦めた。で、母親の樣子を見に家へ歸つてみる決心をした。多分彼女はもう落ちついてゐるだらう。銀貨がみつからなければ、もう仕方がない。[やぶちゃん注:「家」前例に徴して「うち」と訓じておく。]

 ルピツク夫人は、影も姿も見えない。彼は、恐る恐る呼んでみる――

 「母さん・・・ねえ・・・母さん・・・」

 返事がない。彼女はたつた今出掛けたばかりだ。そして、仕事机の抽斗を開けたまゝにしてゐる。毛糸、針、白、赤、黑の糸卷の間に、にんじんは、幾つかの銀貨を發見した。[やぶちゃん注:「抽斗」「ひきだし」。]

 それらの銀貨は、そこで、歲月(としつき)を經てゐるらしかつた。どれもこれも眠つてゐるやうだ。稀に眼を覺ましてゐるのもある。隅から隅へ押し合ひ、入り混(まじ)り、そして數は無數だ。

 つまり三つかと思へば四つ、さうかと思へばまた八つなのだ。數へやうにも數へやうがない。抽斗を逆まにし、毛糸の毬(たま)を引つ搔き廻せばいゝのだ。あとは證據と云へば何がある?[やぶちゃん注:「逆ま」戦後版では、『さかさま』。読みは、それで採る。]

 突嗟の思ひつき、これが、事重大な場合でないと彼を見放さないのである。この突嗟の 思ひつきで、彼は今、意を決し、腕を差し伸べ、銀貨を一つ盜んだ。そして逃げ出した。[やぶちゃん注:「事」「こと」。]

 見つかつたらといふ心配で、彼は、躊ふことも、後悔することも、またもう一度仕事机のほうへ引つ返すこともできないのである。[やぶちゃん注:「躊ふ」「ためらふ」。]

 彼は眞つ直ぐに飛び出した。あんまり先へのめつて、止ることすら難かしい。小徑をぐるぐる廻り、此處といふ場所を探し、そこで銀貨を「失く」し、踵で押し込み、腹這ひに寢轉がる。そして、草に鼻をくすぐらせながら、滅多矢鱈に逼ひずつて、不規則な圓をそこ此處に描(か)く。一人が眼隱しをして匿された品物のまわりを廻ると、一人の音頭取りがはらはらしながら、脚を叩いて、[やぶちゃん注:「逼ひ」同前。「描く」戦後版では『描(か)く』と振る。それで採っておく。]

 「もう少し、お藏に火が點(つ)きさう、もう少し、お藏に火が點きさう・・・」

 かう叫ぶあの無邪氣な遊びそのまゝだ。

 

 

       

 

にんじん――母さん、母さん、あれ、あつたよ。

ルピツク夫人――母さんだつて、あるよ。

にんじん――だつて・・・。そらね。

ルピツク夫人――母さんだつて、こら・・・。

にんじん――どら、見せてごらん。

ルピツク夫人――お前、見せてごらん。

にんじん――(彼は銀貨を見せる。ルピツク夫人は、自分のを見せる。にんじんは二つを手に取り、較べてみ、云ふべき文句を考へる) おかしいなあ。何處で拾つたの、母さんは? 僕は、この小徑(こみち)の梨の木の下で拾つたんだ。見つける前に二十度もその上を步いてるのさ。光つてるんだらう。僕、はじめ、紙ぎれか、それとも、白い堇だらうと思つてたんだもの。だから、手を出す氣にならなかつたの。きつと僕のポケツトから落つこつたんだらう、いつか草ん中を轉(ころ)がり廻つた時・・・氣違いの眞似をして…。しやがんでみてごらん、母さん、この野郞(やろう)がうまく隱れたとこをさ、隱(かく)れ家(が)をさ。人に苦勞させやがつて、こいつ得意だらう。[やぶちゃん注:ト書きの下の一字空けはママ。戦後版では空白はなく、ここに『――』が入っている。「小徑(こみち)」「二」で同じ単語があったが、そちらにルビを振らずに、ここで入れているのは、ママ。「堇」「すみれ」。「ポケツト」はママ。「Ⅰ」の初めでは同じ単語“poche”を「カクシ」と訳しており、驚くべきことに次のルピック夫人の台詞では、またまた「カクシ」と訳してある。訳を変える意図が私には全く判らない。「小徑」と同様、訳御や、ルビの先行附け等の一貫性が認められないのは、少し不満がある。]

ルピツク夫人――さうぢやないとは云はない。母さんは、お前の上着の中にあつたのをみつけたんだ。あんなに云つてあるのに、お前はまた、着物を着替へる時にカクシのものを出しとくのを忘れてる。母さんは、物を几帳面にすることを敎へようと思つたんだ。自分で懲りるやうに自分で搜しなさいと云つたんだ。ところが、探せばきつと見つかるつていふことが、やつぱりほんとだつた。さうだらう、お前の銀貨は、一つが二つになつた。えらい金滿家だ。終りよければ總てよし。だがね、いつといてあげるが、お金は仕合せの元手ぢやないよ。

にんじん――ぢや、僕、遊びに行つていゝ、母さん?

ルピツク夫人――いゝとも、遊んでらつしやい。子供臭い遊びはもう決してするんぢやないよ。さ、二つとも持つてお行き。

にんじん――うゝん、僕、一つで澤山だよ。母さん、それしまつといて、またいる時まで・・・ね、さうしてね。

ルピツク夫人――いやいや、勘定は勘定だ。お前のものはお前が持つてゐなさい。兩方とも、これはお前のもんだ。小父さんのと、梨の木のと・・・。梨の木の方は、持主が出れば、こりや別だ。誰だらう? いくら考へてもわからない。お前、心當りはないかい?

にんじん――さあ、ないなあ。それに、どうだつていゝや、そんなこと・・・。明日(あした)考へるよ。ぢや、行つて來るよ、母さん、有りがたう。

ルピツク夫人――お待ち。園丁のだつたら?

にんじん――今すぐ、訊いて來てみようか?

ルピツク夫人――ちよつと、坊や、助けておくれ。考へてみておくれ。父さんは、あの年で、そんなうつかりしたことをなさる筈はないね。姉さんは、貯金はみんな貯金箱に入れておくんだからね。兄さんはお金を失くす暇なんかない。握ると一緖に消えちまふんだから・・・。

さうしてみると、どうもこりや、あたしだよ。[やぶちゃん注:「考へてみておくれ。」底本では、この句点の前に読点があって、『、。』となっている。戦後版では句点である。原文を見ても、句点が相応しい。誤植と断じて句点にした。]

にんじん――母さんだつて? そいつあ、變んだなあ。母さんは、あんなにきちんと、なんでもしまつとくくせに・・・。[やぶちゃん注:「變んだなあ」の「ん」はママ。戦後版では『変だなあ』である。]

ルピツク夫人――大人(おとな)だつて、どうかすると、子供みたいな間違ひをするもんだよ。なに、檢べてみればすぐわかる。とにかく、これや、あたしの問題だ。もう話はわかつた。心配しないでいゝよ。遊んどいで。あんまり遠くへ行かずに・・・。その暇に母さんは、仕事机の抽斗の中をちよつとのぞいて來るから・・・。

 

にんじんは、もう走り出してゐたが、振り向いて、一つ時、遠ざかつて行く母親の後を見送つてゐる。やがて、突然、彼は彼女を追ひ拔く。その前に立ち塞がる。そして、默つて、片一方の頰を差出す。[やぶちゃん注:以上のト書きは底本ではここで、ポイント落ちで、全体が本文一字下げとなっている。]

 

ルピツク夫人――(右手を振り上げ、崩れかゝる)お前の噓吐きなことは百も承知だ。しかし、これほどまでとは思つてなかつた。噓の上へまた噓だ。何處までゞも行くさ。初めに卵一つ盜めば、その次ぎは牛一匹だ。そして、しまひに、母親を締め殺すんだ。

 

最初の一擊が襲ひかゝる。[やぶちゃん注:このト書きも、ここで、同前。]

 

[やぶちゃん注:原本では、ここから。

「あわ喰つた鮒」原文は“ablette étourdie”。既に「釣針」で述べた通り、(音写「アブレット」)。辞書にはコイ属の一種とあるが、これはコイ科の誤りであると思う。ネット上での検索を繰返すことで、どうも本邦には棲息しない(従って和名もない。「ギンヒラウオ」とする辞書を見かけたが、辞書編集者が勝手につけたもののように感ずる。当該ウィキでは「ブリーク」(bleak)とするが気に入らない)コイ科アルブルヌス族アルブルヌス属の Alburnus alburnus 、若しくは、その仲間である。étourdie”は、「お落ち着きのない・輕率な」という形容詞である。因みに、一九九五年臨川書店刊の佃裕文訳の「ジュール・ルナール全集3」では、ここを、『銀ひらうお』と訳し、『ブリーク』といふルビが振られてあるから、確定である。

「酸模(すかんぽ)」ナデシコ目タデ科スイバ属スイバ Rumex acetosa 。私は「すっかんぽ」と呼び、幼少の時から、田圃周辺や野山を散策する際に、しょっちゅうしゃぶったものだった。なお、「すかんぽ」は若芽を食用にすると、やはり酸っぱい味がするナデシコ目タデ科ソバカズラ属イタドリ変種イタドリ Fallopia japonica ver. japonica の別名でもあるが、原文の“OSEILLE”(オザィエ)は、確かにスイバを指す。

「遙か上の、木の枝か、その邊の古巢の奧か?」先の佃裕文氏訳の『ジュール・ルナール全集』第三巻では、ここに注をされ、『カササギは光る物を自分の高い巣に運んで隠すといわれる』と記しておられる。カササギは先にも注したが、スズメ目カラス科カササギ Pica pica 。「カカカカツ」「カチカチ」「カシャカシャ」といつた五月蠅い鳴き声を出す。本邦では大伴家持の「かささぎのわたせる橋におく霜のしろきをみれば夜ぞふけにける」等で七夕の橋となるロマンティクな鳥であるが(但し、日本では佐賀縣佐賀平野及び福岡縣筑後平野にのみに棲息する。但し、これが日本固有種か、半島(韓国に旅した際、実際に金属製のハンガーで巣を拵えている同種を何度も見た)からの渡来種かは評価が分かれている)、ヨーロツパでは、キリストが架刑された際にカササギだけが嘆き悲しまなかったという伝承からか、お喋り以外にも、「不幸・死の告知・悪魔・泥棒(雑食性から。学名の“ pica 自体がラテン語で「異食症の」といふ意味である)とシンボリックには極めて評価が悪い。ここでは「鵲」は示されていないものの、佃氏の注するように、造巣や好奇心のために何でもかんでも持って行く(口にする)カササギの習性を念頭に置いた叙述と考えてよい。

「稀に眼を覺ましてゐるのもある。」この部分全体は、原文では、“Elles semblent vieillir là. Elles ont l'air d'y dormir, rarement éveillées, poussées d'un coin à l'autre, mêlées et sans nombre.”とあり、当該箇所は“rarement éveillées”と思われるが、“rarement”は「稀に」以外に、「滅多に~ない」の意味を持つ副詞で、“rarement éveillées”は「(銀貨は)滅多に眼を覚ますこともなく」の意味であろう。「目を覺ましてゐる」と訳すと、「目を覚ましていない銀貨」と「眼を覚ましてゐる銀貨」の違いが髣髴としてこなければ、良訳とは言えないと私は思う。少なくとも、若年の読者に対しては、である。「にんじん」は是非とも、小学生高学年から中学生頃に、初読して欲しい作品である(私は中学二年の時が初読であった)。

「もう少し、お藏に火が點(つ)きさう、もう少し、お藏に火が點(つ)きさう・・・」原文は“-Attention ! ça brûle, ça brûle !”とある。目隱し鬼に似たようなフランスの子どもの遊びであろうと思われるが、詳細は不明。御教授を乞うものである。]

 

 

 

 

    La Pièce d’Argent

 

     I

 

     MADAME LEPIC

   Tu n’as rien perdu, Poil de Carotte ?

     POIL DE CAROTTE

   Non, maman.

     MADAME LEPIC

   Pourquoi dis-tu non, tout de suite, sans savoir ? Retourne d’abord tes poches.

     POIL DE CAROTTE

Il tire les doublures de ses poches et les regarde

          pendre comme des oreilles d’âne.

   Ah ! oui, maman ! Rends-le-moi.

     MADAME LEPIC

   Rends-moi quoi ? Tu as donc perdu quelque chose ? Je te questionnais au hasard et je devine ! Qu’est-ce que tu as perdu ?

     POIL DE CAROTTE

   Je ne sais pas.

     MADAME LEPIC

   Prends garde ! tu vas mentir. Déjà tu divagues comme une ablette étourdie. Réponds lentement. Qu’as-tu perdu ? Est-ce ta toupie ?

     POIL DE CAROTTE

   Juste. Je n’y pensais plus. C’est ma toupie, oui, maman.

     MADAME LEPIC

   Non, maman. Ce n’est pas ta toupie. Je te l’ai confisquée la semaine dernière.

     POIL DE CAROTTE

   Alors, c’est mon couteau.

     MADAME LEPIC

   Quel couteau ? Qui t’a donné un couteau ?

     POIL DE CAROTTE

   Personne.

     MADAME LEPIC

   Mon pauvre enfant, nous n’en sortirons plus. On dirait que je t’affole. Pourtant nous sommes seuls. Je t’interroge doucement. Un fils qui aime sa mère lui confie tout. Je parie que tu as perdu ta pièce d’argent. Je n’en sais rien, mais j’en suis sûre. Ne nie pas. Ton nez remue.

     POIL DE CAROTTE

   Maman, cette pièce m’appartenait. Mon parrain me l’avait donnée dimanche. Je la perds ; tant pis pour moi. C’est contrariant, mais je me consolerai. D’ailleurs je n’y tenais guère. Une pièce de plus ou de moins !

     MADAME LEPIC

   Voyez-vous ça, péroreur ! Et je t’écoute, moi, bonne femme. Ainsi tu comptes pour rien la peine de ton parrain qui te gâte tant et qui sera furieux ?

     POIL DE CAROTTE

   Imaginons, maman, que j’ai dépensé ma pièce, à mon goût. Fallait-il seulement la surveiller toute ma vie ?

     MADAME LEPIC

   Assez, grimacier ! Tu ne devais ni perdre cette pièce, ni la gaspiller sans permission. Tu ne l’as plus ; remplace-la, trouve-la, fabrique-la, arrange-toi. Trotte et ne raisonne pas.

     POIL DE CAROTTE

   Oui, maman.

     MADAME LEPIC

   Et je te défends de dire « oui, maman », de faire l’original ; et gare à toi, si je t’entends chantonner, siffler entre tes dents, imiter le charretier sans souci. Ça ne prend jamais avec moi.

 

     II

 

   Poil de Carotte se promène à petits pas dans les allées du jardin. Il gémit. Il cherche un peu et renifle souvent. Quand il sent que sa mère l’observe, il s’immobilise ou se baisse et fouille du bout des doigts l’oseille, le sable fin. Quand il pense que madame Lepic a disparu, il ne cherche plus. Il continue de marcher, pour la forme, le nez en l’air.

   Où diable peut-elle être, cette pièce d’argent ? Là-haut, sur l’arbre, au creux d’un vieux nid ?

   Parfois des gens distraits qui ne cherchent rien trouvent des pièces d’or. On l’a vu. Mais Poil de Carotte se traînerait par terre, userait ses genoux et ses ongles, sans ramasser une épingle.

   Las d’errer, d’espérer il ne sait quoi, Poil de Carotte jette sa langue au chat et se décide à rentrer dans la maison, pour prendre l’état de sa mère. Peut-être qu’elle se calme, et que si la pièce reste introuvable, on y renoncera.

   Il ne voit pas madame Lepic. Il l’appelle, timide :

   Maman, eh ! maman !

   Elle ne répond point. Elle vient de sortir et elle a laissé ouvert le tiroir de sa table à ouvrage. Parmi les laines, les aiguilles, les bobines blanches, rouges ou noires, Poil de Carotte aperçoit quelques pièces d’argent.

   Elles semblent vieillir là. Elles ont l’air d’y dormir, rarement réveillées, poussées d’un coin à l’autre, mêlées et sans nombre.

   Il y en a aussi bien trois que quatre, aussi bien huit. On les compterait difficilement. Il faudrait renverser le tiroir, secouer des pelotes. Et puis comment faire la preuve ?

   Avec cette présence d’esprit qui ne l’abandonne que dans les grandes occasions, Poil de Carotte, résolu, allonge le bras, vole une pièce et se sauve.

   La peur d’être surpris lui évite des hésitations, des remords, un retour périlleux vers la table à ouvrage.

   Il va droit, trop lancé pour s’arrêter, parcourt les allées, choisit sa place, y « perd » la pièce, l’enfonce d’un coup de talon, se couche à plat ventre, et le nez chatouillé par les herbes, il rampe selon sa fantaisie, il décrit des cercles irréguliers, comme on tourne, les yeux bandés, autour de l’objet caché, quand la personne qui dirige les jeux innocents se frappe anxieusement les mollets et s’écrie :

   Attention ! ça brûle, ça brûle !

 

     III

 

     POIL DE CAROTTE

   Maman, maman, je l’ai.

     MADAME LEPIC

   Moi aussi.

     POIL DE CAROTTE

   Comment ? la voilà.

     MADAME LEPIC

   La voici.

     POIL DE CAROTTE

   Tiens ! fais voir.

     MADAME LEPIC

   Fais voir, toi.

     POIL DE CAROTTE

   Il montre sa pièce. Madame Lepic montre la sienne. Poil de Carotte les manie, les compare et apprête sa phrase.

   C’est drôle. Où l’as-tu retrouvée, toi, maman ? Moi, je l’ai retrouvée dans cette allée, au pied du poirier. J’ai marché vingt fois dessus, avant de la voir. Elle brillait. J’ai cru d’abord que c’était un morceau de papier, ou une violette blanche. Je n’osais pas la prendre. Elle sera tombée de ma poche, un jour que je me roulais sur l’herbe, faisant le fou. Penche-toi, maman, remarque l’endroit où la sournoise se cachait, son gîte. Elle peut se vanter de m’avoir causé du tracas.

     MADAME LEPIC

   Je ne dis pas non.

   Moi je l’ai retrouvée dans ton autre paletot. Malgré mes observations, tu oublies encore de vider tes poches, quand tu changes d’effets. J’ai voulu te donner une leçon d’ordre. Je t’ai laissé chercher pour t’apprendre. Or, il faut croire que celui qui cherche trouve toujours, car maintenant tu possèdes deux pièces d’argent au lieu d’une seule. Te voilà cousu d’or. Tout est bien qui finit bien, mais je te préviens que l’argent ne fait pas le bonheur.

     POIL DE CAROTTE

   Alors, je peux aller jouer, maman ?

     MADAME LEPIC

   Sans doute. Amuse-toi, tu ne t’amuseras jamais plus jeune. Emporte tes deux pièces.

     POIL DE CAROTTE

   Oh ! maman, une me suffit, et même je te prie de me la serrer jusqu’à ce que j’en aie besoin. Tu serais gentille.

     MADAME LEPIC

   Non, les bons comptes font les bons amis. Garde tes pièces. Les deux t’appartiennent, celle de ton parrain et l’autre, celle du poirier, à moins que le propriétaire ne la réclame. Qui est-ce ? Je me creuse la tête. Et toi, as-tu une idée ?

     POIL DE CAROTTE

   Ma foi non et je m’en moque, j’y songerai demain. À tout à l’heure, maman, et merci.

     MADAME LEPIC

   Attends ! si c’était le jardinier ?

     POIL DE CAROTTE

   Veux-tu que j’aille vite le lui demander ?

     MADAME LEPIC

   Ici, mignon, aide-moi. Réfléchissons. On ne saurait soupçonner ton père de négligence, à son âge. Ta soeur met ses économies dans sa tirelire. Ton frère n’a pas le temps de perdre son argent, un sou fond entre ses doigts.

   Après tout, c’est peut-être moi.

     POIL DE CAROTTE

   Maman, cela m’étonnerait ; tu ranges si soigneusement tes affaires.

     MADAME LEPIC

   Des fois les grandes personnes se trompent comme les petites. Bref, je verrai. En tout cas ceci ne concerne que moi. N’en parlons plus. Cesse de t’inquiéter ; cours jouer, mon gros, pas trop loin, tandis que je jetterai un coup d’oeil dans le tiroir de ma table à ouvrage.

   Poil de Carotte, qui s’élançait déjà, se retourne,

    il suit un instant sa mère qui s’éloigne. Enfin,

   brusquement, il la dépasse, se campe devant

   elle et, silencieux, offre une joue.

     MADAME LEPIC

     Sa main droite levée, menace ruine.

 

   Je te savais menteur, mais je ne te croyais pas de cette force. Maintenant, tu mens double. Va toujours. On commence par voler un oeuf. Ensuite on vole un boeuf. Et puis on assassine sa mère.

 

   La première gifle tombe.

 

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「津波と神馬」

 

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 津波と神馬【つなみとしんば】 〔譚海巻六〕勢州二見の浦<三重県度会郡>に山有り。そのいたゞきに伊勢三郎物見の松といふ所あり。そのかたはらに塩をやく所あり。これは大神宮の御にへにそなふる所なれば、この山をみしほ殿といへり。寛政四年七月十二日昼、このみしほ殿の山より、雲おびただしく立のぼると見るほどに、沖の方より高なみ立ちきたる事五度ばかり、津浪なるべしと浦人さわぎあへるに、みしほ殿の山より神馬の如きものかけくだりて、往来甚だいそがはしく、さながら海にのぞんで波をふせぐ体に見えたるにあはせて、やうやう何事なく波をさまりぬ。後この馬またその浦つゞきに、大神宮の別宮ある所へはしり行きたりとぞ。これは津波の来るべきを、全く神明のふせぎ給ひしなるべしとて、そのころ殊に噪(さはぎ)伝《つたへ》て神徳を仰ぎけるとぞ。板にまで由来をゑりて伝へたるといへり。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷六 勢州二見浦津浪の事(フライング公開)」として公開し、注も附した。

「三重県度会郡」現在は伊勢市。]

譚海 卷之六 勢州二見浦津浪の事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 勢州二見の浦に、山、有り。

 そのいたゞきに、「伊勢三郞物見の松」といふ所あり。

 そのかたはらに鹽をやく所あり。これは大神宮の御にへに、そなふる所なれば、この山を「みしほ殿(どの)」といへり。

 寬政四年七月十二日、晝、この「みしほ殿」の山より、

「雲、おびたゞしく、立(たち)のぼる」

と見るほどに、沖の方より、高なみ、立(たち)きたる事、五度ばかり、

「津浪なるべし。」

と、浦人、さわぎあへるに、「みしほ殿」の山より、神馬(しんば)の如きもの、かけくだりて、往來、甚だ、いそがはしく、さながら、海にのぞんで、波をふせぐ體(てい)に見えたるにあはせて、やうやう、何事なく、波、をさまりぬ。

 後(のち)、この馬、また、その浦つゞきに、大神宮の別宮ある所へ、はしり行きたり、とぞ。

「これは、津波の來(きた)るべきを、全く神明(しんめい)のふせぎ給ひしなるべし。」

とて、その比(ころ)、殊に噪(さはぎ)傳(つたへ)して、神德を仰ぎけるとぞ。

 板にまで、由來を、ゑりて、傳へたるといへり。

[やぶちゃん注:「勢州二見の浦」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。以下の「山、有り」、「そのいたゞきに」「伊勢三郞物見の松」「といふ所あり」とあって、「そのかたはらに鹽をやく所あり」『この山を「みしほ殿」といへり』と、すらすらかく以上は、この「二見の浦」と「山」「のいたゞきに」ある「伊勢三郞物見の松」と、「そのかたはらに鹽をやく所」があって、そ「の山を」「みしほ殿」と呼ぶと言っているからには、「二見の浦」・「山」・「伊勢三郞物見の松」・「そのかたはらに鹽をやく所・そ「の山」=「みしほ殿」は総て直近に位置しなくてはおかしい。さすれば、「二見の浦」は「夫婦岩」よりも有意に西の海岸線を指し(上記データでは『二見浦』)、その西、現在の伊勢市二見町(ふたみまち)荘(しょう)にある「御塩殿(みしおどの)神社」がある、こんもりした丘陵が「山」であることになる(拡大すると、その神社の境内の海岸に近い位置に「御塩殿神社御塩焼所」を確認出来る)。「伊勢三郞物見の松」ここには見当たらないが、この人物、源義経の家臣伊勢三郎義盛で、襲い来る頼朝の軍勢を松に登って見張ったという伝説がある松であるが、現在はずっと内陸のこちら(サイト「観光三重」の「伊勢三郎物見の松」。地図有り)になら、ある。その解説によれば、『五代目の松が植えられている』とあるから、「みしほ殿」山に元あったのではあるまい。津村は実際に行って見た内容を書いたらしいものもあるが、伝聞で聴いたものも多いようんで、他の譚でも、地名や位置関係に甚だ重篤な誤りが、よくあるのである。

「寬政四年七月十二日」グレゴリオ暦で一七九二年八月二十九日。この日に、伊勢沖で、津波の発生するような地震は起こっていない。この年の四箇月余り前の旧暦四月一日に発生した、日本史上、最大最悪の災害を齎した「島原大変肥後迷惑」で、津波が島原や対岸の肥後国を襲ったことからデッチ上げた、伊勢神宮の神異創作物であったろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「土降る」

 

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 土降る【つちふる】 〔北窻瑣談巻一〕天明癸卯《みづのとう》<三年>[やぶちゃん注:後に示す活字本では、ここに『仲秋(ちうしう)』と月(旧暦八月)が記されてある。]伏見へ行く事のありしに、四方(よも)打曇(うちくも)りて、さながら春の日の霞《かすみ》籠《こ》めたるごとくにて、それよりも甚だし。雨近きやと見れば、雲あるにはあらず。音羽山《おとはやま》三ツの峰も見えず。大仏殿の棟《むなぎ》も唯《ただ》思ひやるばかりにて、程近き梢《こづゑ》も少し黒みわたりたるばかりにて、松杉《まつすぎ》もわからねば、怪しう思ひつゝ肩輿《けんよ》のすだれ打あげて詠めゆくに、道行《みちゆく》人も怪しみて、土(つち)降(ふる)なりといひはやすに心付けば、げにさることなりけらしと思はる。その次の日、またその次の日も同じけはひにて、日輪も光なく、只月《つき》を服《の》む[やぶちゃん注:同前で『望(のぞ)む』となっている。]が如くなり。板敷などには、灰の積りたるやうにて払集《はらひあつ》むべし。猶しも人々に問ふに、土(つち)降(ふる)にてぞ有りける。三日ばかりして空晴れたり。

[やぶちゃん注:秋の偏西風によって齎された大陸からの黄砂であろう。

「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで当該箇所が視認出来る(左ページ後半)。丁寧に読みが振られているので、それらを積極的に採った。

「天明癸卯」「三年」『仲秋』とあるので、グレゴリオ暦では旧暦八月一日は一七八三年八月二十八日で、小の月であるから、八月二十九日は九月二十五日である。

「音羽山」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「三ツの峰」伏見稲荷大社の三ノ峰(下社神蹟)

「大仏殿」例の方広寺大仏殿。豊臣家滅亡後も大仏は、そのまま残され、再び、地震で壊れたが、木造で作り直されるなどし、江戸時代には、「京の大仏」として庶民の観光地ともなっていたが、本話の十五年後の寛政一〇(一七九八)年の落雷により焼失した。現在は跡地は「大仏殿跡緑地公園」として残る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「槌子坂の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 槌子坂の怪【つちこざかのかい】 〔北国奇談巡杖記巻一〕おなじ城下<加州金沢>小姓町の中ほどに、槌子坂といへる、なだらかなる怪しき径《みち》あり。草しげく溢水《いつすい》[やぶちゃん注:ここは近くの小流れから水がしょっちゅう溢れることを言っている。]流れて、昼も何とやらんものきみ悪しき所なり。毎《こと》に小雨ふる夜半など、たまたま不敵の人かよふに、ころころと転(ころび)ありく物あり。よくよく見れば、搗臼《つきうす》ほどの横槌あり。たゞ真黒なるものにして、あなたこなたとめぐりめぐりて、既に消えなんとするとき、呵々と二声ばかり笑ひて、雷《かみなり》の響きをなし、はつと光り失せぬ。この怪を見たるもの、古《いにしへ》より幾人もありて、二三日毒気にあたりて病みぬ。故に槌子坂とよびて、夜はおのづから行きかひも薄らぎたり。いかさま古妖と見えて、昔より人々の沙汰することなりき。

[やぶちゃん注:この話、泉鏡花が使ってよさそうな怪談だが、読んだ限りの彼の小説では、記憶にない。

「北国奇談巡杖記」加賀の俳人鳥翠台北茎(ちょうすいだい ほっけい)著になる越前から越後を対象とした紀行見聞集。かの伴蒿蹊が序と校閲も担当しており、文化三(一八〇六)年十一月の書肆の跋がある(刊行は翌年)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第九巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字活字で読める。第一巻巻頭から二話目。標題は『○槌子坂の怪』。

「槌子坂」現存する。石川県金沢市兼六元町のこの中央(グーグル・マップ・データ航空写真)の金沢市立兼六小学校から「兼六元町交差点」方向に登る短い坂である。「ストリートビュー」で坂下から見上げたのが、これである。サイト「金沢の坂道」のコラム「槌子(つちのこ)坂の怪」で確認した。但し、リンク先のコラムでは「つちのこ小坂」と訓じている。私が「三州奇談」の注で大いに参考にさせて戴いた「加能郷土辞彙」(日置謙・一九五六年北国新聞社)の当該部を見たところ(「金沢市図書館」のこちらで原本が総て(以上は単体頁PDF画像。312MBと重いが、全ページはここ。使い勝手が非常によい)視認出来る)、そこでも、

   *

ツチノコザカ 槌子坂 金澤に在つて、今の賢坂辻から味噌藏町に入る小坂である。その名義に就いて、坊間に傳へる怪談があるが信じ難い 。

   *

とあった。而して、「ツチノコ」とくると、例の怪蛇のそれを連想し、コラムでも、実は『似たような話が加賀藩の支藩大聖寺藩にも伝わる。夏の夜、川舟で通りかかった兄弟の傍らの道を、黒く丸く一尺四、五寸(4245㎝)のものがころころと行く。竿で打とうとすると消え失せた。―寛政11年(1799)、時の藩主が宿直の藩士に語らせた怪談話(『聖城怪談録』江沼地方史研究会編)の一つである。黒く「ころころ」とあちこち転がり歩くつちのこの姿が共通している』。『つちのこは竜や河童のようにわが国に伝わる未確認動物の一つ。鎚に似た胴の太い蛇と形容される。動きは悠長で、尾をくわえて体を輪にして転がり移動する。「チー」と鳴き、いびきをかくともいう。猛毒を持つという説もある。マムシでも近づいただけで毒気にあたる(場合がある)というから、つちのことなるともっと大変だったに違いない、などと考えてしまう』とあって、その伝承の親和性は、確かに高い。別名「野槌」。私は「つちのこ」の親衛隊ではない(存在しないと断定している)ので、「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(18:野槌)」で注をしておいたから、そちらを見られたい。]

2023/12/08

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「釣針」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Turibari

 

     釣  針

 

 にんじんは、釣つてきた魚(さかな)の鱗(こけ)を、今、はがしてゐる最中だ。河沙魚(かははぜ)、鮒、それに鱸の子までゐる。彼は、小刀でこそげ、腹を裂く。そして、二重(ふたへ)に透きとおつた氣胞(うきぶくろ)を踵でつぶす。膓(わた)はまとめて、これは猫にやるのだ。彼は働いてゐるつもりだ。忙しい。泡で白くなつた桶の上へのしかゝり、一心不亂である。が、着物を濡らさないやうにしてゐる。

 ルピツク夫人が、ちよつと樣子を見に來る。

 「よしよし、これやいゝ。今日は、素敵なフライを釣つて來てくれたね。どうして、お前も、やる時はやるぢやないか」

 さう云つて、彼女は、息子の頸と肩を撫でる。が、その手を引つ込める途端、彼女は苦痛の叫びをあげる。

 指の先へ釣針が刺さつてゐるのだ。

 姉のエルネスチイヌが駈けつける。兄貴のフエリツクスもこれに續く。それから間もなく、ルピツク氏自身がやつて來る。

 「どら、見せてごらん」

と、彼等は云ふ。

 ところが、彼女は、その指をスカートで包み、膝の間へ挾んでゐる、で、針は益々深く喰ひ込むのである。兄貴のフエリツクスと姉のエルネスチイヌが、母親を支え[やぶちゃん注:ママ。]てゐると、一方でルピツク氏は、彼女の腕をつかみ、そいつを引つ張りあげる。すると、指がみんなに見えるやうになる。釣針は表から裏へ突き通つてゐた。

 ルピツク氏は、それを拔かうとしてみる。

 「いや、いや、そんな風にしちや・・・」

 ルピツク夫人は、尖つた聲で叫ぶ。なるほど、釣針は、一方にかへりがあり、一方にとめがあつて、ひつかゝるのである。

 ルピツク氏は、眼鏡をかける。

 「弱つたなあ。針を折らなけれや」

 どうして、それを折るかだ。御亭主も、かうなると手の下しやうがなく、ちよつと力を入れたゞけで、ルピツク夫人は、飛び上がり、泣き喚くのである。何を拔き取られると云ふのだ。心臟か、命か? 尤も、釣針は、良く鍛へた鋼(はがね)で出來てゐる。

 「ぢや、肉を切らなけれや・・・」

 ルピツク氏は云ふ。

 彼は眼鏡を掛け直す。ナイフを出す。そして、指の上を、よくも磨(と)いでない刄でやはらかくこする。無論、刄は通りつこない。彼は押へつける。汗をかく。やつと血が滲み出す。[やぶちゃん注:「刄」前に「ナイフ」とあるから、ここは「は」と読んでおく。戦後版では「刃」で、同じくルビはない。「やいば」と訓じては、事大主義のルピック夫人と同じで、大仰に過ぎるように私には思われる。そちらがサディスティクでお好きな方は、そう読まれるがよかろう。]

 「あいた、た、あいツ・・・」

 ルピツク夫人は叫ぶ。一同は慄へ上る。

 「もつと、早く、父さん」

と、姉のエルネスチイヌが云ふ。

 「そんな風に、ぐつたりしてちや駄目だよ」

 兄貴のフエリツクスが母親に云ふ。

 ルピツク氏は、癇癪が起つて來た。ナイフは、盲滅法に、引裂き、鋸引きだ。ルピツク夫人は、「牛殺し、牛殺し」と喚いてゐるが、はては、氣が遠くなる、幸ひなことに。[やぶちゃん注:ここでルピック氏が叫ぶ台詞は“Boucher ! boucher !”(「ブッシェ! ブシシェ!」)で、「主に牛や羊の肉を売る肉屋の主人」・「 屠畜業者」の他、「残虐非道な男・人殺し」の罵倒する意がある。倉田氏は同じく『「牛殺し、牛殺し。」』であるが、佃氏は『「人殺しい! 人殺しい!」』とする。私なら、佃氏派で「人殺しィ! 人殺しィッツ!」で気を失わせるのがシークエンスとしては自然かと思われる。]

 ルピツク氏は、それを利用する。顏は蒼ざめ、躍氣となり、肉を刻み、掘る。指は、それ自身、血にまみれた傷口だ。そして、そこから、釣針が落ちる。

 やれやれ!

 その間、にんじんは、なんの手助けもしない。母親の最初の悲鳴と一緖に、彼は逃げ出した。踏段に腰をおろし、兩手で頭を抱え[やぶちゃん注:ママ。]、抑も事の起りは・・・と、考へてみた。たぶん、糸を遠くへ投げたつもりでゐたのが、針だけ背中へ引つ掛つてゐたんだらう。で、彼は云ふ――

 「どうも食はなくなつたと思つたら、ぢや、別に不思議(ふしぎ)はないわけだ」[やぶちゃん注:「どうも食はなくなつた思つたら」戦後版は『どうも食わなかったと思ったら』であるが、釣りのシークエンスの推移に従うなら、この戦前版の方がより自然である。]

 彼は、そこで、母親の痛がる聲を聽いてゐる。第一、それが聞こえても、別に悲しい氣持にもならない。もう少し經つて、今度は自分が、彼女よりも大きな聲で、出來るだけ大きな聲で、喉がつぶれるほど喚いてやらうと思つてゐる。さうすれば、彼女は、早速意讐返しができたつもりになり、彼をほうつておくに違ひないからだ。[やぶちゃん注:「意讐返し」意味は判るが、この文字列は見たことがない。ネット検索でも見当たらない。戦後版は普通に『意趣返(いしゅがえ)し』である。誤植とは思われないから、岸田氏の思い込みの誤用であろう。]

 近所の人達が、何事かと思ひ、彼に訊(たず)ねる――

 「どうしたんだい、にんじん?」

 彼は答へない。耳を塞いでしまふ。彼の赤ちやけた頭が引込む。近所の人たちは踏段の下へ列を作り、便りを待つてゐる。

 さうかうするうちに、ルピツク夫人が乘り出して來る。彼女は、產婦のやうに血の氣(け)が薄らいでゐる。しかも一大危險を冐したといふ得意さがつゝみきれず、丁寧に 繃帶を卷いた指を前の方へ差出してゐる。痛みの殘りをぢつと堪(こら)え[やぶちゃん注:ママ。]て、彼女は、その場の人々に笑ひかけ、短い言葉で安心させ、それから、優しく、にんじんに云ふ――

 「母さんをあんな痛い目に遭はして、こいつめ・・・。だけど、母さんは怒つてやしないよ、ね、お前が惡いんづやないもの」

 未だ嘗て、彼女はかういふ調子でにんじんに話しかけたことはないのである。面喰つて、彼は顏をあげる。見ると、彼女の指は、布片(きれ)と糸で、さつぱりと、大きく頑丈に包まれてゐる。貧乏な子供のお人形さんそつくりだ。彼の干からびた眼が、淚でいつぱいになる。

 ルピツク夫人は前へこゞむ。彼は、臂を上げて防ぐ身構え[やぶちゃん注:ママ。]をする。癖になつてゐるからだ。しかし、彼女は、鷹揚に、みなの前で、彼に接吻をする。

 彼は、もう、何がなんだかわからない。泣けるだけ泣く。

 「もういゝんだつて云ふのにさ。赦してあげるつて云つてるぢやないか。母さんは、そんなに意地惡るだと思つてるのかい?」

 にんじんの咽び泣きは、一段と激しくなる。

 「馬鹿だよ、この子は。首でも締められてるみたいにさ」

 母親の慈愛に、しんみりさせられた近所の人たちに向ひ、彼女はさう云ふのである。

 彼女は、一同の手に釣針を渡す。彼等は、物珍らしげに、それを檢(あらた)める。そのうちの一人は、こいつは八號だと斷定する。そろそろ彼女は口が自由に利け出す。すると、からみつくやうな舌で、大方の衆に慘劇の次第を物語るのである――[やぶちゃん注:「利け出す」「きけだす」。]

 「ほんとに、あん時ばかりは、どんなはづみで、この子を殺しちまつたかも知れません。可愛くなけれやですよ、むろん。うつかりできないもんですね。こんな小つぽけな針でも・・・。あたしや、天まで釣り上げられるかと思ひましたよ」

 姉のエルネステイヌは、そいつを遠くの方へ、庭の隅かなんか、穴があれば穴の中へでもうつちやつてしまひ、その上へ土をかぶせて踏み固めておくやうに提議する。

 「おい、戯談云ふない」と、兄貴のフエリツクスは云ふ――「おれが、とつとくよ。そいつで釣りに行かあ。とんでもねえ、母さんの血んなかへ漬かつてた針なんてなあ、申し分、この上なしだ。捕(と)れるつちやねえぞ、魚(さかな)が! 股(もゝ)みたいにでツけえやつ氣の毒だが、用心しろ!」[やぶちゃん注:「股(もゝ)みたいにでツけえやつ」と「氣の毒だが」のここの箇所(右ページ四行目)にはあるべきはずの読点がない。行末にあり、版組み上、禁則処理が出来なかったためである(読点・句点が、この一行内に四つ、「!」が一つ、ルビが二ヶ所あり、組みを狭くすることが出来難かったものと推察される)。戦後版には読点があり、ほぼ間違いなく原稿にも読点があったものと推定される。岸田氏は、或いは校正で気づいたかも知れぬが、改行になっているので、よしとしたものとも思われる。]

 そこで、彼は、にんじんをゆすぶる。こつちは、罰を免れたので、相變らずきよとんとしてゐる。それでも、自ら責めてゐる風をまだ誇張して見せ、掠(かす)れた噦(しやく)り泣きを喉から押し戾し、ひつぱたき甲斐のある、その醜い顏の、糠(ぬか)みたいな斑點(しみ)を、大水で洗ひ落としてゐる。

 

[やぶちゃん注:原本はここから。

「河沙魚(かははぜ)」戦後版のサイト版では、『ハゼ亜目 Gobioidei。淡水産といふことでドンコ科 Odontobutidaeまで狭めることが出来るかどうかまでは、淡水産魚類に暗い私には判断しかねる。』としたが、これは誤りであった。今回、先行してブログで改訂を行ったルナールの「博物誌」の「かは沙魚」で、これは、条鰭綱コイ目コイ科カマツカ亜科 Gobionini 群ゴビオ属タイリクスナモグリ Gobio gobio であることが判明した(本邦には分布しない)。

「鮒」原文は“ablettes”(音写「アブレット」)。辞書にはコイ属の一種とあるが、これはコイ科の誤りであると思う。ネット上での検索を繰返すことで、どうも本邦には棲息しない(従って和名もない。「ギンヒラウオ」とする辞書を見かけたが、辞書編集者が勝手につけたもののように感ずる。当該ウィキでは「ブリーク」(bleak)とするが気に入らない)コイ科アルブルヌス族アルブルヌス属の Alburnus alburnus 、若しくは、その仲間である。

「鱸」原文は“perche”(音写「ペーシュ」。)で、辞書ではスズキ類などの食用にする淡水魚の総称とするが、但し、この場合、日本には自然分布はしない――本邦産のスズキに似たスズキ目 Perciformesの内の――パーチ科 Percidaeの魚類の総称とするのが正しいものと思われる。らく、スズキに似たスズキ目モロネ科 Moronidaeディケントラルクス属ヨーロツパスズキ(ヨーロツピアンシーバス) Dicentrarchus labrax 辺りを指しているのではないかと思われる。当該種のフランス語のウィキ“Bar commun”(“Dicentrarchus labrax”)をリンクさせておく。その記載を見るに、本邦のスズキと同じく、海水魚であるが、淡水域にも遡上し、適応していることが判る。

「八號」釣具のサイトで見ると、線径〇・六八~〇・八一ミリメートル程度のものを指すようである(製造会社によつて異なるが、かなり太いものである)。

「ひつぱたき甲斐のある、その醜い顏」原文では“sa laide figure à claques”で、確かに“laide”は「容貌が醜い、不器量な」、“figure”は「フィギア」で、この場合は顏、“à”は「~用いられる」の意味の「目的・用途」辺りの意で、“claques”は「平手打ち」という意味では、ある。しかし、“figure à claques”といふ俗語の成句が存在し、それはまさに「不愉快な顏」の意味を表わす。しかし、私はこの岸田氏の訳を、霊妙にして、凶兆を感じさせるものと採るのである。即ち、私には――近所の人々が帰り――にんじんが忘れた頃になって――ルピック夫人の平手打ちが――したたかに――その頰を打つに決まってる。――と感じるからである。]

 

 

 

     L’Hameçon

 

   Poil de Carotte est en train d’écailler ses poissons, des goujons, des ablettes et même des perches. Il les gratte avec un couteau, leur fend le ventre, et fait éclater sous son talon les vessies doubles transparentes. Il réunit les vidures pour le chat. Il travaille, se hâte, absorbé, penché sur le seau blanc d’écume, et prend garde de se mouiller.

   Madame Lepic vient donner un coup d’oeil.

   À la bonne heure, dit-elle, tu nous as pêché une belle friture, aujourd’hui. Tu n’es pas maladroit, quand tu veux.

   Elle lui caresse le cou et les épaules, mais, comme elle retire sa main, elle pousse des cris de douleur.

   Elle a un hameçon piqué au bout du doigt.

   Soeur Ernestine accourt. Grand frère Félix la suit, et bientôt M. Lepic lui-même arrive.

   Montre voir, disent-ils.

   Mais elle serre son doigt dans sa jupe, entre ses genoux, et l’hameçon s’enfonce plus profondément. Tandis que grand frère Félix et soeur Ernestine la soutiennent, M. Lepic lui saisit le bras, le lève en l’air, et chacun peut voir le doigt. L’hameçon l’a traversé.

  1. Lepic tente de l’ôter.

   Oh ! non ! pas comme ça ! dit madame Lepic d’une voix aiguë.

   En effet, l’hameçon est arrêté d’un côté par son dard et de l’autre côté par sa boucle.

  1. Lepic met son lorgnon.

   Diable, dit-il, il faut casser l’hameçon !

   Comment le casser ! Au moindre effort de son mari, qui n’a pas de prise, madame Lepic bondit et hurle. On lui arrache donc le coeur, la vie ? D’ailleurs l’hameçon est d’un acier de bonne trempe.

   Alors, dit M. Lepic, il faut couper la chair.

   Il affermit son lorgnon, sort son canif, et commence de passer sur le doigt une lame mal aiguisée, si faiblement, qu’elle ne pénètre pas. Il appuie ; il sue. Du sang paraît.

   Oh ! là ! oh ! là ! crie madame Lepic, et tout le groupe tremble.

   Plus vite, papa ! dit soeur Ernestine.

   Ne fais donc pas ta lourde comme ça ! dit grand frère Félix à sa mère.

  1. Lepic perd patience. Le canif déchire, scie au hasard, et madame Lepic, après avoir murmuré : « Boucher ! boucher ! » se trouve mal, heureusement.
  2. Lepic en profite. Blanc, affolé, il charcute, fouit la chair, et le doigt n’est plus qu’une plaie sanglante d’où l’hameçon tombe.

   Ouf !

   Pendant cela, Poil de Carotte n’a servi à rien. Au premier cri de sa mère, il s’est sauvé. Assis sur l’escalier, la tête en ses mains, il s’explique l’aventure. Sans doute, une fois qu’il lançait sa ligne au loin son hameçon lui est resté dans le dos.

   Je ne m’étonne plus que ça ne mordait pas, dit-il.

   Il écoute les plaintes de sa mère, et d’abord n’est guère chagriné de les entendre. Ne criera-t-il pas à son tour, tout à l’heure, non moins fort qu’elle, aussi fort qu’il pourra, jusqu’à l’enrouement, afin qu’elle se croie plus tôt vengée et le laisse tranquille ?

   Des voisins attirés le questionnent :

   Qu’est-ce qu’il y a donc, Poil de Carotte ?

   Il ne répond rien ; il bouche ses oreilles, et sa tête rousse disparaît. Les voisins se rangent au bas de l’escalier et attendent les nouvelles.

Enfin madame Lepic s’avance. Elle est pâle comme une accouchée, et, fière d’avoir couru un grand danger, elle porte devant elle son doigt emmailloté avec soin. Elle triomphe d’un reste de souffrance. Elle sourit aux assistants, les rassure en quelques mots et dit doucement à Poil de Carotte :

   Tu m’as fait mal, va, mon cher petit. Oh ! je ne t’en veux pas ; ce n’est pas de ta faute.

   Jamais elle n’a parlé sur ce ton à Poil de Carotte. Surpris, il lève le front. Il voit le doigt de sa mère enveloppé de linges et de ficelles, propre, gros et carré, pareil à une poupée d’enfant pauvre. Ses yeux secs s’emplissent de larmes.

   Madame Lepic se courbe. Il fait le geste habituel de s’abriter derrière son coude. Mais, généreuse, elle l’embrasse devant tout le monde.

   Il ne comprend plus. Il pleure à pleins yeux.

   Puisqu’on te dit que c’est fini, que je te pardonne ! Tu me crois donc bien méchante ?

   Les sanglots de Poil de Carotte redoublent.

   Est-il bête ? On jurerait qu’on l’égorge, dit madame Lepic aux voisins attendris par sa bonté.

   Elle leur passe l’hameçon, qu’ils examinent curieusement. L’un d’eux affirme que c’est du numéro 8. Peu à peu elle retrouve sa facilité de parole, et elle raconte le drame au public, d’une langue volubile.

   Ah ! sur le moment, je l’aurais tué, si je ne l’aimais tant. Est-ce malin, ce petit outil d’hameçon ! J’ai cru qu’il m’enlevait au ciel.

   Soeur Ernestine propose d’aller l’encroter loin, au bout du jardin, dans un trou, et de piétiner la terre.

   Ah ! mais non ! dit grand frère Félix, moi je le garde. Je veux pêcher avec. Bigre ! un hameçon trempé dans le sang à maman, c’est ça qui sera bon ! Ce que je vais les sortir, les poissons ! malheur ! des gros comme la cuisse !

   Et il secoue Poil de Carotte, qui, toujours stupéfait d’avoir échappé au châtiment, exagère encore son repentir, rend par la gorge des gémissements rauques et lave à grande eau les taches de son de sa laide figure à claques.

 

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「辻斬」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 辻斬【つじぎり】 〔甲子夜話巻廿〕近頃御家人某の語りしと伝聞す。この人辻切をして見んと思ひ立ち、或夜広徳寺の前に往きて待ちゐたるが、さても人行多く切る間なきゆゑ、隠れて居たるに、やうやう夜更けて人行も稀になるとき、一人来たり。これぞと思ふうち、寺前の溝ばたにかゞみて小便をするゆゑ、立あがりたらば、その所を切らんと待ちゐたるに、彼の男小便をしまひ、念仏を二三遍唱へたり。御家人これを聞き、何かに今死ぬをも知らず、念仏唱ふるを切るもむごきことなりと思ふ意起りて、こをば切らで過したり。さすれば切る人も丁度よきは無きものなりと云ひしと。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷二十 36 今御家人、辻切思立の話」を公開しておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷二十 36 今御家人、辻切思立の話

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。標題は「今(いまの)御家人(ごけんにん)、辻切(つぢぎり)思立(おもひたつ)の話(はなし)」と読んでおく。]

 

20-36

 「近頃、御家人某(ぼう)の語りし。」

と傳聞す。

 この人、

『辻切をして見ん。』

と思ひ立ち、或夜、廣德寺の前に往(ゆき)て待(まち)ゐたるが、さても人行(じんかう)、多く、切る間(ま)なきゆゑ、隱れて居(をり)たるに、やうやう、夜更(よふけ)て、人行も稀になるとき、一人、來たり。

『これぞ。』

と思(おもふ)うち、寺前(てらまへ)の溝(みぞ)ばたに、かゞみて、小便をするゆゑ、

『立(たち)あがりたらば、その所を、切らん。』

と、待(まち)ゐたるに、彼(かの)男、小便を、しまい[やぶちゃん注:ママ。]、念佛を、二、三遍、唱(となへ)たり。

 御家人、これを聞き、

『何(い)かに。今、死ぬをも知らで、念佛唱(となふ)るを、切るも、むごきことなり。』

と思ふ意(こゝろ)、起りて、是(これ)をば、切らで、過(すぐ)したり。

 さすれば、

「切る人も、丁度よきは、無きものなり。」

と云(いひ)しと。

■やぶちゃんの呟き

「廣德寺」東京都練馬区桜台にある臨済宗円満山広徳寺(グーグル・マップ・データ)。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蹲踞の辻」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蹲踞の辻【つくばいのつじ】 しゃがみこむの意〔笈埃随筆巻四〕禁中艮(うしとら)角の築地《つひぢ》を、俗に蹲踞(つくばい[やぶちゃん注:ママ。正しい歴史的仮名遣は「つくばひ」。])の辻といふよし、夜更けてこの辻を通れば、茫然として途方に迷ひ蹲踞し居《を》るなり。怪しき事なり。また築地の軒下に、鳥帽子著たる猿の幣《ぬさ》を持ちたるを彫刻せり。これ石山三位師季卿の細工のよし。

[やぶちゃん注:「笈埃随筆」著者百井塘雨と当該書については、『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』その冒頭注を参照されたい。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧二期卷六・日昭和三(一九二八)年日本隨筆大成刊行会刊)所収の同作の当該部で正規表現で視認出来る。標題は『○蹲踞辻』である。

「蹲踞の辻」「平安京条坊図+Google Map」の「大宮大路」と「一条大路」の接する角である。

「石山三位師季」思うに、これは石山師香(いしやまもろか 寛文九(一六六九)年~享保一九(一七三四)年)の誤りであろう。江戸前・中期の公卿で、藤原氏持明院支流の葉川基起の次男。元禄一六(一七〇三)年に従三位となり、葉川(後に壬生となる)家から別れて、石山家を起こした。享保七(一七二二)年、参議、同一九(一七三四)年、権中納言・従二位。狩野永納(えいのう)に学んで、戯画に優れ、書・和歌・彫金でも知られた。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「尽きざる油陶」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 尽きざる油陶【つきざるあぶらどくり[やぶちゃん注:「徳利」で「どっくり」に同じ。]】 〔二川随筆巻上〕阿州の浪士に西道寿[やぶちゃん注:取り敢えず「にしみちとし」或いは「みちひさ」と訓じておく。]と云ふ人あり。爰(ここ)に泉州岸和田<大阪府岸和田市>の城主岡部美濃守殿(号長泰)の御内に、中与左衛門とて千三百石を領し、岡部家の長臣なりしが、多年の知音なりし故、種々の談話に及んで後、与左衛門物語りに、主人美濃守領内に不思議なる事、この城下より五六里去《さり》て志智山村と云ふあり。此所の百姓に刑部作[やぶちゃん注:取り敢えず「ぎやうぶさく」と読んでおく。]と云ふ者有り。或時刑部作、妻に向ひ、夜前油あらざりしかば、今日は調へんと思ひし中《うち》に礑(はた)と打忘れたり。今宵草鞋《わらぢ》を作らんと思へども、燈火《ともしび》あらざればいかゞせんと云ふ。女房聞《きき》て、もしや油のおりにてもあらんかと、陶(とくり)を取出《とりいだ》し傾けぬれば、内より油土器《かはらけ》に八分目ばかり出しかば、その夜はこれにて事足りぬる。次の夜も刑部作、今日も亦打忘れて調へざりし、後悔《くやし》さよと頭を搔けども甲斐なし。在郷の事なれば、道法(みちのり)五六町[やぶちゃん注:約五百四十五~六百五十五半メートル。]も行かざれば、調ふる事叶はず。その時女房またかのかはらけを取出し、はやよもや有るまじけれども、打傾けて見しかば、土器に亦八分目ばかり出ぬ。それより不思議なる事をと思ひ、傾けて見る度毎に、油出《いで》ずといふ事なし。これよりして毎夜油出て尽《つく》る事なし。二三月《つき》にも及びしかば、希代の珍事なりとて、彼《かの》所の庄屋より代官へ訴へ出《いで》て、大守の聞えに達せしかば、さてさて不思議の事哉。(以下脱文アリ)[やぶちゃん注:原本の校訂注。]去年志智山邑《むら》近辺へ、大守鷹野に行かれし時、所の庄屋に尋ねしかば、かの刑部作宅は、これより半道《はんみち》[やぶちゃん注:一里の半分。一・九三四キロメートル。]ばかりも有りと聞きし故、かの庄屋に案内させ、刑部作が家に行きて、かの陶を出させ見るに、ふちのかけたる備前陶に縄を付けて持出すに、打振て見れば、中に入子《いれこ》などの有るやうに思はるゝ外《ほか》、別に替りたる事なし。今既に五ケ年に及ぶといへども、油の尽る事なし。希代《きだい》の事に非ずやと、与左衛門物語りなりとて、道寿これを語られし。

[やぶちゃん注:幼い頃、実演を見た「インド魔術団」の 「インドの、水!――」だね。

「二川随筆」(にせんずいひつ:現代仮名遣)は成趣軒(細川宗春:生没年未詳。詳細事績不明)著、山川素石(馬場信意:のぶおき/のぶのり 寛文九(一六六九)年~享保一三(一七二八)年:江戸中期の小説家。日本を題材にした軍書の制作を中心に書き、近世に於ける最大の軍書制作者とされる)訂考になる随筆で、織田信長時代以降の雑事を漫録したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第五巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(本書の冒頭である)。

「志智山村」「ひなたGPS」の戦前の地図で、岸和田から指示した距離の辺りを探したが、発見出来なかった。距離的に怪しいのは、現在の奈良県五條市の旧宇智郡『宇智村』か。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「杖の霊異」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

     

 

 杖の霊異【つえのれいい】 〔径談老の杖巻一〕豊後国岡の城外に、物外《ぶつぐわい》といへる隠士あり。もとは諸侯に仕官の身なりしが、心にそまずやありけん、病に託して身退き、世をやすく暮しぬ。常にまがれる竹の杖を愛して、いづ方へも携へ出《いで》られけるが、そのかたちふししげく、所々くびれ入りて、いとめづらなるさま、[なか杖][やぶちゃん注:所持する刊本では、この囲み字(則ち、推定で補った欠字)が『なる杖』で、この方がすんなり読める(読点を排して「いとめづらかなるさまなる杖」)ことは事実である。]なりしを、いたくけう[やぶちゃん注:ママ。]じて、謝霊運《しやりやううん》が笠のためしも引出《ひきいだ》つべし。おのが心のゆがめるには、よきいさめ草なりなど愛するあまり、常にも袋に入れ、あからさまなる処にもおかず。逸楽の身なれば、あるは釣たれ、野山の花もみぢに、一日も宿にある日はまれなるに、いづかたへ行きてもかたはらに引きそばめて、あだかも宝鼎重器《はうけいぢゆうき》のごとくかしづかれけるを、そしれる人も多かりけり。ある日城下より三里程脇に、心やすく語る僧のありしを訪《おとな》はんとて、宵より僕《しもべ》にいひつけて、土産やうのものなど取したゝめ、いつもよりはやく閨《ねや》に入りて、休まれける夢に、同じ僧のがりゆくとて、野道にふみ迷ひ茫然たる折ふし、むかうより若き男の、たけ高くふとりたるがあゆみ来りて、きみはいづこへおはしますにかと、いと馴れ馴れしげにいふを、怪しとおもひて、そこには誰《た》れぞと問へば、我は朝夕に君の傍《かたはら》を離れぬものを、うとうとしき仰せかな、道に迷ひ給ふにこそ、我に順(したが)ひて来り給へと先にたつを、あやしとおもふおもふつきて行きしに、その傍の岸にはかに崩れて、下にあめうしのありしが、うたれて死したりと見て夢さめぬ。さて夢にてありしと、兎角して又寝入り、翌日の日、何心なく出行きぬるに、主従ともに道にふみ迷ひて、爰よかしこと尋ねさまよへど、ふつうに知れず。狐などの化《ばか》すにやと眉につばなどぬり、心を静めて尋ねれど、畑道にてしれざりしに、よべの夢の事おもひ出て、さては杖の知らせたるなるべし、実《げ》にも道に迷へる人は、杖を立てて知るといふ事も侍るにやと、杖を念じて立てつゝ、さて杖のたふれたるかたをめあてに行きぬ。いつもゆく道とはたがふと覚えけれど、かく心付きしうへは、しかるべき教へぞと信じ行けるに、巳の時[やぶちゃん注:午前十時頃。]ばかりにや、おびただしき地震ゆりいでて、みるがうちに過ぎ来《こ》し道くづれ、日頃すみし家も、上の山崩れてひしげぬ。爰かしこにて人も死し、牛馬もうせけるに、物外主従はつゝがなくて、横難《わうなん》[やぶちゃん注:不慮の災難。]をまぬがれける。これまたく杖の霊異なりとて、囊を改め箱をつくりて、いとど貴《たふと》みける。その子孫今におほ敬《うやま》ひて、神のごとく奉ずるといへり。かの『徒然草』にかける土《つち》おほね[やぶちゃん注:大根(だいこん)のこと。]も、愛するよりぞ今はの時の災《わざはひ》けを助けけん。心なきものといへども、いと哀れに年頃の情《なさけ》をば思ひしりけるにこそ。まして人たるものの、さる心なき論ずるにも足らず、浅ましといへり。物外子仕官の時の名は、山田半右衛門といへり。その子外記《げき》、その孫又半右衛門といふ。正徳年中[やぶちゃん注:宝永の後で享保の前。一七一一年から一七一六年まで。徳川家宣・家継の治世。]の事なり。

[やぶちゃん注:徹底した注を附した私の「怪談老の杖 電子化注 始動 / 序・目次・卷之一 杖の靈異」を見られたい。以下の冒頭の前振り部分がカットされている。

   *

ちはやぶる神やきりけんつくからにちとせの坂も越えぬべらなりとよみて、杖はめでたき具なり。されば、費長房が杖は龍と化し、□□□□[やぶちゃん注:底本はここに囲み字で『原本缺字』とする。四字分相当。]杖は鶴となりし例しありといふに、爰にもまた奇異の物語を傳へぬ。

   *]

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「最初の鴫(しぎ)」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Saisyonosigi

 

      最初の鴫(しぎ)

 

 「そこにゐろ、一番いゝ場所だ。わしは犬を連れて林をひと廻りして來る。鴫を追ひ立てるんだ。いゝか、ピイピイつて聲がしたら、耳を立てろ。それから眼をいつぱいに開(あ)けろ。鴫が頭の上を通るからな」

 ルピツク氏は、かう云つた。

 にんじんは、兩腕で鐵砲を橫倒しに抱いた。鴫を擊つのはこれが初めてだ。彼は以前に、父の獵銃で、鶉を一羽殺し、鷓鴣の羽根をふつ飛ばし、兎を一疋捕り損つた。

 鶉は、地べたの上で、犬が立ち止まつてゐるその鼻先で、仕止めたのである。はじめ、彼は、土の色をした丸い小さな球のやうなものを、見るともなしに見据(みす)えてゐた。[やぶちゃん注:「見据(みす)えていた」はママ。歴史的仮名遣は「みすゑてゐた」が正しい。]

 「後(あと)へさがつて・・・。それぢやあんまり近すぎる」

 ルピツク氏は彼にさう云つた。

 が、にんじんは、本能的に、もう一步前へ踏み出し、銃を肩につけ、筒先を押しつけるやうにして、ぶつ放した。灰色の毬は、地べたへめり込んだ。鶉はといふと木ツ葉微塵、姿は消えて、たゞ、羽根のいくらかと血まみれの嘴が殘つてゐたゞけだ。[やぶちゃん注:「毬」戦後版では『まり』とルビする。それを採る。但し、この場合は、「銃弾」を指しているので、ご注意あれ。]

 それはさうと、若い狩獵家の名聲が決まるのは、鴫を一羽擊ち止めるといふことだ。今日といふ日こそ、にんじんの生涯を通じて、記念すべき日でなければならぬ。

 黃昏(たそがれ)は、誰も知るとおり、曲者である。物みなが煙のやうに輪廓を波打たせ、蚊が飛んでも、雷が近づくほどにざわめき立つのである。それゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、にんじんは、胸をわくわくさせ、早くその時になればいゝと思ふ。

 鶫(つぐみ)の群が、牧場から還りに、柏の木立の中で、ぱツとはぢけるやうに散ると、彼は、眼を慣らすために、それを狙つてみる。銃身が水氣(すいき)で曇ると、袖でこする。乾いた葉が、其處こゝで、小刻みな跫音をたてる。[やぶちゃん注:「水氣」戦後版では、『すいき』とルビする。それで採る。湿った地面から立ち昇る水蒸気のことである。]

 すると、やがて、二羽の鴫が、舞ひ上がつた。例の長い嘴で、そのために、飛び方が重い。それでも、情愛濃やかに、追ひつ追はれつ、身顫ひする林の上に大きな輪を畫くのである。[やぶちゃん注:「畫く」戦後版にもルビはないが、「ゑがく」と訓じておく。]

 ルピツク氏が、豫め云つたやうに、彼等は、ピツピツピイと啼いてはゐるが、あんまり微かなので、こつちへやつて來るかどうか、にんじんは心配になりだした。彼は、切りに[やぶちゃん注:ママ。「頻りに」の誤記か。戦後版では『しきりに』とひらがな書きとなっている。]眼を動かしてゐる。見ると、頭の上を、二つの影が通り過ぎようとしてゐる。銃尾を腹にあて、空へ向けて、好い加減に引鐵を引いた。[やぶちゃん注:「引鐵」戦後版では『引鉄』で『ひきがね』とルビする。それを採る。]

 二羽のうち一羽が、嘴を下にして落ちて來る。反響が林の隅々へ恐ろしい爆音を撒き散らす。

 にんじんは、羽根の折れたその鴫を拾ひ、意氣揚々とそれを打ち振り、そして、火藥の臭ひを吸ひ込む。

 ピラムがルピツク氏より先に駈けつけて來る。ルピツク氏は、何時もよりゆつくりしてゐるわけでもなく、また急ぐわけでもない。

 「來ないつもりなんだ」

 にんじんは、褒められるのを待ちながら、さう考へる。

 が、ルピツク氏は、枝を搔き分け、姿を現はす。そして、まだ煙を立てゝゐる息子に向ひ、落つき拂つた聲で云ふ――

 「どうして二羽ともやつつけなかつたんだ」

 

[やぶちゃん注:原本はここから。

「鴫」はシギ科 Scolopacidaeの模式種であるチドリ目シギ科ヤマシギ属ヤマシギ Scolopax rusticola としてよい。ジビエ料理の王道とされる、「にんじん」が言うように、「長い嘴」を持ったそれである。

「鷓鴣」前揭の「鷓鴣」の注を參照。

「鶉」フランスのウズラはウズラの基準種であるキジ目キジ科ウズラ属ウズラCoturnix coturnix である。「ヨーロッパウズラ」等とも呼ぶが、こちらが正統なフランスの「ウズラ」である。ジビエ料理には、それを改良した本邦でお馴染みのウズラ Coturnix japonica が使用されているようではある。

「鶫」原文は“grives”で、スズメ目スズメ亜目スズメ小目ヒタキ上科ツグミ科ツグミ属 Turdus だが、異様に種が多いので、絞り込めない。但し、ここでは、「にんじん」が狙い易い対象として選んでいるとすれば、また、序でに加えるなら、フランスでジビエ料理に供される種とすれば、さらに、撃つ気はなくても、小振りの鳥を狙うというのは、一人前の猟師たらんとする者としは、これまた、不名誉であろうから、大型種であるヤドリギツグミTurdus viscivorus を候補として挙げてもよいか。

「柏」これはフランスであるから、双子葉植物綱ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属コナラ族 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata とすることは出来ない。本邦のお馴染みの「カシワ(柏・槲・檞)」は日本・朝鮮半島・中国の東アジア地域にのみ植生するからである。原文では“chêne”で、これはカシ・カシワ・ナラなどのブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の総称である。則ち、「オーク」と訳すのが、最も無難であり、特にその代表種である模式種ヨーロッパナラ(ヨーロッパオーク・イングリッシュオーク・コモンオーク・英名はcommon oakQuercus robur を挙げてもよいだろう。]

 

 

 

 

    La première Bécasse

 

   Mets-toi là, dit M. Lepic. C’est la meilleure place. Je me promènerai dans le bois avec le chien ; nous ferons lever les bécasses, et quand tu entendras : pit, pit, dresse l’oreille et ouvre l’oeil. Les bécasses passeront sur ta tête.

   Poil de Carotte tient le fusil couché entre ses bras. C’est la première fois qu’il va tirer une bécasse. Il a déjà tué une caille, déplumé une perdrix, et manqué un lièvre avec le fusil de M. Lepic.

   Il a tué la caille par terre, sous le nez du chien en arrêt. D’abord il regardait, sans la voir, cette petite boule ronde, couleur du sol.

   Recule-toi, lui dit M. Lepic, tu es trop près.

   Mais Poil de Carotte, instinctif, fit un pas de plus en avant, épaula, déchargea son arme à bout portant et rentra dans la terre la boulette grise. Il ne put retrouver de sa caille broyée, disparue, que quelques plumes et un bec sanglant.

   Toutefois, ce qui consacre la renommée d’un jeune chasseur, c’est de tuer une bécasse, et il faut que cette soirée marque dans la vie de Poil de Carotte.

   Le crépuscule trompe, comme chacun sait. Les objets remuent leurs lignes fumeuses. Le vol d’un moustique trouble autant que l’approche du tonnerre. Aussi, Poil de Carotte, ému, voudrait bien être à tout à l’heure.

   Les grives, de retour des prés, fusent avec rapidité entre les chênes. Il les ajuste pour se faire l’oeil. Il frotte de sa manche la buée qui ternit le canon du fusil. Des feuilles sèches trottinent çà et là.

   Enfin, deux bécasses, dont les longs becs alourdissent le vol, se lèvent, se poursuivent amoureuses et tournoient au-dessus du bois frémissant.

   Elles font pit, pit, pit, comme M. Lepic l’avait promis, mais si faiblement, que Poil de Carotte doute qu’elles viennent de son côté. Ses yeux se meuvent vivement. Il voit deux ombres passer sur sa tête, et la crosse du fusil contre son ventre, il tire au juger, en l’air.

   Une des deux bécasses tombe, bec en avant, et l’écho disperse la détonation formidable aux quatre coins du bois.

   Poil de Carotte ramasse la bécasse dont l’aile est cassée, l’agite glorieusement et respire l’odeur de la poudre.

   Pyrame accourt, précédant M. Lepic, qui ne s’attarde ni se hâte plus que d’ordinaire.

   Il n’en reviendra pas, pense Poil de Carotte prêt aux éloges.

   Mais M. Lepic écarte les branches, paraît, et dit d’une voix calme à son fils encore fumant :

   Pourquoi donc que tu ne les as pas tuées toutes les deux ?

 

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蠅」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Hae

 

     

 

 

 獵はまだ續くのである。にんじんは、自分が馬鹿に思へてしかたがなく、後悔のしるしに、肩をぴんと上げる。それから、新しく元氣を出して、父親の足跡を拾つて行く。つまり、ルピツク氏が左の足を置いたところへ、自分も左の足を置くといふ風にである。勢ひい大股になる。人喰鬼にでも追つかけられてるやうだ。休む暇といつたら桑の實とか野生の梨とか、または、口がしびれ、唇が白くなり、そして喉の渴きをとめるうつぼ草の實とかをちぎる時だけである。それに、彼は獲物囊のカクシの中に、燒酎の罎をもつてゐる。それを、ごくりごくり、彼ひとりで、あらまし飮んでしまふ。ルピツク氏は、獵に夢中で、請求するのを忘れてゐるからだ。[やぶちゃん注:「人喰鬼」のルビを参考にすれば、「ひとくひおに」。「燒酎」原文は“eau-de-vie”(音写「オゥ・ド・ヴィ」。「命の水・生命の水」)で、これは、葡萄酒を蒸留して得られるアルコール七十度を越える火酒全般を言い、我々の用いるコニャックやブランデーに相当する語として普通に用いられるものである。ここでも「ブランデ」ーの訳でよいのではなかろうか。「にんじん」がちょろまかすには、「燒酎」では如何にも安っぽく過ぎる。]

 「一と口どう、父さん」

 風は「いらん」といふ音しか運んで來ない。にんじんは、今薦めたその一と口を自分で飮み干し、罎を空つぽにする。頭がふらふらになる。が、父親の後を追ひかけはじめる。突然、彼は立ち止る。耳の孔へ指を突つ込む。亂暴に廻す。引き出す。それから、耳を澄ます恰好をして、ルピツク氏に叫びかける――

 「あのね、父さん、僕の耳ん中へ、蠅が一つ匹はひつたらしいよ」

 

ルピツク氏――除(と)つたらいゝだらう。

にんじん――奧の方へ行つちやつたんだよ。屆かないんだもの。ブーンつて云つてんのが聞こえるよ。

ルピツク氏――放(ほ)つとけ。ひとりでに死ぬよ。

にんじん――でも、若しかして、卵を生んだら? 巢をこさへたら? え、父さん?[やぶちゃん注:「?」の下の半角空けはママ。底本の当該部(右ページ最終行)を見ると、判然とするが、植字工がこの台詞が一行内に収まるように行ったものである。]

ルピツク氏――ハンケチの角で潰してみろ。[やぶちゃん注:「角」戦後版は『かど』とルビする。それを採る。]

にんじん――燒酎をすこし流し込んで、溺れさしちまつたらどう?そうしてもいい?[やぶちゃん注:「?」の下の字空け無しはママ。全く同前の理由。]

 

 「なんでも流し込め!」と、ルピツク氏は怒鳴る――「だが、早くしろ」

 

 にんじんは罎の口を耳にあてがひ、もう一度そいつを空つぽにする。ルピツク氏が、わしにも飮ませろと云ひ出した時の用心にである。

 で、やがて、にんじんは、駈け出しながら、浮浮と、叫ぶ――[やぶちゃん注:「浮浮と」戦後版は『うきうきと』で、ひらがな表記。]

 「そらね、父さん、僕、もう蠅の音が聞こえなくなつたよ。きつと死んだんだらう。たゞ、やつめ、これみんな飮んじまやがつた」

 

[やぶちゃん注:原本はここから。

「人喰鬼」原文は“ogre”(音写「オグル」)。ヨーロツパに広く分布する伝承上の人を食うとされる怪物。もともとは特定の固有名称があったわけではないが、それに対して、“ogre”といふ名を与えたのは、かのシャルル・ペロー(Charles Perrault)が一六九七年に出版した民話集「過ぎ去った時代の物語や物語。 モラリテエとともに。マザー・グースの物語」( Histoires ou contes du temps passé. Avec de moralités : Contes de ma mère l'Oye. )の中の「長靴をはいた猫」( Le Chat botté )であるとされる。

「うつぼ草」原文は“prunelles”。本邦ではシソ目シソ科ウツボグサ属セイヨウウツボグサ亜種ウツボグサ Prunella vulgaris subsp. Asiatica を指すが、これでは分布域が合致しないので、違う。今回は、その原種であるセイヨウウツボグサ Prunella vulgaris に当てることとした。有力である理由は、フランス語の当該種のウィキに「食用」となる「蜜を多く持った植物」であり、『抗炎症剤・解熱剤』、『鎮痙剤・抗ウイルス剤』として使用され、『熱を下げ、喉の痛み・咳・風邪による不快感を和らげるために』も使われ、『健胃作用』を持ち、『胃痙攣や胸焼けを緩和し、下痢・嘔吐を軽減する』効果があるとあったからである。なお、所持する辞書では『リンボク』とするが、同じサクラ属リンボク Prunus spinulosa は日本固有種であるから、辞書の訳語としては適切でない。]

 

 

 

 

    La Mouche

 

   La chasse continue, et Poil de Carotte qui hausse les épaules de remords, tant il se trouve bête, emboîte le pas de son père avec une nouvelle ardeur, s’applique à poser exactement le pied gauche là où M. Lepic a posé son pied gauche, et il écarte les jambes comme s’il fuyait un ogre. Il ne se repose que pour attraper une mûre, une poire sauvage, et des prunelles qui resserrent la bouche, blanchissent les lèvres et calment la soif. D’ailleurs, il a dans une des poches du carnier le flacon d’eau-de-vie. Gorgée par gorgée, il boit presque tout à lui seul, car M. Lepic, que la chasse grise, oublie d’en demander.

   Une goutte, papa ?

   Le vent n’apporte qu’un bruit de refus. Poil de Carotte avale la goutte qu’il offrait, vide le flacon, et la tête tournante, repart à la poursuite de son père. Soudain, il s’arrête, enfonce un doigt au creux de son oreille, l’agite vivement, le retire, puis feint d’écouter, et il crie à M. Lepic :

   Tu sais, papa, je crois que j’ai une mouche dans l’oreille.

     MONSIEUR LEPIC

   Ôte-la, mon garçon.

     POIL DE CAROTTE

   Elle y est trop avant, je ne peux pas la toucher. Je l’entends qu’elle bourdonne.

     MONSIEUR LEPIC

   Laisse-la mourir toute seule.

     POIL DE CAROTTE

   Mais si elle pondait, papa, si elle faisait son nid ?

     MONSIEUR LEPIC

   Tâche de la tuer avec une corne de mouchoir.

     POIL DE CAROTTE

   Si je versais un peu d’eau-de-vie pour la noyer ? Me donnes-tu la permission ?

   Verse ce que tu voudras, lui crie M. Lepic. Mais dépêche-toi.

 

   Poil de Carotte applique sur son oreille le goulot de la bouteille, et il la vide une deuxième fois, pour le cas où M. Lepic imaginerait de réclamer sa part.

   Et bientôt, Poil de Carotte s’écrie, allègre, en courant :

   Tu sais, papa, je n’entends plus la mouche. Elle doit être morte. Seulement, elle a tout bu.

 

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「獵にて」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Ryounite

 

     

 

 ルピツク氏は、息子たちを交る交る獵に連れて行く。彼らは、父親の後ろを、鐵砲の先を除けて、すこし右の方を步く。そして、獲物を擔ぐのである。ルピツク氏は疲れを知らぬ步き手だ。にんじんは、苦情もいわず、遮二無二頑張つて後をついて行く。靴で怪我をする。そんなことは噯氣(おくび)にも出さない。手の指が捻ぢ切れさうだ。足の爪先が膨(ふく)れて、小槌の形になる。

 ルピツク氏が、獵の初めに、兎を一疋殺すと、

 「こいつは、そのへんの百姓家へ預けるか、さもなけれや、生籬の中へでも匿しといて、夕方持つて歸るとしようや」

 かう云ふ。にんじんは、

 「うゝん、僕、持つてる方がいゝんだよ」

 そこで、一日中、二疋の兎と、五羽の鷓鴣とを擔いで廻るやうなことがある。彼は獲物囊の負(お)ひ革の下へ、或は手を、或はハンケチを差込んで肩の痛みを休める。誰かに遇ふと、大仰に背中を見せる。すると、一瞬間、重いのを忘れるのである。[やぶちゃん注:「鷓鴣」「しやこ」(しゃこ)。先行する「鷓鴣(しやこ)」を参照されたい。]

 が、彼は厭き厭きして來る。ことに、何ひとつ仕止めず、見榮といふ支え[やぶちゃん注:ママ。]がなくなると、もう駄目だ。[やぶちゃん注:「厭き厭き」「あきあき」。]

 「此處で待つてろ。わしは、その畑を一と漁(あさ)りして來る」

 時として、ルピツク氏はかういふ。

 にんじんは焦(じ)れて、日の照りつける眞下に、突つ立つたまゝ、ぢつとしてゐる。彼は、親爺のすることをみてゐる。畑の中を、畦から畦へ、土くれから土くれへと、踏みつけ踏みつけ、耙(まぐわ)のやうに、固め、平らして行く。鐵砲で、生籬や灌木の茂みや、薊の叢(くさむら)をひつぱたく。その間、ピラムはピラムで、もうどうする力もなく、日蔭をさがし、ちよつと寢轉んでは、舌をいつぱいに垂れ、呼吸をはづませてゐる。[やぶちゃん注:「畦」戦後版では『うね』とルビする。それで採る。「薊」「あざみ」。「ピラム」既出のルピック家の飼い犬の名。]

 「そんなとこに、なにがゐるもんか」と、にんじんは心の中で云ふ――「さうさう、ひつぱたけ! 蕁麻(いらくさ)でもへし折るがいゝ。抹搔(まぐさか)きの眞似(まね)でもしろ! 若しおれが兎で、溝の窪みか、葉の蔭に棲んでゐるんだつたら、この暑さに、ひよこひよこ出掛けることはまづ見合せだ!」[やぶちゃん注:この鍵括弧は孰れも二重鍵括弧にしたい。]

 で、彼は、密かにルピツク氏を呪ひ、小さな惡口を投げかける。[やぶちゃん注:「惡口」戦後版にもルビはないが、私は「わるぐち」でよいと思っている。]

 すると、ルピツク氏は、またひとつの栅を飛び越えた。傍の苜蓿畑(うまごやしばたけ)を狩り立てるためだ。今度こそ、兎の小僧が二疋や三疋、どんなことがあつたつてゐない筈はないときめてゐたのだ。[やぶちゃん注:「傍」戦後版では『傍(かたわ)ら』であるので、「かたはら」としておく。「苜蓿畑」戦後版は『うまごやしばたけ』とルビする。それで採る。]

 にんじんは、そこで呟く――

 「待つてろつて云つたけど、かうなると、くつついて行かなきやなるまい。初めの調子の惡い日は、終(しま)ひまで惡いんだ。親爺! いゝから走れ! 汗をかけ! 犬がへとへとにならうと、おれが腰を拔かさうと、かまふこたあない! どうせ坐つてるのと、結果はおんなじさ。手ぶらで還るんだ、今夜は」

 さう云へば、にんじんは、他愛のない迷信家である。

 (彼が帽子の緣へ手をかける度每に)ピラムが、毛を逆立て、尻尾をぴんとさせて、立ち止るのである。すると、ルピツク氏は、銃尾を肩に押しあて、拔き足さし足で、出來るだけその側へ近づいて行く。にんじんはもう動かずにゐる。そして、感動の最初の火花が、彼を息づまらせる。[やぶちゃん注:「緣」戦後版では、『へり』とルビする。それを採る。「側」「そば」。戦後版でもそうルビする。]

 (彼は帽子を脫ぐ)

 鷓鴣が舞い立つ。さもなければ、兎が飛び出す。そこで、にんじんが、(帽子を下へおろすか、または、最敬禮の眞似をするかで)、ルピツク氏は、失敗(しくじ)るか、仕止めるか、どつちかなのである。

 にんじんの告白によれば、この方法も百發百中といふわけにはいかぬ。あまり屢々繰り返してやると、効き目がないのである。好運も同じ合圖にいちいち應えることは面倒なのであらう。で、にんじんは、控え[やぶちゃん注:ママ。]目に間(ま)を置くのである。さうすれば先づ大槪は當るといふわけだ。

 「どうだい、擊つとこを見たかい?」と、ルピツク氏は、まだ溫かい兎をつるし上げ、それから、そのブロンドの腹を押へつけて、最後の大便をさせる――「どうして笑ふんだい」

 「だつて、父さんがこいつを仕止めたのは、僕のお蔭なんだもの」

 にんじんは、さう答へる。

 また今度も成功だといふので、彼は得意なのだ。そこで、例の方法を、ぬけぬけと說明したものである。

 「お前、そりや、本氣か?」

と、ルピツク氏は云つた。

 

にんじん――いゝや、それや、僕だつて、決して間違はないとは云はないさ。

ルピツク氏――もういゝから、默つとれ、阿呆! わしから注意しといてやるが、若し、頭のいい兒つていふ評判を失(な)くしたくなけれや、そんな出鱈目は他所(よそ)の人の前で云はんこつた。こつぴどく嗤(わら)はれるぞ。それとも、萬が一、わしを揶揄(からか)はうとでも云ふのか?

にんじん――うゝん、そんなことないよ、父さん。だけど、さう云はれてみると、ほんとだね。御免よ。僕あ、やつぱり、お人好しなんだ。

 

[やぶちゃん注:原本はここから。

「噯氣(おくび)にも出さない」「おくび」は「ゲップ」のこと。ある事柄や思いを心に秘めておいて、口には決して出さず、それを感じさせる素振りさえも見せないことを言う。

「耙(うまぐわ)」農具。牛馬に牽かせて、耕地の土壌を細かく砕き、掻き均(なら)す農具。横木に櫛の歯のように木や金属の刃(は)を付けたものを言う。]

「御免よ。僕あ、やつぱり、お人好しなんだ。」「お人よし」は原文では“serin”である。これは本来は鶸(ひわ:スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科アトリ亜科のヒワ族Carduelini)を指すが、フランスでは、特にヒワ族ヒワ属ゴシキヒワ Carduelis carduelis を指すことが多いようである(愛玩鳥として人気がある。当該ウィキを参照されたい)。閑話休題。而して、派生して、これ、俗語で、「うぶな青二才」といふトンデモ意味となり、ここでは、その用法で使われているのである。]

 

 

 

 

    En Chasse

 

  1. Lepic emmène ses fils à la chasse alternativement. Ils marchent derrière lui, un peu sur sa droite, à cause de la direction du fusil, et portent le carnier. M. Lepic est un marcheur infatigable. Poil de Carotte met un entêtement passionné à le suivre, sans se plaindre. Ses souliers le blessent, il n’en dit mot, et ses doigts se cordellent ; le bout de ses orteils enfle, ce qui leur donne la forme de petits marteaux.

   Si M. Lepic tue un lièvre au début de la chasse, il dit :

   Veux-tu le laisser à la première ferme ou le cacher dans une haie, et nous le reprendrons ce soir ?

   Non, papa, dit Poil de Carotte, j’aime mieux le garder.

   Il lui arrive de porter une journée entière deux lièvres et cinq perdrix. Il glisse sa main ou son mouchoir sous la courroie du carnier, pour reposer son épaule endolorie. S’il rencontre quelqu’un, il montre son dos avec affectation et oublie un moment sa charge.

   Mais il est las, surtout quand on ne tue rien et que la vanité cesse de le soutenir.

   Attends-moi ici, dit parfois M. Lepic. Je vais battre ce labouré.

   Poil de Carotte, irrité, s’arrête debout au soleil. Il regarde son père piétiner le champ, sillon par sillon, motte à motte, le fouler, l’égaliser comme avec une herse, frapper de son fusil les haies, les buissons, les chardons, tandis que Pyrame même, n’en pouvant plus, cherche l’ombre, se couche un peu et halète, toute sa langue dehors.

   Mais il n’y a rien là, pense Poil de Carotte. Oui, tape, casse des orties, fourrage. Si j’étais lièvre gîté au creux d’un fossé, sous les feuilles, c’est moi qui me retiendrais de bouger, par cette chaleur !

   Et en sourdine il maudit M. Lepic ; il lui adresse de menues injures.

   Et M. Lepic saute un autre échalier, pour battre une luzerne d’à côté, où, cette fois, il serait bien étonné de ne pas trouver quelque gars de lièvre.

   Il me dit de l’attendre, murmure Poil de Carotte, et il faut que je coure après lui, maintenant. Une journée qui commence mal finit mal. Trotte et sue, papa, éreinte le chien, courbature-moi, c’est comme si on s’asseyait. Nous rentrerons bredouilles, ce soir.

   Car Poil de Carotte est naïvement superstitieux.

   Chaque fois qu’il touche le bord de sa casquette, voilà Pyrame en arrêt, le poil hérissé, la queue raide. Sur la pointe du pied, M. Lepic s’approche le plus près possible, la crosse au défaut de l’épaule. Poil de Carotte s’immobilise, et un premier jet d’émotion le fait suffoquer.

   Il soulève sa casquette.

   Des perdrix partent, ou un lièvre déboule. Et selon que Poil de Carotte laisse retomber la casquette ou qu’il simule un grand salut, M. Lepic manque ou tue.

   Poil de Carotte l’avoue, ce système n’est pas infaillible. Le geste trop souvent répété ne produit plus d’effet, comme si la fortune se fatiguait de répondre aux mêmes signes. Poil de Carotte les espace discrètement, et à cette condition, ça réussit presque toujours.

   As-tu vu le coup ? demande M. Lepic qui soupèse un lièvre chaud encore dont il presse le ventre blond, pour lui faire faire ses suprêmes besoins. Pourquoi ris-tu ?

   Parce que tu l’as tué grâce à moi, dit Poil de Carotte.

   Et fier de ce nouveau succès, il expose avec aplomb sa méthode.

   Tu parles sérieusement ? dit M. Lepic.

     POIL DE CAROTTE

   Mon Dieu ! je n’irai pas jusqu’à prétendre que je ne me trompe jamais.

     MONSIEUR LEPIC

   Veux-tu bien te taire tout de suite, nigaud. Je ne te conseille guère, si tu tiens à ta réputation de garçon d’esprit, de débiter ces bourdes devant des étrangers. On t’éclaterait au nez. À moins que, par hasard, tu ne te moques de ton père.

     POIL DE CAROTTE

   Je te jure que non, papa. Mais tu as raison, pardonne-moi, je ne suis qu’un serin.

 

2023/12/07

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鳥類の智慧」 / 「ち」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 なお、これを以って、「ち」の部は終わっている。]

 

 鳥類の智慧【ちょうるいのちえ】 〔耳囊巻五〕木下何某の領分、在邑の節、領内を一目に見晴す高楼有りて、夏日近臣を打連れて、右楼に登り眺望ありしに、遙かの向ふに大木の松ありて、右梢に鶴の巣をなして、雄雌餌を運び、養育せる有さま、雛も余程育立て、首を並べて巣の内に並べるさま、遠眼鏡にて望みしに、或時右松の根より、か程ふとき黒きもの、段々右木へ登る様、うはばみの類ひなるべし。やがて巣へ登りて、雛ををとり喰《くら》ふならん、あれを制せよと、人々申しさわげども、せん方なし。しかるに二羽の鶴の内一羽、右蛇を見付けし体《てい》にてありしが、虚空に飛去りぬ。哀れいかゞ、雛はとられなんと、手に汗して、望み詠(なが)めしに、最早かの蛇も梢近く至り、あはやと思ふころ、一羽の鷲はるかに飛来り、右の蛇の首を喰(くは)へ、帯を下げし如く[やぶちゃん注:ママ。以下の私の電子化では「帶を下(くだし)し如く」である。]、空中を立帰りしに、親鶴も程なく立帰りて、雌雄巣へ戻り、雛を養ひしとなり。鳥類ながら、その身の手に及ばざるをさとりて、同類の鷲をやとひ来りし事、鳥類心《こころ》ありける事とかたりぬ。 〔牛馬問巻二〕予<新井白蛾>が類縁に、宇松貞といへる医あり。一とせ夏鍼《しん/はり》をならべ置きたるに、鉄鍼を紛失せり。尋ぬれども終に得ずして止みぬ。翌年の夏のはじめ、徒然して坐し居たるに、縁の上へ血したゝり落つ。不思議に詠め見る所に大なる蛇落ちて死にける。この由を審かにするに、燕来て、年々此家に巣を作るといへども、この蛇のために卵をとられ、生育する事なかりしに、去年の鍼を巣に貯へ、今年終に敵《かたき》をとりぬ。物おのづからこの理有り。これ予親しく聞く所なり。

[やぶちゃん注:前者は私のは、底本違いで、「耳嚢 巻之六 鳥類助を求るの智惠の事」。後者「牛馬問」は「烏賊と蛇」で既出既注。この正字原文は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧三期・㐧五卷(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここの「卷之二」の掉尾にある『○燕の敵』がそれ。

「宇松貞」現代仮名遣で「うしょうてい」か。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「長泉院の鐘」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 長泉院の鐘【ちょうせんいんのかね】 〔甲子夜話続篇巻十〕梅塢曰く、駿州榛原郡<静岡県内>長泉院と云ふ曹洞宗の寺に、昔し雲遊の僧来て行乞たるに、折ふし住持は碁を打ち居たるが云ふには、この寺は素より窮乏にて、貯へとては一銭だに無し、有るものはたゞ撞鐘のみなり、これにても持ちゆくべしと答ふれば、僧聞て持ちたりし錫杖にその鐘を掛け、雲を凌いで飛去りぬ。この僧は役行者の神変にて、この鐘は大峯深山の灌頂堂《くわんじやうだう》に今に存在せり。即ち榛原《はんばら》郡長泉院と銘その儘にありと。その後代を歴てこの寺の鐘を鋳たるに、月日立《たち》ても音出《いで》ず。このこと承応の頃なるに、安永のほどまで此《かく》の如くなりしかば、時の住持思ひ興《おこ》し、役行者(えんのぎやうじや)の堂を建立し、その堂に懸る鐘を鋳んことを行者に起誓し祈りしかば、或夜霊夢を見る。因てその告げにまかせ、寺の境内を掘りたるに、応永年中この寺の前住が鋳たりし鐘を感得す。この鐘今に行者堂の鐘とて、この寺の法事祭事に用ゆると云ふ。(この話梅塢が門人村岡修理なる者親しく見しと)<遠州原田荘《しやう》長福寺の鐘に関して伝えるところ、殆んど右に同じ。同書同巻同項に出ている>

[やぶちゃん注:宵曲のヒドい手抜きを、私が「フライング単発 甲子夜話續篇卷十 14 駿州長泉院【或云、遠州長福寺】の古鐘」で是正したので、見られたい。

フライング単発 甲子夜話續篇卷十 14 駿州長泉院【或云、遠州長福寺】の古鐘

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナの読みは珍しい静山のルビ。]

10-14

 梅塢(ばいう)曰(いはく)、

――駿州榛原郡(はいばらのこほり)長泉院と云(いふ)曹洞宗の寺に、昔し雲游(うんいう)の僧、來(きたり)て、行乞(ぎやうこつ)たるに、折ふし、住持は棊(ご)を打居(うちをり)たるが、言ふには、

「此寺は、素(もと)より、窮乏にて、貯(たくはへ)とては、一錢だに、無し。有るものは、たゞ撞鐘(つきがね)のみなり。是にても、持(もち)ゆくべし。」

と答(こたへ)れば、僧、聞(きき)て、持(もち)たりし錫杖に其鐘を掛け、雲を凌(しのい)で、飛去(とびさ)りぬ。

 この僧は、役行者(えんのぎやうじや)の神變(しんぺん)にて、この鐘は、大峯深山の灌頂堂(くわんじやうだう)に今に存在せり。卽ち、榛原郡長泉院と、銘その儘にあり、と。

 其後(そののち)、代を歷て、この寺の鐘を鑄(い)たるに、月日立(たち)ても、音、出(いで)ず。

 このこと、承應の頃なるに、安永のほどまで、此(かくの)如くなりしかば、時の住持思ひ興(おこ)し、役行者の堂を建立し、其堂に懸る鐘を鑄んことを行者に起誓し祈りしかば、或夜、靈夢を見る。因(よつ)てその告(つげ)にまかせ、寺の境内を堀[やぶちゃん注:ママ。]りたるに、應永年中この寺の前住が鑄たりし鐘を感得す。この鐘、今に「行者堂の鐘」とて、この寺の法事・祭事に用ゆる。――

と云(いふ)。【この話、梅塢が門人村岡修理なる者、親(したし)く見し、と。】

 行智、曰(いはく)、

――金峯山(きんぼうさん)の高峯(たかみね)を「鐘掛(かねかけ)」と云ふ。絕頂の平坦に堂あり。「山上堂」と云ふ。これ金嶽(カネノミタケノ)神社にして、堂には金剛藏王權現を安置す。堂内の梁に鐘一口を懸けたり【行智が見る所は、大抵、高さ三尺許(ばがり)あるべし。】。銘、あり、曰(いはく)、

  遠江國佐野(サヤノ)郡原田莊(しやう)長福寺

  天慶七年六月二日

 昔し、遠州原田莊に長福寺と云(いふ)あり。

 一夕(いつせき)、山伏、來(きたり)て齋料(ときれう)を乞ふ。

 住持、特に碁(ご)を打居ければ、起(おき)て、物を施すに懶(ものう)く、居(ゐ)ながら、山伏を顧(かへりみ)て、

「この寺、貧にして、布施に供ずべき物なし。たゞ堂上に巨鐘あり。是にてよくば、持行(もちゆく)べし。」

と言ふ。

 山伏、これを聞き、領掌(りやうしやう)して、直(ただち)に鐘堂(しようだう)に登り、鉤鐘(つりがね)を引下(ひきおろ)し、持來(もちきた)れる錫杖を龍頭(りゆうづ)に指(さ)しとほして、輕々と肩に打(うち)かけ荷(にな)ひ去る。

 住持、大に駭(おどろ)き、卽(すなはち)、人を走らせて、山伏のあとを追行(おひゆか)しむるに、疾風の如くにして、及(およぶ)べからず。遂に、その跡を失ふ。

 又、後に、大峯より還れる山伏の物語に云ふ。

「彼(か)の山上、嚴石(がんせき)の出(いで)たる所に、この寺の鐘の掛れるを見たり。」

と。

 因(より)て、住持、始めて曉(さと)る、

「これ、役行者の眷屬などの所爲ならん。」

と知り、これを悔ひ、大に恐れ、寺中に「役行者の堂」を建て、これを祀り、後、又、寺を捨(すて)、金峯に入(いり)て修行し、山伏の徒(ともがら)と成れりと云(いふ)。

 夫(それ)よりして、彼(か)の山嶺を「鐘掛」とは呼(よび)ならはせり。――

と【行智曰(いはく)、『「峯中緣記」に見ゆ。又、「行者靈驗記」に出(いだ)す所は少(すこ)しく異說と聞(きこ)ゆ。又、近くは「東海道名所圖會」にも載(のせ)たり。』。】

――右、長福寺と云へるは、東海道掛川驛より、二里許(ばかり)、秋葉山へ往く道の側(かたはら)に在り。眞言宗にて、門前に、「大峯鐘掛役行者舊跡」とある榜(たてふだ)を竪(たて)たり。寺中に、「行者堂」、今にあり。此寺に爾來、鐘を置くこと、なし。適々(たまたま)鑄れども、成らず。又、他(ほか)より求來(もとめきたり)て置(おく)ときは、必ず、災異あり。依(よつ)て今に鐘を寺内に禁ず――

と云へり。

 此二說、ひとしからず。要するに、奇異の事也。

■やぶちゃんの呟き

「梅塢」幕臣荻野八百吉(おぎのやおきち 天明元(一七八一)年~天保一四(一八四三)年)。天守番を勤めた。仏教学者として知られ、特に天台宗に精通して、寛永寺の僧らに教えた。「続徳川実紀」の編修にも参加している。名は長・董長。梅塢(ばいう)は号。静山より二十一年下。

 以下の語注は、「柴田宵曲 妖異博物館 持ち去られた鐘」の私の注を見られたい。なお、他にも「諸國里人談卷之五 ㊉器用部 大峰鐘」も参考になるので、どうぞ!

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「手水鉢の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 手水鉢の怪【ちょうずばちのかい】 〔耳囊巻六〕御医師に人見幽元と申すあり。茶事にも心ありしか。番町<東京都千代田区内>にて(名も聞きしが忘れたり)古き石の手水鉢あるを見て、しきりに所望なせしが、右は年久しく庭にありて、調法なすにもあらざれど、殊の外根入《ねいり》ふかき由言ひければ、それは人を懸けて、据らせ申すべき間、何卒給はるべしと約束して、その日になりて人夫をやとひ、根入りはいと深けれど、難なく掘出《ほりいだ》し、光栄事幽足方へ持込み、扨々珍器を得たりと、殊の外欽《よろこ》び寵愛せしに、その夜より右手水鉢帰るべき由中すよし、家内これさたに、石の物言ふといふ事、有るべきやうなしと。兎角夜に入れば、物言ふ事やまず。恐れて元に帰しけるとや。訳ありて事を怪にたくしけるか、石《いし》魂《たましひ》ありてかくありしや、知らず。

[やぶちゃん注:私のものでは、底本違いで、「耳嚢 巻之十 古石の手水鉢怪の事」。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「釣客怪死」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 釣客怪死【ちょうかくかいし】 〔続蓬窻夜話〕紀州に鈴木周徳と云ふ者あり。城中の奥坊主にて身上《しんしやう》も貧しからず世を過しけるが、周徳常に魚を釣る事を好みて、公用閑暇の折節は雑賀崎(さいかざき)・田ノ浦など云ふ処へ磯釣と云ふ事に行きて、終日巌の上を徘徊し、魚を釣てぞ楽しみける。享保十年の暮、或る日周徳外へ行く事のありて出けるが、晩(くれ)に至つて帰り来《きた》るを見れば、その著たる衣服内さま、肩より裾に至るまで一身皆水に湿(ぬれ)たり。家内大いに驚きて、誤つて海などへ落ちられるけるにやと問ひけれども、その身も何方《いづかた》にて湿たると云ふ事を知らず。人々大いに怪しみ、不思議なる事と云ひ合ひけり。その後《のち》程経て周徳何地《いづち》へか行きたりけん、仮初に出行きて家に帰らざりしかば、一家従類驚き騒ぎ、足を飛ばして方々を尋ね巡りけるほどに、至らぬ所もなく捜し求むるに、更に行衛を知ることなし。余りに尋ね兼ねて、常々釣を好みたれば、若し田ノ浦・雑賀崎辺へ行きて、磯巌浪にも打たれて底の水屑ともなりやしぬらんと、跡を求めて田ノ浦へ尋ね行き、爰かしこと捜し求めけるに、磯辺より一段高き岩山の如くなる処に、咽(のど)の喉(ふえ)を搔切りて死してあり。これはと驚き寄り聚《あつま》りてその躰《てい》を見たりけるに、喉はかき切てあれども、脇指は鞘に納めてあり。その外刃物の類《たぐひ》は見えず。不思議に思ひて脇指を抜きて見れば、刃には少し血付きたり。自身切てまた鞘に納めて後死したるかと、その沙汰評議区(まちまち)なり。この田ノ浦の磯には昔より怪しき所ありて、事を知《しり》たる所の者などは、その場へ行きて魚を釣る者なし。事を知らぬ外の者は、この場怪しきことありとも、所の者はさもあるべし、外より来《きた》る者には何事か有らんとて、推《お》して釣する人も有りけるよし、而も其処は魚も多く集る磯なれば、此周徳もそのやうなる場所を避けず、年々釣りて楽しみたる故にて、海神・山鬼の祟りをなし、この山へ呼びよせて、かゝる乱心の者となし、不明の自滅を致しけるかと、人々疑ひ怪しみけり。

[やぶちゃん注:「続蓬窻夜話」「蟒」で既出既注だが、本書の「引用書目一覽表」のこちらによれば、作者は「矼(こう)某」で、享保一一(一七二六)年跋。写本しかないようである。原本に当たれない。但し、今回、ネットで一件認めたサイト「座敷浪人の壺蔵」の「釣人怪死」の現代語訳を見ても、それも、先の「蟒」中の一篇も、而して、この話も、明らかに紀州藩藩士個人に係わる子細な話であることから、作者は同藩藩士と推定は出来る。

「雑賀崎(さいかざき)」現在の和歌山県和歌山市雑賀崎(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「田ノ浦」雑賀崎の南東直近のここ

「磯巌浪」読み不詳。音読みなら「きがんらう」。]

モーゼさへ鐵槌下すネタニヤフ


モーゼさへ鐵槌下すネタニヤフ

「ネタニヤフ」=ヘブライ語「ヤハウェが与える」の意。
「ヤハウェ」はユダヤ教・キリスト教では神聖にして口に出してはいけない言葉である。
『あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。』(ウィキソース「出エジプト記」二十章七節)。
既にして、こんな名を持つ彼奴は「呪われた男」なのである――

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「宙を行く青馬」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 宙を行く青馬【ちゅうをゆくあおうま】 〔我衣十九巻本巻十一〕多紀安長先生<医家>の三番目の弟は、貞吉殿とて、幼稚より医をきらひ、儒学の功つもりて一家をなし、頗(すこぶ)る雅《みやび》も有りて、医学館の傍(そば)に住まれし。七月十八日の夜、家内の男女三四人連れて、両国橋に暑をさけんと、夜行の帰りは九ツ時<夜半十二時>過にや成りけん。広小路も人まばらにして、月さへよく照り増りたるに、いがらしが家の上比(ころ)と覚えし所より、花火の如き物飛出《とびいで》て、元柳橋の方へゆらめき行く。あれよと見上げたるに、その後より狩衣(かりぎぬ)着たる人の青馬に乗りて宙を行く。その高さ壱丈ばかり上なり。馬の膝より上は見えて、蹄のあたり見えず。皆恐怖して目と目を見合せ、忙然たるばかりにて、女などは戦慄して宿所に帰りて、その夜一目も合はずと[やぶちゃん注:一睡も出来なかったとのこと。]。その兄御成山崎宗固に右の趣《おもむき》語られしを、師君の於御城直聞かれしと予<加藤玄亀[やぶちゃん注:作者加藤曳尾庵の本名。]>に語り給ふ。いかなるものなるや。不審(いぶか)しきの極《きはみ》といふべし。

〔街談文々集要丙子の中〕同丙子<文化十三年>七月十七日の夜、萌黄(もえぎ)の狩衣を著し、あし毛の馬に乗りて天を飛びしものあり。両国広小路にて見しもの多くあり。此とびものの時、馬の先ヘ立て火の王も飛びしよし。翌日広小路の講釈師、この事を咄したるよし。奇怪なる事なり。

[やぶちゃん注:前者「我衣」は先の「紅毛人幻術」の注で述べた通りで、原本に当たる気にならない。悪しからず。

「街談文々集要」作者は石塚豊芥子(別名「集古堂豊亭」 文政一一(一七九九)年~文久二(一八六二)年)。文化・文政期(一八〇四年~一八二九年)の巷間の聴書を記したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『珍書刊行會叢書』第六冊(大正五(一九一六)年珍書刊行会刊)のここで視認出来る。標題は『第七 闇夜飛妖物』(やみよえうぶつとぶ)。以上の二話は日付の変わる時間であるから、同一の現象を語ったものと考えてよい。逆転層等による蜃気楼現象とみて問題ない。宵曲は余程、この手の話が好きだったようで、既に先行する「馬にて空中を飛来る」でも採用しており、それも文化十三年で、全く同じの話である。「もう飽きました。宵曲せんせ!」]

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「大事出來」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Daijisyuttai

 

     

 

       ―― 芝 居 風 に ――

 

    第 一 場

 

ルピツク夫人――どこへ行くんだい?

にんじん(彼は新しいネクタイをつけ、靴へはびしよびしよに唾をひつかけた)――父さんと散步に行くの。

ルピツク夫人――行くことはならない。わかつたかい? さもなけや・・・(彼女の右手が、勢ひをつけるために後ろへさがる)

にんじん(低く)――わかつたよ。

 

    第 二 場

 

にんじん(柱時計の下で考へ込みながら)――おれは、どうしたいつていふんだ  痛い目にあわなけや、それでいゝんだ。父さんは、母さんより、そいつが少い。おれは勘定したんだ。父さんには氣の毒だが、まあしやうがない。[やぶちゃん注:初めの一文のあとの二字空隙はママ。戦後版は「? 」。脱字の可能性が極めて高いが、ママとしておく。]

 

    第 三 場

 

ルピツク氏(彼はにんじんを可愛がつてゐる。しかし、いつこう、かまひつけない。絕えず、商用のため、東奔西走してゐるからだ)――さあ、出掛けよう。

にんじん――うゝん、僕、行かないよ。

ルピツク氏――行かないたあ、なんだ? 行きたくないのか?

にんじん――行きたいんだよ。だけど、駄目なんだ。

ルピツク氏――譯を云へ、どうしたんだ?

にんじん――なんでもないの。だけど、家にゐるんだ。[やぶちゃん注:「家」前例に徴して「いへ」と訓じておく。]

ルピツク氏――あゝ、さうか、また例の氣紛れだな。五月蠅い眞似はよせ。一體、どうすれやいゝんだ! 行きたいつて云ふかと思ふと、もう行きたくない。ぢや、いゝから家にゐろ。そして、勝手に泣き面かくがいゝ。

 

    第 四 場

 

ルピツク夫人――(彼女は何時でも、人の話がよく聞えるやうに、用心深く、戶の蔭で聽き耳を立てゝゐるのである)――よしよし、可哀さそうに!(猫撫聲で、彼女は、彼の髮の毛の中に手を通し、それを引つ張る)――淚をいつぱい溜めてるよ、この子は・・・。さうだらうとも、父さんが・・・(そこで彼女は、ルピツク氏の方をそつと見る)――いやだつていふもんを無理に連れて行かうとするからだね。母さんはそんなことしないよ、そんな殘酷ないぢめかたは・・・。(ルピツク夫婦は、背中を向き合はせる)

 

 

    第 五 場

 

にんじん(押入の奧である。二本の指を口の中へ、一本を鼻の孔へ突つ込み)――誰れもかれも、孤兒(みなしご)になるつてわけにやいかないや。

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、標題中の「出來」は「しゆつたい(しゅったい)」と読む。

原本はここから。なお、「にんじん」には、本書刊行から六年後に書かれた全十一場からなる、同名の戯曲(一九〇〇年初演)が存在する。

「第五場」の前の行空けは二行空けはママ。

 以下の原文は、ト書きに斜体処理が施されているので、一部の字配を除いて、全面的に大文字などを含め、再現した。]

 

 

 

 

    COUP DE THÉÂTRE

 

     SCÈNE PREMIÈRE

 

     MADAME LEPIC

   Où vas-tu ?

     POIL DE CAROTTE

Il a mis sa cravate neuve et craché sur ses souliers à les noyer.

   Je vais me promener avec papa.

     MADAME LEPIC

   Je te défends d’y aller, tu m’entends ? Sans ça… Sa main droite recule comme pour prendre son élan.

     POIL DE CAROTTE, bas.

   Compris.

 

 

     SCÈNE II

 

     POIL DE CAROTTE

  En méditation près de l’horloge.

Qu’est-ce que je veux, moi ? Éviter les calottes. Papa m’en donne moins que maman. J’ai fait le calcul. Tant pire pour lui !

 

     SCÈNE III

 

     MONSIEUR LEPIC

   Il chérit Poil de Carotte, mais ne s’en occupe jamais, toujours courant la pretentaine, pour affaires.

   Allons ! partons.

     POIL DE CAROTTE

   Non, mon papa.

     MONSIEUR LEPIC

   Comment, non ? Tu ne veux pas venir ?

     POIL DE CAROTTE

   Oh ! si ! mais je ne peux pas.

     MONSIEUR LEPIC

   Explique-toi. Qu’est-ce qu’il y a ?

     POIL DE CAROTTE

   Y a rien, mais je reste.

     MONSIEUR LEPIC

   Ah ! oui ! encore une de tes lubies. Quel petit animal tu fais ! On ne sait par quelle oreille te prendre. Tu veux, tu ne veux plus. Reste, mon ami, et pleurniche à ton aise.

 

     SCÈNE IV

 

     MADAME LEPIC

   Elle a toujours la précaution d’écouter aux portes, pour mieux entendre.

   Pauvre chéri ! Cajoleuse, elle lui passe la main dans les cheveux et les tire. Le voilà tout en larmes, parce que son père… Elle regarde en dessous M. Lepic… voudrait l’emmener malgré lui. Ce n’est pas ta mère qui te tourmenterait avec cette cruauté. Les Lepic père et mère se tournent le dos.

 

     SCÈNE V

 

     POIL DE CAROTTE

Au fond d’un placard. Dans sa bouche, deux doigts ; dans son nez, un seul.

   Tout le monde ne peut pas être orphelin.

 

2023/12/06

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「蝌斗(おたまじやくし)」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Otamajyakusi

 

     蝌 斗(おたまじやくし)

 

 

 にんじんは、獨り、中庭で遊んでゐる。それも、ルピツク夫人が窓から見張りの出來るやうに、まん中にゐるのである。で、彼は、神妙に遊ぶ稽古をする。そこへ丁度、友達のレミイが現はれた。同い年の男の子で、跛足(びつこ)をひき、しかも、しよつちゆう走らうとばかりする。自然、わるい方の左の脚は、もう一方の脚に引きずられ、決してそれに追ひつかない。彼は、笊をもつてゐる。そして云ふ――

 「來ない、にんじん? うちのお父つあんが川へ網をかけてるんだ。手傳ひに行かう。そいで、僕たちは笊でオタマジヤクシをしやくおうよ」

 「母さんに訊けよ」

と、にんじんは答へる。

 

レミイ――どうして? 僕がかい[やぶちゃん注:句点無しはママ。誤植。]

にんじん――だつて、僕だと許しちやくれないからさ。

 

 丁度、ルピツク夫人が、窓ぎはに姿を現はす。レミイは云ふ――

 「小母さん、あのねえ、濟みませんけど、僕、オタマジヤクシ捕りに、にんじんを連れてつていゝですか」

 ルピツク夫人は、窓硝子に耳を押しつける。レミイは、聲を張り上げて、もう一度云ひ直す。ルピツク夫人は、わかつた。口を動かしてゐるのが見える。こつちの二人には、なんにも聞えない。で、顏を見合せて、もぢもぢする。しかし、ルピツク夫人は、頭を振つてゐるではないか。明らかに、不承知の合圖をしてゐるのだ。

 「いけないつてさ」――にんじんは云ふ――「きつと、後で、僕に用事があるんだらう」

レミイ――ぢやあ、しやうがないや。とつても面白いんだけどなあ。なあんだ、いけないのか。

にんじん――ゐろよ。ここで遊ばう。

レミイ――いやなこつた。オタマジヤクシ捕りに行つた方が、ずつといゝや。暖かいんだもん、今日は・・・。僕、笊に何杯も捕つてみせるぜ。

にんじん――もう少し待つてろよ。母さんは、何時でも、はじめいけないつて云ふんだ。後になつて、どうかすると、また意見が變るんだ。

レミイ――ぢや、十五分かそこらだよ。それより長くはいやだぜ。

 

 二人とも、そこに突つ立つたまゝ、兩手をポケツトに入れ、素知らぬ顏て踏段の方に氣を配つてゐる。と、やがて、にんじんは、レミイを肱で小突く。

 「どうだ、云つた通りだらう」

 なるほど、戶が開いて、ルピツク夫人が、片手ににんじんのための笊を持ち、踏段を一段おりた。が、彼女は、不審げに、立ち止る。

 「おや、お前さんまだゐたの、レミイ? もう行つちまつたのかと思つた。お父つあんに云ひつけるよ、そんなとこで無駄遊びをしてると・・・」

 

レミイ――おばさん、だつて、にんじんが待つてろつていふんだもの・・・。

ルピツク夫人――なに、それやほんとかい、にんじん?

 

 にんじんは、さうだともさうでないとも云はない。自分ながら、もうわからないのだ。彼はルピツク夫人のどこから何處までを識り拔いてゐる。だからこそ、今もまた、彼女の腹の中を見拔いたわけ。だのに、このレミイの間拔野郞が、事を面倒にし、なにもかもぶち毀してしまつた。にんじんは、もう結末がどうであらうとかまはないのである。彼は、足で草を踏み躪り、そつぽを向いてゐる。[やぶちゃん注:「彼はルピツク夫人のどこから何處までを識り拔いてゐる。」日本語としておかしな訳である。原文は“Il connaît madame Lepic sur le bout du doigt.”で、極めてシンプルに「彼はルピック夫人のことをよく知っている。」である。岸田氏の訳に沿う形なら、「彼はルピツクうじんのことを何處(どこ)も彼處(かしこ)も識り拔いてゐる。」でいいわけだ。「踏み躪り」「ふみにじり」。]

 「そんなこと云ふけど、考へてごらん」と、ルピツク夫人は云ふ――「母さんは平生でも、一度云つたことを取消したりなんかしないだらう」

 その後へは、一言も附加へない。

 彼女は、また踏段を登つて行く。序に笊も持つてはひつてしまふ。にんじんがオタマジヤクシをしやくふために持つて行く笊だ。そして、そいつは、彼女がわざわざ生(なま)の胡桃(くるみ)をあけて來たのである。[やぶちゃん注:この最後の一文は意味に於いて、或いは躓く読者が出てくるかも知れない。原文は“qu’elle avait vidé de ses noix fraîches, exprès.”で、「彼女は、生の胡桃の実を入れて置いておいた、その笊を、わざわざ、それらを除けて、『にんじん』のところへ持ってきたのだった。」の意である。則ち、その行動の開始時には、ルピック夫人はオタマジャクシ捕りに行かせてやろうとしたことを意味する。しかし、彼女は、「にんじん」が彼女の起こすであろう気まぐれな行動を、あらかじめ予期していたこと、気まぐれな行動をさえ気づかれてしまっていたを知って、完全にキレたのである。]

 レミイは、もう、はるか彼方にゐる。

 ルピツク夫人は、殆んど戲談口を利かない。それで他所の子供たちは、彼女のそばへ來ると用心をする。まづ學校の先生程度に怖ろしいのである。[やぶちゃん注:「他所」「よそ」。戦後版でもそうルビしている。]

 レミイは、向うの方を、川を目がけて、一目散に走つてゐる。その駈けつ振りの早さと來たら・・・相變らず遲れる左の足が、道の埃へ筋をつけ、踊り上り、そして鍋のやうな音を立てゝゐる。

 折角の一日を棒に振つて、にんじんは、もう、何をして遊ぶ氣にもならない。

 彼は、素晴らしい慰みを取逃がした。

 これから、そろそろ口惜しくなるのだ。

 彼は、それを待つばかりである。

 佗しく、賴りなく、にんじんはぢつとしてゐる――退屈が來るなら來い! 罰が當たるなら當れ! だ。[やぶちゃん注:「罰」戦後版では『ばち』とルビする。それで採る。]

 

[やぶちゃん注:原本はここから。

「鍋のやうな音を立てゝゐる」この「鍋」は原文では“casserole”で、これは「シチュー用のソースパン」(片手の厚手の深鍋(ふかなべ))、又は「シチュー」そのものを指す。これは全くの感じだが、走り去るミレイの、その不自由な左足が、地面を、「ポク、ポク、……」若しくは、「コト、コト、……」と叩く音が、ソースパンでシチューを煮込んでゐる際の音と似ているという表現ではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。]

 

 

 

 

    Les Têtards

 

   Poil de Carotte joue seul dans la cour, au milieu, afin que madame Lepic puisse le surveiller par la fenêtre, et il s’exerce à jouer comme il faut, quand le camarade Rémy paraît. C’est un garçon du même âge, qui boite et veut toujours courir, de sorte que sa jambe gauche infirme traîne derrière l’autre et ne la rattrape jamais. Il porte un panier et dit :

   Viens-tu, Poil de Carotte ? Papa met le chanvre dans la rivière. Nous l’aiderons et nous pêcherons des têtards avec des paniers.

   Demande à maman, dit Poil de Carotte.

     RÉMY

   Pourquoi moi ?

     POIL DE CAROTTE

   Parce qu’à moi elle ne me donnera pas la permission.

 

   Juste, madame Lepic se montre à la fenêtre.

   Madame, dit Rémy, voulez-vous, s’il vous plaît, que j’emmène Poil de Carotte pêcher des têtards ?

   Madame Lepic colle son oreille au carreau. Rémy répète en criant. Madame Lepic a compris. On la voit qui remue la bouche. Les deux amis n’entendent rien et se regardent indécis. Mais madame Lepic agite la tête et fait clairement signe que non.

   Elle ne veut pas, dit Poil de Carotte. Sans doute, elle aura besoin de moi, tout à l’heure.

     RÉMY

   Tant pis, on se serait rudement amusé. Elle ne veut pas, elle ne veut pas.

     POIL DE CAROTTE

   Reste. Nous jouerons ici.

     RÉMY

   Ah ! non, par exemple. J’aime mieux pêcher des têtards. Il fait doux. J’en ramasserai des pleins paniers.

     POIL DE CAROTTE

   Attends un peu. Maman refuse toujours pour commencer. Puis, des fois, elle se ravise.

     RÉMY

   J’attendrai un petit quart, mais pas plus.

Plantés là tous deux, les mains dans les poches, ils observent sournoisement l’escalier et bientôt Poil de Carotte pousse Rémy du coude.

   Qu’est-ce que je te disais ?

   En effet, la porte s’ouvre et madame Lepic, tenant à la main un panier pour Poil de Carotte, descend une marche. Mais elle s’arrête, défiante.

   Tiens, te voilà encore, Rémy ! Je te croyais parti. J’avertirai ton papa que tu musardes et il te grondera.

     RÉMY

   Madame, c’est Poil de Carotte qui m’a dit d’attendre.

     MADAME LEPIC

   Ah ! vraiment, Poil de Carotte ?

 

   Poil de Carotte n’approuve pas et ne nie pas. Il ne sait plus. Il connaît madame Lepic sur le bout du doigt. Il l’avait devinée une fois encore. Mais puisque cet imbécile de Rémy brouille les choses, gâte tout, Poil de Carotte se désintéresse du dénouement. Il écrase de l’herbe sous son pied et regarde ailleurs.

   Il me semble pourtant, dit madame Lepic, que je n’ai pas l’habitude de me rétracter.

   Elle n’ajoute rien.

   Elle remonte l’escalier. Elle rentre avec le panier que devait emporter Poil de Carotte pour pêcher des têtards et qu’elle avait vidé de ses noix fraîches, exprès.

   Rémy est déjà loin.

   Madame Lepic ne badine guère et les enfants des autres s’approchent d’elle prudemment et la redoutent presque autant que le maître d’école.

   Rémy se sauve là-bas vers la rivière. Il galope si vite que son pied gauche, toujours en retard, raie la poussière de la route, danse et sonne comme une casserole.

   Sa journée perdue, Poil de Carotte n’essaie plus de se divertir.

   Il a manqué une bonne partie.

   Les regrets sont en chemin.

   Il les attend.

   Solitaire, sans défense, il laisse venir l’ennui, et la punition s’appliquer d’elle-même.

 

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「茶碗屋敷」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 茶碗屋敷【ちゃわんやしき】 〔思出草紙巻七〕『陰徳録』といへる書に、陰徳をなして陽報の有りし事あまたしるして、後の鏡とすれども、たまたま人の為に忠ある志をなしても、我は顔に慢じ、人にも語りて誉められん事をおもひ、また陰徳と思ふ事をなし得ても、陽報あらんやと心に待つの類ひ多し。これ何ぞ天の理にかなふべきや。この事は至つて難き事なるべし。遠からぬ頃ほひ、熊本の家中、国元より勤番し来《きた》る足軽あり。至つて実儀あつき者にて、仏道にかたむき信心浅からず。朝夕の勤めとなし、拝する本尊一体安置なしたしとて、兼ねて常々願ひ居《をり》たりしが、ある時、表長屋自分の住居《すまひ》なす部屋の窓より外を詠(なが)めて居たるに、古金《ふるがね》を買ひて渡世となすもの、笊(ざる)ふりかたげて通るを見れば、長さ弐尺ばかりの阿弥陀の木仏、いかにも本古仏《ほんふるぼとけ》と見えて、古道具の中に交へて入れ置きしかば、足軽大いに悦び、直《ただち》に乞ひなして弐百文に買取り、水にて洗ひ清め、部屋の角(すみ)に安置なしつゝ、香花《かうげ》を供へ礼拝して、看経《かんきん》の本尊となしたりしが、何卒修覆し箔を置《おき》て、荘厳《しやうごん》美麗に致し度《たく》心がけ、仏師の方へ持参し、その事を相談せんとて、右の木像を棚よりおろして、風呂敷につゝまんとせしが、誤まちて取落したるが、台座われて顚倒なしたるに、台座の下をゑり抜きし所より紙つゝみ落ちたり。足軽あやしんでひらき見るに、古金《こきん》三拾両小判にてありしかば、大におどろき且は歎じて、この本尊の売主を聞出《ききいだ》し返すべし、これ極めて先祖よりこの金を入れ置きしとも知らずして売りしと見えたり。その元を聞きて、是非々々返し与へんものをとて、同勤同住の面々へ深くかくして、その金子《きんす》を秘し納め置きて、このほど買取りし元《もとの》金買《かねがひ》の通るやと心懸け、朝夕窓の内より詠めつゝ、他行《たぎやう》往来の途中にても、右の商人《あきんど》に行逢《ゆきあ》ひしまゝ足軽が曰く、先頃汝より買ひ取りし仏像は、いづくより買ひ来りたるぞ。商人これを聞て、大きに心得違ひしていはく、随分々々確かなる所より買ひ取りたる品なり、いさゝか盗みしもの等にはあらず、気遣ひし給ふまじ。足軽笑つて曰く、全く左様の事にあらず、外に訳のある事なれば、その先方へ案内なしてくれよ、これは酒代にせよとて、鳥目を取らせぬれば、かの男いかなる事かといぶかしき思ひながら、然《さ》れば御しらせ申すべしとて、足軽をつれ立ちて、麻布<東京都港区内>古川といへる所に至り、ひなびたる家居《いへゐ》まばらの賤《しづ》が家に案内《あない》なしたるに、足軽大きに悦び、一礼を述べて渠《かれ》を返し、内に入《いり》て見るに、いかにもさびしき住居にて、朝夕の煙りもたえ間がちなる風情なり。主人は浪人と見えて、夫婦ならびに坐せり。足軽は先づ知人になりたる上は、事訳《ことのわけ》の始終を述べて、尊像の台座に入れ有りし金子を返して、請取り給へと差出《さしいだ》しければ、亭主の曰く、さてさて世には正直不思議の方も有るものかな、われら事は西国方《さいごくがた》に生れて、さる国の主《あるじ》の譜代の家来なりしが、讒者(ざんしや)の為に運つたなく浪人となり、それより江戸に出《いで》たる所に、する事なす事水のあわ[やぶちゃん注:ママ。後掲する活字本も同じ。]となり、両人の子は病死なし、よくよく微運の我々夫婦、国元の親類縁者も絶えはて、広き世界にこの身の上を置く所さへなき難渋、その上三ケ年の長病《ながやまひ》にて、何くれとなす事知らず、依《よつ》ていかんともする事なき悲しさ、日々に暮し方もさしつかへ、持伝へたる諸道具も売代《うりしろ》なして、米にかへ薪《まき》に替へて、露の命をたすかりぬるは、誠にはかなき我等が身のなるはて[やぶちゃん注:「成る果て」(活字本は『成はて』)で名詞で閉じているものと思われる。]、この程売りし弥陀如来も、先祖より持伝へたる持仏堂の本尊なり、然るに計らずもその本尊の台座の下より封金の出《いで》しこそ、極めて先祖の入れ置きしなるべし、不思議にもその元《もと》[やぶちゃん注:「そのもと」は「そこもと」に同じ。活字本は『其許』で、これなら私は普通に「そこもと」と読める。宵曲の拠ったものは、巻末にある「引用書目一覧」から、同じものと断定出来ることから、思うに宵曲が校訂して書き変えた際に、以下に出る「其元」と同じに処理をして統一したものだろうと思われる。「そのもと」の読みは私は嫌いなので、後も「そこもと」と読んでおいた。]の手に入りしは、天よりさづかり給ふといふものなり、我等方《かた》に幾年か安置せる折からは、その金の顕れざるは天のなす事にして、我運の尽きたる所なり、然れば申請《まうしう》くべき筋なしとて押返すを、足軽のいはく、いやいやさにあらず、この金子、不思議に手に入りし上に、只今までの持主を尋ねても知れざる時は是非もなし、眼前其元《そこもと》の先祖たくはへ金《きん》を入れ置かれしと見ゆるを、この方へ取らば賊に等しかるべし、是非に納め給へ。浪人決して請取らず申しけるは、我に天より与へざる金をいかでか猥(みだ)りにこれを取らんや、貴公へ天より授けられたるなり、それを我申請けたる時は、これ天に背くなり。足軽が曰く、貴公の金なれば是非々々返さんとて、大いに争ひてやまず。後には声高になりしかば、家主おどろいてはせ来り、何事にて候やと尋ねけるに、足軽答へて、ありし事の始終を物語りぬれば、家主大いに感心して、やゝうち傾《かたぶ》き考へて後《のち》に申しけるは、御両人、清潔のみさを正しき事尤も至極せり、爰に某《それがし》了簡あり、この事に応ぜらるべしとて、浪人に向つて曰く、その元[やぶちゃん注:活字本『其元』。]の御詞《おことば》も一理ありといへども、この事元来知らざる事なれども、元はその元[やぶちゃん注:同前。]の金子なり、然《しか》るに爰許《ここもと》にて受納し難きとある事も、またこれ御もつともなり、依てこの金は先づ請取られ、外《ほか》に持伝へられし品あらば、代りとして送らるべしと教道《きやうだう》し、また足軽に向ひ申しけるは、今聞かるゝ通りに、取扱かひたる間、その元[やぶちゃん注:同前。]へ謝礼として御亭主より代物品《かはりのぶつぴん》を請取られて、双方申分なく済《すま》し給へ。両人これを聞き、漸々《やうやう》得心して、その旨に任せける。時に浪人の曰く、恥かしき事なれども、打続きおば[やぶちゃん注:恐らく「尾羽」であろう。]打《うち》からしたる長《なが》浪人にて、伝来の器物調度残りなく売代(うりしろ)なしたり。然し先祖より持伝へし古茶碗壱ツあり、これは世に珍らしき品なりとて、我父たるもの、幼少の折から申せしかと覚えしが、茶の道を知らざる我等売り残してあり。これを参らせんとて取出《とりいだ》し与へけるは、いかにも古き茶の湯者《もの》の取扱ふべき形ちの茶碗なり。足軽も家主が口入れにて茶碗を請取り、猶またこれを縁として、この末《すゑ》懇意になすべしなど云ひて立分れ帰りけるが、人にも語らず、心中にのみ納めて光陰を送れり。かの貰ひ得たる茶碗、美麗にも見えざれば、常々渋茶のみぬる器《うつは》として朝夕に所持し、かたはらを放さず。ある時茶道坊主《ちやだうばうず》、これを見かけて、その茶碗かせよと乞ひ受け持ち帰り、凡《ぼん》ならざる器なれば、目利者《めききしや》に見《みせ》たるに、希(ま)れなる井戸茶碗なり。このあたひ金百両に買ふべしといふにぞ、茶道坊主大いにおどろき吹聴《ふいちやう》に及びし事、家《けの》老中の耳に入りて、足軽風情にてかゝる名器を所持なす事、必定盗み取りしものならんとて、かの足軽を呼寄せ、糺明《きうめい》に及べる間、足軽今はつゝむ所なく、始終残らず申述《まうしの》べたるにぞ、この事よく糺《ただ》したる上に、大守の聞《ぶん》に達しける。大守大に感じ、下賤のものには珍らしくその性《せい》美なるものなりとあつて、右の茶碗の代金百両足軽へ遣《つかは》し、五十石加増なして侍分《さぶらひぶん》に取立《とりたて》となれり。その姓名聞きしかど忘れたり。この事専ら風談あつて、あまねく世に広まれり。これ陰徳陽報たるべし。その頃、高名《かうみやう》天《あめ》が下にとゞろき、岸に登れる朝日のごとく威光かゞやき渡る田沼主殿頭《とものかみ》、此事を聞き、殿中にて細川家に対し申しけるは、足下《そこもと》には井戸茶碗を御所持のよし、拝見致し度《たき》との事ゆゑ、細川早速持たせ遣しける。田沼暫く借用の仕《つかまつ》りたしとて留置《とめお》き、日数《ひかず》も程経るといへども戻さず。なほざりに打過《うちすご》したりしに、細川が家老の中《うち》、智謀すぐれし者ありて申しけるは、かの茶わん催促には及ばず。致方《いたしかた》こそあれとて、同席相談して、大守へも申聞《まうしき》けたる[やぶちゃん注:一応、そう読みをおいたが、こんな言い方はあまり馴染みがない。]上にて、願書認《したた》めて公儀へさし出《いだ》す。その文に、屋敷手ぜまに付、家中のものさし置候場所にさしつかへ難渋仕る間、何卒神田橋御門外の明地《あきち》拝領仕り度候と書して、田沼御用番の節、差出して厚く頼みけるに、田沼先達ての茶碗懇望にて有りし事と、段々厚く願ひぬる事といひ、その願ひ取上げて評議に及びしとかや。元来この地面は、御城内火除《ひよけ》の場所にて、已(すで)に先年水野氏拝領なし、家作《かさく》して住居となせど、また返上して明地となりたり。依(より)て中々容易に拝領地となすべき場所ならねども、その節威光つよき田沼なれば、いかゞ上向《うへむき》を取結《とりむす》びぬるか、願ひの通り仰付けられて、右の明地を拝領せり。依てこの訳《わけ》知りたるものは、この屋敷を茶碗屋敷といへり。<『近世珍談集』にこの話がある。ただし阿弥陀像にあらずして大黒天像、卅両にあらずして弐百両なり>[やぶちゃん注:どうでもいいことだが、この宵曲の附記、第二文が古文ぽいのは何でやねん?]

[やぶちゃん注:「思出草紙」「古今雜談思出草紙」が正式名で、牛込に住む栗原東随舎(詳細事績不詳)の古今の諸国奇談珍説を記したもの。『○茶碗屋敷の事』がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここから正規表現で視認出来る。

「陰徳録」不詳。識者の御教授を乞う。

「井戸茶碗」高麗(こうらい)茶碗の一つ。濁白色の土に、淡い卵色の釉(うわぐすり)のかかっているもの。室町以後、茶人に愛用された。その名称の由来については諸説があって定まらず、「大井戸」・「古井戸」・「青井戸」・「井戸脇」など、その種類も多い(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「田沼主殿頭」田沼意次。当該ウィキによれば、明和四(一七六七)年に御側御用取次から側用人へと出世し、明和六(一七六九)年には侍従に上り、老中格になっている。安永元(一七七二)年には、現在の静岡県内の相良(さがら)藩五万七千石の大名に取り立てられ、老中を兼任した。因みに、彼は『側用人から老中になった初めての人物』である。しかし、天明六(一七八六)年八月二十五日、将軍家治が死去した。『死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間』『に失脚するが、この動きには反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる。意次は』八月二十七日、『老中を辞任させられ、雁間詰に降格』、同年閏十月五日には『家治時代の加増分の』二『万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と』、『江戸屋敷の明け渡しも命じられた』。『その後、意次は蟄居を命じられ』、二『度目の減封を受ける。相良城は打ち壊され、城内に備蓄されていた』八『万両のうちの』一万三千両と、『塩・味噌を備蓄用との名目で没収された』、『長男の意知はすでに暗殺され、他の』三『人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥下村』一『万石に減転封のうえで、辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰はなく、家禄も維持し続けたことに比べると、最も苛烈な末路となった』。『その』二『年後にあたる』天明八(一七八八)年六月二十四日、『江戸で死去した。享年』七十であった。

「近世珍談集」作者・書誌不詳。僅か三篇のみから成る。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第二十二(三田村鳶魚・校訂/随筆同好会編/昭和四(一九二九)年米山堂刊)でここから視認出来る。標題は『神田橋御門外細川侯茶碗屋舗の謂れの事』である。こちらは、漢文脈部分がかなり多い。]

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「金庫」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Kinko

 

     金  庫

 

 

 翌日、にんじんはマチルドに會ふ。彼女は彼に云ふ――

 「あんたんちの母さん、うちの母さんにあのことを云ひつけに來たわよ。あたし、うんとお尻をぶたれちやつた。あんたは?」

 

にんじん――僕、どうだつたつけ、忘れちやつた。だけど、お前、ぶたれるわけはないよ。僕たちなんにも惡いことしやしないんだもの。

マチルド――えゝ、さうよ。

にんじん――僕、お前と夫婦になつてもいゝつて云つたらう、あれ、眞面目にさう云つたんだよ、ほんとだよ。

マチルド――あたしだつて、あんたと夫婦になつてもいゝわ。

にんじん――お前は貧乏で、僕は金持ちだから、ほんとなら、お前を輕蔑しちやうふんだけど、心配しないだつていゝよ。僕、お前を尊敬してるから・・・。

マチルド――お金持ちつて、いくらもつてんの。

にんじん――僕んちには、百萬圓あるよ。

マチルド――百萬圓つて、どれくらゐ?

にんじん――とても澤山さ。百萬長者つて云や、幾らお金を使つたつて使ひきれないんだから。

マチルド――うちの父さんや母さんは、お金がちつともないつて、よくこぼしてるわ。

にんじん――あゝ、うちの父さんや母さんだつてさうだ。誰でも、人に同情されようと思つてこぼすんだ。それと、妬(ねた)んでる奴にお世辭を使ふのさ。だけど、僕たちは、金持ちだつてことは、ちやんとわかつてるんだ。每月一日には、父さんが一人つきりで暫く自分の部屋へ引込んでる。金庫の錠前がギイギイつて音を立てるのが聞こえるんだ。夕方だらう、それが・・・。まるで靑蛙が鳴くみたいさ。父さんは誰あれも知らない――母さんも、兄貴も、姉さんも誰あれも知らない文句を一言(ひとこと)云ふんだ。それを知つてるのは、父さんと僕とだけさ。すると、金庫の扉が開く。父さんは、そん中からお金を出して、お勝手のテーブルの上へ置きに行く。なんにも云はずにさ。たゞ、お金をがちやがちやつて云はせるだけだ。それで、竈(へつつい)の前で用をしてる母さんに、ちやんとわかるんだ。父さんが出て行く。母さんは後ろを振り向く。お金を搔き集める。每月每月、その通りのことをするんだ。それが、もう隨分長く續いてるもんだもの、金庫の中に、百萬圓の上はいつてゐる證據だらう。[やぶちゃん注:「每月一日」戦後版では、『毎月(まいげつ)一日(じつ)』とルビする。それを採る。「誰あれ」戦後版では『誰(だ)あれ』とルビする。それを採る。而して、後の「每月」も同じく読むこととする。]

マチルド――で、開ける時に、父さんが云ふ文句つて、それや、どんな文句?

にんじん――どんなつて、訊くだけ無駄だ。僕達が夫婦になつたら敎へてあげるよ。たゞ、どんなことがあつても人に喋らないつて約束しなきや・・・。

マチルド――今、すぐ敎へて・・・。そしたら、今すぐ、人に喋らないつて約束するわ。

にんじん――駄目だよ。父さんと僕との秘密だもの。

マチルド――あんなこと云つて、自分でも知らないくせに・・・。知つてるなら、あたしに云へるわけだわ。

にんじん――お生憎さま、知つてますよだ。

マチルド――知らないよだ。知らないよだ。やあい、やあい、いゝ氣味(きび)だ。

 

 「よし、知つていたら、何よこす」

と、にんじんは、嚴かにいつた。

 「なんでもいゝわ。なに?」

 マチルドは、躊(ためら)ひ氣味だ。

 「僕がさわり[やぶちゃん注:ママ。直後の以下は正しいのに。不審。]たいところへさはらせろよ。そしたら、文句を敎へてやら」

 にんじんが、かう云ふと、マチルドは、相手の顏を見つめた。よくわからないのだ。彼女は、狡(ずる)さうな灰色の眼を、思ひ切り細くした。さあ、かうなると、知りたいことが、一つでなく、二つになつたわけだ。

 「先へ文句を敎へてよ、にんじん」

 

にんじん――ぢや、指切りだよ。敎へたら、僕がさわり[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。一々注さない。]たいところへさわらせるね。

マチルド――母さんが、指切りなんかしちやいけないつて。

にんじん――ぢや、敎へてやらないから。

マチルド――いゝわよ、そんな文句なんか・・・。あたし、もうわかつちやつた。そうよ、もうわかつちやつたわ。

 

 にんじんは、しびれを切らし、手つ取り早く事を運ぶ。

 「ねえ、マチルド、わかつてるもんか。ちつともわかつてやしないや。だけど、君が喋らないつて云ふなら、それでいゝよ。父さんが金庫を開ける前に云ふ文句はね、オペレケニユウ。さあ、もうさわつてもいゝね」

 「オペレケニユウ! オペレケニユウ!」――一つの秘密を知つた悅びと、それが好い加減ぢやないかといふ心配とで、マチルドは、後すざりをする――「ほんと? あたしをだましてんぢやないの?」

 で、にんじんが、返事もせずに、いきなり片手を伸ばして向つて來るので、彼女は逃げ出す。彼女のケヽヽヽといふ笑ひ聲がにんじんの耳にはひる。

 彼女の姿が消えると、後ろで、誰かが嘲笑ふ聲がする。[やぶちゃん注:「嘲笑う」「あざわらふ」。]

 後ろを振り向く。厩の天窓から、お屋敷の下男が頭を出し、齒を剝(む)いてゐる――

 「見たぞ、にんじん。おつ母さんに云ひつけちやらう」

 

にんじん――巫山戲たんだよ、ピエール小父さん。あの娘(こ)をつかまへようと思つたんぢやないか。オペレケニユウつてのは、僕が好い加減に作つた名前だよ。第一、ほんとのことは、僕だつて知りやしないよ。[やぶちゃん注:「巫山戲た」「ふざけた」。]

ピエール――安心しな、にんじん、オペレケニユウはどうだつていゝんだ。おめえのおツ母さんにそんなこたあ云やしねえ。それより、もう一つのことを云はあ。

にんじん――もう一つのことつて?

ピエール――さうよ、もう一つのことよ。おらあ、見たぞ、見たぞ、にんじん。さうぢやねえつて云つてみな。へえ、年にしちや、やるぞ、おめえ。いゝから、みてろ、今夜、耳がどうなるか。いやつてほど引張られるぞ、やい!

 

 にんじんは、別に云ふべきことはない。髮の毛の自然な色が消えたかと思ふほど顏を赤くし、兩手をポケツトに突つ込み、鼻をすゝりながら、蟇のやうに遠ざかつて行く。[やぶちゃん注:「蟇」戦後版は『がま』とルビする。それを採る。]

 

[やぶちゃん注:原本はここから。

「彼女は、狡(ずる)さうな灰色の眼を、思い切り細くした。」確かに原文には“sournoise”といふ「腹黒い・陰険な・食えない」若しくは、以上の「そのやうな感じがする」といふ意味の語が用いられているのだが、このシーンには、やや違和感を感じる。意訳になるのかもしれないが「いかにも気が許せないわといつた感じの眼」の方が、私には、腑に落ちる。

「オペレケニユウ」岸田氏の訳語は意味不詳(もともと、オリジナルに意味のない奇天烈な訳語をお考えになったのかも知れない)原作では“« Lustucru »”([lystykry]音写「リュスチュクリュ」)で、意味は、これ、ある。俗語で「間抜け」の意味である。]

 

 

 

 

    Le Coffre-Fort

 

   Le lendemain, comme Poil de Carotte rencontre Mathilde, elle lui dit :

   – Ta maman est venue tout rapporter à ma maman et j’ai reçu une bonne fessée. Et toi ?

     POIL DE CAROTTE

   Moi, je ne me rappelle plus. Mais tu ne méritais pas d’être battue, nous ne faisions rien de mal.

     MATHILDE

   Non, pour sûr.

     POIL DE CAROTTE

   Je t’affirme que je parlais sérieusement, quand je te disais que je me marierais bien avec toi.

     MATHILDE

   Moi, je me marierais bien avec toi aussi.

     POIL DE CAROTTE

   Je pourrais te mépriser parce que tu es pauvre et que je suis riche, mais n’aie pas peur, je t’estime.

     MATHILDE

   Tu es riche à combien, Poil de Carotte ?

     POIL DE CAROTTE

   Mes parents ont au moins un million.

     MATHILDE

   Combien que ça fait un million ?

     POIL DE CAROTTE

   Ça fait beaucoup ; les millionnaires ne peuvent jamais dépenser tout leur argent.

     MATHILDE

   Souvent, mes parents se plaignent de n’en avoir guère.

     POIL DE CAROTTE

   Oh ! les miens aussi. Chacun se plaint pour qu’on le plaigne, et pour flatter les jaloux. Mais je sais que nous sommes riches. Le premier jour du mois, papa reste un instant seul dans sa chambre. J’entends grincer la serrure du coffre-fort. Elle grince comme les rainettes, le soir. Papa dit un mot que personne ne connaît, ni maman, ni mon frère, ni ma soeur, personne, excepté lui et moi, et la porte du coffre-fort s’ouvre. Papa y prend de l’argent et va le déposer sur la table de la cuisine. Il ne dit rien, il fait seulement sonner les pièces, afin que maman, occupée au fourneau, soit avertie. Papa sort. Maman se retourne et ramasse vite l’argent. Tous les mois ça se passe ainsi, et ça dure depuis longtemps, preuve qu’il y a plus d’un million dans le coffre-fort.

     MATHILDE

   Et pour l’ouvrir, il dit un mot. Quel mot ?

     POIL DE CAROTTE

   Ne cherche pas, tu perdrais ta peine. Je te le dirai quand nous serons mariés, à la condition que tu me promettras de ne jamais le répéter.

     MATHILDE

   Dis-le-moi tout de suite. Je te promets tout de suite de ne jamais le répéter.

     POIL DE CAROTTE

   Non, c’est notre secret à papa et à moi.

     MATHILDE

   Tu ne le sais pas. Si tu le savais, tu me le dirais.

     POIL DE CAROTTE

   Pardon, je le sais.

     MATHILDE

   Tu ne le sais pas, tu ne le sais pas. C’est bien fait, c’est bien fait.

   – Parions que je le sais, dit Poil de Carotte gravement.

   – Parions quoi ? dit Mathilde hésitante.

   – Laisse-moi te toucher où je voudrai, dit Poil de Carotte, et tu sauras le mot.

   Mathilde regarde Poil de Carotte. Elle ne comprend pas bien. Elle ferme presque ses yeux gris de sournoise, et elle a maintenant deux curiosités au lieu d’une.

   – Dis le mot d’abord, Poil de Carotte.

     POIL DE CAROTTE

   Tu me jures qu’après tu te laisseras toucher où je voudrai.

     MATHILDE

   Maman me défend de jurer.

     POIL DE CAROTTE

   Tu ne sauras pas le mot.

     MATHILDE

   Je m’en fiche bien de ton mot. Je l’ai deviné, oui, je l’ai deviné.

   Poil de Carotte, impatienté, brusque les choses.

   – Écoute, Mathilde, tu n’as rien deviné du tout. Mais je me contente de ta parole d’honneur. Le mot que papa prononce avant d’ouvrir son coffre-fort, c’est « Lustucru ». À présent, je peux toucher où je veux.

   – Lustucru ! Lustucru ! dit Mathilde, qui recule avec le plaisir de connaître un secret et la peur qu’il ne vaille rien. Vraiment, tu ne t’amuses pas de moi ?

   Puis, comme Poil de Carotte, sans répondre, s’avance, décidé, la main tendue, elle se sauve. Et Poil de Carotte entend qu’elle rit sec.

   Et elle a disparu qu’il entend qu’on ricane derrière lui.

   Il se retourne. Par la lucarne d’une écurie, un domestique du château sort la tête et montre les dents.

   – Je t’ai vu, Poil de Carotte, s’écrie-t-il, je rapporterai tout à ta mère.

     POIL DE CAROTTE

   Je jouais, mon vieux Pierre. Je voulais attraper la petite. Lustucru est un faux nom que j’ai inventé. D’abord, je ne connais point le vrai.

     PIERRE

   Tranquillise-toi, Poil de Carotte, je me moque de Lustucru et je n’en parlerai pas à ta mère. Je lui parlerai du reste.

     POIL DE CAROTTE

   Du reste ?

     PIERRE

   Oui, du reste. Je t’ai vu, je t’ai vu, Poil de Carotte ; dis voir un peu que je ne t’ai pas vu. Ah ! tu vas bien pour ton âge. Mais tes plats à barbe s’élargiront ce soir !

 

   Poil de Carotte ne trouve rien à répliquer. Rouge de figure au point que la couleur naturelle de ses cheveux semble s’éteindre, il s’éloigne, les mains dans ses poches, à la crapaudine, en reniflant.

 

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「マチルド」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Matirudo

 

     マチルド

 

 

 「あのね、母(かあ)さん・・・」と、姉のエルネスチイヌは息を切らして、ルピツク夫人に云ひつけた――「にんじんがね、また原つぱで、マチルドと夫婦ごつこをしてるわよ。フエリツクス兄さんが着物を着せてんの。だつて、あんなことしちやいけないんでせう」

 成る程、原つぱでは、小娘マチルドが、白い花をつけた牡丹蔓の衣裳で、ぢつと鯱こばつてゐた。おめかしは十分、これならまぎれもなく、オレンヂの枝で粧はれた花嫁そつくりだ。しかも、つけたわ、つけたは、疝痛の藥だけに、世の中の疝痛が殘らず止まるほどだ。

 そこでこの牡丹蔓だが、まず頭の上で冠形に編まれ、それが波を打つて頤から、背中、さては腕に沿つて垂れ下り、絡み合ひ、胴に捲きつき、やがて地べたを逼つて尻尾(しつぽ)となる。それをまたフエリツクスが延ばすこと延ばすこと。[やぶちゃん注:「逼つて」「はつて」。「這って」の意だが、既に何度も出た岸田氏の思い込み誤用である。]

 やがて、彼は、後すざりをして云ふ――

 「もう動いちやいけないよ。さ、お前の番だ、にんじん!」

 今度は、にんじんが、新郞の衣裳をつける番だ。同じやうに牡丹蔓を捲きつける。が、ところどころへ、罌栗(けし)、山査子(さんざし)の實(み)、黃色い蒲公英(たんぽぽ)をぱつとあしらふ。マチルドと區別をするためだ。彼は、笑ひたくない。で、三人とも、それぞれ大眞面目である。彼等は、儀式々々に應はしい空氣といふものを心得てゐる。葬式では、始めから終りまで悲痛な顏をしてゐなければならぬ。婚禮では、彌撒(みさ)が濟むまで嚴肅でなければならぬ。さもないと、何ごつこをしても面白くないのである。[やぶちゃん注:「應はしい」「ふさはしい」。]

 「手をつないで!」と、フエリツクスは云ふ――「前へ進め! 靜かに!」

 彼等は、足を揃へ、からだを離して步き出す。マチルドは、お引摺りが足に纏(まつは)りつくと、自身でそれを捲り上げ、指の間に挾む。にんじんは、片足を上げたまゝ、優しく、彼女を待つてゐる。

 兄貴のフエリツクスは、彼等を原つぱぢう引張り廻す。彼は後(うしろ)向きになつて步くのである。兩手を振子のやうに振つて、拍子を取る。彼は、自分が村長のつもりで彼らに會釋をし、それから、司敎らしく祝福を與へ、次いで、友達としてお祝ひを述べ、お世辭を云ふ。それからまたヴアイオリン彈きになり、棒切れと棒切れとをこすり合す。[やぶちゃん注:「合す」「あはす」。]

 彼は、二人を縱橫に步かせる。

 「止まれつ!」と彼は云ふ――「ずれて來やがつた」

 が、マチルドの花冠を平手で押しつぶすだけの暇で、また、行列は動き出す。[やぶちゃん注:「花冠」戦後版では『はなかむり』とルビする。それで採っておく。]

 「あ痛たあ!」

 マチルドは、顰め面をして叫ぶ。

 牡丹蔓の節くれが髮の毛を引張るのだ。兄貴のフエリツクスは、髮の毛ごとそいつを取り除(の)ける。また續行だ。

 「ようし・・・。さあ、婚禮がすんだ。キスし合つて・・・」

 二人が遠慮してゐると、

 「おい、どうしたんだい。キスしないかよ。婚禮がすんだら、キスするんだよ。兩方から寄つかゝつて行きな。なんとか云ふんだぜ。まるで棒杭みたいだ、お前たちや」

 自分が上手(うはて)とみて、彼は、二人の不器用(ぶきつちよ)さを鼻で嗤ふ。多分もう、愛の言葉ぐらゐ口にしたことがあるのだらう。彼はそこで手本を示す。まつ先にマチルドにキスする。骨折賃といふところだ。[やぶちゃん注:「嗤ふ」「わらふ」。]

 にんじんは勇氣を奮ひ起す。蔓草の隙間からマチルドの顏を探し、その頰に唇をあてる。

 「戲談だと思はないでね。僕、ほんとにお前と夫婦になつてもいゝや」

 マチルドは、された通り、彼にキスを返す。忽ち二人ともぎごちなく、羞んで、眞つ赤になる。[やぶちゃん注:「羞んで」「はにかんで」。]

 兄貴のフエリツクスは、そろそろ敵意を示しだす。

 「やあい、照れた、照れた・・・」

 彼は二本の指をこすり合せ、唇を中へ捲き込み、足をぢたばたさせた。

 「圖々しい奴! ほんとに、その氣になつてやがらあ」

 「第一、照れてなんかゐやしない」と、にんじんは云つた――「それから、囃(はや)したけれや、囃したつていゝよ。僕がマチルドと夫婦になるのを、兄さん、いけないつて云へるかい。母さんがいゝつて云へばだよ」

 しかし、折も折、その母さんが、自分で、「そいつはいかん」と返事をしに來た。彼女は原つぱの界の木戶を押し開ける。そして、告げ口をしたエルネスチイヌを從へて、はひつて來た。生籬のそばを通る時、彼女は茨の枝をへし折り、棘だけ殘して葉をもぎ取つた。[やぶちゃん注:「界」「さかひ」。]

 彼女は、眞つ直ぐにやつて來る。嵐と同樣、避けることはできない。

 「ぴしやつと來るぞ」

 兄貴のフエリツクスは云つた。もう原つぱの端まで逃げて行き、からだを隱して眼だけ出してゐる。

 にんじんは決して逃げない。平生から、臆病ではあるが、早く始末をつけた方がいゝのだ。それに、今日は、なんとなく勇猛心が起つてゐる。

 マチルドは、慄へながら、寡婦(やもめ)のやうに噦(しやく)り泣きをしてゐる。

 

にんじん――心配しないでいゝよ。母さんつて人、僕を識つてるんだ。僕だけとつちめようてんだ。萬事引き受けるよ。

マチルド――そりやいゝのよ。だけど、あんたの母さん、なんでもうちの母さんに云ひつけるわ。うちの母さん、あたしを打(ぶ)つわ。

にんじん――折檻する。セツカンするつて云ふんだよ、親が子供をぶつ時は・・・。お前の母さん、折檻するかい?

マチルド――ええ、時々・・・。事柄によるわ。

にんじん――僕なんか、もうきまつてるんだ。

マチルド――だけど、あたし、なんにもしやしないわ。

にんじん――いゝつたら・・・。そら、エヘン。

 

 ルピツク夫人は近づいた。もう逃げようつたつて逃がさない。暇は十分にある。彼女は步を緩める。側へ寄れるだけ寄る。姉のエルネスチイヌは、これ以上近寄ると、棒がはね返つて來た時に危いと思ひ、行動の中心地帶を境として、その線上に立ち止る。にんじんは、「お嫁さん」の前に立ち塞る。「お嫁さん」は、ひときわ[やぶちゃん注:ママ。]激しく泣き出す。牡丹蔓の白い花が入り亂れる。ルピツク夫人は茨の枝を振り上げる。將に打ち降ろさうといふ時だ。にんじんは、蒼ざめ、腕を組み、そして頸を縮め、もう腰のへんが熱く、脹脛(ふくらはぎ)が豫めひりひり痛い。が、彼は、傲然と云ひ放つ――[やぶちゃん注:「塞る」「ふさがる」。]

 「いゝぢやないか、そんなこと・・・戲談なんだもの・・・」

 

[やぶちゃん注:原本はここから。

「牡丹蔓」キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ亜科 Anemoneae 族センニンソウ(クレマチス)属 Clematisウィキの「クレマチス」によれば、『蔓性多年草のうち』、『花が大きく観賞価値の高い品種を総称してクレマチスと呼ぶ』とあり、また『茎や葉の汁が皮膚に付くと』、『かぶれたり』、『皮膚炎を起こすことがある』。古くは、『この毒性を利用し、乞食がわざと自分の体を傷つけ、そこにクレマチスの葉をすりこむことがある。それは治療のためではなく、ただれたできものを作り、憐みを得ようとするためで、クレマチスには「乞食の植物」という別名がある』とあった。

「オレンヂの枝で粧はれた花嫁」原文は“fiancée garnie d'oranger”で、“garnie”は「飾られた」の意であり、また“couronne de fleurs de oranger”と言えば、「純潔」の象徵として結婚式の日に花嫁が被るオレンジの花の「冠」のことを指すから、ここは「枝」ではなく「花」とすべきところであるが、実態がクレマチスの蔓であることを意識して、岸田氏は「枝」とされたのかも知れない。

「疝痛」例えば、フランスには植生しないが、センニンソウの近縁種シナボタンヅルClematis chinensis の根を乾燥したものは、漢方では「威霊仙」と呼ばれ、鎮痛・抗菌作用を持つ。特に、鎮痛薬として神経痛・リウマチ・痛風・筋肉痛・腰痛等に用いて効果があるとするから、フランスに植生するクレマチス類には同様の効果を持つものがあってもおかしくない。

「折檻する。セツカンするつていふんだよ、親が子供をぶつ時は・・・。お前の母さん、折檻するかい?」この部分、読んでいて、表記が気になるところだ。実は、ここは大人びた言葉を用いたフランス語の「洒落」になつているのである。原文のこの台詞は、“Poil de Carotte : Corriger ; on dit corriger, comme pour les devoirs de vacances. Est-ce qu'elle te corrige, ta maman ?”で、“corriger”には、まず、「訂正する・直す。改める」といふ意味があり、別に「懲らしめる・折檻する・懲罰を加える」の意味がある。昭和四五(一九七〇)年明治図書刊の『明治図書中学生文庫』14の倉田清氏の訳では、『にんじん――ぶつんじゃなくて、せっかんするつていふんだよ、親が子供をぶつときは……。夏休みの宿題のときのようにね。君のママ、せつかんするかい?』と訳し(最初の「せっかん」にのみ傍点がある)、一九九五年臨川書店刊の佃裕文訳の『ジュール・ルナール全集』第三巻の該当部分は、『おしおき(コリジエ)つて言うんだ。夏休みの宿題を直す(コリジエ)のと同じさ。君のママ、おしおきするかい?』で、「おしおき」に「コリジェ」、「直す」に「コリジェ」とルビを振っておられる。]

 

 

 

 

    Mathilde

 

   Tu sais, maman, dit soeur Ernestine essoufflée à madame Lepic, Poil de Carotte joue encore au mari et à la femme avec la petite Mathilde, dans le pré. Grand frère Félix les habille. C’est pourtant défendu, si je ne me trompe.

   En effet, dans le pré, la petite Mathilde se tient immobile et raide sous sa toilette de clématite sauvage à fleurs blanches. Toute parée, elle semble vraiment une fiancée garnie d’oranger. Et elle en a, de quoi calmer toutes les coliques de la vie.

   La clématite, d’abord nattée en couronne sur la tête, descend par flots sous le menton, derrière le dos, le long des bras, volubile, enguirlande la taille et forme à terre une queue rampante que grand frère Félix ne se lasse pas d’allonger.

   Il se recule et dit :

   Ne bouge plus ! À ton tour, Poil de Carotte.

   À son tour, Poil de Carotte est habillé en jeune marié, également couvert de clématites où, çà et là, éclatent des pavots, des cenelles, un pissenlit jaune, afin qu’on puisse le distinguer de Mathilde. Il n’a pas envie de rire, et tous trois gardent leur sérieux. Ils savent quel ton convient à chaque cérémonie. On doit rester triste aux enterrements, dès le début, jusqu’à la fin, et grave aux mariages, jusqu’après la messe. Sinon, ce n’est plus amusant de jouer.

   Prenez-vous la main, dit grand frère Félix. En avant ! doucement.

   Ils s’avancent au pas, écartés. Quand Mathilde s’empêtre, elle retrousse sa traîne et la tient entre ses doigts. Poil de Carotte galamment l’attend, une jambe levée.

   Grand frère Félix les conduit par le pré. Il marche à reculons, et les bras en balancier leur indique la cadence. Il se croit monsieur le Maire et les salue, puis monsieur le Curé et les bénit, puis l’ami qui félicite et il les complimente, puis le violoniste et il racle, avec un bâton, un autre bâton.

   Il les promène de long en large.

   Halte ! dit-il, ça se dérange.

   Mais le temps d’aplatir d’une claque la couronne de Mathilde, il remet le cortège en branle.

   Aïe ! fait Mathilde qui grimace.

   Une vrille de clématite lui tire les cheveux. Grand frère Félix arrache le tout. On continue.

   Ça y est, dit-il, maintenant vous êtes mariés, bichez-vous.

   Comme ils hésitent :

   Eh bien ! quoi ! bichez-vous. Quand on est marié on se biche. Faites-vous la cour, une déclaration. Vous avez l’air plombés.

   Supérieur, il se moque de leur inhabileté, lui qui, peut-être, a déjà prononcé des paroles d’amour. Il donne l’exemple et biche Mathilde le premier, pour sa peine.

   Poil de Carotte s’enhardit, cherche à travers la plante grimpante le visage de Mathilde et la baise sur la joue.

   Ce n’est pas de la blague, dit-il, je me marierais bien avec toi.

Mathilde, comme elle l’a reçu, lui rend son baiser. Aussitôt, gauches, gênés, ils rougissent tous deux.

   Grand frère Félix leur montre les cornes.

   Soleil ! soleil !

   Il se frotte deux doigts l’un contre l’autre et trépigne, des bousilles aux lèvres.

   Sont-ils buses ! ils croient que c’est arrivé !

   D’abord, dit Poil de Carotte, je ne pique pas de soleil, et puis ricane, ricane, ce n’est pas toi qui m’empêcheras de me marier avec Mathilde, si maman veut.

   Mais voici que maman vient répondre elle-même qu’elle ne veut pas. Elle pousse la barrière du pré. Elle entre, suivie d’Ernestine la rapporteuse. En passant près de la haie, elle casse une rouette dont elle ôte les feuilles et garde les épines.

   Elle arrive droit, inévitable comme l’orage.

   Gare les calottes, dit grand frère Félix.

   Il s’enfuit au bout du pré. Il est à l’abri et peut voir.

   Poil de Carotte ne se sauve jamais. D’ordinaire, quoique lâche, il préfère en finir vite, et aujourd’hui il se sent brave.

   Mathilde, tremblante, pleure comme une veuve, avec des hoquets.

     POIL DE CAROTTE

   Ne crains rien. Je connais maman, elle n’en a que pour moi. J’attraperai tout.

     MATHILDE

   Oui, mais ta maman va le dire à ma maman, et ma maman va me battre.

     POIL DE CAROTTE

   Corriger ; on dit corriger, comme pour les devoirs de vacances. Est-ce qu’elle te corrige, ta maman ?

     MATHILDE

   Des fois ; ça dépend.

     POIL DE CAROTTE

   Pour moi, c’est toujours sûr.

     MATHILDE

   Mais je n’ai rien fait.

     POIL DE CAROTTE

   Ça ne fait rien. Attention !

 

   Madame Lepic approche. Elle les tient. Elle a le temps. Elle ralentit son allure. Elle est si près que soeur Ernestine, par peur des chocs en retour, s’arrête au bord du cercle où l’action se concentrera. Poil de Carotte se campe devant « sa femme », qui sanglote plus fort. Les clématites sauvages mêlent leurs fleurs blanches. La rouette de madame Lepic se lève, prête à cingler. Poil de Carotte, pâle, croise ses bras, et la nuque raccourcie, les reins chauds déjà, les mollets lui cuisant d’avance, il a l’orgueil de s’écrier :

   Qu’est-ce que ça fait, pourvu qu’on rigole !

 

2023/12/05

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「李(すもゝ)」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Sumomo

  

     (すもゝ)

 

 

 しばらく寢つかれないで、彼らは羽布團の中でもぞもぞしてゐる。小父さんが云ふ――

 「坊主、眠つてるかい?」

 

にんじん――うゝん。

小父さん――わしもだ。どら、起きてやらうかな。お前も、よかつたら、蚯蚓(みゝず)捕りに行かう。

 「よかろう」

と、にんじんは云つた。

 二人は寢臺から飛び降り、着物をひつかけ、カンテラに火を點け、そして、裏庭へ出る。

 にんじんがカンテラを提げ、小父さんが半分泥の塡まつたブリキ罐を持つて行く。この中へ、釣り用の蚯蚓を蓄へて置くのである。それから、その上へ濕つた苔を載せる。これで、蚯蚓がなくなることはない。一日雨が降つたやうな時は、收獲は豊富である。

 「踏みつけないやうに氣をつけろ」と、彼は、にんじんに云ふ――「そつと步けよ。わしも風邪を引きさへしなけや、布靴(ぬのぐつ)を穿くんだ。ちよつとした音でも、蚯蚓のやつ、穴へ引つ込んぢまうから・・・。奴さん、家(うち)から這ひ出しすぎた時でなけれやつかまらんのだ。急に押へて、滑らないくらゐに、そつとつまむんだぜ。半分頭を突つ込んだら、放しちまへ。ちぎるといかん。切れた蚯蚓は、なんの役にも立たんのだ。第一、ほかのやつを腐らしちまふ。それに、品のいゝ魚(さかな)は、そんなものは見向きもしない。漁師の中には、蚯蚓をけちけちするのがゐる。これや、間違ひだ。丸ごと、生きてゐて、水の底で縮こまる蚯蚓でなけれや、上等な魚は釣れんのだ。魚は、そいつが逃げるとみて、後を追つかけ、安心しきつて、ぱくりとやる」

 「どうも、失敗(しくぢ)つてばかりゐる」と、にんじんは呟く――「それに奴等の穢(きた)ねえ涎(よだれ)で、こら、指がべたべたすらあ」

 

小父さん――蚯蚓は穢(きたな)かない。蚯蚓は世の中で一番奇麗なもんだ。奴あ、土を食つて生きてる。だから、潰してみろ、土を吐き出すだけだ。わしだつたら、食つてみせる。

にんじん――僕だつたら、小父さんに進呈すらあ。食べてごらん。

小父さん――こいつらは、ちつとでけえや。先づ、火で炙(あぶ)らにや。それから、パンの上へなすりつけるんだ。だが、小さいのなら、生(なま)で食ふぜ。そら、李についてる奴よ、云つてみりや・・・。

にんじん――うん、そんなら知つてるよ。だから、家のもんが小父さんを厭だつて云ふんだ。母さんなんか、ことにさうだ。小父さんのことを考へると、胸が惡くなるつてさ。僕あ、眞似はしないけど、小父さんのすることは好いと思つてるよ。だつて、小父さんは、文句を云はないもの。僕たちは、まつたく意氣投合してるんだ。

 

 彼は、カンテラを擧げ、李の枝を引き寄せ、李を幾つかちぎる。そして、良いのを自分が取つておき、蟲のついたやつを小父さんに渡す。すると、小父さんは、順々に、丸いのをそのまゝ、種ごと、一と息に吞み込んで、そして云ふ。

 「かういふのが、一等うまいんだ」

 

 にんじん――なに、僕だつて、しまひに、それくらゐのことはするさ。そんなのを小父さんみたいに食べてみせるよ。ただ、あとが臭いといやなんだ。母さんが、若しキスした時、氣がつくもの。

 

 「臭いもんか」

と、小父さんは云ふ。そして、にんじんの顏へ息を吐きかける。

 

にんじん――ほんとだ。煙草の臭ひがするつきりだ。これやひどい、鼻ぢゆういつぱい臭ふぜ。・・・僕、小父さんは大好きだ、いゝかい、だけど、若し煙管(パイプ)を吸はなかつたら、もつと、それこそ、ほかの誰よりも好きなんだがなあ。

小父さん――云ふなよ、坊主・・・。こいつは、人間の持ちをよくするんだ。

 

[やぶちゃん注:原本はここから。

「李(すもゝ)」バラ亜綱バラ目バラ科サクラ属 Prunus の中でもPrunus節(オールドワールドプラム)に属する、ヨーロッパと南西アジアで栽培されている主要なプラムであるセイヨウスモモ Prunus domestica である。

「そら、李についてる奴よ、云つてみりや・・・。」勿論、ミミズではない。所謂「シンクイムシ」(芯食虫)である。鱗翅目の中で、果実や野菜・樹木の芯を食害する一般的には昆虫類の幼虫の俗称で、メイガ(暝蛾)科Pyralidaeに属する蛾の幼虫を指すことが多いが、ハマキガ科Tortricidaeには、Grapholita属スモモヒメシンクイガ Grapholita dimorpha というスモモに特化した種もおり、このGrapholita属(中国語では「小食心虫属」と呼んでいる)にはフランス語の同属のウィキを見るに、スモモ好きの種が他にもいるようなので、同属の比定としてもよいのかも知れない。

「云ふなよ、坊主・・・。こいつは、人間の持ちをよくするんだ。」この最後の台詞は、原文では“Canard ! canard ! ça conserve.”である。“conserve”は「人が若々しさや元気を保ち続ける」の意である。さて、“canard”は本来は「アヒルの♀」を指す語なのであるが、俗語で愛称語として、「かわいい奴」という意味があるのである。]

 

 

 

 

    Les Prunes

 

   Quelque temps agités, ils remuent dans la plume et le parrain dit :

   Canard, dors-tu ?

     POIL DE CAROTTE

   Non, parrain.

     PARRAIN

   Moi non plus. J’ai envie de me lever. Si tu veux, nous allons chercher des vers.

   C’est une idée, dit Poil de Carotte.

   Ils sautent du lit, s’habillent, allument une lanterne et vont dans le jardin.

   Poil de Carotte porte la lanterne, et le parrain une boîte de fer-blanc, à moitié pleine de terre mouillée. Il y entretient une provision de vers pour sa pêche. Il les recouvre d’une mousse humide, de sorte qu’il n’en manque jamais. Quand il a plu toute la journée, la récolte est abondante.

   Prends garde de marcher dessus, dit-il à Poil de Carotte, va doucement. Si je ne craignais les rhumes, je mettrais des chaussons. Au moindre bruit, le ver rentre dans son trou. On ne l’attrape que s’il s’éloigne trop de chez lui. Il faut le saisir brusquement, et le serrer un peu, pour qu’il ne glisse pas. S’il est à demi rentré, lâche-le : tu le casserais. Et un ver coupé ne vaut rien. D’abord il pourrit les autres, et les poissons délicats les dédaignent. Certains pêcheurs économisent leurs vers ; ils ont tort. On ne pêche de beaux poissons qu’avec des vers entiers, vivants et qui se recroquevillent au fond de l’eau. Le poisson s’imagine qu’ils se sauvent, court après et dévore tout de confiance.

   Je les rate presque toujours, murmure Poil de Carotte, et j’ai les doigts barbouillés de leur sale bave.

     PARRAIN

   Un ver n’est pas sale. Un ver est ce qu’on trouve de plus propre au monde. Il ne se nourrit que de terre, et si on le presse, il ne rend que de la terre. Pour ma part, j’en mangerais.

     POIL DE CAROTTE

   Pour la mienne, je te la cède. Mange voir.

     PARRAIN

   Ceux-ci sont un peu gros. Il faudrait d’abord les faire griller, puis les écarter sur du pain. Mais je mange crus les petits, par exemple ceux des prunes.

     POIL DE CAROTTE

   Oui, je sais. Aussi tu dégoûtes ma famille, maman surtout, et dès qu’elle pense à toi, elle a mal au coeur. Moi, je t’approuve sans t’imiter, car tu n’es pas difficile et nous nous entendons très bien.

 

   Il lève sa lanterne, attire une branche de prunier, et cueille quelques prunes. Il garde les bonnes et donne les véreuses à parrain, qui dit, les avalant d’un coup, toutes rondes, noyau compris :

   Ce sont les meilleures.

     POIL DE CAROTTE

   Oh ! je finirai par m’y mettre et j’en mangerai comme toi. Je crains seulement de sentir mauvais et que maman ne le remarque, si elle m’embrasse.

   Ça ne sent rien, dit parrain, et il souffle au visage de son filleul.

     POIL DE CAROTTE

   C’est vrai. Tu ne sens que le tabac. Par exemple tu le sens à plein nez. Je t’aime bien, mon vieux parrain, mais je t’aimerais davantage, plus que tous les autres, si tu ne fumais pas la pipe.

     PARRAIN

   Canard ! canard ! ça conserve.

 

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「泉」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Izumi

 

     

 

 

 彼は小父さんと一緖に寢はするが、それは、氣持よく眠るためではない。部屋は寒いには寒い。しかし羽根の寢床では暑すぎるのだ。それに、羽根は、小父さんの年取つたからだには柔らかく當りもしやうが、にんじんは汗びつしよりになつてしまふ。が、兎も角、彼は母親のそばを離れて寢られるわけだ。

 「おつ母さんが、そんなに怖いのか」

と、小父さんは云ふ。

 

にんじん――と云ふよりも、母さんには、僕がそれほど怖くないんだよ。母さんが兄貴を打(ぶ)たうとすると、兄貴は箒の柄へ飛びついて、母さんの前へ立ち塞るんだ。母さんは、手が出せずに、それつきりさ。だもんで、兄貴に向つちや、情味で行くよりしやうがないと思つてる。それでかう云ふのさ――フエリツクスはとても感じやすい性質だから、打(ぶ)つたり叩いたりしてもなんにもならない。にんじんの方は、まだそれでいゝけれどつて・・・。[やぶちゃん注:「塞る」「ふさがる」。「性質」戦後版は『たち』とルビする。それを採る。]

小父さん――お前も箒を試(ため)してみりやいゝのに・・・。

にんじん――そいつがやれりや、なんでもないさ。兄貴と僕とは、よく擲り合ひをするんだ。本氣でやることもあるし、巫山戲てやる時もあるけど・・・。どつちもおんなじぐらい强いんだぜ。だから僕だつて、兄貴のやうに、打(ぶ)たれないですむわけなんだ。でも、母さんに向つて、箒を手に持つなんてことをしてごらん。母さんは、僕がそいつを持つて行くんだと思ふよ。箒は僕の手から母さんの手に渡る、すると、母さんは、僕をひつぱたく前に、多分、「ご苦勞」つて云ふだらう。[やぶちゃん注:「擲り合ひ」「なぐりあひ」。「巫山戲て」「ふざけて」。]

小父さん――眠(ね)ろよ、坊主、もう眠(ね)ろ!

 

 兩方とも、眠れない。にんじんは、寢返りを打つ。息がつまる。空氣を探す。爺さんは、それが可哀さうなのだ。

 突然、にんじんがうとうとしはじめた頃、爺さんは、彼の腕をつかまへる。

 「そこにいたか、坊主・・・。あゝ、夢を見た」と、爺さんは云ふ――「わしや、お前がまだ、泉の中にゐるんだと思つた。覺えてるかい、あの泉のことを?」

 

にんじん――覺えてるどころぢやないさ。ねえ、小父さん、小言を言うわけづやないけど、幾度も聞くぜ、その話は・・・。[やぶちゃん注:「小言」「こごと」。]

小父さん――なあ、坊主、わしや、あのことを考へると、からだじゆう、顫へ上るよ。わしは、草の上で眠つてた。お前は泉のへりで遊んでゐた。お前は滑つた。お前は落ち込んだ。お前は大きな聲を立てた。お前は悶搔いた。それに、わしは、なんたるこつちや・・・なにひとつ、聞こえやせん。その水と云つたら、猫が溺(おぼ)れるほどもないのだ。だが、お前は、起き上らなんだ。災難は、つまり、そこからさ。一體全體、起き上ることぐらゐ考へつかなかつたかい?[やぶちゃん注:「悶搔いた」「もがいた」。]

にんじん――泉の中で、どんなことを考へてたか、僕が覺えてると思ふ、小父さん?

小父さん――それでも、お前が水をばちやばちや云はせる音で眼が覺めた。やつとこさで間に合つたんだ。この糞坊主! 可哀さうに、ポンプみたいに水を吐くぢやないか。それから、着物を着替へさせた。ベルナアルの日曜に着る服を着せてやつたんだ。

にんじん――あゝ。あいつは、ちかちかしたつけ。からだを搔きづめさ。馬の毛で作つた服だよ、ありや。

小父さん――さうぢやないよ。だが、ベルナアルは、お前に貸してやる洗ひたてのシヤツがなかつたんだ。わしは、今、かうして笑つてるが、あれでもう一二分、うつちやらかしといてみろ、起した時は、お前は死んでるんだ。

にんじん――今頃は、はるか遠くにゐるわけだね。

小父さん――よせ、こら! わしも、つまらんことを云ひ出した。で、それからつて云ふもの、夜、ぐつすり眠つた例しがないのだ。一生安眠を封じられても、これや、天罰だ。わしは文句を云ふところはない。

にんじん――僕は、文句を云ひたいよ、小父さん。眠むくつてしやうがないんだ。

小父さん――眠(ね)ろよ、坊主、眠ろよ!

にんじん――眠(ね)ろつていふなら、小父さん、僕の手を放してよ。眠(ねむ)つちまつたら、また貸したげるから・・・。それから、この脚をそつちへ引つ込めとくれよ。毛が生へてるんだもの。人が觸(さは)つてると、僕、眠られないんだ。

 

[やぶちゃん注:原本はここから。

「情味」思いやり・優しさ等の人の心の暖かみ。そうした雰囲気で接すること。

「ベルナアル」「名づけ親」の「小父さん」の数少ない近くに住む友人(或いは彼は人付き合いがよくないから、単に「知人」というべきか)の姓であろう。但し、二ヶ所ともこの部分の原文は“petit Bernard”となっており、「にんじん」が着るには少年用の子ども着でなくてはならないから、ここは「小さなベルナアル」、則ち、「ベルナアルの子ども」の意でなくては、おかしいのである。臨川書店『全集』の佃氏の訳は、ちゃんと『ベルナールのせがれ』となっているのである。]

 

 

 

 

    La Fontaine

 

   Il ne couche pas avec son parrain pour le plaisir de dormir. Si la chambre est froide, le lit de plume est trop chaud, et la plume, douce aux vieux membres du parrain, met vite le filleul en nage. Mais il couche loin de sa mère.

   Elle te fait donc bien peur ? dit parrain.

     POIL DE CAROTTE

   Ou plutôt, moi je ne lui fais pas assez peur. Quand elle veut donner une correction à mon frère, il saute sur un manche de balai, se campe devant elle, et je te jure qu’elle s’arrête court. Aussi elle préfère le prendre par les sentiments. Elle dit que la nature de Félix est si susceptible qu’on n’en ferait rien avec des coups et qu’ils s’appliquent mieux à la mienne.

     PARRAIN

   Tu devrais essayer du balai, Poil de Carotte.

     POIL DE CAROTTE

   Ah ! si j’osais ! nous nous sommes souvent battus, Félix et moi, pour de bon ou pour jouer. Je suis aussi fort que lui. Je me défendrais comme lui. Mais je me vois armé d’un balai contre maman. Elle croirait que je l’apporte. Il tomberait de mes mains dans les siennes, et peut-être qu’elle me dirait merci, avant de taper.

     PARRAIN

   Dors, canard, dors !

 

   Ni l’un ni l’autre ne peut dormir. Poil de Carotte se retourne, étouffe et cherche de l’air, et son vieux parrain en a pitié.

   Tout à coup, comme Poil de Carotte va s’assoupir, parrain lui saisit le bras.

   Es-tu là, canard ? dit-il. Je rêvais, je te croyais encore dans la fontaine. Te souviens-tu de la fontaine ?

 

     POIL DE CAROTTE

   Comme si j’y étais, parrain. Je ne te le reproche pas, mais tu m’en parles souvent.

     PARRAIN

   Mon pauvre canard, dès que j’y pense, je tremble de tout mon corps. Je m’étais endormi sur l’herbe. Tu jouais au bord de la fontaine, tu as glissé, tu es tombé, tu criais, tu te débattais, et moi, misérable, je n’entendais rien. Il y avait à peine de l’eau pour noyer un chat. Mais tu ne te relevais pas. C’était là le malheur, tu ne pensais donc plus à te relever ?

     POIL DE CAROTTE

   Si tu crois que je me rappelle ce que je pensais dans la fontaine !

     PARRAIN

   Enfin ton barbotement me réveille. Il était temps. Pauvre canard ! pauvre canard ! Tu vomissais comme une pompe. On t’a changé, on t’a mis le costume des dimanches du petit Bernard.

     POIL DE CAROTTE

   Oui, il me piquait. Je me grattais. C’était donc un costume de crin.

     PARRAIN

   Non, mais le petit Bernard n’avait pas de chemise propre à te prêter. Je ris aujourd’hui, et une minute, une seconde de plus, je te relevais mort.

     POIL DE CAROTTE

   Je serais loin.

     PARRAIN

   Tais-toi. Je m’en suis dit des sottises, et depuis je n’ai jamais passé une bonne nuit. Mon sommeil perdu, c’est ma punition ; je la mérite.

     POIL DE CAROTTE

   Moi, parrain, je ne la mérite pas et je voudrais bien dormir.

     PARRAIN

   Dors, canard, dors.

     POIL DE CAROTTE

   Si tu veux que je dorme, mon vieux parrain, lâche ma main. Je te la rendrai après mon somme. Et retire aussi ta jambe, à cause de tes poils. Il m’est impossible de dormir quand on me touche.

 

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「名づけ親」

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「名づけ親」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Nadukeoya

 

     づけ

 

 

 どうかすると、ルピツク夫人は、にんじんにその名づけ親のところへ遊びに行き、泊まつて來ることを許すのである。この名づけ親といふのは、無愛想な、孤獨な爺さんで、生涯を、魚捕りと葡萄畑で過ごしてゐる。彼は誰をも愛していない。我慢ができるのは、にんじん一人きりだ。[やぶちゃん注:「魚捕り」戦後版のルビを参考にするなら、「うをとり」である。それで採る。]

 「やあ、來たな、坊主」

と、彼は云ふ。

 「來たよ、小父(をぢ)さん・・・。釣竿の用意、しといてくれた?」

 にんじんは、さう云ふが、接吻はしない。

 「二人で一つあれやたくさんだ」

 にんじんは納屋(なや)を開けてみる。別に一本、釣竿の用意ができてゐる。かうして、彼は、にんじんを揶揄(からか)ふのが常である。が、にんじんの方では、萬時吞み込んで、もう腹を立てない。老人のこの癖も、二人の間柄をやゝこしくするやうなことは先づないのだ。彼が「さうだ」といふ時は、「さうでない」といふ意味、そのあべこべが、またさうなのである。それを間違へさへしなければいゝ。

 「それが面白いなら、こつちはどうだつておんなじだ」

 にんじんは、さう考へてゐる。

 で、二人は、相變らず仲善しだ。

 この爺さん、平生は一週に一度、一週間分の炊事をするだけだが、今日は、にんじんのために、隱元豆の大鍋を火にかけ、それに、ラードの見事な塊をほうり込む[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣では正しくは「はふりこむ」。]。で、一日の豫定行動をはじめる前に、生(き)葡萄酒を一杯、無理に飮ますのである。

 さて、彼等は、釣りに出掛ける。

 爺さんは水の岸に腰をおろし、テグスを手順よくほどいて行く。彼は、敏感な釣竿を重い石で押さえて置く。そして、大きなやつしか釣り上げない。魚は、手拭にくるんで日蔭へ轉がす。まるで赤ん坊のお褓襁(むつ)だ。[やぶちゃん注:「お褓襁」はママ。通常、「むつき」「おしめ」を意味する漢字熟語は「襁褓」の順である。]

 「いいか、浮子(うき)が三度沈まなけれや、糸を揚げるぢやないぞ」

 

にんじん――どうして、三度さ?

小父さん――最初のは、なんでもない。魚(さかな)がせゝつただけだ。二度目が、ほんものだ。吞み込んだんだ。三度目は、もう大丈夫。離れつこない。いくらゆつくり揚げてもかまわんよ。[やぶちゃん注:実は底本では「かまんよ。」であるが、脱字と断じて、特異的に訂した。]

 

 にんじんは河沙魚(かははぜ)を釣るのが面白い。靴を脫ぎ、川にはひり、足で砂の底を搔きまわし、水を濁らせてしまふ。馬鹿な河沙魚は、すると、駈け寄つて來る。にんじんは糸を投げ込む每に、一尾(ぴき)づゝ引き上げるのである。小父(をじ)さんに、それを知らせる暇もない。

 「十六・・・十七・・・十八・・・」

 小父さんは、頭の眞上(まうへ)に太陽が來ると、晝飯に歸らうと云ふ。彼は、にんじんに白隱元をつめ込ませる。

 「こんな美味(うま)いものはないさ」と、小父さんは云ふ――「しかし、どろどろに煮たやつが、わしは好きだ。嚙むとごりごりするやつ、まるで、鷓鴣の羽根肉にもぐつてる鉛の彈丸みたいに、がちりと來(く)るやつ、あれを食ふくらゐなら、鶴嘴の先を嚙(かぢ)つた方がましだ」[やぶちゃん注:「彈丸」戦後版では、『弾丸(たま)』とルビする。それを採る。]

 

にんじん――こいつは、舌の上で溶けるね。いつも、母さんのこしらふ[やぶちゃん注:ママ。]のは、さう不味(まづ)かないけど・・・。でも、こんな具合にはいかないや。クリームを儉約するからだよ、きつと。

小父さん――やい、坊主、お前の食べるところを見てると、わしやうれしいよ。おつ母さんの前ぢや、腹一杯食へないだらう。

にんじん――母さんの腹具合によつてだよ。若し母さんがお腹をすかしてれば、僕も、母さんの腹いつぱい食ふんだ。自分の皿へ取るだけ、僕の皿へも、うんとつけてくれるからね。しかし、母さんが、もうおしまひだつていふ時は、僕もおしまひさ。

小父さん――もつとくれつて云ふんだ、さういふ時は・・・阿呆(あほう)!

にんじん――云ふは易しさ、小父さん。それに、何時も饑(ひもじ)いくらゐでよしといた方がいゝんだよ。

小父さん――わしは子供がないんだが、猿の尻(けつ)でも舐めてやるぜ、その猿が自分の子供なら・・・。なんとかしろよ。

 

 彼等は、その日の日課を葡萄畑で終へるのである。にんじんは、そこで、あるひは小父さんが鶴嘴を使ふのを眺め、一步一步その後をつけ、或は、葡萄蔓の束の上に寢ころび、空を見上げて、柳の芽を吸ふのである。

 

[やぶちゃん注:原本はここから。

「名づけ親」一般の名前とは別な洗礼名(一般に聖人の名を用いる)をつけた人を指す。なお、この老人は、最終章の「にんじんのアルバム」の「八」で『名づけ親のピエエル爺さん』と、その名が明らかにされる。なお、岸田氏は台詞のパートでは頭に「小父さん――」と標してゐるが、原作では全て“Parrain :”(音写「パァラン」)となつており、これは文字通り、「名づけ親」の意味である。因みに、私は「にんじん」の中で、唯一、素直に文句なく大好きな登場人物は、この『名づけ親のピエエル爺さん』唯一人である。

「隠元豆」「白隱元」バラ亜綱マメ目マメ科インゲンマメ属インゲンマメPhaseolus vulgaris。この煮込み料理はフランス料理の定番である。

「生葡萄酒」通常のワインでは、最後に壜詰めする際、加熱処理をしてワインに残留してゐる酵母菌を殺菌する。その工程をする前の葡萄酒を「生葡萄酒」と呼んでいるものと思われる。これを、フィルターを通したりして、長い時間をかけて濾過したものは、逆に高級ワインとなる。

「テグス」現在、釣り糸は合成樹脂で作られているが、昔は、蛾の幼虫の体内からとつた造糸器官である絹糸腺を、氷水や酢酸等に浸して、引き伸ばして乾燥させて作った。本邦での「テグス」という呼称は、釣り糸に、その繭が用いられた華南・台湾に棲息する昆虫綱鱗翅(チョウ)目ヤママユガ科Saturniidaeに属する蛾、Saturnia 属フウサン(天蠶蛾・楓蠶)Eriogyna pyretorum の異名「テグスサン」に由来する。お馴染みのカイコガ科カイコガ亞科カイコガBombyx moriからも。無論、作れる。

「河沙魚(かははぜ)」戦後版のサイト版では、『ハゼ亜目 Gobioidei。淡水産といふことでドンコ科 Odontobutidaeまで狭めることが出来るかどうかまでは、淡水産魚類に暗い私には判断しかねる。』としたが、これは誤りであった。今回、先行してブログで改訂を行ったルナールの「博物誌」の「かは沙魚」で、これは、条鰭綱コイ目コイ科カマツカ亜科 Gobionini 群ゴビオ属タイリクスナモグリ Gobio gobio であることが判明した(本邦には分布しない)。

「鷓鴣」先の「鷓鴣(しやこ)」(しゃこ)の私の注を參照されたい。]

 

 

 

 

    Parrain

 

   Quelquefois madame Lepic permet à Poil de Carotte d’aller voir son parrain et même de coucher avec lui. C’est un vieil homme bourru, solitaire, qui passe sa vie à la pêche ou dans la vigne. Il n’aime personne et ne supporte que Poil de Carotte.

   Te voilà, canard ! dit-il.

   Oui, parrain, dit Poil de Carotte sans l’embrasser, m’as-tu préparé ma ligne ?

   Nous en aurons assez d’une pour nous deux, dit parrain.

   Poil de Carotte ouvre la porte de la grange et voit sa ligne prête. Ainsi son parrain le taquine toujours, mais Poil de Carotte averti ne se fâche plus et cette manie du vieil homme complique à peine leurs relations. Quand il dit oui, il veut dire non et réciproquement. Il ne s’agit que de ne pas s’y tromper.

   Si ça l’amuse, ça ne me gêne guère, pense Poil de Carotte.

   Et ils restent bons camarades.

   Parrain, qui d’ordinaire ne fait de cuisine qu’une fois par semaine pour toute la semaine, met au feu, en l’honneur de Poil de Carotte, un grand pot de haricots avec un bon morceau de lard et, pour commencer la journée, le force à boire un verre de vin pur.

   Puis ils vont pêcher.

   Parrain s’assied au bord de l’eau et déroule méthodiquement son crin de Florence. Il consolide avec de lourdes pierres ses lignes impressionnantes et ne pêche que les gros qu’il roule au frais dans une serviette et lange comme des enfants.

   Surtout, dit-il à Poil de Carotte, ne lève ta ligne que lorsque ton bouchon aura enfoncé trois fois.

 

     POIL DE CAROTTE

Pourquoi trois ?

     PARRAIN

   La première ne signifie rien : le poisson mordille. La seconde, c’est sérieux : il avale. La troisième, c’est sûr : il ne s’échappera plus. On ne tire jamais trop tard.

 

   Poil de Carotte préfère la pêche aux goujons. Il se déchausse, entre dans la rivière et avec ses pieds agite le fond sablonneux pour faire de l’eau trouble. Les goujons stupides accourent et Poil de Carotte en sort un à chaque jet de ligne. À peine a-t-il le temps de crier au parrain :

   Seize, dix-sept, dix-huit !…

   Quand parrain voit le soleil au-dessus de sa tête, on rentre déjeuner. Il bourre Poil de Carotte de haricots blancs.

   Je ne connais rien de meilleur, lui dit-il, mais je les veux cuits en bouillie. J’aimerais mieux mordre le fer d’une pioche que manger un haricot qui croque sous la dent, craque comme un grain de plomb dans une aile de perdrix.

     POIL DE CAROTTE

   Ceux-là fondent sur la langue. D’habitude maman ne les fait pas trop mal. Pourtant ce n’est plus ça. Elle doit ménager la crème.

     PARRAIN

   Canard, j’ai du plaisir à te voir manger. Je parie que tu ne manges point ton content, chez ta mère.

     POIL DE CAROTTE

   Tout dépend de son appétit. Si elle a faim, je mange à sa faim. En se servant elle me sert par-dessus le marché. Si elle a fini, j’ai fini aussi.

     PARRAIN

   On en redemande, bêta.

     POIL DE CAROTTE

   C’est facile à dire, mon vieux. D’ailleurs il vaut toujours mieux rester sur sa faim.

     PARRAIN

   Et moi qui n’ai pas d’enfant, je lécherais le derrière d’un singe, si ce singe était mon enfant ! Arrangez ça.

 

   Ils terminent leur journée dans la vigne, où Poil de Carotte, tantôt regarde piocher son parrain et le suit pas à pas, tantôt, couché sur des fagots de sarment et les yeux au ciel, suce des brins d’osier.

 

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蟄竜」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蟄竜【ちつりゅう】 〔耳嚢巻一〕江州の富農石亭は、名石を好むの癖あり。既に『雲根志』といへる、愛石を記したる書を綴りし事は、誰しらぬ者なし。或年行脚の僧、これがもとに泊り、石亭が愛石の分を一見しけるゆゑ、石亭も御身も珍石や貯へ給ふかと尋ねしに、我等行脚の事ゆゑ、更に貯ふる事なけれど、一つの石を拾ひ得て、常に荷の内に蔵す、敢て不思議もなけれど、水気を生ずるゆゑに愛する由、語るを聞き、もとより石に心を尽す石亭なれば、強ひて所望してこれを見るに、その色黒く一拳《ひとこぶし》斗りの形にて、窪める所水気《すいき》あり。石亭感心限り無く、何卒お僧に相応の代《かはる》もの与へん間、給はるべきやと深切にもとめければ、我《わが》愛石といへども僧の事、敢て輪廻せん心なし、打鋪(うちしき)[やぶちゃん注:仏前の仏具などを置く卓上に敷く敷物。]にても拵へ給はらば、頓《とみ》に与へんといひしゆゑ、石亭大いに歓びて、金𮉚の打鋪を拵へ与へて、かの石とかへぬ。さて机上に置き、硯の上におくに、清浄の水《みづ》硯中に満ちて、そのさまいはんかたなし。厚く寵愛なしけるを、或る老人つくづく見て、かく水に気を生ずる石には、果して蟄竜有るべし、上天もなさば、大きなる憂ひもあらん、遠く捨て給へと申しけれど、常に最愛なしける石なれば、曾て其異見に随はざりしが、有時曇りて空さえざる折柄、右石の中より気を吐く事尋常ならざれば、大きに驚きて、過ぎし老人の言ひし事思ひ出《いで》て、村老近際の者を集めて、遠き人家なき所へ遣《つかは》すべしといひしに、その席に有りける老人、かくあやしき石ならば、いかなる害をやなさん、焼き捨つべしと云ひしを、さはすまじきとて、人離れたる所に一宇の社堂有りし故、彼《かの》処へ納め置きて、皆々帰りぬ。然るにその夜風雨雷鳴して、かの堂中より雲起り、雨烈しく、上天せるものありしが、跡にて右堂に至り見しに、かの石は二つにくだけ、右堂の様子、全く竜の上天なしける体《てい》なりと、村中奇異の思ひをなしぬ。その節彼《かの》やきうしなふべしと発意《ほつい》せし者の宅は、微塵になりしと人の語りぬ。

[やぶちゃん注:私のは、底本違いで「耳嚢 巻之八 石中蟄龍の事」である。本話自体の真贋も考証してあるので、是非、見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「地中の仏像」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 地中の仏像【ちちゅうのぶつぞう】 〔北窻瑣談巻四〕武蔵国上野界(かうづけざかひ)の地に、往来の街道に、人蹈《ふ》めば甚だ響く所あり。そのあたりの人、久しく怪しみ居《をり》たりしに、今年寛政甲寅《きのえとら》[やぶちゃん注:寛政六年。一七九四年。]の春、里人寄合ひて掘穿《ほりうが》ちて試みしに、やがて金石《きんせき》の如く堅く響く所に掘当《ほりあた》れり。すはやとて、大勢集りて掘りたりしに、土中に空虚ありて、里人一人落入りたり。人々驚きあわてゝ逃げのきたりしに、土中《どちゆう》よりはるかにその人の声して、助けてくれよと呼《よば》はるにぞ、さては未だ死せざりしとて、皆々集り縄を下《おろ》して引上げたり。その人に内はいかやうにやと尋ねしに、何ともしれず、底には土なく、唯金石のごとくに堅く、四方甚だ広く真暗《まつくら》にして、唯恐ろしかりしかば、動きも得せざりしといふにぞ、さらば猶々掘れとて、そのあたり広く掘りたりしに、大なる仏像の横ざまになりて、土中に埋《うづも》れたるなり。その仏像の腹に穴ありて、里人《さとびと》、仏像の腹中《ふくちゆう》に落入りたりしなり。その大なる事甚だし。庄屋など寄合ひて、かゝる物を掘出《ほりいだ》さば、官所に訴へなどして一村の騒動なるべし、このまゝ埋み置きて事なきには如かずとて、件《くだん》の穴の所には厚き板を当《あて》て、もとの如く埋《うづ》み終《をは》れりとぞ。畠中観斎方へ東国より申し来りしとて物がたりなりき。

[やぶちゃん注:「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで当該箇所が視認出来る(左ページ冒頭)。

「武蔵国上野界(かうづけざかひ)の地に、往来の街道」恐らくはこの中央附近のどこかであろう(グーグル・マップ・データ)。

「官所に訴へなどして一村の騒動なるべし」このような事件の場合、幕府からやって来る官憲の出張や、その接待の費用は、総て現地の人々の負担となった。貧しい山村にとっては、大いに迷惑であったのである。例えば、私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) うつろ舟の蠻女』を見られたい。同じような迷惑を考えて、処理をしている。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「地中の声」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 地中の声【ちちゅうのこえ】 〔筆のすさび巻一〕文政二年[やぶちゃん注:一八一九年。]春三月、備後深津《ふかつ》郡引野村<広島県福山市内>百姓仲介が宅の榎の根の地中に声あり。人の呻吟《しはぶき》のごとし。その家にては常の人の息のごとく聞え、三四町[やぶちゃん注:約三百二十七~四百三十六メートル。]よそにては余程大きに聞ゆ。よもすがら鳴りしは三五日の間、前後二十日ばかりにて昼は声なし。夜もまた聞えぬ夜もあり。次第次第に諒濶(りやうくわつ)になりて、終《つひ》にやみぬ。今に至りて凡そ二年になれども、かはりたる事もなしと、松岡清記来り話す。〔半日閑話巻十三〕三月、この頃中野の先関といふ処の地に、うなる声有りとて、人皆云ひ伝ふ。<『九桂草堂随筆巻八』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:「筆のすさび」正式書名は「茶山翁(さざんをう)筆のすさび」。儒学者で漢詩人の菅茶山(かんさざん(「ちゃざん」とも) 延享五(一七四八)年~文政一〇(一八二七)年:名は晋帥(ときのり)。備後の農民の長男であったが、大志を抱いて学問を志し、京で朱子学を学び、帰郷して私塾「黄葉夕陽村舎」(こうようせきようそんしゃ)を開いた。頼山陽の師である)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十七巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)のこちらで正字表現で視認出来る。標題は『一地中聲(こゑ)を發(はつ)す』。

「備後深津郡引野村」「広島県福山市内」現在の広島県福山市引野町(ひきのちょう:グーグル・マップ・データ)。

「諒濶」はっきりとしていて、広く聞こえたことを言う。

「松岡清記」不詳。

「半日閑話」「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題は『○中野の訛言』(「訛言」は「くわげん(かげん)」で「なまった言葉」の意)である。宵曲は後半部を「地中の声」ではないので、カットしている。短いので、以下、全文を正字で示す。

   *

○中野の訛言  三月、此頃中野の先關といふ處の地に、うなる聲有《あり》とて、人皆云傳ふ。此頃の訛言に中野の邊の者、夜着《よぎ》を求めてかつぎて臥したるに、夜半に聲を出して、暑乎寒乎(アツイカサムイカ)と問ふ。其人おそれていそぎ舊主に返すといふ。石《いし》の言《いひ》しは春秋傳に見へ[やぶちゃん注:ママ。]たれど、夜着のものいふ例《ため》し聞ず。桃園《ももぞの》の桃にものいはぬも愧《はぢ》よかし。

   *

この話、喋る中身がちょっと違うが、私は、即座に小泉八雲の哀しい怪談、一般に「鳥取の布団」と呼ばれるそれを想起した(当該ウィキもある)。私の「小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十一章 日本海に沿うて (九)」を読まれたい(八年前の古い仕儀なので、正字不全があるが、許されたい)。

「先関」不詳。「さきぜき」か。

「九桂草堂随筆」「奇石」で既出既注。但し、これは前者「筆のすさび」の話と『同様』で、前の終りに附して欲しかった。お蔭で探すのに手間取ったわい! 国立国会図書館デジタル化資料の国書刊行会大正七(一九一八)年刊「百家随筆」のここ(左ページ下段最後)で、正規表現で視認出来る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「池水の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 池水の怪【ちすいのかい】 〔甲子夜話巻六〕予<松浦静山>が幼時、鳥越邸の池辺《ちへん》の小亭にて遊戯し居《をり》たるに、池中より泡一つ二つ出づ。始めは魚鼈《ぎよべつ》の所為《しよゐ》ならんと思ふに、数点《すてん》になりて、それより泡のうちより煙いで、だんだん煙多く、後《のち》は釜中より煙立つ如くになりて、池水ぐるぐると廻り、輪の如く波たちたるが、やがて半天に虹を現《あらは》し、後は天に亘《わた》れり。それよりして池辺腥臭(なまぐさ)の気堪へがたかりければ、幼時のことゆゑ恐ろしくなりて、住居に立還り、後は知らず。

[やぶちゃん注:これは既にルーティンで「甲子夜話卷之六 24 鳥越邸の池、虹を吐く事」として電子化注してある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竹林院不明の間」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 竹林院不明の間【ちくりんいんあかずのま】 〔閑窻自語〕山門<延暦寺>に竹林院といふ坊あり。その内に児《ちご》がやといひて、開かざる間あり。宝暦七年[やぶちゃん注:一七五七年]法華会《ほつけゑ》の行事に、権右中弁敬明まかりて、かの坊に宿りけるに、家人をしてひそかにかの間を開きこゝろみしむ。うちは暗くて、何もなかりける。冷気身をおそふとおぼえて、たちまちかの身のわづらひつき、家に帰るとそのまゝに失せぬ。また弁もそれより心地たゞならずなやみて、その次のとし三月ばかりに身まかりぬ。それよりして行事弁登山するに、この坊に宿することを用ひずとなん。

[やぶちゃん注:「閑窻自語」(かんさうじご:歴史的仮名遣)は公卿柳原紀光(やなぎわらもとみつ 延享三(一七四六)年~寛政一二(一八〇〇)年)の随筆。権大納言光綱の子。初名は光房、出家して「暁寂」と号した。宝暦六(一七五六)年元服し、累進して安永四(一七七五)年、権大納言。順調な昇進を遂げたが、安永七年六月、事により、解官勅勘を被った。翌々月には許されたが、自ら官途を絶って、出仕することなく、亡父の遺志を継いで国史の編纂に力を尽くし、寛政一〇(一七九八)年まで前後二十二年間を要して「続史愚抄」禅全八十一冊を著した。国立国会図書館デジタルコレクションの『隨筆三十種』第五集(今泉定介・畠山健校訂編纂/明三〇(一八九七)年青山堂刊)のここで視認出来る。標題は『延暦寺竹林院有兒靈事』[やぶちゃん注:「暦」はママ。読みは「えんりやくじちくりんゐんちごのれいあること」であろう。]である。]

「竹林院」現存しない里坊(延暦寺の僧侶の隠居所)。現在は庭園を持つ旧竹林院としてある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「児がや」「兒(ちご)が家・屋(や)」か。

「権右中弁敬明」江戸中期の公卿勧修寺敬明(かじゅうじ:名は「としあき・たかあき・のりあき」か:元文五(一七四〇)年~ 宝暦八(一七五八)年)。勧修寺家第二十二代当主。]

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「羊」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

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 にんじんは、最初、もやもやした丸いものが、飛んだり跳ねたりしてゐるのしかわからなかつた。それが、けたゝましい、どれがどれやらわからない聲を立てる。學校の子供が、雨天體操場で遊んでゐる時のやうだ。そのうちの一つが彼の脚の間へ飛び込む。ちよいと氣味がわるい。もう一つが、天窓の明りの中を躍り上つた。仔(こ)羊だ。にんじんは、怖わかつたのが可笑しく、微笑む。服がだんだん暗闇に慣れると、細かな部分がはつきりして來る。[やぶちゃん注:「微笑む」「ほほゑむ」。]

 分娩期が始まつてゐる。百姓のパジヨオルは、每朝數へてみると、仔羊が二三匹ふえてゐる。それは、母親たちの間をうろつき、不器用(ぶきつちよ)なからだつきで、粗(あら)く彫(ほ)つた四本の棒切れのやうな脚を、ぷるぷる顫(ふる)はせてゐる。

 にんじんは、まだ撫でゝみる氣がしない。そのうちで、圖々しいのが、そろそろ彼の靴をしやぶりはじめる。或は一すべの枯草を口に咬へ、前足を彼の方へのせかける。[やぶちゃん注:「一すべ」「一稭(ひとすべ)」。藁(わら)の穂の芯。藁蘂(わらしべ)。「ひとすべ」は「一本・一摑み」という意。「わらしべ」(稻藁の芯・くず)から派生した言葉であろう。]

 年を取つた、一週間目ぐらゐのやつは、後半身にやたら力を入れすぎて、からだが伸びたやうになり、宙に浮きながら電光形に步く。一日經(た)つたやつは、瘠せてゐて、角(かど)ばつた膝をがくりと突き、すぐ、元氣いつぱいに起ち上る。生れたての赤ん坊は粘(ねば)ねばだ。甞めてないのだ。その母親は、水氣で膨らんだ財布が、ゆさゆさ搖れる。それが邪魔なので、子供を頭で刎ね飛ばす。[やぶちゃん注:「甞めて」「なめて」。「水氣」戦後版では、『すいき』とルビする。「刎ね」「はね」。]

 「不都合な母親だ」

と、にんじんは云ふ。

 「畜生でも人間でも、そこはおんなじさ」

と、パジヨオルはいふ。

 「きつと、乳母にでも預けたいんだらう、こやつ」

 「まあ、そんなとこさ」と、パジヨオルが云ふ――「一疋から上になると、哺乳器つてやつをあてがはにやならん。藥屋で賣つてる、あゝいふやつさ。長くは續かねえ。母親が不憫がるだよ。尤も、艷消しにしとくだ」[やぶちゃん注:以上のパジョオルの台詞は意味が分かりにくい。特に最後が意味不明である。原作の当該部分は以下の通り。“Presque, dit Pajol. Il faut à plus d'un donner le biberon, un biberon comme ceux qu'on achète au pharmacien. Ça ne dure pas, la mère s'attendrit. D'ailleurs, on les mate.”さて、この“D'ailleurs, on les mate”、“ailleurs”は「別な方法で持って」の意であり、“mate”はチェスの「チェック・メイト」(王手)の「メイト」の動詞形で、「相手を押し込める」とか、「負かす」といふ意味であろう。さすれば、ここはパジョオルがそういう時には、「手荒い別な手法でもって、母羊に授乳させるように仕向けるのさ。」といふ意味ではなかろうか。昭和四五(一九七〇)年明治図書刊の倉田清訳の「にんじん」では、『一匹以上になったら、哺乳器(ほにゅうき)をやらなくちゃならない、薬屋で買うようなのを。でも、そんなに長くは続かない、母親が悲しくなるからな。とにかく、哺乳器じゃ子羊たちがかわいそうだ。』と訳し(この最後の部分は意訳に過ぎる気がする)、一九九五年臨川書店刊の『全集』第三巻の佃裕文訳の当該部分は『一頭ならず、哺乳瓶を与えなきゃならんのだ。薬局で買うようなヤツをな。母羊の愛情も戻っつてくるから、そうながいことではないがね。それに連中には言うことをきかせるしな。』と訳す。少なくとも良訳は一目瞭然である。岸田氏は哺乳瓶の中身が市販の牛乳であることを母羊に判らないようにするため、中身が見えてしまう透明なガラス・ボトルでない「艶消しガラス」を施したのを宛がう、という意味で採ってしまったものと推察する。]

 彼は、親羊を抱き上げ、檻の中へ、そいつを別に入れる。頸へ藁の襟飾(ネクタイ)を結びつける。逃げた時にわかるやうにだ。仔羊は、その後について行つた。牝羊は鑢(やすり)のやうな音を立てて食つてゐる。すると、仔羊は、身顫ひをし、軟らかな脚を踏ん張り、鼻先へべろべろのものをいつぱいくつつけ、哀れつぽい調子で、乳をしやぶりたがる。

 「この母親にでも、いまにまた、人情つてものがもつと出るのかねえ」

 にんじんは云ふ。

 「尻(けつ)がもともと通りなほりや、むろんさね。お產が重かつたゞから・・・」

 パジヨオルが云ふ。

 「僕は、やつぱり、さつき云つたやうにした方がいゝと思ふなあ。どうして、しばらくの間、子供の世話をほかの牝羊にさせないのさ」

 「あつちで斷はらあね」

 なるほど、小屋の隅々から、母親たちの鳴き聲が交錯し、授乳の時刻を告げてゐる。それが、にんじんの耳には一律單調であるが、仔羊にとつては何處かに違ひがあるのだ。なぜなら、めいめいが、間誤つきもせず、一直線に母親の乳房へ飛びつくのである。[やぶちゃん注:「間誤つき」「まごつき」。]

 「此處ぢや、子供を盜んだりする女はゐねえ」

 バジヨオルが云ふ。

 「不思議だ、こんな毛糸の玉に、家族つていふ本能があるのは・・・」にんじんは云ふ――「なんて說明するかだ。鼻が銳敏なせいかも知れない」

 彼は、試しに、どれか一つ、鼻を塞いでみようと思つたくらゐだ。

 彼はまた、それからそれへ、人間と羊とを比較した。そして、仔羊の名前が知りたくなつた。

 仔羊たちが、ごくごく乳を吸つてゐる間、おつ母さん連は、脇腹を鼻の頭で激しく小突かれながら、安らかに、素知らぬ顏で、口を動かしてゐる。にんじんは、株槽(かひをけ)の水の中に、鎖のちぎれたのとか、車の轍(わだち)とか、すり切れたシヤベルなどがはひつてゐるのを見た。

 「こいつは綺麗だ、この株槽(かいをけ)は・・・」と、にんじんは、小賢(こざか)しい調子で云つた――「なるほど。金物を入れて、血を殖(ふ)やそうつてわけだね」

 「その通り。おめえだつて、丸藥を飮まされるだらう」

 彼は、にんじんに、その水を飮んでみろと勸める。もつと滋養分をつけるために、彼は、その中へなんでも抛り込むのである。

 「ダニ公をやろうか、ダニ公を・・・」

と、ハジヨオルは云ふ。

 「あゝ、おくれ。ありがたいぞ」

 にんじんは、何か知らずに、さう云つてみた。

 パジヨオルは、母(おや)羊の深い毛を搔き分けて、爪先で、一匹の、黃色い、丸い、肥つた、滿腹らしい、凄く大きなダニをつかまへた。パジヨオルに從へば、この手のダニが二疋もゐれば、子供の頭ぐらい李(すもゝ)のやうに食べてしまふといふのだ。彼は、そいつをにんじんの掌(てのひら)へのせた。そして、若し戲談なり惡戲なりがしたければ、兄貴や姉さんの、頸筋か髮の毛の中を逼(は)はしてやれと勸める。[やぶちゃん注:「逼(は)はして」の漢字はママ。複数回、既出既注。岸田氏の「這」の意の思い込み誤用。]

 もう、ダニは仕事にかゝり、皮膚を襲ひ出した。にんじんは指にちくちくと痛みを感じた。霙(みぞれ)が降つてゐるようだ。やがて、手頸、それから肱だ。ダニが無數に殖え、腕から肩へ食ひ上がつて行く氣持だ。

 えゝい、どうにでもなれ・・・にんじんは、そいつを握り締めた。潰してしまつたのだ。で、その手をパジヨオルが見てないふちに、牝羊の背中へこすりつけた。

 失(な)くなしたと云へばいゝのだ。

 それから一つ時、にんじんは、ぢつと、羊の啼聲を聽いてゐた。それが、だんだん鎭まつて行く。と、間もなく、乾草(ほしぐさ)がのろい頤の間で嚙み碎かれる鈍い音の外、なんにも聞えなくなる。

 縞の消えた廣袖(ひろそで)マントが、飼棚(かひだな)の柵にひつかかつて、それが、たゞ一つ、羊の番をしてゐるらしく見える。

 

[やぶちゃん注:原本はここから。

「車の轍」この「轍(わだち)」といふのは、日本語としておかしい。“cercles de roues”は、荷車等の「鐵輪(かなわ)」そのものを指す語である。鉄製の車輪、若しくは、木製車輪を補強するために打ち込まれた鉄の輪(又は単なる補強用に張りつけた鉄板)の破片ということである。

「株槽(かひをけ)」牛馬の餌として與える草や藁・穀類などの秣(まぐさ:馬草)を入れておく桶。かいばおけ。

「ダニ」恐らく節足動物門鋏角亜門クモ綱ダニ目マダニ亜目Ixodoideaに属するマダニ属 Ixodes の一種と見てよい。シュルッエマダニ Ixodes persulcatus の十全に血を吸った満腹になった個体は、娘たちの長女と次女のアリス(孰れもビーグル犬)に食いついた奴を、何度か見たことがあるが、彼奴等は、吸血すると、途轍もなく大きく、想像を絶する形(スモモとは大袈裟だが、大豆の大きさは普通)になる。このシュルッエマダニはライム病・ダニ媒介性脳炎を媒介するため、棲息する東ヨーロッパ(フランスには分布しないようである。マダニの種は分布に片寄りがあり、種同定は難しい)やロシアでは恐れられている。

「廣袖(ひろそで)マント」原文は“limousine”で、これは当時、車夫や農夫が着用した白黒の縞の入つた粗い毛で作った外套の名。ちなみに、仏語辞典によれば、これが現在の「リムジン」と言う語(箱自動車)のルーツらしい。

「飼棚」これは秣(まぐさ)を入れておくための橫に組んだ棚であるらしい。]

 

 

 

 

    Les Moutons

 

   Poil de Carotte n’aperçoit d’abord que de vagues boules sautantes. Elles poussent des cris étourdissants et mêlés, comme des enfants qui jouent sous un préau d’école. L’une d’elles se jette dans ses jambes, et il en éprouve quelque malaise. Une autre bondit en pleine projection de lucarne. C’est un agneau. Poil de Carotte sourit d’avoir eu peur. Ses yeux s’habituent graduellement à l’obscurité, et les détails se précisent.

   L’époque des naissances a commencé. Chaque matin, le fermier Pajol compte deux ou trois agneaux de plus. Il les trouve égarés parmi les mères, gauches, flageolant sur leurs pattes raides : quatre morceaux de bois d’une sculpture grossière.

   Poil de Carotte n’ose pas encore les caresser. Plus hardis, ils suçotent déjà ses souliers, ou posent leurs pieds de devant sur lui, un brin de foin dans la bouche.

   Les vieux, ceux d’une semaine, se détendent d’un violent effort de l’arrière-train et exécutent un zigzag en l’air. Ceux d’un jour, maigres, tombent sur leurs genoux anguleux, pour se relever pleins de vie. Un petit qui vient de naître se traîne, visqueux et non léché. Sa mère, gênée par sa bourse gonflée d’eau et ballottante, le repousse à coups de tête.

   Une mauvaise mère ! dit Poil de Carotte.

   C’est chez les bêtes comme chez le monde, dit Pajol.

   Elle voudrait, sans doute, le mettre en nourrice.

   Presque, dit Pajol. Il faut à plus d’un donner le biberon, un biberon comme ceux qu’on achète au pharmacien. Ça ne dure pas, la mère s’attendrit. D’ailleurs, on les mate.

   Il la prend par les épaules et l’isole dans une cage. Il lui noue au cou une cravate de paille pour la reconnaître, si elle s’échappe. L’agneau l’a suivie. La brebis mange avec un bruit de râpe, et le petit, frissonnant, se dresse sur ses membres mous, essaie de téter, plaintif, le museau enveloppé d’une gelée tremblante.

   Et vous croyez qu’elle reviendra à des sentiments plus humains ? dit Poil de Carotte.

   Oui, quand son derrière sera guéri, dit Pajol : elle a eu des couches dures.

   Je tiens à mon idée, dit Poil de Carotte. Pourquoi ne pas confier provisoirement le petit aux soins d’une étrangère ?

   Elle le refuserait, dit Pajol.

   En effet, des quatre coins de l’écurie, les bêlements des mères se croisent, sonnent l’heure des tétées et, monotones aux oreilles de Poil de Carotte, sont nuancés pour les agneaux, car, sans confusion, chacun se précipite droit aux tétines maternelles.

   Ici, dit Pajol, point de voleuses d’enfants.

   Bizarre, dit Poil de Carotte, cet instinct de la famille chez ces ballots de laine. Comment l’expliquer ? Peut-être par la finesse de leur nez.

   Il a presque envie d’en boucher un, pour voir.

   Il compare profondément les hommes avec les moutons, et voudrait connaître les petits noms des agneaux.

   Tandis qu’avides ils sucent, leurs mamans, les flancs battus de brusques coups de nez, mangent, paisibles, indifférentes.

   Poil de Carotte remarque dans l’eau d’une auge des débris de chaînes, des cercles de roues, une pelle usée.

   Elle est propre, votre auge ! dit-il d’un ton fin. Assurément, vous enrichissez le sang des bêtes au moyen de cette ferraille !

   Comme de juste, dit Pajol. Tu avales bien des pilules, toi !

   Il offre à Poil de Carotte de goûter l’eau. Afin qu’elle devienne encore plus fortifiante, il y jette n’importe quoi.

   Veux-tu un berdin ? dit-il.

   Volontiers, dit Poil de Carotte sans savoir ; merci d’avance.

   Pajol fouille l’épaisse laine d’une mère et attrape avec ses ongles un berdin jaune, rond, dodu, repu, énorme. Selon Pajol, deux de cette taille dévoreraient la tête d’un enfant comme une prune. Il le met au creux de la main de Poil de Carotte et l’engage, s’il veut rire et s’amuser, à le fourrer dans le cou ou les cheveux de ses frère et soeur.

   Déjà le berdin travaille, attaque la peau. Poil de Carotte éprouve des picotements aux doigts, comme s’il tombait du grésil. Bientôt au poignet, ils gagnent le coude. Il semble que le berdin se multiplie, qu’il va ronger le bras jusqu’à l’épaule.

   Tant pis, Poil de Carotte le serre ; il l’écrase et essuie sa main sur le dos d’une brebis, sans que Pajol s’en aperçoive.

   Il dira qu’il l’a perdu.

   Un instant encore, Poil de Carotte écoute, recueilli, les bêlements qui se calment peu à peu. Tout à l’heure, on n’entendra plus que le bruissement sourd du foin broyé entre les mâchoires lentes.

   Accrochée à un barreau de râtelier, une limousine aux raies éteintes semble garder les moutons toute seule.

 

2023/12/04

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「地下生活卅三年」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 なお、底本の標題中の「卅」は、左端の縦画も下が左方向には曲がらず、直線となっている。因みに、『ちくま文芸文庫』の標題は『地下生活三十三年』に書き換えられてある。] 

 

     

 

 地下生活卅三年【ちかせいかつさんじゅうさんねん】 〔半日閑話巻十五〕九月頃承りしに、夏頃信州浅間ケ嶽辺<長野県北佐久郡内か>にて、郷家の百姓井戸を掘りしに、二丈余も深く据りけれども水不ㇾ出《いでず》。さん瓦《がはら》を二三枚掘出しけるゆゑ、かゝる深き所に瓦あるべき様《やう》なしとて、またまた掘りければ、屋根を掘当てけるゆゑ、その屋根を崩し見れば、奥居間暗く物の目不ㇾ知《しれず》。されども洞穴の如く、内に人間のやうなる者居《ゐ》る様子ゆゑ、松明《たいまつ》を以て段々見れば、年の頃五六十の人二人有ㇾ之。依ㇾ之(これによつて)この者に一々問ひければ、彼《かの》者申すやうは、それより幾年か知れざれども、先年浅間焼《あさまやけ》の節《せつ》土蔵に住居《すまひ》なし、六人一同に山崩れ、出る事不出来。依ㇾ之四人は種々《しゆじゆ》に横へ穴を明けなどしけれども、中々不ㇾ及して遂に歿《ぼつ》す。私《わたくし》二人《ふたり》は蔵に積置《つみお》きし米三千俵、酒三千俵を飲みほし、その上にて天命をまたんと欲せしに、今日各〻へ面会する事、生涯の大慶なりと云ひけるゆゑ、段々数へ見れば、三十三年に当るゆゑ、その節の者を呼合《よびあひ》ければ、これは久し振り哉《かな》、何屋の誰が蘇生しけるとて、直ちに代官所へ訴へ、上へ上げんと言ひけれども、数年《すねん》地の内にて暮しける故に、直ちに上へあがらば、風に中《あた》り死せん事をいとひ、段々に天を見、そろりそろりと上らんと言ひけるゆゑ、先づ穴を大きく致し、日の照る如くに致し、食物を当《あて》がへ置きし由、専らの沙汰なり。この二人先年は余程の豪家にてありしとなり。その咄し承りしゆゑ、御代官を聞合せけれども不ㇾ知《しれず》。私領などや、または巷説やも不ㇾ知。

[やぶちゃん注:あり得ない風説ではあるが、赤木道紘氏のサイト「火水風人」の「松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二十七)」の「浅間嶽下奇談」(文末に『広報つまごい』の五百六十九号(平成一〇(一九九八)年九月号)に記載されたものとする注がある)で、本話が訳されて載り、最後に『この奇談が何処であった事か著者は明示していない。しかし真偽はともかく、その内容から鎌原村に係わる奇談として、ほぼ間違いないことであろう』とあった。松島氏の指定するのは、現在の群馬県吾妻郡嬬恋(つまごい)村鎌原(かんばら)である(グーグル・マップ・データ)。

「半日閑話」「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題は『○信州淺間嶽下奇談』である。但し、私は既に『柴田宵曲 續妖異博物館 「地中の別境」(1)』で正規表現で電子化している(注はなし)。

「九月頃」リンク先の前の項が『文化十二亥年六月』とクレジットする記事であり、数えで計算しているから、文化一二(一八一五)年である。

「さん瓦」「棧瓦」。横断面が波状をした瓦。一枚で、本瓦葺きの平瓦・丸瓦の両方を兼ねるもの。江戸中期に作られ、以後、一般住居に用いられた普通の瓦である。

「浅間焼」浅間山の「天明大噴火」。天明三年七月八日(一七八三年八月五日)に発生した浅間山史上、最も著名な噴火であり、「天明の浅間焼け」とも呼ばれる。当該ウィキによれば、噴火自体は同年四月九日(一七八三年五月九日)から始まり、七月七日夜から翌朝頃に激甚噴火を迎え、結果的に約九十日間、続いた。死者千六百二十四人(内、上野国一帯だけで千四百人以上)・流失家屋(噴火によって発生した大規模泥流が吾妻川・利根川を流下したため、流域の村々を次々に飲み込んで、洪水などによる大被害を与えたのであった)千百五十一戸・焼失家屋 五十一戸・倒壊家屋百三十戸余りに及んだ。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「魂火」 / 「た」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 因みに、本篇を以って「た」の部は終わっている。]

 

 魂火【たまび】 〔甲子夜話巻十一〕人世には魂火《たまび》と云ふものあるにや。予<松浦静山>が内の泥谷《ひぢや》[やぶちゃん注:現行姓の圧倒的に多い読みを参考に、かく読んでおいた。]某、釣を好み夜々平戸の海<長崎県平戸>に浮んで鯛をつる。これは碇を投じては宜しからず。因て潮行に随ひて、海上を流れて釣糸を下す。舟処を違へざる為に、櫓を揺《おし》て流れ去らざらしむ。泥谷乃ち僕《しもべ》に櫓を揺させ、己は釣を下して魚の餌につくを待つ。またその海の向うは大洋、その辺半里ばかりに壁立の岸あり。ここより常に清泉湧き出づ。僕主人を顧みて云ふ、先より櫓を揺て咽乾くこと頻りなり、冀《ねがは》くは岸に舟をつけ泉水を一飲せん。泥谷云ふ、今釣の最中なり、手を離つべからずとて、舟を岸に著くことを許さず。僕止むことを得ず、櫓を揺(うごか)し立ちながら睡る。泥谷これを見るに、僕の鼻孔の中より酸漿実(ほゝづき)[やぶちゃん注:底本では「酸漿」にのみルビが振られているが、特異的に東洋文庫版の編者の配したルビに従った。]の如き青光《あをびかり》の火出たり。怪しと思ひたるに、ふはふはと飛び行きて、やがて彼《か》の岸泉の処に到り、泉流に止りてあること良久(ややしばし)なり。それよりまた飛び来てやゝ近くなる。愈〻(いよいよ)怪しみ見ゐたるに、僕の鼻孔に入りぬ。その時僕驚き醒めたる体なりければ、泥谷いかにせしと問ひたれば、さきに余りに咽乾きたる故、舟を岸につけんと申したるを止め給ひしゆゑ、勉強して櫓を揺しゐたれば覚えず睡りたり、然るに夢に岸泉《がんせん》の処に到り、水を掬《きく》し飲みて胸中快く覚えたるが睡り醒めぬ、もはや咽乾かずと言ひたり。泥谷もこれを聞きて恐ろしくなりて、好《すき》なる釣を止めてその夜は還りしと云ふ。またこれも平戸のことなり。田村某が家の一婢頗る容色あり。田村心に愛すと雖ども、妻の妬みを恐れて通ずること能はず。その婢年期を以て里に帰る。里《さと》殆《ほとんど》二里、田村時々潜かに往き暁に及んで還る。或日暮にまたゆく、時に小雨ふれり。途半にして村堤《むらづつみ》を行くに、前路十余間、地上を去ること五六尺にして青光の小火《せうび》あり、酸漿実(ほゝづき)[やぶちゃん注:同前の処理をした。]の如し。田村怪しみ狐狸の所為とし、已(すで)に斬らんとす。然れども火未だ遠し。因てこれに近づかんとするに、火乃《すなは》ち田村が前に行くこと初めの如し。田村立止れば火もまた止る。田村爲《せ》ん方なくして行く内に覚えず婢の家に抵(いた)る。婢いつも窓下《さうか》に臥す。因て密かに戸を開きて入る。今夜も常の如く入らんとするに、火は田村に先だつて窓中《さうちゆう》に入る。田村愈〻怪しみ、即ち返らんと為《せ》しが、約信を失ふも如何《いかが》と、乃ち戸を開きて入るに、婢よく寝て覚めず。田村揺起せば婢驚き寤《さ》め、且つ曰く君来《きた》ること何ぞ遅き、待つこと久しうして遂に睡《ねむ》れり。然《しか》るに夢中に君を迎へんとて、出《いで》て村堤の辺に到るとき君に逢ふ、因《より》て相伴ひて家に入ると思へば、君我を起し給へりと云ふ。田村聞きて婢の情《なさけ》深きを悦ぶと雖も、旁ら恐懼の心を生じ、これより往くこと稀になりしとなん。これも亦魂火なるべし。また平戸城下の町に家富める商估(しやうこ)あり。或日城門外の幸橋《さひはひばし》[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]に納涼(すずみ)して居《をり》たるとき、その鼻孔より小火《せうくわ》出たり。これも酸漿実の如くにして青光あり。その人は云ふに及ばず。余人もあれあれと云ふうち次第に遠く去る。あきれて視ゐたるに愈〻高くあがり、報恩寺[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、幸橋からは平戸瀬戸を挟んで、東南東約二・五キロメートル離れた本土側であり、距離自体は短いものの、幸橋は低く、しかも両者の間には平戸城を挟んでいて、幸橋から報恩寺は見えない(「グーグルアース」で確認済み)。しかし、この一文は、火の玉となった方の商人の二つに分離した心の視線で見えているので問題はないのである。の森に入りたり。商(あきんど)思ふにこゝは我が檀那寺なり。あの火は魂《たましひ》なるべければ我《われ》死近きにあらん。貨財を有《も》つとも死して後《のち》何の益ぞ、蚤(はや)く散じて快楽を尽《つく》さんとて、日夜飲宴し、或ひはまた遊観に日を送りたるに、程《ほど》経ても死(し)する様子なく、その中《うち》に家産竭(つ)きて貧寠(ひんる)の身となりければ、剃髪して道心者《だうしんじや》となり、市里《いちさと》に乞食《こつじき》せり。それより三四年を経て、夏夕《なつゆふべ》かの幸橋に涼んで居《をり》たるに、以前小火の去りゆきたる寺林《じりん》の梢より、何か星の如きもの飛出《とびい》でたり。[やぶちゃん注:こちらは激しく問題がある。寺林の遙か上空なら、幸橋から見えなくもないが、その「林の梢」は絶対に見えない。これによって、この静山が聴いた奇談は、明らかに誰かの創作であり、地形上、あり得ない描写があることから、かなり頭の足りない迂闊な輩の杜撰なデッチアゲと判ってしまうのである。]怪しと望みゐたるに、来《きた》ること近くなるゆゑ不審に思ひたるに、間近くなると余人も怪しみ見るうち、忽ち道心が鼻孔の中に入りぬ。己《おのれ》も不思議ながら為《せ》ん方もなく、さりとて貧が富にも復せず。多くの年月をおくり、寿九十を越《こえ》て終れりと云ふ。これまた魂火の一つか。或ひは云ふ。人世乗除は何事にもあることなれば、この商財を散ぜずんば必ず死せしなるべし。財尽き身窮せしより寿命は延びしならんと。斯言《かかるげん》甚だ深理《しんり》あり。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷十一 25 平戶にて魂火を見し人の話」で正字表現のものを電子化注してあるので、まずはそちらを見られたい。]

フライング単発 甲子夜話卷十一 25 平戶にて魂火を見し人の話

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。三話からなり、原文でも改行を施してあるので、間に「*」を入れて区切りとした。]

 

11―25

 人世(じんせい)には「魂火(たまび)」と云(いふ)ものあるにや。

 予が内(うち)の泥谷(ひぢや)某(ぼう)、釣を好み、夜々(よよ)、平戶の海に浮(うかみ)て、鯛を、つる。

 これは碇(いかり)を投じては、宜(よろ)しからず。

 因(よつ)て、潮行(しほゆき)に隨(したがひ)て、海上を流れて、釣糸を下(おろ)す。

 故(ゆゑ)に、舟處(ふなどころ)を違(たが)へざる爲(ため)に、櫓(ろ)を搖(おし)て、流れ去らざらしむ。

 泥谷、乃(すなはち)、僕(しもべ)に櫓を搖(お)させ、己(おのれ)は釣を下して魚の餌(ゑ)につくを、待つ。

 又、その海の向(むかふ)は大洋(おほなだ)、其邊(あたり)半里許(ばかり)に壁立(へきりつ/かべだち)の岸(きし)あり。こゝより、常に、淸泉、湧き出づ。

 僕、主人を顧(かへりみ)て云ふ。

「先より、櫓を搖(おし)て、咽(のんど)、乾くこと、頻(しきり)なり。冀(ねがは)くは、岸に舟をつけ、泉水を一飮(ひとのみ)せん。」

 泥谷、云(いふ)。

「今、釣の最中なり。手を離つべからず。」

とて、舟を岸に着くことを、許さず。

 僕、止(やむ)ことを得ず、櫓を搖(お)し、立ちながら、睡(ねむ)る。

 泥谷、これを見るに、僕の鼻孔の中より、酸漿實(ほほづき)の如き、靑光(あをびかり)の火、出(いで)たり。

『怪し。』

と思ひたるに、

「ふはふは」

と飛行(とびゆき)て、やがて、彼(かの)岸泉(がんせん)の處に到り、泉流(せんりう)に止(とどまり)てあること、良(やや)久(しばし)なり。

 夫(それ)より、又、飛來(とびきたつ)て、やゝ近くなる。

 愈々(いよいよ)、怪(あやし)み、見(み)ゐたるに、僕の鼻孔に入(い)りぬ。

 その時、僕、驚醒(おどろきさ)めたる體(てい)なりければ、泥谷、

「いかにせし。」

と問(とひ)たれば、

「さきに、餘りに、咽(のんど)、乾(かはき)たる故、『舟を岸につけん』と申(まうし)たるを、止(とど)め給ひしゆゑ、勉强して、櫓を搖しゐたれば、不ㇾ覺(おぼえず)、睡(ねむ)りたり。然(しかる)に、夢に、岸泉(がんせん)の處に到り、水を掬(きく)し、飮みて、胸中、快(こころよ)く覺(おぼえ)たるが、睡(ねむり)、醒(さめ)ぬ。もはや、咽、乾かず。」

と言(いひ)たり。

 泥谷も、

「これを聞(きき)て、恐ろしくなりて、好(すき)なる釣を、止(やめ)て、其夜は、還りし。」

と云ふ。

   *

 又、これも、平戶のことなり。

 田村某が家の一婢(いちひ)、頗(すこぶる)、容色あり。

 田村、心に、愛すと雖ども、妻の妬(ねたみ)を恐れて、通ずること、能はず。

 その婢、年期を以て、里に歸る。

 里(さと)、殆(ほとんど)、二里。

 田村、時々、潛(ひそか)に往(ゆ)き、曉に及んで、還る。

 或日暮に、又、ゆく。時に、小雨(こさめ)、ふれり。

 途(みち)半(なかば)にして、村堤(むらづつみ)を行(ゆく)に、前路十餘間[やぶちゃん注:十間は十八・一八メートルであるから、約二十メートル。]、地上を去ること、五、六尺にして、靑光(あをびかり)の小火(せうび)あり。

 酸漿實(ほゝづき)の如し。

 田村、怪しみ、

『狐狸の所爲(しよゐ)。』

とし、已(すで)に斬らんとす。

 然(しか)れども、火、未(いまだ)、遠し。

 因(よつ)て、これに、近(ちかづ)かんとするに、火、乃(すなはち)、田村が前に行くこと、初(はじめ)の如し。

 田村、立止(たちどま)れば、火も、亦、止る。

 田村、爲(せ)ん方なくして行く内に、覺へ[やぶちゃん注:ママ。]ず、婢の家に抵(いた)る。

 婢、いつも、窓下(さうか)に臥す。因(よつ)て、密(ひそか)に戶を開(ひらき)て入(い)る。

 今夜も、常の如く入(いら)んとするに、火は、田村に先だつて、窓中(さうちゆう)に入る。

 田村、愈(いよいよ)、怪しみ、卽(すなはち)、返(かへら)んと爲(せ)しが、

『約信を失ふも、如何(いかが)。』

と、乃(すなはち)、戶を開きて入るに、婢、よく寐(ね)て、不ㇾ覺(さめず)。

 田村、搖起(ゆりおこ)せば、婢、驚き寤(さ)め、且つ、曰ふ。

「君、來(きた)ること、何ぞ遲き。待(まつ)こと、久(ひさし)。ふして、遂に睡(ねむ)れり。然(しか)るに、夢中に『君を、迎へん。』とて、出(いで)て、村堤の邊(あたり)に到るとき、君に逢ふ。因(より)て、相伴(あひともな)ひて、家に入る、と思へば、君、我を、起し給へり。」

と云(いふ)。

 田村、聞(きき)て、婢の情(なさけ)深(ふかき)を悅(よろこぶ)と雖も、旁(かたは)ら、恐懼(きようく)の心を生じ、これより、往(ゆく)こと、稀になりし、となん。

 是も亦、魂火なるべし。

   *

 又、平戶城下の町に、家、富める商估(しやうこ)あり。

 或日、城門外の幸橋(さひはひばし)に納涼(すずみ)して居(をり)たるとき、其鼻孔より、小火(せうくわ)出(いで)たり。

 これも、酸漿實の如くにして、靑光あり。

 その人は云(いふ)に及ばず、餘人も、

「あれ、」

「あれ、」

と云(いふ)うち、次第に、遠く、去る。

 あきれて視(み)ゐたるに、愈々、高くあがり、報恩寺の森に、入りたり。

 商(あきんど)、思ふに、

『こゝは、我が檀那寺(だんなでら)なり。あの火は、魂(たましひ)なるべければ、我(われ)、死、近きにあらん。貨財を有(も)つとも、死して後(のち)、何の益(えき)ぞ。蚤(はや)く散じて、快樂を盡(つく)さん。』

迚(とて)、日夜、飮宴(いんえん)し、或(あるいは)又、遊觀(いうくわん)に日を送りたるに、程(ほど)經ても、死(し)する樣子なく、其中(そのうち)に、家產、竭(つき)て、貧寠(ひんる)の身となりければ、剃髮して、道心者(だうしんじや)となり、市里(いちさと)に乞食(こつじき)せり。

 それより、三、四年を經て、夏(なつ)、夕(ゆふべ)、かの幸橋に涼(すずん)で居(をり)たるに、以前、小火の去(さり)ゆきたる寺林(じりん)の梢より、何か、星の如きもの、飛出(とびいで)たり。

「怪し。」

と望(のぞみ)ゐたるに、來(きた)ること、近くなるゆゑ、不審に思(おもひ)たるに、間近くなると、餘人も、怪(あやし)み見るうち、忽ち、道心が鼻孔の中に、入りぬ。

 己(おのれ)も不思議ながら、爲(せ)ん方もなく、さり迚(とて)、貧が、富にも、復(ふく)せず。

 多くの年月(としつき)をおくり、壽(じゆ)、九十(くじふ)を越(こえ)て、終(をは)れり、と、云(いふ)。

 是又、魂火の一つか。

 或(あるいは)、云(いふ)、

「人世、乘除(じやうじよ)は、何事にもあることなれば、此商(このあきんど)、財を散ぜずんば、必(かならず)、死せしなるべし。財、盡(つき)、身(み)、窮せしより、壽命は延(のび)しならん。」

と。

 斯言(かかるげん)、甚(はなはだ)、深理(しんり)あり。

■やぶちゃんの呟き

「人世」現世。六道の内のこの世である人間道のこと。

「魂火」「たまび」と読んだが、「こんくわ」でもよい。

「泥谷」「ひぢや」は現行姓の圧倒的に多い読みを参考に、かく読んでおいた。

「壁立の岸」この海岸が同定出来ないのは、海好きの私には悔しい。現地の方で、候補があれば、御教授願いたい。

「商估」商売店。

「幸橋」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「報恩寺」ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、幸橋からは平戸瀬戸を挟んで、東南東約二・五キロメートル離れた本土側であり、距離自体は短いものの、幸橋は低く、しかも両者の間には平戸城を挟んでいて、幸橋から報恩寺は見えない(「グーグルアース」で確認済み)。しかし、この一文は、火の玉となった方の商人の二つに分離した心の視線で見えているのであって、問題はないのである。

「小火の去ゆきたる寺林の梢より、何か、星の如きもの飛出でたり。怪しと望みゐたるに、」こちらは激しく問題がある。寺林の遙か上空なら、幸橋から見えなくもないが、その「林の梢」は絶対に見えない。これによって、この静山が聴いた奇談は、明らかに誰かの創作であり、地形上、あり得ない描写があることから、かなり頭の足りない迂闊な輩の杜撰なデッチアゲと判ってしまうのである。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「騙された狐」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 なお、本篇は非常に見知らぬ漢語・熟語が多用されており、甚だ躓くので、頭にきて、あらかたを文中で各個撃滅した。五月蠅いと感じる方は、どうぞ、太字部を無視して読まれたい。しかし、凡そ私の注がないと、狐に騙されるぐらい、キツい文章で御座るぞ。

 

 騙された狐【だまされたきつね】 〔北国奇談巡杖記巻五〕同国<越前>坂北郡三国<福井県坂井市三国町>の入江は、人王二十七代継体天皇いまだ大跡辺《をほあとべ》の王子と申せし頃、ましましける旧地なり。今は北国第一の大湊にして、娼家粉頭《ふんとう》[やぶちゃん注:妓女。]店《みせ》軒《のき》を並べて繁花たり。爰に出村《でむら》[やぶちゃん注:本村(ほんそん:ここでは「三国村」)から分かれた飛び地などにある分村(ぶんそん)のこと。]と続《つづき》て私科子《しかし》[やぶちゃん注:私娼を意味する漢語。]、遊君《いうくん》[やぶちゃん注:遊女。]、粉黛を粧ふ。中に黒丸権四郎といふ、しばくしば角力《すまひ》に名を振ひたる若ものありけるが、夜行大酒を好む。あるとき細呂木《ほそろぎ》といへる駅に用要《ようえう》[やぶちゃん注:大事な用事。]ありて、昼より出けるに、用談に日を暮し、既に夜半におよびし故、人々とゞめしかど、かの不敵なるものから、山路《やまぢ》茂林《もりん》不管《かかはらず》犬狼《けんらう》の患《うれへ》も知らざれば、闇夜に馬撾打《たたきうち》てほゝゑみかへりしが、半道《はんみち》[やぶちゃん注:細呂木から自宅までの距離の半分の意でとっておく。]あまり過ぎつらんとおぼしきころ、こなたの松原に鬼火をてらし、斑毛(まだらげ)の狐、薛茘(まさきのかづら)[やぶちゃん注:後に示す活字本では『薜茘』であり、この「薜」は「薛」とは全くの別字である。宵曲の転写ミス或いは誤植である。この「薜茘」は「大崖爬」とも書き、歴史的仮名遣では「おほいたび」と読み、小学館「日本国語大辞典」によれば、「おおいたびかずら(大崖爬葛)」の略で、『クワ科の常緑低木。本州中・南部、四国、九州の山地や石崖などに生える。茎は灰褐色で非常に強く、這い伸びる。葉は革質で楕円形。花はイチジクに似た花嚢(かのう)の中に密生し、実は熟して黒紫色となる』とし、「こずた」「いぬたぼ」「いたびかずら」の異名を掲げる。現行では、バラ目クワ科イチジク連イチジク属オオイタビ Ficus pumila に比定してよいか。当該ウィキを参照されたいが、そこには『日本の千葉県以西の太平洋側から南西諸島にかけて分布する』。『人家の壁や石垣、ブロック塀、樹木を覆って茂る』とあるが、他のネット記載を見ると、房総半島以西の日本各地に分布する常緑蔓性植物とするので、ロケーションに問題はないだろう。]を身にまとひ、ひとり躍《をどり》を催しゐける。黒丸もあまりの怪しさに、口を箍(たがね)て[やぶちゃん注:ぎゅっと閉じて。]通りけるに、黒丸を見るより二扮《にふん》[やぶちゃん注:別なものに姿を変えることらしい。]して、若衆と変ず。黒丸もこゝろにそれとしりながら、態《わざ》と何の様子も知らざるけしきにて過行きけるに、かの若衆脂顔[やぶちゃん注:「しがん」と音読みしておく。「顔を白粉(おしろい)で塗る」ことか。であれば、「おしろい」と訓じてもよいだろう。]して、申々《まうしまうし》と声かけたり。もとより強気の権四郎なれば、踏とゞまりて、何事候といふに、我は大聖寺《だいしやうじ》のさる町人の忰《せがれ》なるが、三国通ひに金銭を弃《す》てしものなり、何卒親元まで送りとゞけたまはれといふ。黒丸いふやう、これ安きことなり、しかし余ほどの道程《みちのり》なれば、この先の茶屋にて支度して送りとゞくべしといふ。さらば我も連れてともに酒にてもたうべしといふに、うなづき村端の茶店をたゝき起して、黒丸いふやう、三国通ひのさる有徳《うとく》の人の嫡子なり、この御客酒一献くみたきよし、はやく調ひ出すべしといふ。亭主心得顔にて、先づ鯉の薄味噌、鮭の鱠《なます》末茸のあつものに、摺柚《すりゆず》よ、酒滲《の》[やぶちゃん注:勝手な当て訓をしておいた。]めよといふまゝに、家内《かない》[やぶちゃん注:妻。]婢《はしため》も呼起《よびおこ》し、一間に請じて若衆を伴ひ、黒丸とふたり、数盃《すはい》を別盃にかたむけ、珍味飽くまゝに喰ひつゝ時分は爰(ここ)ぞと黒丸、勝手に逃足《にげあし》して、我は少々用事ありて先に行くべし、払ひは御客よりたまはるべしとて、我屋をさして逸足《いちあし》にたちかへりぬ。跡に若衆ひとり黒丸を呼ぶに、亭主立出で、それは先刻御帰り候ひぬ、これこれの雑用代金壱歩七百文たまはるべしといふに、斑狐も渠《かれ》に脅やかされて、少間《しばらく》愕《おどろ》くといへども、もとより吼噦(こんくわい)[やぶちゃん注:本来は狐の鳴き声「こんこん」のオノマトペイアであるが、転じて「狐」の意。]のことなれば、九尾を振《ふり》て走りまはるを、亭主怒りて棒を捻《ねぢ》りて、追へども追へども続《つづ》かばこそ、そのうちに木綿告(ゆふつげ)の鶏《とり》[やぶちゃん注:「木綿付鳥(ゆふつけどり)」が「ゆうつげどり」と発音されるようになり、「夕べを告げる鳥」と解されて生じた語。この場合は「夕べを告げる鳥」ではなく、単に夜明けを告げる鷄(にわとり)を指す。衒学趣味の筆者の風流のやり過ぎで、かえって話が躓く。]うたひ、山かづら引明《ひきあ》けて、口をしくも八顚九倒《はつてんきうたう》し、泣々亭主はねむたげに眶《まぶち》[やぶちゃん注:「瞼(まぶた)」に同じ。]かゝへて帰りけるこそ、よくよくの災《わざあひ》なり。只黒丸ひとり甘昧を味ひ、そのうへ哆《ほしいまま》[やぶちゃん注:この漢字はネットで調べても、ピンとくる意味が見当たらなかったので、所持する大修館書店「廣漢和辭典」を引いたところ、以上の漢語の意味があったので採用した。]しもあるべきか。狐を嬲(なぶ)りしは希代《けだい》の発明、あはれにも亦をかしき事になん侍る。

[やぶちゃん注:「北国奇談巡杖記」加賀の俳人鳥翠台北茎(ちょうすいだい ほっけい)著になる越前から越後を対象とした紀行見聞集。かの伴蒿蹊が序と校閲も担当しており、文化三(一八〇六)年十一月の書肆の跋がある(刊行は翌年)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第九巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字活字で読める。標題は『○黑丸權四郞哆斑狐』(「くろまるげんしらう、まだらぎつねをたらす」か。この場合の「たらす」は「上手く取り扱って騙す」の意)。しかし、この文章、異様に見かけない漢語を多用しており、衒学的で好きになれない。

「同国」「越前」「坂北郡三国」「福井県坂井市三国町」「の入江」「東尋坊」の周辺(グーグル・マップ・データ)。

「継体天皇いまだ大跡辺の王子と申せし頃」継体天皇(允恭天皇三九(四五〇)年?~継体天皇二五(五三一)年?/在位:継体天皇元(五〇七)年?~没年)の元の名は「をほどのわう」。漢字では「男大迹王」・「乎富等王」「大跡邊王」などを宛てる。当該ウィキによれば、『応神天皇』五『世の来孫』(玄孫の子。当該人物から五代の後の子孫を言う)『であり』、「日本書紀」の『記事では越前国』、「古事記」の『記事では近江国を治めていた』とあるので、本文の治国地には問題ない。『本来は皇位を継ぐ立場ではなかったが、四従兄弟にあたる第』二十五『代武烈天皇が』、『後嗣を残さずして崩御したため、大伴金村』(おおとものかなむら)『や物部麁鹿火』(もののべのあらかひ)『などの推戴を受けて即位したとしている。先帝とは』四『親等以上離れて』『いる』とあり、『太平洋戦争後、天皇研究に関するタブーが解かれると、応神天皇』五『世というその特異な出自と、即位に至るまでの異例の経緯が議論の対象になった。その中で、ヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪し、現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする「王朝交替説」がさかんに唱えられるようになった。一方で、傍系の王族(皇族)の出身という『記紀』の記述と一致する説もあり、それまでの大王家との血縁関係については現在も議論がある』とある。

「細呂木」ここ(グーグル・マップ・データ)の広域。

「大聖寺」この附近(グーグル・マップ・データ)。]

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「猫」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

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    一

 

 にんじんは、かういふ話を聞いた。――「蝲蛄(ざりがに)を捕るのには、雉の臟物や牛豚(ぎゆうぶた)などの屑より、猫の肉が一番いゝ」

 ところで、彼は猫を一匹識つてゐた。年をとり、病みほうけ、其處こゝの毛が脫(ぬ)け落ちてゐるので、誰も相手にしないのだ。にんじんは、牛乳を一杯御馳走するからと云つて、そいつを自分のところ、つまり彼の小屋へ招待した。主客二人きりなわけだ。尤も鼠の一匹やそこら、壁の外で冒險を試みるかもわからない。が、にんじんとしては、牛乳一杯しか出さないことにしてある。彼は茶碗を一隅に置き、猫を押しやつて、そして云つた――[やぶちゃん注:「彼の小屋」前の「小屋」を参照されたい。「尤も鼠の一匹やそこら、壁の外で冒險を試みるかもわからない。」ここは倉田氏の岸田訳の踏襲よりも、臨川書店『全集』第三巻の佃氏の『ひょっとすると無鉄砲にも、ネズミが壁の外に現われるかもしれないが、』の方が、達意の訳である。]

 「鱈腹つめ込め」

 彼は猫の背筋を撫で、數々の愛稱で呼び、威勢のいゝ舌の運動を觀察し、ついでほろりとする。

 「可哀さうな奴だ。殘りをたのしめ」

 猫は茶碗をからにし、底を拭ひ、緣を掃除する。そして、もう、甘い唇を舐(な)めずるより外はない。

 「濟んだか。綺麗に濟んだか」

 にんじんは、相變らず撫でながら、訊ねる。

 「勿論、もう一杯お代りが欲しいだらう。が、これだけしか盜み出せなかつたんだ。それに、ちつと早いかちつと晚(おそ)いかの違ひだ・・・」

 かう云つて、彼は、その額に獵銃の筒先を押しあてる。そして火蓋を切る。

 爆音で、にんじんは、眼がくらむ。彼は、小屋まで飛んでしまつたかと思ふ。煙が散つた後で、見ると、足許に、猫がたつた一つの眼で彼を見据えてゐる。

 頭の半分はどつかへ行つてしまつた。そして、血が牛乳茶碗の中へ流れ込んでゐる。

 「死なゝかつたかな? 畜生、よく狙つたんだがなあ」

 にんじんは、さう云つたまゝ、身動きもできない。片眼だけが、黃色く光り、それが不安なのだ。

 猫は、からだを顫はし、生きてゐることを示す。が、そこを動かうといふ努力は一向試みない。血を外へこぼさないやうに、わざと茶碗の中へ流してゐるらしい。

 にんじんは、これで初心(しよしん)ではない。幾多の野禽、家畜、それと一疋の犬を、自分の慰みに、又は他人の手助けに殺したことがある。彼は、どんな時どうすればいゝかといふこと――若しも、そいつが苦しみながら生きてゐるなら、猶豫をしてはならぬ。心を勵まし、氣を荒(あら)らげ、時と場合では、取つ組み合ひの危險を犯さなければならぬといふことを知つてゐる。さもないと、餘計な糞人情がひよこり頭を持ち上げる。卑怯になる。暇つぶしだ。埓が明かない。ふんぎりがつかない。

 はじめ、彼は用心深くちよつかいを出してみる。それから、尻尾(しつぽ)をつかみ、銃床で、首筋を、何度となく、これが最後、これが止(とど)めの一擊かと思はれるほど、激しくどやしつけた。

 瀕死の猫は、脚で、狂ほしく虛空を搔き、丸く縮(ちぢ)まるかと思ふと、長々と反り返り、しかも、聲は立てない。

 「誰だい、一體、猫が死ぬ時は泣くなんて云つた奴は・・・」

 にんじんは、焦れる。暇がかゝりすぎる。彼は獵銃を投げ出す。兩腕で猫を抱きかゝへる。そして、爪の襲擊に應へながら、齒を喰ひしばり、血を湧き立たせ、ぎゆつと首を締めつけた。

 が、しかし、自分も、締めつけられる思ひだ。よろめき、へとへとになり、地べたに倒れ、顏と顏とを押しつけ、兩眼は猫の片眼に注いだまゝ、坐つてしまふ。

 

    二

 

 にんじんは、今、鐵の寢臺に橫はつてゐる。[やぶちゃん注:「橫はつてゐる」「よこたはつてゐる」。]

 兩親と、急報を受けたその知合ひの連中が、小屋の低い天井の下を這ふやうにして、慘劇の行はれた場所を檢分した。

 「どうでせう、心臟の上で猫を揉みくしやにしてゐる、それを無理に引き放さうつていふんで、あたしや、汗をかきましたよ。それでいて、このあたしをそんな風に抱き締めてくれたことなんか、ありやしないんですからね」

 この殘虐の歷史は、やがて、家族の夜伽を通じ、昔噺さながらの興をへることになるのだが[やぶちゃん注:ママ。戦後版では、『興をそえることになるのであるが』で誤植(脱字)と採れる。]、ルピツク夫人が、此處でその說明をしてゐる間、にんじんは眠り、そして夢を見てゐるのだ――

 ・・・彼は小川に沿うて往きつ戾りつしてゐる。お定まりの月の光が、ちらちらと動いて、女の編針(あみばり)のやうに入り交(まぢ)る。

 玉網(たまあみ)の上には、猫の肉が、澄んだ水を透して燃え上つてゐる。

 白い靄が草原をすれすれに這ひ、どうかすると、飄々たる幽靈の姿を隱してゐる。

 にんじんは、兩手を組み、幽靈などちつとも怖くないといふ證據を見せる。

 牛が一匹近寄つて來る。立ち止る。溜息を吐く。急に逃げ出す。四つの木履(きぐつ)を空まで鳴り響かせ、やがて消え失せる。[やぶちゃん注:「吐く」戦後版では『吐(つ)く』とルビする。それを採る。]

 何といふ靜かさだ! 若しこの餞舌な流れが、婆さんの會合みたいに、彼一人の耳へ、ぺちやくちや、こそこそと、きりのないお喋りを聞かせさへしなければ・・・。

 にんじんは、口を噤ませるために、それを打たうとでもするやうに、そつと玉網の棹(さを)を引き上げる。と、これはまた、蘆の繁みから、大きな圖體をした蝲蛄(ざりがに)が幾つとなく現われて來る。

 後から後から、まだ殖える。どれもこれも、眞直に突つ立ち、ぎらぎらと、水から上(あが)る。

 にんじんは、苦悶に打ちひしがれ、逃げることすらできない。

 蝲蛄(ざりがに)は、彼を取り圍む。

 喉をめがけて、伸び上がつて來る。

 ぱちぱち音を立てる。

 もう、彼等は、鋏をいつぱいにひろげてゐるのだ。

 

[やぶちゃん注:原本はここから。本作の中では、「土龍」を遙かに超えて、愛猫家卒倒間違いない最も残酷・残忍な一章ではある。しかし、この「二」の悪夢のコーダのそれは、実は殺される猫が、これまた、家族を含む外界から疎外されている(或いはそのように思い込んでしまっている)「にんじん」の分身の隠喩であることは言を俟たない。

「蝲蛄」原文では“écrevisses”で、これは十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目ザリガニ下目ザリガニ上科ザリガニ科Astacidaeのアスタクス属ヨーロッパザリガニ(フランス語音写「エクルヴィス」)Astacus astacusである。我々の知つている本邦産のザリガニ――代表種である標準和名のザリガニ(ニホンザリガニ) Cambaroides japonicus 及び、アメリカザリガニ Procambarus clarkii は、ともにアメリカザリガニ科Cambaridaeである(但し、一部地域に棲息する Pacifastacus 属ウチダザリガニ Pacifastacus leniusculus はザリガニ科である)とは異なる種である。フランスでは御存知の通り、立派な高級食材である。

「片眼だけが、黃色く光り、それが不安なのだ」原作では確かに“inquiète”で、「不安な」の意味の単語を用いてはいるのだが、どうもしっくりこない。「それが如何にもぞっとさせて落ち着かせないのだ」ぐらいでは如何であろうか?

「どうでせう、心臟の上で猫を揉みくしやにしてゐる、それを無理に引き放さうつていふんで、あたしや、汗をかきましたよ。」この訳も、少々、不親切である。原文は“– Ah ! dit sa mère, j’ai dû centupler mes forces pour lui arracher le chat broyé sur son coeur.”で、これは、『「ああ!」と、母親は言った。「私は、彼の胸に押しつぶされていた猫を引っ離すために、百倍もの力を要さねばならなかったのですのよ!」』と言う意味である。「彼」は無論、「にんじん」である。岸田氏の訳は、映像を想起し難い感じがするのである。

「四つの木履」原作は“quatre sabots”で、この“sabot”(サボ)は、牛馬の蹄(ひづめ)である。但し、この「木履」といふ謂いは、この夢のシーンのシュールレアリスティクな雰圍氣に、何だか、異様にマッチしていて、私には逆に素敵に感じられるのである。]

 

 

 

 

    Le Chat

 

     I

 

   Poil de Carotte l’a entendu dire : rien ne vaut la viande de chat pour pêcher les écrevisses, ni les tripes d’un poulet, ni les déchets d’une boucherie.

   Or il connaît un chat, méprisé parce qu’il est vieux, malade et, çà et là, pelé. Poil de Carotte l’invite à venir prendre une tasse de lait chez lui, dans son toiton. Ils seront seuls. Il se peut qu’un rat s’aventure hors du mur, mais Poil de Carotte ne promet que la tasse de lait. Il l’a posée dans un coin. Il y pousse le chat et dit :

   Régale-toi.

   Il lui flatte l’échine, lui donne des noms tendres, observe ses vifs coups de langue, puis s’attendrit.

Pauvre vieux, jouis de ton reste.

   Le chat vide la tasse, nettoie le fond, essuie le bord, et il ne lèche plus que ses lèvres sucrées.

   As-tu fini, bien fini ? demande Poil de Carotte, qui le caresse toujours. Sans doute, tu boirais volontiers une autre tasse ; mais je n’ai pu voler que celle-là. D’ailleurs, un peu plus tôt, un peu plus tard !…

   À ces mots, il lui applique au front le canon de sa carabine et fait feu.

   La détonation étourdit Poil de Carotte. Il croit que le toiton même a sauté, et quand le nuage se dissipe, il voit, à ses pieds, le chat qui le regarde d’un oeil.

   Une moitié de la tête est emportée, et le sang coule dans la tasse de lait.

   Il n’a pas l’air mort, dit Poil de Carotte. Mâtin, j’ai pourtant visé juste.

   Il n’ose bouger, tant l’oeil unique, d’un jaune éclat, l’inquiète.

   Le chat, par le tremblement de son corps, indique qu’il vit, mais ne tente aucun effort pour se déplacer. Il semble saigner exprès dans la tasse, avec le soin que toutes les gouttes y tombent.

   Poil de Carotte n’est pas un débutant. Il a tué des oiseaux sauvages, des animaux domestiques, un chien, pour son propre plaisir ou pour le compte d’autrui. Il sait comment on procède, et que si la bête a la vie dure, il faut se dépêcher, s’exciter, rager, risquer, au besoin, une lutte corps à corps. Sinon, des accès de fausse sensibilité nous surprennent. On devient lâche. On perd du temps ; on n’en finit jamais.

   D’abord, il essaie quelques agaceries prudentes. Puis il empoigne le chat par la queue et lui assène sur la nuque des coups de carabine si violents, que chacun d’eux paraît le dernier, le coup de grâce.

   Les pattes folles, le chat moribond griffe l’air, se recroqueville en boule, ou se détend et ne crie pas.

Qui donc m’affirmait que les chats pleurent, quand ils meurent ? dit Poil de Carotte.

   Il s’impatiente. C’est trop long. Il jette sa carabine, cercle le chat de ses bras, et s’exaltant à la pénétration des griffes, les dents jointes, les veines orageuses, il l’étouffe.

   Mais il s’étouffe aussi, chancelle, épuisé, et tombe par terre, assis, sa figure collée contre la figure, ses deux yeux dans l’oeil du chat.

 

     II

 

   Poil de Carotte est maintenant couché sur son lit de fer.

   Ses parents et les amis de ses parents mandés en hâte, visitent, courbés sous le plafond bas du toiton, les lieux où s’accomplit le drame.

   Ah ! dit sa mère, j’ai dû centupler mes forces pour lui arracher le chat broyé sur son coeur. Je vous certifie qu’il ne me serre pas ainsi, moi.

   Et tandis qu’elle explique les traces d’une férocité qui plus tard, aux veillées de famille, apparaîtra légendaire, Poil de Carotte dort et rêve :

   Il se promène le long d’un ruisseau, où les rayons d’une lune inévitable remuent, se croisent comme les aiguilles d’une tricoteuse.

   Sur les pêchettes, les morceaux du chat flamboient à travers l’eau transparente.

   Des brumes blanches glissent au ras du pré, cachent peut-être de légers fantômes.

   Poil de Carotte, ses mains derrière son dos, leur prouve qu’ils n’ont rien à craindre.

   Un boeuf approche, s’arrête et souffle, détale ensuite, répand jusqu’au ciel le bruit de ses quatre sabots et s’évanouit.

   Quel calme, si le ruisseau bavard ne caquetait pas, ne chuchotait pas, n’agaçait pas autant, à lui seul, qu’une assemblée de vieilles femmes.

   Poil de Carotte, comme s’il voulait le frapper pour le faire taire, lève doucement un bâton de pêchette et voici que du milieu des roseaux montent des écrevisses géantes.

   Elles croissent encore et sortent de l’eau, droites, luisantes.

   Poil de Carotte, alourdi par l’angoisse, ne sait pas fuir.

   Et les écrevisses l’entourent.

   Elles se haussent vers sa gorge.

   Elles crépitent.

   Déjà elles ouvrent leurs pinces toutes grandes.

 

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「小屋」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Koya

 

     小  屋

 

 

 この小さな屋根の下には、これまで代る代る、鷄、兎、豚が棲んでゐたのだが、今は空つぽで、休暇中は、一切の所有權をにんじんが獨占してゐる。彼は易々(やすやす)とそこへはひり込むことができる。小屋にはもう戶がないからだ。一と叢(むら)の蕁麻(いらくさ)がひよろ長く伸びて、閾(しきゐ)をかくしてゐる。で、にんじんが腹這ひになつてそれを眺めると、まるで森のやうだ。細かい埃が土を覆つてゐる。壁の石が濕氣を帶びて光つてゐる。にんじんの髮の毛は、天井をこするのだ。彼は其處にゐると自分の家にゐる氣がし、そこでは邪魔つけな玩具(おもちや)なんかいらない。自分の空想だけで結構氣が紛れるのである。[やぶちゃん注:「家」前例に徴して、「うち」と読んでおく。戦後版も『うち』とルビしている。]

 彼の主な遊びは、小屋の四隅へ、尻で、一つ一つ巢を掘ることだ。それから、手を鏝(こて)の代りにして、埃を搔き寄せ、これで目塗りをして、からだを植え[やぶちゃん注:ママ。]つけてしまふのだ。

 背中をすべつこい壁にもたせかけ、脚を曲げ、兩手を膝の上に組み、ぢつとしてゐると、まことに工合が好い。實際、これ以上場所を取らないといふわけには行くまい。彼は世の中を忘れ、もう、そんなものを怖れない。大きな雷さえ落ちて來なければ、びくともしないだらう。[やぶちゃん注:「好い」岸田氏は「いい」「よい」の両用を戦後版ではルビに用いている(使用回数は思ったより、ずっと少なかった)。しかし、ここは戦後版では本文にひらがなで「よい」としておられるので、それに従う。「實際、これ以上場所を取らないといふわけには行くまい。」原文は“Vraiment il ne peut pas tenir moins de place.”で、逐語訳すると、「これ以上の場所を取ることは出来ないだろう。」ではあるのだが、どうも日本語として確実な達意の訳とは言えない気がする。倉田氏は、『まったく、これより狭(せま)い場所を占(し)めることはできない。』、佃氏は、『ほんとうに、これ以上場所をとらずにすますことはできない。』であるが、やはり私はお二人の訳にも満足出来ない。無論、読者はこの前後から、概ね躓かずに正しい意味で読めるであろうかとは思うのだが、三者の訳は私には日本語としてこなれていないと感ずる。ここは私なら、「まっこと、これ以上の自由なスペースを手に入れることは、この家(うち)の中では、到底、不可能なのである。」と訳す。

 食器を洗ふ水が、すぐそばを、流しの口から流れ落ちる、ある時は瀧のやうに、ある時は一滴一滴。そして、彼の方へひやりとした風を送つて來る。

 突然、非常警報だ。

 呼び聲が近づく。跫音(あしおと)だ。

 「にんじん! にんじん!」

 一つの顏がこゞむ。にんじんは、團子のやうになり、地べたと壁の間へめり込み、息を殺し、口を大きく開(あ)け、ぢつと視線を据える。二つの眼が闇を透してゐるのを感じる。

 「にんじん! そこにゐるかい?」

 顳顬(こめかみ)がふくれ、喉がつまり、彼は斷末魔の叫びを擧げかける。

 「ゐないや、あの餓鬼・・・。どこへ行きくさつたんだ?」

 行つてしまふと、にんじんのからだは、やゝのんびりし、元の樂な姿勢にかへる。

 彼の考へは、まだ沈默の長い路を走り續ける。[やぶちゃん注:「まだ」はママ。戦後版では『また』。この底本のそれは、私は筆者の「た」の清音の原稿の誤りか、誤植と考える。]

 すると、騷々しい音が、耳いつぱいにひろがる。天井で、一匹の羽蟲が蜘蛛の巢にひつかゝり、ぢたばたしてゐるのだ。蜘蛛は、糸を傳つて滑つて來る。腹がパン屑のやうな白さだ。一つ時、不安げに、毬のやうになつてぶら下つてゐる。

 にんじんは、なかば尻を浮かし、眼を放さず、大團圓を待つてゐる。そして、この悲劇的な蜘蛛が、身を躍らし、星形の脚をすぼめ、獲物を抱き締めて食はうとする時、にんじんは、分け前でも欲しいやうに、胸をふるわせ、がばと起ち上つた。

 それだけのことだ。

 蜘蛛は、上へ引つ返す。にんじんはまた坐つた。我れにかへる。兎のやうな我れにかへる。心持は夜のやうに暗い。

 やがて、彼の夢想は、砂を混(まじ)えたか細い流れのやうに、勾配がなくなると、水溜りの形で、止り、そして澱(よど)む。

 

[やぶちゃん注:言わずもがなだが、探しに来た人物は、ルピック夫人である。私の最後の注を参照のこと。

「蕁麻(いらくさ)」原文は“orties”。これは広義のそれで、バラ目イラクサ科イラクサ属 Urtica を指す。多くの種があるのでそこまで。フランス語の「イラクサ属」のウィキに多数の種が載る。

「この悲劇的な蜘蛛が、身を躍らし、星形の脚をすぼめ、獲物を抱き締めて食はうとする時、」この「悲劇的な蜘蛛」という訳が、どうも、私には、極めて気に入らない。小学生でも「悲劇的な」のは「蜘蛛」なのではなく、食われてしまう「羽蟲」である。そこで原文を見ると、私が疑問を感じた箇所は、“et quand l’araignée tragique fonce,”とある。これは「そうして、蜘蛛が、悲劇的な突進を(羽虫に向かって)してくるその時、」の意である。因みに、倉田氏は『悲劇的なくもが』と無批判に踏襲されており、佃氏は「トラジィク」の直訳を避けて、『この恐るべき蜘蛛がおそいかかって』とされている。どれが、よいか、どうぞ、このブログの読者にお任せしよう。因みに、言っておくが、これも既に大半の読者は気づいておられるであろうが、この「羽蟲」は「にんじん」なのであり、「蜘蛛」はルピック夫人なのである。ルナールは、それを確信犯でオーヴァーラップさせているのである。所謂、映画で言う「比喩のモンタージュ」である。しかも、ルピック夫人への換喩は、「にんじん」の心中で、他の諸々の他者へと、果てしなく拡大し増殖してしまうのだ。それが、彼の心に深い「闇」を齎し、そして意識の自由な「流れ」をやめさせてしまい、そして「澱み」、遂には、瘴気を放つ泥沼と化すのである。

 

 

 

 

    Le Toiton

 

   Ce petit toit où, tour à tour, ont vécu des poules, des lapins, des cochons, vide maintenant, appartient en toute propriété à Poil de Carotte pendant les vacances. Il y entre commodément, car le toiton n’a plus de porte. Quelques grêles orties en parent le seuil, et si Poil de Carotte les regarde à plat ventre, elles lui semblent une forêt. Une poussière fine recouvre le sol. Les pierres des murs luisent d’humidité. Poil de Carotte frôle le plafond de ses cheveux. Il est là chez lui et s’y divertit, dédaigneux des jouets encombrants, aux frais de son imagination.

   Son principal amusement consiste à creuser quatre nids avec son derrière, un à chaque coin du toiton. Il ramène de sa main, comme d’une truelle, des bourrelets de poussière et se cale.

   Le dos au mur lisse, les jambes pliées, les mains croisées sur ses genoux, gîté, il se trouve bien. Vraiment il ne peut pas tenir moins de place. Il oublie le monde, ne le craint plus. Seul un bon coup de tonnerre le troublerait.

   L’eau de vaisselle qui coule non loin de là, par le trou de l’évier, tantôt à torrents, tantôt goutte à goutte, lui envoie des bouffées fraîches.

   Brusquement, une alerte.

   Des appels approchent, des pas.

   Poil de Carotte ? Poil de Carotte ?

   Une tête se baisse et Poil de Carotte, réduit en boulette, se poussant dans la terre et le mur, le souffle mort, la bouche grande, le regard même immobilisé, sent que des yeux fouillent l’ombre.

   Poil de Carotte, es-tu là ?

   Les tempes bosselées, il souffre. Il va crier d’angoisse.

   Il n’y est pas, le petit animal. Où diable est-il ?

   On s’éloigne, et le corps de Poil de Carotte se dilate un peu, reprend de l’aise.

   Sa pensée parcourt encore de longues routes de silence.

   Mais un vacarme emplit ses oreilles. Au plafond, un moucheron s’est pris dans une toile d’araignée, vibre et se débat. Et l’araignée glisse le long d’un fil. Son ventre a la blancheur d’une mie de pain. Elle reste un instant suspendue, inquiète, pelotonnée.

   Poil de Carotte, sur la pointe des fesses, la guette, aspire au dénouement, et quand l’araignée tragique fonce, ferme l’étoile de ses pattes, étreint la proie à manger, il se dresse debout, passionné, comme s’il voulait sa part.

   Rien de plus.

   L’araignée remonte. Poil de Carotte se rassied, retourne en lui, en son âme de lièvre où il fait noir.

   Bientôt, comme un filet d’eau alourdie par le sable, sa rêvasserie, faute de pente, s’arrête, forme flaque, et croupit.

 

2023/12/03

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「多摩川狐」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 多摩川狐【たまがわきつね】 〔海西漫録初篇二〕武蔵国多摩郡多摩川の川そひの村落に、夫婦の間に子ひとりもてる農民有りけり。秋のすゑつかた、その夫田に出て、稲を刈りけるに、稲の間にいと可愛らしき狐子の、昼寝してをるを見る。よく寝入りてさめざれば、驚かすも便なきわざなりとて、其所の稲をば刈りのこして、外の稲をぞ刈りける。かくてその田の稲をば刈り尽しつるに、狐の子はなほ熟睡してさめざれば、是非なく寝入りたる狐子を、両手にて抱へ、邪魔にならざる所へ移し置き、さてその稲を刈り終ヘて家に帰るに、狐子はなほよくねてぞ有りける。かくてその夜夫婦のものは、中に小児をねさせてふしけるに、夜あけて起出で見るに、中にねたる小児見えず。夫婦はいたく驚きて、表の方に出て見るに、小児は門口に血まみれになりて死《しし》てあり。母はその死骸をいだきあげ、こは何者の所為ぞや、この様に幾所もからだに瘡《きず》をつけたるは、なぶり殺しにしたるものか、あな痛ましやかなしやと、歎き悲しむ事限りなし。夫いふ、昨日田に出で稲を刈りけるに、しかじかの事あり、吾は狐子を憐みてこそ驚かせもせざりしに、親狐の疑ひて、恩を仇にてかへしたるならん、憎き狐のしわざかなといへば、妻ははじめてかくと聞き、さてはこの在所の穴に住む狐のしわざに候や、憎き狐の所為かなとて、小兒の死骸を抱きながら、かの狐の住む穴にゆきて、穴の口に小児の死骸を投げつけて、いかに四足《よつあし》なればとて、恩を仇にして吾子を殺した、よくもよくもむごたらしく此子の命を取たるぞ、おれ畜生こゝに出よ、おれが命は吾取らんと、声のかぎりおよそ半時ばかりも罵りて、せんかたなければ、また小児の死骸を抱《いだき》て家に帰り、やうやく野べにぞおくりける。その夜は夫婦ともに愁傷て夜もねられず、暁かたにおきいでて見れば、昨日小児のころされて有りつる門口に、雄狐雌狐二疋、葛《かづら》にて頸くゝりて死てぞ有りける。この二疋の狐、はじめは我子のたしなめられし事と心得、その恨みを報いつるに、たしなめられしにはあらで、いたはられし事を聞き知り、その理《ことわり》にせまりて頸くゝりたるにやあらん。こは近き年ころの事にて、この国府中の人の物語りにて聞きぬ。

[やぶちゃん注:「海西漫録」(かいせいまんろく)は国学者鶴峯戊申(つるみねしげのぶ 天明八(一七八八)年~安政六(一八五九)年)の随筆。彼は豊後国臼杵(現在の大分県臼杵)に八坂神社神主鶴峯宜綱の子として生まれ、江戸で没した。著作は多く、中でも「語學新書」はオランダ語文法書に倣って当時の日本語の文法を編纂したもので、近代的国語文法書の嚆矢とされる(当該ウィキに拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『百家隨筆』第三(大正七(一九一八)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。「初篇二」の冒頭で、標題は『○多摩川狐』である。但し、原書では、この話に続けて、狐が人に化けて、人の妻となった怪奇談が「信濃奇談」からの引用で続いているので、見られたい。にしても、本篇、いかにしても救いようのない、狐の誤認による絶望的な哀しい話しで、どうも、他に類を見ないタイプの話である。

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「にんじんよりルビツク氏への書簡集 並にルビツク氏よりにんじんへの返事若干」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Syokannsyu

 

   にんじんよりルビツク氏への書簡集

      並にルビツク氏よりにんじんへの

      返事若干

 

 

 にんじんよりルピツク氏ヘ

 

             サン・マルク寮にて

親愛なる父上

休暇中の魚捕りが崇(たゝ)つて[やぶちゃん注:ママ。「祟」の誤植。]、目下氣分に動搖を來たしてゐます。腿(もゝ)に太い「釘」――つまり腫物ができたのです。僕は床に就いてゐます。仰向けに寢たきりで、看護婦の小母さんが罨法(あんぽう[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣では「あんぱう」が正しい。])をしてくれます。腫物は、潰(つぶ)れないうちは痛みますが、あとになると想ひ出しもしないくらゐです。たゞ、この腫物の「釘」は、ヒヨコのやうに殖えるんです。一つがなほると、また三つ飛び出すといふ具合です。何れにしても、大したことはないだらうと思ひます。

                    頓 首

 

 

 ルピツク氏よりの返事

 

 

親愛なるにんじん殿

其許は目前に初(はつ)の聖體拜受を控へ、しかも敎理問答にも通ひをることなれば、人類が「釘」に惱まされた事實は其許に始まらざること承知の筈だ。イエス・キリストは、足にも手にもこれを受けた。彼は苦情を云はなんだ。しかも、その「釘」たるや、本物の釘だつたのだ。[やぶちゃん注:「其許」「そこもと」。]

元氣を出すべし。            匇 々

 

 

 にんじんよりルピツク氏へ

 

親愛なる父上

僕は今日、齒が一本生へ[やぶちゃん注:ママ。]たことをお知らせできるのは愉快です。年から云へばまだですが、これはたしかに、早生の智惠齒です。希くば、一本でおしまひにならないことを。そして、希くば、僕の善行と勉强によつて、父上の御滿足を得んことを。

                    頓 首

 

 

 ルピツク氏の返事

 

親愛なるにんじん殿

丁度其許の齒が生えようとしつゝある時、余の齒は一本ぐらつきはじめた。そして、昨朝、遂に思い切つて拔け落ちた。かやうに、其許の齒が一本殖える每に、其許の父は一本づゝ齒を失ふ次第だ。それゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、すべてもともとにして、家族一同の齒は、その數に於いて變りなし。

                    匇 々

 

 

 にんじんよりルピツク氏へ

 

親愛なる父上

まあ聽いてください。昨日は、僕らのラテン語敎師、ジヤアク先生の聖名祭です。で、衆議一決、生徒たちは、クラス全體の祝意を表するために、僕を總代に選びました。僕は大いにこれを光榮とし、適宜にラテン語の引用を挾んで、長々と演說の準備をしました。正直なところ、滿足な出來榮です。僕は、そいつを大型の罫紙に淸書しました。愈々當日になり、同僚たちの「やれよ、やれよ」と囁く聲に勵まされ、ジヤアク先生がこつちを向いてゐない時を見計つて、僕は敎壇の前に進み出ました。が、やつと紙をひろげ、精一杯の聲で、

  尊き師の君よ

と讀み上げた瞬間、ジヤアク先生は、憤然として起ち上り、かう怒鳴りました――「早く席に着いて! なにぐずぐずしとる!」

しかたがありません。僕は逃げ出すと、そのまゝ腰をかけました。同僚たちは、本で顏をかくしてゐます。すると、ジヤアク先生は、凄い權幕で、僕にあてました――

「練習文を譯して!」

父上、以て如何んとなさいますか。

 

 

 ルビツク氏の返事

 

親愛なるにんじん殿

其許が他日代議士にでもなればわかることだ。その手の人物はいくらでもゐるよ。人各々その畑あり、先生が敎壇に立たるゝのは、これ明らかに演說をなさるがためであつて、其許の演說を聽かれるためではない。

 

   ――――――――――――

 

 にんじんよりルピツク氏へ

 

親愛なる父上

例の兎はたしかに地歷敎師ルグリ先生の處へお屆けして置きました。無論、この贈物は先生を悅ばせたやうです。厚くお禮を申してくれとのことでした。僕が丁度濡れた雨傘を持つて部屋へはいつて行つたもんですから、先生は自分でそいつを僕の手から奪ひ取るやうにして玄關に持つて行かれました。それから、僕たちは、いろんな話をしました。先生は、僕がその氣になれば、學年末には地歷の一等賞を獲得できるのだがと云はれました。しかし、こんなことがあるでせようか。僕は、この話の初めから終りまで、のべつ起ち通しです。ルグリ先生は、その點以外實にお愛想がいゝのですが、とうたう[やぶちゃん注:ママ。]僕に椅子一つ薦(すゝ)めずじまひです。

忘却か、將たまた、非禮か?[やぶちゃん注:「將たまた」「はたまた」。]

僕はそれを知りません。但し、出來れば、父上の御意見を伺ひたいものです。

 

 

ルピツク氏の返事

 

親愛なるにんじん殿

よく不平を言ふ男ぢや。ジヤアク先生が席に着けと云へば、それが不平、ルグリ先生が起つたまゝでゐさせれば、それがまた不平か。多分其許は、まだ一人前の扱ひを受けるには、年が若すぎるのだよ。それに、ルグリ先生が椅子を薦められなんだことは、まあまあ恕すべきだ。其許の丈(せい)が低いため、先生はきつと、もう腰かけてゐるものと勘違ひされたのだよ。[やぶちゃん注:「恕す」「じよす」。]

 

 

   ――――――――――――

 

 

 にんじんよりルビツク氏へ

 

親愛なる父上

 

近々巴里へお出かけの由、あゝ首府見物、僕も行きたいのですが、今度は心のみ父上のお伴をして、その愉しみを分つことにします。僕は學業の爲にこの旅行を斷念しなければならないことを知つてゐます。しかし、この機會を利用して、父上にお願ひがあるのです。本を一二册買つて來ていたゞけませんか。今持つてゐる本はみんな暗記してしまひました。どんな本でもかまひません。もとを洗へば、似たりよつたりです。とは云ひますが、僕、そのうちでも特別に、フランソア・マリ・アルウエ・ド・ヴオルテエルの「ラ・アンリヤアド」と、それから、ジヤン・ジヤツク・ルウソオの「ラ・ヌウヴエル・エロイイズ」とが欲しいんです。若し父上がそれを持つて來て下されば(本は巴里では幾らもしません)、斷じて、室長が取り上げるやうなことはありません。

 

 

 ルピツク氏の返事

 

親愛なるにんじん殿

御申出の文士は、其許や余等と何等異なるところなき人間だ。彼らが成したことは其許も成し得るわけだ。せいぜい本を書け。それを後で讀むがよからう。

 

  ――――――――――――

 

 ルピツク氏よりにんじんへ

 

親愛なるにんじん殿

今朝の手紙には驚き入つた。讀み返してみたが、やはり駄目だ。第一、文章も平生と違ひ、言ふことも珍妙不可解で、およそ其許の柄でも、また餘の柄でもないと思はれることばかりだ。普斷[やぶちゃん注:ママ。]は、細々(こまごま)とした用事を語り、席順がどうなつたとか、先生の特長又は缺點がどうとか、新しい級友の名前、下着類の狀態、さては、よく眠るとか、よく食ふとか、書いてあることはそんなことだ。

余に取つても、實にそれが興味のあることで、今日は全く何が何やらわからん。如何なる都合でか、目下、冬だといふのに、時まさに暮春云々とある。一體なんのつもりなんだ? 襟卷でも欲しいといふのか? 手紙に日附はなし、抑も余に宛てたのか、それとも犬に宛てたのか、てんでわからん。字體もまた變へてあるやうだし、行のくばりと云ひ、頭文字の數と云ひ、すべて意想外だ。要するに、其許は、誰かを馬鹿にしてゐるらしいが、察するところ、相手は其許自身に相違ない。余はこれが罪に値すると云ふのではないが、たゞ一應の注意をして置くのだ。[やぶちゃん注:「抑も」「そもそも」。]

 

 

 にんじんの返事

親愛なる父上

前回の手紙につき、急ぎ釋明のため一言します。父上、あの手紙が韻文になつてゐることをお氣づきにならなかつたのです。

 

[やぶちゃん注:原本はここから。底本の本章は「にんじん」と父ルピック氏との往復書簡集ということで、他の章と版組が微妙に異なる。書簡本文は文全体が一字下げとなっており、従って結果して全ページが一字下げとなる。電子化では、それは無視してある。結語の位置も総て、下から五字上げインデントであるが、ブラウザの不具合を考え、引き上げてある。なお、原本の版組みでは、そのような凝り方はされておらず、他の章と変わりはないように見える。但し、原本では、来信・往診の間に、中央に「――」がある。また、各書簡の間は一様に一行空けであるが、区別するために、二行空けとした。但し、ダッシュが入っている箇所では、前後一行とした。一部のダッシュの開始位置が異なるのはママである。

「釘」原作はこのやうなクォーテーション・マークも、言い直しも、ない。ここは原作ならば、普通に「釘」ではなく、「おでき」と前後の文脈から判読するところである(このことは以下の「人類が「釘」に惱まされた事實は・・・」の注で詳述した)。

「罨法(あんぽう)」原文は“cataplasmes”で、これは医学用語の貼布(ハツプ)・濕布、漢方で言うところの温・冷罨法、若しくは、それを用いた治療法を言う。この場合は、腫物の熱を除去することを主目的にしてゐるように思われるので、冷罨法・冷濕布であろう。なお、この「にんじん」の罹患した疾患は何であろう。急性で予後も惡くない感じはする。「魚捕り」との関連性からは実際に魚捕りで下肢に外傷を負つたことによる感染症といふ解釈も可能ではある。それは「釘」という表現から、この外傷とは、まさに『「釘」のように尖つたものを足に刺した』という意味ではないか? と当初は考えた。しかし、実は、この「にんじん」の言う“clous”という語には、「釘」という意味の他に、以下に記す症状で。古來、本邦で「ねぶと」とか、「かたね」とか言われた鼠径部の腫脹・腫瘍(これらの症状は性病の「軟性下疳」の一症状でもあり、あまり良い響きを持たないと私は理解している)、更に「獣医学」(!)では、“clous de rue”(“rue”は「通り・往来」の意)で、「家畜類」(!)が「尖つた釘」(!)などを、足裏に刺して起る炎症をも指すのである。以上から、「にんじん」の言う「腿(もゝ)」の「太い」『「釘」』というのは、腫物というよりも、鼠径リンパ節の腫脹を指しているのではないかと私は、まず、結論した。ちょっとした傷口から細菌感染が起こったことによる「鼠経部リンパ腺炎」である(悪化すると、「蜂窩織炎」或いは「丹毒」といつた慢性的で難治の病態へと進むが、後の「にんじん」には、そのやうな様子は見られないので良かった)。さらに勘ぐると、実際には軽い「急性リンパ腺腫脹」に過ぎなかったのだけれども、看護婦の行ったこの「罨法」のハップ貼付によって、二次的に「接触性皮膚炎」を起こしてしまったともとれるように思うのである。

「聖體拜受」原文は“première communion”で、文字通り、正式には「初聖体拝領」と言う。これは、カトリツク敎徒にとつて、生涯でも最も重要な儀式とされるもので、七~八歳になつて、初めて「聖餐式に出ること」を言う。キリストの血に見立てた赤ワインと、聖体に見立てたパン(実際には、ウエハースのようなメダルのような菓子様のものである)を神父から受ける。

「敎理問答」原文は“catéchisme”で、これはカトリックで問答体のカトリックの敎理の教授を指す。因みに、これは来信の「にんじん」の書簡にある「罨法」“cataplasmes”と綴りが近似してゐる。ルピック氏はそれを洒落たのではあるまいか? と私は睨んでいる。

『人類が「釘」に惱まされた事實は其許に始まらざること承知の筈(はず)だ。』原文は“tu dois savoir que l'espèce humaine ne t'a pas attendu pour avoir des clous.”で、ちょっとニュアンスが違うように感じられる。昭和四五(一九七〇)年明治図書刊の『明治図書中学生文庫』14の倉田清訳の「にんじん」では、岸田氏の訳を、ほぼ踏襲して、『人類が<くぎ>にうなされるのは何もお前に始まったことではないくらい、承知(しようち)のはずだ。』と訳すが、一九九五年臨川書店刊の佃裕文訳の『ジュール・ルナール全集』第三巻では、『おまえは知つておかなければならない、おまえにおでき(クルー)のできることなぞ人類は期待していなかつたとな。』で、原文に逐語的には極めて忠実な訳となっている。岸田氏と倉田氏の訳は分かり易く、ここから既に後半の洒落れた説教の雰囲気を漂わせているのだが、両氏の訳は、まさに優等生の訳文で、その結果として、ルピック氏の底意地の悪い「皮肉のベクトル」が、物言いから消去されてしまった感があり、「ルピック氏の思惑」とはちょっとズレが生じているように思う。しかし、佃氏の訳は、実は、往信の「にんじん」の手紙では、「釘」を用いずに『大きなおでき(クルー)が腿(もも)にできているのです。』とルビを振り、先に挙げた文に続けて、『イエス・キリストは両手両足に釘(クルー)を打たれていた。』と訳され、ルピック氏の美事なウイットを訳で示しておられる。この掛け合いの上手さに関しては、もう、佃氏の訳文の勝利である。

「聖名祭」これは「聖名祝日」のことで、「自分の洗礼名の守護聖人に割り当てられた日にする祝い」を指す。原文は普通に“la fête de M. Jâques”で、倉田氏の訳では、単に「誕生日」と訳されている。確かに、一般には、自分の誕生日に関わる聖人を洗礼名につけることが多いのだが、必ずしも、そうなるわけではない。但し、私には、この“la fête de M. Jâques”が誕生日でない聖名祝日であるかどうかは、表現上は判別出来ない。それは、そもそもは出来得るのであろうか? それとも、この「にんじん」の原作の叙述のどこかに、それが示されてゐるのであろうか? どなたか、御教授を乞うものである。因みに、ジュール・ルナールは一八六四年二月二十二日生まれで、この二十二日は、「聖ペトロの使徒座」に当たる。

「恕す」思いやりの心で許す。

「尊き師の君よ」私は「尊き」は岸田氏がどう訓じているかと関係なく、「たつとき」と訓ずるのを常としいる。「とうとき」は「貴き」である。原文では、ここは大文字で“VÉNÉRÉ MAITRE”とある。“VÉNÉRÉ”はラテン語由来で、「尊敬する・敬う」の意であり、“MAITRE”は「師事する先生」への敬称である。

「ヴオルテエル」ヴォルテール(Voltaire:これはペンネームで、本名はフランソワ=マリー・アルエである(François-Marie Arouet 一六九四年~一七七八年)は十八世紀の「フランス啓蒙主義」を(というよりも、当時のフランスそのものを、と言つてもよい)代表する思想家・作家である。終始、自由主義で、反ローマ・カトリツク、まさに反権力の象徵的作家であつた。代表的著作は「オイディプス王」・「カールⅫ世伝」・「哲学書簡」・「ザディッグ」・「カンディド」等、戯曲・歴史書・哲学的考察・小説と多岐に亙る。因みに、彼のこのVoltaireといふペンネームは“volontaire”(ヴォロンティエール:「自由意志の・わがままな」の意)といふ「我儘者」といふ小さな頃の渾名であるとも言う。

「アンリヤアド」原文は“la Henriade”で「ラ・アンリヤッド」。ヴォルテールの書いた長編叙事詩の名。

「ジヤン・ジヤツク・ルウソオ」フランスの哲学者・思想家・作家であったジャン=ジャツク・ルソー(Jean-Jacques Rousseau  一七一二年~一七七八年)。「フランス革命」の精神的支柱とされる。代表的著作は「人間間の不平等の起源と基盤についての言説」(一般に「人間不平等論」と呼ばれるものである)・「社会契約について」(「社会契約論」)・「エミールまたは教育について」・「告白」・「孤独な散歩者の夢想」等である。「告白」等によって、実生活では、性的な倒錯者の一面を持っていたことも良く知られている。

「ラ・ヌウヴエル・エロイイズ」原文は“la Nouvelle Héloïse であるが、正しくは“ Julie ou la nouvelle Héloïse「ジュリ又は新エロイーズ」。ルソーの一七六一年作の書簡体小説。貴族の令嬢ジュリと家庭教師サン・プルーとの愛と貞節を描く。これは実在した中世のっ進学者サン・ドニ修道院長ピエール・アベラール(一〇七九年~一一四二年)と、その弟子にして妻であつたパラクレー女子修道院長エロイーズ(一一〇一年~一一六四年)のラテン語の往復書簡集が元である。所持する岩波文庫の解説に拠れば、『ルソーのロマンティシズムと革命的社会観とを、その優麗な描寫の中にあますところなく語』つているとある。

 以下の原本には、大文字の箇所やポイント違い、斜体部、幾つかの書簡を区切るダッシュがある。今回は原本に従い、それを再現しておく(但し、字空けが不審な箇所は前に徴して従わなかった箇所もある)。]

 

 

 

     lETTRES CHOISIES

   de Poil de Carotte à M. Lepic

      ET QUELQUES RÉPONSES

   de M. Lepic à Poil de Carotte

       ――――

    De Poil de Carotte à M. Lepic

          Institution Saint-Marc.

 

    Mon cher papa,

   Mes parties de pêche des vacances m’ont mis l’humeur en mouvement. De gros clous me sortent des cuisses. Je suis au lit. Je reste couché sur le dos et madame l’infirmière me pose des cataplasmes. Tant que le clou n’a pas percé, il me fait mal. Après je n’y pense plus. Mais ils se multiplient comme des petits poulets. Pour un de guéri, trois reviennent. J’espère d’ailleurs que ce ne sera rien.

               Ton fils affectionné.

 

    Réponse de M. Lepic

   Mon cher Poil de Carotte,

   Puisque tu prépares ta première communion et que tu vas au catéchisme, tu dois savoir que l’espèce humaine ne t’a pas attendu pour avoir des clous. Jésus-Christ en avait aux pieds et aux mains. Il ne se plaignait pas et pourtant les siens étaient vrais.

   Du courage !

               Ton père qui t’aime.

       ――――

    De Poil de Carotte à M. Lepic

     Mon cher papa,

   Je t’annonce avec plaisir qu’il vient de me pousser une dent. Bien que je n’aie pas l’âge, je crois que c’est une dent de sagesse précoce. J’ose espérer qu’elle ne sera point la seule et que je te satisferai toujours par ma bonne conduite et mon application.

               Ton fils affectionné.

 

    Réponse de M. Lepic

   Mon cher Poil de Carotte,

   Juste comme ta dent poussait, une des miennes se mettait à branler. Elle s’est décidée à tomber hier matin. De telle sorte que si tu possèdes une dent de plus, ton père en possède une de moins. C’est pourquoi il n’y a rien de changé et le nombre des dents de la famille reste le même.

               Ton père qui t’aime.

       ――――

    De Poil de Carotte à M. Lepic

  Mon cher papa,

   Imagine-toi que c’était hier la fête de M. Jâques, notre professeur de latin, et que, d’un commun accord, les élèves m’avaient élu pour lui présenter les voeux de toute la classe. Flatté de cet honneur, je prépare longuement le discours où j’intercale à propos quelques citations latines. Sans fausse modestie, j’en suis satisfait. Je le recopie au propre sur une grande feuille de papier ministre, et, le jour venu, excité par mes camarades qui murmuraient : – « Vas-y, vas-y donc ! » – je profite d’un moment où M. Jâques ne nous regarde pas et je m’avance vers sa chaire. Mais à peine ai-je déroulé ma feuille et articulé d’une voix forte :

     VÉNÉRÉ MAÎTRE

que M. Jâques se lève furieux et s’écrie :

   Voulez-vous filer à votre place plus vite que ça !

   Tu penses si je me sauve et cours m’asseoir, tandis que mes amis se cachent derrière leurs livres et que M. Jâques m’ordonne avec colère :

   Traduisez la version.

   Mon cher papa, qu’en dis-tu ?

 

    Réponse de M. Lepic

  Mon cher Poil de Carotte,

   Quand tu seras député, tu en verras bien d’autres. Chacun son rôle. Si on a mis ton professeur dans une chaire, c’est apparemment pour qu’il prononce des discours et non pour qu’il écoute les tiens.

       ――――

    De Poil de Carotte à M. Lepic

   Mon cher papa,

   Je viens de remettre ton lièvre à M. Legris, notre professeur d’histoire et de géographie. Certes, il me parut que ce cadeau lui faisait plaisir. Il te remercie vivement. Comme j’étais entré avec mon parapluie mouillé, il me l’ôta lui-même des mains pour le reporter au vestibule. Puis nous causâmes de choses et d’autres. Il me dit que je devais enlever, si je voulais, le premier prix d’histoire et de géographie à la fin de l’année. Mais croirais-tu que je restai sur mes jambes tout le temps que dura notre entretien, et que M. Legris, qui, à part cela, fut très aimable, je le répète, ne me désigna même pas un siège ?

   Est-ce oubli ou impolitesse ?

   Je l’ignore et serais curieux, mon cher papa, de savoir ton avis.

 

    Réponse de M. Lepic

  Mon cher Poil de Carotte,

   Tu réclames toujours. Tu réclames parce que M. Jâques t’envoie t’asseoir, et tu réclames parce que M. Legris te laisse debout. Tu es peut-être encore trop jeune pour exiger des égards. Et si M. Legris ne t’a pas offert une chaise, excuse-le : c’est sans doute que, trompé par ta petite taille, il te croyait assis.

       ――――

    De Poil de Carotte à M. Lepic

  Mon cher papa,

   J’apprends que tu dois aller à Paris. Je partage la joie que tu auras en visitant la capitale que je voudrais connaître et où je serai de coeur avec toi. Je conçois que mes travaux scolaires m’interdisent ce voyage, mais je profite de l’occasion pour te demander si tu ne pourrais pas m’acheter un ou deux livres. Je sais les miens par coeur. Choisis n’importe lesquels. Au fond, ils se valent. Toutefois je désire spécialement la Henriade, par François-Marie-Arouet de Voltaire, et la Nouvelle Héloïse, par Jean-Jacques Rousseau. Si tu me les rapportes (les livres ne coûtent rien à Paris), je te jure que le maître d’étude ne me les confisquera jamais.

 

    Réponse de M. Lepic

  Mon cher Poil de Carotte,

   Les écrivains dont tu me parles étaient des hommes comme toi et moi. Ce qu’ils ont fait, tu peux le faire. Écris des livres, tu les liras ensuite.

       ――――

    De M. Lepic à Poil de Carotte

  Mon cher Poil de Carotte,

Ta lettre de ce matin m’étonne fort. Je la relis vainement. Ce n’est plus ton style ordinaire et tu y parles de choses bizarres qui ne me semblent ni de ta compétence ni de la mienne.

   D’habitude, tu nous racontes tes petites affaires, tu nous écris les places que tu obtiens, les qualités et les défauts que tu trouves à chaque professeur, les noms de tes nouveaux camarades, l’état de ton linge, si tu dors et si tu manges bien.

   Voilà ce qui m’intéresse. Aujourd’hui, je ne comprends plus. À propos de quoi, s’il te plaît, cette sortie sur le printemps quand nous sommes en hiver ? Que veux-tu dire ? As-tu besoin d’un cache-nez ? Ta lettre n’est pas datée et on ne sait si tu l’adresses à moi ou au chien. La forme même de ton écriture me paraît modifiée, et la disposition des lignes, la quantité de majuscules me déconcertent. Bref, tu as l’air de te moquer de quelqu’un. Je suppose que c’est de toi, et je tiens à t’en faire non un crime, mais l’observation.

 

    Réponse de Poil de Carotte.

  Mon cher papa,

   Un mot à la hâte pour t’expliquer ma dernière lettre. Tu ne t’es pas aperçu qu’elle était en vers.

       ――――

 

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「ブルタスの如く」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Burutasunogotoku

 

     ブルタスの如く

 

 

ルピツク氏――おい、にんじん、お前は前學年には、わしの望みどおり勉强しなかつた。通信簿に、もつとやれば出來る筈だと書いてある。お前はほかのことばかり考へてゐる。禁ぜられた書物を讀む。暗記力はなかなかあると見えて、試驗の點は相當よろしい。たゞ宿題を怠けるんだ。おい、にんじん、眞面目にやらうといふ氣になれ。

にんじん――大丈夫だよ、父さん。まつたく、前學年は少し好い加減にやつたところがあるよ。今度は、精一杯頑張らうつて氣が起つてるんだ。但し、全科目、級で一番つていふのは受合へないよ。

ルピツク氏――ともかく、そのつもりになつてみろ。

にんじん――いゝや、父さん、僕に望むところが大きすぎるよ。僕あ、地理や、獨逸語や、物理化學は駄目なんだ。とても出來る奴が二三人ゐるのさ。ほかのことゝきたら零(ゼロ)なくせに、そればつかりやつてるんだもの。こいつらを追ひ越すなんて不可能だよ。だけど、僕、ねえ、父さん、僕、佛蘭西語の作文でなら、近いふち、斷然牛耳つて見せるよ。そして、そいつを續けてみせるよ。それが、もし、僕の努力にもかかわらず不成功に終わつたら、少なくとも僕はみずから悔(く)ゆるところなしだ。僕は、かのブルタスのごとく誇らかに叫ぶことができる――「おお美德よ、汝(なんじ)はただ一つの名に過ぎず!」

ルピツク氏――うむ、さうだ。わしは、お前がやつらに負けないことを信じてゐる。

フエリツクス――父さんは、なんていつたい?

エルネスチイヌ――あたし、聞いてなかつたわ。

ルピツク夫人――母さんも聞いてなかつた。どら、もう一度云つてごらん、にんじん。

にんじん――うん、なんでもないよ。

ルピツク夫人――へえ? なんにも云はなかつたのかい? でも、あんなに、赤い顏をして、拳を振り上げ、えらい勢ひでぺらぺら喋つてたぢやないか? あの聲と來たら村の端まで屆くほどだつた。その文句をもう一遍云つてごらん、みんなが聽いとくと爲めになるからさ。

にんじん――それにや及ばないよ、母さん。

ルピツク夫人――いゝからさ。誰の話なの? なんていふ名前の人だつけ?

にんじん――母さんの知らない人だよ。

ルピツク夫人――なほのことぢやないか。さ、お願ひだから、戲談はやめて、母さんの云ふことをお聽き。

にんじん――そんなら云ふけど、僕たち、今、二人で話をしてたの。父さんが僕に友だちとしての忠告をしてくれたもんで、そのお禮を云ふつもりで、ふと、ある考へが浮かんだのさ。つまり、ブルタスつていふ羅馬人のうあうに、誓ひを立てる・・・つまり美德のなんたるかを・・・。

ルピツク夫人――つまりつまり、なんだい、それや・・・。しどろもどろぢやないか。それより、さつき云つた文句を、一字一句變へずに、おんなじ調子で云つてごらん。母さんは、別にペルウの國を寄越せつて云つてるわけぢやないだらう。だから、それくらゐ、母さんのためにしてくれたつていゝぢやないか。

フエリツクス――僕が云つてみようか、母さん。

ルピツク夫人――いゝえ、にんじんが先づ云つてから、その次ぎ、お前がお云ひ。兩方較べてみるから・・・さ、にんじん、早くさ。

にんじん――(うるみ聲で、呟くやうに)おゝ、び、び、びとくよ・・・なん・・・なんぢは…‥たゞ、ひとつの・・・な、なにすぎず・・・。

ルピツク夫人――なんともしやうがない。ひと筋繩ぢや動かないや、この大將は・・・。母親の氣に入ることをするくらゐなら、叩きのめされたほうがましだと思つてるんだ。

フエリツクス――どら、母さん、奴はかう云つたんだよ――(彼は眼玉をぎよろりとさせ、挑むやうな視線を投げて)若しも僕が佛蘭西語の作文で一番にならなかつたら・・・(頰を膨らませ、足を踏み鳴し)僕は、かのブルタスの如く叫ぶだらう・・・(兩腕を高く擧げ)おゝ、美德よ・・・(その腕を膝の上にどさりと落し)汝はたゞ一つの名に過ぎず! かう云つたんだよ。[やぶちゃん注:ここのみ、ト書き部分が有意にポイント落ちになっている。ブログでは、読み難くなるので、敢えて太字とした。]

ルピツク夫人――ひやひや。大出來だ。にんじん、ぢやまあ、お目出たう。それにしても、眞似は實物だけの値打はないんだから、それだけに、お前が片意地なことは、母さん、殘念だよ。

フエリツクス――だけど、にんじん、そいつを云つたのは、ほんとにブルタスだつたかい? ケエトオぢやなかつたかい?

にんじん――たしかにブルタスだ。「かくて彼は、友の一人が差し伸べし劍(つるぎ)に、われとわが身を貫いて死せり」

エルネスチイヌ――にんじんの云ふ通りだわ。そして、ブルタスは、黃金を杖に忍ばせて、氣違ひの眞似をしたのね。

にんじん――違ふよ、姉さん、そんなことを云ふと頭がこんぐらかるぢやないか。僕の云ふブルタスと姉さんのとは別物だよ。

エルネスチヌ――さうか知ら・・・。それにしてもさ、ソフイイ先生が筆記させる歷史のお講義は、あんたの學校の先生と、値打から云つて違はないわよ。

ルピツク夫人――そりや、どうでもいゝ。喧嘩はおよし。肝腎なことは、家族の一人に、ブルタスがゐるつてこつた。家(うち)には現にゐるんだ。にんじんのお蔭で、あたしたちは肩身が廣いわけだ。それに、だあれも、自分たちの名譽を知らずにゐたんだ。新しいブルタスを崇めようぢやないか。このブルタスは拉典語を司敎さんのやうに喋る。そのくせ、聾者(つんぼ)がゐても彌撒を二度繰り返してくれない。ぐるつとまわらしてごらん。正面から見ると、今日おろしたばかりの上着にもう汚點(しみ)をくつつけ、後ろから見ると、ズボンが破けてる。おゝ神樣、何處へまたもぐり込んだんだらう。戲談ぢやない、まあ、見てやつておくれ、あのブルタスにんじんの顏附をさ。しやうがないブルドツクだよ、ほんとに![やぶちゃん注:「拉典語」「ラテンご」。]

 

[やぶちゃん注:原本はここから。

「おゝ美德よ、汝はたゞ一つの名に過ぎず!」:シーザーを暗殺したガイウス・カシウスやマルクス・ユニウス・ブルータス(Marcus Junius Brutus 紀元前八五年~紀元前四二年)ら共和派は、第二回三頭政治を立ち上げたマルクス・アントニウス及びオクタビアヌスらと対立し、マケドニアのフイリッピで戦闘となつたが(紀元前四二年十月)、後者が勝利を治め、カシウス及びブルータスの自決で幕を閉じた。一九九五年臨川書店刊の佃裕文訳の『ジュール・ルナール全集』第三巻では、ここに注を附して、ブルータスは敗北の報を受けて『エウリピデスの言葉を口にしたが、これがここの有名な言葉とされた。彼はこの後、自らの剣に身を投げて死んだ。ルナールは彼を愛した。』と記す。エウリピデス(Euripides 紀元前四八〇年頃~紀元前四〇六年頃)は、古代アテナイの三大悲劇詩人の一人。

「フエリツクス――父さんは、なんて云つたい?」戦後版もこのままだが、ここは誤訳であろう。若しくは、岸田氏は、ここに時間的なインターバルを考えたのかも知れないが、その必要は本作「にんじん」の世界にあって、そうした時制的操作を考える余地はないと断言出来る。これは、「にんじんは何て言つたの、パパ?」である。これ以降、ルピック氏は、以下の「にんじん」への侮蔑に満ちた家族の会話を完全に無視している(しかし、そこに居るのである)と読むべきである。

「ペルウの國を寄越せ」昭和四五(一九七〇)年明治図書刊の『明治図書中学生文庫』14倉田清訳の「にんじん」の「ペルーの国」の注によると、『ペルーは昔、金鉱や銀鉱が豊かだつたので、ペルーということばは、巨万の富みという意味に使われ、ペルーを望むといふのは、不可能なことを望むといふ意味になる。』と記す。出来ないことをやれ、という意味である。

「ケエトオ」小カトー、こと、共和政ローマ末期の政治家マルクス・ポルキウス・カトー・ウテイケンシス(Marcus Porcius Cato Uticensis 紀元前九六年~紀元前四六年)。大カトー(マルクス・ポルキウス・カトー・ケンソリウス Marcus Porcius Cato Censorius 紀元前二三四年~紀元前一四九年:古代ローマの政治家。執政官。学者としても優れていた)の曾孫。元老院派にして、三頭政治成立後も、終始、シーザーと反目した。シーザーの実権奪取後、逃亡先のウテイカの地で虜囚の辱めを受けることを肯んぜず、割腹して内臓を摑み出して自死した。なお、ブルータスは、この小カトーの娘であるポルキアを妻とした。

「黃金を杖に忍ばせて、氣違ひの眞似をしたのね」一九九五年臨川書店刊の佃裕文訳の『ジュール・ルナール全集』第三巻は、ここに注を附して、以下のようにエルネスチヌの誤りを説明しておられる。即ち、彼女は『ルーキウス・ユーニウス・ブルートゥス(前六世紀-前五〇九?)のことと勘違いしている。こちらはローマの半伝説的英雄で、タルキニウス王にたいして民衆を蜂起せしめ、王から迫害されてゐるのを知ると狂気(ブルートゥスbrutus=馬鹿)をよそおい、デルフォイ神殿におもむき、粗末ではあるが黄金のつまった杖をアポロンにささげた』とある。但し、この没年(紀元前五〇九年)は彼がタルキニウス王を追放して共和制をひいた年ともされている。

「ソフイイ先生」これは、調べたところ、姉のエルネスチヌが歴史を習つている地元の学校の歷史の先生の名前ということである。リセに通う二人に対する、知性的な面でのほのかな敵愾心が垣間見える。

「戲談ぢやない、まあ、見てやつておくれ、あのブルタスにんじんの顏附をさ。しやうがないブルドツクだよ、ほんとに!」このエンデイングは岸田氏のオリジナルな洒落で意訳してある。原文は、“Non,mais regardez-moi la touche de Poil de Carotte Brutus ! Espèce de petite brute, va !”で、「理性のないけだもの・人でなし」という意味の“brute”(ブルート:“brut”の男性形)を“Brutus”に懸けてゐる(というか、実は先の注で分かるように、これは同語源である)。ちなみに“Espèce”自体が、俗語で、「あんな馬鹿者」の意味である。「あきれたもんだ、『にんじんブルートゥス』の格好を見ておやりよ! 『チビころのブルート(あほんだら)』さ、全く、もう!」といつた感じである。

 以下、原本では、「にんじん」が吃って繰り返す台詞のパートが、特異な字配や、台詞の一部が斜体となっており、その後にある兄フェリックスの台詞内にも、一部、斜体が使用されているので、それに従った。]

 

 

 

 

    Comme Brutus

 

     MONSIEUR LEPIC

   Poil de Carotte, tu n’as pas travaillé l’année dernière comme j’espérais. Tes bulletins disent que tu pourrais beaucoup mieux faire. Tu rêvasses, tu lis des livres défendus. Doué d’une excellente mémoire, tu obtiens d’assez bonnes notes de leçons, et tu négliges tes devoirs. Poil de Carotte, il faut songer à devenir sérieux.

     POIL DE CAROTTE

   Compte sur moi, papa. Je t’accorde que je me suis un peu laissé aller l’année dernière. Cette fois, je me sens la bonne volonté de bûcher ferme. Je ne te promets pas d’être le premier de ma classe en tout.

     MONSIEUR LEPIC

   Essaie quand même.

     POIL DE CAROTTE

   Non papa, tu m’en demandes trop. Je ne réussirai ni en géographie, ni en allemand, ni en physique et chimie, où les plus forts sont deux ou trois types nuls pour le reste et qui ne font que ça. Impossible de les dégoter ; mais je veux, – écoute, mon papa, je veux, en composition française, bientôt tenir la corde et la garder, et si malgré mes efforts elle m’échappe, du moins je n’aurai rien à me reprocher, et je pourrai m’écrier fièrement comme Brutus : Ô vertu ! tu n’es qu’un nom.

     MONSIEUR LEPIC

   Ah ! mon garçon, je crois que tu les manieras.

     GRAND FRÈRE FÉLIX

   Qu’est-ce qu’il dit, papa ?

     SOEUR ERNESTINE

   Moi, je n’ai pas entendu.

     MADAME LEPIC

   Moi non plus. Répète voir, Poil de Carotte ?

     POIL DE CAROTTE

   Oh ! rien, maman.

     MADAME LEPIC

   Comment ? Tu ne disais rien, et tu pérorais si fort, rouge et le poing menaçant le ciel, que ta voix portait jusqu’au bout du village ! Répète cette phrase, afin que tout le monde en profite.

     POIL DE CAROTTE

   Ce n’est pas la peine, va, maman.

     MADAME LEPIC

   Si, si, tu parlais de quelqu’un ; de qui parlais-tu ?

     POIL DE CAROTTE

   Tu ne le connais pas, maman.

     MADAME LEPIC

   Raison de plus. D’abord ménage ton esprit, s’il te plaît, et obéis.

     POIL DE CAROTTE

   Eh bien : maman, nous causions avec mon papa qui me donnait des conseils d’ami, et par hasard, je ne sais quelle idée m’est venue, pour le remercier, de prendre l’engagement, comme ce Romain qu’on appelait Brutus, d’invoquer la vertu…

     MADAME LEPIC

   Turlututu, tu barbotes. Je te prie de répéter, sans y changer un mot, et sur le même ton, ta phrase de tout à l’heure. Il me semble que je ne te demande pas le Pérou et que tu peux bien faire ça pour ta mère.

     GRAND FRÈRE FÉLIX

   Veux-tu que je répète, moi, maman ?

     MADAME LEPIC

   Non, lui le premier, toi ensuite, et nous comparerons. Allez, Poil de Carotte, dépêchez.

     POIL DE CAROTTE.   Il balbutie, d’une

      voix pleurarde.

    Ve-ertu tu-u n’es qu’un-un nom.

     MADAME LEPIC

   Je désespère. On ne peut rien tirer de ce gamin. Il se laisserait rouer de coups, plutôt que d’être agréable à sa mère.

     GRAND FRÈRE FÉLIX

   Tiens, maman, voilà comme il a dit : Il roule les yeux et lance des regards de défi. Si je ne suis pas premier en composition française. Il gonfle ses joues et frappe du pied. Je m’écrierai comme Brutus : Il lève les bras au plafond. Ô vertu ! Il les laisse retomber sur ses cuisses, tu n’es qu’un nom ! Voilà comme il a dit.

     MADAME LEPIC

   Bravo, superbe ! Je te félicite, Poil de Carotte, et je déplore d’autant plus ton entêtement qu’une imitation ne vaut jamais l’original.

     GRAND FRÈRE FÉLIX

   Mais, Poil de Carotte, est-ce bien Brutus qui a dit ça ? Ne serait-ce pas Caton ?

     POIL DE CAROTTE

   Je suis sûr de Brutus. « Puis il se jeta sur une épée que lui tendit un de ses amis et mourut. »

     SOEUR ERNESTINE

   Poil de Carotte a raison. Je me rappelle même que Brutus simulait la folie avec de l’or dans une canne.

     POIL DE CAROTTE

   Pardon, soeur, tu t’embrouilles. Tu confonds mon Brutus avec un autre.

     SOEUR ERNESTINE

   Je croyais. Pourtant je te garantis que mademoiselle Sophie nous dicte un cours d’histoire qui vaut bien celui de ton professeur au lycée.

     MADAME LEPIC

   Peu importe. Ne vous disputez pas. L’essentiel est d’avoir un Brutus dans sa famille, et nous l’avons. Que grâce à Poil de Carotte, on nous envie ! Nous ne connaissions point notre honneur. Admirez le nouveau Brutus. Il parle latin comme un évêque et refuse de dire deux fois la messe pour les sourds. Tournez-le : vu de face, il montre les taches d’une veste qu’il étrenne aujourd’hui, et vu de dos son pantalon déchiré. Seigneur, où s’est-il encore fourré ? Non, mais regardez-moi la touche de Poil de Carotte Brutus ! Espèce de petite brute, va !

 

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「虱」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Sirami

 

     

 

 

 兄貴のフエリツクスとにんじんとが、サン・マルク寮から歸つて來ると、ルピツク夫人は二人に足の行水をさせるのである。三月も前からその必要があるのに、寮では足を洗わないからである。もとより、規則書のどの箇條にもその場合はうたつてない。

 「お前のときたらさぞ黑いこつたらう、にんじん」

 ルピツク夫人は云ふのである。

 彼女の云つた通りだ。にんじんのは、兄貴のより、何時も黑いのだ。どうしてだらう。二人は、すぐ側で、同じ制度のもとで、同じ空氣の中で暮らして來たのだ。なるほど、三月の後には、兄貴のフエリツクスも、白い足を出してみせることはできない。が、にんじんは、自分でも告白する通り、誰の足だかわからなくなつてゐるのである。

 恥ずかしいので、彼は、手品師の藝當よろしく、足を水の中へ突つ込む。何時の間に靴を脫いだか、彼は、兄貴のフエリツクスがもうバケツの底へ沈めてゐるその足の間へ、いきなり自分の足を割り込ませる。それまで誰も氣がつかない。するとやがて、垢の層が布ぎれのやうに擴がつて、この四つの化物を包むのだ。

 ルピツク氏は、何時もの癖で、窓から窓を往つたり來たりしてゐる。彼は、息子たちの通信簿、殊に、校長先生自筆の注意書を讀み返してみる。兄貴のフエリツクスについては――

 「不注意、然れども怜例(れいり)。及第の見込」

 それから、にんじんについては――

 「其氣になれば優秀なる成績を示す。但し、常にその氣にならず」

 にんじんが、これで偶には成績がいゝのかと思ふと、家族のものは、誰でも可笑しくなるのである。さういふ今、彼は膝の上で兩腕を組み合わせ、足を水の中で存分に膨らましてゐる。彼はみんなから試驗をされてゐる氣だ。赤黑く伸び過ぎた髮の毛の下で、彼は寧ろ見つともなくなつてゐた。ルピツク氏は、眞情流露を逆に行く人物だから、久々で彼の顏を見た悅びを、揶揄の形でしか表はさない。向うへ往きがけに彼の耳を彈(はぢ)く。こつちへ來がけには、肱で小突く。すると、にんじんは、待つてましたと笑ひこけるのである。[やぶちゃん注:「偶には」「たまには」。]

 それから更に、ルピツク氏は、彼のもぢやもぢやの頭髮(あたま)へ手を通し、そして、虱でも潰すやうに爪をぱちんと鳴らす。これが、先生得意の戲談である。

 ところが、狙ひ過たず、最初に、一匹、殺(や)つたのである。[やぶちゃん注:「過たず」「あやまたず」。]

 「やあ、うまいもんだ。仕止めたぞ」

と、彼はいふ。さて、幾分げんなりして、そいつをにんじんの髮の毛へなすりつける。するとルピツク夫人は、兩腕を空に向けて差し伸べ、さも精がなさゝうに――[やぶちゃん注:「さも精がなさゝうに」「いかにもやる気力が失せているように」。]

 「そんなこつたろうと思つた。やれやれ、とんだ御馳走だ。エルネスチイヌ、急いで金盥を持つといで。そら、お前の用事ができた」[やぶちゃん注:「金盥」「かなだらひ」。]

 姉のエルネスチイヌは、金盥を持つて來る。それから、目の細かい櫛と、皿いつぱいの酢と・・・。虱退治が始まるのである。

 「僕のを先へやつてくれ」と、兄貴のフエリツクスが叫ぶ――「僕にも寄越しやがつたに違ひない」

 彼は、我武者羅に指で頭を搔きむしる。そして、頭ごと突つ込むんだから、バケツに一杯水を持つて來いと云ふ。

 「靜かにおしよ」と、姉は云ふ。心盡しを見せることが好きなのだ――「痛くしやしないわ」

 彼女は、彼の首のまわりへタオルを捲きつけ、母親の手際と丹念さとを示す。一方の手で髮の毛を押し分け、もう一方の手で輕く櫛を取り上げる。彼女は、搜す。口を曲げて馬鹿にする風もなく、獲物がひつかゝつてもびくともしない。

 彼女が、「また一匹ゐた」と云ふ每に、兄貴のフエリツクスはバケツの中で足をぢたばたさせながら、にんじんを拳固で威かす。一方は靜かに自分の番を待つてゐる。

 「あんたの方は濟んだ、フエリツクス」と、姉のエルネスチイヌは云ふ――「七つか八つきりゐなかつたわ。勘定してごらん。にんじんのは幾つゐるか、さあ」

 最初の一と櫛で、にんじんは、それ以上の得點だ。姉のエルネステイヌは、これこそ巢にぶつかつたやうなものだと思つた。それもその筈、蟻塚の中を手當り次第に搔き寄せるのと違ひはない。

 一同がにんじんを取り圍む。姉のエルネスチイヌは腕に撚(よ)りをかける。ルピツク氏は、兩手を背中に組んで、物好きな他人みたいに、仕事の運びを見物してゐる。ルピツク夫人は、情ない聲で嘆息の叫びを發する――

 「これは、これは・・・。鋤と熊手を持つて來なけりや・・・」

 兄貴のフエリツクスは、蹲まつて、金盥をゆすぶり、獲物を受け取つてゐる。彼等は、雲脂(ふけ)に混つて落ちて來る。剪(き)つた捷毛のやうに細かな脚が、ぴくぴく動くのが見分けられる。彼等は金盥の奧の搖れるのに從ひい、そして、酢のために、瞬く間に死んでしまふ。

 

ルピツク夫人――にんじん! お前はどういふ量見でゐるんだか、あたしたちにやもうわからないよ。その年になつて、大きな男の子が、それで恥かしくはないかい? 足のことはまあ云はないさ、此處で初めて見るんだらうから・・・。だが虱が食つてるのにさ、それを先生にいつて取締つても貰はず、家のものに始末をしてくれとも云はず・・・。どうしたつて云ふんだい、一體・・・。どんなに好い氣持ちなのさ、生きたまゝ嚙られるつていふのは・・・。髮の毛ん中が、血だらけぢやないか。

にんじん――櫛でかきむしつたんだよ。

ルピツク夫人――どうだらう、櫛だとさ。それが姉さんへのお禮のしかたかい?――聞いたらうね、エルネスチイヌ? 旦那は、氣むずかしくつていらつしやるから[やぶちゃん注:行末。戦後版では読点がある。]床屋の姐さんに苦情をおつしやるよ。わるいことはいわない、好きで食われてるんだから、さつさと蟲の餌(えさ)にしておやり。[やぶちゃん注:「姐さん」戦後版は「姐」に『ねえ』とルビする。私は百%、「あねさん」と訓じる人種である。]

エルネスチイヌ――今日は、もうこれでおしまひよ、母さん。大きいのだけ落としといたわ。明日もう一(ひ)と撫でしてみるの。オードコロオニユを振りかけるつてやり方があるのよ。[やぶちゃん注:「オードコロオニユ」原文“eau de Cologne”(音写「イオゥ・ドゥ・コロゥーニユ」)。ドイツのケルン地方で生まれたこの香水は「ケルニッシュ・ワッサー」(「ケルンの水」)と呼ばれた。それがフランスに入り、発音が「オー(水)デ(の)コローニュ(ケルン)」と呼ばれ、「オー・デ・コロン」(Eau de Cologne)となったものである。]

ルピツク夫人――さあ、にんじん、お前は、金盥を持つてつて、裏庭の土塀の上へ出してお置き。村中のものがぞろぞろ見て通れば、お前だつてちつたあ恥かしいだらう。

 

 にんじんは金盥を取り上げ、出て行く。そして、そいつを太陽の下に晒して、その側で見張りをしてゐる。

 最初に近寄つて來たのが、マリイ・ナネツト婆さんである。彼女はにんじんの顏さへ見れば、立ち止つて、近視の、小さな狡そうな眼で彼をぢろぢろ見るのである。そして、黑い頭巾を動かしながら、何事かを搜し當てようとする。[やぶちゃん注:「狡さうな」「ずるさうな」。]

 「なんだね、そいつは・・・」

 にんじんは返事をしない。彼女は金盥をのぞき込む。

 「小豆(あづき)かね。あいた、もう眼がはつきり見えないよ。息子のピエエルが眼鏡を買つてくれるといゝんだけど・・・」[やぶちゃん注:「あいた」については、戦後版で私は好意的に、『目が不自由なことを心底残念がつてゐることを示すための感動詞「あ痛、」であろうか?』等と注したのだが、原文を見るに、そうではなく、“Ma foi, je n’y vois plus clair.”で、「勿論、確かにさ、私は眼が、もう、よく見えないんだよ。」の意である。倉田氏の訳は『あたしゃ、もう目がはっきり見えないよ。』、佃氏の当該部も、『まったく、よく見えねえだよ、わしには。』である。実は、この「あいた」は単に、「私」を意味する「あたい」の誤植ではなかろうか? にしても、戦後版でも同じというのは、頗る不審なのではあるが……。

 

 彼女は指でさわつてみる。口へ入れさうな手つきだ。なんとしても、わからないらしい。

 「そいで、お前さんはそこでなにしてるんだい。膨れつ面をして、眼をぼうつとさせて・・・? ははあ、怒られたな。罰にさうしてろつてわけか。いゝかい、わしや、お前さんのお祖母(ばあ)ぢやないが、それでも、考へることだけや、考へてるよ。わしや、不便でならん。家のもんがみんなで、いぢめるんだらう」

 にんじんは、ちらりと眼を外らす。そして母親が聞いてゐないことを確める。すると、彼はマリイ・ナネツト婆さんに云ふのである――

 「だからどうしたんだい? そんなこと、婆さんには關係ないだらう。自分のことだけ心配するがいゝや。僕のことは、ほうつといてくれ」

 

[やぶちゃん注:原本はここから。

「虱」ヒト吸血性の昆虫綱咀顎目シラミ亜目シラミ下目シラミ小目ヒトジラミ科ヒトジラミ属亜種アタマジラミ Pediculus humanus humanus 。]

 

 

 

 

    Les Poux

 

   Dès que grand frère Félix et Poil de Carotte arrivent de l’institution Saint-Marc, madame Lepic leur fait prendre un bain de pieds. Ils en ont besoin depuis trois mois, car jamais on ne les lave à la pension. D’ailleurs, aucun article du prospectus ne prévoit le cas.

   Comme les tiens doivent être noirs, mon pauvre Poil de Carotte ! dit madame Lepic.

   Elle devine juste. Ceux de Poil de Carotte sont toujours plus noirs que ceux de grand frère Félix. Et pourquoi ? Tous deux vivent côte à côte, du même régime, dans le même air. Certes, au bout de trois mois, grand frère Félix ne peut montrer pied blanc, mais Poil de Carotte, de son propre aveu, ne reconnaît plus les siens.

   Honteux, il les plonge dans l’eau avec l’habileté d’un escamoteur. On ne les voit pas sortir des chaussettes et se mêler aux pieds de grand frère Félix qui occupent déjà tout le fond du baquet, et bientôt, une couche de crasse s’étend comme un linge sur ces quatre horreurs.

  1. Lepic se promène, selon sa coutume, d’une fenêtre à l’autre. Il relit les bulletins trimestriels de ses fils, surtout les notes écrites par M. le Proviseur lui-même : celle de grand frère Félix :

   « Étourdi, mais intelligent. Arrivera. »

   et celle de Poil de Carotte :

   « Se distingue dès qu’il veut, mais ne veut pas toujours. »

   L’idée que Poil de Carotte est quelquefois distingué amuse la famille. En ce moment, les bras croisés sur ses genoux, il laisse ses pieds tremper et se gonfler d’aise. Il se sent examiné. On le trouve plutôt enlaidi sous ses cheveux trop longs et d’un rouge sombre. M. Lepic, hostile aux effusions, ne témoigne sa joie de le revoir qu’en le taquinant. À l’aller, il lui détache une chiquenaude sur l’oreille. Au retour, il le pousse du coude, et Poil de Carotte rit de bon coeur.

   Enfin, M. Lepic lui passe la main dans les « bourraquins » et fait crépiter ses ongles comme s’il voulait tuer des poux. C’est sa plaisanterie favorite.

   Or, du premier coup, il en tue un.

   Ah ! bien visé, dit-il, je ne l’ai pas manqué.

   Et tandis qu’un peu dégoûté il s’essuie à la chevelure de Poil de Carotte, madame Lepic lève les bras au ciel :

   Je m’en doutais, dit-elle accablée. Mon Dieu ! nous sommes propres ! Ernestine, cours chercher une cuvette, ma fille, voilà de la besogne pour toi.

   Soeur Ernestine apporte une cuvette, un peigne fin, du vinaigre dans une soucoupe, et la chasse commence.

   Peigne-moi d’abord ! crie grand frère Félix. Je suis sûr qu’il m’en a donné.

   Il se racle furieusement la tête avec les doigts et demande un seau d’eau pour tout noyer.

   Calme-toi, Félix, dit soeur Ernestine qui aime se dévouer, je ne te ferai pas de mal.

   Elle lui met une serviette autour du cou et montre une adresse, une patience de maman. Elle écarte les cheveux d’une main, tient délicatement le peigne de l’autre, et elle cherche, sans moue dédaigneuse, sans peur d’attraper des habitants.

   Quand elle dit : « Un de plus ! » grand frère Félix trépigne dans le baquet et menace du poing Poil de Carotte qui, silencieux, attend son tour.

   C’est fini pour toi, Félix, dit soeur Ernestine, tu n’en avais que sept ou huit ; compte-les. On comptera ceux de Poil de Carotte.

   Au premier coup de peigne, Poil de Carotte obtient l’avantage. Soeur Ernestine croit qu’elle est tombée sur le nid, mais elle n’a que ramassé au hasard dans une fourmilière.

   On entoure Poil de Carotte. Soeur Ernestine s’applique. M. Lepic, les mains derrière le dos, suit le travail, comme un étranger curieux. Madame Lepic pousse des exclamations plaintives.

   Oh ! oh ! dit-elle, il faudrait une pelle et un râteau.

   Grand frère Félix accroupi remue la cuvette et reçoit les poux. Ils tombent enveloppés de pellicules. On distingue l’agitation de leurs pattes menues comme des cils coupés. Ils obéissent au roulis de la cuvette, et rapidement le vinaigre les fait mourir.

     MADAME LEPIC

Vraiment, Poil de Carotte, nous ne te comprenons plus. À ton âge et grand garçon, tu devrais rougir. Je te passe tes pieds que peut-être tu ne vois qu’ici. Mais les poux te mangent, et tu ne réclames ni la surveillance de tes maîtres, ni les soins de ta famille. Explique-nous, je te prie, quel plaisir tu éprouves à te laisser ainsi dévorer tout vif. Il y a du sang dans ta tignasse.

     POIL DE CAROTTE

   C’est le peigne qui m’égratigne.

     MADAME LEPIC

   Ah ! c’est le peigne. Voilà comme tu remercies ta soeur. Tu l’entends, Ernestine ? Monsieur, délicat, se plaint de sa coiffeuse. Je te conseille, ma fille, d’abandonner tout de suite ce martyr volontaire à sa vermine.

     SOEUR ERNESTINE

   J’ai fini pour aujourd’hui, maman. J’ai seulement ôté le plus gros et je ferai demain une seconde tournée. Mais j’en connais une qui se parfumera d’eau de Cologne.

     MADAME LEPIC

   Quant à toi, Poil de Carotte, emporte ta cuvette et va l’exposer sur le mur du jardin. Il faut que tout le village défile devant, pour ta confusion.

 

   Poil de Carotte prend la cuvette et sort ; et l’ayant déposée au soleil, il monte la garde près d’elle.

   C’est la vieille Marie Nanette qui s’approche la première. Chaque fois qu’elle rencontre Poil de Carotte, elle s’arrête, l’observe de ses petits yeux myopes et malins et, mouvant son bonnet noir, semble deviner des choses.

   Qu’est-ce que c’est que ça ? dit-elle.

   Poil de Carotte ne répond rien. Elle se penche sur la cuvette.

   C’est-il des lentilles ? Ma foi, je n’y vois plus clair. Mon garçon Pierre devrait bien m’acheter une paire de lunettes.

   Du doigt, elle touche, comme afin de goûter. Décidément, elle ne comprend pas.

   Et toi, que fais-tu là, boudeur et les yeux troubles ? Je parie qu’on t’a grondé et mis en pénitence. Écoute, je ne suis pas ta grand’maman, mais je pense ce que je pense, et je te plains, mon pauvre petit, car j’imagine qu’ils te rendent la vie dure.

   Poil de Carotte s’assure d’un coup d’oeil que sa mère ne peut l’entendre, et il dit à la vieille Marie Nanette :

   Et après ? Est-ce que ça vous regarde ? Mêlez-vous donc de vos affaires et laissez-moi tranquille.

 

2023/12/02

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「赤い頰つぺた」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 なお、本篇は全四章からなる長いものが、冒頭の章には「一」は、ない。

 

Akaihotupeta

 

     赤い頰つぺた

 

 

 夜の點呼が濟むと、サン・マルクの寮監先生は寢室から出て行く。すると生徒はめいめい、莢(さや)の中へ納まるやうに、できるだけ縮こまつて毛布の中へ滑り込む。外へはみ出ないやうにだ。室長のヴイオロオヌは、くるりと左右を見廻し、みんなが床に就いたのをたしかめる。それから爪先を立てゝ、そつと燈火(あかり)を小さくする。さうすると、やがて、隣り同志で、お喋りが始まるのである。枕から枕へ、ひそひそと聲が傳はり、動く唇からは、寢室いつぱいに、なんともつかぬざわめきが立ち昇つて、時々、その中で、子音の短く擦れる響きが聞き分けられる。[やぶちゃん注:「サン・マルクの寮」先行する「行きと歸り」 及び「ペン」の私の注を参照。]

 これが、低く鈍(にぶ)く、絕え間なく、はては、じれつたくなる。實際、この種の囁(ささや)きは、まるで鼠のように、姿は見せず、ただそこここで、せつせと沈默を齧(かじ)つてゐるのだとしか思えない。

 ヴイオロオヌは、古靴をひつかけ、一つ時寢臺の間をうろつき廻る。こつちでは一人の生徒の足をくすぐつてみたり、あつちでは、もう一人の生徒の頭巾(づきん)の總(ふさ)をひつぱつたりする。さうした揚句、マルソオのそばで立ち停るのである。この生徒とは、每晚、夜の更けるまで長つ話をし續けて、彼はそれこそ、みんなに模範を示すのだ。大抵の場合、生徒たちは、話をやめてしまつてゐる――口の上へ、毛布をだんだん引つかぶせて、順ぐりに呼吸がつまつたといふ風だ。そこで、みんな眠つてしまふのだが、その間、室長は、まだマルソオの寢臺の上へからだをこゞめ、肱をしつかり鐵の棒の上に支へ、前腕がしびれても氣がつかず、指の先までむづ痒くなつていても、それは一向平氣なのである。[やぶちゃん注:「呼吸」戦後版は『いき』とルビする。それを採る。本底本でも「二」で、そうルビするからである。「むづ痒く」戦後版は濁音で『がゆ』とルビする。それを採る。]

 彼は子供らしい物語に自ら興じ、ざつくばらんな打明け話や、所謂「心の想ひ出」といふやつで、相手の眼を冴え返らしてしまふ。やがて、相手の顏は、ほのかに、透き通るほど色づきはじめる。内側から照らされたやうだ。彼は、それが可愛くてたまらぬ。かうなるともう、皮膚ではない。髓のやうな組織だ。その後ろでは、透(すか)し紙をあてた地圖のやうに、ちよつとした雰圍氣の變化で、小靜脈がみるみるうちに縺れ合ふのである。マルソオは、それに、第一、なぜともわからず、不意に顏を赤らめるといふ魅惑的な手段をもつてゐて、それでまた、彼は、少女のやうに誰かれから好かれるわけなのだ。よく、仲間の一人が、片つ方の頰つぺたを指の先で押さへ、急にそれを放すと、そこへ白い跡が殘り、やがて、そいつが、見事な赤い色で覆はれる。それは、淸水の中へ葡萄酒をたらしたやうにぱつと擴がるのだが、その色合いは至極變化に富み、薔薇色の鼻先からライラツク色の耳に至るまで、徐々にぼかされて行くのである。誰でも、めいめいが、それをやつてみようと思へば、マルソオは機嫌よく實驗の需めに應じるのだ。人はそこで彼に「行燈(あんどん)」とか、「提燈」とか、「赤頰つぺ」とかいふ異名をつけた。が、この、自分勝手に顏色をほてらせ得るといふ性能に對して、彼を羨むものは寡(すくな)くなかつた。

 にんじんは、丁度、彼と寢臺を並べてゐたし、わけても、彼を妬ましく思つた。自分は、淋巴質の、ひよろひよろの、顏に粉(こな)をふいたピエロ――無駄とは知りながら、痛くなるほど、血の氣のない自分の皮膚を抓(つね)り上げた。そんなことをして、どうしようといふんだ! なに、それも每度のことではないが、ちよつぴり、怪しげな褐色の跡をつけるためにである。彼は、マルソオの朱色の頰を、いやといふほど引搔(ひつか)きむしり、蜜柑のやうに皮をひん剝(む)いてやりたいほどだ。[やぶちゃん注:「淋巴質」戦後版では、『りんぱしつ』とひらがなでルビする。それで採る。「褐色」戦後版では『ちゃいろ』とルビするが、通常、素直にはそう読まない。ここは「かつしよく」として読んでおく。]

 よほど前から、どうも氣になつてゐたので、彼は、その晚、ヴイオロオヌが來ると、ぢつと聽き耳を立てゝゐた。怪しいぞと思ふのは、恐らく無理ではあるまい。室長の胡散臭い素振から、ほんとのことを嗅ぎ出さうと思つたのだ。彼は、彼獨特の、あらゆる少年スパイ式術策をめぐらす。空鼾(からいびき)をかき、故さら寢返りを打ち、そつちへ丁度背中を向けてしまふやうにする。それから、魘(うな)されでもしたやうに、ひと聲、けたゝましい叫びを立てる。これで、室全體がびつくりして眼を覺まし、毛布といふ毛布は、激しく波形の運動を起こすのである。さて、ヴイオロオヌが向うへ行つてしまふと、彼は、鼻息荒く、上半身を寢臺から乘り出し、マルソオに向つて云ふ――[やぶちゃん注:「故さら」「ことさら」。]

 「あめちよこ! あめちよこ!」

 返事がない。にんじんは膝で起ち上つてマルソオの腕をつかむ。そして、力まかせにゆすぶりながら、

 「やい、あめちよこ!」

 あめちよこは、聞こえないらしい。にんじんは、躍起となり、またやり出す――

 「だらしがねえぞ! おれが見てなかつたと思ふのか! やい、こら、あいつにキスさせなかつたか! え、どうだ、それでも、てめえ、あいつのあめちよこぢやないのか!」

 彼は、人にからかはれた鷲鳥みたいに、首を前に突き出し、握り拳を寢臺の緣にあてゝ伸び上る。

 が今度は、返事があつた。

 「だから、それが、どうしたんだ」

 腰を浮かしたと思ふと、にんじんは、毛布を引つかぶつた。

 室長が、とつさの間に現はれて、その場へ舞ひ戾つてゐたのだ。

[やぶちゃん注:この後、底本では、「二」の開始を、左見開きページから始めているため、九行分に行空けがあるが、二行に留めた。以下も同じ処理をした。]

 

 

     二

 

 

 「さうだ」と、ヴイオロオヌはいつた――「そうだ、僕はお前にキスした。なあ、マルソオ、その通り云つたつていゝよ。お前はちつとも惡かないんだもの・・・。僕は、お前の額にキスしたんだ。それに、にんじんは、あの年で、もう邪氣滿々なもんだから、それが純粹な、淸淨潔白な接吻で、父親が子供にする接吻みたいなものだつてことがわからないんだ。僕は、お前を子供のやうに愛してるんだ。或は、弟のやうにつていふ方がよけりや、それでもいゝ。それがあいつにやわからないんだから、明日(あした)になつたら、そこいら中へ、なんのかんのつて云ひ觸らすがいゝさ、あのちびころの間拔野郞!」[やぶちゃん注:「淸淨潔白」戦後版は『しょうじょうけっぱく』(歴史的仮名遣では「しやうじやうけつぱく」)とルビする。それに従う。]

 この言葉を聞いて、にんじんは、まだヴイオロオヌの聲が幽かに耳へ響いて來るのに、急に眠つた振りをしはじめる。それでも、頭だけは持ちあげて、その先を聞かうとしてゐた。

 マルソオは、呼吸(いき)をするかしないかで、室長の言葉に聽き入つてゐる。それは、何處までも當り前だとは思ひながら、彼は、ある祕密の暴露を懼れるやうに、慄へてゐるからだ。ヴイオロオヌは、できるだけ小聲で續ける。何を言つてるのか、ほそぼそと、遙か遠くで、音綴の區切りもわからないくらゐだ。にんじんは、またそつちへ向き直るわけにも行かず、腰をずらしながら、目立たないやうにからだを寄せて行つたが、もうなんにも聞こえない。彼の注意力はいやが上にも搔き立てられ、耳がうつろになり、漏斗の口のやうに口を開くかと思はれた。が、それでも、音らしい音は、はいつてこないのである。[やぶちゃん注:「音綴」「おんてつ」とそのまま読んでおく。「二つ以上の単音が結合して生じた音声」を指す語である。フランス語ではしばしば起きる。但し、原文では、“syllabes”(所謂、「シラブル」(英語:syllable)であるから、単に「一纏まりの音」「発音の最小単位」であって、戦後版の『音節』に書き換えられてあるその方が、躓かない。「漏斗」「じやうご」或いは「ろうと」。戦後版では『じょうご』とルビするので、それを採る。「音らしい音」の「音」は「おと」でよい。]

 彼は、時たま部屋の戶口に立つて、中の樣子を窺つたことがある。片眼を錠前に押しつけ、出來ればこの孔をもつと擴げて、見たいものを鎹かなんかで手近へ引寄せられたらと思ふ、あの努力感がこれに似たものだつたことを覺えてゐる。それにしても、ヴイオロオヌは、どうせ同じ文句を繰り返してゐるにきまつてゐるのだ――[やぶちゃん注:「鎹」「かすがひ」。]

 「さうだ、僕の愛情は純の純なるものだ。それがつまり、このちびころの間拔け野郞にやわからないんだ!」

 さて、室長は、影の如く靜かに、マルソオの額の上へこゞんでこれにキスをし、ちよび髭の先をこすりつけ、それから、からだを起して、そこを立ち去る。寢臺の列の間をすべり拔けて行く間、にんじんはそいつを見送つてゐる。ヴイオロオヌの手がどうかして誰かの枕の端に觸れると、こいつは安眠妨害だ。その生徒は、大きく溜息をついて寢返りをうつのである。

 にんじんは、しばらく樣子を窺つてゐる。ヴイオロオヌがまた突然引返して來ないとも限らないからだ。既にもうマルソオは、寢床の中で縮こまつてゐる。毛布を眼までかぶり、その實、眠るどころではなく、どう考へていゝかわからないさつきの出來事を、それからそれへと想ひ浮かべてゐるのだ。あんなことはちつとも厭(いや)らしいことではない、だから、苦にするには及ばないと彼は思つた。それにしても、掛布團の下の暗闇の中に、ヴイオロオヌの面影がちらちらと浮かびあがる。それは今まで數々の夢の中で、彼をぽつとさせた、あの、女たちの面影のやうに優しいものだ。

 にんじんは待ち草臥れた。瞼が、磁氣を帶びたやうに、兩方から近づく。彼は、消えさうで消えない瓦斯の燈をぢつと見つめてゐようと思ふ。が、パツパツと音を立てク、火口(ひぐち)から出澁る小さな焰の明滅を、やつと三つ數へたきりで、彼は眠入つてしまふ。

 

 

    三

 

 

 翌朝、洗面所で、みんながタオルの隅をちよいと水に浸し、頰骨の上を、さも冷たさうに、輕く撫でゝゐる間に、にんじんは、意地の惡い眼附でマルソオの方を視てゐた。が、やがて、精いつぱい獰猛な調子で、一音一音を喰ひしばつた齒の間から吹き出すやうに、またぞろ、喰つてかゝる――

 「あめちよこ! あめちよこ!」

 マルソオの頰は朱色に染まる。が、彼は怒らずに、殆ど哀願せんばかりの眼つきで應へる――

 「だつて、そりや噓だつて云つてるぢやないか。君が勝手にさう思つてるんだ」

 室長が手の檢査をしにやつて來た。生徒たちは、二列に並んで、機械的に最初は手の甲、次に掌と、素早くひつくり返して見せるのである。それが濟むと、その兩手をなるべく溫いところへしまひ込む。ポケツトの中とか、或は、一番近くにある羽根布團のぬくもりの下とか。日頃、ヴイオロオヌは、手なんか見ないのが普通である。それが、今日に限つて、生憎、にんじんの手が綺麗でないと云ふ。もう一度水道で洗つて來るやうに――この注意が、にんじんの氣に入らない。なるほど、靑味がかつた汚點(しみ)のやうなものが目につく。しかし、彼は、それが凍傷(しもやけ)の始まりだと云ひ張つた。どうせ、睨(にら)まれてゐるんだ。[やぶちゃん注:「溫い」は戦後版に従い、「あたたかい」と訓じておく。]

 ヴイオロオヌは、彼を寮監先生のところへやらねばならぬ。

 寮監は、朝早くから起き、暗綠色の書齋で、歷史の講義を準備してゐる。これは自分の暇々に、上級組の生徒にしてやろうといふのだ。テーブル掛の上へ、太い指先を平たく押しつけて、主要なところへ標柱を樹てたつもりになる。――此處は羅馬帝國の沒落、眞ん中は土耳古軍の君府攻略、その先は、近代史、これが何處から始るかわからず、何處まで行つても終わらない代物だ。

 彼は、だぶだぶの部屋着を着てゐる。繡ひのはひつた飾り紐が頑丈な胸を取り卷き[やぶちゃん注:ここは行末で、底本の版組では、禁則処理が出来ない版組みであったと思われるので、読点がない。しかし、やはり読点があるべきところで、戦後版でも読点が打たれている。]圓柱の周りに綱を取りつけたやうだ。この男、ひと目見れば、物を食ひすぎるといふことがわかる。顏つきが、腫れぼつたく、何時も、やゝぎらぎらしてゐる。彼は怒鳴るやうに話をする。婦人に向つてさへもさうだ。頸筋の皺が、カラアの上で、緩やかに韻律正しく波を打つてゐる。彼はまた眼のくり玉の丸いことゝ、髭の濃いことが特徵である。

 にんじんは、彼の前へ突つ立つた。帽子を股ぐらに挾んでゐる。動作の自由を保つためである。

 恐ろしい聲で、寮監は訊ねた。

 「なんの用だ?」

 「先生、室長が、僕の手は穢いから、さう云ひに行けつて云つたんです。だけど、そんなことないんです」

 で、もう一度、俯仰天地に恥ぢずとばかり、にんじんは、兩手をひつくり返して見せた――初めは裏、次は表と、なほ念のため、彼は繰返した――初めに表、次に裏。

 「なに、そんなことはない?! 謹愼四日、わかつたか」

と、寮監は云つた。

 「先生、室長に、僕、にらまれてるんです」

 にんじんが云つた。

 「なに? にらまれてる! 八日だ、わかつたか」

 にんじんは、相手の人物を識つてゐた。こんな生優しいことでは、びくともしない。なんでも來いと覺悟をしてゐるからだ。彼は直立不動の姿勢を取り、兩膝をぎゆつと締め合わせ、橫面(よこづら)をぴしやりと來るぐらゐ庇(へ)とも思はず、いよいよ圖に乘つてきた。

 といふのは、この寮監先生、實は時折、手の甲のことで强情(すね)たりする生徒を、ぴしやり![やぶちゃん注:字空けなしはママ。]とやる罪のない癖があるのだ。そこで、來るなと思つたら、時を測つて、ぴよこりと蹲む。上手(うま)く行けば、寮監は、すかを喰つてよろける。みんながどつと吹き出す。ところが、先生は、もう一度やり直さうとはしない。自分の番に狡(ずる)い眞似をするのは、彼の威嚴に係はるからだ。この頰をと思つたら、一發で擊ち止めるか、さもなくば、手出しはしないことだ。[やぶちゃん注:「この寮監先生、實は時折、手の甲のことで强情(すね)たりする生徒を、ぴしやり!とやる罪のない癖があるのだ。」の「手の甲のことで强情(すね)たりする生徒を」の箇所は、小学生が読んでも明らかに訳としておかしいと判る。臨川書店『全集』の佃氏の訳では、『言うことを聞かない生徒をときおり逆手に張り倒すのが、院長先生の罪のない習癖なのだ。』となっており、全く躓かない。なお、「狡(ずる)い」のルビは、上の「に」に附されてある。誤植であるので訂した。]

 「先生・・・」と、にんじんは、ほんとに太々(ふてぶて)しく、昂然と云ひ放つた――「室長とマルソオとが、變なんです」

 すると寮監の眼は、不意に羽蟲でも飛び込んだやうに、しばしぱツとする。テーブルの端を兩方の拳で押へ、腰を浮かし、にんじんの胸へぶつからんばかりに、顏を突出し、そして、喉の奧から訊ねるのである――

 「どう變なんだ?」

 にんじんは、當てが外れたらしい。彼が待ち設けてゐたのは――尤も、その後はどうなるかわからないが――例へば、アンリ・マルタン著すところの歷史大全が、覘ひ過たず飛んで來ることだつた。ところが、これはまた、詳しい譯を聽かうといふのだ。[やぶちゃん注:「覘ひ過たず」「ねらひあやまたず」。]

 寮監は、待つてゐる。頸筋の皺がみんな集まつて、たゞ一つの圓座をつくり、皮で出來た太い環の上に、頭が斜(はす)かひに載(の)つてゐるのだ。

 にんじんは躊(ためら)つてゐる。うまい言葉が見つかりさうもないとわかるまでの間である。すると、急に悄氣(しよげ)た顏をし、背中をまるめ、見るからにぎごちなく、照れ臭さうに、彼は膝の間へ手をやり、ぺしやんこになつた帽子を拔き出す。だんだん前こゞみになる。肩をすぼめる。それから、その帽子をそつと頤のあたりまで持ち上げ[やぶちゃん注:ここも前と同じく行末で、読点があるべきところである。戦後版では読点がある。]それからまたゆつくり、さりげなく、精一杯神妙に、綿のはいつた帽子の裏へ、默つて、その猿面(さるづら)を埋めてしまふ。

 

 

    四

 

 

 その日、簡單に取調べがあつて、ヴイオロオヌは暇を出された。出て行く時は悲痛だつた。まづ儀式といふところだ。

 「また還(かえ)つて來るよ。ちつと休むだけだ」

 ヴイオロオヌはさう云つた。

 しかし、誰にもさうとは信じられなかつた。寮では、よく職員の入れ替へをやる。まるで、黴が生えるとでも思つてるやうだ。今度も多分、室長の更迭といふわけだらう。彼が出て行くのは、他のものが出て行つた、あれと變りはない。たゞ、好いのほど、早く出て行く。殆んど全體が、彼を愛してゐた。ノートの表題を書く技術では、彼に匹敵するものはないと認めてゐた。例へば、ギリシャ語の練習帳の表紙に「Cahiers d'exercices grecs appartenant à・・・」と、書くのだが、頭文字は看板の字のやうに恰好が取れてゐた。どの椅子も空つぽになる。彼の机の前に、みんなが圓陣を作る。指環の綠の石が光つてゐる彼の美しい手が、しなやかに紙の上を往き來する。頁の下に、卽興的な署名をする。その署名たるや、水に石を投げ込んだやうに、正確で、然も氣紛れな線の、波と渦だ。そして、それが、ちやんと花押(かきはん)になり、小さな傑作なのだ。花押の尻尾(しつぽ)はくねりくねつて花押そのものゝ中へ沒し去つてゐる。そいつを見つけ出すのには、極くそばで眺め、よくよく探さなければならぬ。云ふまでもなく、全體はひと筆の續け書きだ。ある時の如き、彼は「天井の中心飾り」と稱する線のこんぐらかりを見事に描いてみせた。小さい連中は、感嘆これを久しうした。[やぶちゃん注:「Cahiers d'exercices grecs appartenant à・・・」フランス語で「・・・」(そこに人名が入る)「の所有に係るギリシャ語練習帳」の意。但し、「・・・」部分は原文ではフランス語なので、“Points de suspension”俗に言う「トロン・ポワン」、“...”である。「描いて」戦後版では「描」に『か』とルビする。それを採る。]

 彼が暇を出されたといふので、この連中は、ひどく悲しがつた。

 彼等は、最初の機會に、寮監をとつちめなけりやならんと相談を決めた。つまり頰を膨らし、唇で山蜂の飛ぶ音を眞似、かくて不滿の意を表はすといふ次第だ。そのうちに、きつとやらずにはゐないだらう。

 さしあたり、彼等は、悲しみを分ち合つた。ヴイオロオヌは、自分が慕はれてゐるのを知り、休みの時間に發(た)つといふ思はせぶりをやつたものだ。彼の姿が運動場に現はれる。小使が鞄を擔いで後から從(つ)いて來る。さあ、小さい連中は、悉く、駈けつけた。彼は、一人一人手を握り、顏を撫でる。そして、取圍まれ、押しのめされ、微笑みながら、感動しつゝ、自分のフロツクの襞(ひだ)を、破れない程度に引き寄せる努力をしてゐた。鐵棒にぶらさがつてゐたものは、でんぐり返しを中途で止め、それから、口を開けたまゝ、額に汗をかき、シヤツの袖をまくり上げ、粘土(ねばつち)のついた指を擴げたまゝ、地べたへ飛び降りる。もつとおとなしいものは、運動場の中を千篇一律に廻つてゐたが、これは、「左樣なら」のしるしに手を振つてみせる。小使は、鞄の下で背中を曲げ、距りを保つために止つてゐる。ところが、それをいゝことに、一番小さいのが、濡れた砂の中へ突つ込んだ五本の指を、その小使の白い前掛へべつたりと押しつける。マルソオの頰は、繪に描いたやうに薔薇色に染まつた。彼は、生まれてはじめて、眞劍な心の苦しみを味はつた。が、しかし、室長に對して、幾分、「從妹(いとこ)」のやうな氣持で名殘を惜しんでゐることは、なんとしても自分にわかり、それが、また空恐ろしく、彼は、ずつと離れて、不安げに、殆ど顏もあげ得ずに立つてゐる。ヴイオロオヌは、なんのこだわりもなく、彼の方へ進んで行つた。丁度その時、硝子が何處かで、木ツ葉微塵[やぶちゃん注:ママ。「木端微塵」が正しい。]に破(わ)れる音がした。

 みんなの視線が、鐵格子のはまつた、謹愼室の小さな窓の方へ昇つて行つた。不細工な、野蠻なにんじんの顏がのぞいてゐる。彼は顰(しか)めツ面をしてみせた。眼が髮の毛の間から見え、白い齒を殘らず剝(む)き出し、檻の中の蒼ざめた小惡獸そのまゝだ。彼は、右手を、喰ひ込むやうな硝子の割(わ)れ目へ威勢よく突つ込み、そして、その血みどろな拳固でヴイオロオヌを威嚇した。

 「ちびころの間拔(まぬ)け野郞(やろう)! これで氣がすんだか!」[やぶちゃん注:戦後版では、この前に独立一行で、『ヴィオロオヌはそれに応(こた)えた――』の一文が入っている。うん! これは、やっぱりほしいな!]

 「へん!」と、にんじんは、叫ぶがいなや、もう一枚の硝子を陽氣にぶち毀し――「なんだつて、そいつにキスするんだい。どうして俺にしないんだ、え?」

 それから、彼は、切れた手から流れる血を、顏いちめんに塗りたくり、かう附け加へた――

 「おれだつて、赤い頰(ほ)つぺたになれるんだ、いざつて云や・・・」

 

[やぶちゃん注:原本ではここから。本章も私の大好きな(しかし――相応の痛みを伴って――でもある。特にエンディングの鬼のような「にんじん」のガラスを素手で割るシークエンスは思わず、手が震える。私はその映像を確かに見たデジャ・ヴユがあり、若い頃、実際に、酔ってそれをやって、血だらけになった経験があるのである)章である。が、一つ、気になるのが、この室長ヴィオロンヌの年齡である。髭を生やしてゐる点、ヴァロトンの插絵からは、相応な年齡が考えられるのであるが、二十代後半か、三十代か? 当時の私塾のこのやうな職員は幾つぐらいだったのだろう? 識者の御教授を願いたいものである。本邦の戦前の大学寮等の寮監や寮長は、えらい爺さんが多かったが……。

「ライラツク色」:ライラックはヨーロツパ原産の双子葉植物綱モクセイ目モクセイ科ハシドイ属ムラサキハシドイSyringa vulgaris 。春、芳香のある鮮やかな紫色・薄紫色・白色の花を咲かす。ここでは薄い紫色を言う。

「淋巴質」原文“lymphatique”。体質や気質が「リンパ質の」といふ意味で、不活発・無気力・遅鈍な傾向の人格を古典的精神医学でかく言った。嘗つては、こういった性情は、体内のリンパ液が過剰状態にあるため、と考えられていたことに拠る。

「あめちよこ」原文は“Pistolet”。これは「拳銃」であるが、俗語で「変な奴」の意があり、ピストルと相俟って、隠微な意味をも含むようだ。訳のそれは、本来は「小粒の飴玉」のことだが、ここでは明らかに、「舐めさせる」で、男性の同性愛行為の相手役(受け手)を卑しんで言つた語である。

「俯仰天地に恥じず」「孟子」の「盡心 上」にある「仰不愧於天、俯怍不於人、二樂也。」(仰(あふ)ぎて天に愧ぢず、俯(ふ)して人に怍(は)ぢざるは、二つの樂しみなり。)に基づく故事成句。反省してみても、自分の心や行動に、少しもやましい点がないことを言う成句である。

「土耳古軍の君府攻略」一四五三年のオスマン・トルコによる「コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)占領」を指す。

「花押(かきはん)」原文は“paraphe”。これは“parafe”と同義で、辞書では、「①署名の終わりの飾り書きや余筆」、「②簡略化した署名・書判(かきはん)」を意味するが、ここでは書いているヴィオロオヌ自身の「署名」のことを言つている。

「アンリ・マルタン」(Henri Martin 一八〇三年~一八八三年)はフランスの歷史家。畢生の大作「フランス史」(“ Histoire de France)三部作十九巻の作者として知られる。

「天井の中心飾り」原文では“cul-de-lampe”。これは「①建築學用語では迫持(せりもち)受け飾り」、「②印刷用語では章末・卷末等のカツト」を言う。岸田氏及び昭和四五(一九七〇)年明治図書刊の『明治図書中学生文庫』14の倉田清氏訳の「にんじん」では、前者の意味でとり、一九九五年臨川書店刊の佃裕文氏の『ジュール・ルナール全集』第三巻では後者の意味で『彼は飾り文様(キュルドランプ)と呼ばれる、書物の各章末に入れられる線の複雑に絡み合った装飾』と訳されておられる。印象としては佃氏の訳に軍配が上がるように思う。

「山蜂」原文は“bourdons”。本邦で「山蜂(ヤマバチ)」といふとニホンミツバチのことを指すが、フランス語でも、ハチ目ハチ亜目ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属Apis(セイヨウミツバチ Apis mellifera等の多種を含む)の♂の意味があるが、ここではミツバチ科マルハナバチ亜科のマルハナバチ属 Bombus の仲間を指していると思われる。確認したところ、年臨川書店全集の佃氏訳でも『マルハナ蜂』と訳されてある。

「粘土(ねばつち)」原文は“colophane”。これは「コルフォニウム脂(し)」、「滑り止めの松脂(まつやに)」のことである。

「從妹(いとこ)のやうな氣持」この「從妹」の部分の原文は“petite cousine”で、普通に考えれば、「從弟」「可愛い從弟」と譯してよいところである(なお、原作は鉤括弧に当たるやうなクォーテーション・マークはない)。前掲の倉田清氏の訳では傍点付きで『いとこ』(しかし、この傍点は意味深長に特に強調するといふ意味よりも、前後がひらがな続きで読みにくいので、単に読み易さを考えた配慮であろう)、佃氏の訳では、極めて直截的に『恋人』と訳してゐる。想像するに、フランス語のニュアンスとしては同性愛の揶揄として佃氏の意味でとる人が多いのであろうが、岸田氏が「從弟」とせずに「從妹」として、かぎ括弧を付した絕妙な優しさを味わいたい。

 なお、原文の各章の間は、一行空けに留めた。]

 

 

 

 

    Les Joues rouges

 

     I

 

   Son inspection habituelle terminée, M. le Directeur de l’Institution Saint-Marc quitte le dortoir. Chaque élève s’est glissé dans ses draps, comme dans un étui, en se faisant tout petit, afin de ne pas se déborder. Le maître d’étude, Violone, d’un tour de tête, s’assure que tout le monde est couché, et, se haussant sur la pointe du pied, doucement baisse le gaz. Aussitôt, entre voisins, le caquetage commence. De chevet à chevet, les chuchotements se croisent, et des lèvres en mouvement monte, par tout le dortoir, un bruissement confus, où, de temps en temps, se distingue le sifflement bref d’une consonne.

   C’est sourd, continu, agaçant à la fin, et il semble vraiment que tous ces babils, invisibles et remuants comme des souris, s’occupent à grignoter du silence.

   Violone met des savates, se promène quelque temps entre les lits, chatouillant çà le pied d’un élève, là tirant le pompon du bonnet d’un autre, et s’arrête près de Marseau, avec lequel il donne, tous les soirs, l’exemple des longues causeries prolongées bien avant dans la nuit. Le plus souvent, les élèves ont cessé leur conversation, par degrés étouffée, comme s’ils avaient peu à peu tiré leur drap sur leur bouche, et dorment, que le maître d’étude est encore penché sur le lit de Marseau, les coudes durement appuyés sur le fer, insensible à la paralysie de ses avant-bras et au remue-ménage des fourmis courant à fleur de peau jusqu’au bout de ses doigts.

   Il s’amuse de ses récits enfantins, et le tient éveillé par d’intimes confidences et des histoires de coeur. Tout de suite, il l’a chéri pour la tendre et transparente enluminure de son visage, qui paraît éclairé en dedans. Ce n’est plus une peau, mais une pulpe, derrière laquelle, à la moindre variation atmosphérique, s’enchevêtrent visiblement les veinules, comme les lignes d’une carte d’atlas sous une feuille de papier à décalquer. Marseau a d’ailleurs une manière séduisante de rougir sans savoir pourquoi et à l’improviste, qui le fait aimer comme une fille. Souvent, un camarade pèse du bout du doigt sur l’une de ses joues et se retire avec brusquerie, laissant une tache blanche, bientôt recouverte d’une belle coloration rouge, qui s’étend avec rapidité, comme du vin dans de l’eau pure, se varie richement et se nuance depuis le bout du nez rose jusqu’aux oreilles lilas. Chacun peut opérer soi-même, Marseau se prête complaisamment aux expériences. On l’a surnommé Veilleuse, Lanterne, Joue Rouge. Cette faculté de s’embraser à volonté lui fait bien des envieux.

   Poil de Carotte, son voisin de lit, le jalouse entre tous. Pierrot lymphatique et grêle, au visage farineux, il pince vainement, à se faire mal, son épiderme exsangue, pour y amener quoi ! et encore pas toujours, quelque point d’un roux douteux. Il zébrerait volontiers, haineusement, à coups d’ongles et écorcerait comme des oranges les joues vermillonnées de Marseau.

   Depuis longtemps très intrigué, il se tient aux écoutes ce soir-là, dès la venue de Violone, soupçonneux avec raison peut-être, et désireux de savoir la vérité sur les allures cachottières du maître d’étude. Il met en jeu toute son habileté de petit espion, simule un ronflement pour rire, change avec affectation de côté, en ayant soin de faire le tour complet, pousse un cri perçant comme s’il avait le cauchemar, ce qui réveille en peur le dortoir et imprime un fort mouvement de houle à tous les draps ; puis, dès que Violone s’est éloigné, il dit à Marseau, le torse hors du lit, le souffle ardent :

   Pistolet ! Pistolet !

   On ne lui répond rien. Poil de Carotte se met sur les genoux, saisit le bras de Marseau, et, le secouant avec force :

   Entends-tu ? Pistolet !

   Pistolet ne semble pas entendre ; Poil de Carotte exaspéré reprend :

   C’est du propre !… Tu crois que je ne vous ai pas vus. Dis voir un peu qu’il ne t’a pas embrassé ! dis-le voir un peu que tu n’es pas son Pistolet.

   Il se dresse, le col tendu, pareil à un jars blanc qu’on agace, les poings fermés au bord du lit.

   Mais cette fois, on lui répond :

   Eh bien ! après ?

   D’un seul coup de reins, Poil de Carotte rentre dans ses draps.

   C’est le maître d’étude qui revient en scène, apparu soudainement !

 

     II

 

   Oui, dit Violone, je t’ai embrassé, Marseau ; tu peux l’avouer, car tu n’as fait aucun mal. Je t’ai embrassé sur le front, mais Poil de Carotte ne peut pas comprendre, déjà trop dépravé pour son âge, que c’est là un baiser pur et chaste, un baiser de père à enfant, et que je t’aime comme un fils, ou si tu veux comme un frère, et demain il ira répéter partout je ne sais quoi, le petit imbécile !

   À ces mots, tandis que la voix de Violone vibre sourdement, Poil de Carotte feint de dormir. Toutefois, il soulève sa tête pour entendre encore.

   Marseau écoute le maître d’étude, le souffle ténu, ténu, car tout en trouvant ses paroles très naturelles, il tremble comme s’il redoutait la révélation de quelque mystère. Violone continue, le plus bas qu’il peut. Ce sont des mots inarticulés, lointains, des syllabes à peine localisées. Poil de Carotte qui, sans oser se retourner, se rapproche insensiblement, au moyen de légères oscillations de hanches, n’entend plus rien. Son attention est à ce point surexcitée que ses oreilles lui semblent matériellement se creuser et s’évaser en entonnoir ; mais aucun son n’y tombe.

   Il se rappelle avoir éprouvé parfois une sensation d’effort pareille en écoutant aux portes, en collant son oeil à la serrure, avec le désir d’agrandir le trou et d’attirer à lui, comme avec un crampon, ce qu’il voulait voir. Cependant, il le parierait, Violone répète encore :

   Oui, mon affection est pure, pure, et c’est ce que ce petit imbécile ne comprend pas !

   Enfin le maître d’étude se penche avec la douceur d’une ombre sur le front de Marseau, l’embrasse, le caresse de sa barbiche comme d’un pinceau, puis se redresse pour s’en aller, et Poil de Carotte le suit des yeux, glissant entre les rangées de lits. Quand la main de Violone frôle un traversin, le dormeur dérangé change de côté avec un fort soupir.

   Poil de Carotte guette longtemps. Il craint un nouveau retour brusque de Violone. Déjà Marseau fait la boule dans son lit, la couverture sur ses yeux, bien éveillé d’ailleurs, et tout au souvenir de l’aventure dont il ne sait que penser. Il n’y voit rien de vilain qui puisse le tourmenter, et cependant, dans la nuit des draps, l’image de Violone flotte lumineusement, douce comme ces images de femmes qui l’ont échauffé en plus d’un rêve.

   Poil de Carotte se lasse d’attendre. Ses paupières, comme aimantées, se rapprochent. Il s’impose de fixer le gaz, presque éteint ; mais, après avoir compté trois éclosions de petites bulles crépitantes et pressées de sortir du bec, il s’endort.

 

     III

 

   Le lendemain matin, au lavabo, tandis que les cornes des serviettes, trempées dans un peu d’eau froide, frottent légèrement les pommettes frileuses, Poil de Carotte regarde méchamment Marseau, et, s’efforçant d’être bien féroce, il l’insulte de nouveau, les dents serrées sur les syllabes sifflantes.

   Pistolet ! Pistolet !

   Les joues de Marseau deviennent pourpres, mais il répond sans colère, et le regard presque suppliant :

   Puisque je te dis que ce n’est pas vrai, ce que tu crois !

   Le maître d’étude passe la visite des mains. Les élèves, sur deux rangs, offrent machinalement d’abord le dos, puis la paume de leurs mains, en les retournant avec rapidité, et les remettent aussitôt bien au chaud, dans les poches ou sous la tiédeur de l’édredon le plus proche. D’ordinaire, Violone s’abstient de les regarder. Cette fois, mal à propos, il trouve que celles de Poil de Carotte ne sont pas nettes. Poil de Carotte, prié de les repasser sous le robinet, se révolte. On peut, à vrai dire, y remarquer une tache bleuâtre, mais il soutient que c’est un commencement d’engelure. On lui en veut, sûrement.

   Violone doit le faire conduire chez M. le Directeur.

   Celui-ci, matinal, prépare, dans son cabinet vieux vert, un cours d’histoire qu’il fait aux grands, à ses moments perdus. Écrasant sur le tapis de sa table le bout de ses doigts épais, il pose les principaux jalons : ici la chute de l’empire romain ; au milieu, la prise de Constantinople par les Turcs ; plus loin l’Histoire moderne, qui commence on ne sait où et n’en finit plus.

   Il a une ample robe de chambre dont les galons brodés cerclent sa poitrine puissante, pareils à des cordages autour d’une colonne. Il mange visiblement trop, cet homme ; ses traits sont gros et toujours un peu luisants. Il parle fortement, même aux dames, et les plis de son cou ondulent sur le col d’une manière lente et rythmique. Il est encore remarquable pour la rondeur de ses yeux et l’épaisseur de ses moustaches.

   Poil de Carotte se tient debout devant lui, sa casquette entre les jambes, afin de garder toute sa liberté d’action.

   D’une voix terrible, le Directeur demande :

   Qu’est-ce que c’est ?

   Monsieur, c’est le maître d’étude qui m’envoie vous dire que j’ai les mains sales, mais c’est pas vrai !

   Et de nouveau, consciencieusement, Poil de Carotte montre ses mains en les retournant : d’abord le dos, ensuite la paume. Il fait la preuve : d’abord la paume, ensuite le dos.

   Ah ! c’est pas vrai, dit le Directeur, quatre jours de séquestre, mon petit !

   Monsieur, dit Poil de Carotte, le maître d’étude, il m’en veut !

   Ah ! il t’en veut ! huit jours, mon petit !

   Poil de Carotte connaît son homme. Une telle douceur ne le surprend point. Il est bien décidé à tout affronter. Il prend une pose raide, serre ses jambes et s’enhardit, au mépris d’une gifle.

Car c’est, chez Monsieur le Directeur, une innocente manie d’abattre, de temps en temps, un élève récalcitrant du revers de la main : vlan ! L’habileté pour l’élève visé consiste à prévoir le coup et à se baisser, et le directeur se déséquilibre, au rire étouffé de tous. Mais il ne recommence pas, sa dignité l’empêchant d’user de ruse à son tour. Il devait arriver droit sur la joue choisie, ou alors ne se mêler de rien.

   Monsieur, dit Poil de Carotte réellement audacieux et fier, le maître d’étude et Marseau, ils font des choses !

   Aussitôt les yeux du Directeur se troublent comme si deux moucherons s’y étaient précipités soudain. Il appuie ses deux poings fermés au bord de la table, se lève à demi, la tête en avant, comme s’il allait cogner Poil de Carotte en pleine poitrine, et demande par sons gutturaux :

   Quelles choses ?

   Poil de Carotte semble pris au dépourvu. Il espérait (peut-être que ce n’est que différé) l’envoi d’un tome massif de M. Henri Martin, par exemple, lancé d’une main adroite, et voilà qu’on lui demande des détails.

   Le Directeur attend. Tous ses plis du cou se joignent pour ne former qu’un bourrelet unique, un épais rond de cuir, où siège, de guingois, sa tête.

   Poil de Carotte hésite, le temps de se convaincre que les mots ne lui viennent pas, puis, la mine tout à coup confuse, le dos rond, l’attitude apparemment gauche et penaude, il va chercher sa casquette entre ses jambes, l’en retire aplatie, se courbe de plus en plus, se ratatine, et l’élève doucement, à hauteur de menton, et lentement, sournoisement, avec des précautions pudiques, il enfouit sa tête simiesque dans la doublure ouatée, sans dire un mot.

 

     IV

 

   Le même jour, à la suite d’une courte enquête, Violone reçoit son congé ! C’est un touchant départ, presque une cérémonie.

   Je reviendrai, dit Violone, c’est une absence.

   Mais il n’en fait accroire à personne. L’Institution renouvelle son personnel, comme si elle craignait pour lui la moisissure. C’est un va-et-vient de maîtres d’étude. Celui-ci part comme les autres, et meilleur, il part plus vite. Presque tous l’aiment. On ne lui connaît pas d’égal dans l’art d’écrire des en-têtes pour cahiers, tels que : Cahiers d’exercices grecs appartenant à… Les majuscules sont moulées comme des lettres d’enseigne. Les bancs se vident. On fait cercle autour de son bureau. Sa belle main, où brille la pierre verte d’une bague, se promène élégamment sur le papier. Au bas de la page, il improvise une signature. Elle tombe, comme une pierre dans l’eau, dans une ondulation et un remous de lignes à la fois régulières et capricieuses, qui forment le paraphe, un petit chef-d’oeuvre. La queue du paraphe s’égare, se perd dans le paraphe lui-même. Il faut regarder de très près, chercher longtemps pour la retrouver. Inutile de dire que le tout est fait d’un seul trait de plume. Une fois, il a réussi un enchevêtrement de lignes nommé cul-de-lampe. Longuement, les petits s’émerveillèrent.

   Son renvoi les chagrine fort.

   Ils conviennent qu’ils devront bourdonner le Directeur à la première occasion, c’est-à-dire enfler les joues et imiter avec les lèvres le vol des bourdons pour marquer leur mécontentement. Quelque jour, ils n’y manqueront pas.

   En attendant, ils s’attristent les uns les autres. Violone, qui se sent regretté, a la coquetterie de partir pendant une récréation. Quand il paraît dans la cour, suivi d’un garçon qui porte sa malle, tous les petits s’élancent. Il serre des mains, tapote des visages, et s’efforce d’arracher les pans de sa redingote sans les déchirer, cerné, envahi et souriant, ému. Les uns, suspendus à la barre fixe, s’arrêtent au milieu d’un renversement et sautent à terre, la bouche ouverte, le front en sueur, leurs manches de chemise retroussées et les doigts écartés à cause de la colophane. D’autres, plus calmes, qui tournaient monotonement dans la cour, agitent les mains, en signe d’adieu. Le garçon, courbé sous la malle, s’est arrêté afin de conserver ses distances, ce dont profite un tout petit pour plaquer sur son tablier blanc ses cinq doigts trempés dans du sable mouillé. Les joues de Marseau se sont rosées à paraître peintes. Il éprouve sa première peine de coeur sérieuse ; mais troublé et contraint de s’avouer qu’il regrette le maître d’étude un peu comme une petite cousine, il se tient à l’écart, inquiet, presque honteux. Sans embarras, Violone se dirige vers lui, quand on entend un fracas de carreaux.

   Tous les regards montent vers la petite fenêtre grillée du séquestre. La vilaine et sauvage tête de Poil de Carotte paraît. Il grimace, blême petite bête mauvaise en cage, les cheveux dans les yeux et ses dents blanches toutes à l’air. Il passe sa main droite entre les débris de la vitre qui le mord, comme animée, et il menace Violone de son poing saignant.

   Petit imbécile ! dit le maître d’étude, te voilà content !

   Dame ! crie Poil de Carotte, tandis qu’avec entrain, il casse d’un second coup de poing un autre carreau, pourquoi que vous l’embrassiez et que vous ne m’embrassiez pas, moi ?

   Et il ajoute, se barbouillant la figure avec le sang qui coule de sa main coupée :

   Moi aussi, j’ai des joues rouges, quand j’en veux!

 

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狸盲人に化す」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 狸盲人に化す【たぬきもうじんにけす】 〔中陵漫録巻七〕狸は狐の災を為すより甚だし。四国に狐なうして狸の害多し。備中の松山の近辺に老狸あり。月夜に見れば人に異る事なし。その言語もまた人に同じ。種々戯言《ざれごと》を為す。人、鳥銃《てつぱう》を以て打たんとすれば、直に化して見えず。この狸、盲人になつて手引に手を引かれ、毎月両三度づつ作州に至る。或時白日、犬出《いで》て此盲人及び手引共に咬み殺す。人皆驚き奔走す。一二刻を過ぎて大なる狸となる。これにて始めて知る、備中の狸なる事を。また予州某村の女、狸と通じ遂に孕《はらみ》す。一産に狸六を生ずと云ふ。此《かく》の如く狸の害多し。

[やぶちゃん注:「中陵漫録」「会津の老猿」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(『日本隨筆大成』第三期第二巻昭和四(一九二九)年刊)当該部が正字で視認出来る。標題は『○狸 談』。但し、後の部分がカットされている。後文は、普通の狸、『脊黑足黑』であるが、そうでない、『少し』『小にして臭氣ある』『夜鳴くと云』ふ『狸と同穴す』る一種を記し(ニホアナグマであろう。但し、同居はしない)、また、『白貍』を掲げ、『甚だ見事なる者あり』として、知人の舜水に見せたところ、『是狸あらず。乃』(すなはち)『狐の一種なりと云ふ』とあり、以下、長々と「本草綱目」を引いて、そこに出る『風貍』は『雷獸たる事明なり』と結ぶ。見られたい。電子化する気は、今の私にはないが、この『風貍』というのは、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 風貍(かぜたぬき) (モデル動物:ヒヨケザル)」で考証してあるので、興味のある方は、参照されるとよい。

「四国に狐なうして」かなり古くから、四国には狐は棲息しないとされてきたが(これは妖獣としての狐は、四国の強力な憑き物である「犬神」との関係で勢力が拮抗するために「いない」とされてきた民俗社会的な伝承による可能性が高いようにも私には思われる)、少なくとも、現在は個体数は少なく、ある程度まで限定された一帯にではあるが、四国にキツネ(=ホンドギツネ)は棲息している私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね) (キツネ)」の私の「四國【伊豫・土佐・阿波・讃岐。】には之れ無きのみ」に対する注を参照されたい。捕獲個体の画像へのリンクもある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狸火」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 狸火【たぬきび】 〔諸国里人談巻三〕摂津国川辺郡東多田村<兵庫県川西市内か>の鱣畷(うなぎなはて)に燐(おにび)あり。此火、人の容《かたち》をあらはし、ある時は牛を牽《ひき》て火を携へ行くなり。これをしらぬ人、その火を乞ひて煙草をのみて相語るに、尋常のごとし。曾て害をなさず。おほくは雨夜《あめのよる》に出《いづ》るなり。所の人は狸火なりと云ふ。<『摂陽落穂集巻四』に同様の文章がある>

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之三 狸火」を見られたい。「摂津国川辺郡東多田村」の現在地も、そちらで示してある。

「摂陽落穂集」文化文政年間に作家・浮世絵師として活躍した浜松歌国(安永五(一七七六)年~文政一〇(一八二七)年)の著とされる、大坂の地誌・歴史、当時の行政などが随筆風に書かれたもの。全十巻。国立国会図書館デジタルコレクションの『新燕石十種』第五 (大正二(一九一三)国書刊行会刊)のこちらで、正規表現で視認出来る。標題は『○狸の火の事』。後文があるので、この際、以下に全文を電子化しておく。

   *

   ○狸の火の事

川邊郡東多田村のうなぎ畷に狸火と云燐あり、此火人の容をあらはし、或時は牛を牽て火を攜へ行さまをなせり。是を誠の人間と心得て、其火を乞てたばこを吞、はなしなどして行に、尋常の人に替る事なし、かつて害をなす事なく、雨夜にじゃ折々出るとぞ、世人是を狸火といへり、其外に二階堂村の二恨坊火、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]別府村の虎の宮の火などゝ、所々にまゝ出るものなり、あやしみてあやしむ足らず、[やぶちゃん注:この書、全文に亙って読点のみで、句点は、ない。]

   *

ここに出る、「二恨坊火」も「諸國里人談卷之三 二恨坊火」で出る。そこにリンクさせたが、これは『柴田宵曲 妖異博物館 「怪火」』と、この伝承を強烈にインスパイアした「宿直草卷五 第三 仁光坊と云ふ火の事」も注しているので、見られたい。後の「虎の宮の火」も「諸國里人談卷之三 虎宮火」をどうぞ。]

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「ペン」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Pen

 

     ペ  ン

 

 

 ルピツク氏が、兄貴のフエリツクスと弟のにんじんとを入れたサン・マルク寮といふのは、そこから、中學校へ通つて、課業だけを受けに行くことになつてゐる。で、每日四度、寮生たちは同じ道を往き歸りするわけである。時候が好ければ、頗るせいせいするし、また、雨降りでも、極く近くなのだから、濡れても大したことはなく、却つてからだのほてりを冷ますぐらゐのもので、その點、この往復は寮生にとつて、一年を通じての健康法なのである。

 今日もお晝に、彼等は、足を引摺り、羊の群れのやうにぞろぞろ中學校から歸つて來る。にんじんは、首を垂れて步いてゐた。

 「おい、にんじん、お前の親爺がゐるじやないか、見ろよ」

 誰かゞさうい云つた。

 ルピツク氏は、かういふ風にして、息子たちに不意打ちを喰はすのが好きである。手紙も寄越さずにおいて、やつて來る。で、だしぬけに、街の角で向ひ側の步道の上に突つ立ち、兩手を後ろに組み、卷煙草を口にくわえてゐる彼の姿を見つけ出すのである。

 にんじんと兄貴のフエリツクスは、列から離れ、父親のほうへ駈け出して行く。

 「やつぱりさうだ!」と、にんじんはいふ――「僕、誰かと思つた・・・。だつて、父さんのことなんか、ちつとも考へてなかつたんだもの」

 「お前は、わしの顏を見なきや、わしのことは考へんのだ」

と、ルピツク氏は云ふ。

 にんじんは、そこで、なんとか愛情を籠めた返事をしたいと思つた。が、何ひとつ頭に浮ばない。それほど、一方に氣を取られてゐる。彼は、爪先で伸び上り、父親に接吻しようと、一所懸命なのだ。最初一度、唇の先が髭に觸つた。ところが、ルピツク氏は、逃げるやうに、つんと頭を持ち上げてしまつたのである。それからもう一度、前へ屈みかけて、また後退りをした。にんじんは、その頰つぺたをと思つたのだが、それも、駄目だつた。鼻の頭をやつとかすつたぐらゐだ。彼は、空間に接吻をした。それ以上やらうとはしない。彼は、もう、氣持がこぢれ、一體なぜこんな待遇を受けるのか、そのわけを知りたいと思つた。[やぶちゃん注:「屈み」の「屈」には戦後版では、『こご』とルビがある。それを採る。]

 ――おやぢは、もうおれを愛してはゐないのかしら。と、心の中で呟いた――おやぢは、兄貴のフエリツクスにはちやんと接吻をした。後退りなんかしないで、するまゝにさせてゐた。どういふ譯で、このおれを避けるのだ。おれを僻ませようつていふのか。大體普段から、さういふところが見える。おれは三月も兩親のそばを離れてゐると、もう會ひたくつてしようがない[やぶちゃん注:ママ。]んだ。こんど會つたら仔犬のやうに首つ玉へ飛びついてやらうと、さう何時も思つてゐる。愛撫(あいぶ)と愛撫の貪り合ひだ。ところが、いよいよ會つてみる。先生たちは、きつとおれの氣持を腐らしちまふんだ。[やぶちゃん注:「先生たち」はママ。原文は“les voici”で、ここは「彼等」或いは「あの人たち」又は「兩親」「親たち」と訳すべきところである。前回から新しい「にんじん」の環境として寄宿学校が描かれており、読者は「先生」と書かれると、思わず、そちらの本当の教師を指すかのように思ってしまうから、甚だ、よくない。

 頭が、この悲しい考へでいつぱいになる。すると、にんじんは希臘語がちつとは進むかといふルピツク氏の問ひに對して、うまい返事ができないのである。

 

にんじん――それも科目によるさ。譯の方は作文より樂だよ。だつて、譯の方は想像で行くもの。

ルピツク氏――そんなら、獨逸語は?

にんじん――こいつは、發音がとても六ケ敷しいや。[やぶちゃん注:「六ケ敷しい」はママ。「し」は衍字。]

ルピツク氏――こね野郞! それぢやお前、戰爭が始つて、普魯西人に勝てるかい、奴さんたちの言葉も話せないで・・・。[やぶちゃん注:「普魯西」プロシア。ここでは旧ドイツ帝国を指す。北東ヨーロッパの歴史的地名で、ドイツ語では「プロイセン」と呼ばれる。元来、バルト海沿岸に居住したスラヴ系のプロイセン人より、その名が生じたが、十三世紀、ドイツ騎士団が、この地を征服し、ドイツ人の国を建てた。十六世紀、ホーエンツォレルン家の騎士団長がプロテスタントに改宗してプロイセン公国を始めた。十七世紀、同じくホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯国と同君連合で結びついてブランデンブルク‐プロイセンとなったが、一七〇一年、プロイセン公国が王国に昇格したため、ブランデンブルクを含め、国全体が「プロイセン王国」と呼ばれるようになった。十八世紀、フリードリヒⅡ世(大王)の代に、オーストリアからシュレージエンを奪うなどして大国としての地位を築き、十九世紀には、「プロイセン―オーストリア戦争」に勝って、小ドイツ主義的なドイツ統一を成し遂げた。ドイツ帝国内では指導的連邦国であり、ヴァイマル共和国でも中心的な連邦州であった(山川出版社「山川世界史小辞典 改訂新版」に拠った)。「奴さん」「やつこさん」。]

にんじん――あゝ、それや、そん時までには、ものにするさ。父さんは何時でも、戰爭戰爭つて威かすけど、僕が學校を卒業するまで、戰爭は起りつこないよ。待つてゝくれるよ。[やぶちゃん注:ルナールがバカレロア(Baccalauréat:フランス国民教育省が管理する高等学校教育の修了を認証する国家試験)の二次試験にパスするのは、一八八三年七月、十九歳の時である(但し、ここに至るまでは、実は、かなりの紆余曲折がある)。その翌年の八月末から九月上旬には、フランスの徴兵検査委員会の査定で、徴兵延期を受けている。因みに、「モロッコ動乱」を経て「第一次世界大戦」が勃発するのは、一九一七年七月二十八日で、凡そ、その三十四年後のことであった。既にルナールは五十四歳であった。]

ルピツク氏――この前の試驗には、何番だつた?まさか、びりつこけぢやあるまいな。[やぶちゃん注:「?」の後に字空けがないはママ。但し、実際のルナールがサン=ルイ学院(institution Saint-Louis)の寄宿生として通ったヌヴェール(Nevers)高等中学校での成績は、一八七八年度第四学年で、総合成績は次点で第一位、ラテン語作文は次点で第二位、代数は次点で第四位である(臨川書店『全集』第十六巻の「『年譜』注」に拠った)。]

にんじん――びりつこけの奴(やつ)も、一人はいなくつちや。[やぶちゃん注:こう「にんじん」は言っているけれども、作者の名誉のために注しておくと、実際のルナールがサン=ルイ学院(institution Saint-Louis)の寄宿生として通ったヌヴェール(Nevers)高等中学校での成績は、一八七八年度第四学年で、「総合成績」は次点で第一位、「ラテン語作文」は次点で第二位、「代数」は次点で第四位である(臨川書店『全集』第十六巻の「『年譜』注」に拠った)。]

ルピツク氏――こね野郞! わしは、お前たちに晝飯を御馳走してやらうと思つてたんだぜ。それがさ、今日は日曜だとまだつてこともあるが――普通の日ぢや、お前たちの勉强の妨げになるといかんからな。

にんじん――僕自身としちや、別に大してすることもないんだけど・・・。兄さんは、どう・・・?

兄貴のフエリツクス――それが、うまい工合に、今朝、先生が宿題を出すのを忘れたんだよ。

ルピツク氏――それだけ餘計復習ができるわけだ。

兄貴のフエリツクス――もうとつくに覺えてるよ。昨日のところとおんなじだもの。

ルピツク氏――なには兎もあれ、今日は歸つた方がよからう。わしは、なるべく日曜までゐることにする。さうしたら、今日の埋め合せをしよう。

 

 兄貴が口を尖らしても、にんじんが默りこくつてゐても、それで、「さようなら」が延びるわけではない。別れなければならない時が來た。

 にんじんは、それを心配しながら待つてゐたのである。

 ――今度は前よりうまく行くかどうか、ひとつ、やつてみよう。おやぢは、おれが接吻するのを嫌つてるのか、それが、今いよいよ、さうかさうでないかゞわかるんだ。

 そこで、意を決し、視線をまともに向け、口を上へ差し出して、彼は、近づいて行く。

 が、ルピツク氏は、また容赦なく、その手で彼を遮り、そしてかう云つた――

 「お前は、その耳へ挾んでるペンで、しまひにわしの眼へ穴をあけるぜ。わしに接吻する時だけは、何處かほかへしまつてくれることはできんか? わしを見てくれ、ちやんと煙草は口からとつてるぢやないか」

にんじん――あゝ、ごめんよ、父さん・・・。ほんとだ。僕がうつかりしてると、いつ、どんな間違ひをしでかすか知れないね。前にも、誰かにさう云はれたんだよ。だけど、このペンは、僕の耳んとこへ、そりやうまく挾まるもんだから、しよつちゆう、そのまゝにしとくのさ。で、つひ忘れちやふんだ。全く、ペンだけでも外さないつて法はないね。あゝ、僕、ほんとに、うれしいや、父さんは、このペンが怖わかつたんだつていふことがわかつて・・・。

ルピツク氏――こね野郞! 笑つてやがる、わしを眼つかちにし損つて・・・。

にんじん――うゝん、さうぢやないんだよ、父さん。僕、ほかのことで笑つてるんだよ。さつきから、また、僕流の馬鹿々々しい考へを起したからさ、この頭ん中へ・・・。

 

[やぶちゃん注:原本ではここから。

「サン・マルク寮」既に前の「行きと歸り」の私の注で述べたが、少し補足して示すと、ジュール・ルナールは一八六四年二月二十二日、西フランスのマイエンヌ県シャローン=シュール=マイエンヌ村に生まれた(父親の鉄道敷設の仕事の関係で在住)が、二年後、父親の故郷であるニエーヴル県シトリー=レ=ミイヌ村に戻った(彼の父はこの村の村長となり、後の一九〇四年にジュール自身も同じく村長となつた)。以降、この四十戸ほどの中部フランスの牧歌的な村が、十七歳でルナールがパリに出るまで過ごした幼少期の故郷であり、「にんじん」の舞台のモデルである。十一歳からから十七歳までは、二歳上の兄のモーリス(フェリックスのモデル。実際に兄のことを日記の中で「フェリックス」と記している)と一緒に、近くのヌヴェール市にあつた私塾サン=ルイ学院に寄宿させられて、当時のリセ(中高等学校)に通学、シトリー村には夏季休暇と復活祭とクリスマスの三度以外は帰省しなかつた。

「こね野郞」「この野郞」に同じ。「土龍」の私の注を參照されたい。

「びりつこけ」びりつけつ。最下位。どんじり。私は使つたことも、聞いたこともないが、岸田と同じ東京出身の中勘助著の名作「銀の匙」の中に、「びりつこけなんぞと遊ばない」という用例がある。

「僕、ほかのことで笑つてるんだよ。さつきから、また、僕流の馬鹿々々しい考へを起したからさ、この頭ん中へ・・・。」この語りに現れる、「にんじん」のこの場面での感情制御の、やや普通でない様子を見ると、私は「にんじん」は現在の軽度の発達障害の持ち主ではないかという気が、ちょっとしてくるのである。]

 

 

 

 

    Le Porte-Plume

 

   L’institution Saint-Marc, où M. Lepic a mis grand frère Félix et Poil de Carotte, suit les cours du lycée. Quatre fois par jour les élèves font la même promenade. Très agréable dans la belle saison, et, quand il pleut, si courte que les jeunes gens se rafraîchissent plutôt qu’ils ne se mouillent, elle leur est hygiénique d’un bout de l’année à l’autre.

   Comme ils reviennent du lycée ce matin, traînant les pieds et moutonniers, Poil de Carotte, qui marche la tête basse, entend dire :

   Poil de Carotte, regarde ton père là-bas !

  1. Lepic aime surprendre ainsi ses garçons. Il arrive sans écrire, et on l’aperçoit soudain, planté sur le trottoir d’en face, au coin de la rue, les mains derrière le dos, une cigarette à la bouche.

   Poil de Carotte et grand frère Félix sortent des rangs et courent à leur père.

   Vrai ! dit Poil de Carotte, si je pensais à quelqu’un, ce n’était pas à toi.

   Tu penses à moi quand tu me vois, dit M. Lepic.

   Poil de Carotte voudrait répondre quelque chose d’affectueux. Il ne trouve rien, tant il est occupé. Haussé sur la pointe des pieds, il s’efforce d’embrasser son père. Une première fois il lui touche la barbe du bout des lèvres. Mais M. Lepic, d’un mouvement machinal, dresse la tête, comme s’il se dérobait. Puis il se penche et de nouveau recule, et Poil de Carotte, qui cherchait sa joue, la manque. Il n’effleure que le nez. Il baise le vide. Il n’insiste pas, et déjà troublé, il tâche de s’expliquer cet accueil étrange.

   Est-ce que mon papa ne m’aimerait plus ? se dit-il. Je l’ai vu embrasser grand frère Félix. Il s’abandonnait au lieu de se retirer. Pourquoi m’évite-t-il ? Veut-on me rendre jaloux ? Régulièrement je fais cette remarque. Si je reste trois mois loin de mes parents, j’ai une grosse envie de les voir. Je me promets de bondir à leur cou comme un jeune chien. Nous nous mangerons de caresses. Mais les voici, et ils me glacent.

   Tout à ses pensées tristes, Poil de Carotte répond mal aux questions de M. Lepic qui lui demande si le grec marche un peu.

     POIL DE CAROTTE

   Ça dépend. La version va mieux que le thème, parce que dans la version on peut deviner.

     MONSIEUR LEPIC

   Et l’allemand ?

     POIL DE CAROTTE

   C’est très difficile à prononcer, papa.

     MONSIEUR LEPIC

   Bougre ! Comment, la guerre déclarée, battras-tu les Prussiens, sans savoir leur langue vivante ?

     POIL DE CAROTTE

   Ah ! d’ici là, je m’y mettrai. Tu me menaces toujours de la guerre. Je crois décidément qu’elle attendra, pour éclater, que j’aie fini mes études.

     MONSIEUR LEPIC

   Quelle place as-tu obtenue dans la dernière composition ? J’espère que tu n’es pas à la queue.

     POIL DE CAROTTE

   Il en faut bien un.

     MONSIEUR LEPIC

   Bougre ! moi qui voulais t’inviter à déjeuner. Si encore c’était dimanche ! Mais en semaine, je n’aime guère vous déranger de votre travail.

     POIL DE CAROTTE

   Personnellement je n’ai pas grand’chose à faire ; et toi, Félix ?

     GRAND FRÈRE FÉLIX

   Juste, ce matin le professeur a oublié de nous donner notre devoir.

     MONSIEUR LEPIC

   Tu étudieras mieux ta leçon.

     GRAND FRÈRE FÉLIX

   Ah ! je la sais d’avance, papa. C’est la même qu’hier.

     MONSIEUR LEPIC

   Malgré tout, je préfère que vous rentriez. Je tâcherai de rester jusqu’à dimanche et nous nous rattraperons.

 

   Ni la moue de grand frère Félix, ni le silence affecté de Poil de Carotte ne retardent les adieux et le moment est venu de se séparer.

   Poil de Carotte l’attendait avec inquiétude.

   Je verrai, se dit-il, si j’aurai plus de succès ; si, oui ou non, il déplaît maintenant à mon père que je l’embrasse.

   Et résolu, le regard droit, la bouche haute, il s’approche.

   Mais M. Lepic, d’une main défensive, le tient encore à distance et lui dit :

   Tu finiras par me crever les yeux avec ton porte-plume sur ton oreille. Ne pourrais-tu le mettre ailleurs quand tu m’embrasses ? Je te prie de remarquer que j’ôte ma cigarette, moi.

 

     POIL DE CAROTTE

   Oh ! mon vieux papa, je te demande pardon. C’est vrai, quelque jour un malheur arrivera par ma faute. On m’a déjà prévenu, mais mon porte-plume tient si à son aise sur mes pavillons que je l’y laisse tout le temps et que je l’oublie. Je devrais au moins ôter ma plume ! Ah ! pauvre vieux papa, je suis content de savoir que mon porte-plume te faisait peur.

     MONSIEUR LEPIC

   Bougre ! tu ris parce que tu as failli m’éborgner.

     POIL DE CAROTTE

   Non, mon vieux papa, je ris pour autre chose : une idée sotte à moi que je m’étais encore fourrée dans la tête.

 

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狸の笑い」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 狸の笑い【たぬきのわらい】 〔折々草冬の部〕世に化物の出でつなどいふこそ、彼もこれも人の物語るを耳伝(みみつて)に言へど、自《みづか》らその化物に遇ひつるといふ物語は、必ず無き事なり。物に書附け侍ることも、己れかゝる物を見しとて書きしは無し。さても有ればこそ世には言へ、玆《ここ》に自身(みづから)三人《みたり》四人まで居合ひて、その化物を見つるといふ物語、彼等が物語りしけるを聞きし。こは武蔵の国の事なり。秩父の国鉢形《はちがた》<埼玉県大里郡寄居町内>とふ所は、古き大城(おほき)の跡にて、今は民どもの住みて、家村立栄(たちさか)えけれど、古き堀の跡、築土(ついぢ)などの跡も残りて侍るに、おのづから狐狸(きつねたぬき)様《ざま》のものも、住み著きて侍るが多しといふ。さて師走ばかり、或寺に人々集ひて、夜籠りに連歌《つらねうた》詠みて遊び居《をり》たりけるに、其が友の中に口遅き男の侍りて、己《おのれ》がつぐべき際《きは》に当れば、つらつら考へ入りて順の遅くなるに、自然(おのづから)夜の更け渡りて、田舎なれば、饗応(あるじぶり)かやかく取りつくらふ事もせず、火灯《ともしび》の影も薄くなりおこし炭《ずみ》も大方に消えて、いと寒くなり増《まさ》るに、今夜《こよひ》は一折《ひとをり》にて止まむと言へど、夜籠りに詠むべしとて集ひたるに、朝烏《あさがらす》の鳴きて渡らむ迄は退《しぞ》キ侍らじと言ひしこる友どちらのありて、二のおもての折を詠み掛けて、又一順二順つぎゆくに、かの男の場に当りて考へ入りけるが、おもての見わたしよからずも、次句の意(こころ)ばへ如何など言ひ返されて、兎角に考へ煩ひて侍るに、口疾く言ひ続ぎて渡しける友垣は、眠《ねむた》がりて次方(つぎへ)[やぶちゃん注:ママ。後に示す「新日本古典文学大系」版では『次(ツギ)べ』である。]に立ち来《きたつ》て打眠るもあり。或ひは小便(ゆばり)に立ちなどして人気(ひとけ)も少《すくな》く、かの火桶どもは氷なす冷えかへりて、丑二つ<午前二時頃>ばかりにも侍らむ。[やぶちゃん注:ここは読点であるべきところである。]夜嵐いと寒く吹渡《ふきわた》る音のするに、彼が口遅く考へ煩ひたるを笑ふにや、何所《いづこ》ともなく老いたる声にて、はゝと笑ふ音す。初《はじめ》は友垣どもの次方《つぎべ》より笑ふなりと思ひ居《を》りしに、打重ねて後高(しりだか)にどよみ出でていと高く笑ふに、誰なりと見れども、皆打静まり居《をり》たれば、互《かたみ》に怪しと見るに、よく聞けば火桶を埋《う》めたる板敷の下にて笑ふなり。こは如何《いかに》と呆れてよく聞けば、人にもあらぬ声なるに、狸ならむ、狐ならむ、何にまれ性(さが)見顕《みあらは》さむとて、やをら寄りてその火桶を抜きて見れば、いと黒き獣《けもの》の、犬ばかりなるが飛上りて、先づ火をば吹消(ふきけ)ちて、仏《ほとけ》のおはします方へ指して、走り行きしと覚ゆるに、人皆《ひとみな》驚き騒ぎて、俄かに火を切出《きりだ》し、打殺《うちころ》すべき構へして、爪木様《つまきざま》の物を引提《ひきさ》げて、此方彼方(こなたかなた)と見るに、さる物は見えず、戸も締め垣[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版では『かぎ』(鍵)である。]も固めたれば、何方《いづべ》へ行かん所もなし。人々甲斐なくて、さまれ夜の明けば見定めんとて、跡をばよく差固め、火桶なども旧(もと)の如く取り入れて、火を照《てら》し立てて、皆一つ所に集(つど)ひ寄りてあるに、かの男は、化物に笑はれつる事のいと口惜しき、おのれ朝にならばこの報(むくい)せむ、友垣《ともがき》力を加へて給(た)べとて居《を》るに、夜も明け行けば、物の隈々《くまぐま》見え渡るを待ちて、かの仏のおはす辺《あたり》を隈々見れども更になし。さはこれも化(ばか)したるなめりと言ひて、戸も格子も押開きて侍るに、仏に供へたる木実《このみ》どもは何(いづ)れも残らで、花瓶などは打倒れ、食ひかけたりと見ゆる物は打乱れたるに、さは此所に侍りし物を、今少し求むべきになどいふを、仏も可笑《をか》しくや思《おぼ》しけむ、頻羅果(びんらか)の唇を打開きて、はゝと大声に笑ひ出で給ふに、人々昨夜(よべ)の笑ひよりは打驚きて、魂《たま》弱き男は逃げ走り、強きは打進みて見るに、いく度《たび》も大声にて笑ひ給へば、何にまれ化物《ばけもの》なり、御首(みぐし)にもせよ打扣(《うち》たた)きて見よとて、長き竿《さを》を取出《とうで》て打たむとすれば、御首の螺髪(らほつ)<仏像のちぢれた髪>はいと黒き獣《けもの》と変りて、飛駈《とびかけ》りて逃げ去りける。あはやといふ間に、何所《いづこ》へか紛れて失せぬ。内にさへあるを止め兼ねつるに、まして野をさして逃出でぬれば、何所《いづこ》求めん方便もなく、寺の主(あるじ)を始め、彼に欺《あざむ》かれたる事を腹悪《はらあ》しく仕《し》給へど、そゞろなる事なれば、唯言ひ喧(ののし)りて止みにき。さは螺髪に化けて居《をり》つる[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版ではここに句点を打つ。]毛の色黒かりしかば狐に非ず、狸なりけるよと利巧(さかしら)は言へど、いたく狸が戯れには逢ひけるなり。皆打寄りて、その跡を掻掃《かきはら》ふとて見れば、釈迦牟尼仏《さかむにぼとけ》のうづの大御手《おほみて》には、いと臭き糞《くぞ》まり置き、御頂(おほみいただき)にきすめる[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版では『藏』(きす)『める』とする。]玉は、小便《ゆばり》たれかけて置きつるに、うたて憎き奴かな、かの笑はれたる男は、とにかくにその事を言ひ立てられて、口遅き事の名ぐはしくなりしかば[やぶちゃん注:すっかり有名になってしまったので。]、自ら口惜しく思ひて、連歌詠む事は止みにけり。これはその席に居合せて、狸を駆り廻したる人々の言ひける程に、人伝《ひとづて》の空物語《そらものがたり》には侍らず。

[やぶちゃん注:「折々草」俳人・小説家・国学者にして絵師で、片歌を好み、その復興に努めた建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年:津軽弘前の人。本名は喜多村久域(ひさむら)。俳号は涼袋。画号は寒葉斎。賀茂真淵の門人。江戸で俳諧を業としたが、後、和歌に転じた。晩年は読本の作者となり、また文人画をよくした。読本「本朝水滸伝」・「西山物語」や、画集「寒葉斎画譜」などで知られる)の紀行・考証・記録・巷説などの様々な内容を持つ作品である。明和八(一七七一)年成立。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十一巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここで正規表現で視認出来る。標題は『○連歌よむを聞て笑らひしをいふ條』である。私は「新日本古典文学大系」版(一九九二年刊)で所持し、これは宵曲の見たものとは、版本が異なるらしく、各所に表記上の異同があるが、読みがかなりしっかりと附されてある(ひらがなになっている箇所も多い)ので、それを積極的に参考にして読みを振った。以下の注もそれ(高田衛先生校注)に多くを拠った。なお、宵曲の拠ったのは、リンク先のもので、「新日本古典文学大系」版(愛知県立大本)とは別底本(日本随筆大成刊行会蔵本)であることも判った。この怪談、冒頭の切り口上から、怪奇談に対しては強い懐疑主義者である建部綾足が、珍しく、実話と断定している点で、極めて興味深い怪奇実話である。

「秩父の国鉢形」「埼玉県大里郡寄居町内」「古き大城(おほき)の跡」現在の埼玉県大里郡寄居町(よりいまち)大字鉢形。中央に鉢形城跡を配した(グーグル・マップ・データ)。この城の築城は関東管領山内上杉氏家臣長尾景春と伝えられる。その後、小田原後北条氏期に北条氏邦によって整備拡張され、後北条の上野国支配の拠点となったほか、甲斐・信濃からの侵攻による最前線の防備を重要な役割として担った。後には下野国遠征の足掛かりともなったが、その滅亡とともに廃城となった。参照した当該ウィキによれば、『跡地の周辺には殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺える』とし、『関東地方に所在する戦国時代の城郭としては比較的きれいに残された城のひとつと』されるとある。また、『稀に見る頑強な要害だったとされ、武田信玄、上杉謙信、前田利家、上杉景勝らの数度の攻撃に耐え、小田原征伐では』三『万とも』五『万とも言われる北国軍に包囲されて』一『ヶ月に渡って籠城したのち』、『「開城」という形になった』。『城跡は西南旧折原村を大手口とし、東の旧鉢形村の搦手としている。本丸、二の丸、三の丸、秩父曲輪、諏訪曲輪などがあり、西南部には侍屋敷や城下町の名前が伝えられており、寺院、神社があり、土塁、空堀も残存する』とあった。

「築土(ついぢ)」この場合は、前注にある土塁のこと。

「夜籠りに」夜を徹して。

「連歌」俳諧連歌。

「饗応(あるじぶり)かやかく取りつくらふ事もせず」ホストの主人が細やかな饗応をすることもなく。

「一折」俳諧連歌で、句を記す懐紙(鳥の子紙)の一枚目(下で折り、右手で紙縒りで閉じる)を指す。但しこれを、普通はここにあるような「一折」とは呼ばす、「初折」と称する。「百韻」では、八句を「初折の表」に、折った内部二面の裏面に当たる面である「初折」に十四句を清書する。同様のものを三セット後に加えて、「二の折」(「表」に十四句、「裏」に十四句)を記し(ここまでで「五十韻」)、次を「三の折」(「表」・「裏」の句数は「二の折」と同じ)とし、最後のものを「名残の折」と称し、「表」に十四句、「裏」に八句を記して、計百句となって完成するのが、基本の定式。別に三十六句からなる「歌仙」があり、一枚目を「初折」(「表」六句・「裏」十二句)、二枚目を「名残りの折」(「表」十二句・「裏」六句)を記す。「新日本古典文学大系」版の二ヶ所の脚注では、「歌仙」の解説を二ヶ所で載せておられるが、「歌仙」では「二の折」はないので、不審である。徹宵の俳諧連歌であり、後に「二のおもての折を詠み掛けて、又一順二順つぎゆくに」と続けている以上、これは「百韻」である。

「しこる」この場合は「爲凝(しこ)る」で、「一つの事に熱中する」の意。

「見わたし」俳諧連歌で、「一の折」の裏と「二の折」の表のように、懐紙を広げて見渡せる範囲の箇所を言う。ここは、その句群の創作上の意味の移り方の変遷の趣きが「よからず」なのである。こうした様を「見渡しの障り(さは)り」とも称する。

「次句の意(こころ)ばへ」前の句を受けて引き継いだ句の趣向。「付合(つけあひ)」の趣き・発想を言う。

「次方(つぎへ)」「次(ツギ)べ」「次の間」であろう。高田氏もそのように推定しておられる。

「氷なす」高田氏の注に、『氷のように、の意だが、「ひえ」にかかる擬古的修飾語として用いている』とある。

「後高(しりだか)に」だんだん後の方が大きく声高になってゆくさま。

「どよみ」「響(どよ)む」。平安末期頃までは「とよむ」で清音。「音が鳴り響く・響き渡る」、また、「多くの人が大声を上げて騒ぐ」の意。ここは前者。

「互に」「かたみに」は副詞で、同一の行動・心情を、二人以上の人間が、交互に、或いは、同時に相手に対してとる状態を表わす語。「たがいに・相互に」。

「火桶を埋めたる板敷」高田氏注に、『囲炉裏のように火鉢を床』下『んい仕かけてあるのをいう』とある。

「やをら」副詞で、下の動詞に係って、「おもむろに・悠然と」など、「その動作がゆったりとしているさまを表わす。「やをら步き始む」など。近現代では、逆に「急に」の意味で、「やおら走り始めた」などと使われるが、これは誤用である。

「仏のおはします方」寺の本堂。彼らが、集っていたのは、以下の描写から、本堂に付随する部屋であったのであろう。

「火を切出し」「切出し」は「火を鑽(き)り出し」。但し、行燈の火を紙燭(しそく)等に、まず、移したのであろう。

「爪木様」(つまきざま)「の物」高田氏の注に、『薪ざっぽう』(「薪雜把」(まきざっぱ・まきざっぽう:薪にするため、切ったり、割ったりした木切れ)『のごときもの。棒など』とある。

「何方《いづべ》へ」「何處(いづべ)へ」で、「どこへ」の意の万葉以来の古語。

「さまれ」副詞で「然(さも)あれ」の変化したもの。「ままよ・さもあらばあれ」。

「頻羅果(びんらか)」高田氏は『不詳。「檳榔果」のあて字か』とされるが、小学館「日本国語大辞典」に『仏語。頻婆』(びんば:現在はインドやタイ料理に使われる食用のウリ科トウガン連コッキニア属ヤサイカラスウリ Coccinia grandis に同定されている)『という植物の鮮紅色の果実。仏典で、や女子の唇、兜率天宮の荘厳など、紅色のものを形容するのに用いられる』(下線太字は私が附した)とあった。高田氏の示された「檳榔果」は単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu を指し(インドにも植生する)、この実は完熟すると深紅色に熟すが、私は上記のヤサイカラスウリの熟した、その紅色と採る

「そゞろなる事」ここは「原因や理由のわからない奇怪なこと」の意。

「利巧(さかしら)は言へど」知ったようなことを言うが。

「うづの大御手」高田氏の注に、『ここでは仏像の貴い手。「すめらわがうづの御手もちかきなでそ」(万葉集巻六)』とある。

「糞まり置き」糞をひってあり。ここは、確かに、狐や天狗らしくない、尾籠なところが、狸らしくはある。

「御頂(おほみいただき)」釈迦牟尼像の頭頂部を指す。「新日本古典文学大系」版本文では『御いなだき』とするが、同義。次注参照。

「きすめる」割注した通り、「新日本古典文学大系」版では『藏』(きす)『める』とあり、これは「蔵(おさ)める」の意で、高田氏の注に『仏像の頭頂部に置かれた玉をいう。「いなだきに蔵(をす)める玉は二つなし」(万葉集巻三)に拠る表現』とある。これは、四一二番歌で、

   *

   市原王(いちはらのおほきみ)の歌一首

 頂(いなだき)に藏(きす)める玉は二つ無し

          かにもかくにも君がまにまに

   *

この「市原王」(生没年未詳)天智天皇の曾孫安貴王の子で、奈良中期から末期にかけての人。万葉歌人。備中守・玄蕃頭・治部大輔などを歴任。天平宝字七(七六三)年に造東大寺司の長官となっており、正五位下に昇ったところまでは確認出来る(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。所持する「万葉集」(中西進訳注)の注に「頂に藏める玉」について、『仏典に、転輪王が大切にした「髻中』(けいちゆう)『の明洙」一つがあったという』とある。Sanukiyaichizo氏の「讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ」のこちらの冒頭に本歌をとられ、

   《引用開始》

 

 頭の髷(まげ)の中に大事に

 秘蔵してきた宝玉は

 ふたつとないがいずれにしても

 あなたの好きにしていいよ

 

※『新日本古典文学大系』脚注に〈市原王が…最愛の愛娘を信頼する若者に託したのであろう〉とある。

   《引用終了》

とあった。]

2023/12/01

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「行きと歸り」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Yukitokaeri

 

    行きと歸り

 

 

 ルピツクさんの坊ちやんたちとお孃さんが、休暇で歸つて來る。乘合馬車から降り、遠くの方に兩親の姿が見えると、にんじんは、「さてどうしたものか」と思ふ。[やぶちゃん注:「坊ちやん」はママ。ここまでの章では「坊つちやん」と表記している。]

 ――この邊から走つて行つてもいゝだらうか?

 彼は躊躇する。

 ――まだ早い。そんなことをすると息が切れちまふ。それに、何事でも、程度を越えてはいかん。

 そこで、もう少したつてといふことにする。

 ――此處いらから走つてやらうかな・・・いや、あの邊からにしよう・・・。

 彼は、自分自身に、いろんなことを問ひかける。

 ――帽子は、何時脫いだもんだらう? どつちへ前(さき)に接吻すべきだらう?

 ところが、兄貴のフエリツクスと姉のエルネスチイヌとは、彼を置いてきぼりにする。そして、兩親の愛撫を、二人つきりで半分づゝとつてしまふ。にんじんがやつて來た時には、もう殆ど、彼の分は殘つてゐないのである。

 「なんだい、そりや」と、ルピツク夫人は云ふ――「お前は、その年になつて、まだ父(とお)さんなんて云ふのかい? お父さんつてお云ひ。さうして、ちやんと、握手をするんだ。その方が、男らしい」

 さう云つておいて、彼女は、たつた一度、その額に接吻してやる。僻むといけないから。

 にんじんは、いよいよ休暇だと思ふと、嬉しくつてたまらない。あんまり嬉しくつて、淚が出るのである。尤もかういふことは、屢々あるので、彼は、屢々、心とあべこべの顏附をする。

 寮へ戾るといふ日(それは十月二日、月曜の朝となつてゐて、授業の始まりは聖靈の彌撒である)――その日、ルピツク夫人は、乘合の鈴が遠くから聞えだすと、いきなり、子供たちの方へのしかゝり、彼らを、ひと纏めにして、兩腕で抱き締める。にんじんは、ところが、その中にはいつてゐないのである。彼は根氣よく、自分の順番を待つてゐる。手だけは、もう、馬車の革具の方へ伸ばし、別れの言葉もちやんと用意してゐる。彼は、全く悲しいのである。だからこそ、唱ひたくもない歌を、ふんふん唱つてゐる。

 「さよなら、お母さん・・・」

と、鷹揚に、彼は云つた。

 「おや、一體お前は、なんのつもりだい、そりや・・・。みんなとおんなじに、あたしを、母(かあ)さんつて呼んだらいゝぢやないか。こんな子が何處かにゐるだらうか。まだ乳臭い、鼻垂れ小僧のくせして、それで、人と違つたことがしたいなんて・・・」

 だが、ルピツク夫人は、彼の額に、一度だけ接吻してやるのである。僻むといけないから。

 

[やぶちゃん注:原本はここから。 

「ルピツクさんの坊ちやんたちとお孃さんが、休暇で歸つて來る」臨川書店『全集』第十六巻の年譜によれば、作者ジュール・ルナールは一八七八年から一八八一年(十一歳から十七歳まで)の間、第六学年から修辞学級(フランス中等教育の完成学級)まで、ヌヴェールNevers:フランス中央部ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ヌーヴェール県のコミューンの所在地(グーグル・マップ・データ(中央に配した。東北位置に故郷をずらして入れてある)以下同じ)。ルナール家の故郷シトリー=レ=ミーヌChitry-les-Mines)村の南西約五十三キロメートルにある)のリセ(lycée:フランスの後期中等教育機関。日本の高等学校に相当する)で修学し、兄のモーリス(Maurice:本作の「にんじん」の兄フェリックスのモデル)と同様に、リーガル氏が校長であった私塾サン=ルイ学院(institution Saint-Louis)の寄宿生となり、『シトリーには』、『クリスマス、復活祭、そして夏の休暇のとき以外は帰らな』かったとある。則ち、本「にんじん」の前半部分は、そのリセに入る前の十六歳までのシトリーでの体験が元になっていると考えてよい。姉のアメリー(Amélie:実際には夭折した同名の長姉がおり、その名を継いだ次姉である)に就いては、全集にも情報がないので、校名は判らないが、やはり寄宿制の女学校に通っていたものと思われる。

「お前は、その年になつて、まだ父(とお)さんなんて云ふのかい? お父さんつてお云ひ。」原文では、それぞれ、前者が“«papa»”、後者が“«mon père»”である。

「寮へ戾るといふ日(それは十月二日、月曜の朝となつてゐて、授業の始まりは聖靈の彌撒である)」原作では“Le jour de la rentrée (la rentrée est fixée au lundi matin, 2 octobre ; on commencera par la messe du Saint-Esprit)”となつてゐる。この謂わば、作者の注に相当する部分の岸田氏の訳は、ちょっと分かりにくい。恰かも、「寮へ戾る日」は十月二日で、その直後にやつて來る「聖靈の彌撒」(ミサ)の日が授業の開始である、といふ風に読めてしまう(そもそも歸寮の日≒授業開始=聖靈のミサでは、あまりにも日程がタイト過ぎておかしいのである)。これは“rentrée”を、一般的な「元の場所に戻る」といふ意味で訳してしまった誤りによる。これは、実は、もっと限定的な「学校の新学期の開始」を意味する語なのである。一九九五年臨川書店刊の佃裕文訳の『ジュール・ルナール全集』第三巻の「にんじん」では(そもそもこちらでは、篇の標題を「帰省と新学期」としてある)、もっとすっきりと、『新学期開始の日(新学期は十月二日月曜日の朝からと決まつていて、聖靈祈願ミサで始まる)』と訳してある。

「さよなら、お母さん・・・」もうお分かりと思うが、ここでにんじんは“ma mère” と言つてゐるのである。続くルピック夫人のいやらしい謂いの中の「母さん」は“"maman"”である。

 原本では、冒頭の部分の「ムッシュー」と「マドマゼル」は、略記号が用いられているが、ここは、“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”の正規表現を使用した。また、一部で字空けを増やした。]

 

 

 

 

    Aller et Retour

 

   Messieurs Lepic fils et mademoiselle Lepic viennent en vacances. Au saut de la diligence, et du plus loin qu’il voit ses parents, Poil de Carotte se demande :

Est-ce le moment de courir au-devant d’eux ?

   Il hésite :

   C’est trop tôt, je m’essoufflerais, et puis il ne faut rien exagérer.

   Il diffère encore :

   Je courrai à partir d’ici…, non, à partir de là…

   Il se pose des questions :

   Quand faudra-t-il ôter ma casquette ? Lequel des deux embrasser le premier ?

   Mais grand frère Félix et soeur Ernestine l’ont devancé et se partagent les caresses familiales. Quand Poil de Carotte arrive, il n’en reste presque plus.

   Comment, dit madame Lepic, tu appelles encore monsieur Lepic « papa », à ton âge ? dis-lui : « mon père » et donne-lui une poignée de main ; c’est plus viril.

   Ensuite elle le baise, une fois, au front, pour ne pas faire de jaloux.

   Poil de Carotte est tellement content de se voir en vacances, qu’il en pleure. Et c’est souvent ainsi ; souvent il manifeste de travers.

   Le jour de la rentrée (la rentrée est fixée au lundi matin, 2 octobre ; on commencera par la messe du Saint-Esprit) du plus loin qu’elle entend les grelots de la diligence, madame Lepic tombe sur ses enfants et les étreint d’une seule brassée. Poil de Carotte ne se trouve pas dedans. Il espère patiemment son tour, la main déjà tendue vers les courroies de l’impériale, ses adieux tout prêts, à ce point triste qu’il chantonne malgré lui.

   Au revoir, ma mère, dit-il d’un air digne.

   Tiens, dit madame Lepic, pour qui te prends-tu, pierrot ?  Il t’en coûterait de m’appeler « maman » comme tout le monde ?  A-t-on jamais vu ?  C’est encore blanc de bec et sale de nez et ça veut faire l’original !

   Cependant elle le baise, une fois, au front, pour ne pas faire de jaloux.

 

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「元日」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 

Ganjitu

 

    元  日

 

 

 雪が降つてゐる。元日がおめでたいためには、雪が降らなければならぬ。

 ルピツク夫人は、用心深く、中庭の開き戶を締めたまゝにして置くのである。すると、もう子供達がやつて來て、鐉(かけがね)をゆすぶつてゐる。下の方を抉(こ)ぢ開けようとする。はじめは遠慮勝ちに、だが、しまひには、いまいましそうに、木履(きぐつ)で蹴り散らす。ルピツク夫人は、窓から、そつと樣子を窺つてゐるのである。いよいよ駄目と知ると、彼等は、それでもまだ眼だけは窓の方を見上げたまゝ、後すざりをして遠ざかつて行く。その跫音(あしおと)が雪の中に吸ひ込まれてしまふ。

 にんじんは、寢臺から飛び降り、裏庭の水槽(みずをけ)へ顏を洗ひに行く。石鹼は持つて行かない。水槽は凍つてゐる。氷を割らなければならない。この、しよつぱなの運動は、煖爐(だんろ)の熱よりも健康な熱を全身に傳へるのである。ところで、顏は濡らしたことにして置く。何時見ても汚(きたな)いと云はれ、それが大々的にお化粧をした時でさへさうなのだから、彼は一番汚(よご)れたところだけ拭けばいゝのである。

 儀式らしく、朗らかに、爽やかに、彼は兄貴のフエリツクスの後ろへ並んで立つ。兄貴のフエリツクスは總領である姉のエルネスチイヌの後ろに控えてゐる。三人は食堂の臺所へはひつて行く。ルピツク夫妻はなんでもないやうな顏をして、そこへ列席しにやつて來る。

 姉のエルネスチイヌが、この二人に接吻をして、さて云ふ――

 「おはよう、父さん、おはよう、母さん。新年おめでたう。本年もお達者でお暮しになりますやうに。それから、來世は極樂へおいでになりますやうに・・・」

 兄貴のフエリツクスも、同じことを、極めて早く、文句の終りへ一目散に駈け出して行く。そして、同樣に接吻をする。

 が、にんじんは、帽子の中から、一通の手紙を取り出す。封をした封筒の上に「我が親愛なる兩親の君へ」とある。所番地は書いてない。種類稀れなる鳥が、色彩華やかに、その一隅を掠めてゐるのである。

 にんじんは、そいつをルピツク夫人の方に差出す。彼女は封を切る。紙一面、滿開の花に飾られ、その上、レースの緣が取つてある。そして、レースの孔へは、屢々にんじんのペンが落ち込んだらしく、隣りの字が霞んでしまつてゐる。

 

ルピツク氏――わしには、なんにもないんだね。

にんじん――それ、二人にあげるんだよ、母さんがすんでから見るといゝや。

ルピツク氏――よし、お前は、わしより母さん方が好きなんだね。それならそれで、この新しい十錢玉が、お前のポケツトの中へはいるかどうか見てゐるがいい。

にんじん――ちよつと待つてつたら・・・母さんがもう濟むから。

ルピツク夫人――文章はしやれてるけれど、字が下手で、あたしにや讀めないよ。

 

 「さ、今度は父さんの番だ」と、にんじんは急(せ)き込んで云ふ。

 にんじんが、眞直に突つ立つて、返事を待つてゐる間、ルピツク氏は、一度、それからもう一度、手紙を讀む。ぢつと見てゐる。何時もの癖で、「ふむ、ふむ」といふ。そして、卓子の上に、そいつを置く。

 目的が完全に達せられると、手紙は、もう何の役にも立たない。それこそ、みんなのものである。見やうと、觸(さわ)らうと、めいめいの勝手だ。姉のエルネスチイヌと兄貴のフエリツクスが、順番に取上げて、綴りの間違ひを探し出す。こゝで、にんじんはペンを取替へたとしか思へない。讀めないといふ字がちやんと讀めるのである。手紙が彼の手に還る。

 それを、こつちへひつくり返し、あつちへひつくり返しして見る。薄穢い笑ひ方をする。

 「これで氣に入らんといふのかい?」

 そう問ひ返してゐるように見える。

 やつと、彼は、手紙を帽子の中へ押し込む。

 お年玉の分配がはじまる。姉のエルネスチイヌは自分の丈(せい)ほどの、いや、それよりも大きい人形である。兄貴のフエリツクスは、箱入りの鉛の兵隊――今やまさに戰爭をしようとしてゐるところだ。

 「お前には、取つて置きのものがあるんだよ。なんだか當てゝごらん」

 ルピツク夫人は、にんじんにかう云ふ。

 

にんじん――あゝ、さうか。

ルピツク夫人――なにが、「あゝ、さうか」だい。もう知つてゐるなら、見せる必要はないね。

にんじん――うゝん、さうぢやないよ。若し知つてたら、僕、首だつてあげらあ。

 

 彼は、自らを信ずるものゝ如く、嚴そかに兩手を上に差し上げる。ルピツク夫人は食器棚を開ける。にんじんは呼吸を彈ませる。彼女は、腕を肩のところまで突つ込み、ゆるゆると、靈妙不可思議な手つきで、黃色い紙にのせた赤い砂糖細工のパイプを引出して來る。[やぶちゃん注:「呼吸」戦後版は『いき』とルビする。それを採る。]

 にんじんは、躊(ためら)はず、喜びに面(おもて)を輝やかす。彼は、この場合、自分のすべきことを知つてゐる。即座に、兩親の面前で、同時に、姉のエルネスチイヌと兄貴のフエリツクスの羨やましさうな眼付(だが、何人も總てのものを得るわけには行かぬ)を後(しり)へに、一服喫(す)はうと思ふ。赤い砂糖のパイプを、二本の指だけでつまみ、ぐつとからだを反(そ)らして、頭を左の方へかしげる。彼は、口を丸め、頰をへこまし、力を入れ、音を立てゝ吸ひ込む。

 それから、どえらい煙を天まで屆くやうに吹き上げ、さて彼は云ふ――

 「こいつは、具合がいゝ。よく通るぜ」

 

[やぶちゃん注:原本ではここから。

「ルピツク夫人は、用心深く、中庭の開き戶を締めたたまゝにしておく」昭和四五(一九七〇)年明治図書刊の『明治図書中学生文庫』14の倉田清訳の「にんじん」の本篇の注には、以下のように書かれてゐる。『フランスの農村の貧乏な子どもたちは、元日にほうぼうの家を回つて、「おめでとう。」を言い、お金やお菓子をもらう習慣があつた。ルピック夫人は、そのような子どもを家に入れたくなかったのだ。』。

「鐉(かけがね)」:先行する「苜蓿(うまごやし)」の章でも問題にしたが、繰り返すと、本字は音「セン・テン」で、門戶の開閉をするための樞(とぼそ・くるる=回転軸)を嵌め込むための半球状の金具を言う。私自身、その形状を明確にイメージすることが出来ずにいるが、要は、閉じられた開き戸等の塀(若しくは門柱)との接合金具を指すのであろう。原作はやはり“le loquet”で、岸田氏は本字を「かけがね」と訓じている。仏和辞典でもそうあるが、しかし、掛け金というのは、二対一組の鍵の一方を指す語であり、もう一方の金具に掛けて開かないようにするための金具を指す。ここでは、明らかにそのようなものではない(門扉の内側のルピック夫人がまさに鍵をかけた部分はそうなつているに違いないが)。ここもやはり、開き戸の外側にある取つ手として打ち込まれた金具、大きな釘とか、手をかけられる鎹(かすがい)のようなものを指していると思われる。

「來世は極樂へおいでになりますように・・・」原文は“une bonne santé et le paradis à la fin de vos jours.”。“fin de vos jours”は「最後の審判の日」であろう(「喇叭」の章の私の注を參照されたい)。しかし、やはり仏教的な訳語では、そぐわない。臨川書店全集の佃氏の訳では、『終(つい)の日には天國に行かれますように』と譯してある。

「種類稀なる鳥が、色彩華やかに、その一遇を掠めてゐるのである」これは封筒に実際に描かれた鳥のカット(ならば、それはにんじんの自作であろう)を言つているのであろうか? しかし……「にんじん」にそんな器用な才能があるかなぁ……。寧ろ、市販のものを奮発して買ったものとした方が無難だ。そもそも、そんなに素敵な自作の絵なら、誰かが、その筆致を褒めていいわけで、やはり市販の封筒だ。

「文章はしやれてるけど、字がへたで、あたしにや讀めないよ。」これはルピツク夫人の「イビり初(ぞ)め」の悪罵である。実際には、夫人は、鼻から、読むつもりがないのである。そもそもこの謂いは矛盾している。字が下手で読めないのに、文章がいいといふことが分かるはずがない(勿論、これを「普段から感じているけれど、お前は文章は上手いのだけれど、字が汚ない。この手紙もそうだ。だから讀めない。」と解釋することは可能だが、私は、そのように「好意的に」は絶対にとらない)。「にんじん」の字は、そんなに下手でもなければ、汚くもないのだ。だから、後で姉や兄が読んでいるシーンで、「ここで、にんじんはペンを取り替えたとしか思えない。讀めないといふ字がちやんと讀めるのである」と母が鼻っから読む気がないということをかく誤魔化したことへ、やや皮肉を込めて描写しているのである(と私は読む。但し、二人は「にんじん」の肩を持つ気はさらさらなく、ルピック夫人ほどではないものの、やはり、重箱の隅を突っついて、批評し、正月から、軽くからかって、面白がっているに過ぎないのだが)。但し、一九九五年臨川書店刊の佃裕文訳の『ジュール・ルナール全集』第三巻では、この私が引いた後文を、そうは解釈しては、いない。そこでは姉や兄の台詞として、『ここでにんじんはペンを替えたに違いない。読みやすいもの。そんなことを言つて彼等は手紙をにんじんに返す。』と訳されてある。私は、この佃氏の訳は、どうも、日本語として達意の文ではない憾みがあるように思う。

なお、以下の原文は、原本に不審があったので、一箇所、行を空けてある。]

 

 

 

 

    Le Jour de l’An

 

   Il neige. Pour que le jour de l’an réussisse, il faut qu’il neige.

   Madame Lepic a prudemment laissé la porte de la cour verrouillée. Déjà des gamins secouent le loquet, cognent au bas, discrets d’abord, puis hostiles, à coups de sabots, et, las d’espérer, s’éloignent à reculons, les yeux encore vers la fenêtre d’où madame Lepic les épie. Le bruit de leurs pas s’étouffe dans la neige.

   Poil de Carotte saute du lit, va se débarbouiller, sans savon, dans l’auge du jardin. Elle est gelée. Il doit en casser la glace, et ce premier exercice répand par tout son corps une chaleur plus saine que celle des poêles. Mais il feint de se mouiller la figure, et, comme on le trouve toujours sale, même lorsqu’il a fait sa toilette à fond, il n’ôte que le plus gros.

   Dispos et frais pour la cérémonie, il se place derrière son grand frère Félix, qui se tient derrière soeur Ernestine, l’aînée. Tous trois entrent dans la cuisine. Monsieur et madame Lepic viennent de s’y réunir, sans en avoir l’air.

   Soeur Ernestine les embrasse et dit :

   Bonjour, papa, bonjour, maman, je vous souhaite une bonne année, une bonne santé et le paradis à la fin de vos jours.

   Grand frère Félix dit la même chose, très vite, courant au bout de la phrase, et embrasse pareillement.

Mais Poil de Carotte sort de sa casquette une lettre. On lit sur l’enveloppe fermée : « À mes Chers Parents. » Elle ne porte pas d’adresse. Un oiseau d’espèce rare, riche en couleurs, file d’un trait dans un coin.

   Poil de Carotte la tend à madame Lepic, qui la décachette. Des fleurs écloses ornent abondamment la feuille de papier, et une telle dentelle en fait le tour que souvent la plume de Poil de Carotte est tombée dans les trous, éclaboussant le mot voisin.

 

     MONSIEUR LEPIC

   Et moi, je n’ai rien !

     POIL DE CAROTTE

   C’est pour vous deux ; maman te la prêtera.

     MONSIEUR LEPIC

   Ainsi, tu aimes mieux ta mère que moi. Alors, fouille-toi, pour voir si cette pièce de dix sous neuve est dans ta poche !

     POIL DE CAROTTE

   Patiente un peu, maman a fini.

     MADAME LEPIC

   Tu as du style, mais une si mauvaise écriture que je ne peux pas lire.

 

   Tiens papa, dit Poil de Carotte empressé, à toi, maintenant.

   Tandis que Poil de Carotte, se tenant droit, attend la réponse, M. Lepic lit la lettre une fois, deux fois, l’examine longuement, selon son habitude, fait « Ah ! ah ! » et la dépose sur la table.

   Elle ne sert plus à rien, son effet entièrement produit. Elle appartient à tout le monde. Chacun peut voir, toucher. Soeur Ernestine et grand frère Félix la prennent à leur tour et y cherchent des fautes d’orthographe. Ici Poil de Carotte a dû changer de plume, on lit mieux. Ensuite ils la lui rendent.

   Il la tourne et la retourne, sourit laidement, et semble demander :

   Qui en veut ?

   Enfin il la resserre dans sa casquette.

   On distribue les étrennes. Soeur Ernestine a une poupée aussi haute qu’elle, plus haute, et grand frère Félix une boîte de soldats en plomb prêts à se battre.

   Je t’ai réservé une surprise, dit madame Lepic à Poil de Carotte.

 

     POIL DE CAROTTE

   Ah, oui !

     MADAME LEPIC

   Pourquoi cet : ah, oui ! Puisque tu la connais, il est inutile que je te la montre.

     POIL DE CAROTTE

   Que jamais je ne voie Dieu, si je la connais.

 

   Il lève la main en l’air, grave, sûr de lui. Madame Lepic ouvre le buffet. Poil de Carotte halète. Elle enfonce son bras jusqu’à l’épaule, et, lente, mystérieuse, ramène sur un papier jaune une pipe en sucre rouge.

   Poil de Carotte, sans hésitation, rayonne de joie. Il sait ce qu’il lui reste à faire. Bien vite, il veut fumer en présence de ses parents, sous les regards envieux (mais on ne peut pas tout avoir !) de grand frère Félix et de soeur Ernestine. Sa pipe de sucre rouge entre deux doigts seulement, il se cambre, incline la tête du côté gauche. Il arrondit la bouche, rentre les joues et aspire avec force et bruit.

   Puis, quand il a lancé jusqu’au ciel une énorme bouffée :

   Elle est bonne, dit-il, elle tire bien.

 

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「盲人」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。

 なお、本篇には、現在、差別用語として使用しないことになっている「めくら」と語が出る。それに就いては、十全に批判的してから、読まれたい。しかし、私は、現在の、こうした差別用語を含む、過去の作品の最初や最後に「伝家の宝刀」か、「免罪符」の如く、掲げるあの愚劣な「言葉狩り」の差別用語使用注記補注には、ある種の違和感を感ずる人間である。それは、「言葉狩り」は、真に差別をなくすことに、必ずしも、繋がらないことを私は自身の体験から確信しているからである(これは何度もブログ記事で述べているので、具体的には記さない)。補注をするなら、その単語の部分でそれを、逐一、やるべきであろう。しかし、そんな仕儀の書物を見たことは、一度として、ない。どこかで一回言っておけば、十把一絡げで許されるという発想こそが、差別用語を真に理解・批判していないことの証左と断じるものである。

 

Mekura

 

     盲  人

 

 

 杖の先で、彼は、そつと戶を叩く。

 

ルピツク夫人――またやつて來た。一體なんの用があるんだらう。

ルピツク氏――それがわからんのか、お前は。いつもの十錢玉が欲しいからさ。一日の食ひ分だ。戶を開けてやれ。

 

 ルピツク夫人は、佛頂面をして、戶を開ける。盲人の腕をとつて、慌しく引摺りこむ。自分が寒いからだ。

「こんにちは、そこにゐるみなさん」

と盲人(めくら)は云つた。

 彼は前に進む。短い枚が、鼠を逐ふように、小刻みに床石の上を走る。そして、一つの椅子にぶつかる。盲人は腰をおろす。かじかんだ手を煖爐の方に伸ばす。

 ルピツク氏は、十錢の銀貨をつまんで、かういふ――

「そら!」

 彼は、それつきり相手にならない。新聞を讀みつゞける。

 にんじんは、面白がつてゐる。例の隅つこにしやがんで、盲人(めくら)の木履(きぐつ)を眺めてゐる。それがだんだん溶けて行くのである。そして、そのまわりには、もう、溝が描かれてゐる。

 ルピツク夫人はそれに氣がつく――

「その木履を貸してごらん、お爺さん」

 彼女はそれを煖爐の下へ持つて行く。もう遲い。あとには水溜りが殘つてゐる。盲人は不安氣である。足が濕り氣を感じ、片一方づゝ上へあがる。泥の混つた雪を押しのけ、そいつを遠くへ散らかす。

 にんじんは、爪で地べたをこすり、汚れた水に、こつちへ流れて來いといふ合圖をし、深い石の割目を敎へてやる。

「十錢貰つたんだから、それでもういゝぢやないか」

 聞こえよがしに、ルピツク夫人は、かう云ふのである。

 が、盲人は、政治の話をしだす。はじめは恐る恐る、しまひには誰憚らず。言葉につかへると、彼は杖を振り廻す。ストーブの煙突へ握拳をぶつけ、慌てゝ引込める。それから、油斷はならぬといふ風に、涸きゝらない淚の奧で、白眼(しろめ)をくるりと動かすのである。

 時として、ルピツク氏は、新聞を裏返しながら――

「なるほど、そりやさうだらう。だが、爺さん、それや、たしかなことかい」

「たしかなことかつて・・・?」と、盲人は叫ぶ――「そいつあ、あんまりだ。まあ、聽いておくんなさい、旦那。わしがどうして目をつぶしたかつていふと、そりやかうだ」

「ちよつくら出て行きさうもない」

と、ルピツク夫人は云ふ。

 なるほど、盲人は、すつかり好い氣特になり、自分の災難といふのを話す。伸びをする。そして、全身飴の如く、そのまゝそこへ、へばりついてしまふ。今迄は、血管の中を、氷の塊が、溶けながらぐるぐる廻つてゐたのだ。それが、かうしてゐると、その着物や手足は油汗をかいてゐるとしか思えない。地べたを見ると、水溜りがだんだん擴がり、にんじんの方へ近づいて行く。いよいよやつて來た。

 目標は彼なのだ。

 やがて、にんじんは、それで遊べるのである。

 だが、そのうちに、ルピツク夫人は、巧妙な手段を廻らし始める。彼女は、盲人のそばを擦れ擦れに步き、わざと肘をぶつけたり、足を踏んだりするのである。彼はしかたがなく、後退りする。で、とうたう[やぶちゃん注:ママ。]、火の氣の傳はつて來ない食器棚と袋戶棚の間へ押し込められてしまふ。盲人は、途方に暮れ、手探りをし、手眞似で何か云ひ、指の先が獸(けもの)のやうに逼ひまわるのである。彼は、自分だけの闇を拂ひのけようとする。またぞろ、氷の塊が出來て來た。なんのことはない、彼は、以前通り、凍えつきさうだ。[やぶちゃん注:「逼ひ」はママ。戦後版は『這い』で、「逼」には「迫る・近づく」や「狭まる・縮まる」の意味しかない。「水浴び」でも同じ用法があることから、岸田氏の思い込みの誤用である。

 そこで、盲人は淚聲で彼の物語を終るのである――

「さういふわけさ、ね、それでおしまひさ。眼玉もなくなるし、なにもかもなくなる。竈(へつつい)のなかの暗闇ばかり・・・」

 彼の杖が手から滑り落ちる。ルピツク夫人は、それを待つてゐたのだ。駈け寄つて、杖を拾ひ上げる。そして、そいつを盲人に渡すのだが・・・實際は渡さない。

 盲人は、受け取つたつもりだが、手にはなんにも持つてないのである。

 彼女は、うまく騙して、また相手を引き寄せる。そして、木履を穿かせ、戶口の方へ連れて行く。

 それから、彼女は、ちよつと意趣返しのつもりで、盲人の腕をつねり、通りへ押し出す。そこは、雪を篩ひ落した灰色の絨毛(わたげ)の下である。締め出しを食つた犬みたいに、鼻を鳴らしてゐる風の眞面(まをもて[やぶちゃん注:ママ。])である。

 で、戶を閉める前に、ルピツク夫人は、聾にでも云ふやうに怒鳴る――

 「またおいで。今のお金をおつことさないやうにね。今度の日曜だよ、お天氣がよかつたら。それから、お前さんがまだこの世にゐたらね。全く、お前さんの云ふ通りさ。誰が死んで誰が生きてるかわかるもんぢやない。誰でも苦勞つていふものはあるし、神さまはみんなのものだからね!」

 

[やぶちゃん注:原本ではここから。

「十錢」“dix sous”。十スー。旧の新フランの一フランの二十分の一。十九世フランスの換算では一スーは約五十円相当であるから、まず五百円弱相当であろう。

「目標は彼なのだ」:原作では“C'est lui le but.”。戦後版では、この「彼」に『あれ』とルビする。読者に無ルビでそれを示すのは無理である。続く文の「それ」から、振り返って指示語で、「あれ」と読み直す者もなくはあるまいが、そう読まそうというからには、絶対にルビが必要である。しかし、岸田氏は、ここでは、全く、「かれ」と、まっとうに読んでいるのだと断言出来る。何故なら、原文のこの「彼」は正しく“lui”で、これは三人称代名詞「彼・彼女」で、この場合は、単に「にんじん」を「彼」と示しているに他ならないからである。本作では、作者が「にんじん」を「彼」と呼ぶ箇所は既に幾らもあった。されば、戦後版のように、わざわざ「雪の凍ったものが溶けて流れきたる水溜まりの流れ」を擬人化して、「彼(あれ)」と読みを施して面白みを出した訳は、これ、訳としては、作者の意志とは離れた、遊びの意訳と言わざるを得ないので、支持し得ない。因みに、昭和四五(一九七〇)年明治図書刊の『明治図書中学生文庫』14の倉田清訳の「にんじん」では『これこそ彼が待っていたものだ。』と訳され、一九九五年臨川書店刊の佃裕文訳の『ジュール・ルナール全集』3では、『彼が終点なのだ。』と訳してある。

「意趣返し」復讐。仕返し。

「絨毛(わたげ)」:原文では、確かに“édredon”(羽毛の毛綿)。ここの部分の一文は、“elle le pousse dans la rue, sous l'édredon du ciel gris qui se vide de toute sa neige, contre le vent qui grogne ainsi qu'un chien oublié dehors.”であるが、岸田氏は原作に忠実に隠喩のままに訳してゐるが、ちよつと分かりにくくなってしまっている。倉田氏の「にんじん」では『ついに彼女は、彼を通りへ押し出してしまう。通りには、雪をすっかり降らせてしまった綿毛(わたげ)のような灰色の空の下で、外に置きざりにされてた犬のように、哀(あわ)れな泣き声をたてる風が吹きつけている。』であり、佃氏の『全集』版では、『夫人は彼を通りへと押しやる。そこは雪を降りつくした灰色の空、わた毛布團(ふとん)のような雪の下に、風が外に置きざりにされている犬のように唸(うな)り声を上げている。』と譯しておられる。私は分かり易さと自然な日本語の創る現在形のシチュエーションとして、倉田氏の訳に軍配を挙げたい。]

 

 

 

  

    L’Aveugle

 

   Du bout de son bâton, il frappe discrètement à la porte.

     MADAME LEPIC

   Qu’est-ce qu’il veut encore, celui-là ?

     MONSIEUR LEPIC

   Tu ne le sais pas ? Il veut ses dix sous ; c’est son jour. Laisse-le entrer.

 

   Madame Lepic, maussade, ouvre la porte, tire l’aveugle par le bras, brusquement, à cause du froid.

   Bonjour, tous ceux qui sont là ! dit l’aveugle.

   Il s’avance. Son bâton court à petits pas sur les dalles, comme pour chasser des souris, et rencontre une chaise. L’aveugle s’assied et tend au poêle ses mains transies.

  1. Lepic prend une pièce de dix sous et dit :

   Voilà !

   Il ne s’occupe plus de lui ; il continue la lecture d’un journal.

   Poil de Carotte s’amuse. Accroupi dans son coin, il regarde les sabots de l’aveugle : ils fondent, et, tout autour, des rigoles se dessinent déjà.

   Madame Lepic s’en aperçoit.

   Prêtez-moi vos sabots, vieux, dit-elle.

   Elle les porte sous la cheminée, trop tard ; ils ont laissé une mare, et les pieds de l’aveugle inquiet sentent l’humidité, se lèvent, tantôt l’un, tantôt l’autre, écartent la neige boueuse, la répandent au loin.

   D’un ongle, Poil de Carotte gratte le sol, fait signe à l’eau sale de couler vers lui, indique des crevasses profondes.

   Puisqu’il a ses dix sous, dit madame Lepic, sans crainte d’être entendue, que demande-t-il ?

   Mais l’aveugle parle politique, d’abord timidement, ensuite avec confiance. Quand les mots ne viennent pas, il agite son bâton, se brûle le poing au tuyau du poêle, le retire vite et, soupçonneux, roule son blanc d’oeil au fond de ses larmes intarissables.

   Parfois M. Lepic, qui tourne le journal, dit :

   Sans doute, papa Tissier, sans doute, mais en êtes-vous sûr ?

   Si j’en suis sûr ! s’écrie l’aveugle. Ça, par exemple, c’est fort ! Écoutez-moi, monsieur Lepic, vous allez voir comment je m’ai aveuglé.

   Il ne démarrera plus, dit madame Lepic.

   En effet, l’aveugle se trouve mieux. Il raconte son accident, s’étire et fond tout entier. Il avait dans les veines des glaçons qui se dissolvent et circulent. On croirait que ses vêtements et ses membres suent de l’huile. Par terre, la mare augmente ; elle gagne Poil de Carotte, elle arrive :

   C’est lui le but.

   Bientôt il pourra jouer avec.

   Cependant madame Lepic commence une manoeuvre habile. Elle frôle l’aveugle, lui donne des coups de coude, lui marche sur les pieds, le fait reculer, le force à se loger entre le buffet et l’armoire où la chaleur ne rayonne pas. L’aveugle, dérouté, tâtonne, gesticule et ses doigts grimpent comme des bêtes. Il ramone sa nuit. De nouveau les glaçons se forment ; voici qu’il regèle.

   Et l’aveugle termine son histoire d’une voix pleurarde.

   Oui, mes bons amis, fini, plus d’zieux, plus rien, un noir de four.

   Son bâton lui échappe. C’est ce qu’attendait madame Lepic. Elle se précipite, ramasse le bâton et le rend à l’aveugle, – sans le lui rendre.

   Il croit le tenir, il ne l’a pas.

   Au moyen d’adroites tromperies, elle le déplace encore, lui remet ses sabots et le guide du côté de la porte.

   Puis elle le pince légèrement, afin de se venger un peu ; elle le pousse dans la rue, sous l’édredon du ciel gris qui se vide de toute sa neige, contre le vent qui grogne ainsi qu’un chien oublié dehors.

   Et, avant de refermer la porte, madame Lepic crie à l’aveugle, comme s’il était sourd :

   Au revoir ; ne perdez pas votre pièce ; à dimanche prochain s’il fait beau et si vous êtes toujours de ce monde. Ma foi ! vous avez raison, mon vieux papa Tissier, on ne sait jamais ni qui vit ni qui meurt. Chacun ses peines et Dieu pour tous !

 

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「狸の宝劔」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 狸の宝劔【たぬきのほうけん】 〔怪談老の杖巻三〕豊後の国の家中に、名字は忘れたり。頼母《たのも》といふ人あり。武勇のほまれありて名高き人なり。その城下に化ものやしきあり。十四五年もあきやしきにてありしを、拝領して住居仕りたき段、領主へ願はれければ、早速給はりけり。後《うしろ》に山をおひ、南の方《かた》ながれ川ありて、面白き所なれば、人夫を入れて、修理おもふ儘に調ひて引うつりけるが、まづその身ばかり引こして、様子を伺ひける。勝手に大《おほ》いろり切りて、木を多くたき、小豆がゆを煮て、家来にもくはせ我も喰ひ居たり。未だ建具などはなかりければ、座敷も取りはらひて、一目に見渡さるゝ様なりしに、雨戸をあけて背のたかさ八尺ばかりなる法師出で来れり。頼母は少しもさわがず、いかがするぞとおもひ、主従声もせず、さあらぬ体《てい》にて見て居《をり》ければ、いろりへ来りてむずと坐しけり。頼母はいかなるものの人にばけて来りしやとおもひければ、ぼうずはいづ方の物なるや、此やしきは我れ此度《このたび》拝領してうつり住むなり、さだめてその方はこの地にすむものなるべし、領主の命なれば、はや某《それがし》が屋鋪に相違なし、その方さヘ申分なくば、我等に於てはかまひなし、徒然なる時はいつにても来りて話せ、相手になりてやらんと云ひければ、かの法師おもひの外に居《ゐ》なほりて手をつき、畏り奉りしといひて、大に敬ふ体なり。頼母はさもあらんとおもひて、近々女房ども引つれてうつるなり、かならずさまたげをなすべからずといひければ、少しも不調法は致し申すまじ、なにとぞ御憐愍にあづかり、生涯をおくり申度《まうしたし》といひければ、心得たり、気遣ひなせそといふに、いかにもうれしげなる体なり。毎晩はなしに来れよといひければ、有難く存じ候とて、その夜は帰りにけり。あけの日人の尋ねければ、何もかはりたる事なしと答へ、家来へも口留めしたりける。もはや気遣ひなしとて、妻子をもむかへける。かゝる人のつまとなれる人とて、妻女も心は剛《かう》なりけり。明日の夜もまた来りて、いろいろふる事《ごと》など語りきかせけるに、古戦場の物語りなどは、誠にその時に臨みて、まのあたり見聞するが如く、後は座 頭などの夜伽するが如く、来らぬ夜はよびにもやらまほしき様なり。然れどもいづ方より来《きた》るもと、問はず語らずすましける、あるじの心こそ不敵なりける。のちには夏冬の衣類は、みな妻女かたよりおくりけり。かくして三とせばかりも過ぎけるが、ある夜いつよりはうちしめりて、折ふしなみだぐみけるけしきなりければ、頼母あやしみて、御坊は何ゆゑ今宵は物おもはしげなると問はれければ、ふとまゐり奉りしより、これまで御慈悲を加へ下されつるありがたさ、中々言葉にはつき申さず、しかるにわたくし事、はや命数つきて、一両日の内には命終り申すなり、それにつきわたくし子孫おほく、この山のうちにをり候が、私死後も相かはらず、御れんみんを願ひ奉るなり、誠にかくあやしき姿にもおぢさせ給はで、御ふたりともにめぐみおはします御こゝろこそ、報じても報じがたく、恐れながら御なごりをしくこそ存候とてなきけり。夫婦もなみだにくれてありけるが、かの法師立あがりて、子ども御目見えいたさせたしと、庭へよびよせおき申候とて、障子を開きければ、月影に数十疋の狸ども集まり、首をうなだれて敬ふ体なり。かの法師、かれらが事ひとへに頼みあぐるといひければ、頼母高声《かうせい》に、きづかひするな、我等めをかけてやらんと云ひければ、うれしげにて皆々山の方へ行きぬ。法師も帰らんとしけるが、一大事を忘れたり、わたくし持ち伝へし刀あり、何とぞさし上げ申したしといひて帰りけり。一両日過ぎて、頼母上の山へ行きてみければ、いくとせふりしともしらぬ狸の、毛などはみなぬけたるが死《しに》ゐたり。傍に竹の皮にてつゝみたる長きものあり。これ則ちおくらんと云へる刀なり。ぬきて見るに、その光り爛々として、新たに砥《とぎ》より出づるがごとし。誠に無類の宝劔なり。これに依り頼母、つぶさにその趣を書きつけて、領主へ猷上せられければ、殊に以て御感ありけり。今その刀は中川家の重宝となれり。

[やぶちゃん注:私は古くに「柴田宵曲 妖異博物館 猿の刀・狸の刀」の私の注で、正字表現で電子化しており、後に、原活字本による「怪談老の杖卷之三 狸寶劍をあたふ」も電子化注してあるので、それらを見られたい。]

「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「日課」

[やぶちゃん注:ジュール・ルナール(Jules Renard 一八六四年~一九一〇年)の “ Poil De Carotte(原題は訳すなら「人参の毛」であるが、これはフランス語で、昔、「赤毛の子」を指す表現である。一八九四年初版刊行)の岸田国士による戦前の翻訳である。

 私は既にサイト版「にんじん ジュウル・ルナアル作 岸田国士訳 挿絵 フェリックス・ヴァロトン(注:やぶちゃん copyright 2008 Yabtyan)」で、新字新仮名遣のそれを十五年前に電子化注している。そこでは、底本は岩波文庫版(一九七六年改版)を用いたが、今回は、国立国会図書館デジタルコレクションのジュウル・ルナアル作岸田國士譯「にんじん」(昭和八(一九三三)年七月白水社刊。リンクは標題のある扉)を用い、正字正仮名遣で電子化し直し、注も新たにブラッシュ・アップする。また、本作の挿絵の画家フェリックス・ヴァロトンFelix Vallotton(一八六五年~一九二五年:スイス生まれ。一八八二年にパリに出、「ナビ派」の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した)の著作権も消滅している。上記底本にはヴァロトンの絵はない(当時は、ヴァロトンの著作権は継続していた)が、私は彼の挿絵が欠かせないと思っているので、岩波版が所載している画像を、今回、再度、改めて取り込み、一部の汚損等に私の画像補正を行った。

 ルビ部分は( )で示したが、ざっと見る限り、本文を含め、拗音・促音は使用されていないので、それに従った。傍点「丶」は下線に代えた。底本の対話形式の部分は、話者が示されダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めた。三点リーダは「…」ではなく、「・・・」であるのはママである。各話の末尾に若い読者を意識した私のオリジナルな注を附した(岸田氏の訳は燻し銀であるが、やや語彙が古いのと、私(一応、大学では英語が嫌いなので、第一外国語をフランス語にした)でも、原文と照らしてみて、首をかしげる部分が幾分かはある。中学二年生の時、私がこれを読んだときに立ち返ってみて、当時の私なら、疑問・不明に思う部分を可能な限り、注した。原文はフランスのサイト“Canopé Académie de Strasbourg”の“Jules Renard OIL DE CAROTTE (1900)”PDF)のものをコピーし、「Internet archive」の一九〇二年版の原本と校合し、不審箇所はフランス語版“Wikisource”の同作の電子化も参考にした。詳しくは、初回の冒頭注を参照されたい。そこで述べたが、底本の対話形式の部分は、話者が示され、ダッシュとなる一人の台詞が二行に亙る際、一字下げとなっているが、ブラウザの不具合が起きるので、詰めてある。ところが、ここは、二段落目以降、総てが、「にんじん」の独擅場であるので、恐らく、底本では植字工がそれを、初回ページ最後の二行ではそれを実行しているにも関わらず、次のページをめくってみると、通常の版組の頭から印刷されてしまって、通常の形になったまま、最後まで、その版組で終わってしまっている。半数以上の読者は、それに気づかずに読み終えてしまうであろうから、敢えて言っておく。なお、戦後版では、それは底本ではちゃんと行われてある(但し、サイト版は同様の理由からそれを再現はしていない)。

 

Nikka

 

      日  課

 

 

 「拍子拔けがしたらう」と、にんじんは、臺所で、アガアトと二人きりになつてから云つた――「がつかりしちや駄目だよ。こんなことはしよつちゆうあるんだから・・・。だけど、そんな壜をもつて何處へ行くの」

 「穴倉へですよ、にんじん坊つちやん」

 

にんじん――おつと待つた。穴倉へは僕が行くんだ。梯子段があぶなくつて、女の人は滑つて首の骨をへし折つちまひさうなんだ。そいつを僕が平氣で降りられたもんで、それから、この僕でなけれやならないつてことになつたんだ。赤い封蠟と靑い封蠟をちやんと見分けられるしね。

 僕が空樽を賣ると、そいつは僕の收入(みいり)になるんだぜ。兎の皮だつてさうだよ。お金はお母さんに預けとくんだ。

 よく打合せをしとかう、いゝかい、お互に仕事の邪魔をしないやうにね。

 朝は、僕が犬の小屋を開ける。それから、スープも僕がやることになつてる。晚は、これも僕が、口笛で呼んで寢かせつける。町へ出てなかなか歸つてこないやうな時は、待つてるんだ。

 それから、母さんとの約束で、鷄小舍は、僕がいつも閉めに行くことになつてる。僕はまた草挘(むし)りもする。どんな草でもいゝつてわけに行かないからね。くつついてる土は、足ではらつて、あとの穴を埋めとく。草は家畜にやるんだ。

 運動のために、僕は、父(とう)さんの手傳ひをして薪を切ることになつてゐる。[やぶちゃん注:「薪」は戦後版では、『まき』とルビする。それを採る。]

 父さんが生きたまゝ持つて歸つた獵の獲物は、僕が首をひねる。君とエルネスチイヌ姉さんが羽根を挘(むし)るんだぜ。

 魚の腹は、僕が割く。腸(わた)も出す。それから、浮囊は踵でぴちんと潰す。

 さういふ時、鱗を取るのは君だよ。それから、井戶から水を汲み上げるのもね。[やぶちゃん注:「鱗」通常の読者は、百%、「うろこ」と読む。しかし、戦後版では『こけ』と振っている。而して、本書のずっと後の章「釣針」の冒頭の一文中で、『魚(さかな)の鱗(こけ)』と岸田氏はルビを振っているので、ここも「こけ」と読むこととする。]

 糸卷の糸をほどく時は、僕が手傳ふから。

 珈琲は、僕が挽く。

 旦那さんが泥だらけの靴を脫いだら、僕がそいつを廊下へ持つて出る。だが、エルネスチイヌ姉さんは、上履(うはぐつ)を持つてくる權利を誰にも讓らないんだ。自分で刺繍繡をしたからなんだ。

 大事な使ひは僕が引き受ける。遠道(とほみち)をするときだとか、藥屋や醫者へ行く時もさうだ。

 君の方は、小さな買物やなんか、村の中だけの走り使ひをするわけだ。

 しかし、君は、每日二三時間、それも年が年中、川で洗濯をしなけれやならない。こいつが一等辛い仕事だらう。氣の毒だがやつてくれ。僕にや、それだけはどうすることもできないんだ。でも、時々は、暇があつたら、僕も手を藉(か)してあげるよ、洗濯物を生籬(いけがき)の上へひろげる時なんかにね。

 あゝ、さうさう、注意しとくけどね、洗濯物は、決して果物の樹の上へひろげちやいけないよ。旦那さんは君に小言なんか云やしない。いきなり、そいつを地べたの上へ彈(はじ)き飛ばしちまふから。すると奧さんは、ちよつと泥がついたゞけでもう一度川へ行つて來いといふよ。

 靴の手入は君に賴むよ。獵に行く靴へは、うんと油を塗つてくれ給へ。ゴム靴には、ぼつちり靴墨をつけるんだ。でないと、あいつは、こちこちになるからね。

 泥のついた半ズボンは、一所懸命に落とさなくつたつていゝ。旦那さんは、泥がついてたほうがズボンの持ちがいゝつていふんだ。なにしろ、掘り返した土ん中を、裾もまくらずに步くんだからね。旦那さんは僕を連れてく時がある。獲物を僕が持つんだ。さういふ時、僕は、ズボンの裾をまくつた方がいゝ。すると、旦那さんは僕にかう云ふんだ――

 「にんじん、お前は碌な獵師になれんぞ」

 しかし、奧さんは、僕にかう云ふんだ――

 「ズボンを汚したら承知しないから・・・。耳がちぎれても知らないよ」

 こいつは、趣味の問題だ。

 要するに、君だつてそんなに悲觀することはないさ。僕の休暇中は、二人で用事を分擔しよう。それから、姉さんと兄さんと僕が、また寄宿へ歸るやうになつたら、君の用事も少なくなる。つまり、おんなじわけだ。

 それに、誰も君に對しちや、それほど辛く當りやしないよ。うちに來る人たちに訊いて見給ひ[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。訛りのような俗っぽい口つき(文法の誤り)を意訳的に再現した岸田氏の確信犯の仕儀のように私には思われる。]。みんなさういふから。――姉さんのエルネスチイヌは優しきこと天使の如しだし、兄貴のフエリツクスは心ばえ[やぶちゃん注:ママ。]いとも氣高く、旦那さんは、資性廉直、判斷に狂ひがない。奧さんは、こりや、稀に見る料理の名人だ。君の眼からは、恐らく、家族中で僕が一等むづかし屋に見えるだらう。なに、根を洗や、ほかのものと違ひはないのさ。たゞ、扱ひ方を知つてれやいゝんだ。それに、僕の方でも考へるし、惡いところは直しもする。謙遜ぶらずに云へば、僕、だんだん人間がましにはなつて來たんだ。若し君の方で、少しでもその氣になつてくれれや、僕たちは、非常にうまく調子を合はして行けると思ふんだ。

 あゝ、駄目だぜ、僕のことをこれから「にんじん坊つちやん」なんて呼んぢや。「にんじん」つて呼び給ひ、みんなとおんなじやうに。「若旦那さん」ていふよりや短くつていゝ。たゞ君のお祖母さんのオノリイヌみたいに、「かうだよ」とか、「かうしてやらう」なんて云はないでくれ給ひ。僕あ、それが嫌ひさ。君のお祖母さんは、何時もさういふんだもの、僕あ癪にさわつてね。

 

[やぶちゃん注:原本はここから。「にんじん」は恰も慇懃無礼な「小姑」のように滔々と日課・「ルピック家」の掟(おきて)や役割分担を詳細に亙って教える。しかし、悪意は見られない。寧ろ、偉そうに語りながら、外から来た同世代の少女に(恐らくは「にんじん」より僅かに年上であろう)、フラットな今まで感じたことのない他者への、女性への、親近性を、かすかに感じ、或いは、幾分か、彼女に興味を持っている雰囲気さえも字背に感じられる。また、翻って読み解くなら、「にんじん」は「ルピック家」の体の好い下男並みの扱いを受けさせられてしまっているということも、本篇の今一つの主意であることが、判る仕組みとなっているのである。アガアトも内心、最後には、『この子は、この家の中にあって、なんて可哀そうな立場なんだろう。』という思いが萌しているのではないか? アガアトの反応が描かれない分、それを暗に強く感じさせる、と私は思うのである。なお、この丁寧な言いの背後には、アガアトの追放に加担した「にんじん」の内心の後ろめたさも影響していると読むべきでもあろう。

「赤い封蠟と靑い封蠟」ワインの等級、若しくは、ビンテージの區別を示すものと思われる。現行では、「赤」は日々の通常の食卓用、「青」は少し豪華なそれや、改まった場面での上級物を指すことが多いようである。

「どんな草でもいゝつてわけに行かないからね」これは草の種類をよく知つていないと、折角、植えた大事な植物や、人の食用・薬用になる有用な植物まで雑草として抜いてしまうことになるから僕の役目なんだよ、といふにんじんが植物学に詳しい知識人であることの、半ば自慢である。

「遠道(とほみち)」中・遠距離のお使い。

「ゴム靴には、ぼつちり靴墨をつけるんだ」「ぼつちり」は高知方言で「ちょうどいい具合な感じで」の意味があるが、それではない。何故なら、そもそも原文は“peu”で、これは「少しだけ・ごく少量」の意であるからである。恐らくは思うに、原稿は半濁音だったのを、植字工が誤植した可能性が極めて高い。事実、戦後版では『ぽっちり』となっているのでである。

「資性廉直」生まれつきの資質・心が清らかで、欲を持たず正直なこと。

「根を洗や」「結局のところはさ」の意。]

 

 

 

 

    Le Programme

 

   Ça vous la coupe, dit Poil de Carotte, dès qu’Agathe et lui se trouvent seuls dans la cuisine. Ne vous découragez pas, vous en verrez d’autres. Mais où allez-vous avec ces bouteilles ?

   À la cave, monsieur Poil de Carotte.

 

     POIL DE CAROTTE

   Pardon, c’est moi qui vais à la cave. Du jour où j’ai pu descendre l’escalier, si mauvais que les femmes glissent et risquent de s’y casser le cou, je suis devenu l’homme de confiance. Je distingue le cachet rouge du cachet bleu.

   Je vends les vieilles feuillettes pour mes petits bénéfices, de même que les peaux de lièvres, et je remets l’argent à maman.

   Entendons-nous, s’il vous plaît, afin que l’un ne gêne pas l’autre dans son service.

   Le matin j’ouvre au chien et je lui fais manger sa soupe. Le soir je lui siffle de venir se coucher. Quand il s’attarde par les rues, je l’attends.

   En outre, maman m’a promis que je fermerais toujours la porte des poules.

   J’arrache des herbes qu’il faut connaître, dont je secoue la terre sur mon pied pour reboucher leur trou, et que je distribue aux bêtes.

   Comme exercice, j’aide mon père à scier du bois.

   J’achève le gibier qu’il rapporte vivant et vous le plumez avec soeur Ernestine.

   Je fends le ventre des poissons, je les vide et fais péter leurs vessies sous mon talon.

   Par exemple c’est vous qui les écaillez et qui tirez les seaux du puits.

   J’aide à dévider les écheveaux de fil.

   Je mouds le café.

   Quand M. Lepic quitte ses souliers sales, c’est moi qui les porte dans le corridor, mais soeur Ernestine ne cède à personne le droit de rapporter les pantoufles qu’elle a brodées elle-même.

Je me charge des commissions importantes, des longues trottes, d’aller chez le pharmacien ou le médecin.

   De votre côté, vous courez le village aux menues provisions.

   Mais vous devrez, deux ou trois heures par jour et par tous les temps, laver à la rivière. Ce sera le plus dur de votre travail, ma pauvre fille ; je n’y peux rien. Cependant je tâcherai quelquefois, si je suis libre, de vous donner un coup de main, quand vous étendrez le linge sur la haie.

   J’y pense : un conseil. N’étendez jamais votre linge sur les arbres fruitiers. Monsieur Lepic, sans vous adresser d’observation, d’une chiquenaude le jetterait par terre, et madame Lepic, pour une tache, vous renverrait le laver.

   Je vous recommande les chaussures. Mettez beaucoup de graisse sur les souliers de chasse et très peu de cirage sur les bottines. Ça les brûle.

   Ne vous acharnez pas après les culottes crottées. Monsieur Lepic affirme que la boue les conserve. Il marche au milieu de la terre labourée sans relever le bas de son pantalon. Je préfère relever le mien, quand monsieur Lepic m’emmène et que je porte le carnier.

   Poil de Carotte, me dit-il, tu ne deviendras jamais un chasseur sérieux.

   Et madame Lepic me dit :

   Gare à tes oreilles si tu te salis.

   C’est une affaire de goût.

   En somme vous ne serez pas trop à plaindre. Pendant mes vacances nous nous partagerons la besogne et vous en aurez moins, ma soeur, mon frère et moi rentrés à la pension. Ça revient au même.

   D’ailleurs personne ne vous semblera bien méchant. Interrogez nos amis : ils vous jureront tous que ma soeur Ernestine a une douceur angélique, mon frère Félix, un coeur d’or, monsieur Lepic l’esprit droit, le jugement sûr, et madame Lepic un rare talent de cordon-bleu. C’est peut-être à moi que vous trouverez le plus difficile caractère de la famille. Au fond j’en vaux un autre. Il suffit de savoir me prendre. Du reste, je me raisonne, je me corrige ; sans fausse modestie, je m’améliore et si vous y mettez un peu du vôtre, nous vivrons en bonne intelligence.

   Non, ne m’appelez plus monsieur, appelez-moi Poil de Carotte, comme tout le monde. C’est moins long que monsieur Lepic fils. Seulement je vous prie de ne pas me tutoyer, à la façon de votre grand’mère Honorine que je détestais, parce qu’elle me froissait toujours.

 

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