只野真葛 むかしばなし (113) 藤上検校の凄絶な体験
一、生田流の琴の上手、「藤上(ふじへ)」といひし盲目【後(のち)は検校《けんぎやう》になりしや。】[やぶちゃん注:底本に『原割註』とある。]、其はじめ、越後の國より、夫婦づれにて、五才の男子をつれて、江戶をこゝろざしのぽりしに、道にて、行(ゆき)くれ、辻堂に一宿せし時、夜中、狼、二(ふたつ)、來りて、五才のせがれと、妻女をくらひし、とぞ。
妻の、おそれて、泣(なき)さけぶ聲のふびんさ、かなしさ、息もたへて後(のち)、骨を、
「ひしひし」
と、くらふ音のすごさ、わびしさ、聞(きく)にしのびず、はらわたをたつ思ひなりしが、盲目のかなしさ、たすけんかたもなく、懷劍の、ぬき持(もち)て、少しも、うごかず、座(ざ)して有(あり)しに、狼は、あだせざりしとぞ【盲目故に、かひりて[やぶちゃん注:ママ。]、命、たすかりしものなるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。
夜の、あくるを、まちて、所のものを賴(たのみ)、供養・囘向など、あるべきかぎりして、淚ながらに、壱人、すごすご、江戶にのぽり、段々、修行して後(のち)、一名を天下にしられしが、琴の弟子どもをあつめては、いく度(たび)も、いく度も、辻堂の物がたりをして、人も、
「かほどの難に逢(あふ)ものか。妻子の、かなしむ聲、骨をかみひしぎし音など、耳に、のこりて、わするゝ世(よ)、なし。」
と、いひし、とぞ。心中(しんちゆう)、おもひやられしことなり【後々までも、犬の魚の骨をくらふ音、きらひにて有(あり)しと、きゝし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]
[やぶちゃん注:「藤上」「藤植(ふじへ:現代仮名遣「ふじえ」)検校」。十八世紀半ばに活躍した盲人音楽家。「藤上」とも書く。都名(いちな:琵琶法師などが自身につけた名。名前の最後に「一」・「市」・「都」などの字がつく。特に、鎌倉末期の如一 (にょいち) を祖とする平曲の流派は、「一」名(な)をつけるので、「一方 (いちかた) 流」と呼ばれた。後、広く一般の盲人も用いた)は喜古一。元文元(一七三六)年、岡永検校「わさ一」のもとで、検校に登官し、胡弓の弦数を三弦から四弦に改め(第三・第四弦同調律の複弦)、以後、この四弦胡弓による胡弓音楽が、江戸で「藤植流」として普及した。「栄(さかえ)獅子」・「越天楽」・「鶴の巣籠」などの本曲十二曲のほか、「岡康(安)砧」・「松竹梅」も本曲として加えられている。「山田流」箏曲と結びついて、その三曲合奏の胡弓のパートを外曲として伝承された。藤植の名は、元幸一・親朦一・植一・光孝一・寿軒一・和専一などに受け継がれ、植一は第七十一代「江戸惣録」を務めた。「藤植流」は、第七代「藤植」を称した植(上)崎秋峰から、近現代の山室保嘉・山室千代子へと伝承され、千代子の門下が「千代見会」を結成し、その保存に努めている(所持する平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]
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