只野真葛 むかしばなし (87)
一、上遠野伊豆(かどのいづ)といひし人は【祿八百石。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、武藝に達し、分(わけ)て、工夫の手裏劍、奇妙なりし、とぞ。
針を、二本、人差指の兩わきに、はさみて、なげ出(いだ)すに、其當り、心にしたがはずといふ事、なし。
「元來、此針の劍(けん)の工夫は、敵に出逢(であひ)し時、兩眼を、つぶしてかゝれば、如何なる大敵なりとも、恐るゝにたらずと、思ひつきし事。」
とぞ。
常に、針を、兩の鬢(びん)に四本ヅヽ八本、隱しさして置(おき)し、とぞ。
徹山樣、御このみにて、御杉戶の、陰に櫻の下に駒(こま)の立(たち)たるを[やぶちゃん注:老婆心乍ら、これは、杉板の扉に描かれた「絵」である。]、
「四ツ足の爪を、うて。」
と被ㇾ仰付(おほせつけらるる)に、二度に打しがヽ少しも違わずさりし[やぶちゃん注:総てママ。『日本庶民生活史料集成』版では、同じだが、『さりし』の「り」の右に『(し)』と傍注する。]、とぞ。芝御殿、御燒失前は、其跡は、きと[やぶちゃん注:鮮やかにはっきりと。]、有(あり)しとぞ。
[やぶちゃん注:「徹山樣」平助が藩医を務めた仙台藩の第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)のこと。彼の戒名は「叡明院殿徹山玄機大居士」。当該ウィキはこちら。]
昔、富士のまき狩に、仁田四郞、猪に乘りしとゆふ[やぶちゃん注:ママ。]傳の有(ある)を羨みて、御山(おんやま)おひの度每(たびごと)に、
「猪に、いつも、のりし。」
とぞ。
「手負猪(ておひしし)ならでは、のられず。はしり行(ゆく)猪を追かけては、乘る事、能わず[やぶちゃん注:ママ。]。手負になれば、『人を、すくわん[やぶちゃん注:ママ。]。』と迎ひ來(きたつ)て、少し、ためろふ[やぶちゃん注:ママ。]時、後ろむきに、とびのりて、しり尾に、とり付(つい)て、只、落(おち)ぬ樣にばかりして、しばらく、猪の行まゝに成(なり)て、狂わすれば[やぶちゃん注:ママ。]、いつかは、よわるなり[やぶちゃん注:ママ。]。其時、足場よろしき所を見て、差通(さしとほ)せば、仕留(しとむ)るなり。猪は、肩の骨、廣く、尻ぼそなる物(もの)故、いかなる『ばら藪(やぶ)』をくゞるとても、能(よく)取付(とりつき)て居(を)れば、さはらぬもの。」
と、父樣、委細の事を、御とひ被ㇾ成し時、じきに語(かたり)しを聞(きき)て、御(おん)はなしなり。
手裏劍を習わん[やぶちゃん注:ママ。]と云(いふ)人あれば、
「我(われ)、元より、人に敎(をしへ)られしにあらず。只、しんしの暇(いとま)にも、心、はなさず、二本の針を、手に付(つけ)て打(うち)しに、年を經て、おのづから、心にしたがふ如く成(なり)しなり。外(ほか)に傳ふべき事、なし。」
と、いひし、とぞ。
[やぶちゃん注:「しんし」「參差」であろう。「一定しない不揃いの時間の」空きの折りであっても、の意で採る。]
八弥(はちや)は、よしありて、したしくせし程に、若年の比(ころ)、少し、まねびて有(あり)しが、
「いかにも、晝夜、かんだんなくすれば、三十日をへれば、三尺ほど向ふへ、まなばしの如く立(たつ)事を得し。」
とぞ。
「三年、たゆみなくすれば、心にしたがふ。」
といヘど、氣根たへがたくて、學び得し人、なし。
御本丸のがけは、屛風をたてたる如くにて、數《す》十丈あるを、
「馬にて落(おと)さるゝ、いかに。」[やぶちゃん注:騎馬の状態で下りきることが出来るか?]
と、徹山樣、御たづね被ㇾ遊しに、
「隨分おとし申べし。去(さり)ながら、馬は微塵に成(なる)べし。其故は、下へおちつく、二、三間ほどに成し時、とびおりれば、人は、三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]の所を、とびしに成(なる)故、けが、なし。馬は數十丈を落(おち)し故、粉(こな)になり申(まふす)べし。」
と申上(まふしあげ)しかば、
「無益に馬を殺すべからず。」
とて、やめられし、とぞ。
此人、實(じつ)は、狐を、つかひし、とぞ。
さる故(ゆゑ)に、なし難きことも、成る・成らぬといふことを、能(よく)悟りてせし故、けがなかりし、とぞ。さも、有(ある)事ならんかし。
[やぶちゃん注:本篇も「奥州ばなし 上遠野伊豆」に載る。そちらで詳細注を附してあるので参照されたい。]