柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「多摩川狐」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
多摩川狐【たまがわきつね】 〔海西漫録初篇二〕武蔵国多摩郡多摩川の川そひの村落に、夫婦の間に子ひとりもてる農民有りけり。秋のすゑつかた、その夫田に出て、稲を刈りけるに、稲の間にいと可愛らしき狐子の、昼寝してをるを見る。よく寝入りてさめざれば、驚かすも便なきわざなりとて、其所の稲をば刈りのこして、外の稲をぞ刈りける。かくてその田の稲をば刈り尽しつるに、狐の子はなほ熟睡してさめざれば、是非なく寝入りたる狐子を、両手にて抱へ、邪魔にならざる所へ移し置き、さてその稲を刈り終ヘて家に帰るに、狐子はなほよくねてぞ有りける。かくてその夜夫婦のものは、中に小児をねさせてふしけるに、夜あけて起出で見るに、中にねたる小児見えず。夫婦はいたく驚きて、表の方に出て見るに、小児は門口に血まみれになりて死《しし》てあり。母はその死骸をいだきあげ、こは何者の所為ぞや、この様に幾所もからだに瘡《きず》をつけたるは、なぶり殺しにしたるものか、あな痛ましやかなしやと、歎き悲しむ事限りなし。夫いふ、昨日田に出で稲を刈りけるに、しかじかの事あり、吾は狐子を憐みてこそ驚かせもせざりしに、親狐の疑ひて、恩を仇にてかへしたるならん、憎き狐のしわざかなといへば、妻ははじめてかくと聞き、さてはこの在所の穴に住む狐のしわざに候や、憎き狐の所為かなとて、小兒の死骸を抱きながら、かの狐の住む穴にゆきて、穴の口に小児の死骸を投げつけて、いかに四足《よつあし》なればとて、恩を仇にして吾子を殺した、よくもよくもむごたらしく此子の命を取たるぞ、おれ畜生こゝに出よ、おれが命は吾取らんと、声のかぎりおよそ半時ばかりも罵りて、せんかたなければ、また小児の死骸を抱《いだき》て家に帰り、やうやく野べにぞおくりける。その夜は夫婦ともに愁傷て夜もねられず、暁かたにおきいでて見れば、昨日小児のころされて有りつる門口に、雄狐雌狐二疋、葛《かづら》にて頸くゝりて死てぞ有りける。この二疋の狐、はじめは我子のたしなめられし事と心得、その恨みを報いつるに、たしなめられしにはあらで、いたはられし事を聞き知り、その理《ことわり》にせまりて頸くゝりたるにやあらん。こは近き年ころの事にて、この国府中の人の物語りにて聞きぬ。
[やぶちゃん注:「海西漫録」(かいせいまんろく)は国学者鶴峯戊申(つるみねしげのぶ 天明八(一七八八)年~安政六(一八五九)年)の随筆。彼は豊後国臼杵(現在の大分県臼杵)に八坂神社神主鶴峯宜綱の子として生まれ、江戸で没した。著作は多く、中でも「語學新書」はオランダ語文法書に倣って当時の日本語の文法を編纂したもので、近代的国語文法書の嚆矢とされる(当該ウィキに拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『百家隨筆』第三(大正七(一九一八)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。「初篇二」の冒頭で、標題は『○多摩川狐』である。但し、原書では、この話に続けて、狐が人に化けて、人の妻となった怪奇談が「信濃奇談」からの引用で続いているので、見られたい。にしても、本篇、いかにしても救いようのない、狐の誤認による絶望的な哀しい話しで、どうも、他に類を見ないタイプの話である。]
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