只野真葛 むかしばなし (96)
一、工藤家數寄屋町のかり宅は、石崎九郞右衞門といへる町人のたてし家作なり。
此人は、もと、駕《かご》のものの「口入(くちいれ)」をして、世をわたりし人なりしが、ふと、金をまふけて[やぶちゃん注:ママ。]大町人(だいちやうにん)の中間へ入(いり)しに、いつも出合(であふ)の時は、
「ものしらず。」
「不風雅。」
とて、なかまはづれにばかり成(なり)しを、無念に、おもひて居(をり)しに、辰ノ年の大火にて、江戶中、燒失、三嶋地面も、けむりと成て、借手(かりて)もなかりし時、九郞右衞門、
「此時ならん。」
と、工夫して、三嶋吉兵衞に相談して、地面をかりて、普請、其外、家びらきのせつ、「中間(なかま)ふるまひ」のことまで、萬事をまかせて賴(たのみ)しかば、三嶋は、もとより大風流の物しり人、
「落(おとし)わらふ人數(にんず)の、何ほどのことやしらん。其義ならば、よろしくぞ、はからふべし。」
とて【「故よきなぐさみ」と悅(よろこび)て、うけ合(あふ)。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、公家衆の家居(いへゐ)のごとくに、圖を引(ひき)て、普請をし、庭には「源氏籬(ませ)」をまわし、「見こしの赤松」・「軒端の紅梅」など、すべて、下人の目なれぬことばかりして、普請出來後(しゆつたいご)、「なかまふるまひ」の日は、上段の間に御簾《みす》を懸(かけ)て、上野(うえの)の樂人(がくじん)をたのみ、音樂を奏じて、饗應ごとせし故、かねて口きくなかまども、一言(いちごん)もなく、ほめることさへ、しらざりしは、心地よかりしことなりし。
[やぶちゃん注:「辰ノ年の大火」幼少の真葛のトラウマとなると同時に、彼女を成人後に「経世済民」の考え方に導いたとされる、明和九壬辰(みずのえたつ)年二月二十九日(一七七二年四月一日)に目黒行人坂(現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近:グーグル・マップ・データ)で発生した「明和の大火」。「3」を参照。
「三嶋」出火元から考えて、東京都品川区西五反田にある三島稲荷神社附近と思われる(グーグル・マップ・データ)。
「上野の樂人」上野東照宮の祭日で音曲を奏でる者。
「源氏籬(ませ)」数寄屋建築にある「源氏塀」(げんじべい)。グーグル画像検索「源氏塀」をリンクさせておく。]
それからあとは、公家の氣取りにて、衣類を仕立(したて)、まことの公家は見しこともなき故、萬事、芝居のまねなりしとぞ。[やぶちゃん注:以下は、底本も改段落あり。]
九郞右衞門、妻も、はやく世をさり、娘、壱人(ひとり)有(あり)しを、「お姬」とよび、祕藏せしが、普段着には、白無垢に緋鹿子(ひがのこ)ふりそで、淺黃(あさぎ)のしごきなりし、とぞ。
片目、つぶれしに、入目(いれめ)して、婿ゑらみのうち、九郞右衞門も死し、後(のち)、桑原に居候(ゐさうらふ)にて有(あり)し「佐七」といふ男を、伯父樣、世話にて被ㇾ遣しが、手もなく、追出(おひだ)されたり。
「外(ほか)に、姬が氣に入(いり)し男、有(あり)し。」
との、ことなりし。
其緣切(えんきり)のかけ合(あひ)に、桑原へおくりし文(ふみ)の上書(うはがき)は、
「隆朝(りゆうてう)樣 姬より」
と、かきてこしたりし、とぞ。
娘ばかりにて、跡も、たへたる家とは成(なり)しなり。
[やぶちゃん注:「隆朝」真葛の母方の祖父で仙台藩医桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)の後を継いだ、真葛の母「お遊」の弟桑原隆朝純(じゅん)。「26」を参照されたい。]