只野真葛 むかしばなし (118) 力士「丸山」
一、忠山樣御代に、御家老衆の徒步(かち)のものとなりてのぼりし内、權太左衞門といふ男、勝(すぐれ)たる大男にて有(あり)しが、江戶見物を願(ねがひ)て、供人となり、登りしに、大男のくせ、道下手(みちべた)にて、身は、おもし、一日に二足のわらじをふみ切(きり)しに、道中、出來合(できあひ)のわらじ、なく、宿へつきてより、我(わが)足にあふほどに作(つくり)て、はかねばならず、二足のわらじをつくるうちには、いつも御供ぞろひとなり、日中、つかれても、馬にのれば、足が下へ、つきて、ゆかれず、終日(ひねもす)、あゆみては、又、とまりには、わらじつくる故、やうやう、江戶まで來り、あくる年は、
『ぜひ、道中がならぬから、江戶にとゞまりたし。』
と思ひしを、世話やく人、有(あり)て、
「相撲(すまふ)になれ、」
と、すゝめし故、終(つひ)に相撲には成(なり)し、とぞ。
是は、桑原ぢゞ樣、つとめ中(ちゆう)故、始終のこと、よく御ぞんじなりし、とぞ。
いまだ、主人は、沙汰なしにて、内々、
「相撲に、ならん。」
といふかけ合(あひ)せし時、しごくの密談なるに、いくら聲をひそめても、喉(のど)、ふとく、大桶の底をたゝくごとくにて、
「權太左衞門、密談の事(こと)有(あり)。」
とは、その長屋中は申(まふす)におよばず、又々、隣(となり)の長屋までも、しれて有し、とぞ。
手判(てはん)をおすに、半紙一枚ヘ、一ぱいにおされしを、大はやりにて、人々、もとめしほどに、一枚百文にうりし、とぞ。
仙臺まる山といふ所の生(うまれ)なりし故、「まる山」と名のりしなり。
一向、相撲の手をしらず、たゞ兩手にて、おしいだすに、こらへしもの、なかりし、とぞ。
江戶・京・大坂を經て、長崎にいたり、「まる山」といふ所にて、死(しし)たりしは、おしきことなりし。
仙臺「まる山」に生れて、長崎の「丸山」にて死せしも、不思議のことなり。
御國(みくに)には、折々、名代の關取、いづる所なり。
[やぶちゃん注:「奥州ばなし 丸山 / (菊田喜大夫)」の「丸山」が同一人物の話であるが、こちらの方が、話が、しっかりしており、特に後の半分が、そちらには、ない。
「仙臺まる山」実在した第三代横綱とされる「丸山權太左衞門」は、上記リンク先の私の注を見られたいが、現在、彼の生地は、陸奥国遠田郡中津山村、現在の宮城県登米(とめ)市米山町(よねやままち)中津山(なかつやま:グーグル・マップ・データ。以下同じ)の出身とされている。「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、「丸山」の地名はない。しかし、ここには旧「米山村」で、字名に「中津山」がある点で、「山」が入る地名ではある。なお、宮城県仙台市泉区野村丸山なら、ここにあり、ここは仙台市街の北直近で、真葛が、誰かに、東北弁で訛った発音で「むらやま」を「まるやま」と聴き違え、城下近くの知られる地名として、こちらに誤認した可能性があるようにも思われる。
「長崎」「まる山」古くから知られた花街であった。現在の長崎県長崎市丸山町(まるやままち)。なお、ウィキの「丸山権太左衛門」では、『死因は赤痢と言われている』とあるのだが、しかし、『日本庶民生活史料集成」版の中山栄子氏の注によれば、丸山は、『長崎で剣客を破り』、『怨みをか』って、『毒殺された』とあった。]
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