只野真葛 むかしばなし (103)
一、むかし、吉原の「名取(なとり)」といはれし女郞、勞症(らうしやう)[やぶちゃん注:労咳。肺結核。]にて、つとめを引(ひき)し故、親方は、いふにおよばず、茶屋・舟宿にいたるまで、
「勞症の妙藥もがな。」
と、たづねしに、ある日、
「少し、快氣。」
とて、中(なか)の町(まち)へ出(いで)し時、他國人、吉原見物に來りし、道人(だうじん)ていの五十ばかりなる坊主、茶屋に居(ゐ)あわせて[やぶちゃん注:ママ。]、其女郞を見て、
「あれは『勞症やみ』と見うけたり。我等、幸妙藥を持(もち)あわせし[やぶちゃん注:ママ。]間、進ずべし。」
と、いひし、とぞ。
[やぶちゃん注:「中の町」元吉原及び新吉原の中央を貫き、北東より南西へ、大門口より京町まで達する通り。後者は現在の台東区千束四丁目附近(グーグル・マップ・データ)。]
「それこそ、のぞむ所。」
と、悅(よろこび)、もらひてのませしに、すらすらと快氣せし、とぞ。
「是ほど、よく聞(きく)[やぶちゃん注:ママ。「效(き)く」。]藥なら、其人のすむ所をきいておけばよかつたに、どこの人やら、誰(たれ)もしらねば、また、もらひ樣(やう)も、禮の仕(し)やうも、なし。」
と、いひて有(あり)し内(うち)、又々、其病(やまひ)、おこりしかば、しきりに、其人の行衞をたづねしに、しれず。
新造・かむろは、神に、佛に、
「其人の行衞を、しらせ給へ。」
と願ひし、念やとゞきけん、ふと、其老人、中町(なかのまち)を通りしかば、
「夢か、うつゝか。」
と、人々、いで、袖つまを引(ひき)て、よびいれ、有(あり)しこと共(ども)をつげて、藥を、こひしかば、老人曰(いはく)、
「やすき事ながら、持(もち)あわせも、是ばかりなり。」
とて、いさゝか、あたへ、
「我は他國の人なれば、此のち、來らじ。藥方を、つたへ申べし。夏土用の内、炎天を見て、どぜうを壱升に、酒、壱盃にて、殺し、めざしにして、しごく、高き所へ、いだして、たゞ一日に干(ほす)べし。さて、後(のち)、黑燒として、『のり丸(ぐわん)』に、すべし。」
と、いひをしへて、さりし、とぞ。
[やぶちゃん注:「のり丸」意味不明。「ねり(煉り)丸」の誤記か。なお、以下は底本でも改段落している。]
其頃、吉原へ入(いり)びたりて有(ある)人、このはなしを聞(きき)て語(かたり)しが、其人の、「ひやうとく正川(しやうせん)」[やぶちゃん注:道人の名乗り。]といひし故、藥名に付(つけ)たり。
どぜう、こまかならねば、一日に干(ほせ)ず、もし天氣を見そこねて、夕がた、曇(くもり)、干(ほせ)ぬときは、ほいろにかけてなりとも、一日に、ばりばりと、をれるほどに、干(かはかす)ばかりが、傳授なり。
[やぶちゃん注:「道人」この場合は、雰囲気からして「神仙の道を得た人」の意であろう。
「ひやうとく正川」「表德」であろう。「徳をあらわすこと」の意。
「どぜう」歴史的仮名遣は「どぢやう」が正しい。博物誌はサイト版「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚 寺島良安」(今年の九月に全面リニューアルした)の「どじやう 泥鰌」、或いは、ブログ版の「大和本草卷之十三 魚之上 泥鰌(ドヂヤウ) (ドジョウ)」を見られたい。
「ほいろ」「焙爐(焙炉)」。茶・薬草(生薬)・海苔などを乾燥させる道具。木の枠や籠の底に和紙を張り、遠火の炭火を用いる。また、「ほいろう」ともいう。「日葡辞書」には、「Foiro」と記され、「茶を焙(ほう)じ煎(い)る所、または、その炉」と解釈している。また、「和漢三才図会」などの江戸時代の類書類には、茶を焙じることを主な役目として記してある。]
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