只野真葛 むかしばなし (121) 玉の話 / 「むかしばなし」本文~了
一、田沼樣、退役有(あり)し當坐に、寺社奉行をつとめらる大・小大名のつかひ番の足輕、夜中に、柳原の土手を通りしに、つまづきたる物、有(あり)。
よりて、あかりにて、見れば、眞黑(まつくろ)ぬりの箱に、萠黃(もえぎ)さなだの紐、つきし物なり。
其中を、ひらき見しに、また、「かぶせ蓋(ぶた)」有て、ちりめんの「あわせふくさ」、又、「わた入(いれ)ふくさ」などに、丁寧に包(つつみ)たる中(なか)に、卵(たまご)より、少し、おほめなる玉(たま)入(いり)て有しが、手につかめば、人肌(ひとはだ)ぐらひ[やぶちゃん注:ママ。]に、あたゝかみ、有(あり)、おせば、少し、
「ふわふわ」
といふくらひ[やぶちゃん注:ママ。]にやわらかにて、手をはなせば、元のごとく、ふくれる物なりし、とぞ。
何かは、しらず、とりて、懷中し、歸り、主用(あるじのよう)終りて後(のち)、部屋にて、ばくちをうちしに、座中、惣(そう)ざらい[やぶちゃん注:ママ。]をして、あくるひ、紋付など、其頃は、おほき物なりしを、いづれを、つけても、あたりしほどに、おもしろくおもひ、神明(しんめい)に行(ゆき)て富(とみ)[やぶちゃん注:富籤。]をつけしに、「一ノ富」にあたりて、百兩、取(とり)し、とぞ。
「誠に、ひろひし玉の奇特ならん。」
と、いひ合(あひ)しを、手狹(てぜま)なる家中(かちゆう)のこと故、だんだん、上へも聞えしかば、
「其玉を上(あげ)よ。」
と、いはれて、いだしたれば、取上(とりあげ)と成(なり)し、とぞ。
ひそかに、公義へ、さし上られしとの事なり。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落してある。]
其玉は、「天草陣(あまくさのじん)」の落城のあとに有(あり)しものにて、公義御寶物なりしを、如何してか、田沼が所持して有(あり)しほどに、めきめきと、立身出世せられしを、退役候後(のち)、御あらためあらん事を、おそれて、ひそかにすてしを、ひろひしものにて、内々(ないない)、公義、御たづねの品ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、早速、上られしと沙汰、仕(つかまつり)たりし。
御城内へ、あらたに、御寶藏、立(たて)て、おさまりし、との事なり。
[やぶちゃん注:「57」で真葛は田沼意次について、以下のように評している(下線太字は私が附した)。「田沼とのもの守と申人は、一向、學文なき人にて有し。今の人は惡人のやうに思ど、文盲なばかり、わるい人では無りしが、其身、文盲より、書のよめる人は、氣味がわるく思われしかば、其時の公方樣をも、書に眼の明ぬ樣にそだて、上、御身ちかくへ、少しにても、學文せし人は、寄られざりし故、出世のぞみ有人は、書を見る事を、いみ嫌いし故なり。」。「悪い人ではない」と言うやや好評価であるのは、意外に感じられるが、それには、別に理由がある。実は、彼は仙台藩医であった真葛の父工藤平助と強い接点があったからである。詳しくは、平助の当該ウィキを見られたい。
「柳原」東京都千代田区の北東部で、神田川南岸の万世橋から浅草橋に至る地域の古くからの通称(グーグル・マップ・データ)。神田川右岸の通り。現在も「通り」名として「柳原通り」が残る。
「神明」現在の東京都港区芝大門一丁目にある芝神明宮(グーグル・マップ・データ)。公式サイトの「由緒」によれば、伊勢神宮の祭神である天照大御神(内宮)・豊受大神(外宮)の二柱を主祭神とし、鎮座は平安時代の寛弘二(一〇〇五)年、一条天皇の御代に創建されたとある。古くは飯倉神明宮・芝神明宮と称され、鎌倉時代には源頼朝の篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代には徳川幕府の篤い保護の下、大江戸の大産土神(うぶすながみ)として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を受けた、とある。江戸時代には富籤(とみくじ)興行が行われたことで知られる。]
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