柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天より降った男」 / 「て」の部~了
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。
因みに、本篇を以って、「て」の部は終わっている。]
天より降った男【てんよりふったおとこ】 〔兎園小説第十集〕文化七年庚午の七月廿日の夜、浅草南馬道《うまみち》<東京都台東区浅草内>竹門《たけもん》のほとりへ、天上より廿五六歳の男、下帯せず赤裸にて降り来りてたゝずみゐたり。町内の若きもの、銭湯よりかへるさ、これを見ていたく驚き、立ち去らんとせし程に、かの降りたる男は、その儘そこへ倒れけり。かくて件《くだん》のありさまを町役人等に告げしらせしかば、皆いそがはしく来て見るに、そのものは死せるがごとし。やがて番屋へ舁《か》き入れて介抱しつゝ、くすし<医者>を招きて見せけるに、脉《みやく》は異なることもあらねど、いたく疲れたりと見ゆるに、しばらくやすらはせおくこそよいらめといへば、みなうち守りてをる程に、しばしありて、件の男は醒めて、かうべを擡《もた》げにければ、人みなかたへにうち集《つど》ひて、ことのやうを尋ぬるに、答へていはく、某《それがし》は京都油小路二条上る町にて、安井御門跡の家来伊藤内膳が倅《せがれ》に安次郎といふものなり、先づこゝはいづくぞと問ふ。こゝは江戸にて、浅草といふ処ぞと答ふるに、うち驚きて頻りに涙を流しけり。かくてなほつぶさに尋ぬるに、当月十八日の朝四つ時<午前十時>ごろ、嘉右衛門といふものと同じく、家僕庄兵衛といふものをぐして、愛宕山へ参脂しけるに、いたく暑き日なりければ、衣を脱ぎて涼みたり。その時のきるものは、花色染の四つ花菱の紋つけたる帷子に、黒き絹の羽織、大小の刀を帯びたりき。しかるにその時、一人の老僧わがほとりへいで来て、面白きもの見せんに、とく来よかしといはれしかば、随ひゆきぬとおぼえしのみ。その後の事をしらずといふ。いともあやしき事なれば、そのもののはきたる足袋《たび》(白木綿の足袋なり)を、あたり近き足袋あき人《びと》等《ら》に見せて、こは京の足袋なりやとたづねしに、京都の仕入に違ひなしといへり。その足袋にすこしも泥土のつかでありけるもまたいぶかしきことなりき。江戸にてはかゝる事あれば、官府へ訴へ奉るが町法《ちやうはふ》なれば、何と御沙汰あるべきか、その事も計りがたし。江戸に知音《ちいん》のものなどのありもやするとたづねしに、しる人とては絶えてなし、ともかくも掟《おきて》のまにまにはからひ給はれといふにより、町役人等談合して、身の皮を拵へつかはし、官府へ訴へまうしゝかば、当時御吟味の中、浅草溜《あさくさだめ》へ御預けになりしとぞ。その後の事をしらず。いかがなりけんかし。<『道聴塗説十編』に同様の文あり>
[やぶちゃん注:私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 人のあまくだりしといふ話』を見られたい。
「道聴塗説」(だいちやう(別に「だいてい」とも読む)とせつ)一般名詞では「道聴途説」とも書く。「論語」の「陽貨」篇の「子曰、道聽而塗說、德之棄也。」(子曰はく、「道に聽きて塗(みち)に說(と)くは、德を之れ棄つるなり。」と。)による語で、路上で他人から聞いたことを、すぐにその道でまた第三者に話す意で、「他人からよい話を聞いても、それを心にとどめて、しっかりと自分のものとせぬままに、すぐ、他に受けうりすること」で、転じて、「いいかげんな世間のうわさばなし・ききかじりの話」を指す。この書は、越前鯖江藩士で儒者であった大郷信斎(おおごうしんさい 明和九(一七七二)年~天保一五(一八四四)年:当初は芥川思堂に、後、昌平黌で林述斎に学んだ。述斎が麻布に創った学問所「城南読書楼」の教授となった。文化一〇(一八一三)年には、藩が江戸に創設した「稽古所」(後に「惜陰堂」と名のった)でも教えた。名は良則。著作に「心学臆見論」などがある。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第二(大正五(一九一六)年国書刊行会)のこちらで正規表現で視認出来る(「第十編」の冒頭)。標題は『天狗句-二引人一』(「天狗、人を句引(こういん)す。」であろう「句引」は「拘引」の意)。細部の表記が異なるものの、同一の内容である。但し、どちらかが真似したのではなく、同一のかなり詳しいソースを聴いて、共時的に書かれたものと好意的にとっておきたい。]
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