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2023/12/15

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗六兵衛」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 天狗六兵衛【てんぐろくべえ】 〔梅翁随筆巻七〕難波鳥屋町に河内屋六兵衛といふ鳥屋あり。とし若けれども、才発なる生質にて、しかも身持正しく、家業に精出し、中より上のくらしなり。十八九歳のころ行方しれずなりぬ。父母は先達《さきだつ》て死し、叔父一人別家いたし居《をり》けるが、大いに嘆き悲しみて、祈らぬ神仏もなし。年を経てもおこたりなきにやあらん。三年の後帰り来れり。また立出《たちいづ》る事もやと、側《そば》を放さず人を付け置きしが、消ゆるが如くまた逃出《にげいで》て、行方知れずなりにけり。叔父いよいよ愁ひなげきて、金毘羅をふかく信仰しけるゆゑにや、六年過ぎてたち戻りぬ。その時おそろしき羽おと聞えしが、出てみればへ六兵衛立ち居《をり》たるゆゑ、且つ悦び且つ驚き、またもや逃げんと守り居けるに、五六日が程は、只ものをもいはず寝通《ねどほ》して、いかに起しても正体なし。著せし衣類は六年已前のまゝにて、少し垢つきたるのみにて、破れ損ぜし所もなく、かくて六七日過ぐれば、以前にかはる事もなし。さればとて病気の体《てい》もさらになし。しかるに一家内の事、町内の事などにて、のがれがたき相談ある時は、この事末々かやうかやうなり行くべし、またその事はかくならんなどいふ事、極めて申通りになり行きける。それ故に町内にては、天狗六兵衛とあだ名しける。さて未前に事をしりて、手当する事多けれども、それを人に咄す事もなく、問ひ尋ぬれども知らずとのみ答へたり。しかるにこのもの女犯《によぼん》をつゝしみて妻を持たず。いかに進むれども承引せず。この体《てい》にては末々如何あらんと人々申しけるが、庚申の正月十七日に、年礼の残りを廻るとて宿を出しが、その後また行方しれずといへり。 [やぶちゃん注:一字空けはママ。]この六兵衛に似寄りし事有り。伊奈摂津守が家断絶して浪人せしものの忰《せがれ》に、野井新太郎とて、麹町<東京都千代田区内>貝坂塚田多門方に寄宿せし書生あり。久々煩ひて父かたにて養生し、少し快きゆゑ寄宿せんと宿を出しが、それより行がたしらず。されどもその事も知らず。多門かたに居るとのみ思ひける。四五日過ぎて塚田方にも居らぬよしを聞き、それより所々を尋ねける。その頃名高き易者、下谷<台東区内>広徳寺前の後左郡太かたへ参りて判断をたのみける所、葛西の辺を尋ぬべしとの事にて、彼地にて問ふに、昨日まではその形ちの人、このあたりにて度々見懸けしが、気違ひの如くなりといへども、人のさはりにもならねば、そのまゝに捨置きしが、そのものは立ちながら書をよみて歩行(あるき)しなりといふ。それよりいよいよこの辺を尋ねしかど、見当らずとなり。

[やぶちゃん注:やっと天狗の項がこれで終わる。

は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○天狗六兵衞の事』。にしても、この二種の奇談、「六年過ぎてたち戻りぬ。その時おそろしき羽おと聞えしが」という部分だけが怪異で、病的な放浪癖を持った男の話に過ぎず、読んでいて、たいして面白くない。

「庚申」前注から寛政一二(一八〇〇)年。

「後左郡太」「ごさぐんた」と読んでおくが、こんな姓は聴いたことがない。「左後」ならある。「さのち」「さご」と読むようである。

「広徳寺」台東区東上野にあった。いつもお世話になる日高慎也氏のサイト「猫の足あと」のこちらによれば、『廣徳禅寺遺趾は、台東区東上野にあり、国史跡に指定されています。廣徳禅寺遺趾は、昭和』四六(一九七一)『年まで当地にあった禅宗広徳寺の趾です。広徳寺は、早雲寺の子院として元亀・天正の頃』(一五七〇年~一五九二年)、『小田原に創建した寺院で、小田原城落城ののち、徳川家康が神田に再興、寛永』一二(一六三五)年に『当地に移転、江戸庶民からは「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれるほど広大な敷地を擁し、会津藩主松平氏、柏原藩織田氏、阿波藩蜂須賀氏等の菩提寺として、江戸屈指の禅林と仰がれていました。明治維新後は檀家としての諸大名がなくなり、さらに関東大震災により』、『堂宇を悉く焼失、荒廃してしまったといいます。台東区より広徳寺台東区役所敷地として懇望され、広徳寺は、塔頭円照院のあった練馬区へ移転したといいます』とあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

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