柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「地下生活卅三年」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。
なお、底本の標題中の「卅」は、左端の縦画も下が左方向には曲がらず、直線となっている。因みに、『ちくま文芸文庫』の標題は『地下生活三十三年』に書き換えられてある。]
ち
地下生活卅三年【ちかせいかつさんじゅうさんねん】 〔半日閑話巻十五〕九月頃承りしに、夏頃信州浅間ケ嶽辺<長野県北佐久郡内か>にて、郷家の百姓井戸を掘りしに、二丈余も深く据りけれども水不ㇾ出《いでず》。さん瓦《がはら》を二三枚掘出しけるゆゑ、かゝる深き所に瓦あるべき様《やう》なしとて、またまた掘りければ、屋根を掘当てけるゆゑ、その屋根を崩し見れば、奥居間暗く物の目不ㇾ知《しれず》。されども洞穴の如く、内に人間のやうなる者居《ゐ》る様子ゆゑ、松明《たいまつ》を以て段々見れば、年の頃五六十の人二人有ㇾ之。依ㇾ之(これによつて)この者に一々問ひければ、彼《かの》者申すやうは、それより幾年か知れざれども、先年浅間焼《あさまやけ》の節《せつ》土蔵に住居《すまひ》なし、六人一同に山崩れ、出る事不二出来一。依ㇾ之四人は種々《しゆじゆ》に横へ穴を明けなどしけれども、中々不ㇾ及して遂に歿《ぼつ》す。私《わたくし》二人《ふたり》は蔵に積置《つみお》きし米三千俵、酒三千俵を飲みほし、その上にて天命をまたんと欲せしに、今日各〻へ面会する事、生涯の大慶なりと云ひけるゆゑ、段々数へ見れば、三十三年に当るゆゑ、その節の者を呼合《よびあひ》ければ、これは久し振り哉《かな》、何屋の誰が蘇生しけるとて、直ちに代官所へ訴へ、上へ上げんと言ひけれども、数年《すねん》地の内にて暮しける故に、直ちに上へあがらば、風に中《あた》り死せん事をいとひ、段々に天を見、そろりそろりと上らんと言ひけるゆゑ、先づ穴を大きく致し、日の照る如くに致し、食物を当《あて》がへ置きし由、専らの沙汰なり。この二人先年は余程の豪家にてありしとなり。その咄し承りしゆゑ、御代官を聞合せけれども不ㇾ知《しれず》。私領などや、または巷説やも不ㇾ知。
[やぶちゃん注:あり得ない風説ではあるが、赤木道紘氏のサイト「火水風人」の「松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二十七)」の「浅間嶽下奇談」(文末に『広報つまごい』の五百六十九号(平成一〇(一九九八)年九月号)に記載されたものとする注がある)で、本話が訳されて載り、最後に『この奇談が何処であった事か著者は明示していない。しかし真偽はともかく、その内容から鎌原村に係わる奇談として、ほぼ間違いないことであろう』とあった。松島氏の指定するのは、現在の群馬県吾妻郡嬬恋(つまごい)村鎌原(かんばら)である(グーグル・マップ・データ)。
「半日閑話」「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題は『○信州淺間嶽下奇談』である。但し、私は既に『柴田宵曲 續妖異博物館 「地中の別境」(1)』で正規表現で電子化している(注はなし)。
「九月頃」リンク先の前の項が『文化十二亥年六月』とクレジットする記事であり、数えで計算しているから、文化一二(一八一五)年である。
「さん瓦」「棧瓦」。横断面が波状をした瓦。一枚で、本瓦葺きの平瓦・丸瓦の両方を兼ねるもの。江戸中期に作られ、以後、一般住居に用いられた普通の瓦である。
「浅間焼」浅間山の「天明大噴火」。天明三年七月八日(一七八三年八月五日)に発生した浅間山史上、最も著名な噴火であり、「天明の浅間焼け」とも呼ばれる。当該ウィキによれば、噴火自体は同年四月九日(一七八三年五月九日)から始まり、七月七日夜から翌朝頃に激甚噴火を迎え、結果的に約九十日間、続いた。死者千六百二十四人(内、上野国一帯だけで千四百人以上)・流失家屋(噴火によって発生した大規模泥流が吾妻川・利根川を流下したため、流域の村々を次々に飲み込んで、洪水などによる大被害を与えたのであった)千百五十一戸・焼失家屋 五十一戸・倒壊家屋百三十戸余りに及んだ。]
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