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2023/12/27

只野真葛 むかしばなし (106) 平助、後の仙台藩第十代藩主伊達斉宗(幼名、徳三郎)二歳を救う

 

一、父樣には、けんもん御用は、あまた御つとめ被ㇾ成しが、病用は御家中一ヘんにて、六十餘まで、御用被仰付しこともなかりしを、當屋形樣御二歲の秋、以(もつて)の外(ほか)、御大病にて、あらせられし頃、御奉藥被仰付しぞ有(あり)がたき。誠に御大病にて、此世のものにも仕奉(つかまつりたてまつ)らざりしほどのことなりしを、ふしぎに御快氣被ㇾ遊しかば、御ほうびとして、嶋ちゞみ二反・銀五枚被ㇾ下し。有がたきことながら、御家にてこそ御次男樣とて、人も、すさめ奉らざりしが、世上にては、父君ましまさぬ御代の御次男樣故、御世つぎ同然ごとく存上(ぞんじあげ)し故、逢人(あふひと)ごとに、

「此ほどは、大手がらなり。扨、かやうの節、御家(おんいけ)にては、いかほど、御ほうび被ㇾ下るゝものや。」

と、とわれしを[やぶちゃん注:ママ。]、挨拶に御こまり被ㇾ成しと被ㇾ仰しし[やぶちゃん注:ママ。]。

「其節は、あかぬ事の樣に、おもはれしが、今、考えれば[やぶちゃん注:ママ。]、いさゝかにても、御家恩(ごかおん)がましき事、有(あり)て、『人のたから』と成(なり)はてなば、いかばかり、心憂(う)かるべし、何事もなきぞ、心やすき。」

と、かヘすがへす、おもわれたり[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「當屋形樣御二歲」これは、実際に後の仙台藩第十代藩主となった伊達斉宗(なりむね 寛政八(一七九六)年九月十五日~文政二(一八一九)年)のこと。幼名を「德三郞」と言った。父・斉村は同年七月二十七日に死去しており、父の死去後の出生である。

 以下、底本でも改段落されてある。]

 さし上られし藥法の事、委しくはしらねど、其年は、殊の外、暑氣つよく、秋に成(なり)て暑氣あたりのたゝり、いでゝ、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、熱病、あるひは、はれ[やぶちゃん注:「腫れ」か。]病(やまひ)など、いろいろの病人、おほかりしを、「沈香(ぢんかう)てんまとう」といふ藥、其年のはやりによく合(あひ)て、手がゝりの病人、此一方(いつぱう)にて、壱人も、けがなかりし、とのことなり。やはり、その法に少しのかげんは有(あり)しならんが、始終、一法(うつぱう)を奉りて、御快氣被ㇾ遊しと御はなしなりし。

 はじめ、隨分、御相應にて、あらせられしを、三日、四日ばかり有(あり)て、御吐瀉など有(あり)て、御不出來(おんふでき)のこと有しに、とくと、御やう子伺(うかがふ)に、藥法のあしきには、あらず。御小兒には一度の御藥上高(おんくすりうへだか)、さじに一滴づゝなるを、御付の人たち、御藥御相應を悅(よろこび)、

「少し、おほく、さし上(あげ)て、猶、御快氣を。」

と、いのりすごし、御藥の上高、過(すぎ)し故の御吐瀉と察し奉りて、

「別法、さし上候間、上過(すご)しなき樣に。」

と、かたく、斷(ことわり)、やはり、其法を、さし上(あげ)しに、それにて、御快氣あらせられし、と伺(うかがひ)し。

「此節、御藥も、みては、けして、御快氣あらせられまじ。御大病中、御不出來(おんふでき)のこと、あらせられても、平助、壱人に相(あひ)まかされて有(あり)しぞ、此君(きみ)の御運(ごうん)、よかりしこと。」

と、内々、申上られし。

 今、此君の御代(みよ)と成(なり)しを見奉りても、源四郞にても、ながらへてあらば、などか、御めぐみのなかからん。」

と、うれしきながらも、かなしき。

[やぶちゃん注:「源四郞」既注だが、再掲すると、真葛(あや子)の次弟(周庵(平助)の次男)。例の七草のそれでは「尾花」と呼ばれた。真葛より十一年下であった。やはり既に述べたが、長弟で長男であった長庵元保(幼名は安太郎。七草名「藤袴」。真葛より二歳下)は早逝している。「日本ペンクラブ」公式サイト内の「電子文藝館」の門(かど)玲子氏の「只野真葛小伝」によれば、亡くなった時、『嫡男長庵』は、『まだ二十二歳の若さであった』とある。源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで、同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、ウィキの「只野真葛」他によれば、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に未だ三十四の若さで急死した。源四郎は『江戸に風邪が大流行し』、陸奥仙台藩第九代藩主伊達周宗(ちかむね:寛政八(一七九六)年に特例の生後一年足らずで藩主となり、親族であった幕府若年寄堀田正敦(ほったまさあつ)の後見を受けたが、疱瘡のために文化九(一八一二)年に十四で夭折した。一説に死去は十一歳であったともされる)『の重要な縁戚である堀田正敦』(当時は近江堅田藩藩主で幕府若年寄。第六代藩主伊達宗村の八男。周宗は曽孫)『夫人も罹患したので』、『源四郎は常にその傍らにいて看病した。夫人は』、『その甲斐なく』、『亡くなっている。公私ともに多くの患者をかかえていた源四郎は、休まず患家をまわって診療したあげく、自らも体調を著しく衰弱させてしまったのであった』。『真葛は、みずからのよき理解者でもある大切な弟を亡くし、また、源四郎を盛り立てる一心で』、『みずから江戸から仙台に嫁したことがむなしくなったと悲しんだ』とある。この後にも、その末期の記載が出現する。]

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